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河崎について

  崎は、北条の遺臣河崎宗次が長享年間(1487-89室町時代中期)に 勢田川のほとりの葦原を埋め立て、四方に惣門を設けてまちをつくった とされています。

  戸時代には、全国各地からの参宮客でにぎわう宇治・山田に、 勢田川の水運を利用して大量物資を供給する大問屋街として発展し、 明治時代まで、伊勢の商業の中心を担っていました。川に面して蔵がたち、蔵に直接船を横付して、荷物を受け入れてました。

  後になると、水上輸送から陸上輸送中心になり、問屋街としての 河崎は衰退してしまい、さらに昭和49年の七夕水害による河川改修 のため歴史的な建物が減少してしまいますが、川沿いの石積みの蔵、 本通り沿いの商家や町屋や建物を演出する世古道など、当時の面影を 感じることができるまちなみは今でも残っています。

  成14年の8月には『伊勢河崎商人館』もオープンし様々なイベントも 開催され、たくさんの方が河崎に来ていただいています。

  た、現在でも静かな住宅地としてたくさんの人々が暮らしている 河崎のまちは、地域に受け継がれてきた「河崎文化」が息づいていま す。

  のように、魅力ある「河崎のまち」を伊勢市民、三重県民だけで なく、全国各地の皆さんに知って頂き、河崎の魅力を感じていただく ため、情報を発信していきたいと考えています。


伊勢市河崎の歴史(河崎のまちづくり運動まで)

年号 西暦 河崎関連事項
永仁3 1295 この年に「伊勢名所絵歌合」が作られ勢田川と詩歌の名所河辺里の夏の風景が描かれる
応永21 1414 この年が地名としての河崎の初見年
永享11 1439 内宮の司法行政機関の代官任命地域から除外され、重要視される
長享年間 1487〜89 江戸時代の地誌『勢陽五鈴遺響』によれば、この頃に河崎左衛門大夫なる豪士が往来したといわれる
永正16 1519 内宮仮殿遷宮用材河崎に着岸、この頃から木材取引地として重要視される
大永2 1522 連歌師宗硯、伊勢から尾張への渡航の際、河崎の渡りより釣船で大湊へ向かう
天文6 1537 河崎の大橋(現中橋)が架橋されたといわれる
弘治4 1558 河崎船江の鍛冶衆、永禄6年外宮正遷宮のため鉄を奉納
弘治年間 1555〜58 『勢陽五鈴遺響』によれば、この頃に河崎の環濠が造られたといわれる(惣門もこの頃築造か)
永禄12 1569 大湊会合衆、前年の伊勢国司北畠具教の参宮費用の立替の際に河崎相場を利用する
元亀3 1572 この年が史料上の河崎相場の初見。この頃から伊勢神宮周辺の金融と物流の中心地域となる
天正1 1573 織田信雄、長島一向一揆平定の際に大湊会合衆に桑名までの船の出港を大湊と河崎に命じる
天正8 1580 織田信雄、河崎の村田宗左衛門に河崎郷内の大工職を安堵する
天正13 1585 この年の両宮正遷宮のため、河崎の米蔵を所有した仲買人が盛んに活躍する
文禄・慶長年間 1592〜1615 この頃までには、河崎は山田十二郷に加えられ、山田三方の影響下となる
慶長5 1600 中島合戦(関が原の戦い)により、河崎の九鬼大隅守の蔵が戦火に遭う
元和6 1620 山田奉行の命により、河崎・船江から山田間の荷馬賃が設定される(※河崎惣堀(環濠)の初見年)
元和9 1623 この頃に、河崎町年寄星山権兵衛が組織した河崎組発行の羽書が流通する
寛永6 1629 この年の外宮正遷宮のため、河崎の蔵主衆が米取引等で活躍する
寛永14 1637 河崎戸数678戸、人口2352人
享保5 1720 河崎魚問屋定書が制定される
享保年間 1716〜36 この頃、伊勢音頭の前身とされる河崎音頭が完成したといわれる
宝暦3 1753 河崎米問屋人仲間設立
安永2 1773 この年の3月に、河崎魚問屋惣中に仲買人五人制と値段決定権が山田奉行に認可されるが、荷元の反対により同年12月廃止
安永年間 1772〜81 この頃には、河崎包丁が特産品として世間に知られる
寛政2 1790 寛政の山田羽書改革により、山田奉行監視下の羽書取締役6名が任命される(その内、3名が河崎の問屋商人で、1名は筆頭)
寛政4 1792 山田奉行の命により、備蓄米保管のため、向河崎(現河崎3丁目)に囲穀倉庫が設置される
寛政9 1797 河崎回漕問屋出身の俳人、辻村逸漁没(享年57)。辻村家は他にも俳人として辻村交漁・辻村南庵を輩出
文化9 1812 この年より、文政2年まで河崎字南町西裏(現不動院東裏)に、山田羽書発行運用金を扱う御用金取引会所が設置される
安政5 1858 前年の向河崎の大火により、防災等のために南新橋と北新橋の新設が山田奉行に陳情され架橋される
明治1 1868 商工会議所の前身となる山田商法会所が設置される
明治23 1890 河崎に米穀委託(株)(後の米穀取引所)を設立
明治29 1896 河崎に共同魚商会(魚市場)を資本金7500円で設立
明治40 1907 河崎の醤油味噌製造業北川矩一が初代宇治山田市長に当選する
昭和20 1945 伊勢大空襲で市街地大半が焼失するが、河崎は戦災の大きな被害を免れる
昭和36 1961 神都線廃線により河崎駅無くなる
昭和42 1967 魚市場を船江に移転する
昭和49 1974 七夕水害(河崎まちづくりの契機)





勢田川の歴史
 田川は宮川水系に属し、1級河川として全長は7.3kmあり、伊勢神宮に献上する魚を取った処から、 古くは御贄川(おんべがわ)と呼ばれていた。鼓ヶ岳を源流に、途中で豊川・清川・桧尻川を 合わせて、下流においては五十鈴川と共に伊勢湾に流れ込んでいる。

 域には川と関係の深い町があり、江戸時代から昭和20年代にかけて港町として栄えた。 各港は機能が異なり、大湊は造船として、神社は船参宮の拠点として、二軒茶屋については 内宮参拝者の港として、河崎は荷物の集積地で、問屋への物資の供給港であった。

 和30年以後トラック輸送の増大に伴って、船の利用が激減し、、川も使われなくなった。 昭和49年の七夕水害を契機とした護岸工事によって、ますます川と人々の生活が隔てられたが、 現在流域の住民が中心になって取り組んでいるまちづくりの一環として、川の活用が提案され、 川の駅の設置や木造船の建造など新たな取り組みが行われている。



まちの風景
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河崎本通り

 伊勢河崎商人館<和室2階からの眺め>

商家と道標

 勢田川川沿い

世古(路地)

 河邊七種神社

樹齢500年の大楠

石垣

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