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仏法入門
日蓮大聖人の御一生
@御誕生 A出家・修行 B立宗宣言 C立正安国論 D法難
E十一通御書 F発迹顕本 G佐渡流罪 H出世の御本懐 I御入滅
日蓮大聖人の御一生

@ 御誕生

今から約800年前にあたる貞応元年(1222年)2月16日、日蓮大聖人は、安房の国(現在の千葉県)長狭郡(ながさごおり)東条の郷(とうじょうのごう)小湊(こみなと)の漁村にお生まれになり、御幼名は善日麿(ぜんにちまろ)と申し上げました。

御父は三国の太夫重忠(みくにのたゆうしげただ)、御母は梅菊といい、漁夫として貧しい暮らしをしておりました。
「日蓮は、日本国 東夷(とうい)東条・安房の国、海辺の旃陀羅(せんだら)が子なり」
(新編482頁)

『旃陀羅』とは、古代インドで最下層階級とされた、屠殺(とさつ)を職業とする者のことですが、まさに日蓮大聖人は、名もなき賤しい漁夫の子としてご誕生あそばされました。

そして、この一介の凡夫としての御姿のまま、末法御本仏の御振る舞いをされるわけでありますが、このことは要するに、いかなる身分の民衆であろうと、その身そのままで等しく成仏できる、ということを示された大慈大悲といえましょう。 

A 出家・修行

天福元年(1233年)、12歳の御時、善日麿(ぜんにちまろ)は、小湊からほど近い清澄山にある古刹・清澄寺に登り、道善房(どうぜんぼう)を師として仏門に入られ、四年後の嘉禎三年(1237年)、十六歳の御時に、正式に出家剃髪されて、名を是聖房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)と改められました。

当時の仏教界は、文字どおり白法隠没の様相を示し、同じ釈尊の教えを依り処としながらも、念仏、禅、真言、律、天台などの宗派が乱立して、いったい真実の仏教が何処にあるのか、見極めのつかない状態でした。

このような乱立した仏教界の中にあって、蓮長師(れんちょうし)は、仏の教えはただ一つのはずであると考えられ、その真実の宗教を探求し、一切の民衆を迷いと苦悩から救済したい、との大願を抱いておられたのです。

そして、この御目的を遂げんがために、蓮長師は、出家された翌々年、ひとり修学の旅にたたれました。鎌倉へ、比叡山へ、広く各宗の法義を研学され、ついに仏法の極理に通達されたのです。

B 立宗宣言

建長五年(1253年)四月二十八日、修学の旅から戻られた蓮長師は、清澄寺・嵩ヶ森(かさがもり)の頂に立って、初めて「南無妙法蓮華経」の題目を力強く唱え出され、ひとり大自然に向かって立宗を宣言されました。

そして、山を下って、清澄寺・持仏堂南面の説法の座に着かれると、集まった聴衆を前に、御自身を「法華経の行者・日蓮」と号され、初説法をなさったのであります。御年三十二歳のことでした。

この初説法の座で、日蓮大聖人は、経文上の証拠を引かれて、当時流行していた念仏宗・禅宗等が釈尊の真意に背く邪宗教であることを明らかにされました。

この当時の宗教界に対する一大鉄槌、永い未来にわたる民衆救済の第一声は、聴衆に大いなる衝撃を与え、たちまち日蓮大聖人は、念仏の盲信者である地頭の東条景信(かげのぶ)から追われる身となったのであります。

しかし、日蓮大聖人にとっては、この襲い来る大難も、かねてよりの覚悟であり、その民衆救済・広宣流布への広大な慈悲と決意は、揺らぐことすらありませんでした。

それどころか、大聖人は、日本の国を救うためには政治の中心地・鎌倉へ出て、さらなる弘教を推進すべきである、と考えられ、御両親を折伏教化せられると、故郷を去って鎌倉へ出発されたのです。

C 立正安国論

日蓮大聖人は、鎌倉に着くと、名越(なごえ)の松葉ヶ谷(まつばがやつ)に草庵を結ばれ、ここから鎌倉の街辻に出られては、諸宗の邪義(じゃぎ)を破して弘教を開始されました。

当時の世相は、天変地異が相続き、地震、疫病、飢饉等の災害が激烈を極め、民衆の苦悩は筆舌に尽くしがたいものでした。

日蓮大聖人はこうした様相をご覧になり、正嘉元年(1257年)八月の大地震などをきっかけに、立正安国論を著述あそばされたのです。

その大意は、「一切の災難の根本原因は、時の主催者はじめ万民が、正しい仏法に背いて邪宗邪義を信仰するところにある。もし、このまま、邪宗教を廃して正法に帰依しないならば、自界叛逆(じかいほんぎゃく=ないらん)、他国侵逼(たこくしんぴつ=他国からの侵略)の二難が起きるあろう」との国家に対する一大警告でした。
「但偏に、国の為、法の為、人の為にして、身の為に之を申さず」(新編369頁)

まさしく、この立正安国論こそ、民衆の悲痛なまでの叫びを聞いて、決然と立ち上がられた日蓮大聖人の、至誠の書だったのです。

文応元年(1260年)七月十六日、立正安国論は、宿屋左衛門入道を通し、時の実権者・北条時頼(最明寺入道)に提出されました。時に聖寿三十九歳、これが大聖人の御一代における第一回の国主諫暁(国主を諫め、さとすこと)でした。

D 法難

この重大な国諫(こっかん)の書に対し、邪宗を信奉する時の為政者達は、数々の迫害をもって応えました。

まず、安国論提出の約一ヶ月後、文応元年八月二十七日の夜、幕府を後ろ盾とした念仏の僧および信徒が徒党を組み、松葉ヶ谷の草庵を襲撃したのです。しかし、日蓮大聖人は、下総の信者・富木常忍(ときじょうにん)のもとに身を寄せられ、この難をのがれました。この事件を松葉ヶ谷の法難といいます。

松葉ヶ谷法難をのがれられた大聖人は、翌・弘長元年(1261年)に鎌倉に戻られ、以前にも増して、いっそう猛烈な折伏弘教を展開されました。念仏者の驚きは大変なものでしたが、もはや正々堂々たる法論を行ったところで勝てる見込みすらなく、また草庵の襲撃にも失敗した彼等は、ひそかに大聖人を処罰するよう幕府に訴えたのです。

執権北条長時は、父の重時と共に、日蓮大聖人に憎悪・怨嫉の念を持っていたため、ただちに念仏者の訴えをとりあげ、弘長元年五月十二日、何の失もない大聖人を伊豆の伊東へ流罪にしてしまいました。これを伊豆流罪といい、後の佐渡流罪とともに二度の王難(国主からの難)として多くの御書に明記されています。

大聖人の伊豆流罪中、鎌倉においては、大聖人迫害の張本人である北条長時と重時が、それぞれ長時は病床に倒れ、重時は狂死して、仏法に違背した謗法の報いは厳然と現れたのであります。

この仏罰をまのあたりにしてか、弘長三年二月、一年九ヶ月ぶりに大聖人の流罪は赦免されました。

かくして赦免となった大聖人は、十二年間離れていた故郷の安房の国に帰られ、安房方面の教化にあたられるのですが、そこでは、大聖人御立宗の頃より憎悪の念を持つ念仏の信者・地頭の東条景信が、虎視眈々と大聖人迫害の機会をねらっていたのです。

文永元年(1264年)十一月十一日、大聖人が、十人ほどの御供を連れ、信者である工藤吉隆の邸へ向かわれる途中、小松原において、突如、東条景信が数百人の兵を率いて襲撃してきました。激戦の末、御弟子の鏡忍房、工藤吉隆は討ち死にし、日蓮大聖人ご自身も額に傷を負われました。これを小松原の法難といいます。

仏法上の大罪である五逆罪(ごぎゃくざい)のひとつに、「仏身(ぶっしん)より血を出す」という罪がありますが、この時大聖人の御尊体を傷つけた東条景信は、その後にわかに狂死したそうです。

E 十一通御書

日蓮大聖人が再び鎌倉に戻られた文永五年、蒙古国からの国書が鎌倉に届き、八年前に立正安国論で警告された他国侵逼難が、ついに現実の問題となって現れました。

大聖人は、同年十月十一日、当時の幕府および仏教界の代表十一人に書状を送り、公場対決によって法の正邪を決し、すみやかに邪宗邪義を捨てて正法に帰伏するよう迫られました。

この十一通御書の中に諸宗の邪義を破して説かれたのが、念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊という、有名な四箇の格言であります。

しかしながら、幕府および七大寺の僧は、十一通御書にあわてふためき、その重大な警告を無視したのみか、陰では大聖人迫害の策略を練りはじめたのです。

F 発迹顕本

文永八年(1271年)、全国的な大旱魃(だいかんばつ)が続き、幕府は律宗の僧である極楽寺良観に祈雨(きう)を命じました。

日蓮大聖人は、良観のもとに便りをつかわして、祈雨の勝負で法の正邪を決することを決められましたが、結局、これは良観の大惨敗に帰したのでした。

ところが、祈雨に破れた良観は、卑劣にも諸宗の僧と語らって策略をなし、幕府を動かして大聖人の御生命を奪おうとしたのです。

大聖人は奉行所に呼び出され、取り調べを受けましたが、逆に、自分が是か、幕府の殿上にて公場対決をもって決すべしと強く主張され、かえって裁く者を諫言されたのでした。

逆上した内管領(ないかんれい)・平左右衛門尉頼綱(へいのさえもんのじょうよりつな)は、九月十二日、数百人の兵と共に、松葉ヶ谷の草庵を襲撃するという暴挙に出ました。これに対して日蓮大聖人は、厳然として「平左右衛門尉の狂気の沙汰をみよ、日蓮を失うことは日本国の柱を倒すことである」と諫められ、平左右衛門尉はじめ居並ぶ兵士達は顔色を失ったのであります。

こうして大聖人は、あたかも重罪人のように捕らえられ、何の裁判も行われないまま、十二日の夜になって竜口(たつのくつ)の刑場へと護送されました。何の罪もなく、国の法では裁くことのできない大聖人を、密かに処刑してしまおうとの魂胆だったのです。

処刑の時が迫り、頸の座にすえられた大聖人に太刀取りの白刃が振り上げられた瞬間、突如として、江ノ島の方向から月のような発光体が西北の方角へと光渡りました。頸を斬ろうとしていた太刀取りは目がくらんで倒れ、兵達は怖れをいだいて、ある者は落馬し、ある者は馬で逃げ去ってしまって、ついに大聖人の御生命を奪うことはできませんでした。

これを竜口の法難といいますが、大聖人の御一代においては重大なる意義をもつ事件であります。

すなわち、この竜口法難に至って、日蓮大聖人は、これまでの凡夫として活動されてきた身をはらわれ、御自らが法華経に予証されたる上行菩薩であることを、否否、さらに深くいうならば末法に出現あそばされたご本仏であることをご示しになったのです。これを仏法上では発迹顕本(ほっしゃくけんぽん=仮の姿をはらって真実の仏の姿を顕す)といいます。

この発迹顕本とは、仏でない者がはじめて仏になる、ということでなく、いわば最初からの仏が、それを民衆に証明なさることであり、証明された後は真の仏の御振る舞いをなさるのです。

ゆえに、この竜口法難以後、日蓮大聖人は御本仏としての御立場の上から、いよいよ本格的な活動を始められるのであります。

G 佐渡流罪

竜口での斬首を免れた日蓮大聖人は、一時、相模の依智(えち)へ送られました。が、ここに滞在されている間に、鎌倉では念仏者達による放火・殺人等が相続き、その罪が悉く大聖人の御一門に着せられてしまったのです。

このため幕府は、大聖人の弟子檀那を迫害し、同時に大聖人を急いで処分することにしました。

結局、大聖人は佐渡流罪に処されることに決まり、文永八年十月十日に依智を出発、二十八日に佐渡に着きました。

当時は世界的にも厳しい気候が続いており、ましてや冬に向かう北海の佐渡では、その寒さも想像を絶するものであったと思われます。

その厳寒の地・佐渡における大聖人の住居は、死人を捨てる場所になっていた塚原という所にある三昧堂(さんまいどう)で、屋根は板間があわず、壁は落ちかかった、小さなあばら屋でした。そのうえ、食べる物も、着る物も思うに任せない、常人なら確実に命を失うような状況だったのであります。

しかし、いかなる厳しい条件も、御本仏日蓮大聖人の金剛不壊の御境涯を崩すことはできませんでした。

そればかりか、いよいよ発迹顕本によって御本仏としての御姿を顕された大聖人は、この塚原三昧堂において、人本尊開顕(にんほんぞんかいけん)の書といわれる開目抄を著述なされたのです。

翌・文永九年二月、かねてより大聖人の予言されていた自界叛逆難が、現実となって現れました。それは、執権・北条時宗と兄の時輔が政権をめぐって争い、時輔が殺害された事件ですが、この自界叛逆難の適中を見て、恐怖にかられた幕府は、急遽、日蓮大聖人を塚原三昧堂から他の場所に移すことに決めました。

こうして大聖人は一の谷という地に移られ、翌・文永十年には、法本尊開顕の書といわれる観心本尊抄を著述なさっています。

文永十一年になると、蒙古の使者がたびたび訪れて幕府を脅かし、そのうえ、太陽や明星が二つ現れる等の不思議な現象が連続してきました。これを見た北条時宗は、かつての大聖人の予言を思い出し、鎌倉に大聖人を戻そうとしたのです。

しかして大聖人は、文永十一年二月十四日付で、二年数ヶ月の佐渡流罪を赦免となりました。

H 出世の御本懐

鎌倉に戻られた日蓮大聖人は、出頭命令を受け、再び平左衛門尉と対面されました。

平左衛門尉は、以前とうって変わって、礼儀を尽くして大聖人を迎え、蒙古襲来等に関する質問をしてきました。

これに対して大聖人は、「蒙古が今年中に攻めてくることは確実である。一刻も早く邪宗を捨てて、正法に帰伏すべきである」と諄々と説かれ、折伏していかれました。

ところが幕府は、あくまでも邪宗邪義に固執し、邪宗である念仏・真言等と共に、日蓮大聖人に国家安泰の祈念をさせようと考えたのです。

このあくまで正法に目覚めない幕府の態度に対し、大聖人は、一往(いちおう)は「三度諫めて用いずば国を去って山林に交わる」との古事にならい、再往は御弟子の育成と出世の御本懐を遂げんがために、文永十一年五月十二日、鎌倉を去って、身延山に入山されたのであります。

身延に入山された日蓮大聖人は、令法久住(りょうぼうくじゅう)のために御弟子方々の育成にあたられ、同時に、各地に門下の御弟子を配して折伏弘通を盛んにされていましたが、これには多くの迫害がありました。

なかでも、弘安二年(1279年)に起きた富士熱原地方の法難は最大級のもので、ついに信者二十名が捕らえられ、後に神四郎(じんしろう)・弥五郎(やごろう)・弥六郎(やろくろう)の三人が斬罪に処されています。

日蓮大聖人は、この法難における民衆の不自惜身命(ふじしゃくしんみょう)の信心に時を感ぜられ、弘安二年十月十二日、出世の御本懐である本門戒壇の大御本尊を建立あそばされたのであります。

I 御入滅

弘安四年頃になりますと、数々の大法難にあいながらも、約三十年にわたって死身弘法(ししんぐほう)の闘いを続けてこられたことにより、日蓮大聖人の御身体は次第に衰弱されていきました。

弘安五年九月、大聖人は、御弟子方の願いによって、常陸の温泉に療養するため身延を出られることにされました。が、すでに一切の願業(がんごう)も終えられ、御入滅の近いことを予知せられていた大聖人は、身延下山に先立ち、とくに日興上人をお召しになって、ご自身の仏法の一切を授ける旨を認(したため)られた身延相承書(みのぶそうじょうしょ、日蓮一期弘法付嘱書)を与えられたのです。

こうして大聖人は、九月八日、御弟子達に護られて身延をたち、九月十八日、武州池上の信者・池上宗仲(いけがみ むねなか)の邸に立ち寄られました。

常陸への途中、二、三日の御休息ということであったのかもしれませんが、大聖人の御身体の衰弱はにわかに進んでいきました。

十月十三日の早朝、身延相承書と併せて二箇の相承と呼ばれる池上相承書(身延山相承書)が日興上人に与えられ、大聖人は、日興上人を後継者として固く定められました。

かくして、同日辰の刻(午前八時)、日蓮大聖人は安祥(あんじょう)として滅不滅の相を現ぜられたのであります。聖寿(せいじゅ)六十一歳この時、おりしも大地が震動し、庭の桜が時節でもないのに花開いたと伝えられています。