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創価学会問題
創価学会の隠された真実史


創価学会の隠された真実史

我々が創価学会を論ずるとき、ともすれば現在の姿だけを捉えて論じがちであるが、よくよく問題の本質を弁えるためには、その淵源を知ることが大切である。

創価学会の淵源、それは、初代会長・牧口常三郎の思想と信仰である。

『価値論』の本末顛倒と日淳上人への誹謗

牧口常三郎氏は、昭和三年六月、東京・常在寺所属の直達講(じきたつこう)講頭であった三谷素啓氏の折伏によって、五十七歳で日蓮正宗に入信した(同じ年の秋、後の戸田城聖二代会長も、三谷氏の折伏で入信している)。

牧口氏入信の動機について、柳田国男は、「貧困と、子供達を次々に病没させたことにあるのだろう」(『牧口君入信の動機』)と述べている。

入信後の牧口氏は、昭和五年十一月に「創価教育大系」第一巻を発刊(この日が後に学会創立の日とこじつけられた)、翌六年三月には同『大系』第二巻を発刊して、この中で、以前から構想を暖めていた『価値論』を発表したのである。

この価値論について、牧口氏は、後の獄中書簡の中で、
「百年前及び其後の学者共が、望んで手を着けない『価値論』を私が著し、而かも上は法華経の信仰に結びつけ、下、数千人に実証したのを見て自分ながら驚いて居る、これ故三障四魔が粉起するのは当然で経文通りです」
などと、驚くべき評価をしている。

すなわち、牧口氏にとっての『価値論』とは、あたかも釈尊入滅後の智者達が、知ってはいても説き弘めようとしなかった文底下種仏法のような、哲学の最高峰にあたる"教え"であり、これを"行"ずる実践形態として法華経の信仰を結び付けることにより、万人の生活上に『価値論』で説く価値(大善生活)が"証"される、それほどの『価値論』を説き顕したのだから、三障四魔が紛然と競い起こるのは当然、というのである。

これでは、日蓮正宗の信仰は『価値論』のために利用されているようなもので、全く本末転倒という他はない。また、この牧口氏の論法では、行き着くところ、『価値論』こそが衆生済度の教であることになるから、さしずめ、それを説いた牧口氏の立場は"教主"であり"末法救済の大導師であるということになってしまう(事実、かの五十二年問題の時には、池田大作が牧口氏を「先師」「大導師」と呼称して本仏大聖人に匹敵させ、大問題となった。)

結局、この『価値論』と仏法との混同が牧口氏の信仰を歪め、それが後の創価学会異流儀化の温床になった、といえるであろう。

さて、こうした異質な思想を持つ牧口氏は、当然のことながら、氏の教化親であり直達講の講頭であった三谷素啓氏と相容れなくなり、三谷氏との間で何回か激論を交わした末、牧口氏は三谷氏と絶交することになる。

その三谷氏は、昭和七年に亡くなられたが、残された講員達の誰も牧口氏を新講頭に推したりすることなく、そのまま直達講は自主解散してしまった。

これにより、牧口氏はそれまでの同士達と袂を分かって、東京中野・歓喜寮(後の昭倫寺)へ参詣し始め、以後、歓喜寮を事実上の所属寺院とするようになった。

当時の歓喜寮御住職は堀米泰栄御尊師=後の65世日淳上人であられ、当初のうちこそ、牧口氏は上人の指導に従って信仰に励んでいくかのように見えたが、昭和12年夏の創価教育学会発会式(麻布の料亭・菊水亭にて開催)をはさんで、にわかに上人に反抗し始めた。

それは、牧口氏が、「在家団体・創価学会」の設立を上人に願い出たところ、上人がこれに危惧を感じて許可されなかったため、やむなく牧口氏は、教育を研究していく団体という名目で「創価教育学会」を発会、この際の確執が上人に対する反抗の原因となった、といわれている(当時の僧侶、信徒の証言)。

実際、『創価学会年表』によれば、牧口氏等は、この時期、それまで歓喜寮で開いていた会合をピタリと止めてしまっており、このことが上人との関係悪化を裏付けている。

なおまた、古くからの信徒で直達講講頭を務めていた竹尾清澄氏(故人)も、59世堀日亨上人のお話の中から伺ったこととして、

「牧口氏は、所属寺院の歓喜寮主管・堀米泰栄師(後の日淳上人)と論議し、『もう貴僧の指導は受けない』と席を蹴って退去」(『畑毛日記』)
した、という出来事を記録に残されているのである。

さて、こうして上人との関係が険悪化して以後、牧口氏は、所属寺院である歓喜寮に会員が近付くことまで止めるようになり、これを破った者、(三ツ矢孝氏・木村光雄氏等)に対して烈火の如く叱りつけた。

さらに牧口氏は、よほど日淳上人を逆恨みしたのであろう、会員達を使って、上人に対する誹謗・罵倒を行なったのである。その事実は、当時の会員の証言の他、戸田理事長(後の二代会長)の獄中書簡にも、

堀米先生に、去年堀米先生を『そしった』罰をつくづく懺悔しておる。と話して下さい。『法の師をそしり』し罪を懺悔しつつ『永劫の過去を現身に見る』と言っております、と」(昭和19年9月6日、妻あて)

とあって、牧口氏の一番弟子であった戸田理事長自らが、自身の投獄は日淳上人を誹謗した罰である、として懺悔していることからも明らかである。

こうして牧口氏の率いる学会は、所属寺院たる歓喜寮と信仰上の断絶を生じていった。そして、同時にそのことは、"本宗の信徒は総て各寺院住職のもとに所属して信仰に励む"ことが原則である日蓮正宗からも、疎遠になっていくことを意味していた。

前出の、竹尾氏が日亨上人から伺った話の次下には、「本山宿坊理境坊住職の落合慈仁師とも別れ、牧口氏に率いられる創価教育学会は、ここで日蓮正宗と縁が切れ」とまで述べられており、牧口氏等は、この時、信仰上では日蓮正宗とほぼ絶縁に近い状態になってしまったものと思われる。

とはいえ、日蓮正宗は慈悲を旨とする宗である。そのような不遜な牧口氏一派に対しても、日淳上人は、信仰上、再起する道だけは残しておこう、と思し召され、牧口氏等にそのつもりがあれば元の所属寺院・常在寺へ戻れるよう。手配なされたのであった。

「反戦と謗法厳戒を貫き」は総て嘘!!

このような状況の中で、創価教育学会に対する国家権力の弾圧が起こった。

今日の学会では、この時の真相を歪め、好き放題に美化して、「牧口会長は、軍国主義に屈せず、徹底して天皇制や戦争に反対したため、弾圧を受けた」だとか、「宗門は国家神道に屈して謗法まみれとなったが、牧口会長は謗法厳戒の教えを守って神札を拒否し、そのために弾圧を受けた」などと宣伝しているが、それは全く事実と反している。

まず、「牧口時代の学会の反戦性」ということについては、昭和17年12月31日発行の『大善生活実証録』(創価教育学会第5回総会報告)を見ると、なんと、総会で軍歌が歌われているばかりか、西川理事の発表の中で、

「いまや、皇国日本が北はアリューシャン群島方面より遙かに太平洋の真ん中を貫き、南はソロモン群島付近にまで及び、更に南洋諸島を経て、西は印度洋からビルマ支那大陸に将又蒙彊(もうきょう)満州に至るの広大な戦域に亘り、嚇々(かくかく)たる戦果を挙げ、真に聖戦の目的を完遂せんとして老若男女を問わず、第一線に立つ者も、銃後に在る者も、いまは恐らくが戦場精神によつて一丸となり、只管(ひたすら)に目的達成に邁進しつゝあることは、すでに皆様熟知されるところである」

等と述べている。また『人間革命』(妙悟空こと戸田城聖の初版)によれば、このころ牧口氏は、

「国家諫暁(こっかかんぎょう)だね。陛下に広宣流布の事を申し上げなければ日本は勝たないよ。これを御本山に奏請(しんせい)して、東京僧俗一体の上に国家諫暁をしなければ国はつぶれるよ。並大抵でない時に生まれ合わしたね」

等と教えていたのである。さらに牧口氏は、後の獄中書簡の中で、

「洋三戦死ノ御文、(中略)病死ニアラズ、君国ノタメニ戦死ダケ名よトアキラメテ唯ダ冥福ヲ祈ル」

とも述べている。

これらを見れば、一目瞭然であろう。要するに牧口氏等は、当時の国民の大多数と同じく、「反戦・天皇制反対」などという意識は持ち合わせておらず、むしろ「皇国日本」を戦争に勝利させるために国家諫暁(国家を諫め諭すこと)・広宣流布を行おうとしていたのである。

また、「牧口氏の謗法厳戒」ということについても、牧口氏は

「吾々は日本国民として無条件で敬神崇祖をしてゐる。しかし解釈が異なるのである。神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない。吾々が靖国神社へ参拝するのは『よくぞ国家の為に働いて下さった、有り難うございます』というお礼、感謝の心を現はすのであって、御利益をお与え下さい、といふ祈願ではない。もし『あゝして下さい、こうして下さい』と靖国神社へ祈願する人があれば、それは、恩を受けた人に金を借りに行くやうなもので、こんな間違った話はない。
天照大神ばかりにあらせられず、神武以来御代々の天皇様にも、感謝奉つてゐるのである。万世一系の御皇室は一元的であって、今上陛下こそ現人神であらせられる。即ち、天照大神を初め奉り、御代々の御稜威(ごりょうい)は現人神であらせられる今上陛下に凝集されてゐるのである。されば、吾々は、神聖にして犯すべからずとある『天皇』を最上と思念し奉るものであって、昭和の時代には、天皇に帰一奉るのが国民の至誠だと信ずる。(中略)天照大神のお札をお祭りするとかの問題は万世一系の天皇を二元的に考へ奉る結果であって、吾々は現人神であらせられる天皇に帰一奉ることによって、ほんとうに敬神崇祖することが出来ると確信するのである。また、これが最も本質的な正しい国民の道だと信ずる次第である」(前出『大善生活実証録』)

と述べている如く、牧口氏自ら謗法の靖国神社へ参拝していたのであり、また、牧口氏が天照大神の神札を拒否した理由も、「天照大神の諸神は現人神たる天皇の身に一元的に凝集されており、その他に神札を祀れば二元論となって矛盾を生ずる」という、牧口氏独自の神道観に基づくものに過ぎなかった。

つまり牧口氏は、日蓮正宗の「謗法厳戒」の信条を守り通したというよりは、学者でもあった氏自身の神社観・神道観を自ら真理と信じて頑固に貫いた、いうのが実際だったのである。

これらのことからも、今日の学会のデマ宣伝が、いかに異常極まりないものか、よくわかろうというものではないか。

「神札拒否を貫き殉難」の真相

さて、牧口氏は、「皇国日本」を戦争に勝たせるため、強く国家諫暁を主張するようになり、併せて、氏独自の神道観によって神札消却を強調した。これによって創価学会は、治安を乱す恐れありとして、官憲から厳しくマークされるところとなったのである。

昭和18年6月5日、東京・中野の一学会員が、近所の人の子供が死んだのを、頭から「罰だ」と決めつけて折伏したことで、怒った相手から訴えられ、特高警察に逮捕・拘留されるという事件が起きた。

特高では、この事件を機に、かねてマークしてきた創価教育学会員を一気に壊滅せしめる意思決定をし、逮捕した学会員を激しく取り調べて、学会弾圧の「罪状」作成にかかったのである。まさに、学会弾圧は秒読みの段階に入った、と言ってよい。

このような事態に最も困惑されたのは、日蓮正宗宗門であっただろう。なにしろ学会が、いかに信仰的には絶縁一歩手前の状態とはいえ、形の上ではいまだ日蓮正宗信徒の集まりという立場をとっている以上、弾圧は日蓮正宗をも巻き込んで起こる可能性すらあるのだから。

そこで、総本山大石寺では、6月20日、牧口・戸田両氏を呼び、注意を与えることとなった。

当日、その場には、大学匠として名高い御隠尊(ごいんそん)日亨上人と62世日恭上人の両上人が立ち会われ、庶務部長・渡辺慈海師より、牧口・戸田両氏に対し「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」注意がなされ、意外にも、牧口氏もこれに素直に従ったことが、日亨上人の御允可(いんか)された記録(「宗学要集九巻431頁」)に記されている。

この時の宗門の注意は、非常事態下においては、必ずしも神札を消却しなくとも、祀って拝んだりしなければ、一時、許容されるであろう、との判断(むろん、平常時にまで無制限に適用されるものではない)の上から、これ以上、いたずらに当局を刺激して無用な弾圧まで引き起こさぬように、との配慮でなされたものであった。

今日、これを理解しえず、なんとしても日蓮正宗宗門を「謗法容認」と罵ろうとする池田教の狂信者も多いが、要するに仏法においては、「随方毘尼(ずいほうびに)」「四悉檀(ししつだん)等といって、やむなき時代性や地域性に応じて、暫時、法義に違背しないギリギリの範囲内で、その言動を緩和することが許容されているのである。

さらに付け加えておけば、大聖人の御書中には、"比叡山延暦寺で法然の撰択集(せんじゃくしゅう)を消却した"等の御記述はあるものの、"いかなる場合であれ謗法の物は消却処分しなければならない"等の御教示は存在していない。

それでもなお、この時の宗門の判断を指して「謗法容認」だのと罵る輩は、もはや言葉も道理も通じない最悪の狂信者、と断ずる他なかろう。

ともあれ、大石寺より下山した牧口・戸田両氏は、応急の対応策を講じた。それが6月25日付けで学会内に出された「通牒」だったのである。

この通牒についても、今日の学会では「折り畳んで保管されていたにしては、左右の虫食い状態が対称ではないから変だ」とか「通牒の『牒』の字が間違っているから変だ」等と難クセをつけ、結局、「この通牒は昭和52年頃に偽造された贋作であり、その証拠にコピーだけが出回っていて、原本が出てこない」として、その存在を全面否定している。

なるほど、当時の日蓮正宗宗門を「謗法容認」呼ばわりするためには、このような通牒があっては、なんとも不都合なのであろう。

しかし、その詳しい検証は別の機会に譲ることにするが、ここでは、やはり実物確認をしたフリージャーナリストの溝口敦氏が次のように述べている事だけを紹介しておこう。

「今回の取材で初めて確認したのだが、この通牒は真物である。もともとの出所は稲葉荘(いなば・さかり)氏(学会の初代総務・稲葉猪之助氏の子息)で、稲葉氏は同家の地下室に収蔵していたため、文書は湿気でボロボロになった。現在、同文書は同大同形の紙で裏打ちされ、たしかに畳まれて保存されているが、畳まれた時の破損状況は理にかなって作為はあり得ない」

かくて、通牒は発せられたが、官憲の側では創価教育学会壊滅の方針で罪状を作り上げてしまっていたから、この「会長の応急策もすでに遅し」(「宗学要集」九巻431頁)、7月6日、牧口氏は旅行先の伊豆で逮捕され、続いて戸田理事長ほか21名の幹部が相次ぎ逮捕されたのである。

後に掘日亨上人は、この戦時下の学会弾圧事件を『富士宗学要集』の法難編に「第13章昭和度の法難」として加えられているが、同法難編の冒頭の文に、
「顧みるに法難の起こる時、必ず外(宗外)に反対宗門の針小棒大告発ありて其の発端を発し、内(宗内)に世相を無視して宗熱に突喊(とっかん)する似非信行の門徒ありて、(内外の)両面より官憲の横暴を徴発するの傾き多し。本編に列する十余章(の法難も)皆、然らざるはなし」(「宗学要集」九巻247頁)

と指摘されている。

まさに、学会弾圧は、国家神道中心のファシズムが世を支配している異常な状況下で、「世相を無視して宗熱に突喊(とっかん)する似非信行の」言動に走った牧口氏以下学会員達の行きすぎた言動(神札焼却の強調や、四悉檀を無視した強引な罰論等)が、いたずらに招き寄せた弾圧であった、という他はない。少々酷な言い方をすれば、自業自得の誹りは免れない、ということである。

異流儀めざした牧口氏――獄死は「誹謗の罪」

さて、弾圧時の牧口氏の信仰の中身はどうであったかというと、ここに驚くべき資料が存在している。それは、逮捕後の牧口氏に対する特高警察の尋問調書である。その中で牧口氏は、

「私は正式の僧籍を持つことは嫌いであります。僧籍を得て寺を所有する事になれば、従って日蓮正宗の純教義的な形に嵌った行動しかできません。私の価値創造論をお寺に於いて宣伝説教する訳には参りませんので、私は矢張り在家の形で日蓮正宗の信仰理念に価値論を採入れた処に私の価値がある訳で、此に創価教育学会の特異性があるのであります」

として、純然たる日蓮正宗の教義に沿った修行はしたくない(言い換えれば、日蓮正宗の教義を自分流に曲げていきたい、ということ)、また、日蓮正宗の信仰と価値論を結び付けるところにこそ学会の特異性がある、などと述べているのである。

この牧口氏の主張には、さすがに未入信の検事すらも不審を感じたらしく、「創価教育学会の信仰理念の依拠するところは、日蓮正宗に相違なきや?」との質問をしている。これに対し牧口氏は、

「会員は悉く日蓮正宗の信者として、常在寺、歓喜寮、砂町教会、本行寺において授戒して居りますが、創価教育学会其ものは、前に申し上げた通り日蓮正宗の信仰に私の価値創造論を採入れた処の立派な一個の在家的信仰団体であります」

などと答え、重ねて、

「学会は飽迄も日蓮正宗の信仰を私の価値論と結び付ける処に特異性があるのであります」

と強調しているのである。

なんたることであろうか。要するに牧口氏は、正宗の信仰を自身の価値論に結び付けるところに日蓮正宗とは大いに異なる学会の特異性がある、として、学会そのものを一個の独自な在家宗教団体として意義付けていたのである。

これでは、日蓮正宗は学会を成立させるために利用されていただけであり、もし、この弾圧がなかったならば、行き着くところ、学会は実質的に牧口教となっていたことは間違いない。

また、これを見るならば、今日の池田創価学会が長い間、日蓮正宗との二重形態をとりつつ、あくまでも日蓮正宗とは異質の新在家教団(池田教)を指向してきた原体は、すでに初代会長・牧口氏の行き方の中に萌芽していた、と言わざるをえないのである。

結局、投獄された牧口氏は、一年有半を経た昭和19年11月18日、獄中に死去し、その一生の幕を閉じた。そして、牧口氏の一番弟子であった戸田理事長は翌年7月、釈放されたが、創価教育学会は半ば壊滅同然の状態になっていた。

こうして、学会に対する官憲の弾圧は終わった――。が、しかし、牧口氏の中に根付いていた異流儀思想の実態や、日淳上人に対する誹謗と背反、偏った布教の在り方等々を知る時、これを、純然たる日蓮正宗信仰を貫いた結果の法難などと呼ぶことはとうていできえない。『佐渡御書』には、

「善戒を笑えば、国土の民となり王難に遭う。是は常の因果の定まれる法なり。日蓮は此の因果にはあらず。法華経の行者を過去に軽易(きょうい)せし故に、法華経は月と月とを並べ星と星とをつらね崋山に崋山をかさね玉と玉とをつらねたるが如くなる御経を、或は上げ或は下して嘲弄せし故に、此八種の大難に値るなり」(新編御書582頁)

と仰せられ、投獄されたりするのは法華経を持つ人を誹謗した罪、と明かされているが、獄中にあっての戸田理事長は、このご金言を厳しく我が身に引き当てて読まれたのであろう、

「堀米先生に、去年堀米先生を『そしった』罰をつくづく懺悔しておる、と話してください。『法の師をそしり』し罪を懺悔しつつ『永劫の過去を現身にみる』と言っております、と」(前出「獄中書簡」)

と述べて僧誹謗の重罪を懺悔し、さらに牧口氏が獄死してしまったことについては、やや曖昧に、

「牧口先生の先業(せんごう)の法華経誹謗の罪は深く、仏勅(ぶっちょく)のほどはきびしかったのでありましょう」(『創価学会の歴史と確信』)

と述べている。仏法の因果の厳しさ、不思議さに、慄然とさせられるではないか。また、これら獄中書簡等を見る限り、ひとり戸田理事長だけは、師たる牧口氏の謗法に気付いていたものと思われる。現に、出獄の二日後(昭和20年7月5日)、戸田理事長は、

「足を引きずりながら歓喜寮を訪ね、日淳上人に対して『申し訳ありませんでした。二年間、牢で勉強して、自分の間違っていたことがわかりました』といって平身低頭、深くお詫び申し上げ、さらに『これからは何もかも、お任せしますので、よろしく頼みます』」(日淳上人夫人の証言)

と固くお誓いしたという。

さらに戸田理事長は、二代会長として学会再建に着手したが、まず牧口氏の根本的誤りを払拭すること(それも、師たる牧口氏の遺徳を傷つけることなく、むしろ顕彰しながら行なう)に心を砕いた。その真実は、若かかりし頃の池田大作が、迂闊にも『人間革命』の第一巻の中に、次のように描写してしまったことからも明らかである。

「牧口の価値論から入った、大善生活を思うとき、そこには、彼独特の、倫理的臭みを帯びてくる。さらに、大善生活の実践のために、大御本尊を仰ぐ時。大御本尊は、価値論の範疇に入ることになってしまう。――ここに砕尊入卑(さいそんにゅうひ)のきらいが影となって射して来るようだ。戸田は、出獄以来、ひとまず価値論を引っ込めた。そして、南無妙法蓮華経そのもの自体から出発したのである。それは、幾多の苦難の歳月を経て身をもって体験した確信からであった。彼は、価値論を現代哲学の最高峰であるとは思っていた…しかし、大聖人の大生命哲学からするならば、時に『九重の劣』とすら思えた」

正信(しょうしん)を貫いた戸田二代会長の大功績

かくて、戸田会長は数年間にも渡る苦心惨憺の結果、牧口氏の「砕尊入卑」という根本的な謗法を学会の中から取り除かれた。

そして、壊滅状態であった学会を、勤行・教学・登山・折伏・御供養等の徹底指導によって再建、僅か十年のうちに75万世帯を突破せしめられたのである。

その戸田会長の根底を成していたものは、先代・牧口氏と異なり、日蓮正宗に対する絶対的な信心の赤誠であった。

ただ、その豪放磊落な性格の故に、一般常識人から非難されるような行動や、細かい点で行きすぎた面などはあったとされるが、あたかも大水が小火を呑み込み、太陽の光が星の光を隠してしまうように、戸田会長の余りにも強く純粋な正宗に対する信心が、総ての瑕瑾を吹き飛ばしてしまっていたといえよう。

以下、戸田先生(心からの尊敬をもって、かく称させていただく)の珠玉の指導を引く。

「良き法と、良き師と、良き檀那との三つが、そろわなければだめだ。南無妙法蓮華経、これは良き法に決まっている。大御本尊は良き法なのです。また御法主上人は唯授一人、64代の間を、私どもに、もったいなくも師匠として大聖人様そのままの御内証を伝えておられるのです。ですから、御法主上人猊下を通して大御本尊様を拝しますれば、必ず功徳が出てくる。ただ、良き檀那として、その代表として、その位置にすわれたことを、私はひじょうに光栄とするものであります」(昭和30年12月13日、関西本部入仏落慶式)

「学会は猊座のことには、いっさい関知せぬ大精神で通してきたし、こんごも、この精神で一貫する。これを破る者は、たとえ大幹部といえども即座に除名する。信者の精神はそうでなければならない。むかし、関西に猊座のことに意見をふりまわして没落した罰当たり者があったそうだが、仏法の尊厳を損なう者は当然そうなる。どなたが新しく猊座に登られようとも、学会会長として、私は水谷猊下にお仕えしてきたのでと、いささかも変わりはない。新猊下を大聖人としてお仕え申しあげ、広布への大折伏にまっすぐ進んでいくだけである」(『信者の大精神に立て』昭和31年1月29日)

「ありがたくも、本日は、御本山の猊下のお出ましを願い、畑毛の猊下のお出ましを願って、われらとしては、これ以上の名誉はない。来年の今日までの間に、ほんとうに功徳をつかむ覚悟で、自分の悩みの心に、大御本尊を目の前に浮かべ、両猊下を拝もうではありませんか。それでは、わたくしが導師になります。(題目三唱)」(昭和29年5月3日、創価学会第十回総会)

「日本中にいる一般の坊主は、全然不用なものである。(中略)二十の扉の語をかりれば、『動物』という題で、陰の声が『寺に住む動物の親分』ということになる。すなわち高級乞食である。
 かかる何十万の動物の中で、同じ姿こそしておれ、厳然として人であり、人の中でも立派な僧侶と名づくべき百数十人の小さな教団がある。この教団こそ日本の宝である。日蓮正宗の僧侶の教団こそ、これである。
かかる、立派な教団でも、身近に住む信者はありがたいとも思わず、ふつうだと考える。これは、この教団の偉大な功績を見ないものであって、この教団の一部分観をなしたり、または、この教団存立の目的たる広宣流布において、なまけているものが、おったりするものだけを見るから、"宗祖大聖人のお衣の袖にかくれ、仏飯を腹一杯食うことを唯一の願いであるとしている猫坊主が多い"と攻撃して、功績の方を見ない。(中略)
 かかる近視眼的かつ部分観的、一時的に観察せずに、大聖人御出世の御本懐より、または、仏法に大局観よりなすなら、口にも筆にも表せぬ一大功績が、この教団にあるのである。
わずか百数十人の僧侶が、愚僧、悪僧、邪僧、充満の悪世に、よくたえるもので、大聖人の『出世の御本懐』たる弘安二年十月十二日御出現の一閻浮提(いちえんぶだい)総与(そうよ)の大御本尊を守護したてまつって、七百年間、チリもつけずに、敵にも渡さず、みなみな一同、代々不惜身命の心がけで、一瞬も身に心に身心一つに、御本尊を離れずに、今日にいたったのである。(中略)もったいないではないか。神々しいではないか。ありがたいではないか。……かくも、法体(ほったい)を守護し、かつ化儀(けぎ)連綿たる功績こそたたえねばならぬことである。この上に、大聖人の御教義は、深淵にして、厳博であって、愚侶の伝うべきことではないのに、賢聖時に応じてご出現あらせられ、なんら損することなく、なんら加うるなく、今日まで清純に、そのまま伝えられたということは、仏法を滅しないことであり、実に偉大なる功績ではないか」(『僧侶の大功績』昭和26年6月10日)

「(戸田会長は)決然と立って、『御供養することは、信徒の務めである。もし、それが使途不明であるとか、収支決算せよとか、御供養を出しもしないうちから、はじめからそんなことを言っておるのは信徒の努めを怠っておるものである。信徒は御供養することによって利益があるのである。御利益は供養することにある。もしそのお金を不正に使ったならば、それは使った僧侶が罪を受けるのである。地獄へ堕ちるのである。信徒は清い供養をすれば、それで御利益がある。経文に照らしても、また大聖人が仰せではないか』と叫んだのである」(昭和40年7月11日『大日蓮』234号)

挙げたらキリがないが、戸田先生は、心底から日蓮正宗を信じ、大切に想い、赤誠の御奉公を貫こうとしていたのである。

そうした戸田先生の信心の大功績によって、まさに

「花は根にかへり、菓(このみ)は土にとどまる。此の功徳は故・道善房の聖霊の御身にあつまるべし」(報恩抄、新編1037頁)

との御金言の如く、師であった牧口常三郎氏の罪は隠れて遺徳が大きく顕彰され、また、戸田先生の遺した創価学会も数百万世帯にまで発展した。

しかし、その総てが、今、第六天魔王・池田大作の手によって、灰に帰してしまったのである。

しかも、因縁というのであろうか、池田のとった路線は、かつて牧口氏が指向していた異流儀の在家教団路線を蘇らせ、さらに悪質化したものであった――。

なお、戸田先生の牧口氏を想う心情と、遂に牧口氏の遺徳を成し遂げた苦労を考えるにつけ、真実の歴史の公表には心苦しいものがあったが、何より日蓮正宗の仏法を護らんとした戸田先生の信心に鑑み、やむなきことと意を決した次第である。

最後に、謹んで御法主日顕上人のお言葉を引用させていただき、戸田先生の追善に供したい。

「戸田会長のころの創価学会の在り方は、その根本精神において、あくまで総本山が根本であり、そのための創価学会であるという気持ちの上から、あの大折伏が遂行されたということが、はっきりと言えるのであります。
ですから、三代の池田会長は、戸田氏が命懸けで作られた組織と、その流れに乗ったに過ぎないのであります。戸田氏は、本当に命懸けで、指揮をとりましたが、広布七十五万世帯の時点でお亡くなりになりましたので、その後を受けた後、たしかに数としては増えているようでありますが、すでにその時には、そののち発展する内容は戸田氏によってできあがっていたと、私ははっきり見抜いておるものであります。
 したがって、八百万世帯にいたる大折伏は、戸田氏の清浄な、正法を護る気持ちの中から行われたところであり、その中から皆様方が現われてきたのであるということをはっきりと見定めるところに、創価学会に縁のある方々が、創価学会の存在理由とその経過、すなわち正しい仏法の流れを正しく知る所以があると思うのであります。
しかして、池田大作なる者が会長になってから、次第にいろいろな角度で誤りを犯すようになったのであります」(平成4年3月29日、法華講連合会壮年部大会お言葉)