2001年2

●2月28日(水)
 お酒の残った頭で文章を綴ると変なことになります。きのう記した「新たな情報提供を頂戴しました」という文章は、素面で読むとちょっと変です。馬から落ちて落馬する、みたいなところがあります。すっきりさせるには、新たな情報を頂戴しました、とすればいいでしょう。いったん寝て起きてからでもこのありさまなのですから、実際にお酒を呑んでいる最中に私が口走ることなどさぞや支離滅裂でいい加減なものなのであろうなと想像される次第です。本人はほとんど記憶していませんからいい気なもんですが。
 さて、久しぶりに「乱歩百物語」をアップロードしました。杉山平助の「文芸五十年史」です。乱歩のことはちょこっとしか出てこないのですが、大衆文芸や文芸ジャーナリズム、さらには時局や海外情勢などへの言及が結構面白く、乱歩が登場する章を全文アップロードすることにしました。昭和17年に発表された文章ですから、国家主義のバイアスがかかっていることをお断りしておきます。
 もっともこの杉山平助、『新潮日本文学辞典』には「時局の緊迫につれ国家主義的傾向を強め、松岡洋右外相の政策を全面的に支持、その退陣で失意に陥った」(執筆=田中西二郎)とありますから、もともと国家主義的傾きを帯びがちな人物だったのかもしれません。同書には「文芸五十年史」が「独自の鋭い考察に富む民族主義的な近代日本文学史」と紹介されていますが、いま読むと民族主義的視点うんぬんということより、大衆文芸や探偵小説、さては童話や民謡までを視野に入れようとする杉山平助の柔軟さに見るべきものを感じます。
 その最晩年、コント赤信号の師匠というふれこみでテレビのバラエティ番組に出没していた、どことなく宮沢喜一に似た風貌の杉兵助という老芸人がおりましたが、あの杉兵助は杉山平助とは何の関係もないようです。きのうに比較すれば頭の調子はいいはずなのに、こんな莫迦なことしか書けない私です。勉強し直してまいります。


●2月27日(火)
 いやー寝過ごしてしまいました。いつもは朝8時を目安にアップロードしているのですが、もう午前10時です。
 ホームページ「乱歩の世界」のアイナットさんから、ホームページ「宮澤の探偵小説頁」の宮澤さんに過日ご教示いただいた久山秀子「代表作家選集?」に関して、新たな情報提供を頂戴しました。以下、アイナットさんのメールから引用いたします。

 私は最近復刻版新青年で読む機会を得たのですが、「闇に迷く」の内容は『人間椅子』のパロディでした。《奥様》にはじまる手紙を閨秀作家住子がもらうという筋で、私的には乱歩テイストも何となく出ていて面白く思いました。「代表作家選集?」の構成は「はしがき」「春の部」「夏の部」「秋の部」「冬の部」の四部構成でした。(春の部が隅田川散歩作)

 「新青年」の復刻版、残念ながら名張市立図書館は所蔵しておりません。私はいずれ分水嶺の青山峠を越えて津市一身田上津部田にある三重県立図書館に赴き、この作品を読んでみるつもりなのでございます、奥様。
 アイナットさんにお礼を申しあげます。
 復刻版といえば『貼雑年譜』の復刻版、いよいよ第一次製作分が発送されたと申すではございませんか、奥様。
 ところで奥様、「陰獣」とかけて何と解く?
 「陰獣」とかけて「サマンサ」と解きます。その心は、奥様はマゾだったのです。古すぎますけど。
 それにしても私は朝っぱらからなーに莫迦なこと書いてんでしょうか、奥様。
 まだ酔っております。


●2月26日(月)
 先日お知らせした高島真さんの『追跡『東京パック』』(無明舎出版)は、大正・昭和期に人気を集めた風刺漫画雑誌「東京パック」の盛衰と、ある時期から同誌を主宰した秋田県は横手出身の下田憲一郎という人物の来歴とを追った本です。
 乱歩は大正8年、わずかな期間ながら同誌の編集に携わっていますから、第一章「大正期『東京パック』と江戸川乱歩」には、「東京パック」に関する『貼雑年譜』の記述が引かれ、平井隆太郎先生に照会して判明した事実も盛り込まれて、乱歩ファンには興味深い内容となっています。
 なかでも、下田憲一郎が「東京パック」昭和5年9月号に執筆した「編輯室から」の引用には、編集部勤務時代の乱歩の、何やらぞんざいな大人物とでも呼ぶべき姿が描かれていて、これまで知られていなかった乱歩文献を読むこともできます(もっとも私は、雑誌連載の段階で「追跡『東京パック』」を眼にしておりましたから、「乱歩文献データブック」には下田憲一郎の「編輯室から」をとっくに記載済みです)。
 それがどんな姿であったかは同書をご覧いただくとして、ここには「東京パック」と乱歩とのそもそもの関わりについて、著者の説くところをご紹介しておきます。

 それにしても、「乱歩」の平井が、湯島天神町にあった東京パック社の下田とかかわりを持ったのは、どんなきっかけからなのか。『貼雑年譜』には、「私ハアルコトカラ下田氏ヲ知リ」とか、「不図シタコトカラ、私ハ『東京パック』ノ編輯ヲ引受ケルコトニナッタ」とかいうくだりがある。しかし、くわしいことには触れていない。私には、その「不図シタ、アルコト」が、ながいこと関心事であった。

 ここで話題は、乱歩が子供時代からたいへんな活字好きだったこと、さらに大正元年の9月から12月まで湯島天神前の雲山堂という活版屋に住み込みで勤務しながら早稲田大学に通っていたことに及んで、

それから下田に出会う大正八年までは、よほどの年月が経過している。しかし、雲山堂という活版所が湯島天神前にあったことは、やがて「乱歩」の平井太郎を、『東京パック』に結びつけることになる偶然なのではないかと思える。「不図シタ、アルコト」には、湯島天神前の小さな活版所に住み込んだ乱歩の過去が、かかわっている可能性は高い。

 との推測が記されます。
 ちなみに乱歩は、給料が支払われなかったために三号限りで「東京パック」の編集を辞めています。「江戸川乱歩年譜集成」の大正8年のページから引きますと、「乱歩が自分の漫画を載せたり、文章を署名入りで掲載したりしたため、漫画家たちから編集者が出しゃばりすぎると抗議が持ち込まれたこともあって、乱歩のほうから辞めざるを得ないような処置がとられたという」。


●2月25日(日)
 どうも大雑把なご紹介に過ぎるような気もするのですが、きのうのつづきです。
 
高原英理さんが「群像」2月号に発表した「断念の力──稲垣足穂の価値体系」では、「憧憬の成立──日本的プラトニズム」のあとを受けて、

 大正・昭和期、「自己愛の表出としての少年愛」に関する重要なテクストを残した著者として、折口信夫、江戸川乱歩とともに稲垣足穂も当然挙げられるべきだろう。ただし、足穂の少年愛に関する叙述方法は前二者と大きく異なっている。

 と折口、乱歩、足穂が論じられます。足穂が前二者とどう異なっているのかというと、要するにタイトルにもある「断念」のうえに立っているということです。その断念とは、

 折口・乱歩・足穂に共通する自己愛の形式とは、年長の男性によって愛され、その美を発見される美少年の、近代的自他区別を超えた無垢、というべきものだ。
 折口も乱歩もそれを美少年(あるいはその延長としての美青年)の側から語ろうとした。しかし、それを続ければいずれ方法上の破綻が明らかになる。
 足穂はここで一旦、「愛する側」つまり年長の男性(いわゆる「念者」)の側に身を置き、自らの美・魅力の有無を括弧に入れた上で語ることを始めたのである。
 それは、なかなかこのテーマにおいてはなされえなかった(自己愛表出の発生理由から考えてそれは当然である)画期的なことであるとともに、「少年」自身にはない超越性を手に入れる手段でもあった。

 といったことで、足穂は、乱歩や折口がそこから出発した「愛される客体としての美少年」を起点としないことによって、「客体としての自己を破綻なく語る方法」を発見し、乱歩によって提唱された「日本的プラトニズム」を完成させることができたのであると説かれる次第です。
 以上、「断念の力──稲垣足穂の価値体系」から乱歩に関わりのあるくだりをごく大雑把にご紹介しましたが、興味がおありの方は「群像」2月号で直接お読みください。一連の論攷はいずれ高原さんの著書として一冊にまとめられるはずですから、そのときにはまたあらためてお知らせいたします。


●2月24日(土)
 高原英理さんといえば、想起されるのは乱歩と谷崎の話題です。
 プラトニズムを媒介として乱歩と誰かを対比する、という試みのもっとも新しい例は、高原さんが昨年、「群像」8月号に発表した「憧憬の成立──日本的プラトニズム」に見ることができます。乱歩に対するのは折口信夫。この論攷ではまず、少年時代のラブ・アフェアを綴った乱歩の随筆「乱歩打明け話」と、前篇だけが書かれて未完に終わった折口の短篇小説「口ぶえ」とが、あたかも双子のようによく似ていることが示されます。「口ぶえ」は、漆間安良と渥美泰造という二人の少年がともに死ぬことを決意し、高い崖のうえで「今、二人は、一歩岩角をのり出した」というところで終わっているのですが、

ここでもし、主人公が生き延びたとしたら、いったいどうなるのだろう、という興味は湧く。
 そして、それを語るのが『乱歩打明け話』と言えるのだ。この随筆の語り手こそ、「生き延びた安良」なのである。

 という思いもかけぬ指摘を配して読者に膝を打たしめたあと、

 安良と同じく、「プラトニックで清らかな、そして美しい、究極の関係」(という意味合いで提出されてくる「初恋」)を体験した少年にとって、その相手と別れて後はすべて余生である、という、いわば現実否定のロマンティシズム的発想が生じることになり、その核である究極恋愛の経験の記憶は、以後を生き延びる当人の生そのものに対する非難の根拠という意味を帯びるだろう。
 乱歩の随筆に漂う、どこかしらなげやりな語り口はこのような構造から発するものと思われる。

 とつづいて、日本文学における自己愛の表出というテーマが追究される次第ですが、時間となりましたので本日はここまでといたします。


●2月23日(金)
 そういった次第で、私はようやく『貼雑年譜』復刻版の代金振り込みを済ませました。当分のあいだ爪に火をともして明け暮れいたさねばなりません。勝手ながらゆすりたかりの儀は固くお断り申しあげます。

 なぜか知人の本の話題がつづきます。きょうも一冊。

秋里光彦『闇の司』
ハルキ・ホラー文庫(角川春樹事務所、本体五二〇円)
凄惨極まる映画『女殺油地獄』の撮影中、撮影直後に起こった連続殺人。被害者は主演女優を含む三人で、いずれも残虐に、そして猟奇的に殺された。手がかりは女優のひとりが死に際に書き残した「オニ」という文字。次に殺害される危険を感じた撮影カメラマンのわたしは、撮影所のある仮名手町界隈を調べはじめるのだが……衝撃的な表題作に、幻想味溢れる一篇を加えた、珠玉の作品集。
(カバーの惹句を引用)

 秋里光彦というのは、『少女領域』でおなじみの高原英理さんの別名です(といったことを書いてしまっていいのかな、とも思いますが、それ以前に、この人にはいったいいくつ名前があるのかな、とも思います)。表題作は、第六回日本ホラー小説大賞の最終選考通過作品に加筆した作品。もう一作の「水漬く屍、草生す屍」は十数年前、いまはなき(というか、ごくわずかな期間だけ存在した)「小説幻妖」という雑誌に発表された短篇で、個人的にはひたぶるに懐かしい、という感じがいたしますが、それ以前に、どうせなら「かごめ魍魎」も収録すればよかったのに、という感じもいたします。


●2月22日(木)
 乱歩ファンの方にお知らせします。
 テレビの話題です。
 関口宏が司会を務める番組で、そのときどきに話題となっている新刊を何冊か紹介する趣向のものがあります。昨年11月、兵庫県明石市に住む知人の『大阪の大疑問』(扶桑社)という著書がこの番組でとりあげられることになったと本人から連絡があり、初めてまともに視聴したのですが、ほとんど記憶が残っていません。たぶん酔っ払って見ていたのだと思います。
 その番組に3月3日土曜、東京創元社の『貼雑年譜』復刻版が登場すると聞き及びましたので、取り急ぎお知らせする次第です。復刻版の製作過程を紹介する映像も流されるとのことで、なかなか興味深い番組になりそうです。当日の朝、新聞のテレビ欄を確認してあらためてご案内いたしますが、乱歩ファンのみなさんはどうぞお見逃しなく。
 『貼雑年譜』復刻版といえば、私はいまだに代金を振り込んでおりません。申し込んだとき東京創元社から届いた手紙を開いてみると、2月15日までに代金を振り込まないと注文取り止めと見なします、みたいなことが書いてあります。私はこの期限を2月25日だと勘違いしていて(じつは1月にも、15日締切のあるアンケートをてっきり25日締切だと思い込んでいたということを、私は経験しております。すっかり焼きが廻ったようです。それとも、15日→25日というこの間違いには、何かしら無意識的な理由があるのでしょうか。あるいは単なる「誤謬の訂正」か。そんなことはともかく)、あーそろそろやなとは思っていたのですが、一昨日夜に東京創元社関係者の方からそれとなく催促のお電話を頂戴し(上記のテレビ番組のこともそのとき教えていただいたのですが)、それでようやく期限を過ぎていることに気がついたというていたらく。
 だから私は
 きょう
 名張市栄町の
 名張郵便局の
 窓口に
 本体三〇万円
 プラス
 消費税一万五〇〇〇円の
 現ナマを
 ばーんと
 叩きつけて
 代金を振り込む
 のさ。
 以上、めったに手にする機会のない大金を取り扱うことになった貧しくも小心な男の心の揺らぎを改行の多用によって表現してみました。


●2月21日(水)
 「朝日新聞」東京版に掲載された乱歩記念館の記事を読みました。豊島区議会本会議の初日、高野之夫区長が財政難のため断念することを明らかにしたと報じる内容で、ほかに目新しいことは記されていません。「現在地に整備するには用地取得や建設費などで多額な資金が必要」という区の判断も記されています。
 それなら名張市はどうするのか、とお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、名張市立図書館カリスマ嘱託たる私にもそれは不明です。豊島区が断念したということは昨年11月の時点で名張市立図書館長を通じて名張市長に伝えてあるのですが、いっこうに音沙汰がありません。
 むろん名張市にだって海のものとも山のものともつかぬ乱歩記念館構想は以前から存在しておりましたので、豊島区が昨年2月、新年度予算の記者会見で乱歩記念館の構想を発表した(ということを会見当日に電話で教えてくださったのは、きのう記した元「アミューズ」現「サンデー毎日」の「縄文系」記者、隈元浩彦さんでしたが)ときにも、私は新聞記事のコピーを添えて市の上層部にそれを伝えたのですがまったく返答はなく、さすがに腹に据えかねて知人の反名張市長系名張市議会議員に依頼し、名張市議会の場で正式に市の意向を質問してもらうという策にも出てみたのですが、答弁は予想どおり腰も抜けんばかりなものでした。笑う気にもなれません。
 名張市立図書館カリスマ嘱託たる私がたどりついた結論としては、名張市役所のぼんくらどもに何を期待しても無駄である、といったことでしょう。ぼんくらのみなさん、あまり私を怒らせないでくださいね。


●2月20日(火)
 きのう記した乱歩の歴史小説の話、どこかで読んだぞとお思いの方もおありかもしれません。毎日新聞社発行「アミューズ」の乱歩特集号で、ちょこっと触れられておりました。ネタを提供したのはむろん私です。名張市立図書館へ取材にいらっしゃった記者の方から、乱歩邸には乱歩がつくった仏教用語のカードが大量に残されている、探偵小説と仏教とはいったいどこで結びつくのだろう、みたいな話が出ましたので、強いて合理的に解釈するならば奈良時代を舞台にした歴史小説の素材としてではないか、と深い根拠などまったくない思いつきを申し述べた次第です。
 ちなみに名張市立図書館へは先月、メディアファクトリー発行「ダ・ヴィンチ」の取材陣もおいでいただきましたが、ここで「アミューズ」vs「ダ・ヴィンチ」の比較検討を試みますと、タクシーを一台チャーターして名張市内外を駈けめぐった羽振りのよさでは「ダ・ヴィンチ」に分があり、取材協力費を支払うという取材対象者の遇し方においては「アミューズ」に軍配が上がります。両者痛み分けといったところでしょうか。しかしつらつら振り返りますと、取材協力費を頂戴したのは後にも先にも「アミューズ」だけです。阿漕なことは申しません。まったくの無償で誠心誠意お相手をいたしますので、どちらさまも名張市立図書館へお気軽に取材においでください。
 その「アミューズ」の取材で名張にいらっしゃった隈元浩彦記者の本が出ましたので、というか文庫化されましたので、お知らせしておきます。ちなみに隈元さんは、現在は「サンデー毎日」編集部にお勤めです。

 隈元浩彦『日本人の起源を探る』新潮 OH! 文庫、本体六〇〇円
 「日本人」という民族は、一体どのようにできあがったのか? この大テーマを追う遺伝学、骨相学、言語学などの最前線の研究に、気鋭のジャーナリストが迫る。『私たちはどこから来たのか 日本人を科学する』改題
(カバーの惹句を引用)

 表紙には「あなたは縄文系? それとも弥生系?」と記され、著者名の上には「『縄文系』記者」とあります。


●2月19日(月)
 ところで昭和10年代、乱歩は大仏建立をテーマにした歴史小説の構想を温めていたそうです。証言しているのは、「蠢く触手」とうごめく足の指でおなじみの岡戸武平。「若草」という雑誌の昭和22年10月号に掲載された「探偵小説と江戸川乱歩」から引きましょう。

 戦争のために、探偵小説が弾圧されたという国は、おそらく日本だけだつたろう。そのあふりを喰つて江戸川氏は、戦争中まったく筆を絶つていた。時に歴史的小説に興味を感じ、いささか創作慾も出たように見えたが、ついに筆にはのらなかつた。それは奈良の大仏の建造を主としたテーマで、非常にスケールの大きなものであつた。私はそのはなしを聞いて、いかにも乱歩さんらしい着想であるとおもい、ぜひ実現されることをすゝめたが、幻影城主の脳裡にのみ描かれたに過ぎなかつた。
 そのときの勉強振り──文献渉猟ぶりを、私はみておどろいた。奈良時代の概観から、大仏に関する新旧の研究物はもとより、これに関するひッかゝりのあるものを片ッ端しから漁るという有様だつた。「吾妻鏡」を原文で通読するだけでも、なかなか容易なわざではない。江戸川氏には、こうゆう生半解ではない性格がある。

 「探偵小説と江戸川乱歩」のことは愛媛県の藤原正明さんからご教示をいただきました。お礼を申しあげます。


●2月18日(日)
 それなら最新の乱歩小説はというと、たぶん北村薫さんの『リセット』(新潮社)だと思われます。今年1月に出た、「時と人」三部作の最終作です。p.58 から引きましょう。乱歩の「蜘蛛男」をテーマにした、先生と女生徒の会話。

 優子さんは、あどけなく続けました。
 「お釈迦様が蜘蛛の糸で、地獄にいる人を助けるような童話があったかと思います。そういった話ではないんですか」
 先生は、眉をひそめていいました。
 「江戸川乱歩だぞ。……エログロだっ」

 笑えます。とはいえこの作品、本質的にはホラーです。私は p.271 で身柱元がうっすら寒くなり、p.296 に至って総毛立つ、といったことを経験しました。しかし、p.355 にもうひとつ仕掛けがあって、ホラー的本質は打ち消されます。ホラーにホラーをかけあわせるとホラーでなくなるという寸法です。安心してお読みください。
 『リセット』に乱歩が出てくるのは上の箇所だけなのですが、出てくるのだからこれは“乱歩小説”です。私的なことを打ち明けるのは気が引けますが、北村さんから昨年頂戴した年賀状に、今年は乱歩の出てくる小説を書きます、みたいなことが書き添えられてあって、発行が今年にずれ込みはしたものの、これが『リセット』を指していることは明々白々でしょう。といった作家の自己申告をも考慮して、『リセット』を乱歩小説と認定いたします。確定申告の時期でもありますし。

 確定申告と同時に年度末議会の時期でもありますが、東京都豊島区の定例会は16日に開会し、高野之夫区長が乱歩記念館の断念を明らかにしたそうです。東京都の玉川知花さんからお知らせをいただきました。お礼を申しあげます。玉川さんからは「朝日新聞」東京都内版の「乱歩記念館を断念/豊島区財政難で」という記事のコピーもお送りいただいたそうなので、到着したらまたあらためてお知らせいたします。

 乱歩がごく短期間ながら編集に携わった、「東京パック」という雑誌を追った本が出ました。まだ現物は見ていないのですが、高島真さんが地域雑誌「やまがた散歩」に連載したノンフィクションが、『追跡『東京パック』』という一冊にまとめられたようです。秋田市にある無明舎出版という版元のホームページで目次を確認できますが、第一章は「大正期『東京パック』と江戸川乱歩」となっております。同社ホームページをご確認ください。本の注文もできます。私はきのう発注しました。

追跡東京パック


●2月17日(土)
 昭和10年代の話が煮詰まってきたようなので、目先を変えて大正15年の話でご機嫌をうかがいます。よけい煮詰まるかもしれませんが。
 「宮澤の探偵小説頁」の宮澤さんから、「最古の乱歩小説」をお教えいただきました。以下、頂戴したメールの一部を引用いたします。

 『乱歩文献データブック』に掲載されていない乱歩小説を見つけました。
 久山秀子「代表作家選集?」(大正15年7月、新青年)です。乱歩小説として最古のものになります。
 これは中島河太郎「乱歩登場前後の作家たち・続 日本探偵小説史ノート7」(幻影城 No.17(1976.05))で知りました。以下引用します。

*  *  *  *  *  *  *

 久山の才筆を発揮しているのは「代表作家選集?」(大正十五年七月、新青年)であろう。隼と乾児の由公がそれぞれ掏ってきた原稿という形で、四作家の贋作を試みている。
 神楽坂で袈裟を忘れた坊様みたいな人からすったのが、「闇に迷(まごつ)く」で、作者は隅田川散歩、阪神電車の中で失敬したのが「桜湯の事件」で、槍光潤一郎作。三十歳位に見えるボーヤのような顔の人のが「画伯のポンプ」で、興が侍(さぶろ)うの作。名古屋での収穫が「人工幽霊」で、お先へ捕縛の作となっている。

 念のために記しておきますと、隅田川散歩は江戸川乱歩、槍光潤一郎は谷崎潤一郎、興が侍うは甲賀三郎、お先へ捕縛は小酒井不木のもじりです。思わず煮詰まりそうになりますが、『新青年』研究会の『「新青年」読本全一巻』で確認したところ、タイトルは「探偵小説代表作家選集?」であるようです。名張人外境の「乱歩文献データブック」に追記しました。宮澤さんには改めてお礼を申しあげます。
 なお、「宮澤の探偵小説頁」の『「探偵趣味」傑作選』評で、宮澤さんが乱歩と秀子のあやしい関係について書いていらっしゃいます。ご覧ください。

『「探偵趣味傑作選


●2月16日(金)
 私が毎朝毎朝いったい何を書いているのかというと、これはもうその日その日の思いつきであるとしかいいようがなく、最近は江戸川乱歩データベース三点セットのアップロードにあわせて、昭和10年代の乱歩についてぽつぽつと記していたのですが、そのうち昭和3年から4年にかけての乱歩のことに話が流れ、ああ、「孤島の鬼」の本文校訂がほったらかしだ、とやみくもな自責の念にかられつつ、きのうはまた「押絵と旅する男」の名前が出てきましたので、「孤島の鬼」のあとは「押絵と旅する男」の本文校訂をやろうかなとも思案し、しかしそのためには「孤島の鬼」の校訂を終えてしまわなければ話にならず、さるにても「孤島の鬼」の本文校訂を進めながら同時進行で「乱歩の『私』」を考察するなどという芸当が果たして可能かどうか、そんなことを考えていると、ああ、大儀じゃ、と何もかも抛り出してしまいたい気分になり、あやしゅうこそ物狂おしけれ、とはこんな心境かと実感されもする次第です。
 とりあえず一度締めておくとすれば、昭和10年前後は乱歩にとってかなり重要な時期だったのではないか、という結論になるのですが、こうした問題はこれまであまり論じられたことがなく、そもそも乱歩作品に対する評価にしても、初期作品だけがそれに値するものとしてさまざまに論評されていたのが乱歩生前のごく一般的なありようで、昭和4年以降のいわゆる通俗長篇には洟もひっかけられていませんでしたのが、最近になってようやく通俗長篇を批評の対象にしようという人たちの出現を見たのはまことに心強く、しかしそれでもまだ足りない、乱歩は初期短篇のみならず通俗長篇や少年ものまで全作品を視野に入れて論じられるべきであり、批評家研究者諸兄姉のいっそうの奮闘努力精励恪勤を期待したいと思います。
 ほんとに私は何を書いているのでしょうか。


●2月15日(木)
 ついでに記しておきますと(何のついでなんだかよくわかりませんが)、乱歩の「不安定」がもっとも際立っている作品は、もしかしたら昭和4年の「押絵と旅する男」であるかもしれません。やはり初期短篇から通俗長篇への移行期に書かれたこの作品は、乱歩が生涯にただ一度(厳密にいえば、この作品以外にも小酒井不木との合作「ラムール」とそれに基づいた「指」があるのですが)、終生拝跪をつづけた西欧的合理主義の埒から奔放に逸脱して執筆した作品で、その何かしらひどくやけっぱちな、信仰放棄めいたもの(とそれに伴う恍惚感)さえ感じさせる逸脱ぶりこそ、乱歩の「不安定」を雄弁に物語るものであるという気がします。
 それにしても、私は毎朝毎朝いったい何を書いているのでしょうか。


●2月14日(水)
 それなら戦前の乱歩は「不安定」であったのかというと、やはり相当に不安定であったと見受けられます。それがとくに際立っていたのが昭和3年から4年にかけて、つまり初期短篇から通俗長篇へと移行しつつあった時期です。
 何が「不安定」であったのかというと、乱歩の「私」が不安定であった、ということになるでしょう。乱歩の作品を鏡のようなものだと考えた場合、そこに映し出された乱歩の「私」がじつに不安定であったということです。
 といったところで、話は「江戸川乱歩異稿拾遺」につながります。
 リニューアル作業の開始以来、いいことにして「孤島の鬼」の校訂も延々お休みをしている状態ですが、連載第三回を校訂した際、作中の語り手である「私」と作者乱歩の「私」とが密かにせめぎ合う現場に遭遇して、私はそこに乱歩の「不安定」をまざまざと見たような気がしました。
 とはいっても、あんな辛気くさい、砂を噛むような、賽の河原の石積みにも似た校訂作業に律儀におつきあいいただいている方はほとんどいらっしゃらないであろうと思われますので、ここでちょっと説明しておきますと、雑誌「朝日」の初出では、動物の血を眼にした語り手「私」は「
その赤い色が、怪しくも美しく光つてゐた」と物語るのですが、平凡社版全集ではこの文章から「美しく」が削除され、「その赤い色が、怪しく光つてゐた」と改められています。
 私は次のように記しました。

 ここには、正常健全な人間として造形された箕浦の「私」に、作者である乱歩自身の「私」が不用意に滲出していったさまと、それに気づいた乱歩が稿を改め、血のりに見てしまった美を撤回することで箕浦を危うく正常健全の枠内にとどめたさまが見て取れるように思われる。

 ほかの作品に眼を転じると、「孤島の鬼」が書かれた昭和4年ごろ、換言すれば初期短篇からいわゆる通俗長篇への移行期に、乱歩の「私」が抑えかねたように作品への滲出をくりかえしていることが判明する。
 とくに、「陰獣」の「私」、「孤島の鬼」の「私」、そして三人称で書かれた作品ではあるけれど「虫」の柾木愛造という「私」、この三人の「私」には、三様の形で乱歩の「私」が色濃く滲み出ている。
 この時期、乱歩は「私」を語ることで何を果たそうとしていたのだろうか。

 とりあえず「陰獣」を手がかりにすれば、作中の大江春泥が乱歩であることはすぐに知れますが、語り手の「私」、すなわち寒川という探偵小説家もまた乱歩ではないかと思われます。春泥に「屋根裏の散歩者」ならぬ「屋根裏の遊戯」という作品があるのなら、寒川には「心理試験」ならぬ「連想試験」が必ずやあるはずだと、私には思われてなりません。それまでの乱歩作品を染め分けていたふたつの傾向を分離させたうえで、かたや「本格」の寒川がこなた「変格」の春泥を追跡するという「陰獣」の筋立てには、乱歩の「私」が不安定に揺らいでいたことの投影のごときものが認められます。そして……
 といった考察は、本文校訂からは明らかに逸脱した作業ですから、この先をどう進めればいいものやら、私はいささか困惑している次第です。


●2月13日(火)
 戦後の乱歩は、小説家としては少年ものの創作を専らとし、探偵小説研究家としては海外作品の紹介と探偵評論の執筆とに努め、探偵文壇の領袖としては探偵小説の興隆発展に尽力し、活字愛好家(!)としては「宝石」の編集に携わり、自己蒐集家(!!)としては長大な自伝を十一年の長きにわたって連載し、つまり戦前の乱歩と比較すると本業(というのはいうまでもなく少年ものではない小説を書くことです)と余技がひっくりかえってしまったかのごとき活動をつづけます。
 ここにも地と柄の逆転が見られる次第です。
 しかしこの逆転は、昭和10年前後に乱歩が経験したひとつの転機に眼をやれば、容易に首肯しうるものであるはずです。乱歩自身が告白している「探偵小説への情熱」と、当時の文業にうかがえる「自己確認への意志」、それから自身の資質と読者の嗜好に対する苦い認識のうえに、乱歩の転機はもたらされたと考えられます。
 つまり戦後の乱歩は、みずからを受容して彼自身になった乱歩であり、それは反面では、いってみれば安定を手にすることによって自身の小説の本質的な魅力であった「不安定」を放棄してしまった乱歩、でもあったといえるように思います。
 いや、ほんとにこんなことがいえるのかな? と首をひねりつつ、本日はここまでといたします。


●2月12日(月)
 乱歩が自己確認の過程で自身の少年期を追体験し、その結果「少年」を小説の素材として昇華させるに至ったらしいことは、昭和11年の「怪人二十面相」に始まる少年ものに端的に示されています。戦争による中断を経て最晩年まで営々孜々として書き継がれたこのシリーズに、乱歩は自身の本領を見出していたと思われます。そして自己確認そのものの具体的な帰結は、昭和16年にまとめられた『貼雑年譜』にその一例を見ることができます。
 終戦を機に乱歩は性格が一変したと、横溝正史をはじめとして多くの人間が証言しています。乱歩自身、それまでの人嫌いから一転して「好人病」になったと振り返り、戦争中に町会のつきあいを経験したからとか、酒を覚えたからとか、歯切れの悪い説明を試みていますが、人間の性格はそう簡単に変わるものではありません。乱歩の場合もけっして一変したのではなく、せいぜい地と柄が入れ替わったといった程度のことであったはずです。
 しかし、他人の眼にもそれとわかるほど乱歩が社交的になり、探偵小説界のリーダーとして振る舞い始めた、その変貌をもたらしたものは、やはり昭和10年前後を起点とする自己確認への意志であり、その結果訪れたであろう自己受容であったと考えるべきでしょう。戦後の乱歩は、昭和10年代という短からぬ時間をかけて彼自身になった乱歩、とでも呼ぶべき人格ではなかったかと愚考されます。
 あまり要領を得ない、それこそ歯切れの悪い説明になってしまったのを遺憾としますが、きょうはこういったところです。


●2月11日(日)
 ジードが『一粒の麦もし死なずば』の執筆に着手したのは1916年、四十六歳のときでした。この大胆な自己告白の書に、乱歩はいたく感銘を受けたようです。むろん一人アンドレ・ジードのみならず、宗教的社会的抑圧に抗して同性愛を讃美した海彼の並み居る文学者たちに対し、乱歩は率直な畏敬の念を表明しています。「サイモンズ、カーペンター、ジード」では、「同性愛心理の所有者」たる文学者を列記したあと、

これらの人々の内その情熱の最も烈しかった作家はJ・A・サイモンズとエドワード・カーペンターとアンドレ・ジードの三人で、三人はそれぞれ同性愛の弁護──というよりはむしろ讃美の、真面目な著述を出版している。同性愛禁遏〔きんあつ〕の甚しいキリスト教国で、こういう出版を企てることは、われわれにはちょっと想像のできない情熱と勇気を要することであるが、それにもかかわらず、これらの人々は、そういう著述をしないではいられぬ気持があった。

 と述べていますが、この随筆は自伝「彼」の連載第一回と同じく昭和11年12月に発表されていますから、ここには乱歩が「彼」に示そうとした「情熱と勇気」、あるいは「そういう著述をしないではいられぬ気持」が反映されているのかもしれません。ついでに記しておくと、この「サイモンズ、カーペンター、ジード」には、「作品の裏を流れている彼の同性愛心理」を知らなければジードを理解することはできない、といった意味のことが記されていますが、これはそのまま乱歩自身にもあてはまります。欧米の文学者が描いた、あるいは垣間見せた同性愛心理に、乱歩は自分自身の似姿を見ていたわけです。
 ところで、「彼」にはこんなエピグラフが附されています。

「僕は皆と同じでないんだ、僕は皆と同じでないんだ」十一歳のアンドレ・ジードは母の前に啜り泣きながら絶望的に繰り返した。──「一粒の麦もし死なずば」

 これは正確な引用ではありませんので、新潮文庫『一粒の麦もし死なずば』(堀口大學訳)から当該箇所を引いておきましょう。住み慣れたアパートを去る少年時代の一シーンを記述するにあたり、「自分の麻痺状態にあった当時の精神を一瞬動揺させて通った二つの光輝、二つの飛躍」を語った文章です。

 第二の身ぶるいはより以上奇怪である。数年後、父の死の直後のこと。つまり僕は十歳になっていたわけだ。舞台はまたしても朝の食事の食卓だ。ただし、今度は、母と僕とは差向いの二人きり。その朝、僕は学校へ行ってきたのだった。何ごとがあったものか? 何ごともなかったものらしい……。それなのになぜ僕は、急に泣きくずれて、母の膝に倒れ、すすり泣いたり、痙攣〔ひきつけ〕たりしたのだろうか。あの幼い従弟が死んだときとまったく同〔おんな〕じな、あの説明しがたい苦悶を感じたものらしかった。とにかく、僕のうちにある見知らぬ海の特別な閘門〔こうもん〕が急に開きでもしたかのように、波が僕の心の中におびただしく流れこんでくるのだった。僕はさびしいというよりむしろ恐ろしかった。だが、僕がすすり泣きながら絶望的にくり返しているつぎの言葉を、わずかに聞くだけの母に、どうしてこれを説明することができよう?
 「僕は皆と同じでないんだ! 僕は皆と同じでないんだ」

 乱歩はこの言葉から、同性愛者の苦悶、異端者の悲しみ、人外の絶望を明らかに聴き取って、それこそ「身ぶるい」を覚えたものと想像されますが、それは別としても、ジードが「少年」の姿をなまなましく暴き出してみせたこと自体にも感銘を受けたのではないかと考えられます。つまり乱歩にとっての自己確認は、必然的に自身の「少年性」を発見する作業でもあったと愚考される次第です。

 何の関係もない話題ですが、きのうの「朝日新聞」に google という検索エンジンを紹介する記事が出ていました。さっそくアクセスしてみたのですが、迅速的確な検索ぶりにいささか驚かされました。一度お試しください。

google


●2月10日(土)
 昭和10年ごろの乱歩の文業には、「探偵小説への情熱」のほかにもうひとつ、「自己確認への意志」とでも呼ぶべきものもまた見え隠れしています。列挙してみましょう。
 昭和10年12月には「幻影の城主」。
 昭和11年には7月に「レンズ嗜好症」、9月に「衆道もくず塚」、10月に「活字と僕と」、12月に「サイモンズ、カーペンター、ジード」、12月から翌12年4月までは「彼」。
 これらにはいずれも幼少年期の回想または同性愛の考察が織り込まれ、乱歩が自身の内奥深く測深器を降ろしている趣が感じられます。なかでも「彼」は三人称に仮託した自伝の試みで、「人は生涯のある時期に一度は、その祖先に興味を持つものである」という、なんだか近代的大都市を彷徨する出自不明の遊歩者たるべき探偵小説作家には似つかわしくない文章で書き始められ、しかし連載四回であっさり中絶されるに至った作品です。中絶の理由は、『探偵小説四十年』にこう記されています。

 自伝の「彼」はアンドレ・ジイドの「一粒の麦」を読んで、生意気にも、自分もああいう自己研究をやって見たいと思っているところへ、「ぷろふいる」編集者から、毎号連載の随筆をやかましく催促されたので、それを書いて見る気になったのだが、相当勇気をふるったつもりでも、幼年期性慾の一つの出来事を書く順序になったときに、パッタリ行きつまってしまった。恥かしくて書けないのである。私がもし、命がけで純文学をやっている作家だったら、それがやれたかも知れないのだが、そういう命がけのものではなかった。一つの遊戯としてはじめたものである。又、初期の数年をのぞくと、全くの売文業者になっていたのだから、自伝だけで、生まじめな性慾懺悔にまで及ぶことが却って気恥しくなるという、そういう意味の恥かしさであった。

 つまり乱歩の、自伝を書いてみたい、自己研究をやってみたいという願望は、「生まじめ」で「命がけ」であることを必要とするほど切実なものだったということでしょう。昭和10年といえば、乱歩は四十歳から四十一歳、いわゆる「人生の半ば」のまっただなかにいたわけですから、この時期の「自己確認への意志」にはやみがたいものがあったと推察されます。

 ところで、私の体調をご心配くださっている方がおありのようで、お礼を申しあげます。たいしたことはないみたいです。ご放念ください。それから、「ダ・ヴィンチ」3月号をご覧になった方から「おまえのどこがハードボイルドだというのだ」というお叱りのメールを頂戴しましたが、お説たしかにごもっとも。私はどちらかといえば高野豆腐のごとき人間で、いくらボイルしてもとてもハードにはようなりません。巻きずしにでもご利用ください。


●2月9日(金)
 江戸川乱歩データベース三点セットは昭和19年までの掲載・再掲載が終了し、リニューアル前より公開情報量が多くなりました。
 さて、昭和10年代の乱歩について。
 とつづけたいところですが、体調がいまだ本復しておりません。人に厳しく自分に優しく、ですとか、無駄なことはするが無理なことはしない、ですとか、私の座右の銘はだいたいがそういったことでありますので、けっして自分を鞭打つことなく、絶対に無理はせず、きょうも休養に努めたいと思います。
 ではまたあした。


●2月8日(木)
 どうもいけません。風邪にやられたようです。調子が出ません。頭がぼんやりしています。七福神の船が見えます。うわごとです。


●2月7日(水)
 本とコミックの情報誌「ダ・ヴィンチ」3月号(メディアファクトリー発行、定価四五〇円)がきのう発売されました。先月10日、有栖川有栖さんが同誌の取材で名張市までおいでくださったことは先にお知らせしましたが、その取材に基づいた「有栖川有栖ミステリー・ツアー」の連載第十四回「三重県・名張市」が掲載されています。
 取材当日、私は有栖川さんに馬鹿なことばかり喋ってしまい、あとでおおいに反省した次第なのですが、記事のなかの私は二日酔いなど気振も見せず、なかなかしっかりしたことをお話し申しあげたようにお書きいただいております(あるいは、なかなかしっかりと大風呂敷を広げている、と申しあげるべきでしょうか)。
 そんなわけで「ダ・ヴィンチ」3月号、どうぞお買い求めください、と同誌編集部になりかわってお願いしておきます。とともに、有栖川有栖さん、カメラマンの川口宗道さん、同誌編集部の岸本亜紀さんに、あらためてお礼を申しあげます。またおいでください。清風亭で盛りあがりたいと思います。
 さてその記事に、こんなくだりがあります。桝田医院という私立病院の敷地内に建つ江戸川乱歩生誕地碑を訪ねたシーンです。

 静かだった。第二医院は現在は使われていないようで、閉ざされた扉の把手には「無理に手で締めないで」というプレートが。「締めないで」は「閉めないで」の書き間違いだろうか? 「無理に手で」というのも、何だか乱歩チックに怪しくて、私は笑いをこらえられない。「変ですよね」「変です」とみんなで言い合った。

 「たしかに変です」
 と私も申しました。それまで何度となく眼にしていたのですが、そのプレートが変であるということに、私はそのとき初めて気がついたのでした。さすがにミステリ作家の眼は鋭い(あるいは、変なものに敏感である、と申しあげるべきでしょうか)。「ダ・ヴィンチ」3月号にはそのプレートの写真は掲載されていないのですが、こんなこともあろうかと(どんなことだというのでしょう)、私は持参していたカメラで問題のプレートを撮影しておきました。ご覧いただきましょう。

桝田医院の怪しいプレート

ダ・ヴィンチホームページ


●2月6日(火)
 とはいえ小説の方面にも、乱歩の「探偵小説への情熱」を垣間見ることは可能でしょう。
 昭和11年1月、「緑衣の鬼」の連載が始まります。これは周知のとおり、井上良夫から原書を借りて読んだ「赤毛のレドメイン」を下敷きに、乱歩自身の言によれば「あの名作を一層通俗的に、また、私流に書き直した」作品ですが、昭和10年5月に連載が終了した「人間豹」に比較すると、娯楽雑誌を舞台とする作家乱歩が「探偵小説への情熱」によって活力を恢復したらしいことがうかがえる長篇です。
 乱歩は「緑衣の鬼」について、フィルポッツ作品から「犯罪の動機と大筋」を借り、「
飜訳小説の片仮名の名前には親しめないというような読者のために書いた」と述べています。乱歩はそれまでにも涙香作品の翻案を手がけていましたが、それはかつて一世を風靡した通俗的小説のリライトでした。「緑衣の鬼」のように、みずから傑作と評価した海外の本格作品を娯楽雑誌の読者に向けて翻案することは、乱歩にとって新しい試みだったといえます。本格長篇を構想する能力の欠如がもたらした苦しまぎれの手法ともいえますが、ここに私は「探偵小説への情熱」を見たいと思う次第です。
 『探偵小説四十年』には、「探偵小説十五年」のこんな記述が引かれています。

日本の探偵小説界には、大ざっぱにわけて二つの性格がある。一つは英米風の探偵小説プロパーをのみ愛するもの、私の言葉でいえば探偵小説の鬼に憑かれたもの、もう一つは謎やトリックを軽蔑し、犯罪と怪奇を採り入れた普通の小説に近いものを愛する性格であって、作者も読者もその数において後者の性格の方が段ちがいに多いのだが、〔後記、そこに日本では純探偵小説同好者の稀少性があり、その稀少性を珍重する気持が私にはあったし、今でもあるのだ〕夢野君はその後者の一方の端にいた作家であった。

 この「探偵小説十五年」の文章が書かれたのは昭和13年のことですが、たぶん昭和10年、「探偵小説への情熱」が勃然として起こった時点で、乱歩にはふたつの諦念があったと思われます。ひとつは、自分には英米風の本格長篇は書き得ないこと。もうひとつは、日本の多くの読者には本格探偵小説本来の面白味は理解され得ないこと。このふたつの諦念のうえに立って、つまりみずからの資質と読者の嗜好とを充分に認識したうえで、それでも鬱勃たる「探偵小説への情熱」に背中を押されて百万読者のために執筆した作品、それが「緑衣の鬼」であったと思われる次第です。


●2月5日(月)
 訂正です。きのう「石榴」の発表年を昭和10年と記しましたが、あれは昭和9年の誤りです。きわめて初歩的なミスです。穴があったら入りたいと思います。とにかく訂正しておきます。「人外境主人伝言録」の当該箇所にも訂正を加えました。
 もう一度整理しますと、昭和9年の「悪霊」と「石榴」で落ち込んでしまった乱歩は、しかし井上良夫との文通によって「本格探偵小説への情熱」をかきたてられます。みずから振り返るとおり、それは「書く方のでなく、読む方の情熱」ではあったのですが、昭和10年から11年にかけての「鬼の言葉」の連載、昭和10年の『日本探偵小説傑作集』の編纂、昭和11年から12年にかけての『世界文芸大辞典』の執筆といった文業に、そうした情熱は明らかに示されているように思われます。あるいは、昭和13年から14年にかけて発表した「探偵小説十五年」も、単なる回想記ではなく、パイオニアであったみずからを固定した視点として本邦探偵小説界の“歴史”を記録しようとする試みだと見れば、やはりそうした情熱の発露のひとつと判断できるかもしれません。
 『探偵小説四十年』の昭和10年の項には、「探偵小説十五年」から引いた文章に次のような「註」が加えられています。

註、私はそのころから、自分の創作はほうっておいて、西洋の作品輸入の仕事に熱中する癖があった。自分で書けないので、「せめても」という気持もあったのだろうが、当時から、私は小説家の立場を捨てて、単なる探偵小説愛好家の立場に転身した形があった。それが第二次大戦後には、エラリー・クイーンがやはり世界の短篇探偵小説の蒐集批判と、傑作集編纂に熱をあげていることを知ったので、そういう同類もあるのだという安心感のようなものも作用して、一層西洋探偵小説の渉猟と紹介に力めたわけである。だから、第二次大戦後の私の仕事も、やはり作家の立場ではなくて、愛好家の立場にすぎなかった。そして、そういう愛好家、研究家への転身は、実はこの昭和十年のころから始まっていたわけである。

 昭和10年は自分にとって画期的な年であったのだと、乱歩は振り返っているわけです。あすにつづきます。


●2月4日(日)
 江戸川乱歩データベース三点セットも昭和17年まで掲載・再掲載が進みました。
 
さて昭和10年代の乱歩ですが、昭和9年、記述者イコール犯人という大トリックだけを恃みに連載した書簡体作品「悪霊」が余儀なく中絶に立ち至り、その汚名をそそぐつもりもあったのでしょう、天下の「中央公論」から慫慂を受けて勇躍発表した「石榴」が一般文壇の不評と探偵文壇の黙殺とに迎えられて、乱歩は探偵小説作家としてかなり落ち込んだだろうと思われます。海彼からはすでに欧米の新しい潮流、つまりヴァン・ダインに代表される「際立つて論理的な作風」が伝えられていましたが、みずからの資質に照らして考えれば自分にはとても本格長篇なんか書けないやろなという諦念もまた、乱歩のなかには生じていたと判断されます。もっとも、名古屋に住んでいた井上良夫との文通を通じて英米作品への興味を喚起されたのもこの時期のことで、フィルポッツの「赤毛のレドメイン」を井上から借りた原書で読み、「私の中の本格探偵小説への情熱が勃然として沸き起った」のも、やはり昭和10年のことでした。
 短くて恐縮です。あすもつづけます。


●2月3日(土)
 本日はこれといってお伝えするべきことがありません。というかネタが思い浮かびません。というかあまり時間がありません。というか二日酔いです。それでは。


●2月2日(金)
 岡戸武平の話です。
 
武平には『不木・乱歩・私』という著作があります。タイトルからも知られるとおり、小酒井不木と江戸川乱歩と岡戸武平の三人が人生の軌跡を交錯させた、そのゆくたてが綴られた一冊で、昭和49年7月、稲垣足穂とも親交のあった亀山巖が「名古屋豆本」というシリーズの第三十二集として刊行しました。発行は限定三百部。縦10.1センチ、横7.2センチの、トランプほどの大きさの本です。
 「乱歩は終生小酒井不木を“先生”と呼んでいた」とか、博文館に入った武平は「文芸倶楽部」編集部で乱歩担当となり、「猟奇の果」の原稿を催促するため足繁く乱歩邸に通ったとか、武平の父親は「永久運動の発明に生涯を費した」人物であったとか、興味深い記述が多いのですが、武平の「作家生活」が明かされたところから引きましょう。

中でも江戸川乱歩の代筆は、忘れた頃に印税が入るので大いに役立った。これはもう時効になっているから発表してもいいと思うが、講談社発行の児童向きの「鉄仮面」と、新潮社が書きおろし全集として出した探偵小説集である。もちろん乱歩全集には、これらの代筆ものはすべて除外されている。

 新潮社から出た代作とはいうまでもなく『蠢く触手』ですが、講談社の『鉄仮面』が武平の代筆によっていたことを、私はこの本で初めて知りました。いや、私は以前この本のコピーに眼を通したことがありますから、その時点で『鉄仮面』に関する記述にも触れていたはずなのですが、それきり失念してしまっていたようです。しかしこうして代作者がふたたび判明したのですから、今度は「江戸川乱歩執筆年譜」の昭和13年のページにその旨しっかり明記しました。

 以上、どうしていまごろ『不木・乱歩・私』について記したのかというと、ほかでもありません。先日、初めてお会いした、りえぞんさんから、いきなりこの本を気前よくご寄贈いただいたからです。私は驚倒しました。以前必要があって探したときも現物は眼にすることができず、名古屋にお住まいの研究者の方からコピーを拝借して急場を凌いだような次第。まさか本物の『不木・乱歩・私』を手にできるとは夢にも思っておりませんでした。りえぞんさんにはあらためてお礼を申しあげます。
 ちなみにこの本、どこかのブックオフでわずか五百円で投げ売りされていたとのことで、りえぞんさんいわく、
 「ブックオフ、あなどりがたし」


●2月1日(木)
 信頼できる消息筋によれば、きのうの「毎日新聞」東京都内版夕刊に、

「乱歩記念館」を断念
   豊島区、財政ひっ迫で

 との見出しが躍ったそうです。この件に関しては1月6日、「乱歩記念館貼雑記録」なる一文を「人外境奇談」にアップロードして非公式情報を流した次第ですが、この毎日の記事によって豊島区の記念館断念は公式にアナウンスされたことになります。取り急ぎファクスで入手した紙面から、笠井光俊記者による記事の一部を引きましょう。

 日本を代表する探偵小説家、江戸川乱歩の旧宅(東京都豊島区西池袋5)を乱歩の記念館として整備することを検討していた豊島区は31日までに、財政状況のひっ迫を理由に計画を断念した。遺族は「資料を散逸させないため、別の手だてを考える」としている。

 豊島区の判断は次のとおり報じられています。

 区側も積極的に検討を進めたが(1)建物が古く、土蔵には防火・耐火構造がないなど、現状では防災面で一般公開できない(2)いったん解体して再現し、併せて資料収蔵庫など博物館的諸設備を整備すると少なくとも10億円の出費が必要──などが分かった。高野之夫区長の強い意向により経費を抑えて実現する方策を検討してきたが、「現在の区の財政状況では対応できない」と判断した。

 こうなると乱歩邸ならびに乱歩の蔵書の保存管理活用公開に関して乱歩生誕地であるわが名張市が全国一千万乱歩ファンの期待を一身に担うことになるわけですが、しかし名張市は名張市で、またいろいろとありまして……。