2001年4

●4月30日(月)
 ついでですから同時性にも触れておきます。ひきつづき河合隼雄さんの『ユング心理学入門』(1967年、培風館)から、「自己」という章を引用します。

 自己実現における重要な時において、われわれはしばしば、不思議な現象に出合うことがある。それは偶然にしては、あまりにも意味の深い偶然と考えられる現象が起こるのである。(……中略……)このような「意味のある偶然の一致」(meaningful coincidence)を、ユングは重要視して、これを因果律によらぬ一種の規律と考え、非因果的な原則として、同時性(synchronicity)の原理なるものを考えた。つまり、自然現象には因果律によって把握できるものと、因果律によっては解明できないが、意味のある現象が同時に生じるような場合とがあり、後者を把握するものとして、同時性 シンクロニシティー ということを考えたのである。

 乱歩に関していえば、たまたま投宿したホテルに美少年のボーイを発見した昭和9年の偶然は、同時性の一例に数えることのできるできごとであったのかもしれません。


●4月29日(日)
 そういった次第で、話題は個性化だの自己の実現だのという問題に至りました。例によって河合隼雄さんの『ユング心理学入門』(1967年、培風館)をひもとき、「自己」という章から引用します。

ユングは早くから意識と無意識の相補性に注目し、心の全体性(psychic totality)について強い関心をもちつづけてきた。その考えを最も端的に示すのが、彼による自己 セルフ(self、Selbst)の概念である。実際、これはユングの心理学の核心をなすものといってよく、彼はその生涯をかけて、この問題と取り組んだといっても過言ではない。

たとえば、内向と外向、思考と感情、ペルソナとアニマ(アニムス)等は互いに他と対極をなし、相補的な性格をもっている。人間の心がこれらの対極の間のダイナミズムに支えられて、一つの全体性・統合性をもっていることは、ユングがつねに注目してきたところである。もっとも、われわれの意識も自我(ego)を中心として、ある程度の安定性をもち、統合性をもっている。そして、このためにこそ、われわれは一個の人格として他人に認められているわけである。しかしながら、その安定した状態に人間の自我はとどまることなく、その安定性を崩してさえ、より高次の統合性へと志向する傾向が、人間の心のなかに認められる。

個人に内在する可能性を実現し、その自我を高次の全体性へと志向せしめる努力の過程を、ユングは個性化の過程(individuation process)、あるいは自己実現(self-realization)の過程と呼び、人生の究極の目的と考えた。

われわれの意識の状態が一つの安定したものであっても、それを突き破り、そして結局は高次の統合性へと導く過程が、われわれの心のなかに生じてくる。この際、そのような働きを、もはや意識の中心としての自我に帰することはできない。つまり、意識の状態は一応安定しており、なんら自我の力によって変更する必要が認められないからである。(……中略……)その意識を超えた働きの中心として、ユングは自己なるものを考えたのである。自我が意識の中心であるのに対して、自己は意識と無意識とを含んだ心の全体性の中心であると考えた。自己は意識と無意識の統合の機能の中心であり、そのほか、人間の心に存在する対立的な要素、男性的なものと、女性的なもの、思考と感情などを統合する中心とも考えられる。

自己実現の過程における自我の役割の重要性について、ユングは「自我の一面性に対して、無意識は補償的な象徴を生ぜしめ、両者間に橋渡しをしようとする。しかし、これはつねに、自我の積極的な協同態勢をもってしなくては、起こりえないことに、注意せねばならない」と述べている。すなわち、まず自我を相当に強化し、その強い自我が自ら門を無意識の世界に対して開き、自己との相互的な対決と協同を通じてこそ、自己実現の道を歩むことができるとするのである。

 どうも堅苦しい話題で、そのうえ引用ばかりで申し訳ありません。念のために申し添えますと、私は昭和10年前後の乱歩における少年なるものの意味をふとした思いつきに基づいてユング的視点から考察してみるという泥沼にずぶずぶはまりこんでいる次第です。一連の引用も乱歩のことを念頭に置いてお読みいただければ幸甚です。乱歩とは何の関係もない、という可能性もあるのですが。


●4月28日(土)
 世間ではきょうからいわゆる大型連休ということになっていますが連休前に片づけておくべき仕事をちょっとだけ持ち越してしまったせいで本日は早朝から大童。お昼ごろまで手を取られますのでけさはご挨拶だけで失礼いたします。まことにどうも相済みません。


●4月27日(金)
 二日酔いで頭がひどくぼんやりしていてものごとを深く考えられる状態にありません。仕方ないので「日本推理作家協会会報」4月号に発表された第五十四回日本推理作家協会賞候補作品をご紹介して責を塞ぎます。最終選考は5月9日に行われます。

 長編および連作短編集部門
東直己「残光」
佐藤多佳子「神様がくれた指」
柴田よしき「フォー・ユア・プレジャー」
石田衣良「少年計数機」
菅浩江「永遠の森」
 
短編部門
金城一紀「サバイバー」
草上仁「サージャリ・マシン」
翔田寛「奈落闇恋乃道行」
山本一力「端午のとうふ」
 
評論その他の部門
井家上隆幸「20世紀冒険小説読本」
小倉孝誠「近代フランスの事件簿」
都筑道夫「推理作家の出来るまで」
宮永孝「ポーと日本 その受容の歴史」

 既読の作品は一篇もありません。初めて眼にするタイトルがほとんどです。誰やねん、と呟かざるを得ない方も複数いらっしゃいます。『推理作家の出来るまで』と『ポーと日本 その受容の歴史』はともに乱歩文献なのですが、なぜかいまだに買いそびれております。ああ頭が痛い。


●4月26日(木)
 けさは比較的早く起きられたのですが、ユングの本を読み返したりインターネットで元型だの永遠の少年だのといった言葉を検索しているうちに時間がたってしまいました。本日のところはユングの『続・元型論』(林道義訳、1983年、紀伊國屋書店)から引用することにいたします。少年の姿をした元型、つまり童児元型について、ユングはこんなふうに説いています。

 童児モチーフの本質的な性質の一つは、その未来的性格である。童児は未来の可能性である。それゆえ、個人の心理に童児モチーフが現われるということは、たとえそれが初めは後ろ向きの姿に見えようとも、一般的には未来の発展の先取りを意味している。人生とはまさに流れていくことであり、未来への流れであって、せき止めて逆流させることではない。それゆえ、神話の救い手がそれほどしばしば童児神であることは、驚くに当たらない。それは、個々人の心の中で「童児」が未来の人格変容を準備するという経験と、正確に一致している。童児は個性化過程において、意識的な人格要求と無意識的なそれとの総合 ジンテーゼ から生まれる形姿の先ぶれである。それゆえそれは対立を結合するシンボルであり、調停者、救い手、すなわち全体性を作る者である。

 個性化の過程で対立を結合し、未来の人格変容を準備する、なんていわれると、やはり昭和10年前後の乱歩のことが連想されてくる次第です。

 さて4月14日土曜の夜、三十数年ぶりに復刊された三角寛の『サンカ社会の研究』にまつわる感慨を抱きながら酔っ払ってふらふら帰宅した私は、郵便物のなかに大きな書籍小包を見つけました。なかに入っていたのは、岡山県の津山洋学資料館が発行した『学問の家 宇田川家の人たち』という本でした。五十数年ぶりに復刊された、これは亡父の著作です。

学問の家 宇田川家の人たち


●4月25日(水)
 無意識は意識に対して相補的である、とユングは考えていました。その相補的な働きかけは、一般には夢によるメッセージという形をとります。意識は外界からさまざまな影響を受け、ときに混乱したり判断を誤ったりしますから、無意識は夢のなかでそれを警告し、心全体の平衡性を回復させようと試みます。たとえば、非現実的な理想や、自分自身に関してあまりにも高すぎる評価を抱く人、みずからの能力には不釣り合いな誇大な計画を立てる人は、空を飛んだり墜ちたりする夢を見るものであるとユングは説きますが、それは無意識が意識に対してメッセージを発し、夢のなかで人格の欠陥を補償したり現在の状況が危険なものであることを警告したりしていることのあらわれであるとされます。ちなみに私は、じつに頻繁に、飛んでいる夢や高いところから墜ちる夢を見るタイプの人間です。そんなことはともかくとして、きのうのつづきでいいますと心像もまた、無意識が意識に対して働きかけるメッセージにほかなりません。ちょっと短いですけれど、きょうはここまでといたします。毎晩だらだらとお酒を呑みすぎるせいか、このところ起床が遅くなりがちで困っております。


●4月24日(火)
 河合隼雄さんの『ユング心理学入門』(1967年、培風館)から、きのうにひきつづいて引用します。「心像と象徴」という章の、「あるいは、その本人は、なかなか仕事が手につかなかったり、何をしてよいかわからない状態となって、強い焦りや、いらいらした気分におそわれるかもしれない」という一節のつづきです。

このときの退行現象が強く、あまりにも自我がそれに耐えられないときは、注目すべき相互反転(enantiodromia)が生じて、そのひとの態度が逆転するだけで、何ら創造的とはいえない。思考型のひとが急に感情的になったり、内向的なひとが急に外向的にふるまったりしても、それは急激な変化ではあっても、創造的とはいいがたい。これに対して、このような強い退行現象が起こり、自我はその機能を弱めながらも、それに耐えて働いているとき、無意識内の傾向と自我の働きと、定立と反定立を超えて統合された心像が現われてくることがある。このように統合性が高く、今までの立場を超えて創造的な内容をもつものが象徴であり、このような象徴を通して、今まで無意識へと退行していた心的エネルギーは、進行(progression)を開始し、自我は新たなエネルギーを得て再び活動する。このような象徴を形成する能力が人間にあることをユングは重要視し、これを超越的機能(transcendent function)と呼んでいる。

 ちなみに「退行」については、ユングが「無意識内に、肯定的・創造的な源泉のあることを認めたこと、したがって、退行のもつ肯定的な面を重視したことは十分に注目すべきこと」であり、「ユングは、退行の現象を病的なものと正常なものとに分けて考え、そして、創造的に生きるためには、むしろ、正常な範囲での退行が必要と考えていたのである。もちろん、無意識に対しても、その破壊的な面や醜悪な面の存在を認め、その上で、そのなかに建設的な源泉となるものの存在を認めてゆこうとしたのである」とされます。もうちょっと引きましょう。

われわれの意識の体系は明確な概念によって組み立てられ、それ自身一つのまとまりをもっているものではあるが、それがつねに生命力にみち発展してゆくためには、心のなかのより深い部分とつながり基礎づけられていることが必要である。このように考えると、心像は、自我に対して心のより深い部分から語りかけられる言葉であり、これによって、自我が心の深い部分との絆を保つことができると考えられる。そして、その内容が高い統合性と創造性をもち、他のものでは代用しがたい唯一の表現として生じるときを象徴ということができる。

 きのうも記しましたが、私はみずからの印象を整理し確認することを目的に、毎日かくのごとく引用の多い(私は引用が大好きなのですが)文章を綴っている次第です。律儀におつきあいいただいている方には心からお礼を申しあげます。

 三角寛『サンカ社会の研究』の復刊に端を発した話題は、時間がなくなりましたので本日はお休みといたします。


●4月23日(月)
 昭和10年前後、乱歩の心に少年の心像が生じたのではないかというのは、もとより私の単なる印象にしか過ぎません。しかし、当時の乱歩が危機的状態にあったことはたしかであり、まさしくそうした時期に、乱歩の内部で少年のイメージが鮮やかな生彩を放ち始めたこともまた疑い得ないように思われます。そこでこの機会に、数年来自分が抱いてきた印象を一度整理してみようと、ユングの著作なども毎朝ぱらぱら読み返しながら、私はこうして日々のよしなしごとを綴っている次第です。
 とはいえ、そもそもユングの理論を正確かつ平易に説くことなど私の手には余る作業ですから、きょうは河合隼雄さんの『ユング心理学入門』(1967年、培風館)の「心像と象徴」という章から引用することにいたします。

たとえば思考機能を主機能とする思想家が、その思考力に頼って自分の思想をまとめ表現してゆく。しかし、あるときになると、自分の考えが非常につまらないことに思え、それに対して何か重要なものが欠けていると感じる。つまり今まで無視されていた感情機能が動きはじめ、その整った思考の形のなかに感情の火を入れなければならぬときがきたのである。このとき、このひとが自分のなかの無意識的な感情の動きを抑圧し思考を続けると、問題は生じないが、しかしそれはあまり創造的なものではなくなるだろう。ここで、もしそのひとが、自分の内心に動いているものにも忠実に生き、しかも今まで獲得してきた思考機能をすて去らないときは、ここに思考と感情との強い対立により、彼はもはや思索を続けられなくなる。このとき、心的エネルギーは退行して無意識に流れ込むので、このときに外に現われる彼の行動は、思索をやめて馬鹿げた空想にふけっている状態や、ときに幼児的な行動や衝動的な行動として見られるかもしれぬ。あるいは、その本人は、なかなか仕事が手につかなかったり、何をしてよいかわからない状態となって、強い焦りや、いらいらした気分におそわれるかもしれない。

 まだつづきますが本日はここまでとして、この一節は私にはやはり乱歩を連想させます。たとえば、張ホテルで終日ぼんやりと窓の外の往来を眺めていた乱歩の姿を。

 さて私は4月14日土曜、大阪で三角寛の『サンカ社会の研究』を購入し、最終かその一、二本前の近鉄特急に乗って名張に帰りました。酔った眼で三浦大四郎さんの「復刊にあたって」を読み、親と子の確執(その確執は、三角寛の一人娘であり大四郎さんの奥さんであった三浦寛子さんの『父・三角寛──サンカ小説家の素顔』という本に記されているらしいのですが、わたしはそれを読みたいとは思いません)の果てに訪れる「和解」という日本的光景に、いたく感慨を覚えながら。


●4月22日(日)
 すべての人の心の奥深いところにある鯛焼きの型のようなもの、それが元型であり、そこからはその型に応じてさまざまな心像が生まれてくる。われわれは元型そのものを意識することはできないが、そこから生じてきた心像を意識で把握することができる。ユングはそんなふうに考えました。そして私には、昭和10年前後、乱歩の心のなかには元型から発生した少年の心像がくっきりとした像を結んだのではないかとなんとなく、本当になんとなく思いなされていたのでした。ここ数年のあいだ。

 きのうはうっかり忘れてしまっていた、三角寛サンカ選集『サンカ社会の研究』の話題です。著作権継承者の三浦大四郎さんがこの本の復刊を拒んでいた理由には、三浦さんご夫妻と三角寛との根深い確執以外にも、記述内容そのものの問題がありました。
 
三角寛は「サンカ学者である以前に、サンカ小説家であった」と断言する三浦さんは、「三角寛のごく身近で約二十年間、密着して生活してきた私にしてみれば、学術書としては、いささか首をかしげるような記述もあり、といって、サンカを研究するためには、他に文献がほとんどないに等しいので、本書を何らかの手がかりとして考察を加えざるをえない、という意見もわからないではない」として、「現代書館が、本書を復刊するにあたり、著作権継承者としては、苦悩の選択と申しあげるほかない」と「復刊にあたって」を結んでおられます。
 もっとも、復刊された『サンカ社会の研究』には、沖浦和光さんによる丹念な「解題」が収録されていて、三角寛によるサンカ論への徹底した批判がくりひろげられていますから、この本が五木寛之風ないしは佐治芳彦流のサンカ観をだらだら蔓延させる心配はさほどないのではないかと思われます。
 もっとも、沖浦さんのように文献資料だけに依拠してサンカを論ずる態度にも、じつは問題なしとはいえぬようにも愚考されるのですが、このあたりの仔細は今秋刊行されるという沖浦さんの『幻の漂泊民・サンカ──その実像と虚像』(文春新書)に俟ちたいと思います。
 ちなみに沖浦さんは「解題」において、サンカの起源をこのように説いておられます。すなわち、「サンカの発生は幕末期の社会的大変動期に、その変革の大波をもろに受けた農山村で発生した『無宿』『さまよいありく徒』が源流になったのではないか」と。


●4月21日(土)
 話題は旧に復します。
 フロイトと訣別したあとの危機的な時期に、みずから「無意識との対決」と呼ぶ内的な体験を重ねながら、ユングは「内的な経験の内容が真実のものであり、それは私自身の個人的経験としてだけではなく、他の人々もまたもっているような普遍的な経験として真実であることを示すこと」の重要性に気づきます。そしてその後半生において普遍的無意識に関する理論を発展させてゆくことになるのですが、とくにこの時期には、自身の空想のなかに登場してくるさまざまな人格像は「心の中に私がつくりだすのではなくて、それらが自分自身をつくり出しそれ自身の生命をもつのだという決定的な洞察」に至り、元型に関する考察を深化させています。
 元型という言葉の意味を、『ユング自伝──思い出・夢・思想』に附された「語彙」から引いておきます。

 元型(archetype、Archetypus) ユングによれば、「元型の概念は……たとえば世界中の神話やおとぎ話が定まった主題をもち、それがあらゆるところに露呈されてきていることについての度重なる観察から引き出されたものである。われわれはこのような同じ主題を、今日生きている人の空想、夢、譫妄、妄想の中に見出す。これらの典型的なイメージや連想は、私が元型的表象と呼ぶものである。それらが生き生きとしたものであればある程、特別に強烈な感情によって色づけられたものとなろう……それらは印象的で、影響力をもち、魅力的である。それらはその起源を元型にもっている。元型は無意識的に先在する形態であり、心の生来的な構造の一部をなすと思われる。従ってそれ自身を何時どこへでも顕現せしめることができる。その本能的な性質の故に、元型は感情に色づけられたコンプレックスの下層にあり、その自律性を共にするものである。」

 archetype に元型という訳語を当てたのは河合隼雄さんですが、河合さんはどこかに、元型とは鯛焼きの型のようなものである、とお書きでした。


●4月20日(金)
 きょうも張ホテルの話題です。
 玉川知花さんがお書きになっていたので読み返してみると、なるほど久世光彦さんの『一九三四年冬─乱歩』には、張ホテルがあったのは「麻布箪笥町」であると明記されています。『探偵小説四十年』には「町名を忘れたが、そのころの麻布区に」とされているだけですから、久世さんはそれこそ昭和9年の電話帳で当たりをつけるか何かして、張ホテルが麻布箪笥町にあったことをつきとめられたのでしょう。
 そういえば、いつだったか平井隆太郎先生にお会いして、館淳一さんの「麻布の不思議な洋館」のことをお伝えしたときも、平井先生は、
 「久世光彦さんも、張ホテルのことを調べたんだけど、どのあたりにあったんだかわかんなかったっておっしゃってましたね」
 とおっしゃってました。
 『一九三四年冬─乱歩』(1993年、集英社)の第一章「張ホテル」から引用しておきます。

 そのころ、その辺りを麻布箪笥町といっていた。溜池から六本木への大通りを挟んで向かいが三井様のお屋敷のある今井町、裏が市兵衛町一丁目、隣りが二丁目である。乱歩は以前からこの辺りに住んでみたいと思っていたので、去年の夏ごろだったか、「新青年」の水谷準を誘って界隈を散歩したことがある。そのとき見つけたのが〈張ホテル〉だった。チェコスロバキアの公使館とフィンランド公使館が向かい合って建っているなだらかな坂の中腹にある、木造二階建ての青い洋館である。桜並木の通りから左に入った露地に、アール・デコまがいの玄関があって、オレンジ色のチューリップの形をした軒燈が昼間から点いていた。

 と書き写していても、土地鑑がまったくないせいでどうにもぴんと来ません。それに、こうなると張ホテルのあった場所をなんとか確定できぬものかとも思ってしまいます。ここはひとつ、「東京ワンダランズ探検記」番外篇として張ホテル界隈を探索していただけぬものかと、「宮澤の探偵小説頁」の宮澤さんにお願いしておきたいと思います。とお名前が出たところで、宮澤さんと乱歩邸の土蔵の話題、あすあたり番犬情報でご紹介することにいたします。麻布探偵団の立花知花さんには、あらためてお礼を申しあげます。


●4月19日(木)
 お話は変わります。
 東京都の玉川知花さんから昨日、麻布探偵団の調査報告をメールでお届けいただきました。館淳一さんの随筆「麻布の不思議な洋館」に基づく現地レポートです。詳細は4月5・6日あたりの伝言録をお読みいただきたいと思いますが、館さんによれば、昭和9年に乱歩が宿泊した張ホテルの建物がいまも(というのは「麻布の不思議な洋館」が発表された1997年の時点での話ですが)現存しているとのことでした。そこで、東京在住の方に麻布探偵団を結成して麻布近辺を探索してくれぬかとお願いしたところ、玉川さんが名乗りをあげてくださった次第です。さっそくご紹介しましょう。

 今日、(一人なんですが)麻布探偵団をしてきました。
 まず都立中央図書館へ行き、昭和9年発行の電話帳にて住所を確定しました。
 「張ホテル 橋本音之 赤坂48-0961 麻、箪笥、六七」
 麻布区箪笥町と言えば『一九三四年冬―乱歩』での張ホテルの所在地です。
 箪笥町は現在の六本木に当たり、67番地は六本木三丁目になるようです。
 ちなみに同じく箪笥町67には当時「チェックスロバキア公使館事務所」がありました。
 『探偵小説四十年』では「チェコスロヴァキア国の公使館のすぐそば」とありますが、当時、公使館は「麻、霞、二二」つまり麻布区霞町22(現在の西麻布三丁目)にありました。
 館淳一さんは西麻布在住のようですので、公使館の場所から「不思議な洋館」を張ホテルと判断したのではないでしょうか。
 ちなみにこちらの不思議な洋館は「旧芳澤邸」、現在は「CASA DEL JAPON(カサデルハポン)」という名前で営業しているレストランだと思われます。
 旧芳澤邸は元中国大使公邸でもあり、また旧「永大資易」ともありますから、館さんの書いている話と一致します。
 ここまで確認したというのに、結局のところ張ホテルが現存しているかどうかは確認できませんでした。
 箪笥町67に当たる場所を小一時間ほど探索してみたのですが……

 以上です。いささかややこしいので、関連する建物の名称と場所を整理してみます。

張ホテル………………………………麻布区箪笥町六七……六本木三丁目
チェコスロバキア公使館事務所……麻布区箪笥町六七……六本木三丁目
チェコスロバキア公使館……………麻布区霞町二二………西麻布三丁目
不思議な洋館(旧吉澤邸、現レストラン)…………………西麻布三丁目

 町名の変遷を手許の角川地名大辞典『東京都』で確認しておくと、

箪笥町(明治2年−昭和42年)→ 六本木一・三丁目
霞町(明治5年−昭和42年) → 西麻布一〜三丁目、六〜七丁目

 となります。
 つまり結論は、館さんのおっしゃる「麻布の不思議な洋館」、現在の CASA DEL JAPON はかつての張ホテルではなかったということです。張ホテルは現在の六本木三丁目にあったのですが、CASA DEL JAPON は西麻布三丁目に位置しています。チェコスロバキア公使館とその事務所とが別々に存在していたことが、かかる勘違いの呼び水になったもののようです。
 試みに CASA DEL JAPON のホームページを覗いてみますと、「当店は昭和3年に建てられた元中国大使公邸をレストラン&バーに改装致しました」との説明がありますが、『探偵小説四十年』の張ホテルは「恐らく西洋人が住んでいた住宅をホテルに改造して、それからまた長の年月がたったものであろう」とされていて、昭和9年の時点で相当な年の積もりを経ていたことがうかがえます。この点からも、「CASA DEL JAPON =張ホテル」説は成立しないように思われます。そしてかつての張ホテルは、「長の年月」をさらに重ねたあと、とうの昔に取り壊されてしまったのではないかと判断される次第です。

CASA DEL JAPON


●4月18日(水)
 ユングの自伝を読んでいて乱歩のことを連想したのか、逆に乱歩のことを考えていてユングの自伝が想起されたのか、いまとなってはさだかではありませんが、とにかく人生のなかばでひとつの危機に直面し、宙ぶらりんの状態になりながらみずからの少年期を追体験するユングの姿は、どこかしら乱歩のそれを髣髴とさせます。もとより危機の意味合いも程度も大きく異なってはいるでしょうが、ユングが子供時代の記憶を呼び醒まし、「これらのものは未だ生きながらえている。少年は未だ存在していて、現在の私に欠けている創造的な生命を所有している」と驚きながらも少年期との接触を再確立しようとしたのと同様に、乱歩もまた昭和10年前後、少年期をもう一度体験しようと試みたのではないか。その文業を眺め渡して、私にはそのように判断される次第です。活字、ビイ玉、レンズといったフェイバリットを書き綴ることは、ユングが石で遊んだのにも相似た、「自分の足場を再獲得するため」の行為ではなかったのか、と。

 三角寛の『サンカ社会の研究』が長く復刊されなかった理由は、三角寛サンカ選集第六巻の「復刊にあたって」で、三浦大四郎さんによって明かされています。すなわち、「父・三角寛の晩年の私生活の乱れにより、当時、病に伏していた母が苦しみ嘆き、母の死後、私たち夫婦にも迫害が及ぶに至って、母の無念さを想い、どうしても父を許すことができなかった」せいであると。しかし、三浦さん夫妻も齢を重ねて三角寛の死亡時の年齢を超え、「晩年の父の非行を許し、父のすべてをそのまま素直に受け入れて、父と心から和解する心境に立ち至った」ことから、ここにようやく復刊が許諾されたとのことです。

 お話かわりまして、さる乱歩関連サイトの「赤い部屋」という掲示板で、「押絵と旅する男」でおなじみの凌雲閣、通称十二階を舞台にした映画が話題になっております。話題にしたのは私なのですが、よく考えてみると記憶が曖昧で困っております。ご存じの方はご教示ください。

赤い部屋


●4月17日(火)
 無意識の衝動にみずからを委ねることにしたユングは、次のようなことを体験します。

 先ず最初に心の表層に浮かんできたことは、たぶん私の十歳から十二歳ごろの思い出である。私はそのころ積石の玩具で熱心に遊んだ時期があった。私は、どのようにして小さい家や城を建てたか、びんを使って門や天井をささえる側面をつくったかなどをありありと思い出した。少したってからは、普通の石を使い、しっくいの代りに泥を使ったりもした。これらの構築物は長い間私の楽しみであった。驚くべきことに、この記憶は相当な情動の動きを伴っていた。「あー」と私は自分に語りかけた。「これらのものは未だ生きながらえている。少年は未だ存在していて、現在の私に欠けている創造的な生命を所有している。しかし、どのようにして私はそれに到る道をひらくことができるだろうか。」というのも、成人としての私が、現在から十一歳のときの私にまで橋わたしをすることは不可能のように思われたからである。しかし、私がその時代との接触を再確立しようと欲するなら、私はその時代にかえり、その子どもらしい遊びと共に少年の生活に従事するより他にチャンスはなかった。これは私の運命の曲り角であった。しかし、私は際限のない抵抗の後に、あきらめの気持をもってはじめて、屈服したのである。というのは、子どもの遊び以外になすべきことはないと認めることは、苦しく不面目な経験であったからである。

 ユングはこの少年時代の遊びを、それが儀式であるかのごとく継続します。自問自答してみてもその意義は判明しませんでしたが、「ただ、私は自分自身の神話を見出す途上にあるという内的な確かさがあるのみであった。というのは、この建築遊びは、ひとつの始まりにすぎなかった。それは一連の空想の流れをさそい出し、後になって私はそれを注意深く書きとめておいた」といいます。さらにそのあとも、「何らかの空虚さに立向かうときは、私は絵を描いたり、石に彫刻したりした。そのような体験はすべて、成就されかかっている考えや仕事のための入門の儀式となった」のであり、「自分の足場を再獲得するために私は多くの努力を必要とし、石との接触は私の助けとなった」といいます。
 こうした一連のエピソードは、私にはなんとなく昭和10年前後の乱歩を思い起こさせるものでした。

 お話かわって三角寛『サンカ社会の研究』ですが、この本の巻末には、昭和46年に三角寛が死去したあと長くその復刊を拒んできた著作権継承者が、現代書館の三角寛サンカ選集刊行に際してようやくそれを諒承するに至った経緯が、三角寛の一人娘の婿である三浦大四郎さんによって記されています。


●4月16日(月)
 さてここからが本題なのですが(たいした本題ではないのですが)、内的な不確実感や方向喪失感に襲われたユングは、何らかの方向づけのようなものの必要性を痛感し、過ごしてきた道を振り返りながら自分自身との対話を始めます。しかしそれすら苦痛になって、ついにはただ待つことしかできなくなります。すなわち、「自分の人生を歩み続けながら、自分の空想にしっかりと注意を向けておく」こと、みずからの夢や空想、追想の細部に観察の眼を向けることを心がけるのですが、それでもなお「自分には何も解らないことを改めて認識する」しかないことがわかり、万策尽きたユングはこのように決意します。

 そこで、私は自分に向かって言ってみた。「何も解らないので、ともかく自分に生じてくることは何でもやってみよう」と。かくて、私は無意識の衝動に自分を意識的にゆだねることにした。

 この一節につづくエピソードから、私はやはり乱歩を連想してしまう次第なのですが、いささか長くなりますので、引用はまたあしたということにいたします。

 お話かわって一昨日、14日土曜、大阪へお酒を呑みに赴いたときのことですが、待ち合わせまでの空き時間に書店を覗いたところ、現代書館から出ている三角寛サンカ選集全七巻のうち、この巻だけは購おうと思っていた第六巻『サンカ社会の研究』が並んでいましたので、入手して帰りました。1965年に朝日新聞社から刊行されたこの本は、サンカ研究の基本資料とされるものですが、1981年に出た三一書房の日本民俗文化資料集成第一巻『サンカとマタギ』にも収録されておらず、編者である谷川健一さんの解説には、著作権継承者である三角寛の娘さんとそのご主人から収録の許諾をもらえなかった旨が記されていました。
 ああ。この話題も長くなる。


●4月15日(日)
 といったようなゆくたては、もとより乱歩とは何の関係もないエピソードなのですが、もしも乱歩に行司役を任せたら、軍配は間違いなくフロイトに挙げられていたものと思われます。乱歩は徹底した合理の人、より正確にいえば徹底して西欧的合理の人であろうと努めた人でしたから、怪音の正体を合理的に説明しようとするフロイトの態度こそ乱歩にとって望ましいものであったはずです。そんなことはともかく、二人の仲はついに修復されず、離反は決定的なものになってしまいました。ユングは手ひどい方向喪失感に襲われます。「ジクムント・フロイト」につづく「無意識との対決」の章は、このように始められています。

 フロイトと道を共にしなくなってから、しばらくの間、私は内的な不確実感におそわれた。それは方向喪失の状態と呼んでも、誇張とはいえないものであった。私は全く宙ぶらりんで、立脚点を見出していないと感じていた。

 のちにユングは、人生を前半と後半とに二分して、その移行期にあたる人生のなかば、すなわち40歳前後が人生の後半に至るためのきわめて重要な時期であり、それゆえ問題の発生しやすい危機的な時期でもあると、いわゆる「人生の段階」に関する考えを確立するに至りますが、この理論にはまさしく30代後半で経験したフロイトとの訣別が濃い影を落としています(したがって、ユングは個人的な体験を一般化しすぎているとの批判も提出されています)。この考えはどうも日本人には実感として理解されにくいもののようですが(その理由は、男は会社に身を捧げ女は子育てに身を捧げて生身の自己に向き合うことなく人生のなかばを通過してしまうからではないか、とかつて秋山さと子さんがどこかにお書きでしたが)、しかし人生のなかばを迎えた乱歩がひとつの危機を迎えていたことはたしかだと思われます。と、ようやく乱歩が出てきました。どうもまだるっこしくていけません。


●4月14日(土)
 「私はその後一度も彼とこの出来事について話しはしなかった」とユングは記していますが、『ユング自伝──思い出・夢・思想』に付録として収録された「フロイトからユングへの手紙」には、フロイトがユングに書き送った次のような一節が見られます。

 親愛なる友へ
 ……私があなたを公式に長男としてわが子に迎え、私の後継ぎとし、皇太子──不信の徒の国における──として塗油式をあげたその日の夜、まさにそのときに、あなたが私の父親としての尊厳を剥奪しようとし、その剥奪は私があなたにしたお仕着せを私が喜んでいるのと同じくらい、あなたにとって嬉しいことのように思えたことは、真に注目に値いすることです。今、私はあなたに対して再び父親の役割にもどり、ポルターガイストの現象についての私の見解を述べなければならないと思います。というのは、これらのことはあなたがそうだと信じたがっていることとは異なることだからです。
 あなたの言ったことや実験が私に強い印象を与えたことを否定するものではありません。あなたが帰った後で、私はあちこち観察をしようと決心し、次のような結果を得ました。私の第一の部屋からは、きしむ音が連続して聞こえてきましたが、そこには二つの重いエジプトの石碑が樫の木の本箱の上にのせてありました。だから事態は明らかです。第二の部屋、そこでわれわれはあの音を聞いたのですが、そこではあのような音はめったに聞こえません。私は最初、あなたがここにいたときにあれほど度々聞こえた音が、あなたが去ってから一度も聞こえなくなったなら、それに何らかの意味を見出そうとしていました。しかし、それはその後何度も起こり、しかも、私の考えとは何ら関係なく、私があなたのことや、あなたの特別な問題を考えているときに決して生じないのです。(今も起こらないと、挑戦のためにつけ加えておきます。)あの現象の私にとってのすべての意味は何ものかによって取り去られてしまいました。私の軽信、あるいは少なくとも私の信じやすさは、あなたがいたことによる呪
まじないとともに消え失せて、いろいろな内的な理由によって、再びそのようなことが生じることは全くありそうもないと思われます。家具は私の前に精神をもたず、生気のないものとして立っており、それは自然がギリシアの神々の過ぎ去った後では、詩人の前に沈黙し神を失って存在するのと同じようです。

 ユングが「媒体による外在化現象」と呼んだ怪音の正体、ポルターガイスト現象の舞台裏に、フロイトは合理的な解釈を施そうと努めています。


●4月13日(金)
 年度替わりに伴う諸宴会も昨夜で終わりました。私は飲み過ぎのせいで眼醒めてなおぼんやりしている状態です。
 きのうのつづきの引用です。

 今日に至るまで、私は何が私にこの確信を与えてくれたのか知らないでいる。しかし私は爆音がもう一度するだろうということを疑う余地もなく知っていたのである。フロイトはただ呆気にとられて私を見つめるばかりだった。私は彼が何を考えていたのか、あるいは彼の視線が何を意味していたのかは知らない。とにかくこの出来事が彼の私への不信を引き起こし、私は私で彼に逆らって何かをしてしまったという感情を抱いたのである。私はその後一度も彼とこの出来事について話しはしなかった。
 一九〇九年という年は私たちの関係にとって決定的であることがわかった。

 きょうはこれくらいでご勘弁ください。あしたはフロイト博士の反論をご紹介いたします。


●4月12日(木)
 カール・グスタフ・ユングが一時期ジークムント・フロイトと道をともにし、ほどなくして離反するに至った経緯は広く知られていますが、フロイトとの訣別のあとでユングが強烈な方向喪失感に襲われていた事実が、その自伝には記されています。当時ユングが体験したという内的生活は、私にはどことなく昭和10年前後の乱歩のそれを連想させるものであったのですが、あらためて『ユング自伝──思い出・夢・思想』を読み返してみると、そんなでもないか、みたいな気がして腰が砕けそうになります。しかしまあ、このまま話をつづけましょう。
 ユングとフロイトの対立は、煎じ詰めていえば無意識に対する認識の違い
によってもたらされたものでしょうが、自伝のなかではより具体的に、たとえば超心理学をめぐる確執があったことも明かされています。「ジクムント・フロイト」という章から、1909年のエピソードをご紹介しましょう。

 予知および超心理学一般についてのフロイトの見解を聞くのは私には興味深かった。一九〇九年に私がウィーンに彼を訪ねたとき、私はこうした事柄について彼の考えをただした。唯物的偏見のゆえに、彼は質問を無意味だとして拒んだし、しかもたいへん皮相な独断によってそうしたので、私は鋭い反論が危うく口から出かかるのを抑えるのに苦労した。これは彼が超心理学の重要性を認識し、「オカルト主義的」現象の事実性を認める数年前のことであった。
 フロイトがこんなふうにして喋っている間に、私は奇妙な感じを経験した。それはまるで私の横隔膜が鉄でできていて、赤熱状態──照り輝く丸天井──になって来つつあるかのようであった。その瞬間、我々のすぐ右隣りの本箱の中でとても大きな爆音がしたので、二人ともものが我々の上に転がってきはしないかと恐れながら驚いてあわてて立ち上った。私はフロイトに言った。「まさに、これがいわゆる、媒体による外在化現象の一例です。」「おお」と彼は叫んだ。「あれは全くの戯言だ。」「いや、ちがいます」と私は答えた。「先生、あなたはまちがっていらっしゃる。そして私の言うのが正しいことを証明するために、しばらくするともう一度あんな大きな音がすると予言しておきます。」果して、私がそう言うが早いか、全く同じ爆音が本箱の中で起こった。

 なんだか乱歩には全然関係のない引用になってしまいましたが、心理学軍記維納怪音合戦、とでも外題をつけるべき二人の確執はあしたにつづきます。


●4月11日(水)
 ユングの自伝をようやく発見しました。ヤッフェ編、河合隼雄・藤縄昭・出井淑子訳『ユング自伝──思い出・夢・思想』1・2(1972−73年、みすず書房)ですが、引用しようと考えていたシーンの前後を読み返す必要があるようなので、この話題はあすに延期します。「プロローグ」の冒頭を引いておきましょう。

 私の一生は、無意識の自己実現の物語である。無意識の中にあるものはすべて、外界へ向かって現われることを欲しており、人格もまた、その無意識的状況から発達し、自らを全体として体験することを望んでいる。私は、私自身の中のこの成長過程を跡づけるのに科学の用語をもってすることはできない。というのは、私は自分自身を科学的な問題として知ることができないからである。
 内的な見地からすると我々はいったい何であり、人はその本質的な性質において何のように思われるかを我々は神話を通してのみ語ることができる。神話はより個人的なものであり、科学よりももっと的確に一生を語る。科学は平均的な概念をもって研究するものであり、個人の一生の主観的な多様性を正当に扱うにはあまりにも一般的すぎる。
 そこで今八十三歳になって私が企てたのは、私個人の神話を物語ることである。とはいえ私にできるのは、直接的な話をすること、つまりただ「物語る」だけである。物語が本当かどうかは問題ではない。私の話しているのが私の神話、私の真実であるかどうかだけが問題なのである。

 『探偵小説四十年』とはおよそ正反対の視点から自己に向き合って記されたこの自伝は、ユングの遺志によって彼の没後に公刊されたとのことです。


●4月10日(火)
 おとといのつづきですが、いまだにユングの自伝を探すいとまがありません。昨年12月、書棚の整理を余儀なくされたとき、ユングの自伝はそれがそこにあるだろうと私が思っている場所からどこか別の場所へ移動したのだと思います。その代わりといっては何ですが、昨年末の書棚の整理では思いがけない“乱歩文献”を発見しました。色川武大の『怪しい来客簿』です。本を積みあげた奥の方から出てきたので何の気なしにぱらぱら眺めていたところ、巻頭に収められた「空襲のあと」に乱歩の名が出てきました。引用しましょう。

 焼け跡はもうどこにもなくて、あのおびただしい灰も地層の下に沈んでいるので、若い人にその感じを伝えるのが容易でない。
 戦後の焼跡時代には、たとえば上野の山から東を見ると、浅草六区の興業街まで何もなく、牛込の私の生家附近から国会議事堂の頭が直接見えた。
 その頃、一部の人の間で語られた話に、江戸川乱歩さんの怪談というのがある。乱歩氏の経験談だそうだが、私は乱歩さんにパーティの席上などでチラとお目にかかったきり、一度も親しく口をきいていただいたことはない。で、この話は、当時の推理作家か、その周辺の人からきいたのだと思う。
 国電田端駅は、一方に上野の山が迫り、崖及び土手になっている。他の一方は、千住、浅草まで通ずる下町で、当時は見渡す限りの焼跡だった。
 ある夜、乱歩さんは田端駅を山側の方に出て、知人の家へ行くために線路伝いの土手の細道を登った。国電はかなり下を通っており、切りたった崖になっていて、おりおり飛びこみがあるところだ。
 むろん暗い。その細道に女の人が線路を見おろすようにして佇んでいる。乱歩さんは何の気なしに歩いていって、その女の人すれすれに歩きすぎた。
 水を浴びたような心持ちがして、少し行ってから振りかえった。佇んでいる女の人をシルエットにして、その向こうに下町の焼跡の夜景が拡がって見える。
 浅草の国際劇場の屋上にあった廻転サーチライトの細長い光の帯が、徐々にこちらに廻ってくる。
 その光の帯がこちらに廻ってきて、女の人の身体で遮ぎられず、黒いシルエットを透すようにし動いていくのが見えた──。
 当時の夜景や国際劇場の光の筋をご存じの向きにはなつかしいような話ではあるまいか。

 手許にあるのは昭和54年4月発行の角川文庫で、私は当時読んだきり、「空襲のあと」に乱歩が出てくることを忘れてしまっておりました。したがってこの作品、『乱歩文献データブック』には記載されておりません。いや面目ない。


●4月9日(月)
 きのうのつづきですが、きのうはユングの自伝を探すいとまもなく宴席に連なり、結果的に手ひどい二日酔いできょうという日を迎えてしまいました。それではまたあした。


●4月8日(日)
 
私は参ってしまいました。ほんとに困ってしまいました。引用しようと思っていたユングの自伝が見当たりません。上手の手から水が漏るとはこのことでしょうか。何が上手なんだかよく判りませんが。
 仕方がないからまったく別の話題でお茶を濁すことにします。「ダ・ヴィンチ」5月号(発行=メディアファクトリー)に『貼雑年譜』完全復刻版の紹介記事が掲載されていて、閲覧可能な図書館が列挙されています。引いておきましょう。

公共の図書館■名張市立図書館(三重県名張市)、三郷市図書館(埼玉県三郷市)
大学の図書館■早稲田大学図書館、金城学院大学図書館、立教大学図書館、明星大学図書館、明治大学図書館、日本大学文理学部図書館、同志社大学今出川図書館、東海大学図書館

 埼玉の三郷市はとくに乱歩とゆかりが深いとも聞きませんが、にもかかわらず復刻版を購入しているのはえらいものだと思います。豪儀なものです。三郷市在住の乱歩ファンはじつに幸運至極であると申しあげておきましょう。
 それから以前にもお知らせしましたとおり、名張市立図書館では私の監視つきで『貼雑年譜』完全復刻版を閲覧していただけます。事前にメールでご予約ください。ただし本日はあいにくと午前11時30分からお酒を呑む予定が入っておりますし、あしたは図書館がお休みですから、明後日以降ということでお願いいたします。
 それにしてもユングの自伝はどこへ消えたのでしょうか。


●4月7日(土)
 
しかし、なにしろ昭和9年のことです。
 とはいえ、この話題はもう一か月近くも前のものですから、未読の方には3月10日あたりの伝言録をお読みいただくとしても、ここでもう一度、ごく簡単に話の流れを確認しておきたいと思います。
 昭和10年前後、乱歩は「少年の発見」を経験したように見受けられます。乱歩はデビュー当初から少年期を回想する随筆を発表してはいましたが、それらに比して昭和10年前後に書かれた一連の随筆では、
少年時代を静止した対象物と見るのではなく、自身の内奥に深く沈潜して少年期をそのまま追体験するといった趣が色を濃くしています。
 そうした時期、それは一方で乱歩が自分には本格長篇が書けないのだという苦い自覚を噛み締めていた、敢えていえば作家としての危機に直面していた時期でもあったわけですが、世間から隠れるようにしてたまたま投宿したホテルの美少年のボーイによって、乱歩が抱いていた少年のイメージにいっそうの豊饒さが加えられたという可能性は否定できません。
 館淳一さんが張ホテルの美少年のボーイを小林少年のモデルだと断定していらっしゃるのは、小林少年のデビューの時期に照らせば見当違いな推測ということにならざるを得ませんが、「吸血鬼」で脇役としてデビューした「名探偵の小さなお弟子」が、やがて「怪人二十面相」で名探偵を後ろ盾として堂々の主役を張るに至った過程において、張ホテルのボーイがひとつの何かしら決定的な役割を果たしたと見ることは可能でしょう。
 作家としての危機に向き合っていた昭和10年前後の乱歩が、一人の美少年のボーイによって少年ものという新たな領域への扉を指し示されたと考えるのは、大雑把ではあるものの、きわめて魅力的な仮説であると思われます。
 それにしても、当時の乱歩が、たとえば活字、レンズ、ビイ玉といった少年期のフェイバリットを飽きもせず随筆に綴っていた姿を思うたび、私にはユングの自伝の一節が連想されてくる次第です。


●4月6日(金)
 館淳一さんの随筆「麻布の不思議な洋館」のことは、掲載された「日本推理作家協会会報」が発行された直後に芦辺拓さんから電話で知らせていただきましたし、しばらくして平井隆太郎先生にお会いしたときも話題にした記憶があるのですが、かつて張ホテルであった麻布の不思議な洋館がすでに取り壊されてしまったものかどうか、確かめるすべもないまま今日に至りました。東京在住の乱歩ファンの方には、暇を見て麻布界隈を探索していただけぬものかとお願いしておきます。
 乱歩がその張ホテルに身を潜めたのは、昭和9年1月のことでした。鳴り物入りで連載が始まった「新青年」の「悪霊」をどうにも書きあぐねていた時期で、どこにいるかは家人にも知らせず、テーブルのうえに真っ白な原稿用紙をひろげたまま、

 滞在中、何もしないでボンヤリしていることが多かった。窓にもたれて、人通りのない道路を見おろして、半日もじっと腰かけていることがあった。本も読まなかった。新聞も殆んど読まなかった。この張ホテルには食堂というものがないので、三度の食事はボーイが運んでくれた。まずい洋食であった。その食事中、そばに立っているボーイと話をするのが、一日のうちで口を利く唯一の機会であった。

 と無為と焦燥に身を灼かれるような日々を送っています。その張ホテルの建物がつい最近まで現存していたというのですから、東京在住の乱歩ファンの方にはやはり麻布探偵団を結成していただけぬものかとお願いしておく次第です。
 それはそれとして、天城一さんから「ご一興あろうかと存じます」とご指摘いただいたのは、「麻布の不思議な洋館」に張ホテルのボーイが小林少年のモデルではないかとの推測が記されている点でした。たしかに館さんは、

 乱歩は逗留中、退屈のあまり「美少年のボーイを誘い出して、少女歌劇を見に行ったりした」と書いています。日本人のボーイは小林少年のモデルだったに違いありません。

 とお書きになっています。しかしごく単純に考えれば、小林少年が初めてお目見えしたのは昭和5年から6年にかけての「吸血鬼」ですから、残念ながら張ホテルのボーイが小林少年のモデルになったとする説は成立しないことになります。


●4月5日(木)
 どんなきっかけでこんな話題に流れたものか、すでに判然とはいたしませんが、ともかく名張発の乱歩情報はきのうでひとまずおしまいとして、昭和10年代の乱歩ならびに乱歩と少年というテーマに戻ります。
 3月初旬、天城一さんからおたよりと「日本推理作家協会会報」の1997年11月号をお送りいただきました。野沢尚さんが乱歩賞を受賞し、協会五十周年記念事業の文士劇が上演されたころの会報です。
 会報には館淳一さんの「麻布の不思議な洋館」という随筆が掲載されていて、麻布にある館さんのお住まいの近くに一軒の古びた洋館があり、それがかつて乱歩が利用していた張ホテルであったらしいと、驚くべき事実が記されています。
 天城さんは、「1930年代中期に乱歩が麻布の張ホテルに泊ったことは知られて居りますが、そのホテルの建物が4年前には残存したのは意外です」と、この人目につきにくい乱歩文献の載った会報をわざわざお送りくださった次第です。
 館さんによれば、その「麻布の不思議な洋館」は「二階建てで、大正末期か昭和初期の建物らしく、白い壁に黒褐色の柱や梁が浮き出すハーフティンバー様式」であり、

 洋館はみなそうですが、中でもこの建物には不思議と日本の匂いがしないので、引っ越してきた時から、どうにも気になる存在でした。
 当時は貿易会社の事務所だったのですが、現在は期間限定のレストランになっていて、老朽化が著しいので、とり壊される日もどうやら近そうだという話。
 やがてこの建物が東欧の国の領事館や中国の外交官の住居だったこと、一時はホテルだったことなどが近所の人たちの話から知れてきました。所有者も転々と変わり、ずいぶんと希有な運命を辿った建物のようです。

 この建物が『探偵小説四十年』に記されている張ホテルであることは、「ホテルの位置、外観の特徴などからして」間違いのないところだそうです。


●4月4日(水)
 ついでですから名張市発の乱歩関連情報、もうひとつおまけです。その名も「乱歩幻影城」というお酒の話題。昨日、名張で幻影城という酒が出ていると聞いたのだが、とある方からメールでお問い合わせをいただきましたので、この機会にお知らせしておく次第です。

乱歩幻影城 日本酒(純米吟醸)720ml/二三〇〇円

 蔵元は名張市本町の木屋正酒造。文政元年(1818)創業という老舗です。
 乱歩にちなんだお酒といえば、上野市にあるハシモト酒店が「黄金仮面」「明智小五郎」「怪人二十面相」といったネーミングの日本酒を販売していて、乱歩ファンへの付け届けにはなかなか重宝しておりました。1998年秋、北九州市で「怪人二十面相」というお芝居が公演されたときも、私はこの「怪人二十面相」の一升瓶を携えてはるばる足を運んだのですが、受付で「怪人二十面相」を差し出しながらふと横を見ると、そこには平井隆太郎先生から贈られた「黄金仮面」がずらりと十本、ボウリングのピンさながらに整然と並んでいたのでした。完全に負けた、と私は思いました。これからは「乱歩幻影城」も付け届けに利用することにいたします。
 「乱歩幻影城」の酔い心地を知りたいとおっしゃるあなた、購入方法などの詳細は木屋正酒造へ電話かメールでお問い合わせください。

蔵元木屋正酒造(なばり物産ガイド)

純米吟醸乱歩幻影城と乱歩全集


●4月3日(火)
 名張市発の乱歩関連情報、ひとつ追加しておきます。乱歩が生まれたのは新町という町なのですが、その新町に新町コミュニティ道路なるものが整備されました。乱歩が「ふるさと発見記」に「私の母は毎日ここへ出て洗濯したのである」と記している名張川の川原に幅六メートルの市道新町鍛冶町線が誕生した次第で、4月1日には花冷えのなか通り初めも行われました。ガス灯を模した街路灯の支柱には「江戸川乱歩生誕の地」の銘板がとりつけられており、新聞報道によれば地元新町区自治会にはこれを契機として乱歩資料館の整備を進めたいとの構想もあるそうです。
 けっ。片腹痛い。どうせ乱歩作品などろくに読んだこともない無知蒙昧な地元住民が適当なことをほざいているだけの話ではないか。何が乱歩資料館か。乱歩邸の土蔵が危機に瀕していることすら知らずに君たちはまた何いい気なことをほざいているのかね。口惜しかったらせめて『貼雑年譜』にある間取り図どおりに乱歩の生家を復元してみなさい。
 などと私は腹のなかで思っているのですが、名張市あたりに住んでいる田舎者には成算もくそもなしに乱歩資料館だの乱歩記念館だのただの思いつきを口走るのが精一杯であるようで、いやしくも名張市長にしてからが四年も前に年頭の記者会見で今年はひとつ乱歩記念館をつくりたいですと明言しておきながら遺族側にアプローチさえすることなくそれっきりで打ち過ぎてしまっているのがわが名張市の実態なのですから、一般市民であれ市役所のお偉方であれ、そもそも乱歩邸の土蔵を保存するだの何だのといった高邁なことを考える能力には根本的に欠けるところがあるみたいです。
 そのことを私はまことに心苦しく思う次第でありますが、わが名張市のレベルというのはだいたいがそういったところでしかないのだと申しあげておきます。もしかしたら名張市には私のように情理兼ね備えて学識教養は海のように深く人間的魅力が山のようにあふれた人間ばかりが住んでいるのではないかとお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、けっしてそんなことはないのです。
 どうも愚痴っぽくていけません。

新町コミュニティ道路の適当な銘板


●4月2日(月)
 ここでまとめておきますと、名張市が乱歩邸の土蔵の保存に乗り出すことはまずないと思われますが、名張市立図書館の江戸川乱歩リファレンスブック3『江戸川乱歩著書目録』は平成14年度に刊行される予定です。乱歩の著書を列挙しただけでは面白くもなんともありませんので(面白くなくてもいいのですが)、索引の類に工夫を凝らして面白い目録にしたいと考えております。といったところで、名張市発の乱歩関連情報をひとまず終わることにいたします。


●4月1日(日)
 2月は逃げる、3月は去る、と申しますが、きょうからはもう4月。なんだか茫然としてしまいます。4月卯月もまた、瞬く間に過ぎ去ってしまうのでしょうか。
 さて、そういった次第で、乱歩邸の土蔵の保存に関しては、名乗りをあげてもよさそうだと思われる生誕地の名張市にもこれといった動きはありません。先日も福島在住のさる乱歩ファンの方から「もはや、乱歩記念館に関しては、名張市しか残った選択肢はありません。期待したいものです」とのおたよりを頂戴したのですが、いまのところご期待に添える見込みはありません。
 名張市が実際のところどう考えているのか、反市長派の市議会議員に3月の定例会一般質問で質してもらおうかと電話で話してもみたのですが、またのらりくらりと結論を明らかにすることのない答弁しか得られぬであろうと判断されましたのでとりやめました。ほかに方途はないものかしら。
 以上、新年度第一日目にしてはえらく調子の低いご挨拶になったことを遺憾といたします。