2001年5

●5月31日(木)
 いや凄い凄い。「小林文庫の新ゲストブック」はほんとに凄い。などと驚いているあいだにきょうも時間がなくなってしまいました。本宅と妾宅をかけもちしなければならぬ殿方のご苦労がいまにしてわかります。などと莫迦なことをいってるあいだに5月もきょうで終わりです。
  季(とき)が流れる
  お城が見える
  無傷な心がどこにある
 と記して手許の粟津則雄訳にあたってみると、このランボーの詩は、
  おお季節よ、おお城よ、
  無疵な心があるものか?
 となっておりました。私が記憶している語呂のいい訳はどなたの手になるものでしょうか。ちなみにいま私に見えているお城は幻影城という名のお城なのですが。
 以上、「小林文庫の新ゲストブック」で体験した眩暈をひきずりながら錯乱状態で記しました。あすはもう少しまともになります。


●5月30日(火)
 「小林文庫の新ゲストブック」にお邪魔しているうちに時間がなくなってしまいました。きのうのつづきでお知らせを一件、『浅草十二階』(青土社)を上梓される細馬宏通さんの「浅草十二階計画」というホームページをご紹介申しあげます。小説や評論から漫画、映画に至るまで、幅広い分野に目配りしながらネット上に十二階をよみがえらせる試みがくりひろげられております。ちなみに細馬さんの『浅草十二階』は、一昨年から昨年にかけて
「ユリイカ」に連載された「塔の眺め」に筆を加えて出版されるものだそうで、私はこの「ユリイカ」という何やら難しげな雑誌に手を伸ばすことがあまりありませんので、「塔の眺め」のこともまったく存じあげませんでした。神戸の高台にそびえる不思議な塔について綴られた「塔の妖影」の妹尾俊之さんにも、発売日の6月1日、とりあえず書店で手に取ってごらんになることをお薦め申しあげる次第です。それではご無礼いたします。

浅草十二階計画


●5月29日(火)
 ある方からよくメールでお知らせをいただく昨今ですが、いつでしたか三角寛関連の話題としてご紹介した池袋の新文芸坐なる映画館で乱歩原作映画のオールナイト上映が行われると、やはりある方からきのうお教えをいただきました。さっそく番犬情報に記しましたので、興味がおありの方はご覧ください。

 さて谷崎潤一郎の話題ですが、昭和33年に谷崎と乱歩の対談が実現しなかった理由は、結局のところ不明です。不明ではありますが、もしも谷崎の健康上の理由であったのだとすれば、乱歩が昭和35年になって「推理作家を捜す話」を執筆するにあたり、熱海に谷崎さんを襲ったあと「宝石」で対談を企画したのだが、これは谷崎さんの体調が悪くて果たせなかった、くらいのことは書いてもいいように思うのですが、対談にはいっさい触れられていません。対談の中止に関して、乱歩に何かしら腹ふくるるところがあったとも推測されます。
 それならいったい谷崎は乱歩をどう見ていたのかというと、通俗作家として軽んじていたのはまず間違いのないところですが、乱歩の豪華本をミステリー好きの女性に贈ったくらいですから、ごく一部にせよ乱歩作品には眼を通していたのかもしれません。だとすれば、みずからの忌まわしい秘所の通俗的なカリカチュアをそこに発見したような気になって、谷崎が思わず顔を背けたという可能性も考えられる次第ですが、谷崎が乱歩作品について語った文章はひとつもなく、したがって判断のくだしようがありません。わずかに「新青年」昭和5年4月号発表の「春寒(はるさむ、とお読みください)」で、自作「途上」に寄せられた乱歩の批評はちょっと見当違いだと遠回しに記しているのが、谷崎が乱歩について述べたすべてです。と断言していいものかどうか。ほかにもありましたらご教示ください。

 きのうはほんとによくメールでお知らせをいただいた日で、ふくろうさんが主宰する夢野久作系サイト「ふくろう」からもご挨拶をいただきました。取り急ぎご案内申しあげます。
 もうひとつ、浅草の凌雲閣を研究していらっしゃる細馬宏通さんから、6月1日に『浅草十二階』(青土社)を上梓されるとのお知らせを頂戴しました。明治以来の「塔に関する言説、パノラマに関する言説」を跡づけた内容とのことで、「押絵と旅する男」に関する言及もあるそうです。乱歩ファンならとりあえず本屋さんで立ち読みしてみるべきでしょう。
 さらにもうひとつ、5月27日付読売新聞読書欄の「人に本あり」に東京創元社の戸川安宣さんが登場、『貼雑年譜』復刻版について述べていらっしゃるとのお知らせも、最近「ヘテロ読誌」をサボり気味のある方からいただきました(「ヘテロ読誌」は近日中に二か月分まとめてアップロードできる見込みです。もうしばらくお待ちください)。ちなみに申しあげておきますと、巨人ファンが必ず読売新聞を購読しているかというと、けっしてそんなことはありません。ただ、巨人が優勝を決めたときには、読売新聞はどんな優勝記念サービスを展開しているのかなと気にはなります。まだ落合がいたころの中日が優勝したとき、中日新聞は表に星野監督の胴上げシーンの写真、裏にリーグ戦全試合の成績表を印刷した下敷きを配ってくれたものですが。
 しかしこうなると、こうしたお知らせをお寄せいただくために掲示板を復活させるべきかとも思案される次第ですが、面倒な結論は先延ばしにして、きょうもスキップしながら「小林文庫の新ゲストブック」にお邪魔する私です。

ふくろう


●5月28日(月)
 いけませんいけません。きょうはきのうよりもっと頭がぼんやりしています。あすからしっかりいたします。どうも申し訳ありません。ある方からメールで、亡父の『学問の家 宇田川家の人たち』のニュースが掲載されたホームページがあったとお知らせをいただきました。地元のテレビ局が開設しているページのようです。お慰みまでにご紹介申しあげます。

テレビ津山ニュース


●5月27日(日)
 BS-i で放映された「週刊マニアタック」の「江戸川乱歩の残像」では、名張市立図書館から提供した乱歩生誕地碑や図書館乱歩コーナーなどの写真も紹介していただきました。その写真の一枚、生誕地碑除幕式の記念写真に亡父が写っておりましたので、私は驚いてしまいました。
 亡父の話をもちだすのは久しぶりだという気がしますが、これには理由があり、ホームページ「小林文庫」の掲示板で亡父のことが話題になっているとある方から教えていただいて、びっくりしながらさっそく拝見いたしますと、はたして津山洋学資料館から復刊された『学問の家 宇田川家の人たち』が話題になっておりましたので、その掲示板「小林文庫の新ゲストブック」に取り急ぎご挨拶を申しあげたうえ、亡父のこともいささか書き込みました次第。そんなこんなで(どんなだというのでしょう)、この伝言板ではなんとなく亡父の話題から遠ざかってしまった感じです。
 その写真に亡父が写っていることに私はまったく気づきませんでしたが、いっしょに見ていた母がめざとく見つけました。夜、ビデオを見ていて、お母さまが、
 「あ」
 と幽かな叫び声をお挙げになった。
 「髪の毛?」
 ビデオに何か、イヤなものでも写っていたのかしら、と思った。
 「いいえ」
 ……などと親子で「斜陽」ごっこをしている場合ではありませんが、とにかく画面を見ていた母親が「あ」と声をあげてそう申しますので、ビデオを巻き戻して確認するとたしかに亡父の姿がありました。さすがにこのときは素面であったようで、私は安堵いたしました。
 きょうはいつの朝にもまして頭がぼんやりしておりますので、このへんで失礼いたします。
 なお、上述の掲示板「小林文庫の新ゲストブック」によりますと、この「週刊マニアタック」のビデオがミステリファンサークル SR の会の例会で上映されることになりました。6月10日日曜午後、東京・渋谷にて、とのことです。放送された「江戸川乱歩の残像」のほかに、乱歩邸で撮影された約一時間の未編集テープも見られるそうです。会員以外の参加も可、とのことですから、ご希望の方は「小林文庫の新ゲストブック」をご覧のうえ、No.516の書き込みの宮澤さんにご連絡を。

小林文庫の新ゲストブック


●5月26日(土)
 谷崎潤一郎の話題はお休みして、5月10日深夜(正確には11日ですが)に BS-i で放映された「週刊マニアタック」、放送局からお送りいただいたビデオで昨夜つぶさに視聴しましたので、簡単にご紹介いたします。ホームページ「宮澤の探偵小説頁」を主宰する宮澤善永さんが乱歩邸の土蔵を訪ねる趣向の三十分番組で、タイトルは「江戸川乱歩の残像」。土蔵の内部をあれだけ時間をかけて映したテレビ番組は、ほかにその例を知りません。
 番組は東京都内某所、宮澤さんのお宅の書斎から始まります。こうした映像を眼にすると本棚にどんな本が並んでいるのかと眼を皿にしてしまうのは私のみならず本に興味のある人間に共通するあさましい習性というもので、私もあ、あんなところにあの本が、あ、こんなところにこんな本が、と忙しいったらありゃしませんでした。そして私は、ほかには誰一人気づかなかったであろうひとつの事実に気がつきました。乱歩について語る宮澤さん、そのうしろの書棚に並んだ講談社江戸川乱歩推理文庫、そのうえに横に寝かせてある二冊の本、それはどうやら名張市立図書館の江戸川乱歩リファレンスブックではありませんか。見れば見るほどそう見える。ああやっぱりそうだ。そうにちがいない。あれは『乱歩文献データブック』と『江戸川乱歩執筆年譜』だ。しかもどちらもサイン入りだ。乱歩の、ではなくておれのサインだけど。などと私はウイスキー片手にひととき感慨にふけった次第です。
 ここから先、宮澤さんが訪れた乱歩邸の土蔵について語ることに、私はある複雑な思いを覚えます。というのも、乱歩邸の土蔵には当然ながら乱歩の著作もたくさん保存されていて、それも画面にたっぷり映し出されたわけですが、ふたたび眼を皿にしてそれを眺めるうち、ああ、この土蔵に踏み込みさえすれば『江戸川乱歩著書目録』なんて簡単にできてしまうではないか、ちまちましこしこと手内職めいた編纂作業に明け暮れるより、一か八かご法度の土蔵破りに丁半を賭けたほうが手っ取り早いではないか、などという気がしてきて、私はたしかに複雑な気分でした。もっとも、あの土蔵に乱歩の著作がすべて揃っているということは、見方を変えれば書誌作成者にとって何よりありがたいことではあり、私は複雑な思いのままにウイスキーをあおりつづけた次第です。
 番組自体は、土蔵に入った宮澤さんが得もいえず幸福そうで、またその宮澤さんの夢見心地が見る側にじかに伝わってくるようで、民放各局のあざとい演出に慣れた眼から見ると、単純なつくりゆえに出演者の喜びや驚きをそのまま実感できる内容になっていたと思われます。番組の最後で宮澤さんは、豊島区の乱歩記念館構想断念に触れて、乱歩の土蔵という文化遺産の保存に心を痛めておいででしたが、ここで最新情報をお知らせしておくと、ご近所のよしみというやつでしょうか、この件に関しては立教大学が一肌脱ぐらしいと仄聞いたします。

 神月堂主人さんが主宰するホームページ「神月堂別館」に「神津恭介」のページが新設されました。ご連絡をいただきましたので取り急ぎご案内申しあげます。

神津恭介


●5月25日(金)
 松村喜雄の『乱歩おじさん』に記されているところの、乱歩が谷崎に「礼をつくして書を乞うた」エピソードは、もしかしたら横溝正史の『真珠郎』刊行当時のできごとであったのかもしれません。ともあれ、「依頼したのが大衆探偵作家江戸川乱歩であるという理由で」谷崎がそれを断ったという話には、やはり驚かされてしまいます。私が先に「谷崎特有の臆面のなさ」と申しあげたのは、たとえばこういう態度を指しているとお考えください。
 天城一さんがこのエピソードを引いて、「今日から回顧すると、この事件は谷崎という文士の極端な階級性を暴露した実にいやらしい出来事のように思えます。大正デモクラシーが実は階級性の上に立ったかげろうのようなものであったことを語るに適しているかもしれません」、「大衆作家には短冊も与えない階級社会の差別主義を明白にするこの事実ほど大正デモクラシーのいかがわしさを顕にするものはないでしょう」と谷崎批判をくりひろげていらっしゃることはいつかもご紹介したとおりです。
 谷崎の階級性は紛れもないものですが(乱歩だって厳然たる階級性を生きていたわけですが)、私には三島由紀夫が谷崎について述べた言葉が想起されぬでもありません。すなわち、「氏は大芸術家であると共に大生活人であり、芸術家としての矜持を守るために、あらゆる腰の低さと、あらゆる冷血の印象を怖れない人だつた」。あるいは、「氏ほどその作品を通じて、身も蓋もないことを言ひつづけた人はない、といふのが私の考へである。/それはいはば周到な礼譲に包まれた無礼な心といふ点で、氏の生活と照応してゐる」。いずれも「谷崎朝時代の終焉」に見える文章です。
 乱歩と谷崎の対談が実現しなかった理由としては、先にも記したとおり谷崎の健康という問題も考えられるのですが、私にはむしろ、対談の実現に到るまでのどこかの時点で、谷崎の差別主義に、あるいは冷血の印象を怖れぬ芸術家としての矜持に、何かの理由でスイッチが入ってしまったのではあるまいかと想像される次第です。


●5月24日(木)
 しかし、おそらくは「宝石」に掲載されるはずであった、谷崎が急いで『点と線』を読みたがっていることから推測するとたぶん日程まで決まっていたであろう乱歩と谷崎の対談は、結局のところ実現しませんでした。理由は不明ですが、乱歩が断ることは考えられず、谷崎のほうに何らかの支障が生じたものと思われます。対談の話題が出てから二十日ほどあとの渡辺千萬子の書簡には「早くおなほりになって下さいませ」といった文章が見えますから、健康上の理由で中止のやむなきに到ったのかもしれません。
 唐突ですが、松村喜雄の『乱歩おじさん』(1992年、晶文社)から引きます。第四章「虚名、愈々高く……」の一節です。

 乱歩は男色に関して熊楠に教えを乞う手紙を送っている。けれども、その時には断られ、のちに古い友人である岩田準一を介して手紙を送り、やっと返事をもらっている。(最近『南方熊楠男色談義──岩田準一往復書簡』(八坂書房)という本が刊行された。この本は、昭和六年から十六年にいたる二人の往復書簡をまとめたものである。例の私ども三人組がさかんに乱歩邸を訪問していた頃、この書簡の内容について、乱歩が話していた記憶がある。乱歩も興味津々だったのだろう。)
 こうした例は他にもある。
 あれほど尊敬し、影響も受けた谷崎潤一郎に、礼をつくして書を乞うたことがあるが、依頼したのが大衆探偵作家江戸川乱歩であるという理由で断られている。後に乱歩邸の客間に飾られていた谷崎の書は別途、人を介して書いてもらったものである。
 探偵小説界の巨人江戸川乱歩も、熊楠、潤一郎にはとるにたらない大衆作家とみなされ相手にされなかった。そう言って乱歩は笑っていたが、内心かなりなショックを受けていたことは想像にあまりある。
 戦後、乱歩の、探偵小説の市民権獲得のための血のにじむような努力も、そうしたショックが動機になっていたのだと思う。

 話は錯綜いたしますが、上の引用に出てきました岩田準一の孫にあたる岩田準子さんの書き下ろし長篇乱歩小説『二青年図 乱歩と岩田準一』(新潮社)は、あす25日発売の予定です。個人的には『江戸川乱歩=岩田準一往復書簡』なども読んでみたいと思うのですが。


●5月23日(水)
 乱歩の「追記」に戻ります。5月20日に引用した「『宝石』の編集に当る」の一節、「谷崎さんが一般には知らせないで滞在しておられた熱海の旅館を襲ったものである」のつづきです。

この襲ったという感じがいけなかったのであろう。別の宿に落ちついて電話をかけると、谷崎さんは「あんたは知り合いだからいいが、お連れの方はお断わりする。来るなら一人で来てください」というご返事であった。電話で「宝石」の人びとと一緒といったので、これは原稿執筆の拒絶を意味していたわけである。私は仕方がないので一人でお邪魔して、谷崎さんご夫妻と世間話をして帰ったのだが、この「誘い」はまんまと失敗であった。京都のお宅で「猟奇小説」のことを話されたときとは心境も変っていたのにちがいない。

 より正確に記しておくと、この文章は昭和35年2月に発表された「推理作家を捜す話」の一節で、乱歩はその全文を「追記」に引用しています。
 それにしても、「まんまと失敗」はおかしいのではないか。「まんまと」は「うまうまと」の転ですから、
まんまと成功したりまんまとしてやられたりすることはあっても、まんまと失敗することはないのではないか。日本語の使用に関しては御殿女中のごとく口やかましい私にはそう思われてならぬのですが、むろん軽いおかしみを醸し出すための文章作法であると見ることも可能です。だとしてもそうした作法は乱歩の文章にはほとんど見当たらぬものですから、これはやっぱり単純な誤用というべきか。御殿女中にもにわかには判断がつきません。
 それはさておき、乱歩が熱海の旅館に谷崎を「襲った」のは京都の谷崎邸訪問から「一、二年後」とありますから、昭和23年か24年のことと判断されます。実際のところ、電話を受けた谷崎が原稿依頼という乱歩の来意を即座に見抜き、それを拒絶するために同行者を断ったのだとする乱歩の判断が妥当なものかどうか、いささか首を傾げざるを得ない気もしますが、いずれにしても乱歩は原稿依頼にまんまと失敗して、このときの接近遭遇はこれっきりで終わっています。
 そして昭和33年11月、熱海に住まいを移していた谷崎は、「江戸川乱歩と対談することになり」と渡辺千萬子に手紙で知らせることになります。乱歩が「宝石」の編集に乗り出して一年あまりが経過した時期のことですから、谷崎への返書に千萬子さんが「今度の対談は『宝石』にでも出るのですか」と記しているのは、おそらく正しい推測だろうと思われます。乱歩は「宝石」編集者として幸田文、小林秀雄、佐藤春夫といったあたりを相次いで座談の席に招いており、昭和33年10月号の座談会には三島由紀夫も顔を見せています。


●5月22日(火)
 昭和22年11月といえば、渡辺千萬子さんは芳紀十七歳。乱歩が橋本関雪邸に逗留した日、たまたま母親の実家である関雪邸に遊びに行ってちらっと乱歩を垣間見た、みたいなことがあったかもしれないなと考えるのは愉しいものですが、それはさておき、『探偵小説四十年』の「探偵小説行脚」からきのうのつづきを引用します。

谷崎さんは御自身の初期の作品を嫌悪しておられる。大阪移住以前の作品は一体に未熟で話をするのもいやだとハッキリいわれるので、実をいうと初期の諸作に今でも執着を感じている私は話が進めにくくて困った。初対面でもあり、健康を害しておられるというのに遠慮して、二時間余りで辞去、その午後は橋本君と一緒に嵐山にドライブし、苔寺の庭を見た。

 初期作品の話はしませんよ、と明言する谷崎の前で窮屈そうに畏まっている乱歩の姿が眼に浮かびますが、乱歩だって戦後、戦前の通俗長篇の話をすると途端に機嫌が悪くなった、みたいなことを都筑道夫さんがお書きですから、まあ似たようなものだといえるでしょう。谷崎と乱歩の自作嫌悪を比較してみるのも面白いように思われますが、それは別の機会に譲ることにして、とにかくこの初対面のとき、谷崎が「猟奇小説は筋を持っているから書いてみたい」と打ち明けたと、乱歩の「追記」には記されています。この雰囲気のなかで本当にそんな話が出たのかどうか、いささか考えにくい気もしますが、ここは乱歩の言を信じておきましょう。
 ところで乱歩は、「探偵小説行脚」で「谷崎さんとは十年も前に一度文通したことがあるだけで」と述べています。何がきっかけでその一度だけの文通が実現したのか。仮説をひとつ提出しておくと、あるいは横溝正史の『真珠郎』ではないかと思われます。昭和12年に六人社から刊行された『真珠郎』では、谷崎が題字を、乱歩が序文を寄せるといういうならば接近遭遇が果たされており、もしかしたら乱歩はこの本を話題にして谷崎に手紙を出したのかもしれないな、と考えるのは愉しいものです。
 附言すれば、正史が署名入りで乱歩に贈った『真珠郎』は、なぜか名張市立図書館が所蔵しております。この『真珠郎』からは乱歩の序文のページだけがきれいに切り取られている、ということも附言しておきましょうか。


●5月21日(月)
 昭和24年の春に行脚した、と乱歩は『探偵小説四十年』の「追記【昭和三十二年以降】」に記していますが、この行脚は実際には昭和22年11月に行われたものです。ほかならぬ同書の「探偵作家クラブ結成【昭和二十二年度】」の章、その名も「探偵小説行脚」という項にそれが記録されています。それをどうして昭和24年の春と勘違いしたのか、理由はもとより知り得ません。理由を推測するのも面白いかもしれませんが、とりあえず先を急ぐことにして、同書に拠りながら乱歩の行脚が京都の谷崎邸に及んだ足取りを追います。
 昭和22年11月16日、乱歩は京都を訪れ、関西日本画壇の重鎮だった橋本関雪の邸宅を訪れます。関雪はすでに鬼籍に入っていましたが、当主の橋本節哉は戦争末期まで池袋の同じ町内に住んでおり、町会役員仲間でもあった親しい間柄だったので、この機会に橋本邸の庭園と美術品を見ておきたいと思って立ち寄ったと、乱歩はそう記しています。一泊して、その翌日。

 橋本君は谷崎潤一郎氏と交際しているので、同君から谷崎さんの都合を訊ねて貰うと、健康を害しているので、昼食を用意するから自宅へお出で願いたいということで、橋本君と二人で、程遠からぬ谷崎さんの新居「潺湲 せんかん 亭」を訪れる。谷崎さんとは十年も前に一度文通したことがあるだけで、お会いするのは今度がはじめて、奥さんも同席され丁重な食事のおもてなしに預かり、お酒も出ていろいろ話をしたが、谷崎さんは文学談など好まれぬ様子なので、こちらも差し控え、結局文学以外の話の方が多かった。酒の話、食物の話、東京の見世物の話、大阪弁の話、高野山の話、大映の加賀四郎君が「ある少年の怯れ」を高級スリラー映画にしたいと申しいで、島耕二監督が「猫と庄造と二人の女」を撮りたいといい、そのほかもう一つ、都合三つの映画化を承諾しておられる由で、「映画になるのは楽しみだ」というお話であった。

 以下まだつづきますが、ここでひとつ附記しておきます。
 乱歩はこのとき橋本関雪邸で二泊しているのですが、この橋本関雪こそ誰あろう、
『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』の主役たる渡辺千萬子の祖父に当たる人物です。千萬子さんは関雪の血を享けた、いわゆる外孫です。乱歩と親交のあった橋本節哉は千萬子さんの叔父に当たります。だからどうだっていうの、と尋ねられても困ってしまいますが、奇しきえにしが感じられます。何のえにしなの、と尋ねられても困りますが。


●5月20日(日)
 対談は実現に到らなかったにせよ、昭和33年11月ごろに乱歩と谷崎は何らかの形で接触していたのか。『探偵小説四十年』にそれを求めると、こんな記述にぶつかります。同書を刊行する際に新たに加筆された「追記」の、「『宝石』の編集に当る」という項の一節です。

 昭和二十四年の春ごろ、私は各地の推理小説同好者と会うために、京都、神戸、岡山、名古屋、三重県の各地を行脚したことがある。そのとき京都で、まだ同市に住んでおられた谷崎潤一郎さんをたずねて御馳走になった(これが初対面であった。昔から谷崎ファンの私は戦前とっくにおたずねしていてしかるべきであったが、前記の人ぎらいで、それをしていなかった)。その席で谷崎さんは「猟奇小説は筋を持っているから書いてみたい」という意味のことを話された。「猟奇小説」という言葉を使われたのである。私はそのことを覚えていたので、それから一、二年後「宝石」がやや体裁をととのえてきた機会に、同誌の岩谷社長と城編集長を誘って、谷崎さんが一般には知らせないで滞在しておられた熱海の旅館を襲ったものである。

 以下まだつづきますが、ここで谷崎の住居について確認しておきます。
 谷崎潤一郎が関東大震災を機に一家を挙げて関西に移り住み、これをきっかけとして作風にも日本回帰あるいは古典回帰と評される大きな変化が訪れたことは広く知られます。関西ではまず京都、ついで兵庫県の六甲や岡本に、谷崎は住まいしました。ちなみに昭和5年2月、その帰途に鉄道事故で急逝することになる渡辺温が原稿依頼に赴いたのは、兵庫時代の谷崎の邸宅でした。戦争中の疎開を経て、ふたたび京都に住んだのが昭和21年。左京区内に求めた新居は潺湲亭
せんかんてい と名づけられ、谷崎と渡辺千萬子さんの初対面もここ潺湲亭で果たされました。その後、谷崎は京都から熱海に移り住みます。熱海の別邸で夏冬を過ごすのは昭和25年以来の習わしでしたが、29年には熱海市伊豆山に、38年には熱海市西山町に転居。『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』に収められた谷崎の書簡は、その大半が伊豆山の邸で綴られています。
 あすはまた乱歩の「追記」に戻りますが、乱歩はこの「追記」でちょっとした勘違いをしています。


●5月19日(土)
 昭和33年11月、『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』にふたたび乱歩の名が登場します。いまだ肝胆相照らすほどではありませんが、『犯罪幻想』の当時に比べれば谷崎と千萬子の仲はかなり懸け隔てがなくなり、親密になっています。まず谷崎の書簡から抜粋しましょう。

六四 昭和三三年一一月二四日
それから松本清張の「線と点」ともう一冊そちらに置いて来ましたのを至急御返送下さい 江戸川乱歩と対談することになりあれが必要になりました 参考になる君の意見もきかして下さい

 文中、「線と点」とあるのはむろん「点と線」が正しく、原文には「ママ」とルビが振られています。つづいて千萬子の書簡。

9 昭和33年11月27日
伯父様と乱歩氏との対談はきっと面白いことでせう。
 私は日本のミステリイは全然読まずぎらひなので何も言ふことがありません。松本清張氏のはこの頃は大へん評判ですが、あゝいふタイプのものならばクロフツやアンブラーの方が、私にはよみごたへがあります。もっとも「眼の壁」一つしかよんでゐないので余り大きな口をきけたものでもないのですが…。乱歩氏のは初期の「心理試験」などは好きですが後の方のすごく怪奇的なのはあんまり好きではありません。
今度の対談は「宝石」にでも出るのですか たのしみにしてゐます。

 ふーん。
 それじゃきっと千萬ちゃんは谷崎の初期作品もあんまり好きじゃなかったんだね。
 などと、乱歩の「すごく怪奇的な」作品をくさされたからといって一人で拗ねている私はまるで莫迦ですが、谷崎がいっている乱歩との対談は残念ながら実現しなかったようです。谷崎と乱歩のあいだで対談の話がまとまりかけていたということ自体、この『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』によって初めて明るみに出た事実だといえるでしょう。


●5月18日(金)
 『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』で最初に乱歩の名が登場するのは、昭和32年2月の谷崎の書簡と、それへの千萬子の返書です。関連箇所を抜粋します。まず谷崎の書簡。

一三 昭和三二年二月二〇日
別便で江戸川乱歩の「犯罪幻想」の限定版を送ります、君の気に入りさうな本なので取り寄せました

 つづいて千萬子の書簡。

1 昭和32年2月25日
二伸 本を発ちます前に確かに受取りました。いづれお目にかゝつた時に山々御礼を申上げますが。

 消印の日付に附された書簡番号からもおわかりのとおり、二人あわせて三百通近くになる往復書簡のなかで、これはごく初期に属するやりとりです。しかし谷崎は千萬子さんの魅力にすでに気がついており、同じ書簡には「僕に対してはどんなに勝手を云つてくれても構ひません、僕には君の長所や美点やよく分つてゐます」といった文言が見られます。お小遣いにしなさいと、気前よくポケットマネーも同封しています。
 谷崎が千萬子さんに贈った『犯罪幻想』は、昭和31年11月に東京創元社から出版された豪華本です。乱歩の代表作十一篇を収録し、棟方志功の版画が添えられたことで知られます。限定千部の発行で、うち上製二百部は一冊三五〇〇円、残る並製八百部が一二〇〇円でした。ちなみに手許の資料によれば、昭和32年の大学卒国家公務員上級職の初任給は九二〇〇円だったといいます。
 さて要するにこの場合、下世話に申せば谷崎は、乱歩の豪華本をダシにして若い女性の歓心を買おうとしたわけです。などと書いたからといって、私は別に谷崎を貶めているのではありません。こんなのは世間にはじつによくある話です。かくいう私とて身に覚えがないではなく、というか、身に覚えなら多々あります。赤面するほど多々あります。ここで振り返りますと、どうせなら私も大谷崎の顰みに倣い、『貼雑年譜』復刻版を若い女性にプレゼントしていればさぞや上々の首尾を手にできたであろうものをと、激しく悔やまれてなりません。そこに思い至ってさえいれば、最低でも『貼雑年譜』の五セットや六セット、私は嬉々として予約していたに相違ないのですが、すでに完売だというのですからいまさら致し方はありますまい。かえすがえすも残念な。


●5月17日(木)
 私が『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』(中央公論新社)にかなりの予断をもって臨んだことはきのうも記したとおりですが、それはあっけなく覆されてしまいました。ひとえに渡辺千萬子という、二十一歳で「義妹の息子の嫁」として谷崎の縁戚に連なった、女性らしからぬ聡明さをもつ魅力的な主人公のせいです。まさしくこの往復書簡の主役は渡辺千萬子であり、谷崎潤一郎はときに痛ましさすら覚えさせる脇役でしかありません。同書には渡辺千萬子さんが書き下ろした手記も収録されているのですが、渡辺さんの聡明さはたとえばこんなくだりに示されています。

毎日のようにこういう手紙を受け取ってどう感じたのか、いま思い返してみてもはっきりとは解りません。勿論、嬉しかったには違いありませんが、愛されているなどとは感じもせず、有頂天にもならず、私なりに極めて冷静に受け止めていたと思います。ただ谷崎が私のまわりに何か魔法の網のようなものをかけ始めたのは感じましたし、谷崎自身の中に小説を書くための虚構を築きつつあったのでは無いかとも察していました。「若さ」とはある意味で残酷なものだと当時の自分を振り返って見て忸怩たるものがあります。

 さきほど「女性らしからぬ聡明さ」と記したのは、あるいは失言であるかもしれません。書簡のなかには「私は女としては割合に物事を──自分をも含めて──客観的にみられる方だと、少くともさう努力してゐるつもりですが(この事自体がすでにうぬぼれでせうか?)」といった自己規定が述べられていて、「女性らしからぬ」ことを渡辺さんはみずからお認めなのですが、そして私もそれにはまったく同感なのですが、こうした場合にそれは女性差別であるとか蜂の頭であるとか蛸の足であるとか主張するのが当節のうたてき習いではあり、それにだいたい最近は自分のことを客観的に見られない男もずいぶん多いみたいですから、彼女は性別に関係なく聡明である、と申しあげたほうがいいのかな。
 ともあれ乱歩の話題です。渡辺千萬子さんは何を隠そうミステリーマニアで、谷崎と交わしたこんな会話も手記には記録されています。

それから「千萬ちゃん、チェスタトンは探偵小説をたくさん書いているの?」と聞かれて、私はなんて当たり前のことをと思って「『ブラウン神父の知恵』でしょう。」とちょっと不服そうに答えました。(私はミステリー・マニヤなのです)それからの話はほんとうに面白いでした。「昔、芥川が丸善でチェスタトンのミステリーを見つけて来てね。二人で驚いて読んだことがある。“ウィズダム オブ ファザー ブラウン”と言うのだった。」まったく完全な日本式発音の英語で、私は吹き出してしまいました。

 乱歩の話題もこの千萬ちゃんのミステリー好きに発しています。


●5月16日(水)
 サンカの話題をつづけようかとも思うのですが、ほかのネタが押せ押せになっていることもあり、本日は『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』(中央公論新社)をとりあげます。
 ところで、私のパソコンの MO ドライブはいまだに調子が悪く、MO に保存してある旧稿が開けないのはまあいいとしても、よく考えてみたら「乱歩文献データブック」と「江戸川乱歩執筆年譜」のデータもともに MO に収めてありますので、それをホームページにアップロードしてゆくうえでドライブの不具合はじつに大きな支障である、ということに遅ればせながら気がつきました。なんとかしなければなりません。
 今年2月に刊行された『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』は、新聞の読書欄などでも紹介されましたから、「瘋癲老人日記」の作者とモデルとの未発表書簡が公開されたということは私も聞き及んでおり、興味を覚えないではありませんでした。しかし私は、よその家の戸棚を覗くようなことはあまりしたくないな、作品成立の舞台裏とかプチ・ブルジョワジーの秘かな愉しみとか、あるいは谷崎特有の臆面のなさみたいなものを目の当たりにするのはちょっといやだな、とも思い、それより何よりこの本が名張市内の書店には一冊も並びませんでしたので、購入することなく過ごしておりました。
 もしかしたら乱歩のことが出てくるかもしれないな。
 と頭の隅でちらっと考えなくもなかったのですが、なにしろ立ち読みして確かめることもできず、そのままになっていた次第です。それが先日5月3日になって、ある方から、あの往復書簡はもしかしたら「瘋癲老人日記」より面白いのではないか、という評言とともに、
 「乱歩のことは二か所、出てきます」
 とのご教示をいただきました。そこで私は先日5月12日、『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』をようやく入手し、むさぼるように読んだのでした。


●5月15日(火)
 三角寛の『サンカ社会の研究』によれば、サンカ社会を統べるルールは「ハタムラ」と呼ばれます。

ハタは、「端々迄も」であり、ムラは「牟礼」、即ち村である。端々の村まで一人のこらず守ることを、ハタムラといふのである。

 そして三角寛は、

 ハタムラが厳格に守られてゐる一つの例として、一夫一婦のハタムラの如きは、われわれ一般人が(さうは云つても例外はあるだらう)と想像することをすら許さないほど厳格である。

 として、サンカがいかに忠実に一夫一婦制を生きていたか、昭和27年に埼玉県で採録したある夫婦の事例を紹介しているのですが、これにはいささか首を傾げます。サンカのルーツが日本列島の先住民であれ近世農民であれ、いずれにしてもその性的倫理はきわめておおらかなものであったはずで、三角寛が感に堪えぬといった口ぶりで紹介しているサンカ社会における一夫一婦制の厳格さ(それはたとえば宗教的戒律の存在なしには成立し得ないもののように見えます。一所不住のアーミッシュ、みたいな印象だといえばおわかりいただけるでしょうか)は、いったいどの時点でどんな要請を背景として育まれたものか。なんだかとても気になります。


●5月14日(月)
 雑誌の話題のつづきですが、ここにおいて江戸川乱歩と三角寛とがリンクいたします。
 素性の知れない雑誌はほかにもあって、乱歩が昭和26年1月に「活弁志願記」を発表した「人世」も、現物は未確認です。発行所は、国立国会図書館の逐次刊行物目録に基づいて「文芸会館人世座」といたしましたが、この文芸会館人世座(人世坐、が正しい表記らしいのですが)は昭和23年、三角寛が池袋に創業した映画館です。
 乱歩が遺した手書き目録の「活弁志願記」に関するデータには、「人世」という掲載誌名の下に、
 (三角)
 という註記が添えられており、これによっても「人世」が三角寛の出していた雑誌であることが裏づけられます。あるいは、三角寛が乱歩に直接執筆を依頼したのかもしれません。映画館の雑誌だから「活弁志願記」と、ちゃんと平仄も合っています。
 人世坐の流れを汲む映画館に文芸坐というのがあって、もう三十年ほど前の話になりますが、地下の劇場では土曜の夜に旧作を何本か一気に上映するオールナイト興業をやっておりました。東映やくざ映画や日活ニューアクション映画の傑作名篇佳品と呼ばれる作品群を、私は多くこの文芸地下という映画館で観たものでしたが、時は流れて幾星霜、かつての文芸坐の地には昨年12月「マルハン池袋店」なるパチンコ屋がオープンし、その三階に「新文芸坐」という映画館が開設されて、わずかに往時をしのぶよすがになっているとのことです。うたた感慨に堪えません。
 それはそれとして、どこかで「人世」という古雑誌をお見かけになりましたら、お気軽にお知らせください。

新文芸坐


●5月13日(日)
 雑誌の話題のつづきです。
 乱歩が昭和11年11月、「ビイ玉」という随筆を寄せた雑誌「トップ」の素性が知れました。この雑誌、『江戸川乱歩執筆年譜』をつくったときには発行所さえつかめなかったのですが、『新青年』研究会の末永昭二さんから先日、お知らせをいただきました。お礼を申しあげます。
 それによると、「トップ」はいわゆるレビュー雑誌で、にもかかわらず執筆陣には小栗虫太郎、大下宇陀児、海野十三らを擁していたとのこと。残念ながらこの雑誌を所蔵している図書館はどこにも存在せず、わずかに早稲田の演劇博物館が創刊号を架蔵しているのみであると、これは日下三蔵さんの調査によって確認されているそうです。
 創刊は昭和11年2月。発行所は「とっぷ発行所」。誌名は、表紙が「TOP」、扉が「トップ」、奥付が「とっぷ」と混乱をきわめているのですが、発行所名に照らせば「とっぷ」が正しいのではないかとのことです。
 もっとも、「ビイ玉」の掲載号はいまだ確認できておりません。気長にお待ちください。
 昨日は大阪市内のホテルで開かれたさるパーティに出席し、二次会を経て終電で名張に帰る仕儀となりました。まだ頭がぼんやりしておりますので、本日はこのへんで。


●5月12日(土)
 きのうのつづきのお知らせです。
 「月刊寸鉄」という雑誌の昭和33年5月号に、乱歩の「大天狗之碑に寄せる」という短い文章が掲載されていることがわかりました。愛知県の斎藤亮さんからご教示をいただきました。
 乱歩は「月刊寸鉄」の昭和34年1月号に「推理小説ブーム」という随筆を寄せていて、『江戸川乱歩執筆年譜』をつくるとき、この雑誌のことをちょこっと調べたのですが、名古屋にあった寸鉄社が発行していたことまではわかったものの、愛知県や名古屋市の図書館で調べてもらっても現物を確認することができませんでした。
 地元の斎藤さんにもお尋ねしたのですが、当時は判明せず、それが先日になって、当方がなかば忘れていた「月刊寸鉄」を見つけてくださったとのお知らせを頂戴しましたので、さっそくコピーをおねだりいたしましたところ、「推理小説ブーム」のほかに、これまで知られていなかった「大天狗之碑に寄せる」までおまけにお送りいただいたという次第です。お礼を申しあげます。
 といったわけですので、『江戸川乱歩執筆年譜』では「推理小説ブーム」を昭和34年1月に記載しておりましたが、下記のとおり増補訂正いたします。

昭和33年/1958年
 
04月 大天狗之碑に寄せる 月刊寸鉄5月号(33号)25日
 12月 推理小説ブーム   月刊寸鉄1月号(41号)25日

 「大天狗之碑に寄せる」は、「大山・天狗祭」という特集の一篇。古来、天狗の来住する神山として崇められてきた大山に、「このたびも我ら天狗講の一同はこの大天狗の精神を具象化し、その利益を更に偉大なものとするために、ここ仙地大山阿夫利神社の庭に、大天狗の碑の鎮座式を催すことになつた」と、碑の建立にあたって何かの縁で肝煎りの一人を務めたらしい乱歩は、妙にノリのいい筆致で記しています。

虚空 おほそら を天狗と来ぬる国いくつ(百万)

 乱歩の場合、少年を拐かす天上的存在と見れば、天狗はそのまま怪人二十面相のイメージに重なります。この大山もまた、謡曲「花月」において花月少年が天狗に導かれて経巡った「取られて行きし山々」のひとつであったのかもしれません。
 大山阿夫利神社は神奈川県伊勢原市に鎮座しております。お近くの方は乱歩ゆかりの大天狗の碑を探訪されるのもご一興。きっと大天狗様のご利益があることでしょう。

大山阿夫利神社


●5月11日(金)
 本日は取り急ぎお知らせが二件。
 今月刊行される長篇乱歩小説の話題と、乱歩の随筆が掲載された雑誌に関する話題です。
 まず乱歩小説ですが、新潮社の PR 誌「波」5月号の「5月の新刊」のページに、『二青年図 乱歩と岩田準一』という新刊が予告されています(いま私の手許にある「波」5月号は、石川県にお住まいのさる乱歩ファンの方から、「こんな本が出ますよ」とのおたよりとともにお送りいただいたものです。お礼を申しあげます)。引用しましょう。

二青年図 乱歩と岩田準一■岩田準子
25日発売/本体1700円
竹久夢二に画才と美貌を寵愛された岩田準一は十八歳の夏、ある男に出会う。男の名は平井太郎、後の江戸川乱歩だった。二人はこの世では許されぬ悦楽の世界に淫して戯れ、『パノラマ島奇談』、少年探偵団シリーズなどを創造し、そして二人の愛を結晶させようと誓った……秘められた同性愛を孫娘が血肉を絞って描いた長篇小説。
46判/ハードカバー/300頁/4-10-446101-6

 乱歩ファンのみなさんには、いまさら岩田準一をご紹介する必要もないでしょう。三重県の鳥羽に生まれ、乱歩と同性愛研究をともにし、渋沢敬三のアチック・ミューゼアムに籍を置いていた昭和20年2月、四十代なかばで病を得て世を去ったこのディレッタントに関しては、昨年がちょうど生誕百年だったこともあって、その業績がそろそろまとめられてもいいころではないかと思っていたところへ、孫にあたる準子さん(このお名前は、のりこ、と読みます。鳥羽にお住まいです)が乱歩と準一の登場する書き下ろし小説を出版されることになったという寸法です。しかも、「許されぬ悦楽の世界」です。「淫して戯れ」です。「秘められた同性愛」です。「血肉を絞って描いた」です。うーん。三島由紀夫の遺族とはえらい違いだ。ともあれ、乱歩ファンとしては刮目して待つしかありません。
 お知らせが一件だけとなってしまいましたが、本日はこのへんで。


●5月10日(木)
 三角寛の『サンカ社会の研究』(現代書館)における徹底した(これ見よがしな、というべきか)統計性は、たとえば「全国サンカ分布表」に示されています。この表によれば明治43年2月1日現在、三重県の伊賀国には三十四張りのセブリ(サンカがかりそめの居住地に設営する天幕だと思ってください)が存在し、それが昭和24年9月7日には三張りにまで減じているのですが、その典拠が前者は「サンカ秘密記録」、後者は「全日箕(サンカ)組合調査」だというのでは、やはりどうにもうさんくさい。全国各地のサンカの数を正確に把握できていたのだとすれば、サンカ社会にはそれを可能ならしめるだけの強大な権力機構があったことになるのですが、そのあたりはいかがなものか。
 結構笑える統計には、「セブリの性交度数」なんてものがあります。三角寛が東海道十五か国をめぐり、サンカの夫婦から聞き書きして「真実度百点と信じたもの」を列挙したという資料です。あるセブリに暮らしていた老夫婦の記録は次のとおり。

夫(八十九歳)妻(九十歳)子十一、同居なし。
月経は五十七歳まで。五十六歳まで末子がゐたが、全児巣立つてからは、七十歳までは毎日つづけた。七十歳から八十歳までは隔日ぐらゐ。八十歳後は自然に減つた。
月に五回ぐらゐ。
ときどき毒草鳥兜を用ふ。(これは量を誤ると死亡する)
完遂所要時間は、一回二時間に及ぶ。

 卒寿を迎えた妻を相手にトリカブトを服用しながら月に五回も一回なんと二時間に及ぶ性交に励んでいる八十九歳の夫。そんな老人がいたというのです。最初に読んだときは大笑いしたものですが、いま読み返してみると人間というもののプリミティブな真実をいきなり眼の前につきつけられたようで、粛然たる気分にならぬでもありません。老人の性とはどのようなものであろうかと、私たちはたとえば谷崎潤一郎や川端康成や伊藤整や中村真一郎あたりの小説を読み、それで何かしら得心した気になってしまうわけなのですが、肉が落ちてたるみきったサンカの老人の四角い尻が妻のからだのうえでリズミカルな上下運動をつづけているさまを想像すると、そうした得心の賢しらが胸に迫ります。笑ってばかりもいられません。それどころか、アルカロイドによって生命を危機にさらしながら長年連れ添った妻とのまぐわいに臨む年老いた夫は、むしろ男性女性の双方から賞讃されてしかるべきかと思われます。男の鑑です。男のなかの男です。見習いたいものです。ここはひとつ、人知れずトリカブトでも育ててみるか。

 私たちは群集のなかの怪老人を尾行する要領で、乱歩の幼児性やユートピア志向や変身願望といったものを嗅ぎ回ってみる。しかし乱歩は、いわばたっぷりと手がかりを残しながらも巧妙に姿をくらましてしまう犯罪者なので、追跡劇はいつも徒労に帰するしかない道理なのだ。
 だからここでは、ほかの手がかりはあらかじめ放棄してしまい、乱歩の無意識へのまなざしだけに焦点を絞って、乱歩の作家像を組み立ててみよう。またしても群盲象を撫でる結果に終わったとしても、「乱歩自身をひとつの推理小説として読む」(中井英夫)試みは、やはり私たちの心を躍らせるものにはち

 というところで終わってしまいました。手許のプリントは縦書きで一枚に二十字×三十行×三段の設定で、それが二枚残っているだけですから、四百字九枚分の文章で途切れています。あとは MO ディスクを開かないことにはどうしようもないのですが、私のパソコンの MO ドライブは相変わらずちっとも反応してくれません。


●5月9日(水)
 三角寛の『サンカ社会の研究』(現代書館)を繙読しますと、この本の特徴のひとつが飽くなき統計性にあることが知られます。そしてその整然たる統計性こそが、あたかも異様に克明な家系図のごとく、虚偽捏造の疑いを生じさせてしまうことも事実です。読者には眉に唾する、生硬にいえば批評的に読む姿勢が要請されるところでしょう。

 にもかかわらず、乱歩は心の表層から深層へと視線をさまよわせがちな作家であった。この不可解な視線の彷徨に、おそらくは江戸川乱歩という作家の決定的な特質があり、乱歩を解読するための鍵もまた潜んでいると思われる。乱歩が無意識に対してどのように向き合っていたのか、それを確認することで、私たちは明確な輪郭をもった乱歩像を手にすることができるかもしれないのである。
 というのも、没後三十年のこんにち、江戸川乱歩はいまだにその作家像をくっきりとは結んでいない観が強い。乱歩の綴った自己像が告白と隠蔽とのあいだで不安定に揺れつづけているせいもあって、乱歩は多重露出めいた印象を呈して私たちの前に存在している。数多くの乱歩論も、「群盲象を撫でるのたとえどおり」(中島河太郎)といった状態だ。

 数多くの乱歩論のなかでもすでにして古典的名著の観がある松山巖さんの『乱歩と東京』(1984年、PARCO 出版局)には、『国民の医療史』(1977年、三省堂)という本の一節が引用されています。第六章「老人と少年」にある、日本の医療政策や医療制度に言及した箇所、ページでいえば p.202 にその引用が見えるのですが、この『国民の医療史』の著者は名張市にお住まいで、亡父が親しくしていただいた方でもあり(平たくいえば、よくまあ飽きもせずいっしょにお酒をくらっていた仲、ということです)、それにだいいち医学史や医療史を専門に研究していらっしゃる方ですから、復刊された『学問の家 宇田川家の人たち』を一部お送りいたしました。折り返しおはがきをいただいたのですが、そのなかに「日本の医史学者の書斎にはご尊父の本が1冊や2冊はあったわけで」云々と書かれていて、私は一驚を喫しました。亡父にそうした方面の著作があることは承知していましたが、それが専門家の参考書とされていたことまでは知らなかったからです。

 「おたくのツムジ」というホームページの「カルチャー」というカテゴリーにリンクを設定していただきましたのでお知らせいたします。

おたくのツムジ


●5月8日(火)
 名張は朝から雨模様です。

 オーギュスト・デュパンが「モルグ街の殺人」で証明してみせたように、探偵小説における人の心は、優秀な分析的知性によってすみずみまで明晰に分析できるものでなければならない。デュパンは友人の意識の流れを克明に跡づけてみせたが、それは人の思考と連想が完全に類推可能であること、というよりは、人の心理生活が意識と前意識のうえだけに成り立っていることを前提にした分析であって、無意識の侵入はまったく想定されていない。ジークムント・フロイトが生まれる七年前に死亡したポーにとって、コンプレックスや無意識の存在は、たとえばドッペルゲンガーを扱った短篇「ウィリアム・ウィルソン」において直観的に形象化されてはいるものの、いまだ確たる認識の対象ではなかったはずなのである。
 換言すれば、探偵小説は徹頭徹尾意識的であることを要請された小説なのだ。充分に意識的な犯罪者の行った犯行が、他人の意識の流れを自在にたどるのと同様の類推的方法で、探偵によってくまなく再現される、それが探偵小説の解決と呼ばれるものであり、解決のあとには意識が承認しえないような一片の不合理も残れされてはならないのであるから。

 自分は日本読書新聞の編集長を務めていたことがあるのだと、亡父も酔ったときには口にしないでもありませんでした。もちろん、佐野眞一さんの『業界紙諸君!』にある「昼間から酒を飲んでは卑猥な話に際限なく興じていた」なんて話は打ち明けませんでしたし、亡父をはじめとした「あぶれ者」のスタッフがある時期に一掃されてしまったという事実も、私はやはり同書で初めて知った次第なのですが、日本読書新聞をお払い箱になったあと、亡父は子供向けの伝記を書いて身を立てていたらしく、試みにネット上で亡父の名を検索すると、当時の著作がただ一点、とある古書店の目録に挙げられているのがわかりました。昭和17年に小学館から出た『杉田玄白の生涯 日本科学の先駆者』という本です。宇田川三代といい杉田玄白といい、当時の亡父は江戸時代の蘭学者にいたく興味を覚えていたものと思われます。


●5月7日(月)
 きょうは MO ドライブに手も触れておりません。しばらく放っておいたら元に戻るかもしれないと、これも昭和中期的発想による対処法です。
 それがいかにも通俗的なレベルのものであったことは否めないにせよ、わが国のフロイディズム受容史に江戸川乱歩の名は特筆大書されるべきである、といった意味のことを鈴木貞美さんがどこかにお書きでしたけれど、それはそのとおりだと私も思います。本邦におけるフロイディズムの紹介は大正12年の安田徳太郎によるそれをもって嚆矢としますが、乱歩は大正末期に精神分析学への興味をかきたてられ、邦訳書の出版を待っていたところ、昭和4年になってアルスの「フロイト精神分析体系」十二巻と春陽堂の「フロイト精神分析全集」十巻が踵を接して刊行されたので、「両方とも購入して愛読した」と述べています。

無意識へのまなざし
 江戸川乱歩をめぐるエッセーの冒頭にエドガー・ポーをひっぱり出したのは、ポーに対する乱歩の敬愛を踏襲するためだけではない。乱歩が心の表面よりはその奥底に深い関心を抱いていたらしいことが、ポーと乱歩それぞれの「群集の人」を対比することで明確になるからだ。つまり乱歩は、無意識の存在を強く意識しつづけていた作家なのである。
 その事実を示す文章を、「わが青春期」という晩年のエッセーから拾ってみよう。

 恋愛ばかりでなく、すべての物の考え方がだれとも一致しなかった。しかし、孤独に徹する勇気もなく、犯罪者にもなれず、自殺するほどの強い情熱もなく、結局、偽善的(仮面的)に世間と交わって行くほかはなかった。そして、大過なく五十七年を送って来た。子を産み、孫を持ち、好々爺となっている。
 しかし、今もって私のほんとうの心持でないもので生活している事に変りはない。小説にさえも私はほんとうのことを(意識的には)ほとんど書いていない。

 徹底した異端者意識と「仮面的」な生とを回想し、小説にさえ「ほんとうのこと」をほとんど書かなかったと断言する乱歩は、しかし周到にも「意識的には」という限定を忘れない。この言葉は、乱歩が無意識に対して充分に意識的であり、無意識のうちに書いてしまった「ほんとうのこと」に対して相当に自覚的であったことを物語っている。だがこれは、探偵作家としてはむしろ奇異な態度といえるだろう。

 そのアルスという出版社にかつて亡父が務めていたことがあるという事実を、私は佐野眞一さんの『業界紙諸君!』に収録された「「日本読書新聞」の“戦後総決算”」で初めて知りました。「アルス出身で机の引き出しにウイスキーのポケット瓶をしのばせるほど酒好きの」と記されていますから、亡父は何らかの理由でアルスをやめたあと、これもまた何らかの機縁で日本読書新聞の創刊に立ち会ったことになります。


●5月6日(日)
 昭和30年代の半ばから40年代の初めにかけて、日本の家電製品はじつに頻繁に接触が悪くなりました。テレビであれラジオであれ、ちょっと調子が悪くなると家族のだれかれから「接触が悪い」と診断されたもので、当時は故障すれば直すのが当たり前でしたから、電気屋さんに持ってゆくか来てもらうかすることになるのですが、軽度の故障の場合はまず叩いてみるのが一般的でした。叩くことで、悪くなった接触が旧に復することもあるからです。実際、首を振らなくなった扇風機が、どやされたおかげでまたがくがくと重たげに首を振り始めるといったことが、どこの家庭でも日常的に見られました。私のパソコンの MO ドライブは、これはもうどう考えても接触が悪いと表現するべき状態だと判断されるのですが、いくら叩いてもいうことを聞きません。結論、昭和中期の手法は現代には通用しない。

 昭和十年のエッセー「群集の中のロビンソン・クルーソー」からは、群集に向き合う乱歩の姿勢がより鮮明に浮かびあがってくる。人間の心の奥底には深く孤独に憧れる潜在願望があるのだと指摘して、乱歩はその「ロビンソン願望」についてこう記すのである。

ああいう群集の中の同伴者のない人間というものは、彼等自身は意識しないまでも、皆「ロビンソン願望」にそそのかされて、群集の中の孤独を味わいに来ているのではないであろうか。試みに群集の中の二人連れの人間と、独りぼっちの人間との顔を見比べてみるがよい。その二つの人種はまるで違った生きもののように見えるではないか。独りぼっちの人達の黙りこくった表情には、まざまざとロビンソン・クルーソーが現れているではないか。

 ポーが個人の内面に拘泥したのと対照的に、乱歩はそんなものへの頓着などどこかへうっちゃってしまい、人の心の奥底へ一気に降下している。乱歩の視線が据えられているのは、けっして一人の個人の意識ではなく、群集全体のいわば集合的無意識なのだ。

 したがって、昭和18年に出た亡父の著作が現代に通用するとはとても思えなかったのですが、津山洋学資料館の館長さんによれば、郷土ゆかりの宇田川三代を子供たちに紹介する手引き書として、ほかには手ごろなものがないのだとのことでした。それならどうぞとお答えしたのですが、自治体の財政難がいよいよ深刻化するおりから、館長さんは予算の捻出に相当苦労されたようで、復刊されるまでに九年の日月を要することになりました。


●5月5日(土)
 おかげさまで FailMaker の取り扱いには徐々に習熟しております。パソコンの MO ドライブはいまだに反応いたしません。そしてきのうのつづきです。

 疲れ果てた「私」は思いきって老人の前に立ちはだかり、正面から老人の顔を見据えてみる。しかし老人は何も気づかず、ふたたび粛々と歩き始める。「私」は尾行を放棄して、こんな感慨を胸に呟く。「あの老人は一人でいるに耐えられない。いわゆる群集の人なのだ。後を尾けてもなにになろう。彼自身についても、彼の行為についても、所詮知ることはできないのだ」と。
 江戸川乱歩は昭和四年の短篇「虫」のなかで、ポーのこの作品に言及している。主人公の柾木愛造は、乱歩の自伝的回想にある幼少年期をそのままなぞりながら成長したような青年で、「極端な人嫌い」でありながら、「漠然たる群集」を愛する孤独な散歩者でもあった。その心理はこんなふうに説明されている。

そのような群集は、彼にとって、局外から観賞すべき、絵や人形にしかすぎなかったし、又、夜の人波にもまれていることは、土蔵の中にいるよりも、かえって人眼を避けるゆえんでもあったのだから。人は、無関心な群集のただ中で、最も完全に彼自身を忘れることができた。群集こそ、彼にとってこよなき隠れ蓑であった。そして柾木愛造のこの群集好きは、あの芝居のはね時をねらって、木戸口をあふれ出る群集にまじって歩くことによって、僅かに夜更けの淋しさをまぎらしていた、ポオの Man of crowd の一種不可思議な心持とも、相通ずるところのものであった。

 とはいえ、ポーと乱歩の群集に対する態度には、微妙な差異が認められる。群集から一人の人間を選び出し、その内面を了解しようと腐心したあげく、解読不能な秘密に行きあたって了解を諦めてしまうポーに対して、乱歩は群集全体を俯瞰したまま、まなざしを個人に集中させようとはしないのである。

 ちょっと確認してみると、津山洋学資料館から『学問の家 宇田川家の人たち』復刊のお話があったのは1992年のことでした。九年も前になります。この本を出したとき亡父は浦和に住まいしており、奥付にもその住所が記されていましたから、館長さんは浦和市役所その他にあれこれと照会して、かなり苦労したあげく名張にたどりつかれたとのことでした。


●5月4日(金)
 パソコンの MO ドライブが反応しなくなっていることに気がつきました。これは困った。MO に保存してある古い文章を呼び出そうと思ったのですが、残念ながら果たせません。問題の文章は乱歩と無意識、なんてあたりをテーマに綴ったものです。梅に鶯、松に鶴、ユングといえばフロイトですから(しかし、「梅に鶯、松に鶴、浅吉ゆうたら清次でんがな」という「悪名」シリーズにおける田宮二郎のルーティン・フレーズをご存じの方もめっきり少なくなったものと思われます。ちなみに「悪名」や「座頭市」を手がけられた田中徳三監督は現在名張市にお住まいで、私は一度ご本人を前にして「悪名」二作目で田宮二郎が殺された雨の日のシーンの美しさについて滔々と弁じ立てたことがあるのですが、田中さんはさすが職人気質、そんな批評家みたいなこといっちゃ駄目、となんだか辟易した様子でおっしゃいました。それでも、あのシーンは封切り当時にも評判がよかったのではないか、とお聞きしますと、「まあ、新聞なんかでもかなり誉められましたね」となんだか嬉しげに往時を回顧していらっしゃいました。そんなことはどうでもいいのですが)、この伝言板で乱歩におけるフロイディズムを主題としてご機嫌をうかがうネタになるかと考え、抜粋できるところもあるだろうと MO を引きずり出した次第なのですが MO は役に立たず、仕方ありませんから抽斗をがさごそ探しますと問題の文章の冒頭をプリントアウトした書類が出てきました。

いちばんいい探偵法は、心理的に人の心の奥底を見抜くことです。だが、これは探偵自身の能力の問題ですがね。──「D坂の殺人事件」

群集と散歩者
 エドガー・アラン・ポーの短篇「群集の人」は、「言葉をもってしては、ついに語ることをゆるさぬ秘密」をめぐる物語だ。
 作中の「私」は、ある秋の夕暮、ロンドンの目抜き通りに面したコーヒー店の張り出し窓から群集を観察していた。やがて一人の老人が、悪魔を連想させるほどの「まったく特異なその表情」によって「私」の関心を惹きつける。私は好奇心を刺戟され、「あの胸のうち、そこにはどのような奇怪な歴史が秘められていることだろうか」、それを確認するために老人の尾行を試みる。
 日は暮れ、濃い霧は激しい雨に変わったが、老人は人群れを行きつ戻りつして、どこに落ち着く気配も見せない。朝になり、その一日がまた暮れようというころになっても、大都会の追跡劇は終わろうとしないのである。老人は一度も通りの雑踏を離れようとせず、界隈をただ歩き回るばかりなのだ。

 もう少し先までプリントしてあるのですが、とりあえず以上のような感じです。それにしても、MO がつかえないのは困ったものです。

 さて、横溝正史の「八つ墓村」や西村望さんの「丑三つの村」に火種を提供した「津山三十人殺し」でおなじみの岡山県津山市は、優れた洋学者を輩出したことでも知られます。その津山にある津山洋学資料館の館長さんから亡父の著作を復刊したいとお話をいただいたのは、もう八年か九年ほど前のことになります。などと私小説的な展開に持ち込んでしまっていいのだろうかとも思いますが、なにしろ同時性です個性化です。フロイトがまたユングが説いたごとく、自我は人間の主人ではありませんから困ったものです。

津山洋学資料館(津山工業高等専門学校)


●5月3日(木)
 大型連休はいかがお過ごしでしょうか。私は十年一日のごとく曲のない毎日ですが、ここ二、三日はデータベースソフトを相手に悪戦苦闘しております。乱歩の著書目録をつくるのに必要だろうと考え、パソコンに FileMaker というソフトをインストールしたのですが、つかいこなせるようになるにはしばらく時間がかかりそうな按配。大型連休もくそもあったものではありません。きょうもきょうとて午前中に片づけねばならぬ用事ができてしまい、時間がなくなりましたのでこのへんで失礼いたします。


●5月2日(水)
 さて、あしびきの山鳥の尾のしだり尾のようにも長々しく綴ってきたところをここで整理しますと、かりに昭和10年前後、乱歩の心に少年の姿をした心像が生じたのだとすれば、それは乱歩が直面していた危機から乱歩を救済し、乱歩が抱えていた対立を統合して、乱歩を個性化の過程へと歩ませる役割を担っていたのではあるまいかと、ユング風に考えることは可能であろうと思われます。もとより私はユングの所説をよく理解しているとはいいがたく、一知半解の徒にとどまるしかない次第ではあるのですが、昭和10年前後の乱歩にとって少年なるものがどんな意味をもっていたのかを考える場合、ユングのいう元型の機能を考慮に入れてみることには一定の意義が認められるはずです。といったところがここ二十日ほど、ユングの著作をあれこれひっくりかえして確認された一応の結論です。むろんファイナル・アンサーではないのですが、文業はもちろん戦前と戦後では人が変わったようだったと語り伝えられる伝記的な側面をも含めて、乱歩という神話を読み解くうえでひとつの有効な視点を得たような気がするとは申しあげておきます。

 お話かわって4月14日土曜夜、復刊された三角寛の本を携えて帰宅すると復刊された亡父の本が届けられていたという事実には、ユングのいう同時性めいたものか感じられました。この偶然の一致には深い意味が隠されているのではないか。私にはそのように感じられました。ちなみに亡父の著書『学問の家 宇田川家の人たち』は、江戸時代後期に蘭学の世界で活躍した宇田川家三代の伝記です。

宇田川家三代(岡山県総合文化センター)


●5月1日(火)
 本日はA・サミュエルズ、B・ショーター、F・プラウト著、山中康裕監修『ユング心理学辞典』(1993年、創元社)から引用します。

永遠の少年(えいえんのしょうねん)
puer aeterunus
 永遠の若者。一つの元型を表し、人格の神経症的要素とみられ、人のこころの中で活性化し、結合を求める両極対の一方のイメージ、もしくは元型的調整権威である(両極対のもう一つは老人である)。
 ユングは、永遠の少年が子ども元型を表すと考えた。そして、その繰り返し湧き出る魅惑は、人が自分自身を新たに再生できないことの投影から生じると考察した。自身の起源から離れる危険を冒すこと、永続的に進展を続ける状態に入ること、無邪気さによる救済をもたらすこと、新たな出発を思い描くことなどの能力は、すべてこの生まれたばかりの救済者がもつ属性である。永遠の少年の形姿は、相容れない対立するものを和解させる可能性をもつ象徴として、(現実生活上のその人自身にとっても)魅力的となる。

 早いものでもう5月です。いつまでこんなことをしているのかとお思いの方もいらっしゃるかもしれません。少年に関する一連の引用はほぼ出尽くした観があるのですが、とりあえずはあしたにつづきます。