2001年6

●6月30日(土)
 端倪すべからざるは白石加代子、と思わされたのはまさしくこの風船屋の場面でした。なぜかといいますに、「赤や青や紫の無数の玉が、先を争って、フワリフワリと昇って行ったのでございます」につづく「急いで下をのぞいてみますと、どうかしたはずみで、風船屋が粗相をして、ゴム風船を一度に空へ飛ばしたものとわかりました」のくだりで、彼女は見事に客席の笑いを誘っていたからです。
 よく考えてみれば、ここはたしかに笑いの取れるところです。十二階の頂上に至った時点で、観客はまもなく訪れるであろう異変を予感しています。その不吉な予感をあおるかのように、兄の姿は重力を無視して宙に漂わんばかりに見え、そこへもってきて色とりどりな無数の玉が天に昇ってゆくわけです。尋常ならざる光景によって、観客の不安はさらにかきたてられることになります。
 ところが何のことはない、その光景は風船屋の粗相によってもたらされたものであることが判明しました。この直前まで観客の心には、不安によって生じたこわばりをほぐしてくれるものへの欲求が存在していました。つまり笑いへの欲求が潜在していました。笑うことで不安を解消したい、藁にすがってでも笑いたい、識閾下でそんなふうに待ち設けていた観客は、ぽかんと口を開けて空を見あげている風船屋の間抜け面を連想して、ここぞとばかりに笑います。桂枝雀師匠の高名な所説に従っていうならば、ここにおいて観客の緊張はいったん緩和されたことになります。
 しかし話は進んでいます。何やら日常的ならざるものの到来に対する漠然たる不安は風船屋の粗相という具体的な日常性によってひとたびは打ち消されたものの、いまだ笑いの余韻も醒めやらぬに、

 妙なもので、それがきっかけになったというわけでもありますまいが、ちょうどその時……

 と白石加代子は口迅に喋りつづけ、観客はまた固唾をのんで舞台に見入ります。
 白石さんの「百物語」では、じつは笑いが重要な要素になっています。公式サイト「白石加代子の部屋」でマネージャーの笹部博司さんがお書きになっているところを引いておきます。

 「百物語」という企画を始めるに当たって、演出家の鴨下信一は、「白石さんの場合はことさら怖くする必要はないんです。白石さんが怖い話をするというだけで十分なんです。それだけで怖いですから。出てくるだけで怖いですから。ですから演出的には非常に楽です。もう勝ったみたいなものですね。怖さを演出する必要はないんですから。むしろ恐怖よりも笑いを重視したいと思っています。笑いのある恐怖、これが『百物語』のテーマです」というふうに語った。

 ご存じない方のために申し添えますと、当代を代表する役者の一人である白石加代子は、たしかに出てくるだけで怖い女優です。


●6月29日(金)
 白石加代子さんの「百物語」における「押絵と旅する男」冒頭段落の省略は、「狂人」という言葉への配慮に基づくものでもないようです(たしかこの言葉、初出の「新青年」では「きちがひ」とルビが振られていたのですが)。あれはいつでしたか三、四年前、朗読劇の公演をつづける女性ばかりの劇団が大阪のワッハ上方で乱歩作品を上演し、そのときも「百物語」と同じく「人間椅子」と「押絵と旅する男」がとりあげられたのですが、あとで劇団関係者にお聞きしたところ、あの最初の段落はどうにも邪魔な感じがしたから割愛したのであって、「狂人」という言葉に恐れをなしたわけではないとのことでした。「百物語」の場合も同様だと思います。あの段落、読んでる分には絶妙の導入と見えるのですが、演劇やってる人の生理にはそぐわぬものがあるのかもしれません。
 さて白石加代子さんの「百物語」ですが、その第八夜の舞台を見ることによって初めて、私は「押絵と旅する男」が内包する垂直性に気がつきました。というのも、この作品の舞台は、
 A 私の回想(場所は夜汽車のなか)
 B 男の回想(場所は十二階あたり)
 という二重の構造になっているのですが、AとBの差が舞台照明で巧みに表現されていたからです。つまりAの場合には、舞台の真上から垂直に光を投げおろすスポットライトが上手側と下手側に設けられ、客席からは頂点角の広い円錐状の光の束が舞台上にふたつ降りそそいでいるように見えます。そして両者はある高さでひとつに溶け合って、そこから下にはひとつの横に長い空間、つまり夜汽車の車内がたしかに出現していました。いっぽうのBでは、一転して細く引き絞られた一基のスポットが垂直に舞台中央を照らし出し、そこには円錐状の光の柱がくっきりと顕って、十二階を示す縦に長い空間性が表現されていたという次第です。
 こうした垂直性を感じさせるお芝居には、あまりお目にかかることがありません。ほかに思い当たる作品といえば、私の知る限りでは泉鏡花の「天守物語」くらいなものでしょうか(念のために申し添えますと、舞台装置の高低差と垂直性とはあまり関係がありません。いや、両者はまったく別のものであると申しあげておきましょう)。白石さんの「百物語」は「押絵と旅する男」に秘められていた本質を鮮やかに際立たせるものであった、と申しあげたいところなのですが、単にそれまでの私の読みが浅かっただけの話であるといったほうが正確なような気もします。
 そして舞台は十二階頂上、例の風船屋のシーンへと至ります。


●6月28日(木)
 白石加代子さんの公式サイト「白石加代子の部屋」によれば、乱歩作品が上演された「百物語」は1993年10月30日初演の第八夜で、「人間椅子」と「押絵と旅する男」の二本が演じられました。私はこの第八夜、名古屋市内で行われた公演に足を運んで堪能しました。店頭にペコちゃん人形を飾った不二家のチェーン店のなかでも名古屋では一二を争う老舗だという洋菓子屋のお嬢さんと会場で知り合いになり、終演後いっしょにお酒を飲んでからその不二家のお店がある店舗併用住宅までお送りしましたところ彼女がちょっと待っててといって店内からおみやげのデコレーションケーキをもってきてくれたのを記憶しておりますから、あるいはクリスマス前のことででもあったのでしょうか。しかし不二家では年中デコレーションケーキを売ってるわけですからあまりあてにはなりません。ともあれ1993年、すなわち乱歩生誕百年の前年のことであったと思います。
 さて「押絵と旅する男」の話です。「百物語」第八夜の「押絵と旅する男」では、あの印象的な導入部、

 この話が私の夢か私の一時的狂気の幻でなかったなら、あの押絵と旅をしていた男こそ狂人であったに違いない。

 に始まる冒頭の段落がばっさり省略され、

 いつともしれぬ、ある暖かい薄曇った日のことである。

 という第二段落からいきなり始まっておりましたので、私はいささか面食らいました。


●6月27日(水)
 思い出しました。白石加代子さんが「百物語」を上演するに際して手にしている台本の話です。かつてある女の子から教えてもらったその秘密を思い出しました。
 台本の見開きがこんな感じであると思ってください。

  D         C   B         A
 ┌─────┬─────┐ ┌─────┬─────┐
 │    7│    5│ │    3│    1│
 │    ↓│    ↓│ │    ↓│    ↓│
 │     │     │ │     │     │
 │     │     │ │     │     │
 │↓    │↓    │ │↓    │↓    │
 │8    │6    │ │4    │2    │
 └─────┴─────┘ └─────┴─────┘

 縦組みの場合、テキストはページAからページB、さらにC、Dへと流れます。Aの2はBの3につづき、Bの4はその裏面Cの5につづきます。これをまずB、それからA、次がD、最後がCという順にテキストを流してみましょう。どの見開きも左側のページを先に読むことになります。見開きの左右が入れ替わるわけです。Bの3から始まった文章はBの4からAの1につづき、Aの2からDの7へとつづきます。
 おわかりでしょうか。
 つまり読者は、ページAの最終行(2の行)を読みながら、B・Cのページを垂直に立てることによって、ページDの最初の行(7の行)を同時に視野に入れることができるという寸法です。テキストを追う視線がページをめくることで瞬間的に断たれてしまうのを、この方法なら防ぐことができます。実際にお手許の本でお試しいただければ、どんな血のめぐりの悪い方でもははーんとおわかり願えるはず。何かを朗読する羽目になったときにはぜひ一度お試しください。
 さて白石さんの「百物語」ですが、
白石さんの公式サイト「白石加代子の部屋」によれば6月30日と7月1日、東京・岩波ホールで第十九夜が初演されます。上演作品は、岡本綺堂「蛇精」、村上春樹「フリオ・イグレシアス」「トランプ」「もしょもしょ」、筒井康隆「池猫」、遠藤周作「蜘蛛」、江國香織「夏の少し前」、山川方夫「十三年」、泡坂妻夫「弟の首」、大坪砂男「天狗」と一挙十本。これで六十八話までこなすことになるといいます。

白石加代子の部屋


●6月26日(火)
 きのうはたいへん暑い日となりました。暑気のせいかして母方に遠くロシアの血を引くうちの番犬は食欲不振に陥ってしまい、私は私で暑気のせいではないのですがウイスキーを飲み過ごしてしまいました。きょうも暑いのかしら。

 さて私は、したがって白石加代子さんの「百物語」シリーズ第一夜も上野市内の会場で観劇しました。パンフレットを見つけ出してくれば日時や上演作品が判明するのですが、面倒ですから記憶だけを頼りに記すことにします。面倒といえば、
 生きているのは面倒だ、
 しかし死ぬのも面倒だ

 みたいなことを高田渡大先生が蚊取り線香(線香ではないですけれど、とにかく蚊を退治する商品)のテレビコマーシャルでじつに投げやりに文字どおりめんどくさそうにしかし嬉しげに歌っておりますが、ほんとにまあ面倒なものですな生きているということは。
 第一夜の上演作品はたしか三作で、最後に演じられたのが半村良さんの「箪笥」でした。「百物語」シリーズは朗読劇ですから、演者である白石加代子さんは台本を手にしたままで舞台を務めます。舞台上を歩いたり振りをつけたりすることもありますが、「箪笥」の場合は落語家のように正座しての朗読でした。ちなみにお知らせしておくと、白石さんのマネージャーからお聞きしたところによれば、台本を読むよりはいっそ作品全文を暗誦したほうがはるかに演じやすいのだそうです。
 ついでにいま思い出したことを記しておきますと、この台本にはちょっとした秘密があります。これは「百物語」を観たある女の子が発見して教えてくれたのですが、普通の縦組みの本の場合、見開き左側のページを読み終えて次のページへ移るに際して紙一枚をめくるためにわずかな時間的空白が生まれます。つまり奇数ページ最終行と偶数ページの最初の行とのあいだでテキストから眼が切れてしまうわけです。ところが「百物語」の台本には、そうした空白が生じないような工夫が凝らされています。奇数ページの最後の行を読みながら次のページの最初の行も視野に入れられる、そんな工夫です。
 と書いたあと、私は「箪笥」のテキストを確認するため手近なところから引っ張り出した『恐怖の森』というアンソロジーをあれこれいじくり回し、それがどんな工夫であったのかを思い出そうとしているのですが、どうもうまく行きません。まったく思い出せません。おかしいな。おかしいな。ああ面倒になってきた。

 しばらくぶりで臼田惣介さんの「読んでも死なない」をアップロードいたしました。「最新情報」からお進みください。


●6月25日(月)
 ふわふわと天に昇ってゆくゴム風船は、いわば垂直性のシンボルであると思われます。「押絵と旅する男」における垂直性は十二階という背の高い建物によって示されていますが、ゴム風船はそれをさらに補強し、限定をとっぱらって、地上からひたすらに天の高みを目指す無辺際の垂直性を象徴するものであると考えられます。
 以前にも記しましたとおり、私は初めて「押絵と旅する男」を読んだときのことがどうにも思い出せないのですが、そこに刻印された垂直性に気づいたときのことはよく記憶しております。それは読書ではなく、舞台を観ることによって感得された発見でした。といったことを書き始めると話が長くなってしまいますが、別に長くなってもかまわないわけですからこのままつづけますと、舞台というのは白石加代子さんの「百物語」、近現代の怪異譚を一人語りで上演するお芝居の一席でした。
 白石さんの「百物語」シリーズは、一回に二、三篇、本邦怪奇幻想小説の傑作をとりあげ、東京の岩波ホールで初演したあと全国を廻るという形式で、むろんのこと百篇成就を目標に公演されているのですが、最近の消息はあまり耳にしません。いまだ百篇には届いていないように思われます。ともあれ、スタートした当初は上野市内の会場でも上演が行われておりました。
 上野市というのはわが名張市の北に隣接する田舎町で、いうまでもない伊賀忍者の里、先日など忍者という売りを全国発信いたしましょうと市議会議員全員が忍者装束で市議会に出席するという狂気の沙汰を演じておりましたが、上野市民がそれを見て呆れ返るということもなかったみたいですから、上野市の連中というのは揃いも揃ってみんな莫迦なのでしょう。おめでたい話です。
 その上野市に一軒の漬物屋の老舗があり、そこの若旦那が白石加代子さんの当時のマネージャーと知り合いで、といった事情があって、白石さんの「百物語」上野公演が実現していたのだと記憶します。


●6月24日(日)
 さてそのゴム風船の話です。
 この伝言板の読者にはいまさら「押絵と旅する男」のストーリーを紹介する要もないものと思われますが、それでもいささかを確認しておきますと、
 1 弟は兄を尾行して十二階頂上の廊下に至る、
 2 弟は兄に声をかけ、兄の恋の一部始終を知らされる、
 3 風船屋が粗相をしてゴム風船が空に昇ってゆく、
 4 兄が遠めがねで眷恋の娘を発見する、
 5 兄と弟は観音様の境内に急行する、
 といったゆくたてがあって、兄の恋した娘が覗きからくりの八百屋お七であったことが判明し、そのあと兄が押絵になってお七を抱きしめるという怪異が描かれます。
 2からいきなり4に進まず、ストーリーには無縁と見える3のシーンを挿入することで、乱歩はやがて訪れる異変を先触れし怪異を予告しながら読者の不安をかきたてています。かかる小説作法は、とてものことに凡手のよくなしうるところではありません。わずか一段落にすぎぬこのゴム風船のシーンには、小説家乱歩の並々ならぬ伎倆が示されているとともに、
乱歩がじっくり腰を据えてこの作品を執筆したこともまた示されているといえます。
 さてこのゴム風船の話です。
 このゴム風船は、いったい何を表しているのか。

 石井輝男監督の新作「盲獣 vs 一寸法師」が本日、第23回ぴあフィルムフェスティバルでプレミア上映されることは先日もお知らせしましたが、東京まで足を運んでなんかいられないと地団駄を踏んでいらっしゃるあなた、この映画のオフィシャルサイトで渇をお癒しください。「盲獣」に寄せた竹中英太郎の絵が配され、RealPlayer で予告篇を見ることもできる、いかにもカルトなサイトです。構えて見るべし。

石井輝男監督作品盲獣VS一寸法師


●6月23日(土)
 きのうは時間がなくて伝言板をお休みしてしまいました。しかしなにしろ巨人が阪神ごときを相手に連夜のサヨナラ負けを喫した翌日のことですから、その程度の異変が起きてもなんら不思議はないものと思われます。それにしてもきのうもきのうとて三連敗、この不甲斐なさではまだまだ異変が続発するのではないかと厭な予感もする次第ですが、異変といえば「押絵と旅する男」です。この作品の終盤では、訪れる異変の前兆として十二階頂上のシーンにこんな描写が挿入されています。

 さっきも申しました通り、兄のうしろに立っていますと、見えるものは空ばかりで、モヤモヤした、むら雲のなかに、兄のほっそりとした洋服姿が絵のように浮き上がって、むら雲の方で動いているのを、兄のからだが宙に漂うかと見誤まるばかりでございましたが、そこへ、突然花火でも打ち上げたように、白っぽい大空の中を、赤や青や紫の無数の玉が、先を争って、フワリフワリと昇って行ったのでございます。お話ししたのではわかりますまいが、ほんとうに絵のようで、また何かの前兆のようで、私はなんとも言えない妖しい気持になったものでした。なんであろうと、急いで下をのぞいてみますと、どうかしたはずみで、風船屋が粗相をして、ゴム風船を一度に空へ飛ばしたものとわかりましたが、その時分は、ゴム風船そのものが、今よりはずっと珍らしゅうござんしたから、正体がわかっても、私はまだ妙な気持がしておりましたものですよ。

 この直後、兄はとうとう遠めがねの視野に眷恋の娘を発見し、兄と弟は十二階をいっさんにかけおりて観音様の境内を目指すわけですが、このゴム風船はいったい何であるのか、ということを考えてみたいと思います。
 なんて具合にたまたま書き記した「異変」という言葉に端を発しただけのなりゆきまかせで
話を進めていいものだろうかと訝りながら、あとはあしたにつづきます。


●6月21日(木)
 「押絵と旅する男」を対岸に置いてみるというのは、単にほかの作品とのあいだに一線を画して別扱いにするといったことを意味しているのではありません。この作品をひとつだけ向こう岸に置いてみることによって、私たちは乱歩の文業全体を立体的相貌のもとに眺める視点を獲得できるのではないか。私にはそのように思われる次第です。このところちょっと多忙にしております。短くて申し訳ありませんが、本日はこのへんで。


●6月20日(水)
 しかしおりにふれて何回か読み返すうち、「押絵と旅する男」がただならぬ作品であることは容易に知れてきました。作品の出来は別として、西欧的合理主義に拝跪しつづけた江戸川乱歩という作家が生涯にただ一度その禁を犯した作品であるという意味で、これはたしかにただならぬ小説です。作品の出来を考慮に入れれば、事態はさらに厄介になります。「押絵と旅する男」は紛れもない傑作であり、ついふらふらと気の迷いから合理主義の埒を踏み越えてしまいました、みたいな腰の据わらぬ作品ではまったくありません。作家としての力量が存分に示された一篇です。取るに足りぬ作品だからと片づけて黙殺することなど、とうていできぬ相談です。初期短篇から通俗長篇へと移行する重要な時期に書かれたという事実も、またなんだかただならぬものだといえます。乱歩は「押絵と旅する男」において、いわば確信犯として合理主義を蹂躙する罪を犯し、以後は終生、その密かな犯罪について完全な黙秘をつづけたように見受けられる次第です。
 こんな片づけにくい作品をいったいどう取り扱えばいいのか。それは私にとってずいぶんと悩ましい問題でありつづけたのですが、現時点でのとりあえずの結論は、対岸に置いてみる、といったことです。


●6月19日(火)
 ところで私には、「押絵と旅する男」を初めて読んだのがいつのことであったのか、どの本で読んだのであったのか、不思議なことにまったく思い出せません。ですから高原英理さんがお書きになっているような、初読時の意外な印象といったものもまるで残っていないありさまです。鋭意編纂中の『江戸川乱歩著書目録』で当たりをつけてみますと、

暗黒のメルヘン
  昭和四十六年五月一日 立風書房
  【編】澁澤龍彦
  【収録】押絵と旅する男

 ではなかったかいなという気はしてくるのですが、もしかしたら、

日本のSF(短篇集)古典篇/世界SF全集34
  昭和四十六年四月三十日 早川書房
  【編】石川喬司
  【収録】押絵と旅する男/鏡地獄

 であったのではないかという気もしてきます。これが「孤島の鬼」であれば、

陰獣
  昭和四十八年九月十日 角川書店/角川文庫3082
  【内容】陰獣/孤島の鬼

 であったと克明のうえにも克明に、あの「人外境便り」を読んだのは電車のなかであったということまでまざまざと想起できるのですが、「押絵と旅する男」の記憶はそれこそ魚津の蜃気楼のごとく曖昧模糊としております。ちなみに私が少年もの以外の乱歩作品に接したのは宮田雅之さんの切り絵に飾られた一連の角川文庫でしたから、そうなると、

屋根裏の散歩者
  昭和四十九年十月三十日 角川書店/角川文庫3087
  【内容】屋根裏の散歩者/人間豹/押絵と旅する男/恐ろしき錯誤

 であったはずなのですが、この本ではなかったということだけはたしかです。うーん。わからなくなってきました。「押絵と旅する男」のことがわからなくなったのではなくて、自分が何を書きたいのかがわからなくなってきました。


●6月18日(月)
 乱歩作品の読み手にとって、「押絵と旅する男」は紛れもない難問として存在しています。乱歩の文業全体のなかにこの作品をうまく位置づけようとする試みは、私たちに餃子やラーメンや春巻や野菜炒めや焼きそばや麻婆豆腐や青椒牛肉絲やなんかが並んだ店先のショーケースになぜかマックフライポテトの見本を陳列しなければならなくなった中華料理店経営者のような困惑を覚えさせます。「伝奇M」における高原英理さんの言を引きますと、

『押絵と旅する男』は、(小酒井不木との合作『指』を除くと)乱歩の唯一の純粋な幻想小説で、結末が論理的説明によらないものである。私はこれを初めて読んだとき既に多くの乱歩の小説を読んでいたので、それらとの差にむしろ驚いた記憶がある。乱歩がトリックなしの不思議を描いたことが意外だったのだ。

 いささか中略いたしまして、

こんなふうに完全に非現実な結末に行ってしまうのは他にない。乱歩の密かなもうひとつの可能性を示すために、そして「伝奇エンタテインメント」に望む方向を示すためにもこれは欠かせない。蛇足だが総合的な意味での乱歩の短編としてはベスト1と言えるだろう。

 といった次第です。かくのごとくたとえば「乱歩の密かなもうひとつの可能性」という補助線を発見することによってのみ、「押絵と旅する男」はかろうじて乱歩の文業のなかに収めることのできる作品なのであり、高原さんの乱歩作品ベスト10におけるこの収め方は私にはたいへん興味深いものでした。そしてこうした試みを重ねれば重ねるほど、「押絵と旅する男」は乱歩作品全体のなかでその異様な相貌をいよいよ際立たせてくるものと思われます。


●6月17日(日)
 朝は朝星、夜は夜星、昼は梅干しいただいて、などと歌笑だか痴楽だか脈絡もなく東京落語のノリになっていることからもおわかりのとおり、日夜世にいう半狂乱の状態で勇往邁進している「江戸川乱歩著書目録」のデータ整理に関するご報告です。レイアウトソフトからデータベースソフトに一点一点また一点と著書のデータを移し替える無味乾燥で砂を噛むようで思わず性犯罪に走ってしまいそうになるほど心躍る作業は昨日、ようやくにして乱歩が死去した昭和40年までを終えることができました。大正14年7月の『心理試験』から昭和40年7月の『児童文学への招待』まで、総数は六百八十七点を数えております。別に数えたわけではないのですがデータベースソフトのカウンターがそのように告げております。そして没後の点数は、どうやら生前のそれを上回ってしまうらしいことが見込まれます。見込みたくない見込みたくない。いまだコースを半周もしてないなんて私はそんなことほんとに見込みたくないのですが見込まれるのですから仕方ありません。ああもううんざりだ私は。そんなことを見込むために生まれてきたわけではないのだ私は。乱歩の本なんかこの世から消えてなくなればいいのだ私は。何をいっているのだ私は。酒が残っているのだ私は。


●6月16日(土)
 乱歩作品の新たな「読み」の見本として、「伝奇M」の
「ジャンル別・作家別 究極の伝奇 Best1000」に掲載された高原英理さんの「孤島の鬼」評を引いておきます。

「鴎外全集」の中に二、三行だけあったという中国の人為的身体変形の記事から発想され、しかも語り手への同性愛をひたすら無残な愛として描き(ただ、本当のところ、それは乱歩の望む描き方だったとはいえまい)、迷路、暗号、不可能殺人、名家の血筋をひく者の受難と大恋愛、異常な野望を持つ悪人、というゴシックロマンス的要素を加える。とりわけ監禁された娘による閉ざされた世界の異様な報告が読みどころである。また、怪奇猟奇的要素や物語的興味とは別に、「おぞましいもの」を現出させる語りの技法、自己愛の表出様式といった点などからも『孤島の鬼』は新たな読み方を誘って止まない。さらに、読みようによっては哀切なゲイの悲恋、作者の身障者への表向きは見えない自己同一視さえ認めることのできるこの多元的な大作は、エンタテインメントの金字塔として伝奇・ミステリーのみならず、小説というジャンルある限り記憶されねばならない。だがむろん、文学的評価など読み手にはどうだってよいので、私が今言えるのは、もしこれを読まずにいるのなら損ですよ、ということだけだ。

 ここに記された「孤島の鬼」をめぐる「新たな読み方」は、本サイト「乱歩百物語」に掲載した高原さんの「語りの事故現場」に示されています。未読の方はぜひお読みください。それにしても出たばかりの雑誌からこんなに引用してもいいのかしら、と思いながらさらにつづけますと、この高原さんの乱歩作品ベスト10を拝見して私がもっとも興味をひかれたのは、十番目の作品として「押絵と旅する男」が挙げられていることでした。


●6月15日(金)
 さて学習研究社の「ムー」7月号別冊「伝奇M」(一六〇〇円)の話題ですが、
「ジャンル別・作家別 究極の伝奇 Best1000」の江戸川乱歩の担当は高原英理さん。乱歩作品に「伝奇」という観点から照明をあてる試みはこれまでに例がなく(あったかもしれませんが思い出せません)、その意味できわめてユニークな乱歩のベスト10が選ばれております。すなわち、

 怪奇・恐怖・幻想・猟奇、そして人間の身体への畏怖に満ちた執着、こうした要素の作り出す魅惑の物語だけを選択的に掲げることにした。かつては「変格探偵小説」と呼ばれもし、ときに怪奇小説、ときに冒険小説、後にはホラーとも呼ばれてきた小説の作者としての江戸川乱歩の真骨頂は次の十作品だ。

 として掲げられた、

1 孤島の鬼
2 盲獣
3 芋虫

 を筆頭とする十点は、乱歩作品をミステリー小説と見る従来の「常識」をあっさり覆すもので、強いて「伝奇」という観点を持ち出すまでもなく(「伝奇」がテーマの特集ですから持ち出さなければ仕方ありませんが)、乱歩作品の新たな「読み」を提示するひとつの潔い選択であるといえます。附言すれば、江戸川乱歩という作家をミステリーという軛から解放するこうした「読み」は今後ますますその数を増してゆくのではないかと思われる次第で、じつに祝着至極です。


●6月14日(木)
 そういえば「RAMPO Up-To-Date」の更新もサボりっぱなしではないかと頭を抱えつつ、きのう本屋さんで見つけた雑誌のご紹介とまいります。
 学習研究社から「ムー」7月号別冊「伝奇M」(一六〇〇円)が出ております。「電人M
」なら知ってるけど「伝奇M」なんて聞いたことがないぞと手に取りましたところ、それもそのはず創刊号。四百六十ページを超える大冊で定価一六〇〇円ですから、一ページ約三円五〇銭という見当になります(こういう見当をつけて本や雑誌を買う人はあまりいません)。誌名のMはドイツ語 MONSTRUM(モンストルム=怪物)のMとのことですから、邦訳すればMはもののけのM、といった見当になるでしょうか(かなり見当が外れております)。「ジャンル別・作家別 究極の伝奇 Best1000」という怒濤の特集が組まれていて、なかに内外二十五作家をとりあげてそれぞれのベスト10を選ぶという企画がありました。
 きのう私が覗いたのは、名張市中村に今年4月オープンした「ブックスアルデ」という伊賀地域最大の新刊書店でした。名張市にはその業界で全国的に名を知られたオキツモという耐熱塗料メーカーがあるのですが、そのオキツモが旧工場の跡地を利用して開設したのがこの書店です。店内をうろうろしているとオキツモ株式会社の会長(ということはブックスアルデの実質的なオーナーであることを意味します)に呼び止められ、店内喫茶コーナーでコーヒーをご馳走になりながら世間話に興じました。会長さんは、店内に乱歩の本を常備したコーナーをつくりたい、みたいなことをおっしゃったのですが、私は、そのコーナーには木屋正酒造謹製の「乱歩幻影城」を置くべきです、恰好の彩りになること請け合いです、みたいなことしかお答えできず、ご馳走になったうえにこのざまではなんとも申し訳ないなと思いましたので、会長さんとお別れしたあと「伝奇M」を購入し、陰ながら売り上げに協力した次第です。


●6月13日(水)
 江戸川乱歩ゆかりの池袋にある三角寛ゆかりの新文芸坐で6月2日に旧作「江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間」の回顧上映が終わったと思ったら、今度は6月22日開幕の第23回ぴあフィルムフェスティバルで石井輝男監督の新作「盲獣 vs 一寸法師」がプレミア上映されるそうです。招待作品部門の「キング・オブ・カルト 石井輝男」なる特集に組み込まれ、網走番外地や地帯シリーズをこきまぜたラインナップのなかで、くだんの新作は6月24日午後3時30分から東京国際フォーラム・ホール D でお披露目されます。
 私はつい先日、神津恭介ファンクラブのお一人から「盲獣 vs 一寸法師」の「出演者大募集」というチラシを頂戴しましたので、オーディションがあるという11月前半の日程を調整する必要があるなと思案していたのですが、なんだ、オーディションは済んでいたのか、映画はできているのか、おれの出番はなかったのか、とがっかりいたしました。そのチラシによると、

◆熱狂的カルトファン待望の新作!
◆奇才・石井輝男が描く江戸川乱歩の幻想的世界!
◆あの塚本晋也が明智小五郎役で出演!

 とのことで、

 “盲獣”と呼ばれる凶悪犯は自ら盲目であることを誇っている男だ。目が見える人間には味わえぬ女の肌の感触を味わう為に次々と殺人を犯す恐るべき盲獣である。一方“一寸法師”は、自らの奇形を嘆き恨み、美貌の若き人妻を責めまくる恨の塊のような小人である。そして、今、盲獣と一寸法師の悪の結晶がスクリーンで炸裂する!!

 みたいな感じの映画だそうです。さぞや炸裂つづきのすごい作品であろうと期待されますので、可能な方はお運びください。日程などの詳細は「ぴあフィルムフェスティバル」にある下記のページでご覧いただけます。以上、情報提供は玉川知花さんと小林宏至さんでした。お礼を申しあげます。

キング・オブ・カルト 石井輝男


●6月12日(火)
 そんな次第で私のような人間が古書に関係あるお仕事に携わることには相当無理があるのですが、まあ致し方ありません。関係各位のお力添えをいただいてほそぼそとつづけております。今後ともよろしくお願いいたします。
 というところで古書マニアの雑誌「sumus」第六号の話題です。巻末の「『ぷろふいる』五十年」は、探偵雑誌「ぷろふいる」を発行し、ぷろふいる社、かもめ書房などを経営して探偵小説の出版を手がけた熊谷市郎氏のインタビュー。取材は1983年、川島昭夫さんと横山茂雄さんによって行われ、十八年の時を隔てて陽の目を見たという一篇です。川島さんがたまたま立ち寄った古書店の店先に「ぷろふいる」を見つけて驚き、古書店主の「この雑誌、私が出してましたんや」という言葉を聞いて耳を疑ったという発端からして古書綺譚めくゆくたてですが、探偵小説ファンが読めば興趣は尽きぬものと思われます。
 乱歩に関するやりとりを引いておきます。

─江戸川乱歩とご親交はあったんですか?
熊谷・もちろんありましたよ。あの人はむこうでようご飯ごちそうになったりね、しました。だいたい私があの時分、あの人は西田[政治]はんからの紹介で知り合いになったんです。
─かもめ書房から江戸川乱歩の『幻影の城主』[昭和22年2月刊]これのなかの「彼」が『ぷろふいる』に連載[昭和11年12月、12年2月〜4月]だったのですね。そういうことで熊谷さんが出版なさったのですか?
─それは東京へ、乱歩に会いに行かれて。
熊谷・ええ。原稿の印税だけもろうて。
─あれはいい本だと思います。
熊谷・このごろあらしまへんなぁ。このあいだ古本屋の市に三千五百円ででていましたやろ。
─ぼくはつい一週間ほど前に千五百円で買いました。
熊谷・東京の相場には三千五百円。
─あれは乱歩のエッセイのなかでも一番質が高いものですけど。
熊谷・いや「鬼の言葉」なんかでっしゃろ。
─でも「彼」などには評論や小説よりむしろ乱歩自身のなにか趣味がでてるような、同性愛関係とか。

 つづきは「sumus」第六号を購入してお読みいただきたいと思いますが、取材する側の探偵小説に関する並々ならぬ知識と情熱がそれを受ける側の飄々たる語り口と相俟って、なかなかに味わい深いインタビューになっております。購入申し込みは下記の「sumus」ホームページでどうぞ。その下の「江戸川乱歩著書リストβ版」では、私がのたうちまわっている古書地獄の一端をご覧いただけます。ほんとに地獄なんですから。

sumus

江戸川乱歩著書リストβ版


●6月11日(月)
 「古書と私」その四。
 そんなこんなで古書に関しては頭にどのつく素人である私ですが、この世には古書探究能力とでも呼ぶべきものがたしかに存在するらしいと、最近になってようやく気がつきました。
 こと乱歩に関していえば、愛媛県にお住まいのFさん(いきなり藤原正明という実名を明かすのはいかがなものかと思われますので、ネット上匿名といたします)の古書探究能力がじつにどうも尋常一様のものではなく、私はこれまでにも、雑誌といわず書籍といわず、God Hand が発掘したとしか思えぬものをずいぶんたくさんご教示いただきました。
 このFさん、乱歩ファンであると同時に高木彬光ファンでもいらっしゃって、じつは昨10日、神津恭介ファンクラブ御一行大阪・名張ツアーの一員として名張市立図書館においでくださいました。少し前に三角寛がらみで話題にした雑誌「人世」のコピーなどをおみやげに頂戴し、私はいたく驚きかつ感動いたしましたので、予定外のことながら「人世」について以下に記します。
 「人世」は、三角寛が経営していた映画館「文芸会館人世坐」の発行で、発行者は三角寛。人世坐は「文芸同志会」なるものを組織していて、委員には徳川夢声、井伏鱒二、浜本浩、横山隆一、永井龍男、吉川英治といった錚々たるところが名を連ねていました。「人世」巻末には文芸同志会への「入会のおすすめ」も掲載されているのですが、この文章には三角寛独特のあくの強いいかがわしさが感じられて、バッタモン臭芬々たるものがあることを附記しておきます。
 昭和25年12月に発行された第十九号の編集後記「編集のあと」には、「新年号より、医学博士で画伯の宮田重雄、探偵小説家の江戸川乱歩の両氏が、同志会委員のメムバーに、新に加はり、筆をおとり下さる事に決りました。どうかご期待下さい」との予告が見え、翌26年1月4日発行の「人世」第二十号に乱歩の「活弁志願記」が掲載されているという寸法です。
 それにいたしましても、このFさんの卓越した古書収集能力を目の当たりにするとただただ圧倒されて何をする気にもなれず、古書に関する才覚の乏しさにうなだれるしかない私です。
 ちなみに神津恭介ファンクラブ御一行には、名張市立図書館の江戸川乱歩コーナーと関係者以外立入禁止の地下書庫、さらに『貼雑年譜』復刻版をじっくりご覧いただきました。つづいて、一か月前に殺人事件が発生したジャスコ新名張店にほどちかい「もりわき」で伊賀牛をご賞味いただいたあと、木屋正酒造謹製「乱歩幻影城」、山本松寿堂謹製「二銭銅貨煎餅」などをおみやげに(菓子舗さわ田謹製「ランポパイ」は同店店頭に並んでいなくて購入できませんでした)、疲労困憊して帰途についていただいた次第です。お別れの際、近鉄名張駅前の交番と公衆便所を背景に撮影いたしましたのが下の一枚。

神津恭介ファンクラブ御一行


●6月10日(日)
 本日はあまり体調がよろしくありません。たいしたことはありません。ご心配には及びません。なんとなく頭がぼーっとしていてたいへん気持ちのいい状態です。けさも
平山雄一さんの「峯太郎・乱歩・ドイル掲示板」にお邪魔してきました。もうひと眠りしたいと思います。それではまたあした。ご機嫌よう。

峯太郎・乱歩・ドイル掲示板


●6月9日(土)
 「古書と私」その三。
 そうそう
頭のなかを真っ白にしてばかりもいられないのですが、探偵小説ファンや古書マニアと呼ばれる人たちと話していると、頭のなかが真っ白ではないけれど灰色がかってくることはよくあります。たとえば畸人郷の例会において、野村恒彦さんと長瀬信行さんといういずれも年季の入ったミステリマニアが本気になって和洋の探偵小説について喋っているのを拝聴するときには異国へ来たような感じを抱きますし、年若い会員の人たちが今出来のいわゆる新本格作品について話しているのを耳にするとこれはもう違う星に来たかのような隔絶感を覚えます。頭のなかは灰色です。
 古書に関しても同様で、古書マニアの情熱というものも私にはきわめて不可解です。なにしろ私がこれまでに購入した古書を数えるなら(むろん名張市立図書館が購入したものは除きますが)、おそらく十指でことは足ります。いや、十指は無理としても二十指なら充分でしょう。当地名張市にも昨秋でしたかブック・オフなるものがオープンし、さっそく覗いてみましたところ講談社の現代推理小説大系1『江戸川乱歩』がありましたので月報欲しさに購入したのですが(たぶん三〇〇円だったと思います)、以来あまり足を運ぶことはなく、いや、そういえば春陽文庫の乱歩作品も手許に置いておきたいと思ってこれはブック・オフで揃えようと決意し、たまに覗いて買い集めていたのですがそのうちどれを購入してあるのかがわからなくなって、しかし未購入本のリストを携えてブック・オフに足を運ぶほどの情熱もありませんのでなんとなくそのままになっております。この春陽文庫を加えると私が購入した古書の数は二十指でも足りなくて三、四十指に届くかもしれませんが、しかしその程度であることには間違いありません。年季の入った古書マニアからうかがうお話は、やはり私の頭のなかを真っ白にしてしまいます。

 頭のなかが白くなるといえば、平山雄一さんの「峯太郎・乱歩・ドイル掲示板」で乱歩の代作問題が話題になっておりました。拝読した私の頭のなかはすっかり真っ白になってしまいました。

峯太郎・乱歩・ドイル掲示板


●6月8日(金)
 昨日到着した「ミステリー文学資料館ニュース」第3号によりますと、江戸川乱歩の『貼雑年譜』復刻版(東京創元社)はミステリー文学資料館(池袋3−1−2、光文社ビル1F、電話03−3986−3024
)でも閲覧可能だそうです。ほかに探偵雑誌の「探偵」八冊(駿南社)、「月刊探偵」七冊(黒白書房)あたりも蔵書に加わったとのことですので、ひとことお知らせする次第です。

 「古書と私」その二。
 かりそめにも人からカリスマ嘱託だの乱歩オタクだのと呼ばれるような人間が古書や探偵小説にここまで無知であっていいはずがない、と思った私は、以前から名張市立図書館がお世話になっていた大阪在住のビッグネームミステリファン(といった言葉があるのかどうか)、田村良宏さんにお伺いを立てました。で、教えていただいたのが畸人郷というミステリマニアのサークル。大阪はウメダのとある喫茶店で開かれていた例会に案内していただいて、私はそこで生まれて初めて、探偵小説ファンないしは古書マニアと呼ばれる人たちを目撃したのでした。初めての経験ですから驚くことも多かったのですが、最大の驚きは畸人郷代表である野村恒彦さんの言葉でした。横溝正史の熱烈なファンであるという野村さんは、何気なくこんなことをおっしゃいました。
 「本陣は全部持ってます」
 いくら私だって、「本陣」が「本陣殺人事件」を指しているらしいことはすぐわかりました。しかし、全部持っているとはいかなる意味か。「本陣殺人事件」の前半しか持ってないとか最終章のみ欠くとか、そんな持ち方をしている人間がいるというのか。頭のなかが真っ白になりかけた私は、それにつづく野村さんの言葉でようやく事情を理解しました。つまり、作品が連載された初出誌から単行本、全集、文庫本、さらには再録された雑誌に至るまで、「本陣殺人事件」が収録された書籍雑誌はすべて所有している、それが全部持っているという言葉の意味だったのです。角川文庫のカバーデザインの変更も、むろんのことすべて押さえてあるといいます。私は唖然とし、頭のなかがふたたび真っ白になってゆくのを覚えました。


●6月7日(木)
 昨日午後6時ごろから本日午前2時ごろまで、名張人外境がおかしくなっていたみたいです。プロバイダから届いたメールによりますと、「弊社ホームページ用 www サーバの障害により弊社及び弊社メンバー様のホームページが閲覧できなくなりました。障害内容としましては、ホームページの閲覧および FTP によるホームページのアップデートが出来ないというものです」とのこと。私はこの時間帯には一度も接続いたしませんでしたので、「サーバの障害」によって具体的にどんな事態が生じていたのかはよくわからぬ次第ですが、ご心配をいただいた向きもおありかもしれません。無事復旧したそうですからご休心ください。ここで附記いたしますと、プロバイダからのメールを読んだ私は、このサーバとやらの障害が永遠につづいていたらホームページの更新は永遠にできなかったわけであり、もしもそうだったら毎日が
どんなに楽になっただろう、と不覚にも悔し涙を流してしまいました。

 「古書と私」その一。
 私が名張市立図書館の乱歩資料担当カリスマ嘱託を拝命したのは1995年のことですから、早いものでもう足かけ七年という計算になります。七年もあれば人間はたいていのことができる、しかし七年なんてすぐに過ぎてしまう、というよく考えたら結構支離滅裂なことを夏目漱石がどこかに書いていましたが、たしかに七年はあっというまに経過しました。しかし、カリスマ嘱託として手がけようとしていたお仕事は「たいてい」どころか「たいして」できていないのではないかと思い返されます。
 当初の目論見では、私は三年のあいだに江戸川乱歩リファレンスブック三冊をてきぱきとつくりあげ、ま、こんな感じで乱歩のことをやっていったら名張市立図書館は全国にも類のない天下無双の地方図書館になれますから、あとは君たちでよろしくやってくれたまえ、それでは公務員のみなさんさようなら、せいぜい退職金と年金の皮算用でもしながら身内で肩を寄せ合って波風のない人生をお送りくださいな、と完爾として微笑みながら惜しまれつつお役御免になるはずだったのですが、完爾としてどころか眼を血走らせて『江戸川乱歩著書目録』づくりに明け暮れている昨今、なんだかとっても支離滅裂な人生に踏み迷っているという印象が拭いがたく、しかも嘱託には退職金も年金もないという悲惨さです。
 さて古書の話です。私は古書に無縁な毎日を送っておりました。古本屋巡りの娯しみ、といったものにはとんと縁のない人生でした。むろん本そのものは好きでしたからたまに古本屋を覗くことはありましたが、古書を購うことはまずありませんでした。理由は考えたこともありません。新刊を追いかけるので手一杯であったとか、古書は汚らしくていやだとか、まあそんなところであったかと思います。それに私は、探偵小説というものにもさしたる興味を抱いておりませんでした。読書量など知れております。海彼の傑作名作と呼ばれているものにも読んでいないものが少なからずあり、翻って本邦の作品も事情は同じです。なんぼなんでもこれではあかんやろ、と名張市立図書館カリスマ嘱託を拝命した私はさすがに不安を覚えました


●6月6日(水)
 「sumus」第六号の話題です。誌名は「スムース」とお読みください。在る、を意味するラテン語 sum の一人称複数形、だそうです。
 面妖なことに、この雑誌には発行所が明記されておりません。関係者の方にメールでお聞きしても、発行所名はないとのお答えでした。発行所のない雑誌というのも人の意表に出てなかなか面白いとは思うのですが、
書誌データを取る立場の人間から申しますといささか按配がよろしくありません。雑誌であれ書籍であれ、発行所どこどこ発行日いついつというのが最も基本的なデータとなりますので、苦情苦言を並べ立てるつもりは毛頭ありませんが、ひとことその旨を記しておきたいと思います。
 第六号の体裁は A5 判、七九ページ。頒価六〇〇円、送料二〇〇円。詳細は下記のホームページでご覧ください。またあらためてご紹介いたしますが、巻末に掲載された熊谷市郎氏インタヴュー「『ぷろふいる』五十年」は本邦探偵小説史の地下水脈に照明をあてた得がたい資料であり、むろん乱歩文献でもありますから、その筋の方には(どの筋だというのか)心からお薦めする次第です。ホームページからメールで注文できますが、切手代用による購読申し込みも可能です。申し込み先は次のとおり。

林哲夫さん
 〒615−8226 京都市西京区上桂森上町18−12
 郵便振替 01090−2−25666(名義=林哲夫)

 下記のホームページによれば「本を散歩する雑誌」とのことですが、「sumus」はまさしく本好き、わけても古書マニアによる古書マニアのための雑誌のようで、ここで私はふと脇道にそれ、「古書と私」をめぐる駄文を連ねようかと思いついた次第です。ではまたあした。

sumus


●6月5日(火)
 きのうお約束しました大熊宏俊さんの「ヘテロ読誌」4月・5月分、アップロードいたしましたのでどうぞご覧ください。けさは「小林文庫の新ゲストブック」に手違いもあって合計五件に及ぶ書き込みをしてしまいました。なんと愚かな私でしょう。そんなこんなできょうも時間がなくなりました。あすこそは「sumus」第六号の話題をお届けいたします。


●6月4日(月)
 起床してアイナットさんの「甲賀三郎の世界」に掲載された書誌データとにらめっこしてから「小林文庫の新ゲストブック」にお邪魔したあと体調不良を理由に再度うたた寝と洒落込みましたところ、洒落にならぬほど寝過ごしてしまいました。ちなみに私の場合、「体調不良」には「ふつかよい」とルビが振られます。うたた寝さえしなければ大熊宏俊さんの「ヘテロ読誌」最新稿をアップロードできたのですが、勝手ながらあすに延期させていただきます。「小林文庫の新ゲストブック」でも話題になっている雑誌「sumus」に掲載された乱歩文献のことをご紹介しようとも考えていたのですが、ええもうこれも延期といたします。「浅草十二階計画」の細馬宏通さんから「浅草公園三友館広告」のページをアップロードしたとのお知らせをいただきました。乱歩の「旅順海戦館」がらみの画像が掲載されております。それではこのへんで。ああ体調が最悪だ。

甲賀三郎の世界

浅草公園三友館広告


●6月3日(日)
 いまとなってははるか昔のことのようにも思いなされますが、「江戸川乱歩異稿拾遺」に掲載した「孤島の鬼」連載第三回の本文校訂において、私は「乱歩の私」について次のように記しております。

 語り手「私」の謎はおそらく、「孤島の鬼」ただ一篇にとどまるものではないだろう。
 「孤島の鬼」の「私」は、乱歩の小説に描かれた「私」なるものの謎に至る、一枚の扉のようなものとして存在しているのである。

 連載第三回の初出誌と平凡社版全集の異同のなかで、「私」の問題に関係してくると思われる改稿箇所を挙げておこう。
 箕浦が初めて諸戸道雄の家を訪ねた場面である。

 夜も更けぬに、母屋の方は、どの窓も真暗だつた。僅かに実験室の奥の方に明りが見えてゐた。怖い夢の中での様に、私は玄関にたどりついて、ベルを押した。暫くすると、横手の実験室の入口に電灯がついて、そこに主人の諸戸が立つてゐた。ゴム引きの濡れた手術衣を着て、血のりで真赤によごれた両手を前に突き出した。電灯の下で、その赤い色が、怪しくも美しく光つてゐたのを、まざ々々と思ひ出す。[88頁1−5行]

 とあった初出テキストから、平凡社版全集では血の色を形容する「美しく」が削除され、「その赤い色が、怪しく光つてゐた」と改められている。

 ここには、正常健全な人間として造形された箕浦の「私」に、作者である乱歩自身の「私」が不用意に滲出していったさまと、それに気づいた乱歩が稿を改め、血のりに見てしまった美を撤回することで箕浦を危うく正常健全の枠内にとどめたさまが見て取れるように思われる。

 ほかの作品に眼を転じると、「孤島の鬼」が書かれた昭和4年ごろ、換言すれば初期短篇からいわゆる通俗長篇への移行期に、乱歩の「私」が抑えかねたように作品への滲出をくりかえしていることが判明する。
 とくに、「陰獣」の「私」、「孤島の鬼」の「私」、そして三人称で書かれた作品ではあるけれど「虫」の柾木愛造という「私」、この三人の「私」には、三様の形で乱歩の「私」が色濃く滲み出ている。
 この時期、乱歩は「私」を語ることで何を果たそうとしていたのだろうか。

 と書いた時点から一歩も先へ進んでいないのがわれながら情けないのですが、ともあれこれは乱歩が作品内に意識的に造形した「私」を追跡する試みです。これを補完するために「乱歩と無意識」といった視点から「乱歩の私」を追跡することも必要かと思われる次第で、ですから私は昔そのあたりについて書き飛ばし、MO ディスクに収めたはずの旧稿を読み返したいなと思っているのですが、さっき久方ぶりにディスクを挿入してみたところ、やはり MO ドライブは不機嫌そうに黙り込んだままなのさ。いつまでそうしているつもりなのだロジテック、それではまるで拗ねた女の子ではないか、と私はいいたい。相手が女の子ならまだなだめすかすこともできるのですが、機械というやつはどうにも始末に困ります。いや、やっぱり始末に困るのは女のほうか。そのあたり、いかがお考えですかご同輩。


●6月2日(土)
 当分のあいだ更新作業はお休みすると宣言したのですが、気になるのは「江戸川乱歩異稿拾遺」の「孤島の鬼」がほったらかしになっていることで、本文校訂という作業がもたらす妙味の一端にようやく触れたかなと思ったところで中断しているのは残念至極な話です。しかしこの中断には、校訂を進めるうちに乱歩作品における「私」という難問に直面してしまい、「乱歩の私」を考察しながら本文校訂をつづけたらさぞや面白かろう、しかしそんなことが可能なのかしら、などと思案に暮れてしまったという理由も与っています。
 といったところでふと思いつき、週刊朝日百科「世界の文学」95(5月20日発行、朝日新聞社、五六〇円)に掲載された浜田雄介さんの乱歩論「原郷としてのモダン都市」から、その名も「『私』はどこにいる?」と題された項の一節をご紹介いたします。「陰獣」について述べられたくだりです。

 ここには、乱歩自身を思わせる「犯罪者型」の探偵小説家、大江春泥が登場する。彼の残したさまざまの痕跡を、もう一人の「探偵型」の探偵小説家である語り手、寒川が追いかける。追われる者も追う者も、見られる者も見る者も、ともに乱歩の分身であろう。追うほどに、寒川は春泥の世界に搦め取られてゆくのだが、しかも春泥の実像はますます謎の彼方に去ってゆく。「私」など、どこにもいない、のだ。

 乱歩の「私」を追跡してゆくと、最後にはまさしく「私」などどこにもいないという寄る辺なさに逢着してしまうように思われる次第です。


●6月1日(金)
 6月を迎えました。
 私はこの一か月、寸暇を惜しんで『江戸川乱歩著書目録』のデータ整理に勤しんでまいりました。具体的に申しますと、レイアウトソフトにずらずらと書き込んであった著書のデータを一点一点データベースソフトに移し替えてゆく作業を進めている最中で、古い本から始めて昭和30年までの整理が終わったところです。大正14年の『心理試験』から昭和30年の『畸形の天女・十三の階段』まで、点数はすでに四百五十を突破しております。いわゆる著書だけでなく、乱歩が解説を寄せたたとえばハヤカワポケットミステリなんてのも一点に数えていますから、点数は膨大にならざるを得ません。これまでに整理できたのは全体のほぼ三分の一という見当ですから、総点数は千三、四百点にも達するでしょうか。
 象は鼻が長い。
 作業は先は長い。
 したがいまして、とりあえずこの整理作業が終わるまで、ホームページの更新作業はお休みすることにいたしました。といっても「RAMPO-Up-To-Date」と「番犬情報」は更新をつづけますので、実際にはここ一か月の更新状況とほとんど変わりはないわけですが、ともかくひきつづきよろしくお願いいたします。この伝言板はどうなのかと申しますと、じつはこの伝言板に向かうのは私にとって精神の均衡安定円満を保つための便法であって、書誌作成などという賽の河原の石積みめいた作業に没頭しておりますと頭のなかがてきめんに危なくなり、なんだか世界に靄がかかったみたいになって、いつ性犯罪に走っても不思議ではない状態に立ち至ります。むろん私は性犯罪ごときにおそれをなすものではなく、乱歩の書誌作成に精励恪勤していたある日、ふとさまよい出た街で通りすがりの女性に性犯罪を働いたあげく名張警察署にしょっぴかれ、取調室でどんと机を叩いた担当の刑事から、
 「あなたみたいに教養もあれば社会的地位もある、それにだいいち女性に不自由なんかするはずのない人がどうしてまた八十過ぎの婆さんつかまえてパンツは何色なの? なんて聞いたりしたんですか」
 と尋ねられて、
 「じつは乱歩のせいですねん。えへえへえへ」
 とうそぶくのもいっそ乙りきかとは思うのですが、その時間が勿体ないからやめることにして、あすからも性犯罪代わりの駄文を連ねることになると思います。ひきつづきよろしくお願いいたします。