2001年7

●7月31日(火)
 うかうかしてるあいだに7月もきょうでおしまいです。
 乱歩の著書データを整理するためにデータベースソフトを導入してから三か月が経過したことになりますが、一時に比較すると整理作業のスピードがおおきに失速してしまいました。
 一時期、まだ梅雨が明ける前の話ですが、とんでもなく暑い日がつづいて、いまから振り返ればあのころにサボり癖がついてしまったのかもしれません。
 たらたらたらたら暑さにかこつけてビールばかり飲んでいたような気がします。
 それでもなんとか、大正14年7月の『心理試験』から平成13年5月の『みすてりい』(城昌幸著)まで、ブルガリア語などという訳のわからぬものもあるものの、総計千二百六十八点の入力を済ませました。
 一部残っている未入力分(探偵作家クラブ会報の復刻版です)をきょうじゅうに入力して、作業にひとつ区切りをつけたいと思います。
 それでは。


●7月30日(月)
 で、天城一さんの「乱歩/啓蒙主義者」は、

 戦後の乱歩は頑固な啓蒙家の原点へと回帰したようでした。乱歩の少年物は頑固な啓蒙主義者が全力を奮って少年たちに論理の全能について思うが儘に書き得たものではないでしょうか。大人向けにはトリックの独創に足をとられた乱歩が、少年物に自由に振る舞える乱歩の本領が輝いていたかもしれません。

 と結ばれます。文脈におかしなところがありますが、原文のまま引用しております。
 私見によれば、きのう記したような乱歩の揺れは昭和10年代、少年というモチーフの発見によって収束し、乱歩はようやくにして安定を獲得します。つまり昭和10年前後、乱歩は昭和2年ないしは4年につづいて、とはいえそれらに比べればあまり目立たない作風の変化を経験するわけですが、この変化こそが「頑固な啓蒙主義者」としての出発点であったと思われます。この時点で初めて、乱歩はそれまでひきずっていた「押絵と旅する男」の影を、つまりは合理に反する世界へのひそやかなまなざしを捨て去ることができたのではないか。そして『貼雑年譜』に見られる丹念な自己確認の時期のあと、われわれの前に「戦後の乱歩」が姿を現すことになるわけです。


●7月29日(日)
 甲影会発行の「別冊シャレード」55号《天城一特集 part3》に、天城一さんの「乱歩/啓蒙主義者」という短い文章が掲載されています。乱歩が「頑固な啓蒙主義者」であったという事実を、暗号を例にあげて説いたエッセイです。

 啓蒙主義者として乱歩は論理の全能を深く信じていました。啓蒙主義者としてニュートンの時代と大差がなかったと批評すれば、乱歩のファンから強い非難を浴びるでしょう。一歩譲ってアインシュタインと同じだったと言えば許されましょうか。

 しかし実際には、「万事は因果的に決定できると信じることはハイゼンベルク以後には不可能」であり、暗号もまた「ある長さ以上がない暗号は解読が不可能だとシャノンが証明しています。解読できないということの意味は多くの文章を読み出せるということです。解読文が一義的にきまらないのです」と天城さんは説きます。天城さんは若き日、乱歩にその旨を伝えたそうなのですが、乱歩はえらく頑固だったといいます。

暗号の知識について知っている限りのことを説明したのですが、人間の作ったものは必ず人間が解けると頑として承知しないのには閉口しました。

 乱歩には、暗号を解読できない場合があるということが信じられなかった。乱歩はあくまでも論理を信じ、合理を信じていたわけです。乱歩が厄介なのはじつはこういうところで、人間が一定の論理に基づいてつくった暗号は別の人間によって必ずや解かれ得るはずであると頭では考えながら、実際の作品では「二銭銅貨」にまさしく「解読文が一義的にきまらない」暗号が登場してしまっているといった具合に、あっちこっちに自己撞着が見受けられる次第です。確定性を生きようとしながら不確定性を演じてしまうみたいなところが、たしかに乱歩にはあります。たったひとつの真実が確定されるべき探偵小説の世界に、事実を読み替えることによる不確定性の要素をもちこんでしまう。頭では不倫がいけないことだと重々承知していながら躰がそれを裏切って夫以外の男との愛欲にずぶずぶ溺れてしまう人妻のように、頭と躰のあいだで、知識と体質のあいだで、論理と欲望のあいだで、合理と不合理のあいだで、乱歩は不安定に揺れつづけていたという寸法です。その揺れをもっとも端的に示しているのが、ほかでもない「押絵と旅する男」という作品でした。


●7月28日(土)
 幻影だんごは五本一セットで昔懐かしい竹の皮に包まれ、気になるお値段は四五〇円。黄粉と醤油の二種類があり、黄粉のほうには黒豆の黄粉と和三盆を使用、醤油のほうはいわゆるみたらしだんごなのですが、三河産のたまり醤油で東京風の辛めの味わいに仕上げたとのことです。竹の皮には紙のラベルが貼られ、「幻影だんご」と大書した右に「乱歩」、左に「うつし世は夢」の文字。乱歩ファンなら一度は食べたいおだんごです。
 この幻影だんご、「幻影城」にちなんだネーミングだなとはすぐに察しがつきましたが、団子坂までからんでいるとは気がつきませんでした。一昨日の午後、近鉄名張駅前にある知人Hの店で新商品の幻影だんごを頬張りながらその旨を聞かされて、私は遠くD坂に思いを馳せ(行ったことはないのですが)、そのせいかしてきのう乱歩忌の呼称を考えるに際して、ふと「D坂忌」という言葉が浮かんできた次第です。
 団子坂をD坂と読み替えることこそ、乱歩における創作作法の要諦でした。表層の下の内実を際限もなく読み替えてゆくことで、乱歩は退屈無惨なうつし世のなかに夜の夢というまことを垣間見ようとしました。Edgar Allan Poe を江戸川乱歩と読み替えたのと同じ手法で、乱歩は世界を読み替えてゆきます。
 たとえば団子坂にしても、実際の地名そのままに「団子坂の殺人事件」であればユーモアミステリーにしかなり得ませんが、これを「D坂の殺人事件」とすることで印象は一変します。アルファベットのDが、いかにも舶来の探偵小説にふさわしい近代性や冷ややかな都会性を際立たせ、殺人という言葉と呼応してまがまがしさをもたらします。
そしてDは、単なる団子坂のイニシャルという限定を離れ、Detective のDに、Death のDに変質して、読者の側の読み替えをも誘います。
 つまりD坂という呼称は、乱歩が偏愛した東京の地名という具体性と、乱歩の小説そのものを暗示する象徴性とをふたつながら有しており、
「D坂の殺人事件」という作品自体、何より明智小五郎のデビュー作として読者の記憶に残っていますから、植物になんかまったく興味のなかった乱歩の忌日を石榴忌とするよりは、D坂忌と呼んだほうがまだましではないかという気がする次第です。
 もっとも、正直なところを打ち明けてしまえば、乱歩というのは尋常一様の人名ではありませんから、下手に作品に結びつけるよりは名前そのものの印象を重んじて、ごく単純に乱歩忌でいいのではないかしらとも思います。

 最後に幻影だんごの件ですが、新商品とあって幻影だんごの紹介はいまだ掲載されるに至っていないものの、とりあえず知人Hの店のホームページをご紹介しておきます。

星安のホームページ


●7月27日(金)
 あす28日は乱歩の命日で、かつては中島河太郎先生をはじめとした知友一同が「石榴忌」の名のもとに乱歩を偲ぶ集いを催していたことが知られていますが、中島先生や関係各位にはまことに申し訳ない話ながら、私にはいまもってこの石榴忌なる呼称が乱歩の忌日にふさわしいものとは思えません。
 作家の命日に作品にちなんだ名をつける例はいくつかあり、今月24日が命日だった芥川龍之介には河童忌、6月13日の太宰治には桜桃忌、11月25日の三島由紀夫には憂国忌といった名称が奉られていますが、こうした命名がなされる理由のひとつとして、この三人がいずれも比較的若いうちに自死を選び、それによって読者の胸に忘れがたい印象を深く刻みつけていることがあげられるかもしれません。
 「河童」といい「桜桃」といい「憂国」といい、それぞれの作家の極めつけの代表作というわけではありませんが、作品名を口にすることでその作家のある側面が鮮やかに浮かびあがってくるような、相応に印象的な作品であることはたしかで、またそれ以前に語呂の問題もありますから、たとえば或阿呆の一生忌、走れメロス忌、花ざかりの森忌では話になりません。
 しかし「石榴」という一篇は、乱歩のひそかな自信作ではあったものの、乱歩の小説のなかではどうにも印象が弱く、その名を口にしてたちどころに乱歩が思い浮かぶといった作品ではないのが難点で、かといってこれをたとえば陰獣忌にしてしまうと、作品自体の印象があまりにも強すぎますから、やはり忌日の名にはふさわしからぬように思われます。
 うーむ。
 なかなかに難しい。
 こうなればいっそ駄洒落に走って、吸血忌、白髪忌、闇に蠢忌……。
 いやいけませんいけません。
 去年のいまごろも同じようなことを書いていた記憶があります。
 来年のいまごろも同じようなことを書いているかもしれません。
 それではいかにも芸がありませんから、たったいま思いついた名称を今年の候補作として掲げておくことにいたします。
 D坂忌。
 私の知人にHという男がおり、これが名張市内で和洋菓子の製造販売業を営んでいるのですが、乱歩にちなんで開発したという新商品をきのう食べさせてくれました。
 幻影だんご。
 「幻影城」の「幻影」にD坂すなわち団子坂の「だんご」を重ねたネーミングとのことですが、このおだんごの話はまたあすにでも。


●7月26日(木)
 先を急ぎすぎるのも何ですから、昭和2年に書かれた「押絵と旅する男」の初稿について整理しておきます。
 〓 むろん推測の閾を出るものではありませんが、初稿には昭和4年の決定稿同様、蜃気楼、十二階、押絵といったモチーフが用いられ、探偵小説の枠には収まらぬ作品であったと判断されます。その結構は、乱歩が終生拝跪した西欧的合理主義からも逸脱してしまうものであった。
 〓 乱歩に探偵小説や合理主義の埒を踏み越えさせたものは、新しい作風への希求にほかならない。乱歩が念願していたのは、それまでの作風から解放されることであった。
 とりあえず上記二点を押さえておきます。
 しかし実際には、初稿は捨て去られ、旧い作風を素材として利用した「陰獣」が書かれます。ですから「押絵と旅する男」の初稿と「陰獣」は、いわば陰と陽、ネガとポジのような関係性をもっていると見えます。つまりこの二作を執筆した前後、乱歩は陰と陽、ネガとポジ、あるいは不合理と合理、さもなくば欲望と論理、要するに裏と表の二面のようなもののあいだで揺れていたことが窺えます。
 なんだか毎日堂々めぐりをしているように見えるかもしれませんが、暑いのとまとまって時間が取れないのとでこのところいささかやけになっております。毎朝それまでの考えを整理するので手一杯。それでもごくわずかずつながら前に進んでおりますから、どうぞご心配なく。


●7月25日(水)
 要するに「押絵と旅する男」が書かれたのは、昭和2年にせよ4年にせよ、乱歩が転機を迎えたときでした。それまでの作風からの脱皮を図ろうと、あるいは娯楽雑誌への転身を遂げようとしていた時期に、乱歩は「押絵と旅する男」を執筆しています。二度にわたって執り行われたひそやかな儀式。すべての制約から自身をいったん解放し、それまでの自己像を反転させてしまうこの儀式は、最初は作者自身の手でいち早く否定され、「陰獣」によって畸形的自己像が提示されたあと、二度目には難なく、ほとんど人目につかぬほどすんなりと成し遂げられたように見受けられます。
 というところまでふらふらと千鳥足でたどりつきました。これまでにこの伝言板に記してきたことと関連づけますと、「陰獣」以降の作品に見られる「乱歩の私」、昭和10年前後における「少年の発見」、なんていうテーマがこの千鳥足の先に待っているわけです。しかしどうなることやら。毎日暑いですし。

 角川書店の「サイトでーた」9月号に掲載された「今月のお気に入りピックアップ・カタログ」で、名張人外境をご紹介いただきました。「本&雑誌」というカテゴリの「乱歩」の項。乱歩の世界、東京下町乱歩帳、明智探偵事務所の三サイトと轡を並べております。掲載されたホームページにはサイトナンバーなるものが割り当てられ、「サイトでーた」のウェブサイトでこのナンバーを入力すると、URL を知らなくてもそのホームページにアクセスすることができます。名張人外境のサイトナンバーは31103706。ほかにはたとえば「クイ込みバッチリ!禁断の三角地帯に潜入!」という太G見出しが躍るカテゴリ「エッチ」には「パンチラマニア・フォートレス」なるホームページが紹介されていて、昨年7月の開設ながらアクセス数は百十六万を突破しています。サイトナンバーは31103649。暑さしのぎにぜひどうぞ。

サイトでーた.com


●7月24日(火)
 名張人外境にアクセスできない、というきのうのトラブルからは無事に回復したようです。プロバイダからは何の連絡もありませんので、事情はさっぱりわかりません。なんだか拷問を受けているみたいに、
 暑い。
 暑い暑い。
 死ぬほど暑い。
 いっそ殺してくれ。
 と呻かずにはいられぬ毎日ですから、あっちこっちでけったいなトラブルが生じても不思議ではないという気がします。
 乱歩著書目録のデータ整理は、暑さのせいでというか暑さにかこつけてというか、いずれにせよ重い荷を背負って炎天を行く人の歩みのごとく遅々としているのですが、ようやくゴール地点目前というところまでたどりついております。しかし、たとえば『貼雑年譜』完全復刻版のデータを取りながら、
 あ。
 復刻版といえば探偵作家クラブ会報の復刻版もあるではないか。
 あそこにも乱歩の文章がたくさん収録されているから著書目録に記載せねばならぬ。
 と思い至り、ああ面倒な、いっそ殺してくれ、と天を仰いだりしておりますから始末が悪い。
 それからまた、ほったらかしにしてあった海外の刊行物にも着手したのですが、これもまったく始末が悪い。英語すらよくわからぬ私にフランス語イタリア語の本をひっくりかえしていったい何をせよというのか。さらに始末の悪いことにはブルガリア語の本なんてのまであります。乱歩の「陰獣」と森村誠一さんの「高層の死角」を収録したらしい、その組み合わせだけで腰が抜けそうになる一冊なのですが、まあ見事にわけがわかりません。
 ブルガリア語に堪能な知人などというのはむろん存在せず、強いて探せば二年ほど前、ブルガリア人のお姉さんが横にはべってくれるクラブで飲んだことがあるというのが、不肖私とブルガリアとの唯一の接点です。そのクラブが大阪のどこにあったんだかよく覚えていないのですが、最悪の場合はあの店を訪れるしかないか、国際交流の一助にもなるし、と考えて、私はたいへん明るい気持ちになっております。


●7月23日(月)
 どうも妙なことになっていて、名張人外境にアクセスできません。アクセスすると画面に「ユーザー数が多すぎます/接続中のユーザー数が多すぎます。しばらくしてからやり直してください」という文章が表示されます。プロバイダのホームページに接続しても同じ画面が表れますから、たぶんプロバイダに何やら支障が生じているのでしょう。ちゃんと更新できるかどうかもわからぬのですが、本日のところはとりあえずこれだけをアップロードしてみます。


●7月22日(日)
 子供たちは夏休みです。懐しの七月、永劫回帰の夏休み。大人になんかなるのではなかったと思います。
 私が子供だったころ、名張市立名張小学校の夏休みには、どの子供も自分の家の玄関に一枚の札を掲げることが義務づけられていました。蒲鉾の板を利用して、表に「勉強中」、裏に「自由」と書いた札です。札が「勉強中」になっているときは遊びに誘うのを控えましょうという寸法ですが、たいていの子は「自由」にしたまま、札に手をふれることなしに夏休みを終えたものでした。
 けさの私は、玄関先にこんな札を掲げたい気分です。

   ┌─────────┐
   │         │
   │  宿 酔 中  │
   │         │
   └─────────┘

 遊びに来ないでね。


●7月21日(土)
 さて「押絵と旅する男」の話題です。
 休筆中の乱歩が新しい作風を求めていたことは明らかですし、「押絵と旅する男」の初稿にそうした希求が反映していたこともまた疑い得ません。昭和2年に書かれた「押絵と旅する男」が作者の手で葬り去られたのは、作品の出来の問題であった以上に、新しい作風への希求が過激に過ぎて、作者自身をたじろがせてしまったことによるのではないかと思われます。
 新しい作風への希求とは、ひとことでいえばそれまでの作家像を否定すること、反転させることであったと見受けられます。探偵小説という軛からさえ自由になりたいという希求が、「押絵と旅する男」には窺えます。端的に表現すれば、まさしくゴム風船の希求です。「押絵と旅する男」の終幕にふわふわと漂うゴム風船には、小説を書くうえでのすべての重力から解放されて自由になり、新しい作風に挑みたいとする乱歩の願望を読み取ることが可能です。
 しかし実際には、乱歩の再起は「陰獣」によって果たされました。『探偵小説四十年』には、

「陰獣」は私が従来書いたものの総決算にすぎず、何らの新味なく、進歩性、将来性が感じられず、「またか」という感じのものであった。長所も欠点も従来の私を一歩も出ていなかった。私としては、こんなものをいくら書いても仕方がないじゃないかと思っていた。

 という記述が見られます。乱歩がいかに「新味」を求め、「従来の私」から一歩でも出ることを望んでいたかがわかります。しかし「陰獣」は、単なる「総決算」ではありません。「押絵と旅する男」の初稿で否定され反転されるはずだった乱歩の作家像は、「陰獣」における大江春泥として、休筆までのそれに基づきながら異様怪奇な作家像に大きく歪曲されています。これは単なる総決算ではなく、ひとたびは反転を経験し、そこからまた反転して最初の位置に戻ってきた、いうならば二重の否定によってもたらされた作家像であると考えられます。マイナスかけるマイナスはプラス。乱歩は自己像を二度否定することで、ふたたび探偵小説の世界に立ち得たのではないかと愚考される次第です。
 どうも緻密さに欠ける論述であるという気はいたしますが、本日はこのへんで。


●7月20日(金)
 乱歩著書目録のデータ整理を半狂乱になってつづけているせいで更新をサボっていた「RAMPO Up-To-Date」、2001年のページをちょこっと増補いたしました。「最新情報」からお進みください。

 昨秋「江戸川乱歩展……郷愁の迷宮」を開催した群馬県の徳冨蘆花記念文学館できょう20日、「滝田ゆう展」が開幕します。展示会名には大江匡を主人公とした永井荷風作品のタイトルが入っているのですが、このタイトルの最初の漢字が JIS 漢字には存在しないようなので「滝田ゆう展」とのみ記します。正式名称はパンフレットの画像でご確認ください。

滝田ゆう展
 日程平成13年7月20日(金)−8月31日(金)
 会場
徳冨蘆花記念文学館
    群馬県北群馬郡伊香保町大字伊香保614−8
    電話 0279−72−2237
 開館時間
午前8時30分−午後6時
 入館料
大人450円、こども250円

 それにしても乱歩の浅草から滝田ゆうの玉ノ井へ、徳冨蘆花記念文学館は変わったところに眼をつけます。会期はちょうど子供たちの夏休みに重なっていますから、ご家族で伊香保温泉に遊んだついでにお立ち寄りになるのもご一興。しかし、滝田ゆうの絵を見た子供から「すまれらけぬって何?」と訊かれたり、そんなのはまだいいとして「このお姉さんは何のお仕事?」なんぞと尋ねられたりしたら、いったいどうなさいますかお父さん。

滝田ゆう展パンフレット


●7月19日(木)
 岩谷書店『芋虫』(昭和25年)の「あとがき」では、乱歩は「押絵と旅する男」についてこう語っています。

これは昭和二年の末か三年の初め頃、当時の編集長横溝正史君に矢の催促を受けて、一度書いたのだけれども、意に満たず、「新青年」だけにはつまらないものをのせたくないという気持から、横溝君をあざむくような形で破棄してしまったのだが、延原謙君の編集長時代になって、やっとそれが纏ったのであった。私自身好きな作品の一つである。

 初稿は「意に満たず」、のちに「やっとそれが纏った」というこの説明も、果たして作品の出来や結構に関するものかどうかは疑わしいと思われます。
 ちょっと短いのですが、本日はこのへんで。


●7月18日(水)
 いわゆる通俗長篇なら作品そのものを読むことができますから、行間に乱歩の情熱や計算を読み取ることも可能です。しかし「押絵と旅する男」の初稿ばかりはどうすることもできません。なにしろ便所に捨てられてしまったのですから、これがほんとのウンの尽き、などと莫迦なことをいってる場合ではないのですが、それが実際にどんな作品であったのかを知ろうとしても、読者には手も足も出しようがありません。これがほんとの雪隠詰め、などと莫迦なこといってる場合ではほんとにないのですが、もしかしたら現代では、雪隠が便所の異称であり、雪隠詰めが将棋の用語であるということをご存じない方もおありかもしれません。なんとも住みにくい世の中になったものです。
 したがって読者には、この初稿が「魚津へ蜃気楼を見に行ったのがもとになって心に浮かんで来た」発想に基づいており、昭和4年に発表された「押絵と旅する男」と「同じ着想」であったらしいということが、『探偵小説四十年』の記述からわずかに知られるばかりです。しかし、だとすると、同じく『探偵小説四十年』にある「後の『押絵と旅する男』とは比べものにならない愚作であった」という評言が、私にはどうにも信用できぬものに思われてくる次第です。
 おそらくこの初稿においても、冒頭には蜃気楼のシーンが置かれ、やがて話は十二階の回想に移って、一人の男が十二階から垣間見た娘に懸想するエピソードが語られたあと、最後には人間が押絵になってしまうという「同じ着想」が綴られていたと見ていいように判断されるのですが、それならいくらなんでも「比べものにならない愚作」にはなりようがないのではないか。
 ふたつの作品のあいだには一年半ほどのブランクが存在していますが、そのあいだに乱歩の短篇技術に変化があったとは考えられません。着想も技術も同じなら、まさしく同工異曲、一人の作家には似たような出来の作品しか書き得ないのではないかと思われます。かりに違いが生じたとしても、それは枝葉末節の問題に過ぎず、蜃気楼、十二階、押絵といった骨格をなす題材が不変であったとすれば、「押絵と旅する男」の初稿もまた合理主義を無視した、その意味で乱歩らしからぬ新しさをもった作品であったはずであり、まさにそうした新しさこそが、乱歩をしてこの初稿を便所に捨てさせることになった真の理由だったのではないかと思われます。
 たしかに乱歩は、新しい情熱のみならず作風そのものの新しさをも求めていました。岩谷書店『陰獣』(昭和24年)に収録された「旧作四篇について」には、「陰獣」に関してこんなことが述べられています。

二年休んでいたというのは、初期の作風に飽きて、何か新しいものを生み出そうと苦慮していたわけだが、何も生れて来そうもないので、多少やけになって、従来の作品の総決算というような気持で書いた。だから、作中に私のそれ以前の作品が色々と現われて来る。

 「押絵と旅する男」の初稿は、「何か新しいものを生み出そう」という乱歩の「苦慮」が端的に示された作品であったはずです。


●7月17日(火)
 乱歩は休筆にあたって、「なにか新らしい情熱が湧いて来るまでは、売文を中止する決意」を固めていたと述べています。だとすれば、昭和2年にいったん執筆された「押絵と旅する男」には、編集者の横溝正史からやいのやいの催促されて筆をとったという事情はあったにせよ、そうした決意がやはり反映されていたと判断されます。そしてこの「押絵と旅する男」プロトタイプ、といちいち書くのも面倒ですから「押絵と旅する男」昭和2年ヴァージョン、いやこれではよけい面倒になってしまいますから「押絵と旅する男」便所版、いやいやこれでもいけません、とにかく「押絵と旅する男」の初稿に寄せた乱歩の評言には、どこかいわゆる通俗長篇に対するそれを思わせるところがあります。つまり、その作品を執筆した際の並々ならぬ情熱や周到な計算にはいっさい触れることなく、あ、あれは駄目です、駄目な作品なんです、と頭ごなしに否定している気配がうかがえます。

 江戸川乱歩著書目録のデータ整理は昭和から平成へ改元が行われ、消費税が導入されたあたりまで進みました。点数は千八十三点、内訳は著書七百五十三点、収録書三百三十点。

 甲影会が発行する「別冊シャレード」の55号「天城一特集3」が出ました。「不思議の国の犯罪」「高天原の犯罪」「明日のための犯罪」など名探偵摩耶正の登場する短篇が一冊にまとめられ、天城一さんへのインタビューや山沢晴雄さんらによる評論その他もこきまぜて、A5判二〇〇ページ一七〇〇円。短いものながら天城さんの乱歩論「乱歩/啓蒙主義者」も掲載されています。購入方法などの詳細は甲影会のホームページでご覧ください。

甲影会


●7月16日(月)
 そこで横溝正史は自分の作品を乱歩名義で発表することを提案し、「新青年」昭和3年1月号には正史の書いた「あ・てる・てえる・ふいるむ」が乱歩の新作として掲載されることになります。そして完成していた乱歩の新作原稿は、乱歩の手でホテルの便所に葬り去られてしまいます。正史の「代作ざんげ」からさらに引きましょう。「乱曰く」とあるのは、『探偵小説四十年』への引用に際して乱歩が加筆した文章です。

 ところが諸君、その時、江戸川さんが便所へ捨てた小説というのが、後に乱歩ファンを驚喜せしめた「押絵と旅する男」なのだから、私は今でもこのいきさつを思い出すと穴へ入りたいのである。〔乱曰く、こっちが穴へ入りたいのである。横溝君は知らなかったが、そのときの原稿は、後の「押絵と旅する男」とは比べものにならない愚作であった。いくらはにかみ屋の私でも、後の「押絵」だったら決して便所へ捨てたりはしない。(後略)

 あわれ便所に流された「押絵と旅する男」のプロトタイプとでも呼ぶべき小説は、いったいいかなる作品であったのか。上の引用にある「比べものにならない愚作」のほか、「どうも気に入らなくて」や「好ましからぬ原稿」といった表現も『探偵小説四十年』には連ねられていますが、具体的にどこがどう不満であったのかは記されていません。しかし同書の昭和4年の項には、こんなことが記されています。

その同じ着想を一年半の後、更めて書いたものが、この「押絵と旅する男」であった。

 「同じ着想」というのであれば、「押絵と旅する男」プロトタイプもまた、探偵小説ではない、合理主義の埒には収まらぬ小説であったことになります。


●7月15日(日)
 乱歩の休筆明けのことを話題にしているあいだに梅雨が明けたようです。
 それにしても暑い日がつづきました。
 ただでさえ狂い出すほど暑苦しい時節にこんな作業をつづけていたら本当に発狂してしまうのではないかと危惧しながら、それでもこれだけ暑いと性犯罪に走ろうという気力すら萎えてしまいますからその点だけは安堵しながら勤しんでいる江戸川乱歩著書目録のデータ整理は、なかなかまとまった時間も取れなくてさほど捗ってはいないのですが、きのうでようやく昭和54年までを終えました。
 終えましたといったって要するにデータベースソフトへの入力が済んだというだけの話ですから、実際の確認作業はまだこれからです。
 大正14年から昭和54年までで、乱歩の著書は九百四十点を数えました。
 乱歩は自分の著作を著書と収録書に大別していて、収録書とは要するに序文を寄せた他人の著書や自作が収められたアンソロジーなんかを指すのですが、それに準じて大別すると、九百四十点の内訳は著書六百四十五点、収録書二百九十五点ということになります。

 さて「押絵と旅する男」の話ですが、ここで「新青年」の編集者であった横溝正史の証言を確認しておきます。といったって『探偵小説四十年』に引用された正史の「代作ざんげ」(昭和24年)から孫引きするだけの話なのですが、正史が初めて乱歩の代作を担当した大正15年の「犯罪を猟る男」に関する記述のあと、

 「あ・てる・ている・ふいるむ」はそれから二三年後の「新青年」に発表したもの……この年の増大号で、私はズラリと探偵小説を並べたいと思った。それには江戸川さんに書いてもらわなければならないのだが、当時同氏は筆を断っていて何も書かなかった。

 といった事情が明かされます。つづいて正史は、当時京都に旅行していた乱歩のもとを訪ねてしつこく執筆を懇請し、乱歩からとうとうこんな返事をとりつけたと記しています。

 「それじゃ、こうしよう。僕はこれからまだひと月ほど旅をするつもりだが、帰りには名古屋の小酒井さんのところへよるから、君もそこへ来てくれ。旅行中に書いておいて渡すから」

 正史は勇躍して東京へ帰りましたが、約束の日に名古屋の小酒井不木邸に赴いて、あてにしていた乱歩の新作ができていないことを知らされます。がーん。正史のあてはふんどしのごとく向こうからはずれたのでした。


●7月14日(土)
 昭和2年3月、「一寸法師」と「パノラマ島奇談」の連載を終えた乱歩は、「近年非常に健康を害して居りますので、小説の執筆は当分休むことに致しました」と書き添えた転居通知の葉書を知友に出して、放浪の旅に出ます。健康を害したというのは表向きの理由で、『探偵小説四十年』によれば、

作品についての羞恥、自己嫌悪、人間憎悪に陥り、つまり、滑稽な言葉でいえば、穴があればはいりたい気持ちになって、

 というのが乱歩を放浪に駆り立てた本当の理由です。同書には「一寸法師」に関して、

あまりの愚作にあいそがつきて、中絶したかったのだが、許してもらえず、死ぬ思いでともかく書き終ったその苦しさが肝にこたえたのである。もうもう小説という字を見ても、ゲッと吐き気を催すほどであった。

 なんてことも書かれてあって、みずからの苦労苦難を語るとき人はとかく過剰な表現に陥ってしまうものではあるのですが、それにしても乱歩の嫌悪感はかなり深刻です。そして見逃せないのが次の一節。

そのころの私は小説家として非常にうぶで、小心で、ある意味で純粋であった。心にもないものを書く気になれなかった。放浪の旅にのぼって、なにか新らしい情熱が湧いて来るまでは、売文を中止する決意を固めていた。

 乱歩にとって休筆明けの作品は、何より「なにか新らしい情熱」によって支えられたものでなければなりませんでした。


●7月13日(金)
 もしも乱歩が休筆明けに「押絵と旅する男」を発表していたら、読者はひっくりかえって仰天したにちがいありません。乱歩はそれまでの乱歩らしさを否定し、探偵小説からも足を洗って、古雅で怪奇な綺想を紡ぎ始めた。読者の眼にはそんなふうに映ったはずです。新生乱歩は、強いて関連づければ休筆に入る直前に発表された「人でなしの恋」の延長線上に、まったく新しい世界を築こうとしているように見えたと思われます。
 乱歩が休筆期間中に「押絵と旅する男」を書いていたという事実は、やはり何かしら重大な意味をもっています。もしかしたら乱歩は、みずからの作家像をまさしく「反転」させることで作家としての再出発を果たしたいと念願していたのではないかとも考えられるのですが、結論を急ぎ過ぎてもいけません。とりあえず、休筆前後の事情を確認してみることにいたします。

 先日お知らせした毎日放送の「真珠の小箱」は、大阪および名古屋ではあす14日、東京では15日に放映されますが、内容に一部変更があったと制作会社からご連絡をいただきました。ロケは名張市と鳥羽市で行われたのですが、鳥羽のシーンは割愛され、名張での収録分だけが放送されるとのことです。

真珠の小箱(第2178回)
 テーマ乱歩・その夢と真実─三重─
  出演
推理作家・有栖川有栖さん
  放映
7月14日(土)
      ・MBS(大阪)午前9時45分〜10時
      ・CBC(名古屋)午前6時45分〜7時
     7月15日(日)
      ・TBS(東京)午前6時15分〜6時30分

 名張市内では、名張市立図書館、料亭清風亭、近代的発展から完全に取り残された名張の古い町並み、どことも知れぬ土蔵の内部、といったあたりで撮影が行われ、図書館乱歩コーナーでは有栖川有栖さんが乱歩について語るシーンが収録されました。どことも知れぬ土蔵の場面では、生誕地碑除幕式の夜に乱歩が撮影した8ミリの映像が流されるみたいです。
 ところで名張市立図書館で収録が行われた日のお昼、私はスタッフご一同と有栖川さんを市内瀬古口にある「鰻伊賀」という鰻屋さんにご案内し、名古屋名物ひつまぶし、初めて賞味いたしたのですが、これがなかなかいけました。名張へおいでの節はぜひどうぞ。

真珠の小箱(近鉄ホームページ K's PLAZA)


●7月12日(木)
 きのう私は、どうやら「押絵と旅する男」が書かれた時期を考えてみる必要が出てきたと思われる、と記しました。そこで律儀者の私はさっそく昨夕、犬の散歩とシャワーのあと缶ビールを飲みながらぼんやりそのことに思いをめぐらせたのですが、あることに気がついて小さく「あっ」と叫んでしまいました。私は根が小心なものですから些細なことですぐに叫んでしまうのですが、きのうの叫びはほかでもありません、「押絵と旅する男」に関してまたしてもささやかな発見があったからです。
 「押絵と旅する男」が二度にわたって執筆されたというエピソードは、熱心な乱歩ファンならよくご存じでしょう。『探偵小説四十年』の昭和4年の項に、乱歩はこんなふうに記しています。

 「押絵と旅する男」はこの年の「新青年」の八月号にのった。この話は昭和二年の放浪中魚津へ蜃気楼を見に行ったのがもとになって心に浮かんで来たもの。昭和二年の末に一度書いて見たのだが、どうも気に入らなくて、名古屋の大須ホテル(このホテルのことは前に「耽綺社」の項に記した)の便所へ捨ててしまったのである。

 文中「八月号」とあるのは「六月号」の間違いです。乱歩はまことにぞんざいです。
 そんなことはともかく、昭和2年、つまりは最初の休筆期間中に乱歩が「押絵と旅する男」を執筆していたというのは、これまでは気にも留めていなかったけれどじつはたいそう重大な事実ではないのかしらと、私はそのように思い返しました。
 考えてもみてください。もしも乱歩が便所に捨てさえしなかったら、その原稿は間違いなく「新青年」の昭和3年1月号で活字化されていたはずです。探偵小説の旗手であった乱歩が休筆明けに満を持して発表した作品が、なんと探偵小説とは縁もゆかりもない「押絵と旅する男」であったとしたら……


●7月11日(水)
 『浅草十二階 塔の眺めと〈近代〉のまなざし』を読むまでは考えてもみなかったのですが、十二階に昇った乱歩が何かしら特異な感覚を体験し、それが「押絵と旅する男」の遠い火種になったということはおおいにあり得るように思われます。
 塔のてっぺんの無蓋の空間から地上を眺め降ろすことによって乱歩が感じたであろう、いうならば反転の感覚が作品に投影された結果として、「押絵と旅する男」にはさまざまな反転が描かれていると見ることができます。
 細馬さんが指摘する見ることと見られることの反転にとどまらず、合理主義は非合理にすんなり席を譲り、人間は実質を失ってゴム風船のように宙に漂うかと見え、秘められるべき欲望はこれ見よがしに露呈され、といった具合に乱歩を乱歩たらしめていた重要な要素はことごとく反転して読者の前に示されています。
 これは乱歩にとって、一世一代の反転と呼ぶべき事態です。
 それなら乱歩には、小説のうえでこうした反転を企図すべきどんな理由があったというのか。
 みたいなところへ話が進んでしまいました。
 どうやら「押絵と旅する男」が書かれた時期を考えてみる必要が出てきたと思われるのですが、この先どうなってしまうのかは私にもさっぱりわかりません。

 大熊宏俊さんの「ヘテロ読誌」をアップロードしました。「最新情報」からお進みください。


●7月10日(火)
 細馬宏通さんの『浅草十二階 塔の眺めと〈近代〉のまなざし』の第7階「覗かれる塔」には、「押絵と旅する男」に触れてこう記されています。

 この話を物語る弟は、常に兄の傍観者となっている。遠目がねで見る時間を兄と弟で共有することはできない。弟を疎外した一人の時間が流れる中で、兄の欲望は、覗くことから覗かれることへと反転していく。
 これは、「パノラマ覗鏡」の惹き文句を借りて言えば、「美人に接するが如く」まなざしの力を肥大化させ、ついには「名所に到り或は古跡に遊び或は花の下に立つが如く」あろうとする物語である。『押絵と旅する男』は、明らかに十二階の開設以来語られてきた、つまり「高みから女を間近に覗き見る」というエピソードをなぞりながら、内外を反転させる覗き眼鏡の秘密に迫っている。

 乱歩もまたかつて十二階の頂上に立ち、適切な低さがもたらす見ることと見られることの反転を体験したあと、レンズ嗜好症的想像力によって「押絵と旅する男」という反転の物語を発想した。そんなふうに考えることが可能だとすれば、十二階の高みに立った乱歩は自身が反転するような感覚を覚えたのではないかと想像してみることも、あながち不可能ではありません。少なくとも「押絵と旅する男」は、逆さ富士さながらの、作品の舞台に即していえばひょうたん池に映った逆さ十二階さながらの、いってみればほかの乱歩作品の倒影像のようなものとして読者の眼には映ります。


●7月9日(月)
 しかしよく考えてみると、「あっ」と声をあげない方もいらっしゃるかもしれません。少なくとも私は声をあげましたので、その理由を記しておきます。浅草十二階は「人を見るという感覚、さらには人に見られるという感覚を立ち上げ、見ることと見られることの交換を容易に」したという細馬宏通さんの『浅草十二階 塔の眺めと〈近代〉のまなざし』の指摘によって、私は「押絵と旅する男」の変なところにまたひとつ気がつきました。
 この作品が乱歩らしからぬ、作中の言葉をかりれば「変てこれんな代物」であることは、これまでにも述べましたとおり、この一作に限って合理主義が無視されている点、なんだかふわふわとした実体のないものへの希求が感じられる点などに示されています。とはいえいかにも乱歩らしいところもまた存在していて、それはいうまでもなく「覗き」という行為であると私は思っていました。十二階の頂上から遠めがねで下界を眺める行為には、「湖畔亭事件」や「屋根裏の散歩者」などに見られたのと同じ乱歩のスコポフィリア的特徴がよく表れています。
 ところが、事情はかなり違っていました。「押絵と旅する男」における屋根裏の散歩者ならぬ塔上の窃視者は、みずからの身を隠すことをまったく考えていません。これは変てこな話です。見られることなく相手を見たいという窃視者の願望がすっかり変質し、窃視者は塔のうえに生身をさらして、むしろ見られることを望んでいます。窃視者がもっとも怖れるのは覗きの対象が何かの偶然でこちらに顔を向け、その視線と自分の視線とがひとつに絡み合ってしまうこと、それによって自分の存在を感づかれてしまうことだと思われますが、塔上の窃視者たる兄の願いはまさしくその点にこそありました。
 だからこの窃視者が遠めがねを逆さにして自分を見てくれと弟に依頼したのはごく当然の帰結なのだ、と思い至って私は「あっ」と声をあげ、ああ、「押絵と旅する男」はほんとに変てこれんだ、と心のなかで呟いたのでした。


●7月7日(土)
 ところで、「押絵と旅する男」の舞台となった浅草の凌雲閣、別名浅草十二階にエレベーターが設けられていたという事実を、あなたはご存じだったでしょうか。私はちっとも知りませんでした。いつかもご紹介した細馬宏通さんの『浅草十二階 塔の眺めと〈近代〉のまなざし』(青土社、本体二四〇〇円)を拝読して、初めて知った次第です。
 著者の専門はコミュニケーション論で、エレベーター内における人間行動への興味から、日本で最初にエレベーターが設置された施設である凌雲閣に視線を定めるに至ったのだそうですが(私など、エレベーターといえばせいぜいエレベーターガールのお尻に視線を定めるのが関の山です。いやなんともお恥ずかしい)、むろんエレベーターはきっかけに過ぎず、読者はまず十二階をめぐる資料の博捜ぶりに驚かされることになります。
 新聞雑誌の雑報から市井の名もない人物が書きとめた記録、田山花袋や石川啄木をはじめとする文学者の詩文までもが幅広く渉猟され、一方では古く珍しい図版もたっぷり収録されて、文章と図像による浅草十二階の断片が読者を眩暈に似た感覚に誘います。
 まさしく眩暈、十二階の誕生がもたらした視線の混乱がこの本のテーマであり、仔細はぜひ現物を手に取ってお読みいただきたいと思う次第ですが、もしも乱歩ファンが読めば、たとえば「口上にかえて」と題された序文の、

 つまり、浅草十二階は単に高かっただけでない。その展望台は、人を見るという感覚、さらには人に見られるという感覚を立ち上げ、見ることと見られることの交換を容易にするのに、実に適切な距離をもたらしていたということになる。現在の高層建築と比較するなら、それは「適切な低さ」を持っていたと言ってもよい。

 といったあたりで、早くも「あっ」と声をあげることになるはずです。


●7月6日(金)
 ふわふわと実体もなく宙に漂うといえば、「押絵と旅する男」の冒頭に描かれた蜃気楼もそれにあたります。

 蜃気楼とは、乳色のフィルムの表面に墨汁をたらして、それが自然にジワジワとにじんで行くのを、途方もなく巨大な映画にして、大空にうつし出したようなものであった。

 に始まる「大空の妖異」の絶妙な描写は、この作品で語られる視線の混乱を予告し強調するとともに、眼には見えるけれど実体をもたぬ何やら地上的でないものの存在を印象づけるものでもあります。まず蜃気楼が、ついでゴム風船がつかのま空に漂って消えたあと、ついには兄も、最後には弟までもが、重さを失い闇に呑まれるようにして消滅してしまいます。兄弟の消滅は蜃気楼とゴム風船によって予言されていたといってもいいかもしれません。


●7月5日(木)
 地上を離れてふわふわ漂うのは、ゴム風船ばかりではありません。十二階の頂上で「からだが宙に漂うかと見誤まるばかり」に見えた兄は、やがて弟が逆さに覗いた遠目がねの視界に小さく立ち、

それが、多分兄があとじさりに歩いて行ったのでしょう。みるみる小さくなって、一尺くらいの人形みたいなかわいらしい姿になってしまいました。そして、その姿が、スーッと宙に浮いたかと見ると、アッと思う間に、闇の中へ溶け込んでしまったのでございます。

 とゴム風船さながら、不意に重量を失って姿を消してしまいます。そして兄の不思議な恋物語を語り終えた弟もまた、夜の底の小さな駅に降り立つや、

窓から見ていると、細長い老人のうしろ姿は(それがなんと押絵の老人そのままの姿であったことか)簡略な柵のところで、駅員に切符を渡したかと見ると、そのまま、背後の闇の中へ溶けこむように消えていったのである。

 と闇に呑まれてしまいます。ここにも重さの気配はありません。「押絵の老人そのままの姿」という言葉によって、弟は兄と同じ無重量性を与えられているといってもいいかもしれません。
 「押絵と旅する男」の兄と弟は、ほかの乱歩作品の登場人物とは大きく異なり、重さの感覚や肉体的実質とでも呼ぶべきものをほとんど感じさせません。同じ昭和4年に発表された「芋虫」の夫婦と比較すれば、その差は歴然としています。「芋虫」の夫は地上を這って古井戸に落下し、地の底から鈍い水音を響かせて最期を迎えますが、「押絵と旅する男」の兄弟は地上を離れ、実体を失うようにして消え去ってしまいます。


●7月4日(水)
 突然ですがお知らせをひとつ。
 近鉄が提供するテレビの長寿番組に「真珠の小箱」があります。各界の名士が近鉄沿線を訪れ、土地の歴史や文化や風光、ゆかりの人物などを紹介する毎日放送の番組ですが、7月放映の一本に乱歩が登場いたします。

真珠の小箱
 テーマ
乱歩・その夢と真実─三重─
  出演
推理作家・有栖川有栖さん
  放映
7月14日(土)
      ・毎日放送(大阪)午前9時45分〜10時
      ・CBC(名古屋)午前6時45分〜7時
     7月15日(日)
      ・TBS(東京)午前6時15分〜6時30分

 ロケ地は名張と鳥羽。名張市内での撮影はきのう終了しました。ロケ地は名張市立図書館、料亭清風亭、どことも知れぬ土蔵のなか、といったところ。生誕地碑除幕式の夜に乱歩が撮影した8ミリの映像もちらっと紹介されるそうです。
 有栖川さんの出演シーンは先週収録が行われ、名張市立図書館乱歩コーナーで『パノラマ島奇談』を手に乱歩を語る有栖川有栖氏、みたいな感じで撮影が進められました。テレビ画面ではどっかの小暗い秘密クラブの一室にしか見えないと思いますが、撮影場所は間違いなく名張市立図書館であることをあらかじめお断りしておきます。

 さて「押絵と旅する男」の話題ですが、天を目指すゴム風船に焦点を合わせたうえで全体を眺めると、この作品にはほかにも似たようなモチーフが見え隠れしていることに気がつきます。


●7月3日(火)
 大気の詩学という言葉に思い至ったとき、私はおそらくバシュラールを連想していたはずです。でそのあと、たぶん『空と夢』あたりをぱらぱら読み返したにちがいないと思われるのですが、さっぱり思い出せません。バシュラールを手がかりに「押絵と旅する男」を読んでみる、なんてことを真面目に試みたのかどうか。いずれにしても記憶がないのですから、試みたとしてもたいした発見はなかったのでしょう。それにだいいち、天にうっすら埃をかぶった『空と夢』を前にして、この本にいったい何が書かれてあったのかさえ、私にはどうにも思い出せないありさまです。わずか八年ほど前のことなのに。
 物質的想像力を火、水、大気、土という四大元素に分類して論じたガストン・バシュラールは、たとえば『空と夢』(宇佐見英治訳、法政大学出版局、1968年)の冒頭にある、

いまでも人々は想像力とはイメージを形成する能力だとしている。ところが想像力とはむしろ知覚によって提供されたイメージを歪形する能力であり、それはわけても基本的イメージからわれわれを解放し、イメージを変える能力なのだ。イメージの変化、イメージの思いがけない結合がなければ、想像力はなく、想像するという行動はない。

 といった主張、想像力とは与えられたイメージをつくり変える力であるとする主張によって知られていますが、そのことすら私は『空と夢』の序論「想像力と動性」を走り読みしてようやく思い出したありさまです。しかし私は、この序論に、

想像力の領域においては、名詞大気にもっとも近い形容詞は自由なという形容詞であることをわざわざ強調する必要があるだろうか。自然な大気とは自由な大気である。

 という一節を発見し、何かしら得心した気分になって、これでいいだろうと思いました。名詞「大気」は形容詞「自由な」にもっとも近く、可哀想だたあ惚れたってことであるがごとく、自然な大気たあ自由な大気ってことよ、ということが確認できただけで充分である、と。もしかしたら私は八年前にもこんな具合に納得するだけで、まともに『空と夢』を読み返すことはしなかったのかしらん。


●7月2日(月)
 さて、それなら天を目指して昇っていった風船はいったい何であったのか。地上からふわふわと天の高みに至るその無辺際の垂直性には、いったいどんな意味があるというのか。
 それまで気にもとめていなかった風船屋のシーンがじつは意外に重要な意味をもっているのではないかと、白石加代子さんの「百物語」を観て私は初めて気がつきました。むろんそれは乱歩の小説家としての伎倆を如実に示すシーンではあるものの、問題は単なる小説作法のレベルにはとどまりません。作者の計算や技術とは無関係なところで、この風船は何かしら重要なことを物語っているのではあるまいか。名古屋で一二を争う老舗不二家チェーンのお嬢さんとお酒を飲みながら、私はぼんやりとそんなことを考えました。そして、
 これはいわゆる大気の詩学ででもあろうか、
 と思い至り、うむ、そうにちがいないと思わず膝を打って、
 お姉さん熱燗もう一本、
 と大声で注文をした次第です。


●7月1日(日)
 そもそも乱歩は、この風船屋のシーンで笑いを取ろうなどとは夢にも思っていなかったはずです。乱歩はじつに生真面目で、笑いにはほとんど顧慮しないタイプの作家でした。読者にしたところで、この場面を読んで笑ってしまったという人はあまり存在しないのではありますまいか。にもかかわらずこの場の「緊張と緩和」を鷹さながらに見逃さず、天から急降下するようにして笑いを取ってしまう白石加代子はやはり端倪すべからざる演者であり、「笑いのある恐怖」という「百物語」のテーマは笑いの生理学といった観点から考えるとじつに合理的なものであると判断されます。
 怖い女優が笑わせる。
 これは一見まことに不可解な、その実きわめて理に適ったことなのであると申しあげておきましょう。ちなみに「押絵と旅する男」の前に上演された「人間椅子」では、幕切れの「では、失礼を顧みず、お願いまで」でどっと笑いが渦巻いたことはいうまでもありません。

 未知の方からメールをいただき、伊賀地域の方言を紹介するページをつくってはどうか、とのご慫慂を頂戴しました。方言関連ページのリンクサイト「ふるさとの方言」というのがあるのですが、そこにはいまだ伊賀の方言を扱ったページがないため、おまえなんとかしてみないかとのお勧めです。面白いなとは思うのですが、あいにく時間がありません。もう少し暇になってから考えることにいたします。

ふるさとの方言