2001年9

●9月30日(日)
 きょうは案内状を一通、ご紹介いたします。

謹啓 秋冷の砌愈々御清栄の段大慶至極に存じ上げます
陳者 かねて御浄資をかたじけのうし 私ども発起人において鋭意建設を進めて参りました「江戸川乱歩生誕地記念碑」はお蔭様にて滞りなく完工 来る十一月三日午前十時から新町桝田医院庭内の現地に乱歩先生御夫妻を迎えて除幕式を挙行致すことになりました
就而公私御多用の処誠に恐縮で御座いますがまげて御臨席の栄を賜りますよう此段御礼かたがた御案内申上げます  敬具

   昭和三十年十一月一日

江戸川乱歩生誕地記念碑建設有志会       
代表  岡村繁次郎      
三重県名張市本町     

 文中の「陳者」は、「ちんしゃ」ではなく「のぶれば」とお読みください。「陳」は「のべる」、「者」は漢文で「……すれば」と訓読する順接の助字。冒頭の挨拶を終えて本文に入るとき、「さて」とか「ところで」といった意味でこの「陳者」が用いられました。遠い昔のお手紙の作法です。ついでに「就而」は、たぶん「つきましては」と読ませるのだと思います。
 陳者、昭和27年12月に趣意書を発表して活動を開始した江戸川乱歩生誕地記念碑建設有志会は、三年後の昭和30年11月、ようやく除幕式にこぎつけました。これはその除幕式の案内状です。
 11月30日は晴れの特異日ですから、この年のこの日もきれいな日本晴れになりました。除幕式を終えた乱歩はこの日午後、観光名所の赤目四十八滝や香落渓に案内され、夕刻からは毎度おなじみ清風亭で生誕地碑除幕記念大宴会がぶちかまされました。
 7月に放送されたテレビ番組「真珠の小箱」の乱歩篇、ご覧になった方もおありかと思います。あのなかで流された古ぼけた映像は、まさにこの日の大宴会を記録したものでした。
 それにしても、大宴会という言葉にはなんとも心躍る響きがあります。


●9月29日(土)
 きのうの日刊各紙地方版に、伊賀地域の市町村合併に関する記事が掲載されておりました。
 中日新聞伊賀版の見出しはこうなっています。

伊賀の市町村合併 38%が必要
県民局が住民の意識調査結果発表
『議論の余地』は32%
枠組み一つ 半数がこだわらず

 伊賀県民局というのは三重県庁の出先機関です。その伊賀県民局が二十歳以上の伊賀地域住民三千人を対象に行ったアンケートの結果が、中間発表の形で公表されたという記事です。
 「伊賀の市町村合併をどう思うか」という設問には、こんな回答が寄せられたといいます。

必要       二〇・九%
将来は必要    一七・九%
議論が必要    三二・九%
必要ない     一一・七%
どちらでもよい   七・二%
わからない     六・九%
無回答       二・五%

 もっとも多いのは「議論が必要」。つまり住民は、必ずしも性急な合併を望んでいるわけではないということでしょう。この「議論が必要」という回答には、地域住民がいまだに議論に加わっていない、あるいは議論のための判断材料を手にしていない、といった事情も反映されているものと見られます。
 合併のフレーミングに関する設問では、

 どの市町村と合併するかを聞いた「望ましい枠組み」の質問では「一つにすることにはこだわらない」が55・7%と最も多かった。「伊賀全体が一つになる」は26・3%で、多くの行政関係者が訴える「伊賀は一つ」とのズレをうかがわせた。

 なんて指摘がなされています。
 多くの行政関係者ならびに上野市議会あたりの関係者のみなさんは、この調査結果を(お得意の慣用句でいえば)「厳粛に受け止める」ことが必要でしょう。お上の意向を唯々諾々と拳拳服膺している暇があったら、ちっとは地域住民の声に耳をお傾けになってはいかがかと愚考します。

 ついでに記しておきますと、けさの中日新聞伊賀版には、

本会議空転問題で
申し入れ文書返却
Y名張市議長

 なんていうベタ記事が載っております。

 名張市議会のY議長は、先の九月定例会で、T氏(無所属)の一般質問を巡って本会議が一時空転した問題で、T氏から提出されていた質問・申し入れ書を同氏に送り返した。
 二十七日に郵送された文書で、Y議長は「独断と偏見に満ちた表現が多数見られ、熟慮する必要はない」と説明。T氏は「全国市議会議長会事務局などから見解を聞き、対応していきたい」としている。

 「独断と偏見」と来ましたか。「熟慮する必要はない」と来ましたか。独断と偏見すら持ち合わせずひたすら市長の顔を見て尻尾を振るしか能のない人間がよういわはる。口惜しかったら一度でいいから自分の頭で熟慮とやらを試みてごらんなさいな。ちっとは地域住民の声に耳をお傾けになってはいかがかと、再度申しあげておきたいと思います。


●9月28日(金)
 名張市役所ゆさぶりプロジェクトはとりあえず名張市長の指示待ちということにして、ついでですからこの際、名張市における江戸川乱歩関連事業の足跡を振り返っておきたいと思います。
 気がつけば、きょうは9月28日。
 一日遅かったか。
 四十九年前の昭和27年9月27日こそ、乱歩が名張にある生家跡に生まれて初めて案内され、「ふるさと発見」を果たした記念すべき日であったのですが。
 ふるさと発見記念日からは一日遅れとなってしまいましたが、とにかく始めます。
 本日は、一通の趣意書をご紹介いたします。

     江戸川乱歩生誕地
     記念碑建設趣意書

探偵小説界の大御所江戸川乱歩先生は名張の町で生まれました。先生の本名は平井太郎、現在東都に御住居でございます。明治中期、先生の父平井氏は関西大学を卒えたばかりの身を青年官吏として職を名賀郡役所に奉じ名張在住四ヶ年の間に先生は生れたのであります。それは明治二十七年の十月の事でした。先生は御自分で名張で生まれたことはご存じでしたが、名張のどこで生まれたかは知るによしなく、懐しい土地として幻想を続け還暦に近い今日までずつと探し求めておられたのでありました。たまたま今年の九月の末川崎秀二氏の応援演説に来られたとき、くしくも私たちが先生生誕の地を御案内申上げることになつたのであります。
それは新町の元横山家で、現在桝田医院の宅地内であります。そこに以前横山家の長屋があり、その一軒に平井氏一家が借家住いをしていたのであります。
この文壇の異材乱歩先生を名張の町が産んだということは、わが名張町として大きい誇りの一つであり、この誇りを永く記念するため私ら当時案内役となつたものが相謀り、特に現持主桝田敏明氏の御賛同をも得てここに生誕地記念碑の建設を発起したので御座います。一つはこの文化の大先達の生誕地を記念するため、また一つには名張の町に一つの名所をつくり且つ郷土新進のホープに何等か裨益するあらん事を念願して皆さまの御浄資を得てこの企画を叶えさせて下さいますよう趣旨を述べまして切にお願い申上げる次第でございます。

なお記念碑の構想は乱歩先生御本人の御意見によることとし、資金の目標は五万円、除幕は来春四月に行う予定であります。

   昭和二十七年十二月

江戸川乱歩生誕地記念碑建設有志会     

 建設有志会の発起人は岡村繁次郎はじめ五人、いずれも故人です。
 「除幕は来春四月」とされていますが、実際に除幕されたのは昭和30年11月でしたから、何らかの理由で予定が先送りされたことになります。
 ちなみに、町村合併によって名張市が誕生したのは昭和29年3月のことで、この趣意書の当時にはまだ名張市は存在しておりませんでした。


●9月27日(木)
 さて、アメリカの同時多発テロ、名張市議による市長の告発、こんなニュースと時期を同じくしたせいですっかり影の薄くなった私の名張市役所ゆさぶりプロジェクトですが、その後の経緯をご報告いたします。
 「10月まで待て」
 とのことです。名張市教育委員会のトップ会談の結果が伝えられてきました。乱歩関連事業に関して10月に名張市長から何らかの指示がある、それまで待て、とのことです。上等です。私なんて名張市立図書館カリスマ嘱託を拝命したときからそれをずっと待ちつづけていたのだ。いまさら一か月程度のおあずけを喰ったからといってどうってことはないのだ。
 ただしその指示とやらの内容によっては、私はいよいよ本格的に名張市批判を展開しなければならなくなるかもしれません。予感としては、名張市役所より先にまず名張市教育委員会の能なしどもを揺さぶることになるのかな、という気もします。
 
練習をしておきましょう。じつは先日、掲示板「小林文庫の新ゲストブック」で啖呵を切る機会に恵まれながら結局それを果たせず、私はすこぶる残念に思っていたところなのだ。なにしろ私の罵倒芸と来たら人様から舞文曲筆の極致である、神品である至芸であるといわれたことなんか一度もないけれど、とにかくこれを機に名張市教育委員会を罵倒する練習をぶちかましておきます。
 「こら莫迦。名張市教育委員会の役立たずども。俺なんかこう見えたって知能指数よりも血圧のほうが遥かに高いんだ。見損なうな。えらい目に遭うぞ。覚悟しとけ」
 なかなか快調です。

 ここできのうの続報のそのまた続報です。本日付朝日新聞には、

議員の発言権
保障申し入れ
名張・共産市議

 というベタ記事があります。

 名張市議会のH議員(共産)は26日、「議員の発言権を保障した民主的な議会運営」を文書で申し入れた。申入書によると、無所属議員の一般質問中に多数議員が退席し審議が中断。その際「退席の制止」を議長に求めたが「延会」した。後日の質問は動議で打ち切られた。
 申入書はY議長とY議会運営委員長あて。H議員は「たとえ議決された内容でも、その後の質問に対する質疑は保障されるべきだ」としている。

 といった内容です。議会決議の無謬性ってやつが、こうして議員自身によって否定されているわけです。しっかりしなさい名張市議会。それとも君たち、上野市議会の先生方と莫迦さ加減を張り合ってるのか。もしもそうなら、この事態に関する限り名張市議会は比類がないほど莫迦ですから、君たちはそれを誇りに思ってもいいのかもしれません。よかったね。


●9月26日(水)
 少し前、といってももう10年近くも前になりますか、上野市民有志を中心に「伊賀は関西」という住民運動がくりひろげられました。
 きっかけは電話の局番変更です。伊賀地域はもともと、市町村ごとに市外局番が異なっていました。名張市から上野市に電話する場合は市外電話となり、十桁の番号をダイヤルしなくてはならなかったのですが、これを統一して伊賀全域をひとつの市内扱いにするという話がまとまりました。難しい話ではありません。
 上野市は「〇五九五二」、名張市は「〇五九五六」と五桁だった市外局番を、伊賀全域を「〇五九五」の四桁にして、それにつづく上野市の「二」や名張市の「六」は市内局番に含めてしまいます。それまで一桁だった市内局番が二桁になるだけの話で、十桁の電話番号そのものには変更がありません。
 これを業界の用語で「閉番号化」と呼ぶらしいのですが、この閉番号化を機に伊賀の市外局番を「〇七」で始まるものに変えようではないかというのが、「伊賀は関西」という運動の主旨でした。三重県に所属してはいるものの伊賀地域は本来関西圏なのですから、その事実を住民が深く認識し、対外的に広くPRする手だてとして、「〇五」で始まる東海地方の局番から「〇七」で始まる近畿地方のそれに変更することが必要だ、えいえいおー、みたいなことが叫ばれたのですが、何ほどのこともなく運動は終結し、伊賀地域の市外局番はいまも「〇五」から始まっています。
 私が不思議だと思うのは、市外局番の閉番号化など較べものにならぬくらい、今回の市町村合併は「伊賀は関西」を主張する得がたい好機だったはずなのですが、そんな動きはまったく見られなかったという一事です。上野市の連中って、いったい何を考えているのでしょうか。

 伊賀市問題を考える  第六回(2000年12月)

 あっというまに今回が六回目、最終回となってしまいました。連載テーマは「伊賀」としましたが、図らずも市町村合併構想が議論される時期と重なり、伊賀市を中心的題材とする結果になりました。最後にもうひとふんばり、伊賀市について記します。
 県からは近く市町村合併推進要綱が発表される運びになっていて、そのなかでは伊賀七市町村が合併して伊賀市を発足させるのが望ましい、といったアドバイスが記されているものと予想されますが、そう簡単には問屋が卸してくれないであろうことは、この連載でも触れてきたとおりです。
 どうして簡単に進まないのかというと、名張市が合併に難色を示しているということ以外に、というかそれ以上に、そもそも今回の合併話には根本的な無理があるからです。
 市町村合併はわが国のいわゆる中央集権システムが決定的に破綻し、国が地方を支配しつづけることが不可能になったという事情によって要請されたものです。つまり地方分権を進めるための手法です。
 ところがわが国の地方は、明治以来の、とくに戦後この方の中央による支配にすっかり慣れきってしまって、すべて中央まかせにして太平楽を決め込むことしか知らない状態です。
 げんに今度の伊賀市問題でも、市町村議会議員が率先して合併の旗振りをしているわけですが、中央の意向を無批判に受け入れて怪しまないそうした態度にこそ、中央支配に慣れきった地方議員の堕落がかいま見えます。
 つまり地方の人間は、議員であろうが市町村職員であろうが一般住民であろうが、中央のことなら何でも聞き入れるようにしつけられてしまっているわけです。
 そんな人間を相手にして、いきなり自己決定だの自己責任だのという言葉を振り回し、さあ市町村合併によって自立するのだよ君たちなどといってみたところで、そりゃ聞こえませんとしかいいようがありません。
 ここに根本的な無理があるというわけです。ですから結局のところ、市町村合併問題というのは、地方の人間が地方のことをよく知るためのきっかけであるというに過ぎません。そういうふうに位置づけ、対処するべき問題です。
 日本の地方がいかに衰退しているかを認識し、これからどうしたらいいのかを考える。そのことから始めるのが、一見遠回りのようですが、じつは地方分権、あるいは地方主権を実現するための一番の近道であるように思います。
 といったことを記しているあいだに、二十世紀もあとわずかになってしまいました。二十世紀最後の年である今年、マスコミで喧伝されたニュースのなかでとくに際立ったのは、政治家やお役所というものがまったく信用できないものであることが判明したという一事でしょう。
 つまり二十一世紀には、政治家もお役所もあてにせず、地域社会のことは地域社会の住民が考え、実践していくしかないということがわかったわけです。しかしそうはいっても、長引く不況で自分がどうなるかさえわからないのに、地域社会のことなんか考えている余裕はないという方も多いことでしょう。
 かくて二十世紀は終わり、西暦二〇〇〇年は陰々滅々として暮れていきます。
 ああ、伊賀はどうなる。一巻の終わりといたします。

 名張市議会を空転させたT議員による「斎場質問」の続報です。本日付朝日新聞に、

「発言妨害」と
抗議の申入書
名張市議が議長に

 というベタ記事が掲載されていました。記事本文は次のとおり。

 名張市議会の一般質問で「発言妨害」されたとして25日、T議員が抗議の申入書をY議長あてに出した。申入書によると、質問は重ねて「斎場立地の再考」を提案する内容で、議員の自由な発言の妨害を正当化する根拠はない、とした。そのうえで議会運営に対し「執行部と緊張関係を保ち執行部の独善・独走を抑止すべきだ」とし、土・日・夜間議会を開き公聴の機会を増やすよう提案した。

 ああ、名張はどうなる。まだまだ一巻の終わりとはまいりません。


●9月25日(火)
 市町村合併をめぐるアジテーション、きょうは第五回目です。
 私がこの市町村合併問題でひとつ不思議に思うのは、上野市の連中の動向です。
 これまでの連載にも記してありますが、伊賀地域の市議会議員有志が集まってつくった「伊賀市を考える議員の会」、これはなんだか頭の悪い人たちの集まりみたいで、いうことなすことがいちいち不可解です。どうして市町村合併の本質や地域社会の問題にまったく眼を向けようとせず、ひたすらお上のご意向ですから市町村合併をせねばなりませぬ、急いでせねばなりませぬとお先棒を担いで莫迦みたいに騒ぎまくるのか。
 この会の代表はKさんとおっしゃる上野市議会議員の方なのですが、なりゆきを拝見していてこの会だけはどうにも眼が当てられぬと思った私は、このホームページにも転載しております「乱歩文献打明け話」という漫才にこの会はちょっとおかしいぞ、みたいなことを書き、その掲載誌をこのKさんにお送りして、文句がおありでしたらお気軽にどうぞ、みたいなことを申しあげたのですが、何の音沙汰もありませんでした。
 ですから上野市議会議員ってのもずいぶん不思議だなとは思うのですが(なにしろ上野市議会議員の先生たちは忍者装束で議会に出席なさったりしていらっしゃいます)、私が不思議だなと思うのはまた別のことです。
 つづきはあしたです。

 伊賀市問題を考える  第五回(2000年11月)

 市町村合併をめぐる強引なシミュレーションのつづきです。名張市の動向を中心としたさまざまな動きを考慮し、さらには伊賀の風土や歴史、伊賀人の気質といったものを念頭に置いて断をくだすならば、話はこのように進まざるを得ないと思われます。
 すなわち、それぞれ県境を越えた地域をも合併したうえで、名張市(あるいは近鉄大阪線で結ばれた青山町も含めて、いわゆる南伊賀)は奈良県に、上野市をはじめとした北伊賀は滋賀県に所属する。これが結論です。
 南伊賀と奈良との、そして北伊賀と滋賀との密接な関わりは、いまさら説明する必要もないでしょう。伊賀地域は三重県に所属していますが、伊賀と伊勢のあいだには本州を東西に分断する山系がそびえていて、伊賀は分水嶺を越えて三重県にくっついている状態です。そうした事態がもたらす不合理を解消し、伊賀が名実ともに関西圏に加わるためのアクションを起こす契機として、市町村合併は得がたい機会であると判断されます。
 こうしたアクションは、伊賀地域に住む人間が、地域の過去と現在を再認識し、自分たちの手で未来を築く作業を開始するためにも、またとないきっかけになるはずです。われわれはそうした作業を、あまりにもお役所まかせにし過ぎてきました。地域のことは住民自身が考え、さまざまな実践を重ねるしかないのだという当然の事実を深く認識することができれば、県境を越えた市町村合併という派手めかした論議の、それが最大のメリットになります。
 それにそもそも、国や県の意向を無批判に受け容れて、取るものもとりあえず合併を推進するなどというのは、伊賀の人間のやることではありません。市町村合併を論議するのであれば、議論を進めながらその一方で、無策なくせに押しつけがましい国や県に一泡吹かせ、そのことによって批判を浴びせるというのが、伝統的な伊賀人のやり方です。県境を越えた市町村合併というのろしこそ、伊賀人の心意気を現代に高らかに示すものです。
 もしもこの構想が実現されれば、伊賀地域の北は滋賀県、南は奈良県ということになり、不都合が出てくるのではないかとご心配の向きもおありでしょう。しかし、行政面の不合理は住民がお役所の体質を変えてゆく端緒になるはずですし、伊賀という地域の一体性を捨てる必要もありません。伊賀が一体になるべき必要があれば、そのときは県境を越えて伊賀全体が手を結べばいいだけの話です。
 それにもうひとつ、「伊賀市」という呼称をつかわずに済むのも大きなポイントです。連載第一回にも記しましたが、伊賀というダーティーなイメージを帯びた地名を市の名前として採用するよりも、行政地名としてはどこにも存在しない、しかもふたつの県に分断されている、しかし厳然として存在しつづけている、といったあり方こそ、真に「伊賀」の名にふさわしいものだと思われます。
 ともあれ、市町村合併は決して目的ではありません。われわれが自分たちの地域をどう築いてゆけばいいのか、二十一世紀を目前にして真剣に考えるための機会です。もしもいま、それを考えなければ、二十一世紀はおそらく悲惨な世紀になるでしょう。
 先日、本紙のコラム「紙つぶて」に、ドイツ文学者の池内紀さんが「町が消える」という文章を寄せて、「銀行や保険業で起きていることが、遅かれ早かれ行政にも及んでくる。債務超過で倒産。来る二十一世紀は、次々となじみの町が消えていく世紀になるのではなかろうか」と述べていらっしゃいました。
 これは杞憂ではないでしょう。われわれの住む地域が二十一世紀に消えてしまわないためにも、市町村合併をきっかけとして、地域社会をめぐる本質的な議論が望まれる次第です。無理でしょうか。

 つづきはあしたです。


●9月24日(月)
 最近の朝日新聞にはよく乱歩の名前が出てきますが、昨23日の読書面の連載コラム「いつもそばに本が」には新藤兼人さんの“乱歩体験”が記されていました。小学校六年生のころには立川文庫の「猿飛佐助」と「霧隠才蔵」に熱中した、というエピソードのあと、

 それで、ぱったりと猿飛佐助は卒業し、次に現れたのは江戸川乱歩であった。
 ちょうどその頃、父の善良がわざわいして、家が破産、広い田も、山も、家も失って一家離散。進学の夢も消え、刑事になった兄の庇護の下、鬱屈たる日を送り、ひたすら江戸川乱歩を耽読。「二銭銅貨」「D坂の殺人事件」「心理試験」「屋根裏の散歩者」「人間椅子」。
 何がそこへ私をひきつけたか。人間の心の底にひそむ欲望や劣情を、陽の当たる所へ引き出して晒したことだった。サスペンスの業で。
 とくに「人間椅子」の着想と意外性は素晴らしく、人間心理のあばき方も見事だ。

 と書かれています。
 新藤兼人というのはその風貌や心性において日本の農民なるものを代表する人物なのではないかと私は思っておりますが、その新藤さんが乱歩作品を耽読していらっしゃったというのはいささか意外でした。新藤監督がメガホンを取った乱歩原作映画、なんてのを観てみたい気もいたします。
 それにしても、誰の場合も、乱歩という作家は少年時代の思い出のなかに、懐かしい知人のようにひっそりと佇んでいるもののようです。

 さて、市町村合併のお話です。
 本日の「伊賀市問題を考える」第四回には、「国と地方自治体を合わせれば六百四十五兆円という、とんでもない額の借金」とありますが、これは昨年10月の話で、現在では六百六十六兆円に膨れあがっています。私は数字にはてんで弱く、何かの金額などというものも聞いたそばから忘れてしまいますので、記憶すべき金額はすべて暗記法に頼らねばなりません。六百四十五兆円という金額も、蒸し殺された → 六四五年、というあれを応用して「大化改新」と憶えていました。それがいまでは「オーメン」と憶えなければなりません。六六六です。悪魔の数字です。日本社会は確実に悪い方向に進んでいるということが、この一事からも窺えると思います。

 伊賀市問題を考える  第四回(2000年10月)

 連載もいよいよ佳境に入りました。ひきつづき市町村合併をテーマに綴ります。前回は、合併をただの損得やメリットとデメリットの問題に還元して考えるのはおかしい、というところで終わりました。そのつづきです。
 市町村合併をめぐる議論のひとつに、合併によって行政サービスが低下するのではないかという問題があります。結論からいえば、たしかにサービスは低下するでしょう。しかし合併を行わなくても、行政サービスはやはり低下してゆくだろうと判断されます。
 なにしろ私たちは、国と地方自治体を合わせれば六百四十五兆円という、とんでもない額の借金を抱えています。単純計算すれば、国民一人あたり五百万円の借金を背負っている勘定になります。しかも景気の低迷は長期化し、というよりは日常化して、少し前までのような右肩あがりの経済成長はとても望めない状態です。きめ細かな行政サービスが永続的に維持されることは、ほとんど期待できないのではないかと思われます。
 こうした時代には、地域住民は行政サービスを享受するだけの存在ではあり得なくなります。働き手として経済発展の一翼を担い、家庭を維持し、子供を育てる一方で、地域のことはすべてお役所まかせにして済んでいたのは、すでに過去の話です。
 いまや私たちは、地域の重要な問題をお役所まかせにすることで地域社会がどれだけ疲弊してしまったか、それを目の当たりにしています。これからの地域住民には、自分の住む地域社会をどのようにしたいのか、そのためには自分に何ができるのかを主体的に考え、協力してそれを実行してゆくことが望まれるはずです。
 行政サービスの届かない分野は、地域住民みずからがサービスを手がけなくてはならない時代が、いずれやってくるでしょう。「官」の足りない点は「民」が補う。「官」のおかしな点は「民」が正す。地域住民自身にそうした自覚がなければ、これからの地域社会づくりは不可能だといえるでしょう。
 そうしたことを考えるためのまたとない機会が、まさに市町村合併です。合併すれば議員の数を減らせるとか、水道料金が高くなるとか、そんな目先の損得ばかりを論議していても、合併は意義あるものにならないでしょう。地域住民が市町村合併をどれだけ自分自身の問題として考えることができるか、合併の成否はその一点にかかっているとさえいえます。
 しかし残念ながら、私たち地域住民は、いまだにお役所まかせの体質から脱しきれていません。地域の問題に関して、責任をもって考え、発言し、行動することにも慣れていません。伊賀地域の市町村合併問題をとってみても、それが自分たちの切実な問題だと考えている住民は、ほとんど存在しないといっていいかもしれません。
 さて、ここで伊賀地域の現状に即して市町村合併を考えてみます。いまや最大の問題として浮上しているのは、名張市の去就です。伊賀七市町村が合併して伊賀市をつくる構想から、名張市だけが抜けてしまうという可能性が、ここへ来ていよいよ現実味を帯びてきたように思われます。
 しかし、それはそれでいいことでしょう。この連載の当初から指摘してきたとおり、伊賀は決してひとつではありませんし、合併を無理に進めて伊賀市をつくるのは望ましいことではありません。
 もしも本当に名張市が抜け、上野市をはじめとした六市町村が合併することになったとしたら、という仮定のもとに話を進めますと、名張市はその商圏である奈良県の近隣地域を合併したうえで、三重県を離れて奈良県に加わればいいのではないかと考えられます。そして上野市は、近隣と合併して滋賀県に加わります。
 と強引なシミュレーションがここまで進んだところで、次回につづきます。

 つづきはあしたです。


●9月23日(日)
 やけになって始めたわりには圧倒的なご好評をいただいているお姉さんシリーズですが、私とていつまでもこんな莫迦なことをやってる訳にはまいりません。お姉さん三部作、堂々の完結といたします。

這いずるお姉さん

 つかのまの悪夢のような三部作でした。

 伊賀市問題を考える  第三回(2000年9月)

 連載第三回です。前回ご紹介した平成伊賀の内乱、伊賀地域住民を「あほとちゃうか」と呆れ返らせた市町村合併をめぐる茶番劇はひとまず収束しましたが、風雲はいよいよ急を告げてきました。伊賀地域七市町村で伊賀市をつくるという合併構想が、根底からくつがえってしまう可能性が出てきたのです。
 名張市は伊賀市には加わらないかもしれない。市町村合併をめぐる最近の動向からは、そんな雰囲気が伝わってきます。伊賀はひとつではなく、無理に伊賀市などつくるものではないというこの連載のテーマが、まさに合併構想の進行によって証明されようとしているかに見えます。
 もっとも、市町村合併をめぐる一連の動きは、煎じつめればお役所や議会の内部だけのもので、地域住民は議論にほとんど加わっていない状態です。たとえ上野市議会で合併問題が熱心に論じられたとしても、それはコップのなかの嵐としかいいようがないものです。その点にこそ、市町村合併における真の問題があるといえるでしょう。
 そもそも、市町村合併がこうして大きくクローズアップされた背景には、地方分権の推進というテーマがあります。中央集権システムが社会に対応できないものになり、一方で中央政府の分配能力が著しく低下したことから、地方分権の必要性が急速に叫ばれ始めました。やや後退気味の首都機能移転問題でも、その根底には同様の危機意識が存在しています。
 つまり市町村合併は、あくまでも手段に過ぎません。これまで中央に従属していた全国の地方が、みずからの手に主権を獲得するための手段のひとつです。主権を獲得し、それを維持することが可能な規模の自治体をつくることが、市町村合併の最大の目的です。
 そして地域の主権は、お役所でも議会でもなく、地域住民自身の手に存在するものでなければなりません。市町村合併が地域住民自身の問題として認識されるのでなければ、合併が実現することはあっても成功することはないでしょう。それなら、市町村合併問題を前にして、地域住民はいったい何をすればいいのでしょうか。
 よくわかりません。さっぱり見当がつきません。とんと理解が届きません。それが正直なところでしょう。なぜかというと、市町村合併に関する情報がどこからももたらされないからです。上野市議会で伊賀市をめぐる白熱の議論があったとしても、地域住民は新聞報道でその概略を知るだけです。問題の本質や意義や理念について、地域住民はまったく無知であるといわざるを得ない状況です。
 もしもこのまま、お役所や議会の内部だけで合併問題が話し合われ、伊賀市の発足が準備されるのであれば、それは噴飯ものの事態であるといえます。地方分権を推進して地域住民が主権を手にする上での最大の障害は、硬直化し形骸化したお役所や議会であるからです。
 お役所や議会が勝手に合併論議を進め、満足な説明もなしにその結論を地域住民に押しつけてくるようなことがあれば、伊賀地域住民はいっせいに声を揃えて、
 「おまえらに言われたないわ」
 と強烈なツッコミを入れるべきでしょう。
 市町村合併は、単に自治体のスケールを大きくするというだけの話ではありません。それでは単なる器の改革に過ぎません。市町村合併によって本当に変わるべきなのは、まずお役所や議会であり、さらにいえば地域住民自身です。
 そして現在のところ、お役所にも議会にも、そして地域住民のあいだにも、合併問題をただの損得やメリットとデメリットの問題に還元して考える傾向が非常に強く見られます。しかし、それはちょっと違うのではないかいな、と一地域住民の疑問を提出しておいて、あとは次回につづきます。

 つづきはあしたです。


●9月22日(土)
 
ああもうやけだやけだ。
 きのうもまた更新できませんでした。いくら気合を入れてもプロバイダのサーバーに接続できませんでした。以前から画像をアップロードすると具合がおかしくなる傾向はあり、それが一昨日には画像を一挙四点もアップロードしたのですから、その時点で厭な予感はしていたのですが。
 しかもおとといの私はすっかりやけになってしまっていて、まったく必要のない「半裸のお姉さん」の画像なんてのまで掲載してしまいました。いったい何をしているのでしょう。ちなみに当地では、こんな具合に屋上屋を架す感じで馬鹿げた不始末を重ねたとき、「阿呆の細工に」という表現を用います。「阿呆」は「あほう」ではなく、「あほ」とお読みください。
 「ちょっとたちの悪い女に手を出してしまいまして」
 「ふむ」
 「それをまた阿呆の細工に妊娠させてしまいました」
 みたいな感じです。私は一昨日、まさしく阿呆の細工に半裸のお姉さんの画像をアップロードしてしまったのですが、ああもうやけだやけだ、きょうはいっそのことこうしてやる。

全裸のお姉さん

 ほんとにもう訳がわかりません。

 伊賀市問題を考える  第二回(2000年8月)

 連載第二回です。第一回の「伊賀者」に関しては、読者の方からご意見やご批判をまったく頂戴できず、ちょっと落胆してしまいました。しかし、世の中やはり捨てたものではありません。面白いことになってきました。
 というのも、前回も記しましたとおり、この連載のテーマは「伊賀は一つではない」とか「無理に伊賀市などつくるものではない」といったことなのですが、まさにこのテーマを証明するような騒動がもちあがってくれました。
 本紙伊賀版の読者には、いまさら説明の要もないでしょう。市町村合併問題に端を発して、伊賀地区広域市町村圏事務組合と伊賀市を考える議員の会という二つの団体で、すったもんだの茶番劇が演じられています。上野市をはじめとした六市町村VS名張市というのが基本的な対立の構図なのですが、この原稿を書いている時点では、いまだ収束のきざしは見えていません。
 伊賀地域住民のあいだには、今回の騒動に関して、「あほとちゃうか」との印象を抱いている向きが少なくないと伝えられます。が、この騒動はまさしく伊賀の伝統に基づいた由緒正しい馬鹿騒ぎであり、決して「あほとちゃうか」のひとことで片付けてしまえるものではありません。
 その伊賀の伝統を考えるために、前回も予告しましたとおり、伊賀惣国一揆をとりあげたいと思います。そもそも、伊賀惣国一揆とはいったい何であるのか。手近な辞書を引いてみましょう。『日本史広辞典』にはこうあります。
 「戦国期、伊賀国内に成立した国人・小領主の地域的結合体による連合組織。実態は不明な点が多く、一五五二〜六八年(天文二一〜永禄一一)のものと推定される一揆掟書の写がほぼ唯一の史料。構成員は諸侍(侍身分)であり、彼らが足軽・百姓(平民身分)を組織的に支配した。全員の会合によって重要事項を決定し、支配地域の村々に対する軍事指揮権を掌握し、違反者を処断した。また地域を接する近江国の甲賀郡中惣と野外集会をもつなど同盟関係を結んでいた。一五八一年(天正九)全国制覇途上の織田信長に攻撃され壊滅」
 十六世紀後半、伊賀には小規模な領主が結集していました。伊賀惣国一揆はその連合体で、他国の軍勢が侵入してきた場合、一丸となって外敵と戦うことがその目的でした。一揆の掟には、十七歳から五十歳までが戦闘に加わることなど、総動員体制での参戦が定められていました。
 戦国大名による統合と支配が進みつつあった当時、領主の連合によって地域を治める伊賀惣国一揆のあり方は、伊賀という地域の後進性を示すものでした。最後まで戦国大名の登場を見ることのないまま、織田信長の伊賀攻め、いわゆる「天正伊賀の乱」によって、一揆は完全に命脈を断たれてしまいます。
 しかし、かつて伊賀惣国一揆に結集した伊賀衆の心意気は、いまも脈々と受け継がれています。地域が一つになることを選ばず、必要に応じて団結するという伊賀衆の自治精神は、市町村合併を前にして、伊賀広域市町村圏事務組合と伊賀市を考える議員の会がくりひろげている騒動、「平成伊賀の内乱」とでも呼ぶべき騒ぎの底流として、たしかに存在しています。
 これぞ伊賀の伝統です。かりに市町村合併を進めるにしても、伊賀の歴史と伝統を踏まえ、伊賀の地域性を十分に考慮したうえで、中央からの押しつけではない、伊賀らしい創意と工夫に満ちた合併が進められるべきであるということを、今回の騒動は再認識させてくれました。平成伊賀の内乱には、大きな意義が認められると思います。
 というところで次回につづきます。伊賀広域市町村圏事務組合と伊賀市を考える議員の会からは、おそらくこの連載に対してお叱りや抗議が寄せられるだろうと判断されますので、次回はそのことについて記したいと思います。

 つづきはあしたです。更新できればの話ですが。


●9月20日(木)
 いったいどこがどんなふうに具合悪くてアップロードできたりできなかったりするのか。まったくわかりません。要するにプロバイダのサーバーに接続できなくなるわけです。ごく感覚的に、アップロードできないときは回線がひどく混雑しているみたいだな、という印象はあるのですが(しかし何の回線なんだかはよくわかっておりません)、プロバイダに電話してみても「そんなはずはないんですけど」と要領を得ません。
 二、三日前はとくにひどくて、ブラウザで任意のホームページにアクセスするだけでもえらく時間がかかり、たかが 100kb かそこらの全裸のお姉さんの写真をダウンロードするのにいったい何分かかっておるのだこの莫迦、と可愛いパソコンを罵ってしまう始末。ああもうやけだやけだ。

半裸のお姉さん

 しかしいくらやけになったからといって「半裸のお姉さん」などと私はいったい……。
 もっとも、二、三日前の不調はその日のうちに原因が判明し(自宅にパソコンをもう一台置いて、そこからもインターネットに接続できるようにしたのが遠因でした)、全裸のお姉さんの画像もまた短時間のうちにダウンロードできるようにはなったのですが、プロバイダのサーバーに接続できないときがあるという状況はそのままです。

 で、伊賀地域の市町村合併はどうなるのかというと、名張市なんて三重県とおさらばして奈良県になってしまえばいいのだ。私は去年あたりからそんなことをほざいております。
 というところで思いついて、昨年の7月から12月まで月一回ずつ、ある日刊紙地方版のコラムに連載した文章を転載いたします(執筆名義は私ではありませんでしたが)。これはエッセイなどという小洒落たものではさらさらなく、悪口雑言罵詈讒謗に充ちたアジテーションとでも呼ぶべきしろものであり、結果として編集部の手で不穏当な箇所を結構カットされたうえで掲載されておりました。したがってここには完全無修正ノーカット初稿版を掲載することになります。タイトルは「伊賀市問題を考える」とでもしておきます。
 それにしても私はいったい何をしているのでしょうか。ああもうやけだやけだ。

 伊賀市問題を考える  第一回(2000年7月)

 月一回ずつ六回、十二月まで執筆の機会をいただきました。伊賀をテーマに綴ることにします。市町村合併問題がかまびすしく議論されているおりから、「伊賀は一つだなどとどこの馬鹿がいいだしたのか」とか、「無理に伊賀市などつくるものではないこの阿呆」といったことを書いていこうと思っていますが、読者諸賢のご批判を得て、必要とあらば自説には適宜修正を加えながら連載を進めるつもりです。あまり感情的にならずにおつきあいください。
 まず確認しておきます。三重県は今年十二月末までに、市町村合併推進要綱をまとめることになっています。合併の枠組み、つまりどの市町村が一つにまとまるべきかというフレーミングに関する案も、その要綱で示されるはずです。ただし伊賀に関しては、フレームはあらかじめ明確でしょう。四方を山に限られた伊賀地域七市町村が、そのまま伊賀市のエリアとして採用されるはずです。ほかに選択肢は考えられません。
 さて、その伊賀です。かりに伊賀市なるものができたとしましょう。伊賀市のイメージはどんなものかというと、おそらく忍者です。伊賀と聞いて忍者を連想する日本人は、決して少なくないはずです。というところで、当代一の人気作家、京極夏彦さんが昨年十一月に出した『百器徒然袋─雨』(講談社)から引用しましょう。同書収録の「瓶長」という小説では、登場人物の会話のなかで、伊賀者という言葉がこんなふうに説明されています。
      *
 伊賀者と云うのは、伊賀出身の地侍のことなのです。伊賀には土地を統一するような権力者がいなかったので、小さな集団の小競り合いが絶えず、大きな勢力と相見えるに当たって、結果的に夜討ちや間諜などのやや卑怯な技を持たざるを得なかった、と云うだけのことなのです。それが、所謂忍びなのです。
      *
 さすが頭脳明晰にして博覧強記で知られる京極さん、伊賀や忍びの急所をしかとおさえていらっしゃいます。伊賀に発達した忍びは、まさしく「やや卑怯な技」でした。その事実はフィクションの世界にも反映されていて、諜報や暗殺のプロとして描かれた多くの忍者を見渡しても、曲がったことが嫌いな正直一途の忍者などというものは見当たりません。狙う相手の家に、
 「ごめんやっしゃ」
 と玄関から正々堂々とおとないを入れ、
 「わたい伊賀忍者匿名希望三十五歳でんにゃけど、ちょっとこれ(と親指と人指し指でマルをつくり)のからんだ話であんた殺しに寄せてもろたわけでしてさな。まあ悪う思わんといてだあこ。せやせや。ちゃんとお邪魔したゆうしるしに、ここちょっと(と懐から書類を取り出し)印鑑もらえますやろか。いやこんな宅急便みたいな真似せなあかん世の中になってしもて、労使の信頼関係ももうわやくちゃですわさなあ。あ。はんこなかったらサインでもよろしさけに」
 などと挨拶してから仕事にかかる忍者など、どこを探しても見つかりません。当節のスーパーにおける雪印製品のようなものです。
 一般的な忍者の解釈とは、権力のダーティ・ジョブを一手に引き受けたアウトロー集団といったところでしょう。もしも伊賀市が誕生したら、その名にまつわるピュアではない印象をも、地域住民は受け容れることになります。むろん、それを補って余りある恩恵がもたらされるのであれば、伊賀市も一概に否定されるべきではありませんが。
 しかし、伊賀の人間にとって本当に重要なのは、京極さんが「伊賀には土地を統一するような権力者がいなかったので、小さな集団の小競り合いが絶えず」と指摘していらっしゃる点です。話はここから一気に伊賀惣国一揆へとつながるのですが、続きはまた一か月後に。

 つづきはあしたです。


●9月19日(水)
 市町村合併の話は全国各地で進行していますが、当地の場合、伊賀地域七市町村がひとつにまとまるのがよろしかろうとされています。七市町村とは、
 上野市
 名張市
 青山町
 阿山町
 伊賀町
 大山田村
 島ヶ原村
 の七つで、これがいわゆる伊賀。伊賀忍者の伊賀です。伊賀の北にはやはり忍者でおなじみの甲賀があるのですが、これは滋賀県。伊賀は周囲を山に囲まれた盆地のなかに位置しており、昔から一体の土地でしたから、昨年12月に発表された市町村合併に関する県の指針でも、この七市町村が「伊賀市」を発足させるのがいいでしょう、みたいな見解が示されておりました。
 しかし諸君、伊賀をなめてはいけません。伊賀の人たちはとても仲が悪く、というか、上野と名張は昔からたいそう仲が悪く、ひとつにまとまるなんてのはできない相談です。それが証拠に名張市は少し前からこの伊賀市構想に加わらないことを表明していたのですが、ここへ来てじつは奈良県の一部との合併を考えているのだと、一昨日の市議会で名張市長が表明したと報じられた次第です。
 なんてことになると私の名張市役所ゆさぶりプロジェクトなどはもうあなた……。 

 話題を変えます。
 昨年6月に淡交社から発行された『モダニズム出版社の光芒 プラトン社の一九二〇年代』は、乱歩も寄稿した「苦楽」や「演劇・映画」の発行所だったプラトン社の歴史を跡づけた一冊です。探偵小説にはまったく関係ありませんが、グラフィックデザインや雑誌、広告、あるいはモダニズムや出版文化といったものに興味のある方に広くお薦めいたします。
 なかに、川口松太郎と入れ替わるようにしてプラトン社編集部に入った西口紫溟の随筆集『五月廿五日の紋白蝶』(博多余情社、昭和42年)から、同社が作家たちに支払っていた原稿料の一覧が転載されています。ちょっと面白いのでご紹介しましょう。
 まず最高額の十五円は幸田露伴ただ一人。別格官幣社、といった趣です。
 次が十円で、佐藤春夫、菊池寛、芥川龍之介、谷崎潤一郎、永井荷風といったあたりが並んだなかに、大衆小説作家では大佛次郎と三上於菟吉が食い込んで健闘しています。
 九円組は久米正雄、小島政二郎、白井喬二、直木三十五なんてところ。
 つづく八円がもっとも多く、長谷川伸、江戸川乱歩、長田幹彦、国枝史郎、岡本綺堂、今東光、室生犀星、川端康成あたりがずらずら。
 六円は田中貢太郎、横光利一、林不忘ら。
 五円は佐々木味津三あたり。
 最低の三円には甲賀三郎、小酒井不木、土師清二、牧逸馬なんてのが轡を並べております。
 当時の乱歩は横光より上で、東光や康成、国枝や綺堂と同レベルか、なんてことがわかって興趣は尽きませんが、それにしても林不忘と牧逸馬の稿料の差はいったい何によるものでしょうか。

 RAMPO Up-To-Date をアップロードしようと思うのですが、画像が三点もあるのに怖じ気づいてしまいました。きょうはとりあえず様子を見ることにして、うまく更新できたらあしたにでもアップロードいたします。けさも調子が悪そうです。
 それから、けさもけさとて朝日新聞に新保博久さんが乱歩邸の蔵書調査のことをお書きになっていらっしゃるのですが、なにしろ当地には夕刊がなく、もしかしたらきのうの夕刊に載っていたのかなとも思われます。玉川様玉川様いかがでしょうか。


●9月18日(火)
 またですまた。またきのうもアップロードできませんでした。どうなっておるのか。ともあれ、以下はきのう記したものです。

〓     〓     〓

 T議員の「斎場質問」で空転した名張市議会はきょう再開されるはずですが、いったいどうなることでしょうか。市議会の多数派議員はT議員の質問内容が刑事告発のくりかえしだとしてT議員の質問をボイコットしたわけですが、T議員は質問内容を変更する気はないと言明しているそうですから、また同じ光景がくりかえされるのかな。このあたりの議会運営はどうも茶番といいますか泥仕合といいますか、莫迦が集まってわいわいやってるのが名張市議会だとは重々承知しておりますものの、市民の一人としてやはりこっぱずかしさを感じないわけにはいきません。
 T議員にしても、どうせ刑事告発にもちこむのなら先に一般質問で告発と同じ内容の質問を行い、名張市長が言を左右にすることを確認したうえで、再質問の最後に「これでは埒があかないから刑事告発をばぶちかます」と宣言して伝家の宝刀を抜いたほうが、話の流れはよほどすっきりしたのではないかと思われる次第です。
 しかしこうなると9月11日、たった二分で構想をまとめ七時間後には名張市役所を訪れてすみやかに着手した私の名張市役所ゆさぶりプロジェクトはいったいどうなってしまうのか。なにしろ日本時間でその日の夜にアメリカの同時多発テロ事件が発生し、翌12日夕刻には名張市議会議員が名張市長の告発状を三重県警に提出するという思いがけないゆくたての連続。じつは私自身、なかば呆気にとられてなりゆきを見守ることしかできぬありさまです。

 先日もお知らせしました10月13日に名張市で行われる馳星周さんのミステリ講演会は、名張市のオフィシャルサイトできょう17日から入場整理券のお申し込みを承ります。どうぞ名張へおいでください。市議会の傍聴も面白いかもしれません。

馳星周のミステリトーク

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 以上です。以下は9月18日の記述です。
 きのう再開された市議会の模様を本日付朝日新聞伊賀版から拾っておきます。

 名張市議会で17日、斎場問題をめぐる14日の一般質問が中断されたT議員が再登壇した。しかし、発言が始まってまもなく、質問をやめるよう求める緊急動議が出されて賛成多数で採択。質問は途中で打ち切られ、答弁がないまま散会した。結果として多数派議員が議場での議員発言を封じ込める異例の出来事となった。Y議長は「告発の件にかかわる質問がまた繰り返され、やむを得ない」と説明。これに対し、同議員は「議会の自殺行為だ。多数による発言封じは議員としてあるまじきこと」と反発、改めて文書で抗議するという。

 なーにやってんだ莫迦議員どもが。案の定、14日と同じ光景がくりかえされたという寸法です。本日付中日新聞伊賀版によれば、Nさんという議員が提出した質問終結の緊急動議は、賛成十三、反対六で可決されたそうです。彼ら多数派議員のみなさんは、斎場に関する予算は過去に市議会で議決されたものであり、それをいまさら蒸し返すのは無意味である、と主張していらっしゃるようなんですが、議会決議の無謬性だなどと、そんなものを信じてる市民はごくごく少数なのではありますまいか。
 ところで本日付朝日新聞伊賀版のトップは、やはり名張市議会のニュースでした。

隣接奈良と連携強化
県境越えた合併も模索
名張市長が表明

 という四段見出しが躍っています。これも懸案の、市町村合併にまつわる話題です。やれやれ。乱歩の蔵書目録をネタにして名張市役所のぼんくらどもの腐った頭を張り倒してやるという私の名張市役所ゆさぶりプロジェクトはほんとにどうなってしまうのでしょうか。


●9月16日(日)
 しかしそれにしても、現職の首長が刑事告発されるというのは、異例と呼んでしかるべき事態でしょう。これで三重県警の捜査二課が実際に動き出したりした日には、名張市役所はこんな感じになってしまいます。

 ┌───────────────┐
 │       下       │
 │               │
 │               │
 │               │
 │     名張市役所     │
 │               │
 │               │
 │               │
 │       上       │
 └───────────────┘

 すなわち、上を下への大騒ぎ。私の目論んでいる揺さぶりなんて、どっかへすっ飛んでしまってそれっきりになってしまいます。
 そんなことはともかくとして、きのうのつづきをつづけます。問題は要するに、名張市がとんでもなく高い金額で斎場の用地を購入するということで、これはたしかに常識はずれな額になっています。大雑把な金額で話をいたしますと、斎場をつくるための予算が二十五億円、うち十億円が用地取得にあてられます。土地購入費のほかに、その土地にはある人が牛舎を建てて牛を飼っていますから、その移転補償費やなんかも合わせるとだいたい十億ということになり、うち七億円がすでに支払い済みとなっています。
 この牛舎地は山のなかにあって、付近の集落からも離れていますから、土地購入費はいくらなんでも高く見積もり過ぎだし、移転補償費だって同様だ、というのが刑事告発をした側の主張です。これはいわゆる市民感覚に照らしても、きわめて妥当な見解だと思われます。しかしお役所においては、あるいは議会においては、ときに市民感覚からかけ離れた決定がなされることがあります。今回の件がまさしくその一例です。
 きのうご紹介した新聞記事には、市議会一般質問でYさんという議員が「市の用地買収に議会が十分なチェック機能を果たしてきた」と主張したと報じられていましたが、こんなのは嘘八百です。市議会のチェック機能が正常に働いていれば、こんな不合理な予算が成立するわけがありません。名張市議会には、市長のほうを向いて尻尾を振ることが議員の最大の務めだと心得ている莫迦が多いわけです。うちの犬だってあんなには尻尾を振りません。


●9月15日(土)
 その後、名張市教育委員長をまじえた話し合いはいまだに実現しておらず、私はいっこうに名張市役所のぼんくらどもを揺さぶることができずにいるのですが、私が揺さぶるまでもなく、名張市役所は結構揺れているみたいです。
 新聞記事でそれをご紹介いたしますと、13日付の朝日新聞伊賀版には、

名張の斎場問題で市議ら
背任容疑で市長告発

 といった見出しが見られました。名張市議会議員の一人が名張市長を背任容疑で告発した、という記事です。それが翌14日には、

「うその内容で告発」
名張市長 対抗へ告発の構え

 なんてことが報じられました。市議の告発は不法不当として、名張市長が当の市議を告発する意志を示した、とのことです。同じ紙面には名張市長が「4選へ立候補示唆」なんていう記事もありました。そしてきょう15日付には、

「斎場質問」で議員退席
名張市議会 定足割り「延会」

 という四段抜きの見出しが躍りました。名張市議会というのもまあ大雑把にいえば度しがたい莫迦の集まりなのですが、この記事によりますと、本会議一般質問の最中にその莫迦議員どもが議場からぞろぞろ退席してしまったのだそうです。以下、個人名はイニシャルとして一部を引用しますと、

 定例名張市議会は14日、本会議を再開し一般質問を続けた。だが、午後の質問でT議員(無所属)の「斎場問題」の発言中に、議場から議員の退席が相次いで定足数を割り、一時、議事の進行ができなくなる事態になった。
 時間延長して議会運営委員会で収拾策の話し合いに入ったため、本会議場は空席になった。再開後の質問で、12日に同議員らが県警へ告発した内容の繰り返しだとして午後5時前、同日の議事を打ち切る「延会」となった。

 といった次第です。
 名張市で人が死ぬと、土葬の風習のある地域以外では、遺体は火葬されることになります。現在の市の火葬場はえらく老朽化しておりますし、昔は町はずれだったのですがいまでは住宅地に隣接してしまってもいますから、これを別の場所に移し、お葬式もできる立派な斎場をつくろうではないかというのは名張市の長年の懸案でした。最近になってようやくその移転先が決まり、用地取得などの手続きも進んでおります。ところが、

 名張市の斎場移転先の土地購入をめぐり、土地所有者から不当に高い値段で買い、市に損害を与えたなどとして、同市K×番町、T市議ら2人が12日、T市長を同県警に背任容疑で告発した。[13日付朝日新聞]

 てなことになり、これがさらに、

 名張市の新斎場用地買い入れをめぐり、市議らがT市長らを背任容疑で告発したことが13日、市議会で論議された。一般質問でY議員(公明)は斎場の移転改築が20年来の懸案で、市の用地買収に議会が十分なチェック機能を果たしてきた、などと主張した。これを受け市長は「うその内容による告発で、告発は不法不当。刑法172条(虚偽告訴等)で告発せざるを得ない」と、真っ向から対抗する構えを見せた。市長らを告発したT議員(無所属)は「何が虚偽なのか、改めて問いたい」と、14日にも一般質問する。[14日付朝日新聞]

 てなことにもなって、そのあげくがきのうの本会議一般質問におけるてんやわんやです。ぴっぴっぴーよこちゃんじゃ、あひるじゃがーがー、などと申しておる場合ではありません(獅子てんや瀬戸わんやの漫才をあなたはご存じでしょうか)。


●9月14日(金)
 どうもいけません。きのうもホームページの更新ができませんでした。ホームページ作成ソフトでプロバイダのサーバーに接続しようとしても、いっこうにうまく行きません。きょうはファイル転送ソフトでアップロードしてみます。
 下記はきのう記した伝言です。文中の「一昨日」は、現時点でいえば一昨昨日なのですが、そのままといたします。

*     *     *

 一昨日、つまり9月11日の朝日新聞に、こんな見出しが躍っていました。

創作の源泉「蔵の中」に見た
江戸川乱歩の蔵書目録、まもなく完成
約2万5千冊、手品本も

 これは名古屋本社版の見出しなのですが、えー玉川様玉川様、東京本社版のコピー、お願いできましょうか。
 この馬場秀司記者の記事によると、乱歩邸の土蔵に眠る蔵書の調査がほぼ終了いたしました。新保博久さんと山前譲さんが十年がかりで和洋二万五千冊におよぶ書籍と雑誌を調べあげ、ようやくその全容が明らかになったといいます。ご両人はたしか毎週金曜日、乱歩邸に足を運んでこつこつと蔵書のデータを取っていらっしゃったのですが、長きにわたってじつにどうもご苦労様なことでございました、と申しあげたいと思います。
 蔵書の内訳は、こんな具合だそうです。

明治期以降の日本の書籍  七二〇〇冊
日本の雑誌  九二〇〇冊
海外の原書  二〇〇〇冊
海外の雑誌類  八〇〇冊
和綴じ本  五〇〇〇冊
自著  三七〇冊

 いや凄い。とかく伝説めいて語られることの多かった乱歩の蔵書がきちんと調査分類されたのは、やはり凄いことです。それにしても二万五千冊。調査はさぞやたいへんだったろうな、それを体系化するのもまたたいへんだろうな、と思い至らずにはいられません。
 さてこの記事は、こんなふうに結ばれています。

データをパソコンに入力した目録は間もなく完成するが、どのように公開するかは未定だ。

 この文章を読んで私は、
 「いっちょ揺さぶったろか」
 と考えました。そして一昨日午後、名張市立図書館に顔を出しますと、館長の机にもくだんの記事のコピーが置かれてありましたので、私はそのコピーを指さしながら、
 「これネタにして名張市役所ゆさぶったりたいんですけど」
 「揺さぶったる、といいますと?」
 「じつはかくかくしかじか」
 しばらく相談したあと、館長と私は名張市役所に名張市教育委員会教育長を訪ね、用件を伝えた次第ですが、のらくらたらたらされては困るなと思いましたので、私はちょっときつい調子でものを申しました。こと乱歩に関していえば、私は名張市役所のぼんくらどもがやってることを腹に据えかねているのだ、といったことが教育長にちゃんと伝わっていればありがたいのですが、効果のほどはようわかりません。
 ともあれこの件は、名張市教育委員会の教育委員長もまじえて再度話し合おうということになって、いまだ結論には至っておりません。どうなるのかな。

*     *     *

 以上です。
 さてたったいま、念のためにもう一度ホームページ作成ソフトを操作してみると、今度は難なく接続できるではありませんか。だからさっそくアップロードいたします。どうなってるのかな。


●9月12日(水)
 目覚めてまず、あれは夢だったのか、と思いました。アメリカの同時多発テロを伝えるテレビニュースのことです。ゆうべ酔っ払って眺めていたせいかして、どこか現実感に乏しい、ハリウッド映画でも見ていたような印象が残っていたのですが、むろん夢なんぞではありませんでした。
 夢ではなかったと思い返して、あらためて茫然とした次第です。
 きのうの朝日新聞に掲載されていた乱歩の蔵書目録の記事を話題にしたいのですが、ただ茫然としているばかりで何も手につきません。あすに延期いたします。


●9月11日(火)
 けさは「小林文庫の新ゲストブック」にも用事がないし、久方ぶりで乱歩に関係のないコンテンツを更新してやろうと朝っぱらから安土桃山時代に留学していたのですが、留学から戻っても頭はいまだあっちのほうに行ったきりになっているらしく、この伝言板に何を書いていいのかがさっぱりわかりません。何も思い浮かびません。どうしようもありませんので本日はお開きといたします。


●9月10日(月)
 きのうの朝、また何かのどこかの具合が悪くて、ホームページを更新することができませんでした。下記はきのう記したものです。

 名張人外境開設二周年記念大企画協賛イベントのお知らせです。
 名張市が日本推理作家協会のご協力をいただいて開催している
ミステリ講演会、今年は10月13日土曜日に催されます。講師は馳星周さん。入場整理券のお申し込みは9月17日月曜日から受け付けます。詳細は下のリンク先、名張市のホームページでご覧ください。
 こうなると馳さんのご本、急いで拝読せねばなりません。文庫本で出てるのでしょうか。

馳星周のミステリトーク


●9月8日(土)
 名張人外境開設二周年記念大企画その一が決定いたしました。
 昨夜さる宴会の二次会で名張市役所にほど近い「せと」にのたくりこみ、
話をつけてきました。秋田県平鹿郡十文字町出身の女将が、
 「いいわよ。特別に店を開けてあげる」
 といってくれましたので、10月21日の乱歩のお誕生日、この「せと」で名張人外境開設二周年記念大宴会を催します。
 詳細は追ってお知らせいたしますが、とりいそぎお知らせまで。
 大熊宏俊様、そういった次第です。


●9月7日(金)
 きのうお知らせしました乱歩書簡の新聞記事、朝日新聞は5日夕刊のトップ、毎日新聞は6日朝刊に掲載されたことが確認されました。東京助手の報告によります。
 ほかに、神戸新聞でも6日朝刊の一面に掲載されたらしいというメールを頂戴しました。神戸にお住まいで神戸新聞購読者のあなた、いかがでしたか。
 こういうお知らせをいただくたびに思うのですが、やはり乱歩に関する情報を収集するための掲示板が必要なのかしら。私は昨今、毎日のようにホームページ「小林文庫」の掲示板「小林文庫の新ゲストブック」にお邪魔しているのですが、自分でホームページを開設しておりながらよそさまの掲示板を利用させていただくのも、考えてみれば妙な話です。それにもしかしたら、今年1月からこの伝言板でピン芸の高座を務めてきた私は、「小林文庫の新ゲストブック」で相方のある芸の醍醐味にめざめてしまったのかもしれません。誰か私と漫才やらんかね。
 掲示板の復活に関しては、まあもう少し考えてみたいと思います。復活させるとすれば、時期的には名張人外境開設二周年あたりがふさわしかろうと判断されますが、『江戸川乱歩著書目録』の編纂が山場にさしかかろうという時期に敢えて手間を抱え込むのもなんだか。


●9月6日(木)
 朝、メールで四件のお知らせが届いておりました。一件は『江戸川乱歩著書目録』がらみで乱歩作品を収録したアンソロジーに関するもの。残り三件は下記のとおり。

 asahi.com に「乱歩、横溝あてに探偵小説論 大量の手紙の写し」が掲載されています。

 Mainichi Interactive に「土蔵から乱歩の手紙」が掲載されています。

 シャーロッキアン平山雄一さんのホームページ「The Shoso-in Bulletin 日本語版」が「しょうそう文学研究所」としてリニューアルされ、アドレスも変更されました。

 以上です。
 乱歩の手紙うんぬんの記事は、乱歩邸の土蔵から乱歩が正史にあてた手紙の写しが大量に見つかったというもので、「推理小説の評論・研究家、新保博久さん(48)と山前譲さん(45)が、乱歩の蔵書を目録化している中で見つけた」といいます。名前のあとに括弧書きで年齢を附記すると、なんだか新聞ダネになった犯罪者みたいな感じがして面白いものです。
 これらの記事はそれぞれ、朝日新聞と毎日新聞に掲載されているものと思われます。朝日の名古屋本社版にはけさ掲載されていたのですが、朝日も含めて東京本社版日刊各紙の紙面を確認いたしたく、こういう場合は東京助手に一働きしてもらうことになっております。玉川知花さん、よろしくお願いいたします。

asahi.com

Mainichi Interactive

しょうそう文学研究所


●9月5日(水)
 眉村卓さん公認の眉村卓ファンにして眉村卓支援サイト「とべ、クマゴロー」の主宰者でありかつ名張人外境大宴会の永久幹事でもある大熊宏俊さんから名張人外境開設二周年記念大宴会のご相談をいただいているのですが、江戸川乱歩の誕生日にして名張人外境の開設記念日でもある10月21日日曜日に名張市内で開催してはどうかという方向で話が進んでおります。比較的早い時間に集まれば大阪府や兵庫県あたりの方もたらふく飲み食いしてその日のうちにご帰宅いただけるだろうとは思うのですが、名張までご足労いただくのはやはりたいへんではないのかなという気もします。
 昨年10月、名張市で北村薫さんと宮部みゆきさんの「ミステリ対談」なるイベントがあったときには、対談のあと名張市役所にほど近い「せと」という店で大阪府や兵庫県からおいでいただいたみなさんと宴席を囲み、対談の会場で出会った元名張市立図書館カウンター嬢の女の子も強引に連れ込んで臨時コンパニオンを務めてもらった次第で、大熊宏俊さんから会場はこの「せと」がいいのではないかとのご提案も頂戴しているのですが、あの秋田県平鹿郡十文字町出身の女将が経営している「せと」はたしか日曜がお休みなんです大熊君。
 そのあたりはおいおい考えることにして、あまり脈絡もなくつづけますと、9月18日には東京都内の会場で眉村さんの「一日一話」千五百話を記念した「眉村卓・悦子夫妻を励ます会」が催されるそうです。肝煎りは日本ペンクラブらしく、呼びかけ人として梅原猛、加賀乙彦、三好徹その他といった方々の名が並んでおりますが、SF作家の名は見えません。不人情なやつらだと思わぬでもありませんが、まあ事情はいろいろあるのでしょう。当方にもなぜかこの会への招待状が届いたのですが、不人情な話ながら欠席させていただくことにいたしました。
 9月18日は、眉村さんご夫妻の結婚記念日だそうです。
 眉村さん、奥さん、どうもおめでとうございます。
 はるか僻遠の名張の地から、一足早くお祝いを申しあげます。


●9月4日(火)
 一昨日アップロードできなかった画像が昨日はなぜかアップロードできておりました。どうにも訳がわかりません。

 大熊宏俊さんの「ヘテロ読誌」に「7月・8月」をアップロードいたしました。「最新情報」からお進みください。

 一昨日の肉体労働のせいでまだ躰に痛みが残っております。きょうあたり完全に恢復するだろうと思うのですが、けさも短めのご挨拶で失礼いたします。


●9月3日(月)
 たいへんなことふたつ。
 ひとつめ。きのう年に一度の肉体労働に勤しんだせいで腰や腕をはじめとして躰のあちこちが痛い。そんな躰を押して「小林文庫の新ゲストブック」に長文の書き込みをしてきたので、きょうは朝から疲労困憊している。
 ふたつめ。きのう画像を一点アップロードしたのだが、さっきアクセスしてみたら「HTTP/1.0 404 オブジェクトが見つかりません」などというふざけた表示が出てきた。私の使用しているホームページ作成ソフトはしばらく前から画像をアップロードすると不調に陥る傾向が見られたのだが、それでも画像をアップロードすることはできた。それがとうとうアップロードさえできなくなったのか。
 ああたいへんだたいへんだ。


●9月2日(日)
 といった次第で、第九巻まで刊行された眉村卓さんの『日課・一日3枚以上』をご紹介する段取りとなったのですが、時間がなくなってしまいました。まことに恐縮です。この本、自費出版ながらオンライン書店で購入可能であると聞き及んでおり、
ちょっと検索してみたのですが、ようわかりませなんだ。いよいよ恐縮。詳細は眉村さん公認の眉村卓支援サイト「とべ、クマゴロー!」でご覧ください。きょうは年に一度の肉体労働の日となっております。もう出張らねばなりません。それではまたあした。

とべ、クマゴロー!


●9月1日(土)
 莫迦なのか私は、などといまさら疑問に思っていても仕方ありません。思いついて眉村卓さん公認の眉村卓支援サイト「とべ、クマゴロー!」の掲示板を拝見すると、眉村卓さん公認の眉村卓ファンである主宰者の大熊宏俊さんが、くだんのテレビ番組についてちゃんと報告していらっしゃいました。天下御免の無断引用、ぶちかまします。大熊君ごめんなさいね。

さっき眉村さんがテレビに出演されていました(^^)。
私も直前に気づいたもので、ここで告知することができなかったのが残念です。
眉村さんが出演されたのは、NHK教育テレビで19時30分からの「にんげんゆうゆう」という30分番組です。<シリーズ快老のすすめ>「妻のために一日3枚」ということで、眉村先生がアナウンサーの質問に答えるという形式でした。
内容はタイトルどおり(^^;。
ここにいらっしゃる皆さんには周知のお話ですが、眉村さんご自身の口から聞かされると、また趣が違いました。
アナウンサーが作品をひとつ朗読しました。第七巻の615「けむりの悲憤慷慨」がそれで、耳で聞くとまたぜんぜんイメージが変わるので驚きました。
眉村さんの文章、朗読向きなのでしょうか、実によかったです。
ササッとインプロヴィゼーションで書かれているように私は思っていた文章が、実はよく考えられ練り上げられたものであったことに、気づかされました。眉村先生は音読しながら文章を書かれるのでしょうか?
朗読しても五分以内なので、MBSでもAMコーベでもFMオーサカでも、どこでもいいから、スポンサー見つけて帯で放送してくれないだろうか、とさえ思うほどよかったです。
でも録画に失敗したのであった(T_T)。

 たしかにこんな番組でした。
 
眉村さんも「快老のすすめ」などという企画に引っ張り出されるご年配になられたかとうたた感慨に堪えませんが、テレビ画面で拝見していると、こんなことを書き連ねるのはじつにじつに気恥ずかしいのですけれど、ああこの人はきょうまでつねに誠実に生きてきたのだな、みたいなことが眉村さんの顔や表情や声つきや話の内容から実感された次第です。
 そういえば「けむりの悲憤慷慨」の朗読もありました。なにしろ眉村さんは俳人でもあり、俳句の世界では「句ととのわずんば舌頭に千転せよ」などということがいわれておりますから、眉村作品の朗読が耳に心地よいのも当然だと思われます。
 と書いていて思い出したのですが、きのう記しました眉村さんと最後にお会いしたときのこと、あれはとんでもない間違いで、じつはあのあと一度、大阪の飲み屋で偶然お会いしております。ほかならぬ大熊宏俊君と眉村さんの行きつけらしい店で飲んでいると、当の眉村さんがひょっこり顔をお見せになったという次第です。そんなことも忘れるなんて、私はほんとに莫迦なのか。