2001年10

●10月31日(水)
 きのうの午後のことです。
 私は定休日明けの名張市立図書館に顔を出しました。
 図書館長に市長から指示はあったのかと質問しますと、
 「否」
 
との答えでした。
 私は早くもかちんと来て、よしわかったそれならとりあえず教育長に確認してみようなにしろ教育長だ教育などというご大層な言葉の下に長までくっついたご立派な方だまさか人との約定をたがえることはあるまい10月に市長の指示を伝えるとおっしゃっていたのだからいくらなんでももう確認してみてもいいころではないかと考えました。
 そこで図書館から名張市役所の教育委員会に電話をいたしました。
 電話に出てくれた男性職員に、
 「教育長をお願いします」
 と伝えるとしばし時間があって今度は女性職員が、
 「教育長はこれから出かけることになっておりますので」
 「あそうですか。いつお帰りになるかはおわかりにならないのでしょうね」
 「はい。あのどういったご用件でしょうか」
 「9月11日に教育長室にお邪魔してお願いしたことのご返事を10月にいただけると承っていたのですがそれがどうなっているのかをお訊きしたいんです」
 「ご用件は図書館長にお伝えいただければ……」
 そうは行くか、と私は思いましたので、相手の言葉も終わらぬうちに、
 「それなら今夜にでも教育長のお宅にお電話いたします。教育長のご自宅のお電話番号をお教えください」
 と畳みかけました。
 そして教育長の自宅電話番号を教えてもらい、逃がさへんぞくそったれがと呟きながら図書館をあとにした次第です。
 われながら無茶苦茶です。
 自宅に電話するなどというのはすでにして素人の手口ではないではないか、しかし致し方あるまい、などと思い返しながら夜の到来を待っていた昨日夕刻、図書館長から電話がありました。
 11月1日午後に教育長や教育委員長あたりと市役所で会合を開くからそこに出席するように、だから今夜教育長の家には電話をしないように、との用件でした。
 名張市教育委員会関係各位のみなさん、吹けば飛ぶような嘱託相手にあまり見苦しくうろたえないように。
 11月1日というのは要するにあしたです。
 あした、私は名張市役所から無事に帰ってこられるのでしょうか。


●10月30日(火)
 しかしまあ致し方ありません。名張市だっていつまでも生煮えの蒟蒻みたいなことをいってるわけにはまいらぬでしょう。ここらが潮時です。乱歩邸の土蔵と蔵書が立教大学の所有に帰することがほぼ確実になったいまの時点で、乱歩記念館がどうのこうのと便所の裏でぼけ老人がうわごと口走ってるとしか思えぬようなことを並べ立てるしか能のなかった名張市も、そろそろ乱歩に関して何をしたいのか、あるいは何もしないのか、はっきりしたところを示すべきです。そしてそのタイムリミットがいよいよあすいっぱいに迫っているわけなのですが、しかしほんとかな。ほんとに何かしらの指示があるのかな。
 ちなみに名張市では来年4月、任期満了に伴う市長選挙が行われます。私としてもこんなややこしい時期にことを荒立てたくはないのですが、しかしまあ致し方ありません。


●10月29日(月)
 名張祭りと通称される宇流冨志禰(うるふしね、です)神社の例祭も終わり、10月はきょうを入れてあと三日。きょう29日月曜は名張市立図書館がお休みですから、実質的にはあすかあさってに名張市長の指示が伝えられるはずなのですが、そんなものがあるはずはないだろうという気がしてきました。
 つまり私は、乱歩関連事業に関して10月に市長から何らかの指示がある、と名張市教育委員会から伝えられており、しつけの行き届いた犬みたいにきちんとおすわりしたまま待てをしているのですが、そんな指示なんて結局ないのではないかと思えてきたわけです。
 しかしあすあたり、図書館長を通じて教育長をせっついてみようかとは思案しているのですが、せっつかれた教育長がはいそうですかと市長の意向を質してくれるようなことはまずあり得ないだろうと推測されます。
 ここで念のために記しておきますと、私が市長に会いたいと申し出たときそんなことができるかとお役所のシステムの機能不全を露呈してくださった教育長はすでに退職されており、現在の教育長はそのあとに就任された方です。しかしいくら人間が入れ替わっても教育長の本質にはいささかも変わりがなく、最大の務めは市長の顔色を窺い市長に尻尾を振ることであると任じているような腰抜けしか教育長にはなれません。
 この伝言板の持続的な読者はここで、市長に尻尾を振るのが務めであると任じているのは名張市議会議員なのではなかったか、とお思いかもしれません。たしかにそのとおりです。名張市議会のぼんくら議員どもにもそうした傾向はおおいにあります。ところが同じく市長に尻尾を振るといっても、教育長と市議会議員ではその構造に差があります。
 トルストイの著名な長篇の書き出しをもじっていえば、

 腰抜けな教育長は一様に腰抜けであるが、ぼんくらな市議会議員はそれぞれにぼんくらである。

 ということです。
 つまり市議会議員ってのは地域住民の選挙で選ばれますから、市長に尻尾を振るかどうかは議員個々の問題です。しかし教育長は市長が議会の同意を得て任命するものであり、しかも教育委員会には予算に関する権限がまったく与えられていませんから、どうしたって市長の顔色を窺い市長に尻尾を振ることが最大の務めになってしまう道理なんです。全国津々浦々で日々ご活躍の教育長諸氏の名誉を守るため、ひとこと申し添えておく次第です。


●10月28日(日)
 えー、二日酔いです。「人外境だより」に書き込むだけでいっぱいいっぱいの状態です。
 ふと思いついて「近代短歌展」のご案内を。

近代短歌展 古今万葉の響き
 会場
徳冨蘆花記念文学館
    群馬県北群馬郡伊香保町大字伊香保614-8
    電話 0279−72−2237
 会期
平成13年10月20日(土)−11月28日(水)
 開館時間
午前8時30分−午後5時
 入館料
大人四五〇円、子供二五〇円

 一年前に江戸川乱歩展を開催した徳冨蘆花記念文学館の催しです。今年の国民文化祭(なんてものをあなたはご存じないかもしれませんが)は群馬県で開かれるため、それに連動した企画であると仄聞します。パンフレットには「第16回国民文化祭・ぐんま2001 文芸祭協賛」と書いてあります。
 あーいっぱいいっぱい。


●10月27日(土)
 9月11日にアメリカで同時多発テロが発生して以来、どんな大事件も影が薄く見えます。あの自爆テロに端を発した一連の大騒動なかりせばもっと大きく扱われていたはずのニュースが片隅に追いやられ、人の耳目をかすめるように通り過ぎ忘れられてゆきます。
 ひとごとではありません。かく申す私が名張市役所ゆさぶりプロジェクトに着手したのもまさしく9月11日のことだったのですが、私自身そのプロジェクトをうっかり忘れてしまうところでした。
 10月ももう27日ではありませんか。
 9月11日、新保博久さんと山前譲さんによる乱歩の蔵書調査がほぼ終了したという朝日新聞の記事を読んだ私は、
 「これでいっちょ名張市役所を揺さぶったろか」
 と思いつき、名張市立図書館長ともども名張市役所を訪れて乱歩の蔵書目録をテーマに教育長と面談したのですが、俗に申しますところの瓢箪で鯰を押さえるがごとき按配、はかばかしい返答がいっこうに得られず、結局あとになって教育長から、
 「10月まで待て」
 との伝言が伝えられた次第です。
 何を待つのか。乱歩関連事業に関して10月に名張市長から何らかの指示がある、それを待て、ということです。名張市立図書館嘱託を拝命して苦節六年、名張市はいったい乱歩のことをどう考えているのかと、梨の礫に終わるしかない問いかけをおりにふれて行ってきた私はいまやまなじりを決してその指示を待っているところであり、そのつれづれにこの伝言板で昭和27年以来の名張市と乱歩の関わりを確認してきた次第です。
 しかし、10月ももう27日ではありませんか。
 きょうは名張市平尾にある宇流冨志禰(うるふしね、ですね)神社例祭の宵宮、あしたは本祭り。祭り気分で浮かれているあいだに10月が終わってしまいそうな気もします。


●10月26日(金)
 勘違いして本を買ってしまうことがたまにあります。私はきのう別所書店名張店でアーサー・シモンズの『エスター・カーン』という本を見つけ、
 「あ。シモンズ。ひそかなる情熱のシモンズ」
 といまから考えるとどうしてそんな勘違いをしたのか理解できぬほどの勘違いをやらかして、同書を購入いたしました。今年9月に出た平凡社ライブラリーの一冊です。
 乱歩がご執心だった、というか、乱歩がその人のなかに自身の影を見ていたシモンズは、同じシモンズでもJ・A・シモンズ、ジョン・アディントン・シモンズなのですから、いや私もずいぶんと焼きが回ったものです。
 もっとも、私がろくに中味も確認せずに『エスター・カーン』を購ったことには、カバーにある川本三郎さんの文章が大きく影響していたのかもしれません。

 都市の雑踏のなかにこそ芸術がある。詩がある。「象徴主義」と呼ばれる芸術至上のシモンズが意外なことに世紀末ロンドンの巷を愛していたことに驚く。大衆的な芝居小屋、酒場、路地裏。シモンズもまたボードレールのいう「群衆のなかの孤独」に惹かれた。世紀末の作家は、その「豊かな孤独」で現代と深くつながっている。

 要するに「群集の人」なわけです。となると乱歩ともまた「深くつながっている」わけですから、読んでみないわけにはまいりません。
 ところで乱歩は、「J・A・シモンズのひそかなる情熱」を書くに際してアーサー・シモンズの著作にもあたったらしく、文中には、

 詩人アーサー・シモンズもその人物評論集 Studies in Prose and Verse のJ・A・シモンズの章で、

 といった記述が見られます。さてこうなると、話題はやはり乱歩の蔵書目録へと収斂いたします。


●10月25日(木)
 名張人外境開設二周年記念大企画最終弾の発表です。
 第一弾第二弾は何だったのかとお思いの方もおありでしょう。私にもようわかりません。
 そういえば先日、開設二周年記念大企画関連イベントのひとつであった杉浦康平さんの講演会のご報告を、徳島県の小西昌幸さんから「人外境だより」にご投稿いただきました。あの掲示板は過去ログはいっさい保存しない、面倒だから、ということになっておりますので、記録しておくべき書き込みはこの伝言板に転載することになります。小西さんよろしくご了承ください。

小西昌幸 先鋭疾風社
  2001年10月22日(月) 8時48分

徳島の海野十三の会理事の小西昌幸です。いつも中さんには大変ご支援をいただき感謝しております。番犬情報でも宣伝していただいた、私の職場(北島町立図書館・創世ホール)での10月20日開催杉浦康平先生の講演会「ブック・デザインの宇宙 本の森羅万象」はおかげさまで210人が集まり、大盛況となりました。東京、福岡、兵庫、香川、高知など県外からの参加者も多数あり、「芸術新潮」のアートディレクションをしておられる日下潤一さん(グラフィックデザイナー、印刷史研究会)もわざわざこのために来てくださいました。講演会は第1部が本のデザインについてで、膨大な杉浦先生の仕事をパソコン+プロジェクターで美しい映像を次々見せながら2時間解説。会場からは感嘆とため息が漏れ続けておりました。休憩を挟んで第2部は「手の中の宇宙」と題してアジアの宇宙観や曼荼羅について映像を駆使して解説されました。この日の講演会入場者には杉浦事務所からのプレゼントとして「自然と文化」「噂の真相」などを1人1冊差し上げました。また同じく杉浦先生からのプレゼントとして、特別にこの講演会のために先生が作って当館に寄贈してくださったカラーチラシも1人1枚進呈しました。おそらくこのような展開は当館にとって空前にして絶後のことでありましょう。全部で3時間に及ぶ催しでしたが、大変好評でした。それもこれも中さんをはじめとする全国各地の皆様のご支援のおかげだと思っております。本当にありがとうございました。ご取り急ぎご報告まで。

 私もついでにご報告。
 もうひとつの関連イベントであった馳星周さんのミステリトークも10月13日、名張市総合福祉センターふれあいホールで盛大に催され、県外からお運びをいただいた方も含め二百五十人の善男善女にご入場いただきました。お礼を申しあげます。
 私はちょっと遅刻してしまったせいで座★名張少女(ざ・なばりおとめ、とお読みください。劇団名です)による導入劇「アーク」を拝見することができなかったのですが(座★名張少女のお姉さんお兄さん、どうも相済みません)、馳さんのお話はじっくり拝聴いたしました。ノワール、小説家、サッカーの三題噺という趣でしたが、サッカーのお話は日本サッカー協会ならびにフィリップ・トルシエ監督の大罵倒大会となり、たいへん面白くお聴きしました。馳さんと日本推理作家協会事務局員の方には名張市立図書館乱歩コーナーもご見学いただき、お茶のおともには毎度おなじみ山本松寿堂謹製二銭銅貨煎餅をお出しいたしました。
 さて開設二周年記念大企画最終弾ですが、検索エンジン Google を利用したサイト内検索機能をぶちこんでみました。このページの下のほうをご覧ください。結構つかえます。


●10月24日(水)
 「文學界」7月号に中条省平さんの「残虐への郷愁──江戸川乱歩の人外境とは何か」が掲載されています。ということに気がつくのが遅かったため、いまとなっては立ち読みをお勧めすることもできません。人外境とは何か。勘どころの二段落を引用しておきます。

 乱歩は、うつし世を軽く飛びこえてみせる形而上的超越と、そこに向かう手段としての教養に憧れながら、ついに自分の小説の向かう場所を論理的に整序して位置づけることができなかった。おそらく、乱歩の蒐集癖、なかんずく探偵小説の「類別トリック集成」と称する、気の遠くなるような、マニアックな蒐集と分類の試みは、形而上的論理の欠如をおぎなうための必死の代償行為ではなかっただろうか。そのようにして、乱歩は、探偵小説の分類表のなかに、自分の小説を位置づけようとしたのだ。しかし、乱歩が手にしたのは、天上的超越に向かう形而上的な論理ではなく、地上の散文的なことわりによってすべてを秩序のなかに位置づけ、謎と神秘を白日のもとに解体してみせる探偵小説的な論理にすぎなかった。
 結局のところ、乱歩の天才は、分類と整理に終始する蒐集癖のなかにはもちろん、探偵小説的な論理のなかにもあらわれなかった。乱歩は、読者を論理で説得するよりも、ひたすら気分や感覚を介して読者を誘惑するときに天才を発揮した。小説を書いている最中の彼にとって、天上的超越境などはじめから眼中になく、探偵小説的な論理もつけ足しにすぎなかった。乱歩は感覚のリアリティのみを武器として、彼のいう「人外境」の陶酔を語り、読者を共犯者にしたてあげた。それは普遍的な人間の心理に届くような哲学的な高みとは無縁だが、読者のひそかな欲望に呼応し、この世のもうひとつの場所にある陶酔のかたちを示唆している。

 「反=近代文学史」と題された連載の一篇です。乱歩ファンなら必読でしょう。まずは出色の乱歩論。それにしてもいわゆる純文学雑誌に本格的な乱歩論が掲載されるのは、高原英理さんの「語りの事故現場」以来のことではないかと思います(と断言できるほど純文学雑誌に眼を通していないのがつらいところですが)。慶賀慶賀。ついでですから結びの段落も無断引用雨霰。

 江戸川乱歩の小説には、文明人が遠く忘れてしまった原初の死へのノスタルジアと宇宙的な孤独感が稀薄にただよっている。死や残虐や孤独は、そのままの濃度では読者の絶望を誘う毒だが、適度に薄めれば、香水の残り香のように、読む者の感覚と気分を刺激する快楽的な要素となる。乱歩の小説の稀薄さは、純粋な文学としては徹底性に欠ける弱点だったかもしれないが、その絶妙の濃度のさじ加減は、いまだに数多くの読者を引きつける小説づくりの秘法である。

 いずれ単行本として刊行されるはずですが、乱歩論新世紀の先陣を切る一篇としていまからお薦めしておきます。名張人外境は図書館系サイトですからデータやテキストを広く提供するのが本分であり、作品の批評や感想、評価といったものはできるだけ表に出さないように心がけているのですが、たまには「お薦め」なんてことをやってみてもいいのではないかしら。


●10月23日(火)
 名張人外境開設二周年記念大宴会の後遺症か、きのうは終日ほぼぼーっとしておりました。大宴会である方からお教えいただいた乱歩文献のネタでご機嫌を伺います。
 年刊らしい「文芸随筆」という同人誌の最新号に、岩田鏡之助さんの随筆「東京本郷『伊勢栄旅館』の夜 乱歩と岩田準一の同性愛文献の研究」が掲載されています。本屋さんには並ばない雑誌のようなので、立ち読みをお勧めすることもできません。ご紹介しておきます。
 文中に明かされているのですが、筆者は岩田準一のご令息にして、『二青年図 乱歩と岩田準一』を書いた岩田準子さんのご尊父。若き日の乱歩が住まいした三重県鳥羽市にお住まいで、現在「亡父岩田準一の日記を活字化すべく原稿化に励んでいる」とのことです。
 この日記の話は、もう四、五か月前になりますか、中日新聞鳥羽通信局の記者の方からお聞きしたことがあります。岩田家に保管されていたもので、結構膨大な分量があり、乱歩の名は「H」というイニシャル(平井のHです)で記されているそうです。もっとも乱歩に関する記述はごく一部に出てくるだけで、それよりも当時の鳥羽の民俗や風習が仔細に記録されている点が貴重らしく、得がたい郷土資料であるといいます。公刊が待たれます。
 随筆の題材も準一の日記で、大正14年11月13日のくだりが紹介されています。

 雨がしけてゐる。今朝の新聞をふと見たら江戸川乱歩氏が丸之内ホテルから本郷の伊勢栄に移宿し滞在してゐると云ふ記事を見た。数日前この人が東京の放送に「探偵趣味の話」をしたので上京してゐることだけは分つてゐたが、住所が分らなかつたので、一度逢つてみたいと思ひ乍らそのまゝになつてゐた。

 準一は鳥羽で乱歩と知り合っていたのですが、これはそれから七、八年後の話。当時、準一は東京の文化学院に在学していました。二人はこの日、本郷にあった伊勢栄旅館で久闊を叙したそうで、「東京本郷『伊勢栄旅館』の夜 乱歩と岩田準一の同性愛文献の研究」は、

両者の同性愛研究のスタートは東京本郷にあった「伊勢栄旅館」での邂逅が始まりであったことが分かる。

 と結ばれています。
 ちなみに上に掲げました引用二件、冒頭に一字空きがあるものは段落の最初から、一字空きのないものは段落の途中から引いたものであることを示しております。


●10月22日(月)
 10月22日を迎えました。きょうも静かにしていることにいたします。
 「小説宝石」11月号に山前譲さんの「『江戸川乱歩と横溝正史』の交遊秘録」が掲載されています。「乱歩の手紙」をテーマにしたエッセイです。興味がおありの方は立ち読みをどうぞ。
 ではまたあした。


●10月21日(日)
 10月21日を迎えました。江戸川乱歩の百七回目のお誕生日です。きょうくらいは静かにしていたいと思います。
 「オール讀物」11月号に新保博久さんの「蔵の中へ行ってみたいと思いませんか?──江戸川乱歩の土蔵耽見記」が掲載されています。「土蔵と私」をテーマにしたエッセイです。興味がおありの方は立ち読みをどうぞ。
 ではまたあした。


●10月20日(土)
 しっかしまー伊賀地方拠点都市地域整備計画だか名張市中心市街地活性化基本計画だかよく知りませんけど、こうした計画をもちだすのは田舎のお役所の悪い癖といいますか能力の限界といいますか、補助金と機関委任事務とでがんじがらめに縛りつけられ骨抜きにされ思考能力を完全に放棄させられてしまった田舎のお役所は、長くつづいた中央支配に慣れきったせいでこんな情けない発想しかできなくなっているように見受けられます。
 これらの計画に盛り込まれた乱歩記念館構想には、内発性というものがほとんど感じられません。内発性というか、主体性というか、必然性というか、志というか、魂というか。要するに名張市はどうしても乱歩記念館をつくるんです、という気概みたいなものですね。それが感じられません。
 伊賀地方拠点都市地域整備計画にしても名張市中心市街地活性化基本計画にしても、この事業に乗っかったらお上からお金が下りてくるからこの計画に乱歩記念館を盛り込むことにいたしましょう、ってだけの話であるように見えます。これらの計画における乱歩記念館は、お刺身の盛り合わせにおける鯛のひと切れ以上のものではないように見えます。つまり本末転倒しています。なんとしても乱歩記念館をつくりたい、それなら国庫補助も活用しよう、というのなら話はわかりますが、補助金が下りるから乱歩記念館をつくってしまいましょうかというのでは、かりにできたとしても高の知れたものにしかならぬと思われます。
 みたいなことをいくらぼやいていても仕方がありません。ぼやくべきことは多々あるのですが、先を急ぎましょう。
 で私は、1999年6月に平井隆太郎先生から豊島区の乱歩記念館構想のことをお聞きしたあと、あっちこっち心当たりに問い合わせ、豊島区教育委員会にもお電話をさしあげ、豊島区の構想についていろいろと情報収集なんてものをやらかして、それを名張市の上層部に逐一お伝えいたしました。ルートはというと、なにしろ私は市長にお会いできない不幸な身の上ですから、
 図書館嘱託 → 図書館長 → 教育長 → 市長
 という経路をたどります。むろん名張市の乱歩記念館構想はどうするの、みたいなこともお訊きしたのですが、うんともすんとも応答はありません。図書館長にもかなりせっついてもらったのですが、さながら死人のごとき無反応。そこで私は奥の手をつかい、知り合いの反市長派市議会議員にお願いして、名張市議会の議場で市当局の意向を質してもらいました。みたいなことは「乱歩文献打明け話」の第十三回「十七歳はバスに乗って」にも記してありますので、興味がおありの方はお読みください。一部を引用しておきます。

「君、『なばり市議会だより』の五月号は読みましたか」
「何が出てますねん」
「名張市議会三月定例会の報告です」
「そらまあそうでしょうけど」
「予算質疑の報告も載ってまして」
「それがどないしました」
「そのなかの見出しにいわく」
「なんですねん」
「『乱歩記念館の構想』」
「名張市議会で乱歩記念館のことが話題になったんですか」
「まあ予算特別委員会の話題ですけど」
「どんな話題でした」
「そら君びっくりしますよ」
「そんな凄い構想ですか」
「質問と答弁が掲載されてまして」
「質問といいますと」
「平成十二年度予算に関連してある議員が質問をなさったわけですけど、『なばり市議会だより』に載ってるのをそのまま読みますと、『質問●市長は平成九年の年頭記者会見で、十年度計画として乱歩記念館の建設を語っているが、一向に実現の兆しがない。この間、東京新聞紙上で豊島区が乱歩遺産の寄贈を受けることが報じられた。市立図書館の乱歩コーナーの存廃、展示品の収集など、市長の記念館構想はどうなるのか』」
「それはもっともな質問ですね。それで名張市側の答弁はどないでした」
「『なばり市議会だより』によりますと、『答弁●乱歩資料はまとめて保存・公開されることが望ましいと考えている。名張市としては、遺品の取り合いなどを考えず、乱歩生誕地として東京側とは違った方法での乱歩顕彰策を考えたい』」
「いったいその答弁のどのへんにびっくりせえゆうねん」
「あまりの無能無策ぶりに」
「そらたしかに策はないですけど」
「腰抜けますよほんま」
「そらまあ君にしてみたらそうかもしれませんけど」
「結局この答弁で何がわかったかといいますと、要するに名張市は乱歩のことに関して何も考えてこなかったし今後も考えるつもりはないゆうことですね」
「そこまで決めつけたらあかんがな」
「名張市は僕を本気で怒らせる気ィなんですかね」

 私が本気で怒ることになるのかどうか、遅くとも10月31日にはそれがはっきりすると思います。みたいな話の流れ、あなた憶えてくださってますか。


●10月19日(金)
 豊島区の乱歩記念館構想についていまさら喋々する必要はないものと思われますが、新顔の検索エンジン「NAVER Japan」で「乱歩記念館」を検索したところ、豊島区のオフィシャルサイトがヒットしました。「平成12年度予算案重点施策」のページです。「2.街の「元気」を創る」の「街の文化を育む」という項目に乱歩記念館のことが書かれておりますので、なんだか死児の年齢を数えるようで心苦しくはあるのですが、引用しておくことにいたします。文中にある乱歩邸現住所のところ番地は、個人情報をここまで公開することはあるまいと判断されますので、引用に際しては伏せ字とします。

(1)旧江戸川乱歩邸基礎調査【新規】 998千円

 西池袋○−○○−○○に所在する旧江戸川乱歩邸(現平井隆太郎邸)の公開・活用の可能性について検討するため下記の基礎調査を行う。
 (1) 上記邸宅の現況把握
 (2) 公開・活用プランの検討
 (3) 他区市町村立の文学館・文学者記念館等の現状把握
 (4) 江戸川乱歩研究の進捗状況把握
 (5) 西池袋地域と乱歩の関連性についての把握
 (6) (1)〜(5)までの調査結果をまとめた成果報告書の作成

 日本を代表する推理小説家である江戸川乱歩(本名:平井太郎)は、1934年(昭和9年)から1965年(昭和40年)に死去するまでの31年間、豊島区池袋3-1626番地(現平井隆太郎氏邸)に居住した。乱歩邸は一部を除いて戦災をまぬがれたため、家屋や土蔵には乱歩が遺した蔵書・資料が保管されている。その中には、乱歩についての個人的な情報に関わる資料はもちろん、1934年から1965年までの現西池袋五丁目あたりの地域に関わる歴史資料も含まれていると言われている。
 このため、区内に残された貴重な文化遺産である旧江戸川乱歩邸の建物状態、改造の状況と資料群の保存状況等について基礎的な調査を行い、あわせて建築上の制約、所要経費等の諸課題を整理する。

 おなじみの検索エンジン「Google」で「乱歩記念館」を検索すると、同じく豊島区のオフィシャルサイトにある別のページがひっかかってきました。「高野区長あいさつ・メッセージ集」というページなのですが、ここには今年2月16日、豊島区議会の平成13年第一回定例会で高野区長が行った所信表明の全文が掲載されています。関連箇所を引いておきます。

 今回ご提案申し上げました平成13年度予算においては、私が実現に向けて強い思い入れをしておりました「江戸川乱歩記念館整備構想」について、この間、様々な角度からその可能性について検討してまいりましたが、現在地に記念館を整備するためには、用地取得費や建設費などで多額な資金が必要となることなどのため、現在の厳しい財政状況に鑑み、誠に残念ではありますが、記念館の整備については見送ることといたしました。

 「Google」で「乱歩記念館」を検索するともうひとつ、「みえの中心市街地活性化NAVI」なんてものにもぶつかります。三重県のオフィシャルサイトのなかにあるページで、県内各地で進行しつつある中心市街地の空洞化に歯止めをかけるため、中心市街地活性化法に基づいて策定した地域別プランが公開されているのですが、「名張市中心市街地活性化基本計画」にはたしかに「乱歩記念館」の名が記されています。この基本計画は「国の基本方針などをふまえ中心市街地における課題に総合的・計画的に対処するため」市町村が作成したと説明されているのですが、私はこうした計画があることをまったく知りませんでした。ともあれ、乱歩記念館が出てくるところはこんな感じです。

〔名張らしいまちなみの保全・整備〕
地区内に残る名張らしさを醸し出す原風景を活かした名張地区固有のまちづくり整備
仮称)地場産業館整備、初瀬街道沿い街道街並み整備、歴史文化軸整備、江戸川乱歩記念館整備、簗瀬水路沿い親水空間整備、街道まちなみ保存整備振興事業

 過日ご紹介した新聞報道では名張市の乱歩記念館構想は伊賀地方拠点都市地域整備計画に盛り込まれているとされていましたが、ネット上で公開されている同計画にはそれらしいものが見当たらず、かと思うと名張市中心市街地活性化基本計画にはかくのごとく明記されているといった按配。ほんとのところはどうなっているのかな。

豊島区平成12年度予算案重点施策

高野区長あいさつ・メッセージ集

名張市中心市街地活性化基本計画

伊賀地方拠点都市地域整備計画


●10月18日(木)
 1997年、1998年、時は瞬く間に過ぎ去りました。
 1998年の12月、名張市立図書館の江戸川乱歩リファレンスブック2『江戸川乱歩執筆年譜』がようやく完成しました。私はやっと一息つくことができました。
 明けて1999年、この年5月に中島河太郎先生が逝去され、6月には東京・帝国ホテルで「故中島河太郎(中嶋馨)先生お別れの会」が催されました。私はこの会に列席し、翌日には池袋の乱歩邸を訪れて平井隆太郎先生にお目にかかりました。みたいなことは「乱歩文献打明け話」の第十回「中島河太郎先生追悼」にも記してありますので、興味がおありの方はお読みください。一部を引用しておきます。

 六月二日、私は西池袋の乱歩邸、つまり平井隆太郎先生のお宅にお邪魔した。
 この訪問は当初の予定には入っていなかった。
 私はこの日、四月に開館したミステリー文学資料館を訪れる気でいたのだが、前日山前譲さんに資料館の場所をお訊きしたところ、ゆくりなくも平井先生のお宅から目と鼻の先であった。
 それなら、せっかく上京したことでもあるのだから平井先生にご挨拶しておこうと考え、私はこの日の昼過ぎ、電話で先生のご都合を伺った。
 すると、午後三時に豊島区の新しい区長さんがいらっしゃるから、訪問はそのあとにしてほしいとのことである。
 私は、すでに近くまで来ていること、お邪魔してもすぐに辞去することを説明し、それならばとご承諾を得た。
 そして平井先生にお会いして、豊島区長が掲げている乱歩記念館の構想を耳にしたのである。
 それは公約であるという。
 今年春の選挙で選ばれたこの豊島区長は、乱歩記念館の建設を公約のひとつに掲げて選挙戦を戦ったのだという。

 さて、名張市の乱歩記念館構想はいったいどうなるのでしょうか。


●10月17日(水)
 1997年の話のつづきです。
 この年の春、『乱歩文献データブック』が無事刊行されました。私はひきつづき『江戸川乱歩執筆年譜』のお仕事にとりかかりましたので、売れっ子芸者のような慌ただしい毎日でした。データブックの最後の校正を終えた翌日には、もう執筆年譜のデータ整理を始めていたという記憶があります。
 そんなこんなで名張市の乱歩記念館構想の内容を確認することもできず、というかそれ以前に、市長によって1997年お正月に華々しく発表されはしたものの、そのあとこの構想の名を耳にすることは二度とありませんでした。先日ご紹介した中日新聞の記事には、伊賀地方拠点都市地域基本計画に乱歩記念館が盛り込まれていると記されていましたが、これも仔細は不明です。何がどうなっているのやら。
 それにそもそも私は、新聞報道にあった「日本推理作家協会や記念館建設に関心のある諸団体と連携をとって進めていきたい」という市長の言葉を一瞥しただけで、あ、こらあかんわ、と思わざるを得ませんでした。単なる職能団体に過ぎぬ日本推理作家協会やどこの馬の骨とも知れぬ諸団体なんてのが、乱歩記念館建設にあたっていったい何の役に立つというのでしょうか。肝腎のことが抜けています。まず仰ぐべきは遺族の協力です。そんなこともわからんのか。おまえたちはいつもそうだ。 

伊賀地方拠点都市地域基本計画


●10月16日(火)
 1997年の話のつづきです。
 結局教育長にはお会いできなかったのですが、もしもお目もじがかなったら私はこんなことをお訊きしようと思っていました。
 「えー私は市長にお目にかかることのできない図書館嘱託ですのであなたにお訊きいたします。まず一点目。私が過日名張市役所の教育長室でお伝えした乱歩記念館に関する愚見、つまり名張に乱歩記念館なんてつくる必要はない、どうせつくるのなら名張市がお金を出して東京につくればいいのだという浅見をあなたは果たして市長にお伝えくださったのでしょうか。卑見は市長に直接具申するべきなのですがなにしろお会いできぬのですからあなたに仲立ちをお願いするしかありません。そう思ってあなたにお伝えした管見はいったいどうなったのでしょうか。二点目。市長が発表した乱歩記念館構想はどういった内容のものなのでしょう。あなたは例によってあれは市長部局の手がける事業だから図書館には関係ないなどとお役所のシステムを盾にお取りになるのでしょうか。そうは行きません。縦割り行政の弊害という言葉をあなたもお聞きになったことがおありでしょう。弊害は改めるべきです。ぶっつぶせぶっつぶせ。間尺に合わぬお役所のシステムなんかぶっつぶしてしまえ。私はそのように思っております。乱歩記念館に関しても縦割りの行政システムを自由に横断し市長部局と図書館が密接に連携することによってより充実した事業展開とやらが進められるはずです。名張市教育委員会は私というきわめて有能な人材をケンタッキーフライドチキンのお姉さんより安い賃金で過労死せよとばかり使役できる立場にあり私はげんに『乱歩文献データブック』で死にかけているのですが乗りかかった舟、もしも市長が本気で乱歩記念館を建設したいとおっしゃるのであれば縦割りの壁なんぞ軽く踏み越えて微力を尽くすことに吝かではありません。むろん私は乱歩記念館なんて名張に建てるべきではないと考えているのですからまずその点を詰めることになりますがそれはそれとしてとりあえず市長の肚のうちをお聞かせいただきたいと思います。しかしなにしろお目にかかることができませんのであなたにお願いいたします。市長の胸中をお訊きしてきてください」
 まあほかにもいろいろ問い質したいことはあったのですが、乱歩記念館に関しては上記のようなことでした。


●10月15日(月)
 1997年のお正月の話のつづきです。
 1997年1月、私はきわめて多忙でした。『乱歩文献データブック』の編纂が詰めに入っていたからです。年末年始も休みなしでかかりきりでした。
 当時、1月3日には神戸の知人宅にのたくりこんで新年会をぶちかますのが恒例となっていたのですが、名張から神戸まで足を運んで狂ったように酒を浴び、三宮のサント・ノーレで二次会をやっつけてからカプセルホテルで死んだように一泊していてはまるまる二日つぶれてしまう、と考えて新年会もキャンセルしたような次第でした。私が宴会をキャンセルするのはよほどのことだとお思いください奥さん。
 そんな時期に、寝耳に水の乱歩記念館構想です。ありゃりゃ、とは思ったのですが、なにしろ名張市役所のシステムでは図書館嘱託が市長に会うことは不可能であるという事情もあり、とにかくほかのことには手が廻りかねる状態でしたので、私は図書館長に、市長の発表した乱歩記念館構想について何かお聞き及びか、と確認し、否、との返事を得ただけでした。
 しかしその直後、どうにも腹に据えかねることが出来しました。ここはやはり教育長にお会いして、乱歩記念館構想のことその他をびしびし問い質してやらねばなるまいと私は考えました。みたいなことは「乱歩文献打明け話」の第五回「うっかりキレた私」にも記してありますので、興味がおありの方はお読みください。一部を引用しておきます。

 ある日、私は館長から呼ばれて、週に一日でいいから図書館に終日詰めてくれないかと依頼された。私は市立図書館で机をひとつ与えられているものの、とても落ち着いて仕事のできる環境ではない。早朝や深夜に机に向かうことも多いから、データブックの編集はすべて自宅で行っていた。嘱託になった当座はまず図書館が所蔵している乱歩関連図書のビブリオグラフィをつくるべく(実際、そんな基本的な目録もできていなかったのである)、足繁く図書館に通ってデータを取っていたのだが、それもデータブックの予算がつくまでの話である。自宅勤務は、むろん図書館から了解を得ている。
 「どうしてですか」と私は尋ねた。
 「それがあの、いつ図書館に行ってもいやへんやないかと」
 「私がですか」
 「はい。そういうふうにゆうてくる人がありますねて。週に一日だけでも図書館に詰めてもらえませんやろか」
 「どなたですか」
 「え」
 「ですから、そういうくだらん難癖をつけてくるのはどこのあほですか」
 「それがその、あっちからもこっちからもいわれてますねて」
 「なるほど。それでしたらそのなかで一番地位の高い人間の名前を教えてください」
 「どうされますの」
 「いちばん上の人間を叩いたったら、あとの木っ端はすぐ黙ります」
 「いえ、それは」
 話し合いは不首尾に終わった。私は肯んじなかったし、そもそも怒り心頭に発していた。まったく、いったいどこの阿呆がこうした腰も抜けんばかりないちゃもんをつけてくるのか。可能性が高いのは市立図書館を管轄する名張市教育委員会の、それも管理職と呼ばれる薹の立った手合いであろう。
 よし。それなら教育委員会のトップである教育長と話をつけてやろう。

 私は図書館長を通じて教育長に面談を要請しました。みたいなことは「乱歩文献打明け話」の第四回「ああ人生の大師匠」にも記してありますので、興味がおありの方はお読みください。一部を引用しておきます。

翌年、つまり去年の一月のことである。どうしても問い質したいことが出てきたので、私は図書館長に、X氏にお会いしたいのだが、と申し出た。
 「どういうご用件ですか」
 「一発かましたりますねん」
 とはいわなかったが、私はこれこれこういうことを確認したいのであると館長に伝えた。やがて、館長を通じてX氏の返事がもたらされた。市議会を控えて忙しいから時間が取れない、とのことである。ぼけが、と私は思った。ごく短時間で済む用事ではないか。

 結局はお目にかかる機会を頂戴できぬまま、この教育長は退職しておしまいになられました。
 はいきょうはここまでここまで。


●10月14日(日)
 1996年の話のつづきです。
 明けて1997年、私はたいそう驚きました。1月のある朝、日刊各紙地方版に「乱歩記念館」という見出しがいっせいに躍っていたからです。中日新聞の1月11日付伊賀版の見出しはこんな感じでした。

乱歩記念館建設へ
今年から取り組み
生誕地・名張市長が表明

 記事の一部を引用します。

 名張市のT市長は十日の記者会見で、同市出身の推理作家江戸川乱歩の功績をたたえる「乱歩記念館」(仮称)建設に向けた取り組みを、本年から始めることを明らかにした。
 昨年三月に知事承認を得た伊賀地方拠点都市地域基本計画にも「乱歩記念館」計画は盛り込まれているが、市が計画の取り組みに言及したのは初めて。
 T市長は「今後、具体的なコンセプトや年次計画作成などを検討していく。日本推理作家協会や記念館建設に関心のある諸団体と連携をとって進めていきたい」と説明した。

 寝耳に水の話でした。
 以下、罵倒モード全開で突っ走りたいところではありますが、あいにく二日酔いで気力が萎えております。へろへろです。死にかけてます。日を改めることにいたします。


●10月13日(土)
 1996年春の話のつづきです。
 私には、乱歩記念館の建設構想が生き残っているだろうとは思えませんでした。生き残っているとしてもせいぜいが、できたらいいな、みたいな感じの、いわゆる絵に描いた餅のたぐいでしかなく、棚からぼた餅みたいな感じでしか実現し得ない構想であろうと思われました。名張市が構想を本気で考えているのなら、乱歩の遺族に対するアプローチをはじめとしてさまざまな動きがあってしかるべきなのですが、そんな気配は微塵もありませんでした。
 要するに名張市は乱歩の名を自己宣伝に利用したいだけであり、しかしお役所の人間にはものごとを深く考える能力も習性もありませんから、記念館だの文学賞だのといった月並みきわまりない思いつきをうわごとのように口にすることしかできぬのであろう、と私は踏んでいました。
 これは名張市だけに限った話ではないのですが、とくにバブル経済が華やかだったころ、全国の自治体は「情報発信」という名の自己宣伝にやたら血道をあげておりました。地元ゆかりの文学者にちなんだ「情報発信」というと、まさしく記念館と文学賞が東西の横綱、大鵬と柏戸のようなものでした。
 三重県内でいいますと、乱歩や三島に縁のある鳥羽市はマリン文学賞なるものを制定し、全国から小説を募りました。今年5月に刊行された岩田準子さんの『二青年図 乱歩と岩田準一』も、もとになった作品はこの文学賞に入賞したものです。しかしマリン文学賞が鳥羽の「情報発信」にどの程度寄与したかというと、おおきに首をかしげざるを得ません。毎年実施されていたこの文学賞、規模を縮小して隔年募集となったのですが、いまも存続しているのかどうか。
 鈴鹿サーキットでおなじみの鈴鹿市からは、筆は一本、箸は二本、三時のおやつは文明堂、みたいな言葉で知られる斎藤緑雨が出ています。そこで鈴鹿市は斎藤緑雨賞を設けました。これは公募形式ではなく、種村季弘さんあたりに賞を贈ってなかなか異彩を放っていたのですが、あっという間に廃止されてしまいました。市長が替わったことが理由とも聞き及びます。
 郷土ゆかりの文学者にちなんで「情報発信」を行うのも、これで相当に難しいわけです。なにしろ大事な税金をつかって進めることですから、単なる思いつきに大枚をはたき、しかも無知な田舎者が広告代理店だの何だの訳のわからぬ業者に税金をしゃぶられる結果となっては眼もあてられません。
 ですから私は、名張市も名張に乱歩記念館を建てるなどという夢物語をいつまでもさえずっていないで、乱歩記念館より安あがりで意義のあることに着手するべきだろうと考え、市立図書館嘱託を拝命したのを機に、とりあえず江戸川乱歩リファレンスブックをつくろうと思いついた次第です。


●10月12日(金)
 1995年秋の話のつづきです。
 秋が過ぎて冬が来ても、私が名張市教育委員会の教育長に文書で提出した質問の回答は寄せられませんでした。お正月が来て春になりました。1996年3月の定例市議会で、名張市立図書館が『乱歩文献データブック』を刊行するための予算が承認されました。
 こうなると、監修をお願いした平井隆太郎先生と中島河太郎先生にお会いして、正式にご挨拶を申しあげなければなりません。そこで私は市立図書館長に、市長に会いたいのだが、と申し出ました。みたいなことは「乱歩文献打明け話」の第四回「ああ人生の大師匠」にも記してありますので、興味がおありの方はお読みください。一部を引用しておきます。

 これを受けて四月、私は乱歩令息、平井隆太郎先生にお会いするため上京することになった。書状のやりとりで『乱歩文献データブック』のご監修はお引き受けいただいていたのだが、一度お邪魔してご挨拶申しあげる必要があった。上京の前、私は図書館長に、市長にお会いしたいのだが、と申し出た。さきほども記したごとく、名張市が乱歩のことをどう考えているのか、それが知りたかったのである。『乱歩文献データブック』の刊行は、名張市が過去に手がけてきた乱歩関連事業や名張市の将来構想のなかに位置づけられた乱歩関連事業と無縁ではあり得ない。私は平井先生に、名張市は乱歩先生に関してこれだけのことを考えております、このたび図書館が刊行する本もその一環であります、というふうにご説明申しあげ、ご協力をお願いしたかったのである。それが筋というものであろう。やがて図書館長を通じて、市長ではなくX氏から返事があった。
 「おまえが市長に会うのは無理である。教育委員会のしかるべき地位にある私をさしおいて市長に会うことなど市役所のシステム上とうてい認められぬ。不可能である。会いたいというなら私が会ってやろう」

 「X氏」というのは、いうまでもなく教育長です。いったい何をゆうておるのかこの莫迦は、と私は思いました。私とてお役所のくそったれなシステムくらいはよく弁えている、だからまずおまえに文書で質問したのではないか、おまえに何を訊いても無駄だということがよくわかったから市長に会いたいと申しておるのだ、何の役にも立たぬ教育長風情が口を挟むな、邪魔をするな、ひっこんでろ、と思わぬでもなかったのですが、まあ致し方ありません。つねに責任回避を第一義として応答責任も果たそうとしない腰抜けに限って自分の立場や面子をやかましくいいたてるものだな、と閉口しながら教育長にお目にかかって腰が抜けるほど茫然としたゆくたては、やはり「ああ人生の大師匠」に記したとおりです。
 「ああ人生の大師匠」に記していないことを記しておきますと、名張市の乱歩記念館構想に関してお訊きしたところ、教育長はこのようにお答えでした。
 「市長としては、名張に乱歩記念館を建てて全国からたくさん人に来てもらいたいのとちがいますかな」
 私は、乱歩記念館は名張に建てるべきではない、どうしてもつくりたいのなら名張市がお金を出して東京につくればいいのだ、と申し述べました。名張市役所の教育長室で行われた、これはいうならば公式の会談でした。


●10月11日(木)
 罵倒モードに入るのはあしたのことにして、本日は連絡をひとつ。
 あと十日で名張人外境は開設二周年を迎える次第ですが、二周年を記念して復活させようかと考えていた掲示板のことは、まだ結論が出ておりません。乱歩に関してご教示をたまわり、ご質問を承るためにはやはり掲示板があったほうがいいだろうなとは思われるのですが、あればあったで何かと面倒だし、拙い芸に見苦しく走りたがる自分を抑えきれるかどうか、私は不安に思います。
 なんてこといいながら、これもやはり現実逃避のひとつなのでしょうが、あー忙しい忙しいとボヤキつつ嬉々として掲示板の試作版をつくってみました。一度ご覧ください。以前に開設していた掲示板には入りづらいとか敷居が高いとかいう定評がありましたので、試作版にはとっても可愛いバックグラウンド画像を使用して親しみやすさを演出してみました。お暇な方はぜひご投稿くださいな。

人外境だよりβ版


●10月10日(水)
 ですから私は1995年秋に名張市立図書館の嘱託を拝命したとき、とっくの昔に跡形もなく消えてしまったと思っていた、しかし初代図書館長が1994年夏に至ってなお実現の夢を語っていた乱歩記念館は(ちなみに私が嘱託になった当時の館長は二代目、現在は三代目です)、いったいどうなっているのであろうかと思ったわけです。
 しかも私には、名張市が乱歩のことをどう考えているのか、乱歩に関して何をしたいのかどこまでのことがしたいのか、それがまったくわかりませんでした。みたいなことは「乱歩文献打明け話」の第四回「ああ人生の大師匠」にも記してありますので、興味がおありの方はお読みください。一部を引用しておきます。

 さて、嘱託になった私は、名張市や名張市教育委員会が乱歩についてどう考えているのかを知りたいと思った。私は私なりに、名張市立図書館が乱歩に関して何をすればいいのか、そのプランはもっていた。しかし、それが名張市や名張市教育委員会の考えと整合性をもったものかどうかは判らない。早い話が、名張市は昭和四十年代のなかばに乱歩記念館の建設構想を打ち出しているのだが、その構想が生きているのか死んでしまったのか、生きているとすればどういう形で残っているのか、そしてその構想と図書館との関係はどうあるべきなのか、そのあたりを確認しておかなければ動きようがないのである。そこで私は、教育委員会のしかるべき地位にある方に文書で質問を提出した。図書館が乱歩に関して何をすればいいとお考えか、教育委員会としての見解なり方向づけを示してほしい、といった内容の文書である。

 「教育委員会のしかるべき地位にある方」というのは、いうまでもなく教育長です。名張市立図書館は名張市教育委員会の管轄下にあり、私は教育委員会から辞令をいただいている身ですから、私の直接のボスは図書館長、そのまたボスは教育長ということになります。
 で、名張市の乱歩記念館構想はほんとのところどうなってるの、みたいな質問をあれこれと書き連ね、私は図書館長を通じて教育長に提出したのですが、何の返答もいただけませんでした。
 さて、あしたあたりからそろそろ罵倒モードに入る予定です。名張市教育委員会関係各位は覚悟しておいてください。


●10月9日(火)
 連休明けの火曜となりました。
 火曜に席を譲らぬ月曜はない、なんてことをいってたのはチェーホフでしたか。
 平日に席を譲らぬ連休もまたありゃしません。
 予想されていたこととはいえ、連休が無慈悲に明けてしまいました。
 連休明け早朝の現実逃避としていささかを綴ります。
 1995年秋10月、名張市立図書館嘱託を拝命した私がふと思ったのは、名張市の乱歩記念館構想はどうなっているのだろうということでした。むろん昭和40年代なかばに跡形もなく消えてしまったはずなのですが、乱歩生誕百年に沸いていた1994年夏、8月6日、朝日新聞の三重県版に掲載されたひとつの記事が私の頭にひっかかっていました。
 その記事には、「映画や出版相次ぎブームに」「出生地・名張とのかかわり探る──」「江戸川乱歩生誕100年」といった見出しにまじって、「今も記念館構想」という見出しが躍っていました。
 この記事は朝日新聞名張通信部に在籍していた記者の手になるもので、私もちょこっと取材を受けましたので手許に切り抜きが残っているのですが、乱歩記念館のことがこんなふうに出てきます。

 市立図書館の一角に「江戸川乱歩コーナー」がある。乱歩が使っていた座卓やステッキ、帽子やオーバーコート、自筆原稿、色紙、手紙類、数多くの作品などが展示されている。開設されたのは八七年、同図書館が建設された時だった。前図書館長のTさんはコーナー設置に尽力した一人だ。
 「実は、その十数年前、本格的な乱歩記念館を作ろうという運動があった。が、資金面や資料収集の面で問題があり現在の形になった」。記念館建設の動きは乱歩没後の六九年、「江戸川乱歩記念館建設の会」が結成され、約二千万円を予定して展示館が計画された。
 背景には、生前の乱歩が、「死後、蔵書類は名張に寄付すると、当時の北田市長に話した」という経緯があった。「皆、その話を信じ込んでいた。が、ほかの人物にも同様の話をしていたことなどがあって、結局、寄付されることにはならず、計画も立ち消えになった」という。
 当時、市職員で会の事務局長を務めていたTさんは、結果的にこの構想を引き継ぐことになった。八〇年に館長となり、資料収集や遺品の展示などに奔走、「乱歩コーナー」設置にこぎつけた。Tさんは今でも「本格的な記念館建設の夢は捨てていません」という。

 はいここまでここまで。
 きのうにひきつづきひいひい泣きながらおいとまいたします。


●10月8日(月)
 おはようございます。あっというまに三連休も最終日です。連休明けには仕上がっていなければならないお仕事がまったくはかどっておりません。たっぷり時間はあったというのにどうしてぎりぎりの瀬戸際、正真正銘の崖っぷちに来るまでお仕事にとりかかれないのでしょうか末永さん。いや末永さんには何の関係もないのですが。ひいひい泣きながらおいとまいたします。


●10月7日(日)
 そうか。
 そういえばそうであった。
 私が名張市立図書館の嘱託になったのは1995年10月のことであった。
 もう丸六年もたつのか。
 と思わず感慨にふけってしまいました。
 私の場合、嘱託のお仕事は半年単位の契約制になっております。
 ですから今年の10月1日にも、私は名張市教育委員会からありがたい辞令を頂戴いたしました。
 辞令ってのはこんな感じです。

辞   令

中   相 作

乱歩資料担当嘱託員として平成14年3月31日まで任用する
月額 85,000円 を支給する
図書館勤務を命ずる

平成13年10月1日     
名張市教育委員会   

 けっ。
 えらっそーに。
 そんなことはどうでもよろしく、三連休の中日だといいますのに本日は、そしてたぶんあしたもあさっても、なんだかばたばたと忙しそうです。
 本日はここまでといたします。


●10月6日(土)
 ついきのうのことのようにも思える昭和60年代、あのバブル経済の時代には、名張もとってもバブリーでした。人口は順調に伸びました。都市基盤の整備も進みました。
 名張市立図書館が現在地に新築された昭和62年の12月には、丸之内という古い町にあった名張市役所が鴻之台という新しい造成地にとっとと移転し、立派な新庁舎がばーんと竣工しました。
 しかもこの年、名張市の人口は上野市を抜いて伊賀地域トップの座に躍り出ました。こんな座が嬉しいのかとお思いの方もおありでしょうが、なにしろ上野と名張は倶に天を戴かぬ仲。名張は江戸時代以来つねに上野の下位に甘んじること四百年、上野に対しては近世近代を通じてマグマのごときルサンチマンを蓄積しつづけていますから、人口が上野を上回ったというニュースを聞いて何がなし心躍るものを感じた市民もあっただろうと思われます。
 そんなことはどうだっていいのですが、六万を超え七万を超えみたいな感じで人口が増えてくると、名張市だって地方都市としてそれなりの見場を希求しだします。いわゆる文化的グレードなんてものを求め始めるわけです。眼をつけられた素材のひとつが乱歩でした。郷土生まれの乱歩をおおいに顕彰しよう、といえば聞こえがいいのですが、実際には乱歩を利用して名張市をおおいに自己宣伝しよう、おおいに箔をつけようという寸法です。
 そこで江戸川乱歩関連事業などというものが市の予算に計上され、天下の日本推理作家協会の協賛を得たイベントがスタートしました。平成3年、西暦でいえば1991年のことです。要するに同協会所属作家による講演会が恒例となったわけです。お招きした作家は下記のみなさん(敬称略。今年度の馳星周さんの講演会は10月13日に催されます。詳細は番犬情報でご覧ください)。

1991年度  生島治郎
1992年度  北方謙三
1993年度  井沢元彦 阿刀田高
1994年度  山村正夫
1995年度  栗本薫
1996年度  戸川昌子
1997年度  高橋克彦
1998年度  大沢在昌
1999年度  豊田有恒
2000年度  北村薫 宮部みゆき
2001年度  馳星周

 ほかにも細かいことはいろいろありましたが、名張市における乱歩関連事業の根幹はこういった感じです。
 そして1995年10月、名張市が手がけてきた乱歩顕彰の歴史に、いや名張市そのものの歴史に特筆大書されるべき、本邦プロ野球史でいえば長嶋茂雄の巨人軍入団にも比すべき重要な一事項が加えられました。私が市立図書館の嘱託になったんです。はい。


●10月5日(金)
 ここで名張市立図書館のことを記しておきます。
 4月に講談社版江戸川乱歩全集の刊行が開始され、川崎秀二がその月報に寄せた文章がきっかけとなって名張市に乱歩記念館建設の会が結成されたのと同じ年、すなわち昭和44年の文月7月、わが名張市立図書館はオープンしました。三年前に始まった図書館建設を求める住民運動が実を結んだ結果でした。
 昭和41年秋、のちに乱歩記念館建設の会の代表を務めることになる富永貞一を中心として名張市立図書館建設促進の会が発足し、市内の関係団体と協力して運動を展開、行政当局や市議会を動かして図書館開設を実現したのですが、そのときには施設を新設するだけの財政的余裕がなく、たまたま新築移転した名張電報電話局(いまでいえば NTT 名張営業所)の旧施設が空いておりましたので、それを図書館に転用してオープンにこぎつけた次第です。名張市立図書館は開館当初からオンボロ施設だったわけです。
 余談ながら先日、乱歩がらみで吉屋行夫さんの『澪標の旅人 馬場孤蝶の記録』(本の泉社)を読んでおりましたら、こんな一節が眼にとまりました。

「名張毒ブドウ酒事件」の現地調査に参加したとき、たまたま名張市立図書館に立ち寄ったのだが、館内に「江戸川乱歩記念室」があり、名張が乱歩の生地であることを知るきっかけとなった。

 ここに出てくる名張市立図書館は、開館以来のオンボロ施設のほうです。あまりよく憶えてはいないのですが、そういえば「江戸川乱歩記念室」なんてのが細々と存在していたような記憶もあります。名張市立図書館が現在地に新築移転したのは昭和62年7月のことで、おなじみ乱歩コーナーはそのときようやく開設されました。
 したがって、もしも昭和40年代なかばに乱歩記念館建設の会の構想が実現していたとしても、予算的に考えて結構貧乏ったらしい乱歩記念館しかできなかったのではないかと想像されます。きのうご紹介した新聞記事にも記念館は図書館の構内に建設するなんてことが書かれていましたから、名張という田舎町の身の丈にいかにもふさわしい記念館になっていたことでしょう。できなくてよかったと思います。
 さてここで、昭和40年代の名張市について補足的説明が必要かと愚考されます。面倒ですから昔書いた原稿から引用して間に合わせます。

 昭和三〇年代に入って、大都市のドーナツ化が目立ち始めた。地価高騰や居住環境の悪化を理由に、都市の居住人口が郊外に移動する傾向が強まったのである。経済の高度成長にともなう宅地造成ブームが、これに拍車をかけた。都市周辺の宅地化が進み、通勤圏は鉄道を軸に拡大の一途をたどり始める。
 近鉄大阪線で大阪と直結され、緑と清流に恵まれた名張市にも、宅地化の波は急速に押し寄せた。名張は、関西圏の都市生活者がマイホームの夢を実現できる東限の地になったといえるだろう。江戸時代からつづく市街地を囲むように、丘陵や耕地があいついで住宅地に姿を変えた。
 名張市の宅地開発のさきがけとなったのは、近畿日本鉄道が手がけた桔梗が丘団地である。市域中央のやや北、近鉄線の東にひろがる丘陵に、大規模な造成が進められた。着工は昭和三八年(一九六三)。三九年には桔梗が丘駅が開設され、四〇年に入居が始まった。団地の名は、江戸時代に名張を治めた藤堂家が桔梗の花を家紋としたことにちなんでいる。
 桔梗が丘の造成区域は徐々にひろがった。学校をはじめとした公共施設が整備され、平成二年(一九九〇)には近鉄線西側にも宅地が完成した。計画中のものも含めれば、総区画数は約六、五〇〇。人口は同四年八月現在で一万三、〇〇〇人あまり。その大半が、大阪を中心とした関西圏から転入した新しい市民である。

 つまり昭和40年代以降、名張市は大阪のベッドタウンと化してしまったわけです。現在の名張市の人口は約八万五千人ですが、乱歩の生誕地碑が建設された昭和30年当時は三万人ほどでしたから、人口規模は四十数年で三倍近くに膨れあがった計算になります。
 昭和40年代から昭和という時代が終わるあたりまで、名張市はとにかく関西圏からの転入人口を受け容れるのに大わらわで、乱歩のことを考えている余裕なんてとてもなかったというのが実情でした。


●10月4日(木)
 「江戸川乱歩全集月報1」(昭和44年4月、講談社)掲載の川崎秀二「茶目っ気もあった乱歩氏」から、ひきつづき引用します。

 氏の還暦祝賀会はその頃としては最大の規模で、東京会館の二階の宴会場に一杯の人出であった。赤いチャンチャンコを贈られて御機嫌であった氏のことを昨日の様に思い出す。

 このあと乱歩にバーやゲイバーに連れていってもらった思い出が挿入され、結びはこうなります。

 それから数回お目にかかったが、三十六、七年頃からメッキリ弱られた。機会があれば郷里の名張市に江戸川乱歩文庫でもつくり、この偉大な先人を顕彰したいと思う。

 この「郷里の名張市に江戸川乱歩文庫でも」という一節が、名張市の乱歩記念館構想をにわかに活気づけました。地方紙「新名張」の昭和44年7月11日号にはこんな記事が掲載されています。

   舞台を東京にうつし
   乱歩記念館推進
   46年度竣工をメドに計画

 わが国本格探偵小説の確立者であり育成者である故江戸川乱歩氏の記念館を生誕地の名張市に建設することにつき、地元に結成された乱歩記念館建設の会(富永貞一会長)と東京の関係者(乱歩氏遺族、推理作家協会、在京名張人会等)との第一回懇談会は前号所報のように川崎秀二代議士の斡旋により三日午前十時半から国立国会図書館特別研究室で開かれた。この懇談会で原則的に次のことが申合わされた。
 ・建設費は最低千五百万円を目標とする。地元と東京で半額ずつ調達する。
 ・この記念館は市立図書館の付属施設なので、場所は原則として図書館の構内とする。
 ・近く開館する市立図書館は二年間の暫定的のものなので、この暫定期間がすぎ、図書館の位置が恒久的にきまった時点において着工する。メドとしては四十六年七月着工、同年末竣工とする。
 ・規模、内容については地元において成案を作成するが、あくまでも乱歩記念館であることを主体とする。
 ・九月中旬、本年度乱歩賞の授賞式が行なわれる。このとき地元・東京側で範囲を拡大した懇談会を開き全国一本の発起人会を結成し、地元作成の計画案を検討し、具体的な実施案を立てる。

   市長も同調
   建設の会と会談

 乱歩記念館建設の会では七日午後一時から市役所会議室で会議を開き、東京懇談会の出席者から報告を聞いたあと、この問題につき北田市長と初めての正式会談を行い、趣旨や経過の報告とともに市としての協力を要請した。これに対し同市長は、
 「川崎先生も骨をおってくれていることであり、本市にかような全国的な文化施設の出来ることはまことに結構である。個人として賛成であるばかりでなく、市議会とも相談して市としての協力態勢をかためたいと思う」
と語り、建設の会の今後の活躍を激励した。

 結論からいえば、この乱歩記念館建設の会の活動は実を結びませんでした。その経緯もつまびらかではありません。いつのまにか頓挫してしまった、ということのようです。
 ちなみに私はといいますと、昭和44年当時にはむろん名張市に住んでおりましたが、なにしろ思春期でしたから朝から晩まで裸のお姉さんのことばかり考えていて(いまもだいたいそうですが。いや面目ない)、乱歩記念館なんてものにはとんと興味がありませんでした。いや面目ない。


●10月3日(水)
 いささか長くなりますが、興味深い記述がいろいろ散見されますので、乱歩記念館に関わりのない箇所も含めて、「江戸川乱歩全集月報1」(昭和44年4月、講談社)に川崎秀二が寄せた「茶目っ気もあった乱歩氏」から引用いたします。

 終戦後第一回の総選挙に私が立候補して当選して以来、四、五回の当選歴を重ねる間、乱歩氏は選挙の度に応援に来てくれた。一昔前の作家達は概ね物ぐさで名人気質であるが、乱歩氏は特に然うであった。郷里が名張市の関係もあって特に伊賀地方を廻ってくれたが、他の応援弁士とよく肌を合わせたものと感心した。
 名張の神社わきで行った個人演説では数百人の聴衆が集り、市の生んだ偉人としての人気が盛んであった。

 この神社は宇流冨志禰神社といいます。社名は「うるふしね」とお読みください。金達寿さんが『日本の中の朝鮮文化』で、この神社名の語源は朝鮮語なのではないかとお書きになっていたような記憶があるのですが、肝腎の本が手許にないので確認できません。確認して「隠文学誌」に掲載せなあかんなと思いつつ今日に至りました。この宇流冨志禰神社は名張の町のいわゆる氏神で、秋の大祭は名張最大の秋祭りとしてにぎわいます。といったって、私が子供だった当時に較べると最近の秋祭りはひどく閑散としておりますが。
 中略のうえ、さらに引用をつづけます。

 私が改進党の国会対策委員長をしていた頃、参議院の全国候補に異色の候補として乱歩氏はどうかと党の首脳部から持ち出され、話をして見ると、乱歩氏は「私は第一に物心さむし、また健康も充分でないからお断りする」という挨拶であった。しかし三顧の礼ということもあるので、何回となく推している中に「若し、探偵小説の仲間や作家連中が推してくれれば」という条件付きの話も出て、当方は大いに意気込み、先ず探偵小説の仲間というので、二、三の友人の方を訪ねたが、これはまた全く無縁の様な話で、「江戸川君は立派だが、ホントにやりますかなあ──」と相手にしてくれず、その後もサッパリであった。
 その後還暦祝いのときに、私に、「君は参議院選を奨めてくれたが、この集った顔ぶれを見て、どうだね。故菊池寛氏でも落選したのだからねえ」といわれた。

 しかし一説によると、川崎秀二の三顧の礼が功を奏して、乱歩は参院選出馬に意欲を見せていたとも伝えられるのですが、これはまあ余談です。


●10月2日(火)
 それが昭和44年、講談社版江戸川乱歩全集の刊行がスタートするや、名張市の乱歩記念館構想はにわかに熱を帯び始めました。きっかけは、第一巻『屋根裏の散歩者』の月報に川崎秀二が寄稿した「茶目っ気もあった乱歩氏」という文章でした。
 川崎秀二は、乱歩にとって学生時代からの恩人だった三重県上野市出身の政治家、川崎克の次男。克は昭和21年4月、戦後初の総選挙に出馬することを予定していましたが、告示直前に公職追放となったため、神奈川県から立候補することになっていた秀二が急遽帰郷して出馬し、三重県全県一区定員九人中五位で当選、初陣を飾りました。いわゆる二世代議士の誕生です。
 父親の克は昭和24年2月、公職追放を解除されぬまま死去し、乱歩はのちにその死を悼んだ「追放解除と川崎克先生」(昭和25年10月)という文章を発表しています。一部を引用しておきます。

 川崎先生が戦前、大臣級政治家の一人であったことは、いまさら私などがいうまでもないが〔、〕若いころの前歴に陸軍参与官の一項があったために、パージにかかり、失意の内に病逝された〔。〕先生が尾崎行雄翁直系の自由主義者であったことは、私もよく知っている。戦時、真向から翼賛会に反対の立場を採られた一事でもそれは明かである。今生きて居られたならば追放解除者中の重鎮として、大きな仕事をされたであろうのに、先生の後輩の人々が花やかにカムバックしようとしているのを見るにつけても、残念に堪えないのである。

 この文章はある新聞に発表されたものですが、段落中の行頭に来た句読点はとっぱらってしまうという組版ルールに準じていたようです。それらしい箇所は〔 〕で句読点を補いました。
 秀二はその後二回の衆議院議員選挙でいずれもトップ当選を果たし、つづく昭和27年10月1日の総選挙では乱歩に応援を依頼しました。快諾した乱歩が故郷名張を訪れて、ここに初めて「ふるさと発見」が果たされることになります。


●10月1日(月)
 その
昭和30年11月3日夜、名張市鍛冶町の清風亭で開かれた江戸川乱歩生誕地碑除幕記念大宴会の席上、乱歩と北田藤太郎名張市長のあいだである会話が交わされたといいます。
 ちなみに北田市長は、乱歩の随筆「ふるさとへの年賀状」(昭和35年1月)に、

 伊勢湾台風の被害は大変なもので、お気の毒に思います。名張の町が、あの静かで、きれいだった名張川の泥で、非常な被害をうけたことを、北田名張市長さんから写真で説明してもらいました。

 として名前の出てくる名張市の初代市長です。伊勢湾台風の来襲は昭和34年9月のことで、北田市長は復興策の陳情のため中央省庁にも足を運んでいましたから、上の文面から判断するに、上京したついでに惨状を記録した写真を携えて乱歩邸にも挨拶に訪れたのだと思われます。
 大宴会での会話というのは、乱歩がこの北田藤太郎に、自分が死んだら自分のもっている探偵小説の蔵書をすべて寄贈するから、名張に乱歩記念館を建ててくれないか、ともちかけたというものです。
 むろん私は、ただの伝聞にすぎないエピソードを根拠として、名張市に乱歩記念館が建設されることの正当性を主張しようとしているわけではありません。名張市の乱歩関連事業を概観するにあたって必要であると判断されるため、ここに記しておく次第です。
 北田藤太郎はすでに故人となっていますが、このエピソードは彼がおりにふれて周囲に洩らしていたといわれます。彼が嘘をつかねばならぬ理由は見当たりませんから、乱歩からこうした申し出があったのは事実であろうと考えられます。むろん事実であったとしても、乱歩のリップサービスであった可能性も否定できませんし、かりに乱歩が本気であったとしても、前年に発足したばかりで町村合併に伴う赤字を抱え込んでいた名張市に、乱歩記念館の建設を構想する余裕はとてもありませんでした。
 そして十年後の昭和40年7月28日、乱歩は世を去りました。8月1日、東京の青山斎場で営まれた告別式には、名張市から生誕地記念碑建設有志会の代表だった岡村繁次郎が参列し、たまたま上京中だった北田藤太郎も駈けつけました。とはいえ、乱歩が死去したからといって、名張市の乱歩記念館構想には何の動きも見られませんでした。