2001年11

●11月30日(金)
 一昨日、昨日、そしてけさと、三日つづけてコンピュータウイルスに感染したメールが届きました。添付ファイルがついていて、これを開くとウイルスに感染してしまう模様。いずれも発信者は知人名義なのですが、私はきわめて疑り深い性格で、ちょっとでも怪しげなところのあるメールはすべて削除しておりますから、いまのところ被害には遭っておりません。
 被害に遭った知人からの連絡によれば、「BADTRANS.B」とかいう新型ウイルスが猛威をふるっているとのことです。詳細は下記のページでご覧ください。

シマンテック

トレンドマイクロ

 上記シマンテックによれば、「W32.Badtrans.B@mm は、自分自身を数種類のファイル名のうちいずれかのファイル名をつけた添付ファイルとして電子メールで勝手に送りつけるMAPIワームです。このワームはまた、キー操作のログを生成するバックドアトロイの木馬プログラムを投下します」とのことですが、見事なまでに意味がわかりません。
 バックドアトロイの木馬プログラム。
 バックドロップ木馬責めプログラム。
 何なんでしょうねいったい。
 ともあれ、どちらさまもくれぐれもご注意ください。


●11月29日(木)
 さて、乱歩が岩田準一にあてた書簡八十七通の話題ですが、毎日新聞のホームページにある「江戸川乱歩:友人の民俗学者と男色研究 書簡初公開」(林幹洋記者)にはこんなことが記されています。

 書簡は「保存用」と書かれ、準一が資料として大事に保管していた。準一から乱歩にあてた書簡は乱歩の遺族宅に残っており、貞雄さんは「往復書簡としてまとめたい。遺族の了解が得られれば一般公開も考えたい」と話している。

 乱歩の書簡は岩田家に、準一の書簡は平井家に保管されているわけですから、両者を編めば『江戸川乱歩岩田準一往復書簡集』一巻ができあがります。
 ただし気になるのは、平井家にほんとに準一の書簡が残っているのかということです。今年9月、横溝正史らに宛てた乱歩の書簡の写しが見つかったというニュースが大々的に報道されましたが、そのひとつ、朝日の「乱歩が探偵小説論 横溝正史らに」には、

 乱歩は、自分が出した手紙をカーボン紙で複写して手元に残す習慣があったが、亡くなる前にすべて焼いたとされ、長男で立教大名誉教授の平井隆太郎さん(80)も「そう聞いていた」。しかし一部が蔵の書棚に残っていた。

 とあります。
 乱歩が晩年に焼却処分した手紙には他人からの来信も含まれていたのかどうか、そのへんがよくわからず、したがって毎日の記事にある「準一から乱歩にあてた書簡は乱歩の遺族宅に残っており」というのが確実な情報かどうかいささか疑わしい気もするのですが、もしも平井家に保管されているのであれば『江戸川乱歩岩田準一往復書簡集』の公刊が切に望まれる次第です。
 やはり岩田貞雄さんが発刊を企図していらっしゃるという準一の日記も含め、誰かあるいはどこかが手を差し伸べぬものかと歯痒い思いをいたしますが、名張市は例によって何の役にも立ちませんからあてにしてはくださいますな。


●11月28日(水)
 「大発見やーッ」
 と叫ぶとなんだか三十年前の仁鶴師匠みたいですが(懲りもせず世代地域限定ネタに淫しております)、またしても乱歩に関する新発見がありました。
 本日付「中日新聞」によると、乱歩が岩田準一にあてた戦前の書簡八十七通が発見されたそうです。発見されたそうです、というよりは、書簡の存在が公表されたそうです、というべきか。
 見出しとリードを引用します。

文学者・乱歩を語る87通
岩田貞雄神宮徴古館元館長 戦前、戦中 父との往復書簡を保管

 日本の探偵小説の基礎を築いた作家江戸川乱歩(一八九四−一九六五年)と交友があった三重県鳥羽市の民俗研究家、故岩田準一さん(一九〇〇−一九四五年)の二男で、神宮徴古館元館長の岩田貞雄さん(六七)=同市大明西町=が二十七日、乱歩が準一さんにあてた八十七通の未発表の書簡を保管していることを明らかにした。

 岩田準一のことは、いまさらご紹介する必要もないでしょう。令息の岩田貞雄さんに関しては、「東京本郷『伊勢栄旅館』の夜 乱歩と岩田準一の同性愛文献の研究」という随筆のことを、ひと月ほど前になりますか、正確にいえば10月23日ですが、この伝言板でお知らせしたところです。貞雄さんの令嬢にあたる岩田準子さんは、『二青年図 乱歩と岩田準一』の作者でいらっしゃいます。
 その鳥羽の岩田ファミリーに、乱歩の書簡が保管されていたというわけです。書簡は昭和7年から19年にかけて、平井太郎名義で送られた八十七通。四百字詰め原稿用紙に換算すると三百枚もの分量があるそうで、「内容は乱歩と準一さんが取り組んだ同性愛研究での新しい文献の発見や見解などの記述が大半」といい、「貞雄さんは乱歩の遺族の了解を得た上で研究者に一般公開し、鳥羽市で建設構想がある文学館でも展示したいという」と記事は結ばれています。
 記事には駿河台大学の(あるいは『新青年』研究会の)浜田雄介さんがコメントを寄せていらっしゃいますので、ついでですからご紹介しておきますと、「ミステリー作家としての乱歩でなく、文学者としての全体像を知る上で貴重な資料とみられる」とのことです。
 早いのが取り柄の「フレッシュアイ」で検索したところ、毎日新聞のホームページに同じニュースが見つかりました。お読みください。

毎日インタラクティブ


●11月27日(火)
 これはいったいどんな作品か、などと思わせぶりなことを記してしまいましたが、それはたぶん「石塊の秘密」であったと、乱歩は『探偵小説四十年』に述懐しています。「処女作発表まで」から引きますと、

 さて、智的小説の会はオジャンになったが、その後、やはり団子坂にいる間に、私は四五十枚の探偵小説を一つだけ書き上げた記憶がある。それは当時人手に渡ってしまったので、内容も題名もまるで忘れているが、多分前記の「石塊の秘密」ではなかったかと思う。東京パックの編集をやった関係で、やはり本郷に住んでいた吉岡鳥平という漫画家と心安くなり、絶えず往き来していたが、その吉岡君が講談社の雑誌にも漫画を描いていたので、たしか講談倶楽部だったと思うが、その雑誌に私の原稿を売ってくれないかと頼み、吉岡君も承知して、原稿を手渡したことを覚えている。しかし、そのままで返事がなく、私の方でも身辺に色々な変動があって、間もなく古本屋の店を売って大阪に移転したので、吉岡君とも音信がとだえ、ついそれきりになってしまった。吉岡君があれを講談倶楽部に見せてくれたかどうかわからないが、若し見せてくれたとしても、問題にされなかったのだろうと想像する。智的小説刊行会の趣意書から類推しても、そのころは文章も下手だったし、あれが講談倶楽部に出なかったことは、色々な意味で、私にとって幸いであったと思っている。

 となります。
 つまり乱歩は団子坂時代、「二銭銅貨」と「一枚の切符」の梗概をまとめたあと、後者を「石塊の秘密」として完成させていたわけです。智的小説刊行会による「グロテスク」発行計画が頓挫し、それならばと雑誌の編集部に原稿を持ち込むことを目論んで、手持ちのネタのなかからまず「石塊の秘密」を作品化した、といったような話の流れになるでしょうか。
 今回発見された「二銭銅貨」の草稿について、平井隆太郎先生は「文字も丁寧なので、活字化を意識して書いた」原稿なのではないかと推測していらっしゃいますが(読売新聞)、だとすれば持ち込み用の原稿として「石塊の秘密」につづいて書き始められながら、身辺の「色々な変動」のせいで完結に至らなかった一篇であったのかもしれません。
 それにしても、「電報申し込み用紙の裏に印刷された200字詰め原稿用紙で計14枚」(読売新聞)というこの「二銭銅貨」草稿、とにかく一度見てみたいものです。


●11月26日(月)
 「二銭銅貨」草稿を執筆した大正9年という年に、乱歩はいったい何をしていたのか。ざっと書き出してみましょう。

2月
就職が決まったので、隆子を迎えに鳥羽に赴き、同道して帰る。
 ・
加藤洋行の失策以来行きにくくなっていた川崎克を訪ね、就職の世話を依頼した。
19日 東京市社会局吏員となる。その直後、隆子の母が上京したため、団子坂下の家の二階を借り、夫婦だけで一か月ほど住む。三人書房には母と三人の弟妹がいた。
 ・
社会局の勤めは楽だったが、下級役人気質は耐えがたいものだった。
23日 東京から寄稿した随筆「恋病」がこの日から六回にわたって「伊勢新聞」文芸欄に掲載される。末尾には「九、一、十二」と記載。

5月
「二銭銅貨」と「一枚の切符」の筋を考え、梗概を巻紙に記す。
井上勝喜と二人で智的小説刊行会の結成を計画し、雑誌投稿者などに会員募集の手紙を送るが、会員が集まらず、計画は中絶。
 ・
手紙には雑誌「グロテスク」の見本誌(12ページ)を添えた。「初号内容」に「会員創作探偵小説第一回発表」として「石塊の秘密」を予告する。のちの「一枚の切符」と同じ筋の作品で、ペンネームは「江戸川藍峯」とする。
5月ごろ 病気になり、半分は病気、半分は役人気質への嫌悪から、欠勤をつづける。

6月
弟・敏男(三男)が母の実家・本堂家を継ぎ、本堂姓となる。

7月
27日 東京市社会局吏員を馘になる。
映画論「トリック映画の研究」「映画劇の優越性について(附、顔面芸術としての写真劇)」を執筆。複写を取ってめぼしい映画会社二、三社に郵送、監督見習いへの採用を依頼するが、何の回答もなかった。

8・9月
生活費に困ったため、レコード音楽会を三度にわたって開く。
 ・
井上勝喜と二人で庄司雅行に相談し、井上の蓄音機と洋楽のレコードを借りて開催。おそらく東京で最初のレコード音楽会で、これ以降、同種の音楽会が大流行した。『貼雑年譜』には9月11日、池袋大与クラブで開いた音楽会のプログラムが残る。

10月
大阪府北河内郡守口町八〇一の父の家に住む。家族は、父母と妹・玉子、乱歩夫妻。父は竹村商店の監督および教師をしていた。
父の世話で大阪時事新報の編集記者となる。これを機に不振の三人書房を新聞広告で譲渡。
 ・
三人書房は六百円で売れ、パン屋が開業される。
 ・
大阪時事新報では地方版の編集を担当。集まってくる記事の軽重を考え、見出しをつけて一ページ分の大組みをすればよかった。午前十時ごろ出勤し、午後四時には帰宅できた。月給六十円。

 と、これは本サイト「江戸川乱歩年譜集成」から引いたのですが、まあこういったところです。
 こうして見ると「二銭銅貨」の草稿は、梗概をまとめたという5月か明くる6月かに書かれたのではないかと思われます。7月になると乱歩は、就職活動の一環という意味もあったのか映画論を執筆していますし、果たして仕事を馘になったこともあって、
悠長に草稿を書いている余裕など失ってしまったように見受けられます。
 そして10月には懐かしい団子坂を離れ、思い出の三人書房も人手に渡ってしまうのですが、

智的小説の会はオジャンになったが、その後、やはり団子坂にいる間に、私は四五十枚の探偵小説を一つだけ書き上げた記憶がある。

 と乱歩は記しています。これはいったいどんな作品か。


●11月25日(日)
 いささか間が抜けましたが、乱歩関連のニュースが読売新聞のホームページにも掲載されていましたので、お知らせしておきます。

乱歩の名作「二銭銅貨」、最初期の草稿見つかる
(11月21日16:04)

 という記事です。一部を引用しておきます。

 草稿は、乱歩邸の土蔵書庫内を調査していた浜田雄介・駿河台大教授(日本近代文学)が衣装箱の中から見つけた。「江戸川藍峯(らんぽう)」の署名があり、電報申し込み用紙の裏に印刷された200字詰め原稿用紙で計14枚。1枚目の欄外に、後の自筆と見られる「大正9年頃」のメモがあった。「藍峯」は乱歩が大正12年(1923)、雑誌「新青年」に「二銭銅貨」を発表してデビューする前の筆名。

 長男の平井隆太郎・立教大名誉教授(80)は「文字も丁寧なので、活字化を意識して書いた初めての原稿ではないか」と推理。また、乱歩に詳しい推理小説研究家の山前譲さんは、「大正9年の時点で原稿用紙に書いた草稿は珍しい。この時に『二銭銅貨』の構想がすでにあったことも新発見」と評価している。

 『貼雑年譜』によれば、乱歩が巻紙に「二銭銅貨」の梗概を書いたのは大正9年5月。乱歩はこの年2月19日から7月27日まで東京市社会局に勤務していましたが、お役所の雰囲気や役人気質に馴染むことができず、

五月頃ニ一寸病気ヲシテ以来、半分ハ病気、半分ハ役所形気ノ嫌悪カラ、私ハ欠勤ヲツゞケルヤウニナツタ

 といいます。「二銭銅貨」の梗概は欠勤中のつれづれに書かれ、それにつづいて草稿が執筆されたと見るのが自然でしょう。
 同時期、乱歩は井上勝喜と二人で「智的小説刊行会」の設立を企画し、雑誌「グロテスク」の発行を計画しています。『貼雑年譜』にスクラップされた「グロテスク」の内容見本には江戸川藍峯名義の小説「石塊の秘密」が予告されており、『探偵小説四十年』には、

 この「石塊の秘密」というのは、後に新青年に発表した「一枚の切符」と同じ筋で、これと「二銭銅貨」の筋だけは、そのころ古本屋の二階で考えたものである。しかし、右の予告は単なる予告で、小説が書けていたわけではない。

 との説明が見られるものの、「二銭銅貨」草稿のことはどこにも記されていません。
 当時のことをもう少しくわしく見てみたいと思う次第ですが、それはまたあす以降に。

読売オンライン


●11月24日(土)
 立教大学の話題はひとまず措くとして、川喜田三郎の「手」についてもう少しつづけますと、これが「名探偵家登場の探偵小説分野を開拓した」作品であるなんてことはまったくありませんです。
 ただし、それでもなお、しつこいようですが、ようですがというよりは明白にしつこいわけですが、こうした作品が大正12年の時点で児童雑誌に掲載されていたという事実は、やはり記憶されてしかるべきものだと思われます。以前に記しましたところを引きますと、

それでも「手」が本邦探偵小説史に書き加えられるべき作品であることには変わりがないでしょう。作中のパーティが「面白い探偵談や、犯罪学の話」で賑わっていたという描写自体、探偵小説に対する作者の、ということはおそらく読者の嗜好を物語っています。
 つまり「名探偵家登場の探偵小説分野を開拓した」のが誰かなんて話は、乱歩より早く探偵小説を書いていた日本人なんて少なからずいたわけですから、この際たいした問題ではありません。問題は、乱歩のデビューと時を同じくして児童向け雑誌に探偵小説らしきものが発表されていたという事実です。
 これはあるいは、乱歩をして「盛んだなあ、盛んだなあ」と驚喜せしめた「新青年」あたりの探偵小説フィーバー(古いッ)が、同時代の児童向け雑誌にまで波及していたということなのでしょうか。ようわかりません。児童向け雑誌における探偵小説の歴史、みたいなことをどなたかご研究いただければ幸甚です。と相変わらず人任せ人恃み。

 といった按配。
 たまたま昨日、光文社文庫の「幻の探偵雑誌」シリーズ7『「新趣味」傑作選』を購入したのですが、この「新趣味」も乱歩登場前夜の探偵小説フィーバー(古いというのに)を直截に反映した雑誌であったようです。山前譲さんによる巻頭解説「初めて探偵小説専門誌を意図した『新趣味』」の一部を引用しておきます。

 一九二〇(大正九)年一月に創刊された博文館の「新青年」は、年二回の増刊を中心に、探偵小説の読者が注目する雑誌となっていったが、探偵小説専門の雑誌だったわけではない。毎号、探偵小説ばかりで誌面を構成するという意味で、専門誌らしい内容を初めて備えたのは、同じ博文館から二二年一月に創刊された「新趣味」である。
 巻号数は前身雑誌のものを引き継いだものの、内容はまったく新雑誌だった。「新青年」が最初は青年向きの雑誌を意図したのと同様に、「新趣味」は広く趣味を取り上げる雑誌として出発している。創刊号にはさまざまなジャンルの記事が並んだが、「奇想小説集」と銘打って、ジャック・ロンドンほかの短編やル・キューの長編連載もあった。次号の「怪奇小説集」につづいて、第三号では「外国探偵小説集」を組み、コナン・ドイルほかの短編を紹介している。
 これが評判よかったのかどうか、四月から編集方針を大幅に変えてしまう。「全誌面を徹頭徹尾、外国の探偵小説を主とし、奇想、怪奇、滑稽、人情、科学、通俗、映画小説等を以て、独占せしむることに致しました」(編輯後記)として、翻訳探偵小説専門誌に変身したのだ。七月からは表紙に「探偵小説」と謳い、雑誌の性格を明確にしている。

 「新趣味」が翻訳探偵小説専門誌に変身したのは大正11年4月、乱歩の「新青年」デビューが翌12年4月のことですから、乱歩登場前夜の探偵小説フィーバー(だから間違いなく古いのですが、前夜というのはやはりサタデーナイトだったのでしょうか。古いという以上にしつこさが鼻につきますが)が児童雑誌に波及していたとしても、別におかしくはありません。
 ところで乱歩は、リアルタイムでは「新趣味」を購入していなかったのか、平凡社版乱歩全集の附録雑誌「探偵趣味」に「博文館発行『新趣味』譲受け度し」という告知を打っています。『幻影城』の「探偵小説雑誌目録」には創刊から終刊までを押さえた紹介を記していますから、たぶん全冊をコレクションできたのでしょう。
 このコレクションも、いずれ立教大学の所有に帰するわけですが。


●11月23日(金)
 豊島区の乱歩記念館建設構想に端を発した乱歩の土蔵と蔵書をめぐる大騒ぎも(私が一人で騒いでいただけだという気もしますが)、立教大学への譲渡が決定して一件落着となりました。
 まずはめでたしめでたし。
 
去年のいまごろはどうだったかというと、すでに豊島区から遺族側へ記念館構想の断念が伝えられていましたから、乱歩の遺産が無事に21世紀を迎えられるのかどうか、とっても不安な世紀末でした。
 21世紀最初の年である今年は、実際には国内外を問わずそれはもう無茶苦茶な年であったわけですが、せめて乱歩の遺産がしっかり保存されるというめどがたったことだけでも、この不幸な年における喜ばしいことのひとつに数えられる幸福。
 何を書いてんだか自分でもよくわからなくなってきました。
 ただし気になることもあって、それは毎日新聞の記事でいうと、

寄贈資料は同大図書館に収蔵され、今後、整理をして早い時期に一般公開される予定。

 というあたりです。
 乱歩の蔵書や資料には、当然のことながら乱歩自身が築いた体系性というものが附与されており、それは
現在のまま保持されることが望まれる次第ですが、その点はどうなのかな。
 むろんその一方で、乱歩の蔵書や資料を広く公のものとするための方途が講じられるべきことも論を俟ちません。
 どうなるのかしら。
 立教大学の賢明なる判断が期待されます。
 それはそれとして、いまさらこんなことを申しあげるのもお恥ずかしい話なのですが、名張市の乱歩記念館構想はどうなるのかな。
 むろんどうなるもこうなるもありゃせんのだ、ということはよくわかっているのですが、私にも名張市立図書館乱歩資料担当嘱託という立場がありますから、ここはひとつ漫才一本書いて落とし前をつけることにしたいと思います。
 獅子吼してやる。
 吼えまくってやる。
 血へどを吐いてやる。


●11月22日(木)
 昨21日、平井隆太郎先生と立教大学の記者会見が行われ、乱歩の邸宅と蔵書が立教大学に譲渡されることが明らかにされました。
 起き抜けに早さが取り柄の「フレッシュアイ」で検索してみたところ、毎日新聞のホームページに、

11月21日 19:41
江戸川乱歩:
自宅と書籍・資料など約2万点を立教大に譲渡

 河北新報のホームページに、

「二銭銅貨」の草稿を発見 江戸川乱歩邸で
(11/21 00:34)

 といった記事が見つかりました。河北新報の記事は通信社から配信されたもののようです。
 探せばほかの新聞にも記事があるものと思われますが、要点はこの二本に尽きています。要点とは、すなわち譲渡と草稿の二点。
 まず譲渡について、毎日新聞から引用しますと、

 有償譲渡されるのは、約1200平方メートルの土地と近世(江戸期)の資料。大正時代に建てられた本宅や書庫としていた土蔵のほか、調度品・備品、明治期に刊行された「ボール表紙本」と呼ばれる翻訳を中心とした書籍や雑誌、作品関連の各種資料は寄贈される。

 乱歩邸と収蔵資料をめぐっては、豊島区が記念館による保存を計画したが、資金難で断念。計画を引き継ぐ形で今年4月から立教大と平井家との話し合いが進み、10月に合意に達した。寄贈資料は同大図書館に収蔵され、今後、整理をして早い時期に一般公開される予定。乱歩の孫、平井憲太郎さん(51)は「祖父の作品には多くのファンがいます。その思いに応える形で保存や資料の公開をしてもらえれば」と語った。

 つづいて草稿、つまり譲渡に伴う目録作成の過程で発見された「二銭銅貨」の草稿については、河北新報にこうあります。

草稿を読んだ浜田雄介・駿河台大教授(日本近代文学)によると、雑誌に発表された「二銭銅貨」は、男性が友人の行動を語る構成だが、草稿は、妻が夫の行動を語る形になっていた。大正9年ごろに書かれたとみられ、筆名も「乱歩」ではなく「藍峯」と書かれていた。浜田教授は「(草稿と発表された作品を比較することで)『二銭銅貨』を大人の読み物にする過程が浮かび上がる。ほかの資料と合わせて、作家乱歩が誕生していく経過が、より明らかになるだろう」と話している。

 といったような次第。ちなみに毎日新聞には、この「二銭銅貨」の草稿は「今回の寄贈には含まれていない」とも報じられています。また当地の朝日新聞は、乱歩が残した「日記類や私信などは譲渡されない」と伝えております。
 といったような次第で、本日は取り急ぎご報告のみにて失礼いたします。

毎日インタラクティブ

河北新報ニュース


●11月21日(水)
 ブルガリアに行ったり三重県をうろついたりフランスに飛んだりいろいろしておりますが、本日は乱歩のお膝元、東京の話題です。
 東京・西池袋にある乱歩邸の土蔵と蔵書が隣接する立教大学に売却ならびに寄贈されるらしいという風聞は、すでにお聞き及びの方もたくさんいらっしゃるでしょう。その話が正式にまとまったらしく、立教大学はきょうあすにも記者会見を行うと伝えられます。
 そしてきのうの夜、NHK のテレビとラジオでそれを報じるニュースがささやかに流され(私は「手話ニュース」でちらっと見たのですが)、寄贈に伴う調査で発見された「二銭銅貨」の草稿のことも紹介されておりました。
 草稿ですよ草稿。
 「二銭銅貨」の草稿。
 大正9年執筆の草稿です。
 びっくりするではありませんか。
 『貼雑年譜』によれば大正9年5月、当時東京に住んでいた乱歩は、

「二銭銅貨」ト「一枚ノ切符」ノ筋ヲ考ヘ、ソノ梗概ヲ巻紙ニ書イテオイタ

 そうなのですが、この梗概以外に原稿用紙に浄書された草稿(完結はしていないようです)が残されていて、それが初めて陽の目を見たというわけです。
 これはどえらい発見だと思います。
 はあはあはあと、ニュースを見ながらすっかり息が荒くなってしまいました。
 テレビ画面にはこの草稿の一枚目も映し出されていましたが、書き出しには「指輪」という言葉が見られました。そんなもの、われわれの知っている「二銭銅貨」には出てきません。つまり草稿と決定稿とのあいだには、どうやら少なからぬ異同があるようです。
 はあはあはあ。
 しかもキャスターの説明によれば、草稿は貧乏青年二人のお話ではありません。夫婦です。一組の夫婦の物語だといいます。つまり夫が「松村武」、妻が「私」ってことなんでしょうか。仔細は不明ながら、とにかくはあはあはあと息が荒くなるようなニュースでした。
 ニュースでは調査に携わった駿河台大学の(『新青年』研究会の、と申しあげたほうがいいのかな)浜田雄介さんがコメントを述べていらっしゃいましたので、もしかしたら今回の新発見資料に関して、浜田さんのご報告がいずれどこかに発表されるかもしれません。刮目して待ちたいと思います。
 立教大学の記者発表はたぶん全国紙でも報道されるはずですから、どうぞお見逃しなく。
 はあはあはあ。


●11月20日(火)
 といった次第で、渾身の小酒井不木研究サイト「奈落の井戸」を主宰しながら熟女系(というと五月みどりさんみたいなものなんでしょうか。われながらなんと発想が貧困なんでしょうか)探偵小説作家大倉〓〔火+華〕子にも流し目を送っていらっしゃるもぐらもちさんから、川喜田三郎が大正12年6月号に発表した
「手」についてご教示をいただきました。もぐらもちさんには心からお礼を申しあげ、記録しておくために全文を転載させていただきます。ご了承くださいもぐらもちさん。

もぐらもち@奈落の井戸
  2001年11月19日(月) 10時22分

ご無沙汰してます。池袋の大宴会、法事と重なってる……無念です。

気を取り直して、現在伝言録で話題にされていらっしゃる川喜田三郎の「手」なんですが、これはストーリーを見る限り、モーパッサンの「手(la main)」の翻訳ないしは翻案作品で、川喜田三郎氏の純然たるオリジナルではないと思います。
こんな事を私が言えるのは、実は私が愛して止まぬ三流熟女探偵小説作家・大倉テル子が「少女世界」昭和27年1月号に書いた「手」という作品がまさにこのモーパッサンの「手」だからで。

モーパッサンの「手」は、かつてアジャクシオというところで予審判事をしていた男が婦人達とお茶を飲みながら、「巧妙過ぎて解決が見えない事件はあっても、超自然的な事件などあるものではない」、「しかし不可解な事件というのもやはりあるもので、そんな怪談めいた事件をお話ししましょう」といって始まるエピソードです。
事件は自分の仇敵のものだという、ひからびたミイラの腕を壁に鎖で縛りつけ、いつも何かに怯えて銃を手放さないサー・ジョン・ローウェルという男がある日絞殺された、というもので、彼の首筋には細くするどい指の跡がくい込み、彼の歯の間にはひからびた手の指が一本、咬みちぎられて残っていた、という状況でした。そして判事が数ヶ月後、部屋の中をひとりでに動き回るミイラの手の夢を見ると、その次の日判事の許に、サー・ジョン・ローウェルの墓の上にあったといって、指が一本欠けた、ミイラの手が届けられます。
この事件に判事は「手首の持ち主はまだ生きていて、復讐を遂げた」という解釈を加えてます。

「吉岡」氏がかの予審判事、「ジョン」がサー・ジョン・ローウェルと、物語の登場人物も物語展開もぴったり符合しますね。

書き方からいえばモーパッサンは「手」を怪奇小説として書いてます。合理的解釈は付け足し。
大倉はその合理的解釈を前面に押し出す為に判事の言葉を大幅に削るなど、無茶苦茶な事をやりました。結果はご想像にお任せします。「探偵小説」の角書き付きで、モーパッサンの名前は小説のどこを見ても書いていない大倉の「手」は、一瞬、大倉のオリジナルに見えます。

「伊勢新聞」の記事に難癖をつける気は毛頭ありませんが、この「手」の事を乱歩に先駆けた探偵小説、と主張するにはもう少し調査が必要ではないかと愚考する今日この頃。

しかし大正12年から昭和27年と約30年の時を越え、少女雑誌に二度に渡ってモーパッサンとは関係ない形で掲載された「手」というのは、因果な小説だと思います。

 でもって私は、
 「そうかッ。そうやったんかッ」
 と叫びながら本棚をごそごそ探し回って新潮文庫『モーパッサン短編集(三)』とついでに福武文庫『モーパッサン怪奇傑作集』をひっぱり出してきました。どちらにも「手」が収録されています。
 もしかしたらと気あたりがして創元推理文庫『怪奇小説傑作集4』を見てみたら、案の定ここにも「手」が収められているではありませんか。巻末の澁澤龍彦による「解説」にはモーパッサンに関する記述が二ページあまりにわたって綴られているのですが、一部を引きますと、

要するに彼の短い一生は、狂気の幻覚や不安が次第に激しさを増してゆく一生であり、彼はその強迫観念におびえながらも、最後まで作家としての観察眼を曇らすことなく、これを作品のなかに描き出したのである。つまり、彼の短編は晩年に近づけば近づくほど、病気の作者の自己観察といった趣をおびてくる。いわば一種の証言の文学であり、その観察がまことに明晰かつ綿密であればあるだけ、読む者にとっては、鬼気迫るものを感じないわけには行かないのである。

 といった按配。「手」に関しては、

 本書に収めた『手』は、そろそろ狂気の兆候の見えはじめた八四年の作であるが、やはり作者の固定観念ともいうべき、本人から独立して手だけが動き出すという、二重人格テーマのヴァリエーションの一つとなっている。モーパッサンは実際、あるイギリス人から乾燥した手のミイラを譲り受け、自室に飾っておいて、酔った時など、しきりにこれを愛撫していたという。

 とあります。
 私がいまさらこんなことを申しあげるのもあれなんですが、つまり説得力というものが著しく欠けてしまうわけなんですが、自然主義文学の代表選手モーパッサンには頭がやばくなった時期に書かれた鬼気迫る短篇群があり、「手」は「オルラ」「たれぞ知る」などと並んで怪奇小説ファンにも広く知られた一篇です。乱歩の「怪談入門」では「オルラ」が透明怪談の傑作として紹介されておりましたが、ほかの作品はどうであったか。
 さるにてもモーパッサンとは意外な展開。まったく思いも寄りませんでした。私の記憶の糸はそよとも動かず、私の連想や直観は日曜日のお父さんみたいにだらっとなったままぴくりとも働こうとしませんでした。人間の頭なんてあてにならぬものです(人間の、と単純に一般化できるかどうか、すこぶる疑問に思いますが)。
 こうなりますともぐらもちさんご指摘のとおり、川喜田三郎の「手」はモーパッサンの「手」の翻案と見做して間違いないように思われます。しかも熟女系(というと、もしかしたらあき竹城さんみたいなものなんでしょうか)探偵小説作家の「手」と同様、原作のことは作品のどこにも明記されていないのではないかと推測されます。
 つまりこうなりますときのう私が記しましたことは一夜明けたきょうの朝には根底から覆されてしまっているわけで、覆された宝石のような朝、とはこのことでしょう(いささか錯乱しております)。翻案であったのであれば、「三郎は乱歩より一足早く、名探偵家登場の探偵小説分野を開拓した」などとは全然いえません。大間違いのこんこんちきです。

 きのうにつづいて記しますと、
 
泣けます。
 ほんとに泣けてきます。いろいろな意味で。
 もぐらもちさんには重ねてお礼を申しあげ、いましばらくは泣き濡れることにいたします。


●11月19日(月)
 そういった次第で、川喜田三郎が「童話」という雑誌の大正12年6月号に発表した
「手」を読んでみないことには話が始まらないのですが、なかなか興味深い話題です。
 もしも「手」が、切断されてミイラ化した人間の片手が生身の人間を絞殺した、という奇天烈怪奇な迷宮入り殺人事件の謎を吉岡なる探偵が合理的に解明した、というストーリーであるのなら、これは当然本邦探偵小説史に書き加えられるべき作品です。
 その場合、大正14年1月デビューの明智小五郎よりは吉岡の登場のほうが早く、明智の前身と見られぬでもない左右田という素人青年探偵の登場も大正12年7月でしたからやはりタッチの差で吉岡に後れをとっており、したがって「三郎は乱歩より一足早く、名探偵家登場の探偵小説分野を開拓した」といえばいえることになります。
 とはいえ乱歩の「指」が引き合いに出されているところを見ると、どうやら合理的な解決のない怪奇小説であったのかなという気もしてきますが、それでも「手」が本邦探偵小説史に書き加えられるべき作品であることには変わりがないでしょう。作中のパーティが「面白い探偵談や、犯罪学の話」で賑わっていたという描写自体、探偵小説に対する作者の、ということはおそらく読者の嗜好を物語っています。
 つまり「名探偵家登場の探偵小説分野を開拓した」のが誰かなんて話は、乱歩より早く探偵小説を書いていた日本人なんて少なからずいたわけですから、この際たいした問題ではありません。問題は、乱歩のデビューと時を同じくして児童向け雑誌に探偵小説らしきものが発表されていたという事実です。
 これはあるいは、乱歩をして「盛んだなあ、盛んだなあ」と驚喜せしめた「新青年」あたりの探偵小説フィーバー(古いッ)が、同時代の児童向け雑誌にまで波及していたということなのでしょうか。ようわかりません。児童向け雑誌における探偵小説の歴史、みたいなことをどなたかご研究いただければ幸甚です。と相変わらず人任せ人恃み。
 川喜田三郎のその後について、「伊勢新聞」の当該記事から拾っておきます。

家業の証券業を継がされるため大正十四年頃に帰郷。郷里の下新町では家業に馴染(なじ)めず、後に『少女倶楽部』『少女の友』で活躍するかつての誌友吉屋信子らからの来信を唯一の慰めとしたが、昭和二十年三月二十日、無名のまま遠逝した。恐らく、帰郷後も業務の合い間に探偵小説を執筆していたのではなかったか。しかし、二十年六月の四日市空襲で家屋ともども灰燼(かいじん)に帰した今、それを証する一片の資料もない。

 泣けます。


●11月18日(日)
 きのうのつづきですが、昨日記しました、

乱歩が「屋根裏の散歩者」や「人間椅子」といった傑作短篇をつるべ打ちしていた

 という文章はおかしいのではないか、と気になりました。「つるべ打ち」の用法がおかしいのではないか。そこで手許の大辞林を引いてみると、

つるべうち【釣瓶打ち・連べ打ち】(名)〔「つるべ」は動詞「連ぶ」の連用形から。「釣瓶」は当て字〕 1.(多くのうち手が立ち並んで)銃や砲を続けざまにうつこと。「鉄砲を──にする」 2.転じて、野球で続けざまに安打を浴びせること。

 とあります。
 つまり一人じゃつるべ打ちはできないわけです。高橋が打つ松井が打つ清原が打つ。これがつるべ打ち。いまごろプロ野球の話をするのも間が抜けてますから、熊前が打つ杉山が打つ大貫が打つ、としたほうがいいのかなとも思いますが、バレーボールの世界でつるべ打ちという言葉が用いられた試しは聞いたことがありません。ともあれきのうの文章は、

乱歩が「屋根裏の散歩者」や「人間椅子」といった傑作短篇をかため打ちしていた

 とでも訂正しておきましょうか。しかし「かため打ち」ではいよいよ野球だ。
 6月17日付「伊勢新聞」の連載「街道の文学探訪」第二十一回「探偵小説発表は乱歩より魁/川喜田三郎」からの引用、もう一度頭から始めます。

 後者の「手」は大正十二年六月号誌上に発表で、同誌には西条八十・本居長世・相馬泰三・島木赤彦・宇野浩二らも執筆している。現時点では三郎の代表作品といえる「手」は次のように始まる。
 
「永らく警視庁の探偵長として、名探偵とうたはれて居た吉岡氏は、近頃ひどく健康を害し、愈々職を辞すことゝなりましたので、ある日、その友人知己の人々が大勢集つて、退職慰労会を、帝国ホテルで催ほしました。流石その道の人々の集りだけあつて、いろいろ面白い探偵談や、犯罪学の話なので賑ふてゐました。
 その席上、吉岡氏は次のやうな不思議な物語をいたしました」

 元探偵長吉岡は、イギリス人ジョンが切断されてミイラ化した人間の片手に絞殺されて、その真相及び犯人が不明のまま迷宮入りした怪奇殺人事件を回想して語るといった内容で、ストーリーテラー川喜田三郎の手腕が見事に生きている。英文学専攻の三郎はE・A・ポーを愛読したといわれるが、「手」はポーの「黒猫」の手法を連想させ、探偵小説・怪奇小説といえるではないか。
 探偵小説作家江戸川乱歩は大正五年七月、二十二歳で早稲田大学を卒業後、十二年「二銭銅貨」で文壇デビュー。その乱歩が「指」を発表するのが昭和三十五年(一九六〇)である。右手首を切断されたピアニストが、新曲を引きたいと言う。患部は麻酔が効いており、本人は手首損失を知らないが、脳中枢の指示により、別室の、アルコール漬けにしたガラス瓶の中の五本の指が鍵盤を叩くように動くという掌篇である。
 「手」と「指」はともにポーの影響と思われるが、三郎は乱歩より一足早く、名探偵家登場の探偵小説分野を開拓したといえる。

 いえるのか、そんなことが、ほんとに、と思いつつあすにつづきます。


●11月17日(土)
 本日は海外における乱歩の話題をお休みし、県内における乱歩の話題でご機嫌をうかがいます。
 6月17日の「伊勢新聞」に掲載された記事のお話です。三重県内の文学者を紹介しているらしい連載「街道の文学探訪」の第二十一回として、川喜田三郎なる人物がとりあげられています。
 三重県の川喜田家といえば江戸時代からつづく豪商で、明治時代には百五銀行の創設にも関わった家柄。銀行の頭取を務めながら陶芸家として名をなした川喜田半泥子もこの一統で、三重県四日市出身という川喜田三郎もまた、それまで住んでいた東京から「家業の証券業を継がされるために大正十四年頃に帰郷」と見えますから、あるいは豪商川喜田家と関係のあった家筋かと思われます。
 大正14年というと、乱歩が「屋根裏の散歩者」や「人間椅子」といった傑作短篇をつるべ打ちしていた年です。つまり三郎は乱歩と同時代人で、乱歩より三歳年下の明治30年生まれ。早稲田大学文学部で三歳年長の浜田広介と出会い、卒業後は広介の推輓でコドモ社という出版社に入社。児童向け雑誌「良友」や「童話」の編集に携わりながら、両誌に作品を発表します。
 で、「街道の文学探訪」第二十一回の見出しは堂々たる五段抜きでこんな感じ。

探偵小説発表は乱歩より魁

 西暦2001年のわが国において「魁」なんて言葉を見出しにつかう新聞社はあまりないように思われますが、要するに三郎は乱歩に先がけて探偵小説を発表していた、という意味です。引用しましょう。三郎が「童話」に発表した「手」という作品の話です。

 後者の「手」は大正十二年六月号誌上に発表で、同誌には西条八十・本居長世・相馬泰三・島木赤彦・宇野浩二らも執筆している。現時点では三郎の代表作品といえる「手」は次のように始まる。
 
「永らく警視庁の探偵長として、名探偵とうたはれて居た吉岡氏は、近頃ひどく健康を害し、愈々職を辞すことゝなりましたので、ある日、その友人知己の人々が大勢集つて、退職慰労会を、帝国ホテルで催ほしました。流石その道の人々の集りだけあつて、いろいろ面白い探偵談や、犯罪学の話なので賑ふてゐました。
 その席上、吉岡氏は次のやうな不思議な物語をいたしました」

 元探偵長吉岡は、イギリス人ジョンが切断されてミイラ化した人間の片手に絞殺されて……

 上の引用中、「犯罪学の話なので」とあるのは「犯罪学の話などで」の誤植かと思われます。
 引用途中で申し訳ありませんが、あすにつづきます。
 なお、この新聞記事のことは「人外境だより」でノーネームさんからご教示いただきました。お礼を申しあげます。


●11月16日(金)
 初級ブルガリア語講座のつづきです。
 Mamma, do you remember ……と口ずさみながら(依然として世代限定ネタです)、私は Google を検索してみました。
 検索語句は「森村誠一/人間の証明/熊のぬいぐるみ」。二件ひっかかりました。いずれのページにも森村さんの「人間の証明」に重要な小道具として熊のぬいぐるみが出てくると記されており、
ПЛЮШЕНОТО МЕЧЕ」は「人間の証明」であると踏んでほぼ間違いないのではないか、との結論に達しました。あとは主人公の名前がどう発音されるかといった傍証を固めれば、この作品の正体は完全に割れると思います。
 ところで私が何を大騒ぎしているのかというと、1984年にブルガリアで発行された『
ЯПОНСКИ ДЕТЕКТИВ』という本の素性調べです。乱歩の「陰獣」と森村さんの長篇が収録されているのですが、森村作品のタイトルがわからなかったという寸法です。たったこれだけのことを調べるのに気が遠くなるほどの時間を要した次第ですが、とにかく上記の結論に至ってほっとひと安心。
 しかし、念には念を入れたほうがいいかもしれません。ここはひとつブルガリアのお姉さんが横にはべってくれるお店に赴き、実際に本を示して最終的な確認を行うべきかとも愚考されます。いや、あのお姉さんたちは日本語がさっぱりですからあまりあてにはならぬか。とはいえ、『
ЯПОНСКИ ДЕТЕКТИВ』と『ブルガリア語辞典』をもちこんで話をすればなんとかなるような気もします。もっとも、お酒の席でそんなお話は興醒めといえば興醒め。いっそお店の外に連れ出すことにして、それをブルガリア語で何と伝えればいいのかしらん。
 こうした場合、商売熱心なお姉さんならこちらの願望を素早く読み取って、
 「シャッチョサン、ダイニマイ、ダイニマイ」
 と向こうからもちかけてきてくれますから話は早いのですが。この件、しばらく思案することにいたします。
 初級ブルガリア語講座です。
 
ЯПОНСКИ ДЕТЕКТИВ
 これはこの本のタイトルですが、邦訳すれば「日本の探偵小説」。
 
БИБЛИОТЕКА ЛЪч
 これはこの本のシリーズ名。「光の図書館」という意味のようです。
 
НАРОДНА МЛАДЕЖ
 これはこの本の発行所です。「民衆の青年」という意味になります。
 
СОФИЯ
 これは発行所の所在都市。首都ソフィアのことです。
 以上、初級ブルガリア語講座でした。
 いやそれにしても私ったら、短時日ですっかりブルガリア語に習熟してしまいました。
 あと難物としてはラトビア語なんてのが残ってるわけですが。
 えー、ご親戚にラトビア人がごろごろしてるとおっしゃる方、ぜひともご連絡ください。


●11月15日(木)
 唐突ですが初級ブルガリア語講座の時間です。
 
Едогава Рампо
 これは「エドガワ・ランポ」と読みます。
 
Сейичи Моримчра
 これは「セイイチ・モリムラ」です。
 
ЧУДОВИЩЕ В МРАКА
 これは「暗闇の怪物」の意で、「陰獣」の訳題です。
 
ПЛЮШЕНОТО МЕЧЕ
 これは「フラシ天製の熊」の意ではないかと思います。
 語形変化の問題があるのか、『ブルガリア語辞典』の項目に「
ПЛЮШЕНОТО」という語は発見できません。「МЕЧЕ」は熊です。
 「
ПЛЮШ」の項には「名詞《フランス語》フラシ天、絹綿ビロード」とありますから、「ПЛЮШЕНОТО」はフラシ天でできた、みたいな意味なのかなという推測が成り立ちます。
 『ブルガリア語辞典』の項目には発音記号が附されていないので「
ПЛЮШ」の発音は不明なのですが、「ПЛЮШ」という四つのロシア文字を発音の類比に基づいて英語のアルファベットにあてはめると、ПはP、ЛはLとなり、ЮとШは適当なアルファベットがないものの、それぞれ「ユ」「シュ」と発音されるようです。
 プルユシュ。
 そこで手許の『アポロ仏和辞典』で語頭に「
pl」のつく単語を見てゆくと、やがて「pluche」にぶつかります。この語は矢印で「peluche」に送られています。「peluche」を引くとこうあります。

1.プラッシュ、フラシ天(ビロードに似た毛足の長い生地) 2.糸くず

 ブルガリア語の「ПЛЮШ」はフランス語の「peluche」に発していることがわかりました。
 しかしそんなことがわかっても問題は解決しません。私は「
ПЛЮШЕНОТО МЕЧЕ」というタイトルでブルガリア語に訳されている森村誠一作品の原題が知りたいのです。想像をたくましくするならば「ПЛЮШЕНОТО МЕЧЕ」はどうやら「熊のぬいぐるみ」とでも訳すべき言葉らしいのですが、森村さんにそんな作品があるなどとは聞いたこともありません。
 仕方がありませんから「
ПЛЮШЕНОТО МЕЧЕ」の原文を眺めてみました。むろんブルガリア語です。ロシア文字の羅列です。まったく歯が立ちません。ところが、あるページの脚注に「Straw hat」という英語が記されていました。
 「そうか」
 と私は思いました。
 「ストローハットか。麦藁帽か」

海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり

 などと寺山修司作品をめそめそ暗誦している場合ではありません。森村誠一作品でストローハットと来れば、ぽん(膝を打つ音)、いまは亡き松田優作の口跡も鮮やかに、

「母さん。僕のあの帽子、どうしたでしょうね」
「莫迦だねこの子は。そんなこといってるとみんながお父さん殺しに来るよ」

 という角川映画のテレビコマーシャルが思い出されてくるではありませんか。世代限定ネタで相済みませんねお若い衆。
 唐突ですが初級ブルガリア語講座、あすにつづきます。

 野地嘉文さんの怒濤の本邦探偵小説データベース系サイト「探偵小説専門誌『幻影城』と日本の探偵作家たち」はこのほどアドレスが変更されました。お知らせをいただきましたのでお知らせ申しあげます。

探偵小説専門誌「幻影城」日本の探偵作家たち


●11月14日(水)
 きのうは大学書林の『ブルガリア語辞典』を持ち帰りました。ところがこの辞典、初歩的な辞書の見返しによく載っているアルファベット表がついていません。ブルガリア語はロシア文字で表記されているようですからきのう叩き返してしまった『ロシア語ミニ辞典』をもう一度借り直し、見返しのアルファベット表を座右に置かなければ辞書を引くことさえかなわないということがわかりました。まったく毎日なーにやってんだか。
 かくのごとく日ごろ馴染みのないロシア語やブルガリア語に疲れ果てた眼には、英語というのは格段に親しみやすい言語として映ってきます。こりゃもしかしたら日文研の英文紀要だってじつはすらすら読めるのではないかとページを開いてみますと、驚くべし、なんとすらすら読めてしまうではありませんか。それもそのはず、読めたのはローマ字でした。
 
Maryellen T. MORI さんの「Three Tales of Doll-Love by Edogawa Ranpo」に附された「Works Cited」、すなわち引用参照文献には日本で発表された乱歩文献のタイトルが列記され、Minagawa Hiroko だの Nakada Koji だの Nakajima Kawataro だの Shibusawa Tatsuhiko だの Suzuki Sadami だの、われわれにも親しい執筆者のお名前がずらずら書かれているのですが、私にはそのローマ字が難なく判読できたというだけの話です。たいした自慢にはならないでしょう。
 ところが、このローマ字のなかに Ranpo bunken deta bukku というのが出てきたものですから私はほんとに驚いてしまいました。名張市立図書館の『乱歩文献データブック』がアメリカ人研究者のもとでいささかなりともお役に立っていようとは。いやグローバルグローバル。
 名張市民のみなさん、お喜びください。みなさんの税金はごく一部ながらこうして有意義に使用されております。どう考えてもまともではない斎場建設に投じる二十五億円に較べれば微々たるものですが、『乱歩文献データブック』の刊行費用三百万円は税金の使途としてにじつにじつに有意義であったと、この機に乗じて申しあげておきます。
 しかし乱歩の名前がここまでグローバルになると、名張市立図書館もせめて英文くらいすらすら読み書きできる学芸員を雇う必要があるのではないか。私のように何から何まで付け焼き刃の人間がいつまでも幅を利かせていてはよくないようにも思われます。私の場合、付け焼き刃を補って余りある人間的魅力のおかげでなんとか職務を遂行できているわけですが。


●11月13日(火)
 英語ごときで音をあげていてはロシア語ドイツ語はどうなることか。
 モスクワやベルリンあたりの出版社からも乱歩の著作は出ているわけです。むろんロシア語やドイツ語で書かれた本です。編纂中の『江戸川乱歩著書目録』にはそれらも記載しなければなりません。
 そこでおとといの日曜、あっちこっちからかき集めた海外版のデータもそろそろ整理せなあかんなと、私は名張市立図書館からロシア語とドイツ語の辞書を借りて帰りました。簡単な単語がわかればいいんだから初歩的なものでいいやと思い、適当に見つくろって特別許可のもとに(図書館の辞書は一般に館内閲覧だけが許されております)持ち出した次第です。そしてきのう、とりあえずドイツ語の辞書を開いた私は頭を抱えました。
 私が借りて帰ったのは同学社から出ている『中高ドイツ語小辞典』という一冊だったのですが、莫迦な私はこれが中学高校生向けの辞典であると思い込んでいました。しかしあなた、中高ドイツ語ってのは中世高地ドイツ語(Mittelhochdeutsch, Mhd)のことだというではありませんか。中世ドイツの南部で使用されていた言葉だそうです。
 「なんや。方言辞典か」
 と私は思い(まだ事情が完全には呑み込めていないようです)、
 「ドイツの方言辞典借りてきてどないすんねん」
 と自分を厳しく叱りつけましたが、中高年向けの辞書だと勘違いしなかっただけまだましだとはいえるでしょう。
 いっぽうのロシア語辞典は白水社の『ロシア語ミニ辞典』で、これは露和と和露がいっしょになった可愛い辞書なのですが、いったい何なんでしょうかあのロシア文字というやつは。アルファベットの順番がわかりませんから英語の辞書みたいに目的の単語にすぐには到達できません。
 いやいや、私なんて英語の辞書だって怪しいものです。なにしろあなた、ごくたまに必要に迫られて英和辞典をひもとくとき、いつのまにか「キラキラ星」のメロディーに乗せてABCDEFG……と口ずさんでいる自分を発見することがある私です。もしかしたら英語のアルファベットさえ頭に入っていないのではありますまいか。
 それにアルファベットの問題は別にしても、言語には語形の変化という問題がありますから、ただ辞典を引くだけではロシア語に訳された乱歩作品の原題を知ることさえ容易ではない、ということがよくわかった次第です
 ほんとにどうなることじゃやら。


●11月12日(月)
 「Three Tales of Doll-Love by Edogawa Ranpo」をお書きになった Maryellen T. MORI さんは、紀要巻末の執筆者紹介によればカリフォルニアのサンタクララ大学で教鞭を執っておいでのようで、ご専門は現代日本文学。これまでに高橋たか子、岡本かの子あたりのご研究を発表していらっしゃいます。アカデミズムの人ですね。1996年には安部公房「カンガルー・ノート」の英訳も手がけられたとか。マリエレンというのが男性名か女性名かすら不明なのですが、たぶん女性の方でしょう。さしずめ才媛ってやつですね。お庭にあるのは家庭菜園。あれまあずいぶんとくだらない。
 アカデミズムついでに『新青年』研究会のシンポジウムをお知らせしておきます。過日、同研究会の末永昭二さんから「人外境だより」にご投稿いただいたのですが、あの掲示板は過去ログを保存いたしませんのでこちらに写しておく次第。

テーマ医学と探偵
日時11月24日(土) 午後1時−5時30分
会場
東京・神田 専修大学神田校舎
俎に載せられる作家と担当パネラー
正木不如丘(湯浅篤志さん) 小酒井不木(阿部崇さん) 木々高太郎(横井司さん) 三橋一夫(末永昭二さん) 山田風太郎(谷口基さん)

 司会は才媛の誉れも高い小松史生子さんですが、お庭にあるのは家庭菜園。と、やけになってまたかましてしまいました。くだらないギャグも反復することで笑いを喚起できる場合がありますが、反復によってくだらなさがいよいよ際立ってしまうこともありますから注意が必要です。ま、いくら私だってけさみたいな二日酔いのひどい朝にはせいぜいがこんな程度だ。どうかお見逃しください。

医学と探偵シンポジウムのご案内


●11月11日(日)
 そんなわけで日文研の2000年版紀要に掲載された Maryellen T. MORI さんの「Three Tales of Doll-Love by Edogawa Ranpo」も、何が書かれているのやら私にはとんと見当もつかぬありさまです。
 そもそもこの紀要は日本文学だけを守備範囲としたものではなく、たとえば Emilia GADELEVA
さんの「Susanoo:One of the Central Gods in Japanese Mythology」なんてのも掲載されています。タイトルから推測しますにスサノオ、例の哭きいさちる神(「哭き」は「なき」とお読みください。古事記にはそう書かれております。あ、この莫迦は英文が読めぬ腹いせに古文の知識を総動員してやがるな、とお思いください)を主題とした神話学の研究らしく、これもなかなか面白そうなのですが悲しいことに読めません。
 しかし幸いなことに掲載論文にはごく短いものながら日本語の「要旨」が添えられていますので、ここにはそれをご紹介してお茶を濁します。お茶を濁すにもほどがある、とお思いください。

江戸川乱歩の人形愛に関する三短編

マリエレン T. モリ

本小論文は「人形愛」という主題を扱った江戸川乱歩の三編の小説、「人でなしの恋」、「押し絵と旅する男」、および「虫」、を論じる。乱歩の小説に通じて現われる人形愛と、自己変身への欲望との関係を論じる。人形の役割は、主人公の男性の隠された欲望を、擬宗教的な愛の形にまで昇華することによって、暴露するとともに隠蔽することであると考えられる。

 ことほどさように乱歩作品は現代アメリカの研究者に探偵小説として受容されているわけではなく、たとえば「孤島の鬼」のフリークス趣味であるとか上記三作品の人形愛であるとか、要するに乱歩における作家的本質とでも呼ぶべきものが考察の対象となっているらしく見受けられます。J・Aさんが「二銭銅貨」の英訳を寄せるアンソロジーも、1920年代における日本のモダニズムがテーマであるとのことでした。

国際日本文化研究センター


●11月10日(土)
 
J・Aさんは申すまでもなく日本語にご堪能で、俗にいうところのペラペラ。清風亭の座敷でいろいろお話をうかがったのですが、鰻丼を食べるのに夢中でろくに人の話を聞いていなかったせいか、私はあまりその内容を記憶しておりません。
 しかし、J・Aさんが来年の3月まで日本にいらっしゃることはたしかです。どうしてそれを憶えているのかといいますと、それならご帰国までに京都に赴きますから河原町あたりでわいわい盛りあがりましょうね、と京都大宴会の約束をとりつけたからで、私はこういうところだけじつにしっかりしております。
 そんなことはさておき、J・Aさんからいただいたおたより(横書きながら日本語、ペン書きにして達筆)には「乱歩の作品の面白さに気付いている研究者がアメリカに出始めたところです」とあり、米国における乱歩研究がここへ来て活気づき始めたらしいことが窺えます。慶賀慶賀。一例をご覧いただきましょう。ワシントン大学が出している「日本研究雑誌」27巻1号に掲載された「孤島の鬼」論が、下記のページで紹介されています。

THE JOURNAL OF JAPANESE STUDIES

 上記のページには要約しか掲載されていませんが、J・Aさんからはこの jim Reichert さんの「Deviance and Social Darwinism in Edogawa Ranpo's Erotic-Grotesque Thriller Koto no oni」、全文のコピーを頂戴しました。タイトルから判断すると社会ダーウィニズムにからめて「孤島の鬼」を論じる試みのようで、なるほど、と思わされました。
 若いときもっとも影響を受けた本はダーウィンの「進化論」である、と乱歩は述べています。ですから私はそろそろ乱歩におけるダーウィンの影響なんてのを研究する人が出てきてもいいのではないかと思っていたのですが、なんと海彼に現れてくれました。社会ダーウィニズムといわれてもあんまりぴんと来ませんけど、欧米諸国の人たちは「孤島の鬼」のフリークスたちから自然に社会ダーウィニズムを連想するのかもしれません。
 これは面白そうだと思ってさっそくコピーを読み始めたのですが、どうもおかしい。何かが邪魔をしてすらすらと読み進むことができません。はたと気がつきました。私は英文を読みこなせないのです。知らない単語がいっぱい並んでます。がーん。
 こりゃなんとも致し方がありません。ここはひとつ、私が英語圏のアダルト系サイトを閲覧する際に常用している翻訳ソフト「コリャ英和!らくらく翻訳」を使用して、上記論文のタイトルと要約を翻訳させた日本文を掲載しておきます。がーん。

逸脱と懇談会ダーウィン説江戸川 Rampo のエロチックなグロテスクのスリラー江東ノー oni

要約:エロチックな−奇怪−ナンセンス(ero−guro−nansensu)として知られている文化的な現象は1920年代後期と早く1930年代の間に日本で繁盛しました。この環境を独占することは人気が高い著者江戸川 Ranpo(1894−1965)でした。彼の最も成功した、そしてセンセーショナルな、小説の1冊が江東ノー oni(寂しい島の悪魔、1929-30)であった、そしてそれは読者に(彼・それ)らが(すでに)エロチックなグロテスクの文化的な生産のマスターから期待するようになっていた種類の異常な文字とショッキングな事件を提供しました。その否定し難い嘆願に加えて巧みに実行された1つのコマーシャル小説として、テキストは文学的な、政治的な、社会の、そして科学的な signification の同時に起きたシステムでその複雑な約束のために同じく注目すべきです。文字、「正常」人類を形成するものの水準考えに異議を唱える「奇人」の動物園のその出演者に相当する方法で、江東ノー oni それ自身が従来の文学的な、そしてイデオロギーの解釈的な見解を不安定にします。

 いよいよもって訳がわかりません。あー頭が痛い。本日はここまでといたしますが、この英語の論文、読んでみたいとおっしゃる方はメールでお知らせください。コピーをお送りいたします。がーん。


●11月9日(金)
 まずお詫びです。
 きのうの伝言に「神奈川県の越沼正さん」と記しましたが、越沼さんは静岡県の方です。貴重な資料をお教えいただいたと申しますのにとんだ不始末。まことに申し訳ありません。伝言録のほうは「静岡県の越沼正さん」と訂正しておきました。越沼さんならびに読者のみなさんに重ねてお詫びを申しあげます。

 さて、本日は国際的な話題。
 京都市にある国際日本文化研究センター、通称日文研が発行している年刊紀要の2000年版に、アメリカの研究者による乱歩論が掲載されています。「Three Tales of Doll-Love by Edogawa Ranpo」という論文です。テーマはドール・ラブ、つまり人形愛。この論文にとりあげられている乱歩の人形愛作品三作、どれとどれとどれだかおわかりでしょうか。
 順を追って説明いたします。
 先月中旬のことでした。日文研の研究員であるとおっしゃるアメリカ人男性が、やはり日文研研究員である日本人男性とお二人で、名張市立図書館を訪れてくださいました。アメリカ人男性は現代日本文学を、日本人男性は和歌をご研究とのことでした。
 で、このアメリカ人男性、といちいち書くのは面倒ですから、頭文字を取ってJ・Aさんと記しますが、J・Aさんは乱歩のことを研究していらっしゃって、アメリカ本国で近く刊行される日本文学アンソロジーには「二銭銅貨」の英訳を発表されるそうです。
 ちょうどお昼でしたのでおなじみ清風亭で鰻丼と肝吸いを賞味し、山本松寿堂に足を運んで二銭銅貨煎餅を購い、それから名張市立図書館に引き返して『貼雑年譜』完全復刻版をご覧いただいたりして閉館の午後6時、そぼ降る雨のなかでお別れした次第です。
 そのJ・Aさんがご丁寧に日文研の2000年版紀要を送ってくださったのですが、附箋のついたページを開いてみると「Three Tales of Doll-Love by Edogawa Ranpo」が掲載されていたという寸法。ただしこの論文、J・Aさんがお書きになったものではありません。J・Aさんはいま村山槐多をテーマにした論文を執筆中で、それが終わってから乱歩にとりかかるとのことです。
 あしたにつづきます。


●11月8日(木)
 本日は新発見資料のご紹介です。
 新発見、ではおかしいかもしれません。かつて乱歩が公表した文章ですから、いまさら新発見と呼ぶのは変です。だからといって再発見、としてみてもやっぱりおかしい。つまり発見という言葉がそぐわないわけで、ありていにいえば『江戸川乱歩執筆年譜』から洩れている文章のことです。などとごちゃごちゃいってないで、さっそくまいります。
 静岡県の越沼正さんからご教示いただいたのですが、昭和10年1月5日、浮世絵芸術社から発行された「浮世絵芸術」新年号(4巻1号)に、乱歩の「唐人お吉・その他」が掲載されています。図版で収録された橘小夢の「唐人お吉」という作品へのいわば讃で、同じタイトルのもとに藤澤衛彦、森下雨村あたりも文章を寄せています。
 四、五百字程度の短いものですが、乱歩の文章を冒頭の一段落だけ引いておきます。

 小夢さんの絵は「文芸倶楽部」の挿絵で初めて、発見して、これは異色のある画風だと感じたのですが、その後版になつた西洋風の線画を幾枚かを貰つて、益々その感を深くしました。

 橘小夢といえば、季刊「幻想文学」の乱歩特集号巻頭に「橘小夢の世界」が収録され、小夢描くところの「押絵と旅する男」が掲載されていたことをご記憶の乱歩ファンもいらっしゃるでしょう。私は最近とみに記憶に自信がなくなっておりますので、わざわざ同誌42号《特集:RAMPOMANIA》をひっぱりだしてきた次第なのですが、「回想の橘小夢」と題されたインタビューで小夢令息、加藤眞彦さんが小夢と乱歩の関わりを話していらっしゃいます。ついでに引用しておきます。

 本当にいろいろな人の挿絵を描いていて、昭和に入ってからですけれど、報知新聞系の大衆作家矢田挿雲や探偵作家グループ──江戸川乱歩さん、野村胡堂さん、岡本綺堂さんたちとおつきあいして挿絵を描いてもいます。岡本綺堂さんにはだいぶ親しくしていただいたようで、長く交流がありました。乱歩さんとも、家が近くだったので、行き来があったようです。先日も、子息の平井隆太郎さんが、乱歩邸の土蔵で見つけたからと言って、乱歩作品の挿絵原画を届けて下さいました。

 ま、また土蔵の話か……、などとうろたえる必要はないのですが、小夢の絵をご覧になったことがないとおっしゃる方のために、乱歩の「唐人お吉・その他」をもう一段落だけご紹介しておきましょう。

 「ビアズリーに国貞の衣裳を着せて」とふと感じました。新しい錦絵ではないかと思ひます。この美しい線と色とを、そのまゝ木版にして、絵草紙屋の店頭にかけ並べて見たいやうです。

 乱歩は昭和8年、『橘小夢版画選』が刊行されたとき、その内容見本に「感想」という推薦文を寄せているのですが、『貼雑年譜』完全復刻版をご所蔵のあなた、あなたならこの「感想」を読むことができます。慶賀慶賀。
 越沼正さんには重ねてお礼を申しあげます。


●11月7日(水)
 乱歩の土蔵と蔵書をどうやって保存するか、というのは名張市の手には余る問題でした。これは要するに、個人の財産である土蔵と蔵書をいかにして公のものにしてゆくかという問題であったわけですが、お役所の人間に「公」のことを考えろというのはそもそも無理な話なのかもしれません。彼らの「公」はせいぜいが「公共事業」の「公」であり、その意味でわが国の「公」は政府自民党と土建業界が結託して利権をむさぼるための隠れ簑として利用されつづけてきたという不憫な歴史を背負っています。
 別ないい方をすれば、お役人にとってはお役所が「公」であるともいえます。もっとも、世間にはたとえば自分の所属している企業が「公」であると勘違いしている莫迦もたくさんうろついていて、こうなるとその莫迦とお役人は莫迦さにおいて同質です。みたいなことを考え始めると、そもそも当節の日本人の頭のなかに「公」という言葉が存在しているのかという疑問が浮かばざるを得ないのですが、この点に関して私はわりあい楽観的です。お役人や政治家が「公」から遠く離れてしまった一方で、「公」を身近なものとする個人が増えているという実感があります。ま、お役人や政治家がここまで堕落してしまったら、個人が「公」を支えるしか道はないってことなんですが。
 そんなことはさておき、名張市役所ゆさぶりプロジェクトの件です。
 乱歩の土蔵の危機を「公」のこととして考えるなんて芸当はできないにしても、もしも乱歩の蔵書目録に刊行のめどが立っていないのなら、それを「公」のものとするために名張市に何ができるのかをじっくり考えてみろ、といったことを私は名張市に迫ってみたいと思い、いまのところ21世紀においてもっとも重要な日付となっている2001年9月11日に名張市役所を訪れた次第でした。先日、11月1日の会談でもその旨を教育委員会サイドに伝えたのですが、現時点において話はなお教育委員会の内部にとどまっている状態で、私はなんだかあほらしくなっております。


●11月6日(火)
 顧みますれば9月11日、朝日新聞の朝刊に(当地には朝刊しかありませんが)乱歩の蔵書目録に関する記事が掲載されました。土蔵に眠っていた和洋二万五千冊におよぶ書籍と雑誌の調査が終了したと伝える記事です。「データをパソコンに入力した目録は間もなく完成するが、どのように公開するかは未定だ」という結びの文章に、私は気がかりを覚えました。
 
もしも公刊のめどが立っていないのなら名張市の税金で蔵書目録を刊行するという手もあるではないか、売れ線の本にしか興味を示さないそこらの大手出版社なんてどうせあてにはならんだろうし、と私は考え、この際この題材で名張市役所のお偉方に頭をつかってもらおうではないか、名張市役所のお偉方のみなさんは私の見るところどなたもこなたも脳味噌がスポンジ化しているようだからこんなこと押しつけるのは酷かもしれないけれど、しかしたまには自分の頭で主体的にものを考えてみろと迫ってやるのも面白いではないか、と思いついた次第です。
 乱歩記念館がどうこうという話はどうだっていいのですが、乱歩の土蔵と蔵書が危殆に瀕したとき、それを守るためにいったい何ができるのかを名張市は真剣に考えるべきでした。実際には名張市の自己宣伝に過ぎぬ「乱歩顕彰」とやらのために乱歩の名前を利用し、何の成算もない乱歩記念館構想なんてのまでぶちあげておきながら、名張市がほんとに乱歩のために微力を尽くせるかもしれない機会が訪れたときに何もせぬというのではなんとも情けない。もういいもういい、おまえらはもう乱歩のらの字も口にするな、と私はいいたい気がします。
 むろんこれは名張市ひとりの問題ではありません。たとえば日本推理作家協会だって真剣にそれを考えるべきであったと私は思います。みたいなことは「乱歩文献打明け話」の第十六回「月光仮面は誰でしょう」にも記してありますので、興味がおありの方はお読みください。一部を引用しておきます。

「地元の豊島区が降りてしまったいまとなっては日本推理作家協会に期待するしかないでしょうね」
「日本推理作家協会てお金もってるんですか」
「お金の問題ではありません」
「そしたら何をしますねん」
「つまりいま必要なのは乱歩の土蔵と蔵書の価値とかそれを保存することの意義とかを広く訴えていくことなんです」
「保存へ向けて世論を喚起するゆうことですか」
「その先陣に立つべきなのはどう考えたかて日本推理作家協会なんです」
「そうゆうことになりますか」
「出版社とか新聞社とか放送局とかに顔が利きますからね、あの協会が乱歩の土蔵を守ろうゆうて論陣を張ったらかなりの効果が期待できるはずなんです」
「実際はどうなんですか」
「なんの動きもおませんわね」
「なんでですねん」
「協会の立場とかなすべきこととかあるいは協会がどれだけ乱歩の恩義をこうむってるかとか、そうゆうことが協会の人にはわかってないのとちがいますか」
「えらい手厳しいやないですか」
「けど中島河太郎先生が生きてはったら僕と同じことをおっしゃるでしょうね」
「そんなもんですかね」
「しょうもないウイスキーつくって喜んどる場合やないんです実際」
「なんの話やねんそれは」
「北方を呼ばんか北方をッ」
「いったい誰に怒っとるねん」

 文中「北方」とありますのは日本推理作家協会の北方謙三理事長のことなのですが、最近の「日本推理作家協会会報」を拝見しますと現理事長は逢坂剛さんでいらっしゃるようで、もしかしたら「月光仮面は誰でしょう」を発表した時点ですでに北方さんから逢坂さんに理事長のポストがバトンタッチされていたのかもしれず、そうなると上の引用の最後から二行目は、

「逢坂を呼ばんか逢坂をッ」

 となっているのが正しい。私は間違っていたのかもしれません。謝っておきましょう。北方さん逢坂さんどうも相済みませんです。


●11月5日(月)
 何もわからないということがわかるのに二時間もかかったのか、11月1日に、名張市役所で、教育委員会のお偉方との会談で、とあなたはお思いかもしれませんが、二時間のうち半分ほどは私が名張市における乱歩記念館構想の歴史を述べ来たり述べ去ることに費やされました。昭和30年の生誕地碑建立から始めて現在に至るまで、このところこの伝言板に記してきたようなことをえんえんと説いたわけです。
 実際の話、市長が1997年の年頭記者会見で記念館構想を公表したという事実すら、教育委員会の関係者には忘れられております。そもそも乱歩記念館の構想など名張市政全般のなかでいえば鴻毛以上の重さをもつものではなく、しかも市長部局の管轄事項であって教育委員会には何の関係もない話であり、構想に関して庁舎内では何の動きも見られないのですからすでに終わった話だと見るしかないものでもあって、どーすんのどーすんの乱歩記念館はどーすんのと騒ぎ立てているはた迷惑な人間は、名張市民の税金から月々のお手当を頂戴している人間のなかでは私一人だけだと思われます。しかし乱歩のことでお手当をいただいている以上、お役所の縦割りシステムのなかではいかに横紙破りであろうとも、私はやはり乱歩のことを主体的に考えるべき立場にあると判断されます。
 ですから11月1日の会談では、いつまでも乱歩記念館なんて世迷い言ほざいてないで名張市はきちんとした乱歩全集を刊行するべきである、という私のプランも教育委員会サイドにお伝えしたのですが、これも市長のもとまで届くかどうか。まったくもってお役所ってのは難儀なところです。しかも来年4月には任期満了に伴う市長選挙が行われますから、いまは余計に難儀な時期となっております。
 ところで、乱歩記念館の話は余談に過ぎません。アメリカで同時多発テロ事件が発生した9月11日、世界貿易センタービルに二機の旅客機が突っ込む八時間ほど前に火蓋が切られた私の名張市役所ゆさぶりプロジェクトは、乱歩の蔵書目録をテーマにしたものでした。


●11月4日(日)
 ご報告です。
 
11月1日午後、名張市役所で名張市教育委員会のお偉方と会談いたしました結果、何もわからないということがよくわかりました。会談の眼目は名張市長から10月にもたらされると聞いていた指示の件だったのですが、指示なんてものはいっさいないとのことでした。私は「乱歩記念館の話どないなってまんねん、ゆうて市長に訊いてみたらどないでんねん」と質してみたのですが、どうもそんなことができる雰囲気ではないみたいです。
 ついでですから教育委員会とは畑違いのことながら、乱歩記念館の構想が盛り込まれているという伊賀地方拠点都市地域整備計画についても訊いてみたのですが、この計画もまったく外には出ていないらしいとのこと。外に出るとは要するに、計画を進めるためには計画の担当課から他の部署にいろいろと連絡や指示が出されなければならぬのですが、それがまったく外に出ていないという意味です。
 だいたいが現在ただいま、市町村合併問題で名張と上野が角つきあわせている最中なわけですから、伊賀地域の一体的発展とやらを目指す伊賀地方拠点都市地域整備計画なんて進めようがないのではないかとも思われます。名張市の職員諸君も結構大変なんでしょうな。お察しいたします、と申しあげておきましょう。
 さて、名張市の乱歩記念館構想はいったいどうなってしまったのかといいますと、結局のところいまだによくわからないとしかいいようがありません。
 もっとも私は、もともと名張に乱歩記念館など建てるべきではないと思っておりますから、そんな構想などどうでもいいといえばどうでもよろしく、しかし市長が記者会見で発表してしまったのだから知らん顔もできまいと思って、及ばずながら豊島区その他の関連情報を収集し、市長部局に逐一報告することをつづけてきたのですが、それもこれまでといたします。暖簾に腕押し。糠に釘。いくらなんでももういいでしょう。
 というのが本日のご報告です。


●11月3日(土)
 江戸川乱歩生誕地碑建立記念日を迎えました。
 きのうの朝「人外境だより」に書き込みましたごとく、またホームページ作成ソフトの機嫌が悪くなってホームページを更新できぬ仕儀に立ち至りました。
 以下はきのう記した分です。

*     *     *

 乱歩の礼状はもう一通存在します。
 生誕碑除幕式のあと、名張市内の関係者に送ったものです。
 やはり葉書大の厚紙に印刷され、内容は下記のとおり。

謹啓 このたび名張市新町桝田医院庭内に小生の生誕碑建設に際しましては 御賛同 御寄附を賜わりました由 発起人の方々から承り 深く感銘いたしております 又 去る十一月三日同碑除幕式には 多数の方々が御参列下さいましたことを有難く存じております ここに厚く御礼申しあげます
小生名張市に生れながら 久しく御無沙汰に打ち過ぎておりましたところ このたび計らずも有志の方々により 立派な生誕碑が建てられましたことは 一代の光栄と存じております 今後とも貴地出身者の一人として御懇情を賜わりたいと存じます

敬具 

   昭和三十年十一月  日

東京都豊島区池袋三ノ一六二六    
江戸川乱歩  

 昭和30年11月から四十六年が経過した平成13年11月、乱歩に対する名張市の「御懇情」はいったいどうなっておるのかということを確認いたすべく、私は昨日午後、名張市役所で約二時間、名張市教育委員会のお偉方と会談をいたしました。メンバーは教育委員長、教育長、教育次長という三本柱に、図書館長と私。結論としては、へーえ、市長ってそれほど怖いものなの、ってことになるのですが、くわしいことはまたあした。

*     *     *

 その「あした」になってしまいましたから先をつづけたいところなのですが、うまくアップロードできるかどうかとても不安な私です。とりあえずこれだけでアップロードしてみます。


●11月1日(木)
 愚かしいことばかりやってるあいだにもう11月です。

 あさって3日は、いうならば江戸川乱歩生誕地碑建立記念日。
 四十六年前、昭和30年の11月3日に乱歩生誕地碑の除幕式が行われたわけです。
 そんなこんなで、乱歩が除幕式のあと関係者に送った礼状をご紹介しておきます。
 葉書大の厚紙に印刷され、封筒に入れて郵送するという、結婚式の招待状と同様の様式による礼状です。

謹啓 三重県名張市の有志により 同市新町桝田医院庭内に建設せられました小生生誕碑の除幕式に際し 御鄭重なる祝電を賜わり 式場にて主催者よりこれを披露いたし 大いに面目を施しました 御厚志かたじけなく厚く御礼申しあげます

敬具 

尚、右生誕碑の写真をここに掲げたいと存じましたが 日時を要しますので これは一カ月余り後の年賀状に印刷して お目にかけたいと考えております

   昭和三十年十一月  日

江戸川乱歩  

 以来四十六年の日月が経過し、名張の地で私はなぜかこんなことをやっております。
 そしてきょう、私は名張市役所から無事に帰ってこられるのでしょうか。