2001年12

●12月31日(月)
 
『後方見聞録』の話もいいのですが、よく考えてみたらきょうは大晦日。形だけでも今年の回顧を試みたいと思います。
 西暦2001年、乱歩をめぐる話題はさまざまに喧伝されましたが、なかでトップに輝くべきは、なんといっても乱歩邸が立教大学に譲渡されることになったという一事でしょう。豊島区が乱歩記念館の断念を公表したのは今年3月の定例区議会でのことでしたが、昨年の大晦日には豊島区が降りたらしいという話がすでに伝わってきていましたから、その一年後にこうした回顧ができるのはなんだか夢のような話だという気がします。
 つづいては『貼雑年譜』完全復刻版の出版をあげておきましょう。さらには戦後まもないころに書かれた手紙の写しと「二銭銅貨」の草稿が相前後して発見されたというニュースも、やはり耳目を引くものでした。
 以上がベストスリーです。ほんとはベストテンを選出しようかと思ったのですが、めんどくさくなってきました。あとはみなさんそれぞれにお考えください。
 それではみなさん。一年間のご愛顧ありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。元旦にもいそいそとご挨拶を申しあげる予定ですが、盆も正月もあるものか、といいますか、年のはじめのためしとて、といいますか、とにかくいきなり罵倒モード全開で西暦2002年の幕を開ける予定です。
 どうぞよいお年をお迎えください。


●12月30日(日)
 師走もいよいよ30日。となるときょうは横光利一の命日です。享年四十九。乱歩より四年遅く生まれ、十八年早く死んだ計算になります。
 横光利一は福島県の生まれですが、母親が三重県阿山郡東柘植村(現在の伊賀町)の出身でしたから、小学生時代の一時期を伊賀町で、旧制中学生時代を阿山郡上野町(現在の上野市)で過ごしています。
 ですから上野市では、近世の松尾芭蕉、近代の横光利一、この二人が郷土ゆかりの文学者として市民の尊崇をおおいに集めています。というか、何かというと行政や各種団体の自己PRに引っ張り出されています。むろんたいした自己PRにはなっていません。ろくに芭蕉や横光を読んだこともない連中が芭蕉だ横光だと騒いでみたところで、蠅が一匹飛んだほどの効果もありません。名張市における乱歩と同じです。
 考えてみれば私などこれでも亡父の代まで上野市の住民でしたから、亡父が名張市に移住さえしなければいまごろは上野市立図書館の嘱託を拝命して『芭蕉文献データブック』とか『横光利一執筆年譜』なんてのを編纂する身であったのかもしれません。名張市民でよかったよかった、という気がいたします。
 ホームページ「三島由紀夫倶楽部」の姉妹ページ(つまりどちらのページも同じ方によって開設されている、という意味ですが)に「横光利一倶楽部」というのがありますので、ご紹介しておきましょう。

横光利一倶楽部

 「三島由紀夫倶楽部」を閲覧したところ「日本近代文学会2001年度秋季大会 in NAGOYA」というサイトへのリンクがあって、そのなかの「東海地区の文学資料」というページには上野高校同窓会文庫の横光利一資料展示室と名張市立図書館の江戸川乱歩コーナーも紹介されておりました。ちょっとびっくりいたしました。ついでにお知らせしておきます。

東海地区の文学資料

 えー、本日は加藤郁乎さんの『後方見聞録』(学研M文庫)を話題にしようと思っていたのですが、どうも気後れがしてしまい、おや、きょうは横光の命日か、と思い当たったのを幸い横道にそれてしまいました。横光で横道、という寸法です。あすは加藤で行くや? 年末だというのに相変わらずくだらなくてすいませんね。


●12月29日(土)
 私の肝臓はたぶんぼろぼろなのですが、ときのうの掲示板のつづきを綴ります。むろん自覚症状はありません。肝臓をやられて背中が痛むなどというのは末期的症状ですから、私もまだそこまでは行っていないということです。
 先日の東京大宴会でも、なぜか健康診断の話題が出ました。堅気のサラリーマンならともかく、いくら放埒無頼であってもいいような職業の人たちまでがちゃんと健康診断を受けていらっしゃる由でしたので、私はおおきに驚きました。なかには、
 「ぼくは脂肪肝気味なのさ」
 とじつに嬉しげにまた自慢げにのたまう人もいらっしゃって、私は世界観が変わるほどの衝撃を受けました。
 私の場合、健康診断なんて受けたことがありません。たとえば名張市立図書館の嘱託を拝命したときも、市職員対象の健康診断を受けなさいという通知と受診票が廻ってきたのですが、すぐに握りつぶしてごみ箱に捨てました。それを見ていた図書館職員から、
 「受診するまでしつこく追跡されて、最後には受けなあかんことになりますよ」
 と脅されたのですが、そんなことはありませんでした。それはそうでしょう。私はオサマ・ビンラディン氏ではないんですから、しつこく追跡されねばならぬいわれはありません。
 だいたいが私はみずからを破滅派と規定しております。私の人生はすでにしておおよそ破滅しており、しかもその破滅は日一日と最終的な局面に近づいていて、肉体的にも精神的にも経済的にも社会的にも家庭的にも、日々これ破滅とでも呼ぶしかない明け暮れ。それらの破滅度を数値化して五角形のグラフに落とすと、きれいな星形が浮かびあがるはずです(この話題は東京大宴会でS・Sさんの健康診断話を聞いた人間しか面白がれないことになっております)。
 その破滅派がですよあなた、そこらの病院のリノリウムかなんかの廊下をぺったらぺったら安物のスリッパ履いて歩いてからに、ちょっと顔見知りを見かけたら、
 「寒なりましたなあ。へ。お風邪でっか。そら気ィつけてもらわんと。へえ。わたいきょうはちょっと健康診断に寄せてもろてまんね。ははは。ほなお大事に。ごめんやっしゃ」
 とかなんとかいいながら検尿のコップもってうろうろできるとお思いですか。できる道理がありません。
 ですから私は、自分の肝臓の状態が実際にはどんなもんだかよくは知らないのですが、とにかく健康診断などという益なき所業とは無縁なまま、天から授かった余命十年を静かにまっとうしたいと念じている次第です。
 以上、掲示板でお題を頂戴いたしましたので、「私と肝臓」あるいは「私と健康診断」をテーマにご機嫌をうかがいました。ちなみに申しておきますと、日ごろからこんなことをほざいている人間にかぎって、ちょっと病気になると身も世もなく狼狽し恥も外聞もなく大騒ぎするものだそうです。健康にはくれぐれもご注意ください。


●12月28日(金)
 名張市民のみなさん。
 東京出張のまとめに入りたいと思います。
 出張の第一の目的は『江戸川乱歩著書目録』編纂のため乱歩邸の蔵書を調べさせていただくことにあったのですが、立教大学への乱歩邸譲渡が発表された直後だっただけに、平井隆太郎先生から譲渡にまつわるお話をうかがったり、乱歩に関心を寄せていらっしゃる方々とお会いしてお話をお聞きしたり、著書目録以外のことでも得るところの多い出張となりました。
 そうした知見に基づいて判断するならば、いまこの時期に(というのは、名張市に乱歩記念館を建設するなどという世迷い言をほざくことができなくなったこの時期に、ということですが)名張市は乱歩のことをもう一度よく考えてみるべきである、という結論に至らざるを得ません。これがまとめです。
 具体的には、名張市立図書館の乱歩コーナーは閉鎖するべきではないのか、ですとか、名張市は乱歩に関して税金をつかうことをやめるべきではないのか、ですとか、いやいや税金をつかうのはおおいに結構なのだがそれより先にまず頭をつかわねば、頭をつかえ頭を、ですとか、私個人もあれこれ思案している最中ではあり、そのあたりのことはまた年明けにあらためて記すことになると思いますが、とにかくみなさんの税金がからむ問題ですから悪いようにはいたしません、というお約束などとてもできないのが情けない。
 それでは名張市民のみなさん。みなさんの名張市立図書館はきょう28日から1月4日まで休館となります。よいお年をお迎えください。


●12月27日(木)
 このところ生活がいささか不規則で、きのうなどお昼近くにようよう起床した次第。伝言板もお休みしてしまいました。
 きょうは暮れの27日。といえば『虚無への供物』で推理合戦が始まった日なのですが、たとえ身近にそんなものがあったとしても、私にはのんびり参加している暇はありません。いや、あの四人が喫茶店に集まったのは夕方のことでしたから、それならなんとか駈けつけることもできるか。
 さて、乱歩邸にあった『くろがね叢書』の件。せめて『探偵小説四十年』をひもといてくろがね会のことを確認したいと思っているのですが、ままなりませんので先送りといたします。
 平井隆太郎先生からは12月4日、『くろがね叢書』にからんで戦争中のことをいろいろお聞きしました。先生の海軍体験などもうかがったのですが、そんなプライベートなことはいちいちご報告申しあげません。
 乱歩のことでいえば、乱歩邸の防空壕は庭の築山のあたりに掘られていた、ということを教えていただきました。それ以外には、とりたててご報告申しあげるべきことはなかったように思います。というか、あったとしてもにわかには思い出せません。
 といった次第で、12月4日夕刻に乱歩邸を辞去し、立ち寄り先で随時アルコールを補給しながら、私は名張に帰着しました。


●12月25日(火)
 BADTRANS. B に感染したと見られるウイルスメールがまだ届きます。感染した方は下記のページで自動駆除ツールをダウンロードしてください。

トレンドマイクロ

 あ。
 と驚くこともありませんが、もう12月も25日。
 となるときょうは蕪村忌か。
 まこと師走も下旬となれば、

芭蕉去てそのゝちいまだ年くれず

 との感がいよいよ強くなります。
 これは蕪村句集下巻掉尾を飾る句ですが、「年くれず」という見慣れない表現には、芭蕉を敬愛しその伝統を受け継ごうとしながらも、世俗に追われて今年もまた不本意な一年を送らざるを得なかった、こんなことではとても清澄な新年を迎えることなどできない、ああ、という蕪村の自省がこめられています。
 ああ。
 私もまた「年くれず」だ。
 と感慨に耽りたいところなのですが、そんないとまはありません。
 きょうあたりまで多少忙しくしておりますので、愛想ないことですがこれにて失礼いたします。
 ではまたあした。


●12月24日(月)
 きょうも短めで済ませます。
 昭和19年に発行されたくろがね叢書二冊、廊下に這いつくばってデータを採ろうとしているところへ平井隆太郎先生が出てきてくださいました。
 「その書棚には父の蔵書はありませんよ」
 「いえ先生、こんなものが」
 とくろがね叢書をお見せしますと、この二冊はかつて平井先生がこの書棚に整理されたものだ、とのこと。
 「たしかもう一冊あったと思いますよ。いまどこにあるんだか、ちょっとわかりませんけどね」
 そんなことおっしゃらずにその三冊目もいますぐ耳を揃えてここへ出してください、と厚かましくお願いすることなどとてもできない小心な私はとりあえず先生のご了解をいただいてその二冊を応接間に持って入り、書誌データを控えながら平井先生から戦争中のお話をうかがいました。


●12月23日(日)
 『中国迷宮殺人事件』があった書棚とは別の、しかしやはり廊下に置かれた書棚に何げなく立てられていたのが、以前にもお知らせしましたが昭和19年発行の兵士向けアンソロジーです。海軍省外郭団体くろがね会(守るも攻めるもくろがねの、のくろがねでしょう)の発行、海軍恤兵部(恤兵は、じゅっぺい、とお読みください)の監修による「くろがね叢書」というシリーズ。第十七輯(昭和19年4月30日発行)に「二銭銅貨」と「黒手組」、第二十輯(昭和19年7月31日発行)に「灰神楽」が収録されていました。
 本日はあまり時間がありません。わずかこれだけで失礼いたします。


●12月22日(土)
 さすが年末。きのうあたりから何かと忙しく、結構じたばたしております。土曜も日曜も振替休日もクリスマスもありません。
 クリスマスといえば、立教大学がそもそもは米国人宣教師の私塾として開設された学校であるという事実を私は知りませんでした。12月4日、乱歩邸へ向かう途中で前を通りかかると、何か催しでもあるのか立教大学は学生でごった返していて、私は胸のなかで、
 「よかったね君たち。立教大学といえば世間では長嶋の母校というだけの学校だったんだけど、これからは長嶋の立教であると同時に乱歩の立教ということにもなるんだから、これで君たちも肩身の狭い思いをしなくても済むわけだ。結構結構」
 と呟きながら乱歩邸にたどりつきました。乱歩邸の玄関から土蔵へ至る廊下にも書棚があることはお伝えしましたが、この書棚にもあれれと思うような本を見ることができました。たとえば昭和56年に出たヴァン・グーリックの『中国迷宮殺人事件』(講談社文庫)。初めて眼にする本でしたが、昭和26年刊行の『迷路の殺人』を改題して文庫化したもので、乱歩の「序」も「解説」として収録されています。
 階段下の調査をひとまず終えて土蔵をあとにしたとき、私は廊下の書棚にこの本を発見しましたので、あわてて廊下に四つん這いになり、開いたバインダーに発行日その他のデータを控えました。胸のなかで、
 「やれやれ。この『中国迷宮殺人事件』みたいに見落としている本は、まだまだ少なからずあるんだろうな。まあ仕方がない。とりあえず乱歩の著書目録を本の形にしておいて、あとは立教大学に下駄を預けることにしようか」
 と呟きながら。


●12月21日(金)
 「二銭銅貨」の草稿は、かつてネット上に存在していた読売新聞の記事によれば、

 草稿は、乱歩邸の土蔵書庫内を調査していた浜田雄介・駿河台大教授(日本近代文学)が衣装箱の中から見つけた。「江戸川藍峯(らんぽう)」の署名があり、電報申し込み用紙の裏に印刷された200字詰め原稿用紙で計14枚。1枚目の欄外に、後の自筆と見られる「大正9年頃」のメモがあった。「藍峯」は乱歩が大正12年(1923)、雑誌「新青年」に「二銭銅貨」を発表してデビューする前の筆名。

 というしろものです。
 平井隆太郎先生によれば、乱歩が間違えて整理したのだろうとのことでした。何かの手違いで衣装箱に入れてしまったのだろう、ということです。それ以上のことは誰にも何もわかりません。
 調査は立教大学への譲渡に伴うもので、たぶんもう終了しているはずです。草稿を発見した浜田雄介さんからお聞きしたところによれば、調査対象には蔵書のみならず机だの何だのといった備品まで含まれていたそうですから、作業はきわめてあわただしいもので(それは私にもよく実感されます。火事場泥棒みたいなあわただしさだと思います)、草稿をじっくり眺めて決定稿と仔細に比較するといった余裕はとてもなかったそうです。
 テレビニュースで垣間見ることを得た草稿の冒頭には「指輪」という言葉があったのですが、作品はひとつの指輪を入手したゆくたてを語る筋立てになっているとのことでした。ここはひとつ、「新青年」に掲載された「二銭銅貨」の初出と今回発見された草稿、さらには巻紙に記されているという梗概をどこかの雑誌で一挙に公開してほしいところなのですが、乱歩作品で大儲けした出版社は目先の損得にばかり眼の色を変えていないで(以前にもこんなこと書きましたけど)、たまにはそういう気の利いたことをしてみたらどうなの。え。どうなのどうなの。


●12月20日(木)
 「小田原建築探偵」というページに、乱歩邸の土蔵の写真を見ることができます。

乱歩の土蔵

 土蔵につづく赤い屋根は、玄関から土蔵に至る廊下の屋根です。この廊下にも書棚が据えられていますが、並んでいるのは近年の本で、乱歩生前の蔵書ではありません。
 12月4日、私はふたたびこの廊下を歩いて土蔵内に足を踏み入れました。階段下に保存されている蔵書の確認を、2日にひきつづいて続行しました。バインダーに綴じた著書目録の原稿をそこらの段ボール箱のうえに開いて、未確認だった著作を次々に見てゆきました。
 ところで、先月話題になった「二銭銅貨」の草稿も、立教大学への譲渡に伴う土蔵の調査で見つかったものです。けさ届いていたメールで、その「二銭銅貨」草稿のことをお尋ねいただいた方がありました。新聞社系の適当なページをご紹介しようと思って「RAMPO Up-To-Date」を調べたところ、読売も日刊県民福井も当該記事のページが消失していました。残っていたのは河北新報の下記の記事。

「二銭銅貨」の草稿を発見

 「二銭銅貨」草稿のことは、12月4日に平井隆太郎先生からちょっとだけお話をうかがいました。記録しておいたほうがいいかな、と思い当たりましたので、明朝は「二銭銅貨」草稿について綴ることにいたします。今夜も忘年会ではあるのですが。


●12月19日(水)
 12月3日。月曜。はれ。二日酔い。
 朝から光文社の資料室に潜り込ませていただきました。乱歩の著作を調査しました。
 お昼は光文社編集部の方にご馳走になりました。お茶もご馳走になりました。そうそう。乱歩の蔵書目録にはどこの出版社も食指を動かしていない、とお聞きしたのはこのお茶の席でのことでした。
 午後、光文社からミステリー文学資料館へ。乱歩の著作を調査しました。
 閉館の午後5時までねばって、そのあと近所の串焼き屋さんで総勢三人の大宴会。そうそう。
ある出版社が乱歩の蔵書目録を CD-ROM 化する企画を進めている、とお聞きしたのはこのお酒の席でのことでした。これは乱歩にも探偵小説にもまったく縁のない出版社です。そういえば、土蔵で見つかった乱歩の手紙が本になるらしいとお聞きしたのも、やはりこの席でのことでした。これは乱歩にも探偵小説にもおおいに関係のある出版社です。
 12月4日。火曜。乱歩邸を再訪し、もう一度土蔵を調べさせていただきました。
 つづく。


●12月18日(火)
 池袋大宴会の話をもっとくわしく、とメールでおねだりしてくださる方があったのですが、こればかりはご出席各位のプライバシーに関わることですから、そんなことの見分けすらつかぬどっかの莫迦みたいなふるまいに及ぶわけにはまいりません。
 しかしあまり愛想がないのもあれですからもう少しつづけることにして、大宴会のテーマは今年9月に出た末永昭二さんの快著『貸本小説』(アスペクト、本体一八〇〇円)が初版完売になったのを祝福することでした。主賓の末永さんにはテーブル中央にどっかと陣取っていただき、前にずらりとコップを並べて、ピッチャーのビールを注ぎ分ける役目をお願いいたしました。末永さんはビールを注ぐのがすこぶるお上手でいらっしゃいました。それから乾杯。あとはてんやわんや。まあそういった次第です。
 名張市民のみなさん。
 ここでみなさんにお知らせしておきますと、末永さんの『貸本小説』にはちゃんと名張も出てきます。野村敏雄さんをとりあげた「奇想は山からやって来る」で、こんな具合に。

 異色の忍者小説集『異聞忍者列伝』(春陽文庫・昭和五〇年)所収の短編「五右衛門早春賦」や『賭博放浪記』(双葉社・昭和四八年)などに見られるように、野村の作品には山から異能のもの(マレビト)が降りてくる、あるいは山にこもって修業するというモチーフが多く見られる。もちろん『快男児街を行く』も同系列の作品ということができる。
 例えば、「五右衛門早春賦」では、若き日の石川五右衛門が、日本に漂着して三重県名張の山中にこもっている西洋人、林寛(ルビ:りんかん)に忍術の手ほどきを受けるという作品。

 以下まことにくだらない秘術伝授のゆくたてが紹介されるわけですが、それは省きましょう。とにかくここにこうしてわざわざご丁寧に「三重県名張」とお書きいただけましたのは、私が以前から八万五千名張市民を代表して末永さんのご高誼を忝なくし、そのせいで名張という土地が多少なりとも印象深く末永さんの頭に刻み込まれていたからこそだと思われます。これまでに積み重ねてきた東京大宴会の成果です。
 しかし名張市民のみなさん。こうして考えてみますと、われらが名張はたまに小説の舞台になったときには相も変わらぬ山中他界。何が起きても誰に会っても不思議ではない土地として都人士に了解されていると見るべきです。『諸国百物語』の「伊賀の国名張にて狸老母にばけし事」と『異聞忍者列伝』の「五右衛門早春賦」のあいだには、さしたる径庭は存在しないといっていいでしょう。
 となりますとわれわれ名張市民は、都会に行けば山から降りてきたマレビトだと認識されるわけです。なるほど。私が東京へ行くたびにあれほどの大歓迎を受けるのは、いわゆる異人歓待だったのか。
 なんだかとりとめがなくなってしまいました。本日はこのへんで。
 と思いましたが名張市民のみなさん。昨日購入した喜国雅彦さんの新刊『本棚探偵の冒険』(双葉社、本体二五〇〇円)の p.254 にも名張の二文字が出てきます。ついでにお知らせする次第。
 ほんとにとりとめがありません。


●12月17日(月)
 名張市民のみなさん。
 名張市で発行されている地方紙「伊和新聞」の最新号に「名張“乱歩館”の夢遠のく」という記事が掲載されています。立教大学への乱歩邸譲渡が本決まりになり、名張市の「乱歩館」構想はほぼ絶望的になったという記事です。同紙のT記者から過日、名張市在住のエスペランチストを取材したら乱歩の名前が出てきたので、と乱歩とエスペラント語の関係についてお尋ねをいただいた際、余談ながらと立教大への譲渡を報じる毎日その他の新聞記事を提供して、
 「この件を派手にとりあげたってください。おまえらあほかゆうて書いたってください」
 とお願いしておきましたところ、最新号トップで扱っていただいたという次第。乱歩邸の応接間は昭和31年に来日した建築家エラリー・クイーン氏が設計したなどという悶絶ものの事実誤認も散見されるのですが、詳細は本日アップロードした画像でご覧いただきたいと思います。
 この記事と同じ面に掲載されたコラム「記者の目」には、「くさい問題に“ふた”/また!質問封じる市議会」という記事を見ることができます。日刊紙地方版にも掲載されましたから市民のみなさんも先刻ご承知のことでしょうが、名張市議会一般質問でまたしても見るに堪えない発言妨害が行われたという話題です。名張市議会の先生たちにもほんとに困ったものです。じつに度しがたい。きのうの網野善彦先生の言を借りますならば「巨悪」、名張市の巨悪を擁護するために、市議会の先生たちは自殺行為にも等しいことを平然とやってのけていらっしゃるわけです。
 個人名はイニシャルにして引用します。

 ○…10日の名張市議会一般質問で、N議員(無所属)が「議員を侮辱する市職員の虚偽の証言について」質問しかけたとき、Y議長が「事前通告も緊急性もない」として発言を封じ込んだ。9月議会でも斎場問題で登壇したT議員(無所属)が質問半ばで議長から「緊急動議」をタテに打ち切られたのと同質の質疑拒否の悪例を重ねたといえる。
 ○…「必要な論議ができない議会の形がい化は民主主義の危機」と怒りをぶちまけるN議員。議員の中には「無通告でも、内容の重要性によっては発言を許可した前例はいくらでもある」の異議も。多数派の横暴だという批判もつきまとう。「市議が職員に侮辱された」ことへの真相追及がN議員の意図。しかも、民事公判廷での“偽証”の疑いがあるというのだから、事は重大である。同僚議員が名誉を棄損されたという問題提起に、なぜ多数派がフタをしなければならないのだろうか。
 ○…問題の重要性が本当に一般質問に値しないのかどうか。今後の問題進展で、その真相が明らかになれば、発言封じに同調した多数派議員は、その責を問われる事態になった時、どうするのだろうか。くさい話にはフタをし、実況 TV の音声を消し、市民の耳目から遠ざけてしまう議会のゆがんだ体質を、多くの市民が厳しく見守っている。

 名張市民のみなさん。
 9月定例会といい12月定例会といい、名張市議会で演じられた発言妨害劇の根幹にあるのはいうまでもなく斎場問題です。斎場を建設するという名目で滝之原の山の中の土地をつつじが丘の宅地より高い地価で名張市が購入する非道を市議会が無批判に認めてしまった、議案をしゃんしゃん可決してしまった、その非を糊塗隠蔽するために市議会の先生たちは躍起になっていらっしゃるという寸法です。
 上記のコラムには「真相」が明らかになったら先生たちはどうするのだろうか、といった意味のことが記されていますが、どうするもこうするもありません。先生たちだって一蓮托生です。無教養な先生たちは一蓮托生という言葉の意味さえご存じないかもしれませんから、わかりやすい言葉で記しておきましょう。親ガメこけたら皆こけた、ってことになるわけです。それにしてもナンセンストリオとは譬えが古い。かといってハードボイルドだどでは意味が通じませんし。びっくりしたなーもう。これもいかん。


●12月16日(日)
 なんだかぼんやりしております。時節柄きのうも大阪で大宴会があったのですが、帰宅してから仕上げに飲んだお酒の度が過ぎたようです。あー頭が痛い。大阪へ向かう車中で読んだ網野善彦さんと宮田登さんの対談集『歴史の中で語られてこなかったこと』(洋泉社)から、網野先生がきょうびの役人は宴会もよう開かんのか、この愚か者どもめがと怒っていらっしゃる箇所を引いて責めを塞ぎます。

私の経験をお話ししますと、ある町の遺跡発掘の指導委員をここ十年ぐらいやっており、毎年現地に伺っていますが、一昨年までは、調査が終わると必ず町長や教育長と一緒に食事をしました。鍋をつつきながら酒を飲むという程度のものですが、去年は、われわれが宿に入ってしまうと何の音沙汰もないんです。こちらから聞くのも変だと思っていましたら、教育長が「最近はうるさいので」と弁明をされていました。
 しかし、これぐらい馬鹿馬鹿しい話はないと思いましたね。そういう場でこそ、遺跡をきちんと保存するために率直なことも言えるわけです。公的でいろいろな人のいる場でないところで話し合えて、いろいろなやり方を模索できる場だったのですが、そういうつつましく有用な接待の場が切られて、一方では「巨悪」は依然としてそのまま裏で通用しているのではないでしょうか。もちろんこれからは、自弁でそういう場を作ればよいので、実際にそうなっていますが、このへんに大問題がありますね。

 「最近はうるさいので」などと腰抜けなことをほざくな。オンブズマンの眼が怖いのなら自腹を切れ。自腹切って酒を飲ませろ。酒だ酒だ。とにかく酒を飲ませろというのだ。実際これはどこの教育長なのか。まさか名張市ではないだろうな。くそったれが。生煮えの蒟蒻が。口惜しかったら市長にばーかと怒鳴ってみろ。
 名張市民のみなさん。そういった次第ですから、ただお酒を飲んでずぶずぶになっているだけとしか見えぬかもしれませんが、私が日本全国津々浦々で粒々辛苦して催している大宴会は、網野先生のお言葉に倣えば「つつましく有用な接待の場」であることに間違いはありません。私は八万五千名張市民を代表して、乱歩のことで日ごろお世話になっているみなさんを、網野先生がおっしゃる「自弁」の割り勘で、誠心誠意おもてなししているのだとご理解ください。あまり白い目で見ないでくださいね。


●12月15日(土)
 名張市民のみなさん。
 東京へはもう何度も行きましたが、何度行っても飽きることなく大宴会となります。乱歩のことで日ごろお世話になっている東京在住の方にご挨拶を申しあげるのが東京大宴会の趣旨なのですが、私は人にお会いするのがどうにも気恥ずかしいため、お会いしたらすぐ宴席に持ち込んでお酒の勢いで場を過ごすのが通例です。といったって、宴席となれば私は意地汚くお酒を飲むことにしか興味を示しませんから、実際にはご挨拶もへったくれもありません。12月2日の東京大宴会には十人あまりご出席をいただきましたが、ご挨拶もそこそこに私はめでたく酔っ払い、どうせ気まぐれ東京の、夜の池袋のぼったくりカラオケボックスで二次会をもこなしました。なーにやってんだか。
 大宴会出席者のみなさん。どうもありがとうございました。


●12月14日(金)
 名張市民のみなさん。
 斎場問題ではどうやら牧舎移転先の保安林解除が実現する見込みとなりました。
 滝之原の山の中の土地をつつじが丘の宅地より高い地価で購入するという名張市の無理が通って道理はどこへやら。
 しかしそんなこととはまったく関係なく12月2日、東京の日は瞬く間に暮れてしまいました。
 生まれて初めて乱歩邸の土蔵に入れていただき、一瞥ながらその内容を概観して、私にはようやく『江戸川乱歩著書目録』の限界が見えてきました。
 乱歩の著書目録作成にあたってつねに頭に浮かんでくるのは、
 「乱歩邸の土蔵を調べたらすべて一発で判明するのではないか」
 という一事です。一冊の本をめぐって処々方々に照会問い合わせ恫喝泣き落としその他もろもろを重ねなくたって、乱歩の著作はすべてあの土蔵に眠っているのではないか、という疑念です。
 で、実際に土蔵内を拝見し階段下の本をこそこそと確認させていただいた結果、
 「しかし土蔵を虱潰しに調べるのは不可能である」
 という、当然といえば当然の結論に私は達しました。虱潰しとなると一朝一夕にはまいらず、名張から乱歩邸まで足繁く通うなんてとても不可能ですし、ご遺族にそこまでのご無理をお願いできるかどうかも問題でしょう。
 それに、土蔵を調べたってわからないものはわからないということも判明しました。たとえば春陽文庫の奥付の謎は(つまり春陽文庫の奥付には謎が多いのですが)、乱歩の蔵書をいくら調べても解明しないであろうことが強く実感されました。
 ですからまあ、またあらためて土蔵の蔵書を調べさせていただこうとは思っているのですが、その調査にもおのずから限界というものがあり、その限界が私には見えてきた次第です。
 といったあたりが12月2日の結論。
 むろん得るところもきわめて多く、きのう記しました岩田準一の『男色文献書志』のほかにも、「鏡地獄」をリライトした「かがみ地獄」が入っている子供向けの怪談アンソロジーが出てきたり、「紅はこべ」の翻訳にはちゃんと月報が残っていたり、かもめ書房版『屋根裏の散歩者』もありましたからこれは「小林文庫」にお知らせして「熊谷市郎氏関係出版物リスト」を増補していただくべく発行者の名義や住所まで控えたりと、なんやかんやでいろいろ面白かったです、とお知らせしておきます。
 さて東京の日はとっぷりと暮れ、毎度おなじみ大宴会の時間となりました。


●12月13日(木)
 階段の下にも本棚がありました。講談社、光文社、ポプラ社あたりの少年ものを中心に、新潮文庫や春陽文庫なども並んでいます。乱歩没後の刊行分もありましたが、ポプラ社ならポプラ社の本が全巻揃っているというわけではなく、結構雑然とした印象。床にも本が積まれ、本棚の隅にはアメリカとドイツで発行された大判のアンソロジーが妙に場違いな感じで置かれてありました。
 見たこともない黒っぽい本を見つけて何だろうと手に取ると、昭和31年に出た岩田準一の『男色文献書志』です。限定三百五十部の非売品がじつに無造作に保管されていました。私は昭和48年に出た復刻版しか知らず、復刻版には乱歩の序文が収録されていますから初刊本も同様だろうと思い込んでいたのですが、この旧い版には乱歩の序文が収められていません。
 となるとこの『男色文献書志』、乱歩とは直接的には何の関係もない本だということになります。それなら『江戸川乱歩著書目録』に記載する必要はないのですが、乱歩はこの本を自分の「編纂書」だと録しています。となるとやはり『江戸川乱歩著書目録』に記載されるべきなのですが、しかし『男色文献書志』には「編著 岩田準一」とは記されているものの乱歩の名前などどこにも見えません。それなら『男色文献書志』は『江戸川乱歩著書目録』に載せるべきではないのかな。
 みたいな思案にふけっている時間はとてもありません。なんだか火事場泥棒みたいなあわただしさで、私はたったか作業を進めました。すでに確認できていた本には見向きもせず、未確認の本や未見の本を次々に見ていったのですが、それでも時間のかかることかかること。結局その階段下にあった本をすべて調べることさえできぬうちに、はや12月2日の夕刻となってしまいました。冷え冷えとした土蔵のなかで私は、ああ、二、三日泊まり込みで調べられたらな、と思わざるを得ませんでした。


●12月12日(水)
 土蔵というのは、こんにちの一般的な感覚でいえば押入とでもなるでしょうか。要するに普段は用のないあれこれをしまっておく場所ですから、普通はそんなところに他人が入れるものではありません。あなたの家になんだか柄の悪い男がいきなり押しかけてきて、耳障りな関西弁で、
 「えらいすんまへん。押入のなかちょっと調べさしてもらえまっしゃろか」
 などと切り出してもあなたは決して首を縦には振らぬでしょう。しかし私はまさにその柄の悪い男として、なんとか平井先生に首を縦に振っていただいた次第です。平井先生にはあらためてお礼を申しあげます。
 なにしろ伝説の土蔵です。本来であれば今年5月に放映されたテレビ番組「週刊マニアタック」の撮影で土蔵入りを果たされた「宮澤の探偵小説頁」の宮澤さんさながら、しばらくはただ茫然と夢見心地になって土蔵の内部を眺め回し、
 「ふわぁー。ふわぁー」
 と吐息ともなんともつかぬものを洩らしてしかるべきところなのですが、そんないとまはありません。熟練したこそ泥さながら、四方八方に視線を配ってどこに何があるのかを素早く頭に入れ、どこから作業にかかればより効率的なのかを瞬時に判断し、持参した著書目録の原稿を開き、ペンのキャップを外し、腕まくりし、身顫いし、眼を血走らせ、うっ、と思わず鼻血を出しそうになりながら、私は調査にかかりました。
 乱歩の土蔵はすでにあちこちの雑誌書籍さらにはテレビ番組などで紹介されていますから、その意味では私にも親しいものだったのですが、さらにその意味でいうとあれ、こんなに狭かったのかなという感を抱かぬでもありませんでした。つまり土蔵の内部を撮影するにはどうしたって焦点距離の短いレンズによらなければなりませんから、写真になると肉眼よりも遠近感が強調されてしまうせいだと思います。いま私は平凡社コロナブックス『江戸川乱歩』を開いて土蔵の写真を見ながらこの伝言をしたためているのですが、たしかに実際の土蔵はここで見るよりも狭かったような印象が残っています。
 で、この本の12ページから13ページにまたがる見開きには、階段の写真が大きく載せられています。土蔵に入ると正面にこの階段があって、それを昇ると土蔵の二階。この二階には和本のコレクションや乱歩の著書が乱歩自身の手で整然と収蔵されているのですが、私はなんだかほんとにこそ泥みたい、まずはこそこそと階段の裏に回りました。つまり階段下のスペースです。そこにどさどさ並べられた乱歩の著作を調べることから、私は作業を開始しました。


●12月11日(火)
 名張市民のみなさん。平井隆太郎先生からは名張市の乱歩記念館構想についてもお話をうかがうことができました。思いがけないことでした。どうしてこんな話題が出てきたのか、話の流れをよくは思い出せぬのですが、名張市長が一度だけ乱歩記念館のことで訪ねてきてくれたことがある、とのお話でした。
 昔のことですから平井先生は名張市長の名前までご記憶ではありませんでしたが、お話を総合するとこれは北田藤太郎市長、つまり初代名張市長であったようです。今年7月に放映された「真珠の小箱」というテレビ番組をご覧になった方は、なかで乱歩生誕地碑除幕記念大宴会のフィルムが流されていたことをご記憶でしょう。あの宴席で、やや酔っ払いながらひとさし踊りを披露していた三つ揃いの背広姿の男性が、初代名張市長を務めた北田藤太郎です。
 となると昭和44年、名張市に乱歩記念館建設の会(くわしくは10月の伝言録をご覧ください)が結成され、川崎秀二代議士あたりも巻き込んでちょっとした記念館建設運動が盛りあがった当時、北田市長が上京してご遺族のもとを訪れ、名張市に乱歩記念館を、みたいな話を切り出したのだと推測されます。
 ただしこのとき、遺族としては乱歩記念館の必要性を感じなかった、というのが平井先生の仰せでした。さまざまな事情を勘案しますに、それは当然のことだったろうと私には思われます。ともあれこの時点で名張市の申し出は丁重に謝絶され、乱歩記念館構想にはひとまずけりがつけられたことになります。といった事実を、私は初めて知ることができました。
 それなら1997年になって唐突に出てきた名張市の乱歩記念館構想はいったい何であったのか、みたいな話題を蒸し返すのはやめておきましょう。あほらしいですから。名張市役所のみなさん。いつまでたってもただの思いつきしか口にできぬというのであれば、おまえらはもう乱歩のらの字も口にするな。いつもいつもおなじせりふさ。
 そんなこんなで話の種は尽きなかったのですが、いつまでも話し込んでいるわけにはまいりません。『江戸川乱歩著書目録』編纂のために、土蔵のなかの乱歩の蔵書を調べさせていただきました。


●12月10日(月)
 立教大学への土地家屋蔵書備品ぐるみの譲渡の話がまとまったあととあって、平井隆太郎先生はお膝元池袋のお話もいろいろお聞かせくださいました。
 意外だったのは現在の西池袋の住居を乱歩が終の棲家とは思っていなかったらしいという事実で、気が向いたらいつでも気軽に引っ越しできるようにということだったのか(というのは私ではなく平井先生のご推測です)、ずっと借家のままで暮らしていたそうです。
 乱歩がこの地に居を構えたのは昭和9年のことでしたが、それ以前にも大正11年3月から6月まで、乱歩は池袋に住まいしています。『貼雑年譜』によればそのときの住所は、

東京市外池袋八六六番地

 でした。池袋に「郊北化学研究所」を設立してポマードの製造販売に乗り出した知人の庄司雅行を手伝うため、その近くに引っ越したのだといいます。『貼雑年譜』によればこの「香粧品薬品類製造販売 庄司商工」は、

東京市外池袋一三六七番地

 にあったそうですが、平井先生からはこの場所には現在マルイシティ池袋が建っていると教えていただきました。下の地図のほぼ中央です。

池袋駅西口界隈

 そういえば思い出されるのは「孤島の鬼」。諸戸道雄は池袋に住んでいました。諸戸の家を訪ねる「私」はこんなふうに語っています。

 もう七月の中旬にはいっていて、変にむし暑い夜であった。当時の池袋は今のように賑やかではなく、師範学校の裏に出ると、もう人家もまばらになり、細い田舎道を歩くのに骨が折れるほど、まっ暗であったが、私は、その一方は背の高い生垣、一方は広っぱといったような淋しいところを、闇の中に僅かにほの白く浮き上がっている道路を、眼をすえて見つめながら、遠くの方にポッツリポッツリと見えている灯火をたよりに、心許無く歩いていた。まだ暮れたばかりであったが、人通りはほとんどなく、たまさかすれ違う人があったりすると、かえって何か物の怪のようで、無気味な感じがしたほどであった。

 「師範学校」というのは池袋西口にあった豊島師範学校。『貼雑年譜』には東京市外池袋八六六番地の家が、

池袋駅より豊島師範に向つて左側
写真屋の裏、駅より三分の一丁計り

 にあったと記録されています。上に引用した「孤島の鬼」の描写には、豊島師範の近くに住んでいたときの乱歩の実感が息づいているわけです。その豊島師範もいまはなく、跡地には東京芸術劇場が建ち、かつて乱歩が往来した「師範通り」も「劇場通り」と名を変えている、なんてことが下のページから知られます。

 豊島師範学校

 こんな具合に平井先生から乱歩のお話をうかがうのは、平井先生にとってはおおきにご迷惑なことかもしれないのですが、私にとっては大袈裟ではなく無上の悦びと称すべきものであり、こんなところであれなんですけど、平井先生にはあらためてお礼を申しあげたいと思います。
 それにつけても思い返されますのは、以前から申していることですが乱歩作品で大儲けした出版社はこの際平井先生の聞き書きをまとめておいても罰は当たらんだろうという一事。完成すれば乱歩研究の第一級の資料になるはずで、関係出版社は目先の損得にばかり眼の色を変えていないで一度真剣にお考えいただけぬものかしら。


●12月9日(日)
 乱歩の蔵書目録の話題です。12月2日、平井隆太郎先生にお訊きしましたところ、蔵書目録の刊行予定はまったくありませんとのことでした。そこで私は、それなら名張市立図書館から江戸川乱歩リファレンスブックの4として刊行させていただけませんかとお願いしました。先生からはご承諾をいただきましたが、くわしいことは蔵書調査を担当された新保博久さんと山前譲さんに相談してみてくれとのことでしたので、そのようにいたしますと私はお答えいたしました。
 また名張市役所の話に戻りますが、私が9月11日に市役所で敢行した自爆テロはごく単純な話でした。つまり蔵書の調査は終わったが目録を発行するめどが立っていないようだから、それならば名張市の税金で出版したらいいのではないかと名張市長に伝えたかったというただそれだけのことです。しかし私は名張市長に会うことができませんから名張市教育委員会を通じてその旨を上申しなければならず、となるとなんだかややこしい。教育委員会がへらへらちんたらするからです。
 結局は教育長の家に電話をかけるぞこらと脅しをかけてようやく11月1日、市役所教育長室で9月11日以来二度目の会談の機会を得たわけですが、その席でも蔵書目録の話題になるとまあ機会を見て市長に話してみますかみたいな瓢箪鯰めく話になってしまい、しまいにゃ図書館のリファレンスブックのシリーズで出したらどうですかみたいな話まで出てきましたので、
 「ですから私は名張市役所のみなさんにたまには頭をつかってみろと申しあげたくてこうして話をもちこんでるわけです。一度でいいから乱歩に関して何をすればいいのか自分の頭で考えてみろと。その素材として蔵書目録の話題を提供してるわけです。図書館で蔵書目録を出すのならこんなところにはやって来ません。とっとと話を進めます。莫迦かおまえらは」
 と私は申しあげました。ただし最後の「莫迦かおまえらは」はサイレントです。心の声といいますか、魂の叫びといいますか、とにかく声に出して喋った言葉ではありません。そしてこの時点で、こーりゃ百年たっても埒があかんわ、と内心悟るところがありましたので、もしも出版社から出るあてがないのなら名張市立図書館の江戸川乱歩リファレンスブック4として『江戸川乱歩蔵書目録』を刊行できないものかどうか、平井先生にお訊きしてみようと決めた次第でした。
 その結論は本日の冒頭に記したとおりです。翌3日、ある出版社の編集部の方からうかがったところでも、
 「乱歩の蔵書目録を本にするっていう話は聞いたことがありませんね。乱歩の手紙の写しが見つかったっていう新聞記事が出たときには、出版社数社からすかさず反応があったみたいですけど」
 とのことだったのですが、3日夜になって確実な情報筋から得た情報によれば、いやまだ確定した話ではありませんから風聞の域を出るものではないのですが、ある出版社から乱歩の蔵書目録が CD-ROM で発行されるかもしれないとのことです。その出版社の企画会議にのぼったとかパスしたとか、そんな程度のことだったのですが、それなら名張市立図書館は何もしなくても済むのかというとそうでもありません。つまり名張市立図書館は乱歩に関するさまざまなデータをいかにして広く公のものとするかを考えているわけですから、パソコンをつかえない人のためにも書籍の形で『江戸川乱歩蔵書目録』をつくる必要があるのではないかと愚考されるわけですが、そんなのはまだ先の話。いまはとにかく『江戸川乱歩著書目録』です。


●12月8日(土)
 平井隆太郎先生には、乱歩が原稿執筆に際していつごろまで旧仮名遣いを用いていたのかもお訊きしました。
 今年2月に出た『近代作家自筆原稿集』(東京堂出版)の話題です。この本に写真が収録された「鏡地獄」の改作原稿は、同書では風俗紊乱に配慮して戦時下に執筆されたのだろうと推測されているのですが、私には戦後のローマ字独習本用に書かれたのではないかと判断される次第です。しかしだとすると旧仮名遣いになっていることがいささか不可解、といった話題を読者はご記憶ではないかもしれませんが、詳細は3月の伝言録をご覧いただくことにして、結局のところ仔細は判明しませんでした。平井先生によればポプラ社に残っている乱歩の原稿を調べればわかるのではないかとのことでしたが、ポプラ社には乱歩作品の旧い版さえ残っていないと聞き及びますから、原稿が保存されているかどうかは疑問に思われます。ともあれこの話題は、結論が出ないままおしまいとなります。
 ところで戦時下の乱歩といえば、軍部に睨まれて新作の発表はおろか旧作の再録さえままならなかったという印象があったのですが、今回乱歩邸の蔵書のごく一部を調べさせていただいて、どうやらそうでもなかったことがわかりました。というのは、昭和19年に海軍の外郭団体が発行した前線の兵士向けのアンソロジーに、堂々と「二銭銅貨」あたりが収録されている事実が判明したからです。このアンソロジーのことは乱歩の手書き目録にも記されていませんでしたので、私にとってはちょっとした発見だったのですが、それはまたあとで綴ることにして、12月2日午後の話をつづけます。
 名張市民のみなさん。みなさんは9月11日に私が名張市役所で敢行した自爆テロのことをご記憶でしょうか。ご記憶でなければ9月10月の伝言録をお読みいただくことにして、この日の朝日新聞に掲載された乱歩邸の蔵書調査の記事を読んだ私は、名張市教育委員会に足を運んで自爆テロとも呼ぶべき談判に及んだ次第です。そしてこの自爆テロに端を発して名張市教育委員会との交戦状態に突入し、ついにはこらいつまでも生煮えの蒟蒻みたいなことぬかしとったらしまいに教育長の家に電話かけるぞこら、こらこら、みたいな暴挙に出たこともいまでは懐かしくまた気恥ずかしく思い出されます。名張市役所の関係者のみなさん。いやその節はどうも。
 私の談判というのは、乱歩の蔵書目録を名張市から出さんかね、という内容でした。新聞記事によれば「データをパソコンに入力した目録は間もなく完成するが、どのように公開するかは未定だ」とのことでしたから、私はうーん、もしかしたら蔵書目録に食指を動かす出版社がないのではないか、と思い当たり、民が駄目なら官の出番だ、乱歩の蔵書目録を名張市の税金で公刊することを考えるべきかもしれない、名張市役所のみなさんはこの問題をどうお考えでしょうか、さあどーするどーする、みたいなことを談判に出かけたのですが、といった顛末は以前にも記しましたから省きましょう。名張市役所の関係者のみなさん。いやほんとにその節は。
 で私は、平井先生に蔵書目録のことをお訊きしました。


●12月7日(金)
 いやもう朝っぱらから思いきりのけぞったのなんのって。
 石井輝男監督の「盲獣 vs 一寸法師」、きのう大阪でプレミア上映があったんだそうです。この映画のことは先日の池袋大宴会でもひとしきり話題になり、ご覧になった方からは「必見ッ」とのお墨付きもいただきましたので(なにしろ「鎌倉ハム大安売り」なんてのがまんま出てくるっていうんですから)、さっき思いついてインターネットを検索したところぴあフィルムフェスティバル in 関西のページがひっかかりまして、それによればきのうの夜に大阪で上映されましたとさ。まいりました。ちなみに同フェスティバル in 仙台では12月22日に上映されるそうです。近辺の方はお見逃しなく。
 そして東京のみなさん。東京では12月14日夜、自由が丘武蔵野館なる小屋で上映の運びだといいますから羨ましい。あの泥棒が羨ましい。詳細は下記のページでどうぞ。

石井輝男監督特集完投オールナイト

 さて名張市民のみなさん。東京大出張のご報告です。みなさんの税金から六万二千円ばかり頂戴して、二泊三日の宴会出張に行ってまいりました。
 出張の第一目的はむろん宴会ではなく、現在鋭意編纂中の、そして来年10月刊行予定の、しかし来年度の市の予算が獲れるかどうか皆目不明の、と説明を連ねれば連ねるほど情けなくなってくるところの『江戸川乱歩著書目録』のための調査です。目指すは豊島区西池袋、乱歩の蔵書が眠る乱歩邸の土蔵。
 私は乱歩邸には何度もお邪魔していますが、土蔵に入れていただいたことは一度もありませんでした。なんとか土蔵に潜り込み、いまだに確認できていない乱歩の著作を拝見して書誌データを控えさせていただきたい、と目論んで平井隆太郎先生に書状でお願いし、この日すなわち12月2日午後1時、私は乱歩邸の前に立ちました。右手にバッグ、左手に二銭銅貨煎餅、首にマフラーといういでたちで。
 まず応接間で、平井先生からいろいろお話をうかがいました。お話というのは、たとえば乱歩の身長です。以前名張市立図書館に来てくれたお子供衆から質問されて返答に窮したことがありますので、この機会に思い切って(別に思い切らねばならぬほどの話題でもないのですが)お訊きした次第ですが、乱歩は一メートル七〇以上あったそうです。平井先生がちょうど一メートル七〇で、乱歩はそれよりまだ少し高かったとのこと。当時としてはかなり大柄な人だったわけです。
 なんてことを書いていたらえんえん長くなってしまいますが、まあいいでしょう。あすにつづきます。


●12月6日(木)
 いかんないかんな、毎日これではほんとにいかんなとは思うのですが、けさもかなりの二日酔いです。すっかり寝過ごしてしまいました。余命は十年もないかもしれません。
 勝手ながら東京出張のご報告は明朝からということにさせていただきます。いやどうも相済みません。なにしろ今回の上京は珍しく公費による出張でしたから、ここはどうあっても名張市民の皆様に私はみなさんの税金のおかげをもちまして乱歩邸の土蔵に侵入することを得ました、しかしてその詳細はといったことをご報告申しあげねばならぬのですが、きょうのところはご勘弁ください。
 まことに申し訳ありません。それではご無礼いたします。


●12月5日(水)
 再開いたします。
 ジョージ・ハリソン(先日は毎日インタラクティブの表記に従ってハリスンと記しましたが、昔はハリソンと呼ぶのが一般的でしたので、世代的実感に基づいてジョージ・ハリソンと書くことにいたします)の訃報に接して以来すっかり余命十年説に傾いている私ですが、生命の残り火をかきたてるようにして泊まりがけの出張をこなしてまいりました。どこへ出張したのかといいますと東京だよおっかさん。ありゃりゃ。ちょっと上京しただけでずいぶん芸が荒れちゃって。
 その出張から昨夜へろへろになって帰名し(名張では名張に帰ることを帰名といいます)、さっきようやくごそごそと起き出してきたところです。ご報告すべきことはまたあす以降に綴ります。
 12月1日、マフラーを巻いたジョージ・ハリソンの写真を新聞で見た私は、そうか、マフラーか、と感得するところあって桔梗が丘近鉄百貨店でマフラーを購い、翌日それを巻いて上京した次第なのですが、みずからのこうした行状を振り返るにつけ、なんといえばいいのか、これからも自分はこんなふうに、大切なことと些細なことを取り違え取り違えして余命十年を過ごすことになるのだろうな、となんだか暗澹たるものを覚えます。
 酔っ払って絶対どっかに忘れてくるだろうな、と踏んでいた新品のマフラーをしっかり巻いて帰れたことに関しましては、えらく得した気分がしますけど。


●12月1日(土)
 12月になってしまいました。
 中井英夫の命日が近づきました。
 ジョージ・ハリスンの訃報が届きました。
 イギリスの大衆紙に彼は一週間以内に死ぬであろうと伝える記事が出た、というニュースが数日前の新聞で報じられていましたから驚きはしませんでしたが、いやまいったなおれの寿命もあと十年か、とは思いました。
 まいったまいった。
 毎日インタラクティブに掲載された玉木研二記者の記事から引用。

 不安定な幼少期を経た他のメンバーと違い、彼は実直なバス運転手の家庭に育ち、親兄弟の中で幸せな成長をした。地味だが粘り強く、人を傷つけることをいとう優しさは、そこに源がある。遠い日、ジョン、ポールという天才少年に会うことなく、あるいは空車のバスで2人の前でギター演奏をして「合格」していなかったら、平凡な、しかし平穏な人生が用意されていたろう。
 私たちに等身大に近いと感じさせる、愛すべき「ビートル」だった。これでギター2本が去り、ベースとドラムだけになった。

 この伝言板はあす2日日曜からしばらくお休みをいただきます。コンテンツの更新もありません。再開は早くても5日水曜になる見込みです。どうぞお元気で。

毎日インタラクティブ