2002年1

●1月30日(水)
 さて、私が毎日何をぐだぐだ綴っているのかと申しますと、発端はくろがね叢書です。海軍省の外郭団体が発行していたくろがね叢書に乱歩作品が再録されていた。これはおかしい。戦争中には探偵小説が禁圧されていたのではなかったか。と思って調べてみましたところ、圧倒的な資料不足から決定的な結論に至ることはできませんでしたが、くろがね叢書に乱歩作品が掲載されていても不思議ではなかった、ということがおぼろげながら判明したように思います。
 理由その一は、海軍省関係の出版物は内閣情報局の検閲から自由であったかもしれない、と考えられることです。
 理由その二は、内閣情報局は探偵小説というジャンルそのものを弾圧したのではなかったと判断される、ということです。
 乱歩は昭和14年、新潮社版選集刊行の際に内務省の検閲によって作品の書き直しを求められていますし、警視庁検閲課からは「芋虫」の全篇削除を命じられています。
 しかしこれは風俗紊乱を理由とする統制の一環と見るべきで、対象になったのは乱歩作品のいわゆるエログロの要素であり、探偵小説が題材としていた殺人や犯罪といった要素にはさして関係がなかったと考えられます。ただし、乱歩に倣ったエログロが当時の探偵小説に蔓延していたのだとすれば、それらも当然当局から睨まれることになります。
 昭和15年に内閣情報局が設置されると思想統制言論弾圧はいよいよ苛烈の度を加え、探偵小説なんてとても発表できない世の中になるわけですが、これには雑誌社出版社の自粛が大きく与っており、その背後には日本社会全体を包んでいた集団的な心の傾きが推進力として存在していたと考えられます。ところが、探偵小説は不可、と明文化された通達はどこにも存在していなかった。
 ですから結論としては、くろがね叢書に乱歩作品が載っていたからといって驚くことはないんですよあなた、みたいな感じになるでしょうか。
 ところで阿川弘之さんの『井上成美』にも、井上成美が探偵小説を奨揚していた事実が記されていました。『探偵小説四十年』における乱歩の記述を裏づけるものですから、引用しておきます。井上が江田島の海軍兵学校ではなく、築地にあった海軍大学校に勤務していたときのエピソードです。

 学生の自宅作業に、探偵小説と論理学の本を読むことを命じ、学生一同趣旨がよく分らず、ともかく楽な宿題と気を許していたら、いきなり、読書内容を基にして敵情判断の方式を論理的に案出する四項目の回答を求めたこともあった。

 ほかの箇所には戦後、英語を勉強したいという青年に探偵小説を原文で読むことを奨めたという記述もありますから、井上のいう探偵小説とは、アングロサクソンの文化としての、というか、古代ギリシア以来の二元論の伝統に立つ、というか、ヨーロッパ的合理主義思想のあらわれであるところの、というか、要するにまあ決して乱歩作品のことではなかったのだと、そんなように思えます。


●1月29日(火)
 百鬼園先生の筆の魔法はともかくとして、と申しますか、世間の人間が号令でもかけられたみたいに東郷邸に顔を向け、一途な信心をそれぞれ身をもって示そうとしていた最中に、ひとりその信心に疑義を呈した百鬼園先生の作家精神はあっぱれなものではあるのですが、それは阿川さんのおっしゃるように「特殊な例外」だったというべきでしょう。多くの日本人は「国を挙げてのこうした騒ぎ」を、たぶん少しも怪しまなかったと見受けられます。
 そして当時の「国を挙げてのこうした騒ぎ」は、半世紀以上を隔てて昭和天皇の不例がもたらしたあの自粛騒ぎと、本質的には何ら変わるところがないのではないかと判断されます。私はあの当時、天皇霊なんて稲魂の親玉みたいなものでもあるのだから、病床の天皇は収穫を喜ぶ秋祭りの笛や太鼓が聞こえなくて淋しく思われないのであろうか、その点が少しく気にかかる、と案じたものですが、昭和最後の年の秋祭りは当地でも神輿の掛け声禁止だの行列の鳴り物禁止だのと取り決めが行われ、奇妙な信心のおかげでまったく前景気の盛りあがらぬお祭りになったという記憶があります。
 話題がすっかりそれてしまいましたが、戦争中に行われたとされる探偵小説の弾圧も、結局はこうした信心の一側面だったのではあるまいかと思われます。取り締まり当局や右翼に対する恐怖に裏打ちされた、国策や戦争への協力という名の奇妙な信心が(信心という言葉が腑に落ちぬとおっしゃる方は、顧慮配慮気くばり思いやり、いやいっそ迎合おもねり阿諛追従とでも置き換えていただければと思います)、正式な通達もないのに探偵小説を書けなくしてしまった姿なき圧力の正体であったのだと、とりあえず結論しておきたいと思います。


●1月28日(月)
 それではさっそく、厚かましい話ではありますが、「老提督」の話題を阿川弘之さんの『井上成美』から引用します。前半の段落は阿川さんによる「老提督」の梗概です。文中のゲタ(〓)は「間」の正字、「門+月」だとお思いください。

 子供たちが石地蔵の頸に縄をかけて、川の中へどんぶり漬けたり引き上げたりして遊んでいた。通りかかった信心家が、何という勿体ないことをすると叱りつけ、石地蔵をもとの所へ大事に安置し奉って帰って来たところ、その晩から大熱を発した。不思議に思っていると、お地蔵さんが夢にあらわれて言うには、「折角子供たちと面白く遊んでいたのに、何故あんな邪魔をした」──。近所に病人があって、而もそれが日本一大事な東郷元帥なのだから、生徒を騒がせないようにする心遣いは当然だと思うけれど、ただ病気の老提督は、長い間聞き馴れた可愛い歌声や子供たちの元気のいい囀り声が急に聞えなくなって、淋しく思われなかったろうか、その点が少しく気にかかる。そういう文章である。
 しかし、活字になったものを見ている限り、百〓先生のような感想は特殊な例外であった。一途な「信心家」が世間の各方面にいて、元帥危篤が伝えられると、先生に引率された女学生、小学生、幼稚園の園児まで、続々東郷家へ見舞いにつめかけ、玄関で深々とお辞儀をしては帰って行く。平癒祈願書が束になって届く。中に血書のものがある。杉並に住む貧しい家の少年が、母親にせがんで無理に買ってもらった地玉子を、食べて頂きたいと持参する。応対に出た副官が、事情を知って涙を流す。新聞は、すでに意識混濁している元帥の様子を、「温顔いよいよ澄み切つて神々しいばかり」と書く。昭和九年五月三十日朝、国を挙げてのこうした騒ぎの中で、東郷は亡くなった。数えの八十八歳であった。即日、東郷神社建立の議が起った。

 ここで私見を差し挟みますと、私は信心深い人間ではまったくないのですが、というか、酔っ払ってお地蔵さんにおしっこひっかけたことさえないではないのですが、しかしお地蔵さんを縄で引っ張り回して川に出し入れしている子供を見かけたら、やはりひとこと注意してやるべきだとは思います。庶民の日常的な信仰の対象となっている地蔵菩薩像が乱暴に扱われているのを見て、ああ、お地蔵さんは愉しそうだな、と思う人間はまずいないでしょう。この信心家はごく当然のことをしたまでだと思えます。
 にもかかわらず、お地蔵さんは篤実な信心家に祟りをなしたあげく夢枕で恨み言を並べています。釈迦入滅から弥勒が出現するまでの五十六億七千万年のあいだ、六道に苦しむ衆生を教化救済しなければならぬはずのお地蔵さんが信心家を発熱させてどうする。あまりにも無理無体、そんな道理がどこにある、という気がします。
 それから子供の声、たとえ病人がそばにいたってお構いなしに騒ぐわ叫ぶわ走るわ泣くわして人の神経を逆撫でしてやまぬ子供の声についても述べたいところですが、長くなりますから省略しましょう。それに百鬼園先生は、万人にとって耳障りな(と私には思えます)子供の声を筆の魔法で可愛い囀り声に変えることで、俗塵俗情にまみれた老提督の死の床をいちはやく涅槃に変えようとしたのかもしれません。子供の声が迦陵頻伽のそれに変化すれば、そこはすでにして天上にほかなりません。ここにわれわれは百鬼園先生の葬送作法を見るべきなのでしょうか。
 しかし百鬼園先生の場合、涅槃よりは冥途が似つかわしいわけですが。
 なんかほんとに話題がそれてます。


●1月27日(日)
 きのうは失礼しました。昨日も掲示板でお知らせしたのですが、プロバイダから届いた書面に基づいてあらためて事態をご説明申しあげますと、

先日(1月22日)に当社のサーバーに対して不正アクセスの形跡があることが判明致しました。

 のだそうです。そこでプロバイダは契約者全員のパスワードを新しいものに変更し、外部に洩れたかもしれない旧いパスワードを無効にしてしまう措置を講じたとのことで、現在はプロバイダから割り当てられた仮のパスワードとでも呼ぶべきものによってアクセスしている状態です。
 なんだかよくわかりませんが、誰かがいけないことをしたらしい、ということはなんとなくわかります。叱り飛ばしてやらなければならんところですが、どこの誰だか見当がつきませんから始末が悪い。インターネットの匿名性が人間をずるずる頽落させているということなのかもしれません。まあ人間なんてその程度のものだという気もしますけど。
 といった次第で、以下はきのうの伝言です。

 「その分野での自主的な動き」とは、端的にいえば自粛でしょう。当局の指導や強制の一方で関係業界がみずからつつしむ自粛もまた広く浸透し、思想統制言論弾圧がとどこおりなく進められたと見るべきでしょう。赤澤史朗さんの「戦中・戦後文化論」からふたたび引きますと、出版人には「いつどこでどのような難くせが、取締り当局や右翼からつけられるかわからないという不安感がつきまと」っていたわけです。世に探偵小説の弾圧と伝えられる事態も、その大半は雑誌社出版社の自粛によってもたらされたものであろうと判断されます。
 自粛と聞いて思い出されるのは、昭和天皇の不例に際して日本全土をくまなく覆った異様な物忌みの気配です。あれはまさしく異様でした。自粛の陰鬱な帳が日本社会をすっぽりと包んでしまいました。昭和最後の年の秋から冬にかけてのことでしたから、困ったことに秋祭りにさえ自粛の波が及びました。
 内田百〓〔門+月〕に「老提督」という随筆があります。昭和9年5月27日、軍神と讃えられた東郷平八郎が重態であると発表され、東郷尊崇の熱が一気に沸点に達して、東郷邸に隣接する小学校では児童が屋上に登って遊ぶことを禁止、唱歌の時間も中止されるに至りました。それを伝え聞いた百鬼園先生はこの「老提督」なる一文を草して、小学校が示した自粛措置に異議を差し挟みました。
 しかし私は、じつはこの「老提督」を読んだことがありません。所蔵している百〓〔門+月〕の著作(といったってすべて文庫本ですが)をひっくりかえしても、たぶんこの随筆は発見できないだろうと思われます。私はいま阿川弘之さんの『井上成美』(新潮文庫)を横に置いて、そこに記された「老提督」の話題を孫引きしている次第です。
 この本は先日、この伝言板に井上成美の名を出した際に引っ張り出してきたものですが、そのとき私はふと、この本には乱歩の名前が書かれていたのではないかしらと思ってしまいました。そんな記憶はまったくありません。しかしぱらぱらページをくってみると海野十三の名が出てきましたので、あ、もしかしたらやっぱり乱歩も、と気あたりがして、つれづれなるままに斜め読みし始めたところ「老提督」の話にぶつかったというわけです。
 話題がどんどんそれてるな、と実感しつつあすにつづく。


●1月25日(金)
 雲を掴むようなといいますか、蜃気楼を見るようなといいますか、戦争中に行われた探偵小説の弾圧について考えてゆくと、なんだか茫洋たる感がしてきます。
 そこで、そもそも戦争中に何が弾圧されたのか、あるいはなぜ弾圧が行われたのか、みたいな基本的なことを確認しておくことにして、赤澤史朗さんの「戦中・戦後文化論」(『岩波講座日本通史第19巻 近代4』1995年、岩波書店刊。えー、なんか気恥ずかしいですが)をひもとくと、当時の「
上からの文化政策が目ざしたものは、いわば単一の国民文化の形成であった」との指摘が見られます。国策のためつまりは戦争遂行のため、国民文化を統一しようという思想統制が進められたわけです。
 この政策によって排撃されたのは、乱歩が昭和14年には「幾分残存していた自由主義的なものも、このころより全く影をひそめ」と記していた自由主義そのものであり、赤澤さんによれば、

一九三〇年代の思想・文化統制は、「安寧紊乱」にあたるマルクス主義・自由主義の否定に発して、やがて「風俗紊乱」にあたるダンスホールなど都市大衆文化の統制を強めてきた。その意味でこの都会的文化の否定の動きは、一九三〇年代に国家の手により進行した思想・風俗統制の流れを引きつぎ、それを新たな段階へと引き上げるものであったと言えよう。つまり知識人文化であれ大衆文化であれ、都会的・外来的・商業的・消費享楽的などの烙印を押されるものは、すべて自由主義なのである。そしてこの自由主義を排撃することによって、真正で単一の国民文化が形成されるというわけである。

 という寸法です。
 乱歩作品が受けた扱いも、それが探偵小説であるからというよりは、「一九三〇年代に国家の手により進行した思想・風俗統制の流れ」に位置づけて、風俗紊乱や自由主義との関わりから眺めたほうがよほどすっきり腑に落ちるような気がします。
 邪馬台国はなかった、とか、南京大虐殺はなかった、とか、聖徳太子は日本人ではなかった、とかいったフレーズを真似て、探偵小説弾圧はなかった、と思わず記してしまいそうになる私なのですが、それはなんとか踏みとどまるにしても、単純に「戦争中には探偵小説が弾圧されていた」とするのはいささか厳密さに欠ける歴史認識であると指摘しておきたいと思います。
 赤澤さんの「戦中・戦後文化論」から、もう少し引用しておきましょう。

 一九四〇年の新体制運動は、自由主義攻撃にとっての新段階を画するものであった。というのはこの時より、団体の乱立・分散・競争といったこと自体が自由主義思想を示すものとみなされ、文化の各ジャンルにおいても団体統合の推進や統制機関の樹立がはかられるようになったからである。一元的統制団体の結成は、文化関係の業界においても(日本出版文化協会など)、それぞれのジャンルにおいても(日本文学報国会など)見られたが、それは一方で何より当局の「指導」や強制の産物であるとともに、他方でなんらかの程度、その分野での自主的な動きにも基づいていた。

 探偵小説の弾圧と呼ばれる事態は、小さからぬ範囲において、「その分野での自主的な動き」として進行したのではなかったかと思われます。


●1月24日(木)
 一昨日のつづきを引用いたします。『探偵小説四十年』の「情報官と対談会」の一節。

 相当長時間にわたって議論をしたのだが、具体的には何も覚えていない。この会合の結果として、探偵小説が書けるようになったわけでもなかったのである。やっぱりスパイ小説以外は雑誌が頼みに来なかった。この席で、私自身は余り発言しなかった記憶である。私がそれまでに書いたエロ・グロ小説が反時局的だといわれていることは、よく承知していたし、それが探偵作家全体にわざわいしているようなところもあったので、私は余り威勢のいい発言はできなかったのである。

 自分の「反時局的」な「エロ・グロ小説」が「探偵作家全体にわざわいしてい」たと、乱歩ははっきり認識しています。乱歩といえばエログロであり、一方で乱歩といえば探偵小説でもありましたから、探偵小説すなわちエログロという等式が成り立って(当時の探偵小説に乱歩に倣ったエログロ的要素が濃厚であったのも事実でしょうが)、おかげで探偵作家全体がその筋から睨まれてしまった、とでもいったことでしょうか。
 いずれにせよ、乱歩が気にしているのはやはりエログロの問題です。探偵小説そのものについていえば、情報局の担当者が「罪と罰」に関して述べたところを信じるならば、単に犯罪や殺人を扱っているというだけでは弾圧の対象になりませんでした。
 ですから結局のところ、太平洋戦争中、といいますか十五年戦争当時、探偵小説が弾圧されていたというのは疑いようのない事実であるものの、これを厳密にいいますならば、探偵小説というジャンルそのものが国家によって禁圧された事実はなかったと見るべきではないかと思われます。
 乱歩が書きとめている「やっぱりスパイ小説以外は雑誌が頼みに来なかった」という事実にしても、そもそも情報局は「探偵小説不可」という通達を出しておらず、したがって「探偵小説可」という指示など出しようがなかったのだと考えれば、しごく当然のことに思えます。


●1月23日(水)
 やれやれ。気の重いことではありますが、内閣情報局 vs 探偵作家の話題はお休みして、名張市教育委員会の話題をひとくさり。これまでの経緯の説明は省きますので、何のことだかおわかりにならない方は今月の伝言録をお読みください。
 結論から申しますと、教育長のご回答は頂戴できませんでした。名張市役所の内部で市長の虚偽を証明することは不可能であるという事実が、ここに明らかになった次第です。それならどうする。私は昨日、教育委員会に対してふたつの構想を打ち明けました。
 ひとつは、「伊和新聞」に投稿するという構想です。本紙新年号に掲載された市長インタビューには虚偽が含まれていると判断される、教育長に事実関係を確認したのだが回答は得られなかった、市長発言の虚偽と思われる箇所を指摘したうえで私の知る限りの事実を公にしておく、といった内容になるでしょうか。「市長選前哨戦いよいよ白熱」みたいな見出しが躍る「伊和新聞」の片隅に、「市長は嘘つきですねんあーちゃかぽこちゃかぽこ」みたいな私のちゃかぽこが掲載されたらどうなるでしょう。
 もうひとつは、名張市のオフィシャルサイトに昨秋、市民が市長にメールを送って意見提言その他を直接伝えられるシステムが加えられたのですが、これを利用するという構想です。一度に送信できる文章量は最大二百五十字だそうですから、毎日二百五十字ずつ「あれは嘘とちゃいまんのかいなあーちゃかぽこちゃかぽこ」とばかりにちゃかぽこを投稿しつづけたらどうなるでしょう。
 みたいな構想を教育委員会に提案し、どうなるでしょう、とお訊きしましたところ、たぶん教育委員会が市長から怒られるのではないか、とのことでした。
 あーもうどうでもええわいくそったれが、と私は思います。
 もうこんな愚劣な組織に身を置いているのはうんざりだ、と思います。
 以前にも私は一度だけ、お役所なるもののあまりといえばあまりなムラ社会ぶりにすっかり嫌気がさし、図書館嘱託なんかやめてしもたるわいと考えたことがあるのですが、今回もなんかそんな感じだ莫迦野郎。
 とはいうものの、多くの方のお力添えを得ながら編纂を進めつつある『江戸川乱歩著書目録』が完成するまでは、私とて無責任にケツをまくることなどとてもできません。やれやれ難儀な。まあ馘になってしまったら話は別ですけど。
 ですからとにかくきのうはですね、私は教育委員会からですね、教育長宛に提出した質問に関してはいっさいご返答をいただけぬまま、なんとか理解をしてくれと、穏便にことを済ませてくれと、あまり手荒なことをしてくれるなと、とにかくお願いいたしますと、ひたすら求められた恰好になったのですが、
 「とても理解はできません」
 とお答えしてお開きとなった次第です。お役所なるもののなれあいかばいあいもたれあい体質のことなら私はよく存じておりますが、そんなものに理解は示せません。そんな体質に同化するのはまっぴらごめんのこんこんちきです。
 さてこうなると、私は市長と教育長ふたり並べて張り倒してやらなければならぬ立場に立ってしまったわけですが、いったいどうしたものじゃやら。
 ところで名張市教育委員会のみなさん、というか、名張市役所のみなさん。私に対するご意見ご提言ご批判ご痛棒その他、ございましたらお気軽に掲示板「人外境だより」にご投稿くださいね。匿名でも結構。二百五十字以内などというケチな字数制限もありません。


●1月22日(火)
 昭和17年のある日、内閣情報局の一室で行われた探偵作家 vs 情報局吏員の直接対決では、帝大出の若い情報官七、八人と、それより多人数だったという大下、海野、水谷、城、乱歩ら作家側が相まみえたのですが、なんだか盛りあがらぬままに終始したようです。『探偵小説四十年』から引きましょう。

 情報官の並んでいる方が検事席で、こちらは被告席みたいな感じがしたものだが、この会合では海野君がいちばん自由に物をいった。そして、書いてよいことと、悪いことの境界線は、どこに引いたらいいのかということが、論題となった。
 誰かが、それでは、若しかりにドストエフスキーの「罪と罰」のような作品が、今書かれたとすれば、あなた方はこれを発行禁止にしますかと、皮肉な質問をした。木々君だったかも知れない。木々君が出席していなかったとすれば、水谷君であったかも知れない。若い情報官たちは、純文学には敬意を表している人々であったから、この質問には困ったような顔をして、「それは、ドストエフスキーほどの文学なれば、発表してもさしつかえない。通俗娯楽小説の犯罪ものは困るのだ」という意味の答えをした。そして、それで終って、更らにこちらから突っこむ者もなかったようである。

 してみると当時の探偵作家たちは、探偵小説が禁圧されていたことは肌身に実感していたものの、探偵小説のどこがどういけないのかはよくわかっていなかったわけです。つまり情報局の検閲には明確なガイドラインなど存在せず、担当者たちは提出された文章をさーっと斜め読みして、
 「あ。ここはまずいんじゃないの」
 とか、
 「このへんも一発行っとこうか」
 みたいな感じで駄目出しをしていたのではないかとも推測される次第ですが、これは暴論に過ぎるかもしれません。
 むろん、主として犯罪を描く探偵小説は時局に鑑みてよろしくないとの認識は作家側にも存在しており、だからこそ同じく犯罪を描いた「罪と罰」はどうなのかという質問が提出されたのでしょうが、情報局の返答は文学ならいいけど通俗娯楽小説は駄目なんですみたいなことで、なんともつかみどころがありません。
 ここで思案しますに、そもそも通俗娯楽小説を嫌悪するのはエリートの常であり、大衆を心の底から蔑視できぬようでは一人前のエリートとは呼べません。だからこの帝大出の若き情報官たちは、戦時下であれ何であれ、国民を善導し社会を裨益するエリートなどという傍迷惑な立場に立ちさえすれば、どんなときにも必ずや通俗だの娯楽だのを目の仇にして職務を遂行していたのではないかと愚考されるのですが、これもやっぱり暴論か。
 暴論かとは思いつつさらに考えを進めますと、もしかしたら情報局による検閲や禁圧には、時局や国策への配慮というお題目を後ろ盾として、じつは担当者が自分たちの好悪を作家や出版社に押しつけていたという側面があったのかもしれません。情報局の首脳に「
読物弾圧の親玉のような」軍人がいたという乱歩の証言も、弾圧が担当者個人の好悪で軽重をいかようにも加減できるものであったことを示しているように思われます。
 日本名物融通無碍ってやつでしょうか。曖昧な日本のファジーなあなたはいかがお考えでしょう。


●1月21日(月)
 しかしそれにしても、昨日の引用に登場した二人の軍人がともに「理智を養う」ものとして探偵小説を奨揚していたという事実には、いささか驚かされてしまいます。この伝で行けば世の探偵小説ファンはすべてこの上なく理知的な人間であるということになるはずなのですが、そんなことはありますまい。
 私がこれまでにお会いした、あるいはネット上で拝見した探偵小説ファンのなかには、こいつ大丈夫かいなと思われるほどの莫迦も少なからずいらっしゃいました。いえあなたのことではありません。お怒りになってはいけません。
 あるいは、探偵小説が理知を養うものであるとするならば、探偵小説作家や探偵小説評論家などというのは理知が洋服着て歩いてるような人物であるはずなのですが、いやもうとてもとても。いえあなたのことではありません。お怒りになってはいけません。
 しかしまあ実際ですね、探偵小説の読者と作家と評論家だけで組織された軍隊などというものを想像してご覧なさい。戦わずして負けてます。国辱的軍隊とでも申しますか。やれ情けなや。ですからあなたのことをいってるわけではないと申しますのに。
 それはともかく、きのうの引用で乱歩が、
 「内閣情報局は探偵小説を禁圧しているが、あなたはどう思う?」
 と記しているのも、なんだか誤解を招きやすい表現です。情報局が探偵小説というジャンルそのものを禁圧したことは一度もなかったのではないか、というのがこれまでのところの一応の結論となっているわけで、これだけくどくどと記しているのですからあなたにももうそのあたりのことはご理解いただけているものと判断いたします。
 そういえば乱歩は「先ヅ股旅物ノ不健全性ガ槍玉ニアゲラレ、ツゞイテ私ノモノナドガ検閲官注視ノ的トナリ」と『貼雑年譜』に記していましたが、それなら股旅小説が禁圧された事実はあったのかどうか調べてみようと思っても、依拠すべき資料が見事なまでに手許にありません。わずかに尾崎秀樹『大衆文学論』に収録された「長谷川伸文学の年輪」に、

股旅ものは戦争中禁圧されたが、

 という文言が発見できた程度で、禁圧の実態については何ひとつ知ることができません。情報局の検閲が股旅小説の何らかの要素に集中し、結果として雑誌社や出版社から股旅ものが忌避されたということだったのかなと推測しておきましょう。
 さて乱歩は、昭和17年4月30日から9月30日までのあいだに、海野十三の肝煎りで「情報局の読物取りしまりの局に当っている帝大出の若い官吏諸君と探偵作家とが話し合う機会を持った」と回想しています。探偵作家と情報局との直接対決頂上決戦というわけなのですが、いやもうとてもとても。


●1月20日(日)
 『探偵小説四十年』の「昭和十六・七年」の章から、その名も「陸海軍報道部と情報局」と題された項を引きます。
 冒頭に出てくる矢萩大佐は陸軍の報道部長。乱歩は海軍のくろがね会にはよく出席していたものの、陸軍の矢萩大佐とはどういう会合で会ったのか記憶していないと記しています。そのあとに登場する井上成美中将は海軍切ってのリベラリストとして知られた人物で、興味を抱かれた方には阿川弘之さんの『井上成美』をお薦めしておきましょう。

こう書いていて、今思い出したが、私は矢萩大佐と探偵小説の話をしたことがある。「内閣情報局は探偵小説を禁圧しているが、あなたはどう思う?」と、聞いて見たことがある。すると矢萩大佐は「僕はそうは思わない。探偵小説は将棋と同じように理智を養うものだから、決して有害無益とはいえない」というような答えであった。当時肩身のせまい思いをしていた探偵小説を、陸軍報道部長が支持してくれたのだから、私は嬉しくなって、しばらく話しつづけた。

 〔略〕

 書いているうちに、またべつのことを思い出したのだが、前記「島隠れ行く艨艟」に書いた江田島海軍兵学校見学の際、同校校長の井上成美中将が、日ごろ若い軍人たちに、「お前たちは暇があったら、将棋と探偵小説を愛せよ。この二つの遊戯は理智を養い、作戦の参考にもなるのだ」と、口癖のようにいっておられたということを、人伝てに聞いた。それを私に伝えてくれた軍人も、むろんこの説に同感だったのである。〔略〕
 一方、内閣情報局の、東大を出て間もない若い官吏達が、リアリズム一本槍で、神経質に読物禁圧をやっていたのに比べて、軍人はさすがに気宇が大きいと思った。(もっとも、情報局の首脳には、軍人がいて、その或る人は、読物弾圧の親玉のような人物で、雑誌社などは、この人の鼻息をうかがうことに汲々としていた。同じ軍人でも、この人だけは別物であった。私のアメリカ伝来の筆名が、情報局の小説部のブラックリストにのったのも、この人の時代であったと思う)

 報道部と情報局のあいだの、確執や対立とまでは行かぬまでも、反目や乖離の傾向がそこはかとなくしのばれる気がします。とはいえ、これはいうまでもなく乱歩の主観というプリズムを通した記述ですから、帝大出身者に対する乱歩の劣等意識や、それに裏打ちされた軍人贔屓を差し引いて考える必要があるのかもしれません。
 ともあれ、当時においても探偵小説は必ずしも全面的に否定されてはおらず、陸軍にも海軍にも探偵小説に理解を示す軍人が存在していたという事実は、くろがね叢書と探偵小説の関係を考察するうえで貴重な証言になり得るものと思われます。


●1月19日(土)
 『日本史大事典』(平凡社)の「内閣情報局」の項からも抜粋しておきます。項目執筆は粟屋憲太郎さん。

情報局は、言論、文化、マス・メディアの統制に絶大な力を発揮し、とくに戦時統制経済の強化を背景に、用紙割当権などで言論・文化機関には生殺与奪に等しい権限を行使し、新聞・雑誌の統廃合を強行した。〔略〕
 しかし日中戦争の拡大にともない、一九三七年大本営が設置されるとともに、軍令・作戦に関する報道発表を担当する大本営陸・海軍報道部が設置され、戦況報道にあたっており、情報局との連絡調整のための官制改革もなされたが、軍事情報を含めた情報宣伝の一元化は達成されなかった。

 くろがね叢書は、海軍省の外郭団体であるくろがね会によって発行されていました。軍の関係団体であった以上、くろがね会は情報局の権限が届かない場所に存在していたと見るべきでしょう。手許の資料ではこれ以上くわしいことは調べようがないのですが、とりあえず現時点では、くろがね叢書に乱歩作品が収録されていたことに不思議はない、なぜならそれは情報局の禁圧と無縁な出版物だったからである、という仮説を示しておきたいと思います。
 ここでまたしても乱歩の証言。『探偵小説四十年』には、元大本営海軍参謀兼報道部の海軍中佐富永謙吾の著書『大本営発表、海軍篇』(昭和27年)から、こんな一節が引用されています。

 『くろがね会』は直接報道部と協力し、機関誌を発行し、別に出版物雑誌を対象として独自の視野立場から活動を継続した。

 くろがね会の機関誌は「くろがね」というタイトルで、乱歩は昭和17年、この「くろがね」に「江田島記」という随筆を寄せ、『探偵小説四十年』にもそれを引用しています。そしてくろがね会は、その機関誌とは別の「出版物雑誌」も発行していたといいます。くろがね叢書もおそらくはそうした「出版物雑誌」のひとつであり、「直接報道部と協力し」て発行されていたというのですから、やはり情報局の禁圧からは完全に自由な出版物であった可能性が高いといえるでしょう。
 ご紹介する順序が逆になった気もしますが、くろがね会について乱歩は、

海軍の報道部と文士との連絡をとる「くろがね会」というのは、私も入会していたので、いくらか記憶があるが、この会は木村毅君が幹事長というような役目で、世話役をしていたが、探偵作家も大下、海野、角田、その他数名が幹事になっていて、その関係で私も誘われたのだろうと思う。私は幹事ではなかった。

 と『探偵小説四十年』に記しています。


●1月18日(金)
 そんなこんなで昭和15年6月24日、近衛文麿は枢密院議長を辞任して新体制運動推進の決意を表明。7月16日には陸軍の手で米内光政内閣が総辞職に追い込まれ(悪名高き軍部大臣現役武官制が力を発揮したわけです。詳しくは昭和史関係の本をお読みください)、22日には第二次近衛文麿内閣が成立します。
 すなわち、第二次世界大戦の拡大に対処する総力戦体制へ向けて日本社会はまっしぐら。いわゆる日本型ファシズム体制が一丁あがりとなりました。下世話な話題に眼を転ずれば、煙草のバットが金鵄に、チェリーが桜に改名されたのもこの年11月1日のことでした。野球のストライクがヨシに、ボールがダメに改められたのも、たぶんこのころのことだと思います。
 ともかくかくのごとくして、乱歩をして「世の読み物すべて新体制一色」、あるいは「世は新体制一色に塗りつぶされ」と嘆かしめた「新体制」が世にはびこったわけです。探偵小説なんてとても書いてはいられなかったでしょう。煙草の名前にさえ気をつかわねばならなかった時代に、アメリカ人作家に由来する江戸川乱歩などという名前で小説を発表することは(ちなみにディック・ミネは三根耕一に、スタルヒンは須田博に改名しておりました)、とてものことにできない相談であったはずです。
 
そして昭和15年12月6日、悪名高き内閣情報局が設置されて、杉山平助の言を借りれば「今や新設の情報局は、その権限をおびただしく拡大し、いやしくも国家に不利、或は不急と認められるやうな執筆や出版は、完全に不可能にされ」、「文筆業者たちも、自らの社会的地位の生殺与奪の権を握るものが、何から何へ移つたかを戦慄をもつて考へはじめた」というわけです。しかししつこくくりかえしますと、昭和19年のくろがね叢書には乱歩の探偵小説がちゃんと収録されていました。どうなっておったのか。
 というところで、念のために『日本史広辞典』(山川出版社)から「内閣情報局」の項を引いておこうとページをくってみましたところ、引いてびっくり広辞典、こんなことが書かれていました。

ないかくじょうほうきょく【内閣情報局】第二次大戦期に情報宣伝活動を所掌とした内閣の外局。一九四〇年(昭和一五)一二月六日設置。総裁は親任官で国務大臣が兼ねることもあった。各庁の情報に関する連絡機関であった内閣情報部(三六年七月一日設置の内閣情報委員会が三七年九月二五日昇格)を改組した機関だが、任務は大きく異なり、情報収集・宣伝のほか言論報道の指導・検閲・取締りなどを行った。しかし軍事関係は大本営報道部などの所管であった。両者は四五年四−六月にようやく情報局に統合された。敗戦後GHQの覚書により取締り機能が停止され、四五年一二月三一日廃止。

 「軍事関係は大本営報道部などの所管であった」とあります。もしもくろがね叢書が軍事関係の出版物として大本営報道部の所管に入っていたのであれば、昭和19年の時点では情報局の検閲や取り締まりから自由であったということになります。


●1月17日(木)
 昨日引用した文章のおしまいに、乱歩は「その翌年あたりから、誰も探偵小説など頼みに来なくなったのである」と記しています。これもまた短絡的な表現で、この文章を読んだ人間は誰だって、ははあ、探偵小説が禁止されたのだなと判断してしまうだろうと思われます。
 しかし実際には、これまで見てきた限りにおいて、探偵小説というジャンルそのものが検閲機関から禁圧されたという事実は見出せません。というか、検閲はあくまでも実際の文章に即して行われるものですから、探偵小説を書いてはいけません、というような指示を検閲機関が出せるものかどうか。このあたりもおおきに疑問に思えます。
 ただし、何度も何度も検閲機関から呼び出されてお目玉を頂戴した出版社側が、検閲にひっかかりそうな作品を回避するようになるのは当然のことでしょう。当時の探偵小説に広く見られた、大下宇陀児の言に倣うならば「デカダン性」が排撃の対象になっていることが学習されれば、検閲をパスするために出版社が探偵小説そのものを遠ざけるようになっても何ら不思議はありません。
 ところで、乱歩のいう「その翌年」とは昭和15年のことです。この年12月に悪名高き情報局が設置されるわけですが、これがいったいどんな年であったのか、確認しておくのも一興でしょう。手許の『年表日本歴史6 明治・大正・昭和』(筑摩書房)から、めぼしい事項を拾ってみます。
 まずこの年2月、歴史学者津田左右吉の著書『古事記及日本書紀の研究』が発禁になっています。といっても、エログロや探偵小説には何の関係もありません。日本神話に実証的な資料批判を加えた点がよろしくなかったのでしょう。
 記紀に記された史実のなかで事実と認め得るのは応神天皇以降の記述で、それ以前は天皇家の支配を正当化するためのフィクションに過ぎないとするのが津田左右吉の主張でした。現代の眼で見ればどうということもない説ですが、なにしろ昭和15年といえば皇紀二千六百年です。お若い衆はご存じないでしょうけど(私だってよくは存じませんけど)、昭和15年は神武天皇の即位からちょうど二千六百年目にあたる記念すべき年だという大嘘が平然とまかり通っていた時代の話ですから、津田左右吉の受難は避けがたいものであったといえます。

 それから3月、内務省は人気漫才師ミス・ワカナら芸能人十六人に改名を指示しました。ワカナの場合は「ミス」という敵性語がいけなかったのでしょう。ワカナはこのあと玉松ワカナ(相方が玉松一郎でしたから)、さらに松竹ワカナ(吉本興業から松竹系の新興キネマ演芸部に引き抜かれましたから)と改名して、戦時下の日本に笑いの渦を巻き起こします。
 戦地の慰問でもワカナ一郎コンビは絶大な人気を博し、満州だかどこだかの慰問では、兵士を前に漫才を演じたあと将校から土蔵のようなところに案内され、彼らにも漫才を聴かせてやってくれぬか、と依頼されたそうです。そして蝋燭の灯りのなか、死亡した兵士の骨箱を前に漫才を演じて、将校も演者もともに涙を禁じ得なかったというエピソードをどこかで読んだ記憶があります。
 などと書いていると、自分は探偵小説なんかより古代史や漫才のほうがはるかに好きなのだということがよく実感されてきます。脱線をお詫びしながら以下あした。


●1月16日(水)
 『探偵小説四十年』から、新潮社版選集刊行時に乱歩が遭遇した検閲に関する証言を引きます。

 配本半ばごろ、というのは昭和十四年にはいってからだが、戦時統制による出版物検閲が実にきびしくなり、毎巻むやみに書き替えを命ぜられた。当時は事前検閲の制度があって、内務省だったか警視庁だったかに、原稿又はゲラ刷りを提出すると、風紀上面白くない個所に赤線を引いて返される。出版者はそれを作者に届けて、その個所の書き替えを頼むという慣わしであった。
 ところが、私の場合は一行や二行ではない。一頁二頁にわたって、全文書き替えを命じられる。その検閲は既に組版を終ったゲラ刷りで受けていたものだから、赤線の個所を削除すると、そのあとを全部組み替えなければならないので、赤線の行数に合わせて、別の文章を書かなければならない。それで、一応は元の意味と似た穏やかな文章を書いて渡すのだが、二三日すると、又戻って来る。同じ意味では困る、全く別の意味のさしさわりのない文章にしてくれ。「今日はお天気がいい」というような無意味な文章にしてくれというのである。それでは前後が続かないので、そんな無茶なことを注文されるのなら、選集の続刊をよしてしまおうと、私も怒ったが、新潮社が「まあまあ」というので、仕方なく、まるで前後のつづかない文章を書いて、やっと検閲を通過したことが、殆んど毎巻であった。
 この調子では、とても探偵小説は書けないと思った。例によって、暫らく休筆するほかはないと思った。だが、私の方で休筆しなくても、その翌年あたりから、誰も探偵小説など頼みに来なくなったのである。

 検閲で削除の対象になったのは、「風紀上面白くない個所」であったといいます。風紀というと何かしらいろごとめいた印象がつきまとうのですが、確認のために手許の大辞林第二版を引いてみると、

日常生活のうえで守るべき道徳上の規律。特に、男女の交際についての規律や節度。「─が乱れる」「─を取り締まる」

 岩波国語辞典第五版には、

社会生活の上での規律。特に、男女間の交際に関する節度。

 新潮国語辞典第二版には、

(1)風俗・風習についての規律。しつけ。(2)特に、男女の交際に関する節度。「─紊(ビン)乱」

 とあります。
 となると、昭和14年当時の検閲で問題になったのは男女間のいろごとを綴ったエロティックな描写だったのではないか、という推測が成り立ちます。乱歩が「とても探偵小説は書けないと思った」と短絡的に述べていますから、読者はなんとなく探偵小説が睨まれたんだなと思ってしまいがちなのですが、『探偵小説四十年』には、

私は昭和十四年春ごろから既に、わたし流の怪奇小説がその筋から睨まれていることは察していた。

 という回想もあって、探偵小説そのものが「その筋から睨まれて」いたわけではないことがうかがえます。


●1月15日(火)
 ある方からメールでお問い合わせをいただきましたので、ほかにも気にかけてくださっている方がいらっしゃるかと考え、名張市役所自爆テロ新春第一弾の続報をお届けいたします。とくに名張市教育委員会関係各位は眼を皿にしてお読みください。
 1月22日、というとちょうど一週間後のことになりますが、私は名張市教育委員会の方と名張市立図書館で面談することになっております。私の話をお聴きいただけるそうです。私の自爆テロにはあと一週間、動きが見られないということです。
 なんか話がおかしいな、という気がいたしますですね。つまり私は教育長に二点の質問を提出したわけで、いずれもイエスかノーかで答えられる質問でした。煎じ詰めていってしまえばただ一点、
 「教育委員会が市長の命を受けて乱歩のご遺族に連絡を取ったという事実はあるのか」
 という点だけを私は確認したいわけです。ですから教育委員会は私に対して、
 「んなもんおまっかいなあッ」
 と回答すればいいだけの話です。それなのにどうしてわざわざ図書館にお運びをいただいたうえ、私の話を聴いてやろうなどとおっしゃるのか。そもそも教育委員会にどんな話をしたところで何の意味もないということは、私はこれまでの経験で身にしみて知っております。
 ですからまあ、まことに申し訳ない次第ではありますが、質問二点に対する教育長のご回答を頂戴しない限り、私から教育委員会に対してお話し申しあげるべきことは何もありません。教育委員会関係各位は22日、教育長のご回答をご準備のうえ図書館においでくださいますように。
 えー、あまり戦々兢々とされるのも片腹痛いことですから、手のうちをお教えしておきましょう。
 「教育委員会が市長の命を受けて乱歩のご遺族に連絡を取ったという事実はあるのか」
 という質問に対する答えはふたつしかありません。あった、か、なかった、かです。むろんなかったことは明々白々たる事実なのですが、残念ながら現時点では、その事実には「私の知っている限りでは」という限定がついています。ですから私は教育委員会に事実関係を確認し、客観的な事実を提示して、市長の発言が虚偽であったことを公にしておきたいと考える次第です。
 公にするといったって、具体的にはこのホームページにそれを記録するだけでことは足りるでしょう。ほかにも手段はいろいろありますが(たとえば「伊和新聞」に投稿するというのもそのひとつ)、私には強いてことを荒立てようという気はありません。
 ただしそれも、教育長の正直なご回答を頂戴できればの話です。つまり、じつは平井先生と連絡を取っておりましただの、ようわかりまへんだのといった回答であった場合、あるいは回答そのものがなかった場合には、事態はまったく違ってきます。ことを荒立てざるを得なくなります。教育委員会も市長と一蓮托生だな、「教育」の二文字を背負って仕事してるくせに市長の虚偽を糊塗しようとする気だな、嘘なんていくらついてもいいんだよと子供たちに見本を示すつもりだな、などと判断せざるを得ないでしょう。呵々。
 ところで、まさかとは思いますが、私がなぜ市長の虚偽をこれほど問題にしているのか、名張市教育委員会各位にはご理解いただけているのでしょうか。


●1月14日(月)
 ふたたび乱歩の証言を引きます。
 『貼雑年譜』の昭和14年のページには、同年3月31日付「東京日日新聞」夕刊社会面に掲載された「乱歩氏の『悪夢』削除」という記事がスクラップされています。警視庁検閲課が乱歩の文庫本『鏡地獄』に収録された「悪夢」の全篇削除を命じた、という記事です。「悪夢」は「芋虫」。スクラップには「愈々書ケナクナツタ次第」という文章が寄せられていて、これは『探偵小説四十年』にそのまま転載されています。その一節。

検閲はむずかしくなっても、主としてこれから出すものについてであって、旧著全篇の抹殺ということは、やはり珍らしいので、社会面の小記事となったわけである。公式に発売を禁ぜられたのはこの一篇のみであったが、昭和十五年七月、第二次近衛内閣成立、日独伊三国同盟締結、大政翼賛会組織、七七禁令の発表と、世は新体制一色に塗りつぶされ、幾分残存していた自由主義的なものも、このころより全く影をひそめ、最も商業的であった雑誌なども、何らか新体制色のある読み物でなければ掲載しないという風潮となる。

 『探偵小説四十年』には、「探偵小説十五年以後昭和十五年末までの概況」という乱歩の文章も引かれています。第二次近衛内閣の「新体制」に関する証言です。その一節。

文学はひたすら忠君愛国、正義人道の宣伝機関たるべく、遊戯の分子は全く排除せらるるに至り、世の読み物すべて新体制一色、ほとんど面白味を失うに至る。探偵小説は犯罪を取扱う遊戯小説なるため、最も旧体制なれば、防諜のためのスパイ小説のほかは諸雑誌よりその影をひそめ、探偵作家はそれぞれ得意とするところに従い、別の小説分野、例えば科学小説、戦争小説、スパイ小説、冒険小説などに転ずるものが大部分であった。

 探偵小説は「犯罪を取扱う遊戯小説」であり「最も旧体制」であって、「新体制」に寄与できる文学ではまったくなかった。だから排除されたのである。乱歩はそう述べています。わかるような気がしないでもありません。いや、わかったような気になります。だからわれわれは、戦争中には探偵小説が禁止されていたのだと思い込んでいたわけです。しかしそれなら、くろがね叢書にどうして乱歩の探偵小説が掲載されていたのでしょうか。


●1月13日(日)
 次は大下宇陀児。「日本読書新聞」の昭和15年3月1日号に掲載された「探偵小説界/事変で萎縮」という文章です。『貼雑年譜』にスクラップが残り、『探偵小説四十年』にも引用されていますから、ご存じの方も多いことでしょう。
 ここではいささか趣向を変えて、中島河太郎先生の『日本推理小説史 第三巻』(1996年12月20日、東京創元社)の「第三十章 戦争前夜の情勢」から引きます。中島先生はこの章で、時局の推移が「新青年」の誌面にどのように反映されていったかを跡づけていらっしゃいます。すなわち、昭和11年になると「新青年」も「時局に歩調を合わせざるを得なくな」り、14年には「ますます探偵小説は窮屈になった」といいます。そのあたりから。

 ○○部隊と肩書をつけた戦地からの作品がしばしば現われるようになり、戦時色は濃厚となったのだから、乱歩がもう出る幕でないことを覚悟したのは当然であった。
 横溝は十四年の暮れに東京へ引き揚げてきたが、十五年になると探偵小説の注文は皆無だった。辛うじて捕物帳で糊口をしのいでいたと回想している。だがその捕物帳にも横槍がはいった。情報局からか、発行元が軍や情報局の思惑を気にしたからか分らないが、「人形佐七」は時局柄不謹慎であり、不健全である、だから主人公をもっと健全な人物に代えて貰いたいというのであった。
 十五年というと、その年の七月には第二次近衛内閣が成立し、日独伊三国同盟が締結され、大政翼賛会が組織された。世は新体制一色となった。その三月一日号の「日本読書新聞」に、大下は「探偵小説界」の一文を寄せている。

 探偵小説は今度の事変で大きな影響を受けた。即ち取材の範囲が決められ、従来の探偵小説を可なり濃厚に特徴づけていたところの或る種のデカダン性が排撃されたため、作家の仕事は相当窮屈になった。一例をあげれば、江戸川乱歩は今年は筆を断って休むと云っている。彼の作品を好む読者は相かわらず多く、しかしそういう読者の要求を充たすことになれば、作者としては、時局柄を考えて見て、そう軽々しく筆をとれぬものがあるといった感じなのである。が、さればと云って、この故に探偵小説が没落すると考えるのも早計で、現に、恋愛小説や時代小説ほど多くはないが、相当量の探偵小説が月々発表されていることであるし、乱歩といえども、或いはまた筆を断たずに書き出すかも知れない。時局はデカダン性を排撃しても、一方でよい影響を与えている。探偵作家たちは、むやみに毒々しい色彩のデカダンなどに代るべき何らかの新らしい色彩を発見すべく要求された。(略)

 大下は探偵小説の将来について、楽観的に眺めている。排撃されたのは乱歩に代表されるデカダン的なものという意識が強いから、自分らは生き延びられるつもりであったろう。ただ、いかに「時代を明察」し、それと歩調を合わせるかが必要だと感じていたはずである。

 大下宇陀児のいう「デカダン」は、たぶん「エログロ」といいかえることが可能だと思います。従来の探偵小説の特徴であった乱歩的エログロを捨て、それに代わる新しい色彩を発見することで、時局に歩調を合わせた探偵小説は必ずや書かれ得るはずであるというのが大下の主張です。
 しかし乱歩は、『探偵小説四十年』にこの文章を引いたあと、「いかにも大下君らしい考え方だが、しかし、こういう楽観説も、やがて駄目になるときが来たのである」と証言しています。
 それにしてもよくわかりません。われわれはいわば一般常識として、戦中には探偵小説が弾圧されたため(ここでいう「戦中」は十五年戦争の戦中であるとご理解ください)、探偵作家たちは執筆が許可されていた時代小説の分野に転じて、たとえば横溝正史は人形佐七シリーズを発表したのである、みたいなことをなんとなく知っています。
 ところが実際には人形佐七にも横槍が入っており(しかも情報局の指示なのか版元の意向なのかすらよくわからぬ横槍です)、一方にはデカダンでさえなければと事態を楽観視する探偵作家もまた存在していました。ほんとによくわかりません。


●1月12日(土)
 次は乱歩の証言。『貼雑年譜』の昭和13年のページに「内務省検閲ノ圧迫ヲ蒙ルコト甚シ」と題された文章を見ることができます。その一節。

新潮社選集ノ半バ過ギ(年度デハ翌十四年)頃カラ、支那事変ノ進展ト共ニ国内新体制ノ声姦シク、文芸ソノ他一般娯楽ノ検閲ハ急速度ニ厳重トナリ、大衆文学ノ内デハ、先ヅ股旅物ノ不健全性ガ槍玉ニアゲラレ、ツゞイテ私ノモノナドガ検閲官注視ノ的トナリ、検閲部ニハ私ノ筆名ヲ大キク書イタ看板ノ如キモノガ貼ラレ、私ノ係リトイフモノガ出来テヰルトイフヤウナ噂サヘ聞クニ至ツタ。私自身呼出シヲ受ケルトイフヤウナコトハナク、凡テ人ヅテニ承知スルノミデハアツタガ、新潮社ノ選集ノ係ハ屡々呼出シヲ受ケ、巻毎ニ或ハ削除ヲ、或ハ書改メヲ命ゼラレ、ソレガ私ノ所ヘ持チ込マレルワケデアツタ。

 「承知」の「承」は、原文では「様」という字の旁が書かれています。見たこともない漢字でした。これが「承」の俗字であることをつきとめるのにえらく時間を費やしてしまった私は、自分はわりと無教養なんだな、と思わざるを得ませんでした。いやお恥ずかしい。
 ついでに申し添えておきますと、原文はいわゆる旧字旧かなで綴られていますが、引用では新字旧かなとしております。原文どおりの旧字が使用できればいいのですが、JIS 漢字の制限内で新字旧字の混在したテキストにしてしまうとかえって不統一なので、漢字はすべて新字を採用することにしております。
 さて、内務省による検閲の矛先がまず股旅小説、ついで乱歩作品に向けられたというのも、考えてみればよくわからない話です。股旅もののどこが不健全であったのか。無宿人は徴兵制度の網をくぐる存在だから国策に反する、なんて理由ではまさかなかったでしょうけれど、とにかく理解が届きません。
 乱歩作品の場合は、いわゆるエログロであるという点が検閲部に睨まれた最大の理由だったと考えられます。「私ノモノナド」というのが、乱歩作品に代表される探偵小説という意味なのか、あるいはエログロ小説を指していたのか、もうひとつ判然としないものの、予告したにもかかわらず検閲のせいで新潮社版選集に入れなかった作品が二、三あり、「陰獣」もそのひとつである、とも乱歩は記していますから、やはりエログロの要素が当局の逆鱗に触れたと見るべきでしょう。
 「検閲部ニハ私ノ筆名ヲ大キク書イタ看板ノ如キモノガ貼ラレ」というのが事実だったかどうかは疑わしい気もしますが、こうした風聞が小説家をおおきに萎縮させたのは間違いのないところだと思われます。


●1月11日(金)
 くろがね叢書は前線の兵士に送られた慰問用の出版物で、まさしく恤兵のためのシリーズです。そこに乱歩作品が収録されていたという事実は、戦争中には探偵小説を発表することができなかったという、あえていうならばわれわれの一般常識をくつがえすに足るものです。国全体が暴風圏に入っていた時代、軍部という台風の目のなかだけはまったくの無風状態で、探偵小説という名の蝶が飛ぶことさえ可能だった、ということでしょうか。
 とりあえず証言を見てみましょう。とはいえ、私は探偵小説にはあまり興味がありませんので、たいした証言も思いつけぬのですが、民族主義派の評論家・杉山平助の『文芸五十年史』(昭和17年11月20日、鱒書房)から、第五篇「満洲事変から支那事変へ」の第三章「大東亜戦争直前」の一節を。

 すでに文学に対する政治の優位は、左翼思想の蔓延時代に文学者たちの大いに論じあつたところであるが、それは政府の措置によつて、時代とともに解消した。そこに現はれた一時的な文化的自由の空気が、かの文芸復興時代といふ怪しげなものであつたのであるが、支那事変の四ケ月半は、この事態を急角度に険峻なものとした。
 もはや「文学的自由」などといふことは、一場の痴夢となつた。出版経済の構成の変化すなはち統制の強化は、一切の叛逆性を文筆業者から剥奪して行つたのである。
 資本主義華かな頃の出版の自由営業は、利潤さへあげ得るものなら、如何なる反国家的なものでも、危険を冒して発行することがむしろ編輯者や営業者の「勇気」であるとさへされたこともある。
 しかるに、今や新設の情報局は、その権限をおびただしく拡大し、いやしくも国家に不利、或は不急と認められるやうな執筆や出版は、完全に不可能にされた。
 曾つて作家軍を牛耳り、その故に作家たちを保護したり、或は文学を堕落せしめたり、善悪ともになすところあつた出版資本家や編輯者たちは、そのイニシアテイヴを喪失し滄々浪々たる存在となつた。文筆業者たちも、自らの社会的地位の生殺与奪の権を握るものが、何から何へ移つたかを戦慄をもつて考へはじめた。
 さらに出版文化協会の成立は、用紙の制限といふ方法によつて、従来の自由主義的出版の制抑を強化した。

 情報局、すなわち内閣情報局は昭和15年12月に創設され、情報の収集統制や世論の操作、宣伝を行った内閣直属機関で、言論機関に対して生殺与奪に等しい権限を行使したことは広く知られています。


●1月10日(木)
 きのうの朝はパソコンに向かう時間がありませんでした。飲み過ぎがたたって寝込んでいたわけではありません。ご休心ください。
 さて、問題のくろがね叢書は下記の二冊。

第十七輯
 昭和19年4月30日発行
 「二銭銅貨」「黒手組」収録
第二十輯
 昭和19年7月31日発行
 「灰神楽」収録

 編纂発行はくろがね会、監修は海軍恤兵部です。ちなみに「恤兵」は「じゅっぺい」と読み、金銭や物品を寄付して出征兵士を慰問すること。「恤」には、あわれむ、なぐさめる、といった意味があります。
 乱歩邸でこの二冊を発見したとき、私はたいそう意外な気がしました。戦時下の乱歩は軍部に睨まれて新作の発表はおろか旧作の再録さえままならなかった、というそれまでの印象が一気に覆ってしまったからです。海軍省の外郭団体が出していたアンソロジーに乱歩作品が再録されていたという事実は、発見という以上に軽い衝撃を覚えさせるものでした。


●1月8日(火)
 くろがね叢書。
 昨年末にもちだしたくろがね叢書の話題をうっかり失念していたということを、掲示板「人外境だより」への末永昭二さんのご投稿で思い出しました。
 年明け早々なんだか忙しくなって困惑しているのですが、とりあえずはこのくろがね叢書でご機嫌をうかがいます。
 本日は、「現代」2月号の特集「いま甦る『少年倶楽部』の世界」に掲載された本橋信宏さんの「初出誌ににじむ江戸川乱歩のつぶやき」から、関係のありそうな箇所を引用して枕といたします。

 中国大陸では戦火がますます激しくなり、戦争の影は乱歩をも覆う。二十面相は人を殺めたりしないある種、紳士なのであるが、時局をわきまえて財宝を盗むストーリーは書けなくなり、昭和14年からは二十面相が出現しない、小林少年と明智小五郎による宝探しもの、「大金塊」がはじまる。
 作中、手に入れた財宝は〈その一部を陸海軍に献金した上、残りのお金で、学校を建てたり、病院を建てたりして、あくまでも世間のためにつくす考え〉だった。戦後の版では「陸海軍に献金」の箇所は削られているが、この当時、乱歩もまた軍部に気配りしなければならない空気になっていた。

 軍部への気配り。
 これがどうやら曲者です。


●1月7日(月)
 さて、市長といえば市長選。名張市長選挙の構図がほぼ確定しました。本日付「朝日新聞」伊賀版から、個人名をイニシャルにして引用します。

 名張市選出のK県議(49)は6日、市内で記者会見し、3月31日告示の市長選に立候補する意思を表明した。このあと新年の県政報告会を開き、「国や県とのパイプを太くし、市町村の連携強化、住民との協働を進める」と支援を呼びかけた。市長選には現職のT市長(66)がすでに4選を目指すと表明、共産党地区委員会も候補擁立を検討している。

 こんなややこしい時期にですね、市立図書館嘱託たる私が市役所の内部で市長の発言に含まれた虚偽を追及するとなると、痛くない肚を探られることにもなりかねません。しかしそれもまあ、致し方のないことだと思います。
 そもそも名張市の乱歩記念館構想は、私にとってすでに終わった話題だったわけで、たとえば「乱歩文献打明け話」の第十九回「自爆か誤爆か」にも、

「とにかくまあ名張市もこれに懲りてですね」
「何に懲りなあかんゆうねん」
「思いつきとか上っ面のことだけで済ますのやなしに名張市が乱歩に関して何をやったらええのか、あるいはもう何もせんほうがええのかゆうことを一から出直して考えるべきでしょうね」

 と記してけりをつけたつもりでおりました。だから市長もこの件に関して「残念でしたね」と訊かれたら、ただ「はい」と答えればよかったわけです。「私が無能でした」「私が怠慢でした」と答えればよかったわけです。ところがいうにことかいて何をぬかした。こうなると無能や怠慢の問題ではなくなります。平然と嘘八百を公言できる人間が市長にふさわしいかどうかという、いわゆる資質の問題になります。私もこれまでみたいに、漫才書くだけでことを済ませるわけにはまいりません。徹底的に追及したいと思います。
 現在は教育長の返事待ちといった状況ですが、二の矢、三の矢はすでにつがえてあります。


●1月6日(日)
 初刷という季語があります。はつずり、と読みます。新年最初に出た新聞のことです。
 と、最近の私はある必要から暇があれば歳時記を眺めておりますのでどうしてもこうした話題になってしまうのですが、この季語を恣意的に流用するならば、1月4日の「毎日新聞」夕刊に出た「悪魔が岩」の記事が乱歩文献の新聞における初刷、5日発売の「月刊現代」2月号に掲載された本橋信宏さんの「初出誌ににじむ江戸川乱歩のつぶやき」は雑誌における初刷、と呼べぬこともないと思われます。
 で、私は昨日、下記の文章をプリントして名張市役所自爆テロ新春第一弾の初刷といたしました。名張市教育長宛の文書です。図書館から教育長に提出されるはずですが、きのうは土曜きょうは日曜で市役所はお休み、あす月曜は図書館がお休みですから、この文書が実際に教育長の手許に届くのは早くても8日火曜日のことになるのかな。

 平素は市立図書館の運営に特段のご高配をたまわり、あらためてお礼を申しあげます。また昨年九月と十一月にはご多用のところお時間を頂戴し、まことにありがとうございました。重ねて謝意を表します。
 本年一月一日付の「伊和新聞」(第三二六四号)二面に掲載された名張市長のインタビュー記事に不可解な箇所がありますので、事実関係を貴職にお尋ね申しあげる次第です。
 関連箇所を引用いたします。

 ──乱歩邸は残念な話になりましたね。
 市長 ちょっと豊島区(東京)が横暴すぎた。私は蔵だけ頂こうと、ひそかに平井先生(平井隆太郎・立教大名誉教授=江戸川乱歩の長男)と市教委を通して連絡を取っていました。ところが、豊島区が本宅や蔵書・調度品など貴重な資料を含め、まとめて11億円で購入するという条件を整えてしまったため手を引いた。ところが財政難で豊島区が断念。ご存じの結果となった。といって当市が11億円かけて邸宅まで買い、資料室も経営する訳にもいかずあきらめざるを得なかった。小分けして頂ければ有り難かったのですがね。
 ──それで今後は。
 市長 いろんな展示会などをするとき、立教大に資料をお借りするような交渉があろうかなと思っています。ただ、有り難いことに、慶応大学の推理小説クラブと言うか、ミステリークラブが毎年名張で研修会を開いており、そのOBたちが将来、自分たちの蔵書を全部名張へ寄付しようと意思統一されている。中には価値の高いものもあるでしょう。そういう中で、新たな江戸川乱歩にちなんだミステリーの拠点を作りたいと思っています。

 上記の市長のご発言には、豊島区の乱歩記念館構想に関して明らかな事実誤認が見られますが、それは別にして、「私は蔵だけ頂こうと、ひそかに平井先生(平井隆太郎・立教大名誉教授=江戸川乱歩の長男)と市教委を通して連絡を取っていました」という点、ならびに「新たな江戸川乱歩にちなんだミステリーの拠点を作りたいと思っています」という点の二点についてお尋ねいたします。
 まず、市長が市教委を通して平井隆太郎先生と連絡を取っていらっしゃったというのは、事実なのでしょうか。私は聞き及んでおりませんし、昨年十一月一日に貴職からお話をうかがった際にも、そうした事実は話題にのぼりませんでした。また十二月二日から四日まで上京して平井隆太郎先生にお会いしたときにも、北田藤太郎初代市長が乱歩記念館のことでご遺族に申し入れを行ったという事実は平井先生から教えていただきましたが、それ以降、名張市からは乱歩記念館あるいは乱歩邸の土蔵に関していっさい連絡がなかったとの由でした。市教委が平井先生と連絡を取っていたという事実は、果たして存在するのでしょうか。貴職ご就任以前のことかもわかりませんが、そうした事実があったのかどうか、ご確認のうえご教示いただきたく存じます。
 つづいてミステリーの拠点づくりの件ですが、市長のご発言にもありますとおり、市立図書館は慶応大学推理小説同好会OB会からご蔵書の寄贈をいただいております。しかし、それに基づいて市立図書館をミステリーの拠点にする計画は存在しません。市教委にはそうした構想が存在するのでしょうか。存在するのであればお示しいただきたいと思います。なお、ミステリーの拠点に関して附記しますと、中島河太郎先生が生前贈与された蔵書を基に平成十一年四月、ミステリー文学資料館(東京都豊島区池袋三−一−二、光文社ビル内)が開設されており、市長がどのようなプランをおもちかは存じませんが、ミステリー文学資料館と同様の施設を名張市につくる必要はないと考えます。
 以上二点、市立図書館嘱託として職務に携わるうえで、また今後、市立図書館が江戸川乱歩に関わる事業を進めるうえにおいても、きわめて重要な問題であると判断されますので、公務ご多忙のおりからまことに恐縮ではありますが、あえてお尋ねする次第です。ご回答をお待ちいたします。

  平成十四年一月五日

 と、単に事実関係を確認するだけの文書です。これに対して教育長から回答を頂戴したら、つまり市長の発言に虚偽が含まれていることが判明したら、その時点で二の矢を放つ予定です。


●1月5日(土)
 今度は「悪魔ヶ岩」が出てきました。乱歩邸の土蔵から、乱歩が大学時代に書いた少年小説の原稿が出てきたそうです。毎日インタラクティブによれば、立教大学への譲渡に伴って「平井家に残す資料整理の過程で、書庫として使っていた土蔵内の茶びつから見つかった」もので、

 「悪魔が岩」はもともと、明治期に海外の探偵小説を翻訳したことで知られる作家・三津木春影が「少女の友」(実業之日本社)の1915(大正4)年7、8月号に掲載した小説だが、春影が執筆途中で亡くなったことから続編を一般公募した。乱歩は著書「探偵小説四十年」で、この原稿について「中途で締切日が来てしまって完結しなかったために、投書するに至らなかった記憶」があると記している。

 とのことです。
 『貼雑年譜』には、「悪魔ヶ岩」など大学時代に書いた原稿は「EXTRAORDINARY」と名づけた袋に入れて保管してあると記されていますから、探せば出てくるはずのものではあったのですが、出てきたとなるとやはり凄い。ぜひ読んでみたい。誰かなんとかしてくれんかね。
 毎日の記事をもう少し引いておきます。

 原稿を読んだ浜田雄介・駿河台大教授は「暗号文の解読や結末の謎解きなど、デビュー作『二銭銅貨』を思わせる探偵小説風のトリックがすでに使われている。同時に、洞くつ探検など、『孤島の鬼』以降の通俗ものや少年小説を思わせる要素がふんだんに盛られている。乱歩の想像力の源泉がうかがえる作品といえる」と分析している。

 ついでですから、『貼雑年譜』にある「悪魔ヶ岩」の説明を以下に。

当時「日本少年」ニ連載サレテヰタ三津木春影ノ冒険小説ガ作者死去ノタメ中絶シ、ソノ続篇ヲ懸賞募集シタコトガアリ、ソレニ応ズルタメニ下書キシタノデアルガ、自信ガナクテ投稿シナカツタモノデアル。

 『探偵小説四十年』からも行っときましょう。

 私が大学の初年級にいたころ、三津木春影が「日本少年」だったかに、創作の少年冒険探偵小説を連載中に死去したので、雑誌では、その小説の続篇を広く募集した。私はそのころでも少年雑誌を読んでいたと見えて、それに応募する気になり、原稿の下書きをしたことがある。その下書きが今でも私の古反古袋に残っている。しかし、それは中途で締切日が来てしまって完結しなかったために、投書するに至らなかった記憶だが、いずれにしても、そういうことがあったとすれば、私には少年ものの下地がなかったわけでもないのである。

 『貼雑年譜』の「自信ガナクテ」が『探偵小説四十年』で「中途で締切日が来てしまって」になっているあたり、いかにも微笑ましい気がします。
 いやしかしそれにしても、乱歩の土蔵というのはなんとも凄いものです。

毎日インタラクティブ


●1月4日(金)
 さあそろそろ普通の生活に戻ろう。お正月はおしまいだ。
 短くてすみません。


●1月3日(木)
 新年三日目。

一人居や思ふ事なき三ケ日   夏目漱石

 1日の夜と2日の夜は拙宅で招客と大宴会、3日は大阪で知人と大宴会というのが年来の習わしなのですが、こんなに毎日酔っ払ってると名張市長の嘘八百のことなんかもうどうだっていいやという気にならぬでもありません。お正月休みというのは気勢を殺ぐものであると知りました。しかし見過ごしてしまうことはできませんから、お正月気分もきょうあたりでおしまいにして、あしたからはもう少し殺気立つことにしたいと思います。
 昨日引用した市長インタビューの「慶応大学の推理小説クラブと言うか、ミステリークラブが毎年名張で研修会を開いており」という箇所に関して記しておきますと、この団体の正式名称は慶應義塾大学推理小説同好会OB会。毎年秋に名張市立図書館においでいただいており、昨年は12月1日にお越しくださいました。夜は名張市中町のもりわきで狂牛病もものかはのすき焼き大宴会が開かれ、私もお邪魔いたしました。翌日は紅葉の京都を周遊されたはずです。しかしあれは研修会などというものではありません。交流親睦の集いです。とはいえまあ、市長や市議会議員らによるごく内輪の打ち合わせにいちいち市の食糧費を支出するのは不当であると市民団体から住民監査請求を突きつけられる名張市においては、交流親睦を研修といいかえるのは当然のことなのかな。
 あ。ちょっと調子が出てきた。

門松やひとりし聞くは夜の雨   一茶

 それではまたあした。


●1月2日(水)
 新年も二日目を迎えました。二日酔いです。

初春や思ふ事なき懐手   尾崎紅葉

 などといってる場合ではないのですが、なにしろ名張市立図書館は1月4日までお休みです。5日には図書館に顔を出し、名張市長インタビューの件でひと暴れしなければならんなとは思っているのですが、それまではおとなしくしているしかありません。
 さてその「伊和新聞」の市長インタビュー、きのうの引用箇所のつづきを引きます。

 ──それで今後は。
 市長 いろんな展示会などをするとき、立教大に資料をお借りするような交渉があろうかなと思っています。ただ、有り難いことに、慶応大学の推理小説クラブと言うか、ミステリークラブが毎年名張で研修会を開いており、そのOBたちが将来、自分たちの蔵書を全部名張へ寄付しようと意思統一されている。中には価値の高いものもあるでしょう。そういう中で、新たな江戸川乱歩にちなんだミステリーの拠点を作りたいと思っています。

 この程度のことしか考えられんのかまったく、と呆れ返ってしまいますが、遺憾ながら本日はここまでといたします。頭がぼんやりしております。

三椀の雑煮かゆるや長者ぶり   蕪村

 さあお雑煮を食ってこよう。三が日で年の数だけお餅を食べたいなと念じているのですが。


●1月1日(火)
 あけましておめでとうございます。

元日や神代の事も思はるる   荒木田守武

 などと改まるのは柄に合いません。さっそく行きましょう。
 名張市で発行されている「伊和新聞」という週刊の地方紙があります。昨年12月15日号に掲載された「名張“乱歩館”の夢遠のく」という記事は「RAMPO Up-To-Date」でもご紹介しましたから、ご記憶の方もおありでしょう。さよう。エラリー・クイーン氏が建築家であると報じたあの新聞です。
 一昨日、つまり12月30日の夕刻、この「伊和新聞」の新年号が拙宅に郵送されてきました。二面には新春企画として名張市長のインタビューが掲載されています。見出しの一本は次のとおり。

乱歩顕彰 立教大とも連帯密に

 へーえ、と思って記事を読み、私は唖然といたしました。
 わが眼を疑いました。
 言葉を失いました。
 開いた口がふさがりません。
 手がわなわなと顫えます。
 関連箇所は次のとおり。

 ──乱歩邸は残念な話になりましたね。
 市長 ちょっと豊島区(東京)が横暴すぎた。私は蔵だけ頂こうと、ひそかに平井先生(平井隆太郎・立教大名誉教授=江戸川乱歩の長男)と市教委を通して連絡を取っていました。ところが、豊島区が本宅や蔵書・調度品など貴重な資料を含め、まとめて11億円で購入するという条件を整えてしまったため手を引いた。ところが財政難で豊島区が断念。ご存じの結果となった。といって当市が11億円かけて邸宅まで買い、資料室も経営する訳にもいかずあきらめざるを得なかった。小分けして頂ければ有り難かったのですがね。

 この嘘八百はいったい何事であるのか。
 この男はいったい何を口走っておるのか。
 豊島区が横暴だと?
 平井先生とひそかに連絡を取っていただと?
 「豊島区が本宅や蔵書・調度品など貴重な資料を含め、まとめて11億円で購入するという条件を整えてしまった」とはどういうことか。豊島区は乱歩記念館の建設に必要な費用を試算して十億円という答えを弾き出し、そんな金はとても捻出できぬと建設を断念しただけの話である。それとも何か、豊島区はわざわざ十一億円で乱歩邸をまるごと購入する話をまとめたうえで、いやじつはよく考えてみましたら財政難でしてと断りを入れたとでもいうのか。莫迦も休み休みいえ。こんな嘘には子供だって騙されんぞ。嘘をつくならもう少し事実関係をしっかり掴んでからにすることだ。豊島区を悪者にしておのれの不明や怠慢を糊塗しようったってそうはいかんぞ。

 だいたいが名張市長の命を受けて平井先生と連絡を取っていたというのはいったいどこの市教委だ。少なくとも名張市教委ではあるまい。私が昨年こら夜中に教育長の家に電話入れるぞこらと脅しを入れて(こういうのを横暴といいます)ようやく11月1日午後、名張市役所で教育長ならびに教育委員長と面談する機会を得たことはこの伝言板でも逐一お知らせしたとおりである。その席ではそんな話はまったく出なかった。市長が何を考えているのかさっぱりわからぬという話が出ただけである。1997年の年頭記者会見で市長が乱歩記念館の構想を打ち出したときもその構想を受けて動いた職員は一人もおりませんでしたなあ、という話が出ただけである。名張市は乱歩記念館に関して何の手も打っていないという話が出ただけである。
 それがどうだこのいいぐさは。
 あきらめざるを得なかっただと?
 小分けしていただければありがたかっただと?
 よくもぬけぬけとほざけたものだ。
 激怒しながらあすにつづくぞ。

初春まづ酒に梅売る匂ひかな   芭蕉

 ですからこんなことになった以上は初春だからといってお酒ばかり飲んでもいられませんと申しますのに。