2002年5

●5月31日(金)
 もう5月も終わりか、と茫然としてしまいます。
 3月に東京堂出版から刊行された『現代文学鑑賞辞典』(編=栗坪良樹、本体二九〇〇円)は、明治、大正、昭和、平成の四代にわたる近現代日本文学の代表的な小説、評論、戯曲など三百九十作品を選び、「あらすじ」と「読みどころ」を解説する一冊。作者名の五十音順で、一作家一作品、一作品一ページを基準に編集されています。
 われらが乱歩は「D坂の殺人事件」がとりあげられており、やや意外な感がしないでもありません。何も「盲獣」をあげろとはいいませんが。ほかに探偵作家はと見てみると、わずかに夢野久作「ドグラマグラ」が目につく程度。あとは松本清張が「或る『小倉日記』伝」と「点と線」で一作家二作品という破格の扱いを受けているのが腹立たしい。いや腹立たしくはありませんが。ちなみに、かつて清張と並び称されていた水上勉は「金閣炎上」で登場しています。
 そして意外といいますか当然といいますか、山田風太郎がしっかり入っているのが嬉しいニュースでしょう。さて、ここでクイズです。この『現代文学鑑賞辞典』にとりあげられている風太郎作品はいったい何でしょうか。
 莫迦なことやってないで、海老原由香さんによる「D坂の殺人事件」の「読みどころ」から引用します。

私と明智の推理比べという趣向をとりながら、ミュンスターバーグの『心理学と犯罪』における「錯覚」「証人の記憶」などを援用した視覚のトリック(白黒棒縞の浴衣を格子越しに見ると角度によって白い浴衣にも黒い浴衣にも見えること)や、谷崎潤一郎、ポー、ドイル、ルルーらの推理小説への言及を織り込んで小説の多面的な可能性をも追究している。

 さっきのクイズの答えは「戦中派不戦日記」です。


●5月30日(木)
 訂正。
 昨日、7月28日の「名探偵ナンコ」で「江戸川乱歩一代記」が初演されると記しましたが、これは間違い。初演は6月24日で、7月28日は再演となります。南湖さんから掲示板にお知らせをいただきましたので、謹んで訂正いたします。どうも申し訳ありません。
 ついでですから「江戸川乱歩一代記」についてもう少し記しますと、話は3月24日に遡ります。この日、第四回「名探偵ナンコ」で「魔術師・序」が初演されたあとの記念大宴会の席上、私は南湖さんに、探偵講談の名張公演ではオリジナルの「江戸川乱歩一代記」を一席やってもらえませんか、とお願いしました。無教養きわまりない名張市民のみなさんに、乱歩がどういう作家であったのか、乱歩と名張がどんな関係にあったのか、みたいなことを大雑把にでも知っていただきたいなと思ったからです。
 一代記といっても一席の講談で乱歩の生涯をたどることは不可能ですから、まあ名張での生誕から名古屋での幼少期、東京での苦学生活、職業を転々とした独身時代、そして極貧のなかで鳥羽から妻を迎え、やがて「新青年」に「二銭銅貨」が掲載されるという通知が届いて夫人ともども大喜びした(これはほんとに夫婦で大喜びしたそうです。乱歩が結婚に関するアンケートでそんなこと書いてました)、みたいなところまでを講談化してもらえればいいなと目論んでおりました。
 要するに、江戸川乱歩という名前はかすかに知っている、どっかで聞いたことがある、といったあたりが名張市民の一般的レベルであると判断されますので、そういうみなさんに乱歩に関する基本的な知識を身につけていただき、同時に探偵講談「二銭銅貨」への導入をも果たすのが「江戸川乱歩一代記」の狙いでした。題材は乱歩のエッセイから適当に取捨選択して南湖さんに提供しようと考えていたのですが、南湖さんの隣にお坐りだった芦辺拓さん、自分が台本を書いてみようかなとふと口になさいましたのが運の尽きでした。
 明けて3月25日、私は名張市教育委員会の教育長らと上京し、芦辺さんや南湖さんと芳林堂書店池袋店で落ち合ってから乱歩邸に向かいました。道中別段のお話もありません。乱歩邸では平井隆太郎先生の前で南湖さんに「魔術師・序」のさわりを披露してもらったりなんやかんや、いろいろお話が弾んだのですが、ここらでひとつきっちりしとかなあかんなと思いましたので、私は平井先生の前までへこへこと膝行し、
 「南湖さんに名張でやってもらう探偵講談では、『江戸川乱歩一代記』という新作を一席加える予定でおりますので、どうかご了解ください。これは『探偵小説四十年』をはじめとした乱歩先生の自伝的エッセイから題材を集めましてですね、乱歩先生のことを講談の形で名張市民に再認識してもらえるようなものにしたいのですが、ゆうべも南湖さんとそんな話をしておりましたら、横にいらっしゃった芦辺さんから、そういうことであれば自分に任せろと、一代記の台本は自分が書いてやろうと、いや書かせてくださいと、もちろんただで結構ですと、原稿料なんか一銭も要りませんと、乱歩先生の一代記を書けるというのは作家としてこの上ない名誉でありますと、たいへんありがたいお申し出を頂戴したような次第でして、つきましては台本をまとめていただく段階で芦辺さんか南湖さんから先生に電話でご質問させていただくことがあるかもしれませんので……」
 みたいなことをたらたらお願いしておきました次第です。芦辺さんが坐っていらっしゃったソファのあたりから、
 「いやそれはちょっと事実と違うような……」
 と蚊の鳴くような声が聞こえたような気もしたのですが、何あんなものは空耳さ。
 といった次第で芦辺拓さん渾身の乱歩小説講談バージョン「江戸川乱歩一代記 乱歩と神田伯龍」、下記の日程で初演される予定です。

第七回『できちゃったらくご www.ukl.com』
―allネタ下ろし新作ライヴ―

日時●6月24日(月)/午後6時半開場、7時開演 
会場●茶臼山舞台(JR・地下鉄天王寺駅下車北へ徒歩五分、「P☆coat」二階)
料金●前売電話予約(茶臼山舞台/06-6774-9655)1000円/当日1200円
出演●桂あやめ、桂三風、月亭遊方、桂かい枝、旭堂南湖

 残念ながら私はお邪魔できません。南湖さんのご健闘をお祈りいたします。


●5月29日(水)
 次回の「名探偵ナンコ」は7月28日、つまり乱歩の命日の開催で、乱歩関連では新作の「江戸川乱歩一代記」が初演されます。むろん旭堂南湖さんのオリジナル。講談の台本は演者がみずから書くのが慣わしだそうですが、作というか構成というか、いわゆるシノプシスは芦辺拓さんに担当していただくことになっております。
 先日ご本人からうかがったところでは、ときは昭和10年秋、ところは池袋の乱歩邸、新作に苦吟する乱歩のもとを明智小五郎のモデルとなった講釈師神田伯龍が訪れて、といかにも芦辺さんらしい趣向が冴える一席となる模様。乱歩小説講談バージョン、といったところでしょうか。どうぞお楽しみに。


●5月28日(火)
 乱歩と講談に関しては、旭堂南湖さんの探偵講談を紹介するエッセイ「よみがえる『探偵講談』」(産経新聞大阪本社版4月8日夕刊)で、芦辺拓さんがこんなふうに書いていらっしゃいます。

一部愛好家のものだった探偵小説を大衆化するに当たって、江戸川乱歩氏が講談を参考にしたことは知られている。テンポのいい語り口、見せ場の連続、単行本では削除されているが、連載の各回冒頭にそれまでの物語を手際よくダイジェストする作法などがそれだ。
 今回の南湖さんの試みはそのことを一層はっきりさせた。原文には極力手を加えなかったにもかかわらず、会話も地の文も高座に書き下ろされたようにピタリとはまり、作中の表現に講談の常套句があることも明らかになった。

 探偵講談「魔術師・序」について記された箇所ですが、いささかを補足しておきますと、創元推理文庫『魔術師』の21ページをお開きください。蜘蛛男事件を解決し、湖畔のホテルで休養していた明智小五郎のもとへ、浪越警部から一本の電話が入りました。明智は急遽東京に戻ることになり、ホテルをあとにして汽車に飛び乗ります。で、

車中別段のお話もない。

 と創元推理文庫『魔術師』の21ページ五行目に書かれているこの文章、これが講談の常套句なんだそうです。3月24日に初演された「魔術師・序」で高座の南湖さんからこの事実が明かされたとき、私はちょっとした衝撃を感じました。ありゃりゃ、乱歩はそこまで徹底して講談の手法を採り入れていたのかいな、という衝撃です。いわゆる百万読者のための小説を書くに際して、乱歩がいかに周到に戦略を練っていたかがあらためて実感された次第です。
 ですから乱歩作品の、とくに通俗長篇における講談の受容といったテーマはこれからこってり考察されるべき題材でありまして、そのためにはとりあえず南湖さんの探偵講談、江湖の乱歩読者に広くお聴きいただく機会を提供しなければなりません。
 本年10月13日に名張市へおいでいただければ南湖さんの講談をご堪能いただけるわけですが、なんのなんの、名張市民などという無教養な連中だけを相手にするのではいかにももったいない、ひきつづいて東京公演を実現することが名張市の使命であると私は思っておりまして、しかし名張市役所のお役人のみなさんにはこういう話を打てば響くようには受け容れてもらえないようなので、6月1日付の人事異動もきのう発表されたことですから、そろそろ地域振興課のお偉いさんあたりを怒鳴りつけてやろうかなとも考えているところであり、宣戦布告がわりの漫才一本、きのう仕上げたばかりのものをご披露申しあげましょう。

 個人情報保護法案を考える
「しかし難儀な時代になりましたね」
「きょうは何をぼやきますねん」
「個人情報保護法案」
「いま国会で揉めてるやつですか」
「この『四季どんぶらこ』も小なりといえども一応メディアなんですから」
「どないしました」
「ああゆうメディア規制の動きに対してはここらで毅然として反対の意思表示をしとかなあかんわけですけど」
「どうなんでしょうね」
「編集部にはとてもそこまでの見識はないでしょうね」
「編集部にぼやいてどないするねん」
「まあ『四季どんぶらこ』編集部はそんな程度でええんですけど」
「ほな何が問題なんですか」
「僕らです」
「僕らといいますと」
「要するに漫才です」
「漫才がどないしました」
「よう考えてみ君、あんな法案が成立してしもたら僕らおちおち漫才もやってられんようになってしまうわけですから」
「そうなんですか」
「これまでは僕らも自由にお役所を批判することができたわけですけど」
「これからはあきませんか」
「個人情報の保護を名目として権力が僕らを圧殺しにかかりますからね」
「なんや表現が大袈裟すぎませんか」
「この漫才のメインテーマは名張市役所はどうもしゃあないゆうことなんです」
「しゃあないこともないでしょうけど」
「極端にゆうてしもたら名張市のお役人はあほばっかりやゆう話なんです」
「極端すぎるがな」
「でもそれが個人情報なんです」
「あほやゆうことがですか」
「個人情報保護法案が成立した暁には個人情報を扱うにあたって本人の同意が必要になってきますからね」
「それはそうらしいですね」
「せやから僕らも漫才やる前いちいち名張市役所に出向きましてね」
「どないしますねん」
「今度の漫才であんたらのことあほやゆうて喋りたいんですけど同意してもらえまっしゃろか」
「誰が同意するかそんなもん」
「そう。彼らもそこまであほやない」
「しかし君、そこまで人をあほやあほやゆうとったらしまいに怒られますよ」
「あほをあほやと批判するのにあほの同意が必要やゆうのはじつにあほな話で」
「知らんがなそんなこと」

 乱歩と漫才というテーマなら、私もそこそこ考察できるように思うのですが。


●5月27日(月)
 きのうご紹介した山沢晴雄さんの「オールド乱歩ファンの回想」では、乱歩の名が映画俳優、落語家、浪曲師の名とともに回想されている点が興味深かったのですが、芸能の分野ではもうひとつ、講談というジャンルも忘れられるべきではありません。昨日、旭堂南湖さんの講談会「名探偵ナンコ」が大阪で開かれ、探偵講談「二銭銅貨」が初演されたのですが、高座を拝見して乱歩と講談の関係性があらためて認識された次第です。
 ところできのうの「名探偵ナンコ」は、狭い会場ではありましたが満員の入り。用意したパイプ椅子が足りなくなるほどの入場者があり、探偵講談はいよいよブレイクの兆しを見せているなと実感されました。入場者には名張名物二銭銅貨煎餅が配られたことも附記しておきましょう。これで「本の雑誌」に私の投稿が採用されれば、二銭銅貨煎餅もいよいよブレイクするのですが。
 ちなみにこの二銭銅貨煎餅、名張市中町の山本松寿堂という和菓子屋さんが製造販売を手がけているのですが、きのうの会場には驚くなかれそのご主人が琴瑟相和し夫婦でお見えだったので驚いてしまいました。きょうあたり、山本松寿堂の店内には南湖さんの色紙が麗々しく掲げられることだろうと思います。
 さて南湖さんの探偵講談「二銭銅貨」、いちばん率直な感想は、やはり「魔術師」は凄かったという点に尽きると思います。前回の「名探偵ナンコ」では「魔術師・序」が初演されたのですが、これがまるで講談のために書き下ろされたかのようなはまりよう。逆にいうと、乱歩がいわゆる通俗長篇の執筆に際してきわめて戦略的に講談の作法を採用していたことが証明される高座となりました。
 「二銭銅貨」にも乱歩の講談好きは示されていて、講談本が貧しい庶民に手軽な娯楽といささか怪しい教養を提供する媒体であったことが作中から知られるなんて、私はきのうの高座で初めて知ったような次第でした。
 乱歩と講談という古そうでじつは新しいテーマ、誰かじっくり考察してみてくれませんか。


●5月26日(日)
 「別冊シャレード」65号《山沢晴雄特集》(甲影会発行)が出ました。収録の乱歩文献は、目次から確認できる範囲では次の三点。

乱歩とクイーン(関西探偵作家クラブ会報74号/昭和38年2月)
映像で見る明智小五郎(初出不明)
オールド乱歩ファンの回想(初出不明)

 初出不明のものも調べはつくはずですが、とりあえず不明としておきます。
 山沢さんは生粋の関西人だと思い込んでいたのですが、「オールド乱歩ファンの回想」によれば、ご両親はともに江戸っ子で、関東大震災で大阪に逃げた翌年、山沢さんがお生まれになったとのこと。山沢さんは十五歳で上京し、叔父さんが経営する会社で働くようになります。

 住み込んでいた工場のすぐ裏に東部線小村井の駅があって、休日には浅草へ出て遊んだ。阪妻の「風雲将棋谷」嵐寛の「右門捕物帳」みんな封切りが見られたし、柳家三亀松もナマで見られる。正月には金龍館の一等席をおごって好きな廣澤虎造をきいた。ちょっとした豪遊気分だったが、なによりもうれしかったのは乱歩だ! 新刊の書籍店をのぞくと、あの江戸川乱歩の文庫本がズラリと並んでいるではないか。よりどりみどりだ。私は早速『蜘蛛男』を買って帰り、寮でむさぼり読んだのを覚えている。もう誰にも遠慮せずに乱歩が読めるのだ。自由にエッチな興奮にひたれるのだ。禁断の書物が易々と手に入った喜びは何物にも替えがたかった。

 乱歩の名が阪妻、嵐寛、三亀松、虎造といった名代の芸人とともに回想されている点、なかなか興味深く思われる次第です。ちなみに文中の「東部線」、正しくは「東武線」でしょう。

別冊シャレードのラインナップ(甲影会)


●5月25日(土)
 もう手当たり次第です。
 4月20日から6月9日まで世田谷文学館で開催されている「追悼 山田風太郎展」は、風太郎ファンならぜひ足を運ぶべき好企画。力の入った図録も出ています。
 その図録『追悼 山田風太郎展』に収録された新保博久さんの「父なる乱歩と母のない子ら──乱歩・正史・彬光らとの交流記」は、乱歩を中心とした戦後の探偵文壇に「疑似ファミリー」の似姿を見(むろん乱歩が「父」ですが)、「その“父”が果たしえなかった夢を託したのは誰かとなると、これは各人各説となるが、私は横溝正史、高木彬光、そして山田風太郎の三人を挙げたい」と指摘する乱歩文献。

 正史・彬光は、乱歩みずから書こうとして叶わなかった長篇本格推理を継続して世に問うて規範を示した。そして短篇ではポー、チェスタトンを理想としながら、ポー的なものは自身持ち合わせながらチェスタトン的資質に欠けていた乱歩が、無意識的にでもチェスタトンを見出していたのが風太郎だったのではないか。

 つづきは図録をお買い求めのうえお読みください。地方在住の方は同館にお問い合わせをどうぞ。

世田谷文学館


●5月24日(金)
 きょうも新刊の話題です。
 太田出版から4月に出た『必読書150』(著=柄谷行人、浅田彰、岡崎乾二郎、奥泉光、島田雅彦、〓〔糸+圭〕秀実、渡部直己。本体一二〇〇円)は、当初「学生に与える本のリスト」として構想されたというブックガイド。人文社会科学、海外文学、日本文学の三ジャンルで五十ずつ、合計百五十作品がとりあげられています。
 日本文学には、われらが乱歩の「押絵と旅する男」も登場します。奥泉光さんによる紹介文から引用しましょう。

 まったく乱歩は馬鹿々々しい。で、そこが素晴らしい。面白い。ミステリ批評家としての乱歩も見逃せないが、やはり作品の馬鹿々々しいまでの幻想性が、後進の作家たちをインスパイアしてきた功績は大きい。

 インスパイアされた作家の筆頭である中井英夫の「虚無への供物」がどうして日本文学五十作品にとりあげられておらんのか、といってみたい気もいたしますが、とにかくえー、こんな具合に新刊紹介でお茶を濁す日がつづきますときは、あ、身過ぎ世過ぎに追われて結構忙しいんだな、とご判断ください。ではまたあした。


●5月23日(木)
 第五十五回日本推理作家協会賞の選考委員会は昨22日午後3時から第一ホテル東京で開かれ、長編および連作短編集部門は古川日出男さんの「アラビアの夜の種族」(角川書店)と山田正紀さんの「ミステリ・オペラ」(早川書房)、短編部門は法月綸太郎さんの「都市伝説パズル」(「メフィスト」9月号)と光原百合さんの「十八の夏」(「小説推理」12月号)に決まりましたが、評論その他の部門にノミネートされていた末永昭二さんの「貸本小説」は受賞には至りませんでした。
 末永さん囲んで残念大宴会をかまさなあかんな。


●5月22日(水)
 訂正。
 昨日ご紹介申しあげました坂崎重盛さんの『東京本遊覧記』には、永井荷風の作品もとりあげられておりました。目次には、

『荷風随筆集』(上)野口冨士男編

 と編者名が記されていましたので、つい見落としていた次第。ひとことお詫びいたします。
 
つまり結局乱歩のみが、作品は紹介されていないのに広告に名前をあげられていたというわけで、これは乱歩のポピュラリティがよく示されたエピソードだといえます。あと四、五十年も経てば、谷崎の東京や荷風の東京はすっかり忘れられ、ただ乱歩の東京だけが残ってるなんてことになってるかもしれません。
 本日も東京関連で、小林信彦さんの新刊『昭和の東京、平成の東京』(筑摩書房、本体一七〇〇円)の話題。
 この本には「THE CARD」という雑誌の1998年9月号から99年9月号まで連載された「東京十二景」というエッセイが収録されていて、なかに「江戸川乱歩が似合った池袋」と題された章があります。
 敗戦から十三年後、失業した著者が池袋に下宿した経験が語られているのですが、当時の池袋駅にはまだ闇市が存在していたとのこと。小林さんの読者にはおなじみの乱歩から雑誌編集の手伝いを依頼されたエピソードが記され、池袋についてはこんなことが書かれています。

 江戸川乱歩が居をかまえた戦前、このあたりは、画家や作家の多い〈文化人村〉であったらしい。江戸川邸の庭もカエルや蛇が出るような淋しさであったことは、当時の資料でわかる。人ぎらいの乱歩は、そうした場所をえらんだのだろう。
 第二次大戦後、闇市がデパートに変り、デパートの発展につれて商店や家がびっしり建ちならんで、〈文化人村〉の面影はまったくなくなった。

 乱歩が居を構えた当時の池袋は、乱歩作品に即していえば、「孤島の鬼」に描かれた池袋のような淋しさであったはずだと附記しておきます。
 でこのあと、応接間をスケッチする必要から何十年ぶりかで乱歩邸を訪れたことが記されて(たぶん文春文庫『回想の江戸川乱歩』に収録されたスケッチでしょう)、この短いエッセイは、

 池袋の町は変り、人も変った。しかし、この応接間のシーンとした空気だけは変っていない。スリッパの音がして、乱歩が姿を現わしたとしても、少しもおかしくなかった。

 と結ばれます。しかし、乱歩が姿を現したら、やはりおかしいというか怖ろしいのではないでしょうか。


●5月21日(火)
 本の話題です。
 晶文社には騙された、という話題。
 晶文社から出た坂崎重盛さんの『東京本遊覧記』(本体二二〇〇円)、当地の書店に取り寄せを頼んであったのが届きました。
 カバー袖には「書評でもガイドブックでもない、東京読本の決定版。歴史の向こう側に消えていった東京の、ひとびとの姿が見えてくる」とあります。東京日日新聞社編『大東京繁昌記』から川上澄生『新版明治少年懐古』まで、東京人のノスタルジーをくすぐるのであろう「東京本」七十数冊を紹介する内容で、なかなか面白い視点から書かれた本だと見受けられます。
 ただしこの本、新聞広告には谷崎、荷風、乱歩という三つの名前があげられていて、私はてっきり乱歩作品が紹介されているのだろう、「一寸法師」かな「怪人二十面相」かな、と思っていたのですが実際はさにあらず。とりあげられている東京本乱歩版は、なんと松山巌さんの『乱歩と東京』でした。なんのこっちゃ。
 そういえば谷崎こそ『幼少時代』が採られていますが、荷風もまた野口冨士男『わが荷風』で登場しているといった按配ですから、新聞広告に谷崎、荷風、乱歩と三人の名があげられていたのは、いささかアンフェアだったのではないかという気がしないでもありません。しかしそのアンフェアな広告のおかげで少なくとも読者が一人増えたのですから(私のことです)、見事な広告であったともいえるでしょう。
 晶文社には騙された、といってしまうといいすぎですが、まあそんな話題でした。
 ちょっと引用しときましょう。

 乱歩は新興都市の“明”の部分ではなく、“暗”の世界に息づく人間を描く。また、東京の中心ではなく、周辺、場末に登場人物を配することが多い。また、かりに都市の中心であったとしても、人々の死角になるような空間。
 乱歩の作品の登場人物は、都市の闇を呼吸しながら行動する。それは、あたかも乱歩自身が、都市に闇がなければ生きていけないかのように。身を隠す空間がなければ息つぐこともできない人間のように。

 松山巌さんの『乱歩と東京』について書かれたのは、わずか三ページほどの文章。興味のある方は立ち読みをどうぞ。


●5月20日(月)
 「三角窓口」への投稿文、推敲に推敲を重ねて下記のとおりとなりました。誌面どおりに一行十七字で組むと、起承転結の四段落はいずれも七行ずつ。本日発送いたします。
 しかし忙しいってのに私は何くだらないことに(くだらないといっては語弊がありますが)嬉々として情熱を傾けているのでしょうか。

 こんにちは。四月号の「三角窓口」に掲載された斉藤みきさんのご投稿、たいへん楽しく拝読しました。「二銭銅貨の町」のご発見、さぞやお喜びのことと拝察いたします。しかし残念ながら、斉藤さんには冷厳な事実をお知らせしなければなりません。
 江戸川乱歩の「二銭銅貨」に出てくる五軒町は、神楽坂界隈ではなくて旧神田区内にありました。「地図で五軒町という町を探すと、神田区内にあることがわかった」と作中に明記されています。現在の地名でいえば外神田六丁目にあたります。
 私が主宰するHP名張人外境(http://www.e-net.or.jp/user/stako/)の掲示板に、東京都の松村武さんから右の旨ご投稿いただきましたので、血も涙もなくお知らせする次第です。詳細は弊HP内の人外境主人伝言録五月十九日付に記してあります。
 斉藤さん。どうか落ち込まないでください。メールでご住所をお教えいただければ、当地名物の二銭銅貨煎餅をお送りします。これで立ち直ってください。じつは当地は乱歩の生誕地。二銭銅貨煎餅の町である名張市にも、ぜひ一度お運びください。さようなら。

 名張名物の二銭銅貨煎餅が椀盤振舞される旭堂南湖さんの第五回「名探偵ナンコ」、いよいよ5月26日に催されます。乱歩原作の「長講 探偵講談 二銭銅貨」が目玉です。君も「二銭銅貨」を聴いて二銭銅貨煎餅をゲットしよう。詳細は「番犬情報」でご覧ください。
 本日はこのへんで失礼します。


●5月19日(日)
 読者はお忘れかもしれません。私はすっかり忘れてました。4月23日付伝言に記した「本の雑誌」4月号の「三角窓口」の話題です。
 「三角窓口」は読者投稿のコーナーで、4月号には斉藤みき・エラリー・クイーン研究家33歳・江戸川区、とおっしゃる方の「『二銭銅貨』の町にやってきた!」というご投稿が掲載されていました。「二銭銅貨」に出てくる五軒町を神楽坂界隈で発見したという内容だったのですが、伝言をお読みになった松村武さんから掲示板「人外境だより」に、斉藤さんの事実誤認を訂正するご投稿をいただきました。
 松村さんのご投稿二件、転載いたします。

松村武@「乱歩の世界」ニセ札被害者
   2002年 4月30日(火) 11時27分

ご主人様、先般6日の大宴会ではお世話になりました。松村武でございます。
さて、先日4月23日付の「人外境主人伝言」を拝読してましたところ、妙なことに気付きましたので、差し出がましいようですが、一言、連絡いたします。
「本の雑誌」4月号・「三角窓口」の欄、斉藤みき様なる方の「『二銭銅貨』の町にやってきた!」で、

(引用開始)
十年ほどまえに神楽坂界隈を歩いていたとき、「五軒町」と書かれた住所表示プレートを発見し、

  「五軒町だ。『二銭銅貨』だ!」
   そう、「二銭銅貨」の中に出てくる、
  あの有名な暗号文「ゴケンチョーショ
  ージキドーカラ…」の五軒町です。私
  は生れも育ちも千葉県人で、五軒町が
  東京に実在する町だとは、この時まで
  全く知らなかったのでした。
  「『二銭銅貨』の町に来たぞ!」
(引用終わり)

と書かれておられます。「本の雑誌」4月号の当該記事・全文を未だ確認してないのですが、斉藤みき様には誠に申し訳ないことに、

(1) 「二銭銅貨」の本文中、松村武のセリフで「(前略)地図で五軒町という町を探すと、神田区内にあることがわかった。(後略)」と明記されている。
(2) 然るに、神楽坂界隈は旧・神田区内ではない(牛込区か小石川区です)。
(3) なお、神楽坂界隈には「東五軒町」「西五軒町」という町名は、確かに実在する。
(4) 僕が持っている(あの時、下のおかみさんから借りてきたまま返し忘れています(笑))、「東京市全圖」(便覧社刊、大正9年3月10日訂正第32版発行)で当たってみたところ、大正9年当時から、神楽坂界隈の「五軒町」は東と西に分かれていた。しかも此処は牛込区(現・新宿区)である。
(5) そこで同地図で神田区を当たってみたところ、五軒町が実在した。日本橋から上野へ向う中央通り沿い、南から、末広町、五軒町、西黒門町と続いて、上野広小路に接する辺りで、現在の住所で言えば、外神田6丁目に該当する。
(6) また、これは状況証拠ですが、明治末年(大正元年)、乱歩が上京して活版工見習いとして住み込んだ雲山堂は湯島天神町にあるが、この湯島天神町と上記の神田・五軒町は隣接している。「二銭銅貨」の印刷所・正直堂のモデルが雲山堂だとは断言できないが、印刷所からの連想で、神田・五軒町を想定するのは自然だと思う。
(7) 従って、「二銭銅貨」の五軒町は、神楽坂近辺ではなく、外神田6丁目であると断定して良いと思う。

以上のとおりです。あの時、友人に騙されて、番頭の格好をして現地に行ってきた松村が言うのだから、間違いありません(笑)。
万が一にも「二銭銅貨」旧跡見学で、神楽坂に行かれる方があるやも知れない、との老婆心から、お節介ながらも上記、連絡しておきます。


松村武@大黒屋商店・丁稚
   2002年 5月 2日(木) 15時11分

>ご主人様、小西様
ご返事有難うございます。確かに事実誤認による誤れる情報の流布は困りものですね。「本の雑誌」への連絡の件は、ご主人様のお手を煩わして恐縮ですが、ご意見どおりにしていただけると幸甚です。宜しくお願い致します。

なお、先日の書き込みで、「(前略)印刷所からの連想で、神田・五軒町を想定するのは自然だと思う」などと書きましたが、考えてみると、旧・牛込区の五軒町の方こそ、大企業から中小まで印刷所・出版社がひしめく界隈にあり、また、この東&西五軒町に隣接する新小川町に、乱歩は大正5年に住んでいた訳ですし、おまけに「二銭銅貨」の話でも、紳士泥棒が逮捕されたのは、目と鼻の先の飯田橋・・・。
まあ、「二銭銅貨」本文に「神田区内」と明記されており、神田区に五軒町が実在した以上、問題ないとは思いますが。

でも、素っ気ないオフィス街と変わり果てた外神田6丁目よりも、空襲の被害が少なかった神楽坂界隈の方が遥かに、大正時代の雰囲気を残して、乱歩の作品世界を髣髴とさせる、古き良き町であるとは思いますが・・・。

 この事実誤認がひとり歩きしては困ったことになる(いや実際は別に誰も困らないでしょうけど)、ってんで私が「三角窓口」に投稿することになっていたのですが、うっかり忘れていた次第。出し遅れの証文めきますが、取り急ぎ下記の原稿をしたためましたので、あすにでも「本の雑誌」編集部に発送いたします。

 こんにちは。四月号「三角窓口」に掲載された斉藤みきさんのご投稿、たいへん楽しく拝読しました。しかし残念なことをお知らせしなければなりません。江戸川乱歩の「二銭銅貨」に出てくる五軒町は、神楽坂界隈ではなくて神田区内にありました。作中にも「地図で五軒町という町を探すと、神田区内にあることがわかった」と記されています。
 私が主宰するHP名張人外境(http://www.e-net.or.jp/user/stako/)の掲示板に、東京都の松村武さんから右の旨ご投稿いただきましたので、血も涙もなくお知らせする次第です。詳細はHP内の人外境主人伝言録五月十九日付をご覧ください。
 斉藤さん。糠喜びの段、まことに遺憾に存じます。泣かないでくださいね。メールでご住所をお知らせいただければ、立ち直りによく効く名張名物二銭銅貨煎餅をお送りいたします。じつは当地は乱歩の生誕地。二銭銅貨煎餅の町にもぜひ一度お運びください。さようなら。

 採用されるかな。採用されたら嬉しいな。


●5月18日(土)
 それで
徳島の間抜けめがいったい何をしたのかといいますと(むろん徳島の、と断定はできないのですが)、乱歩の「人形」が収録された『文芸年鑑 1932年版』の奥付に五段組の新聞記事をスクラップしてあるわけです。
 記事は徳冨蘇峰の「近世日本国民史」第五十四巻「筑波山一挙の始末[一〇五]第三者の観察」。ということは「国民新聞」あたりの紙面でしょうか。
 この間抜けはなかなか生真面目で丹念な間抜けであったらしく、きれいに切り抜いた新聞にたっぷり糊をつけて何があっても剥がれないようにべったり貼りつけてあります。しかも切り抜きの横には、
 「二、二六事件など併せて考察すべし」
 と赤インクによる書き込みが。
 お勉強熱心なのは結構なことです。考察だろうが絞殺だろうが好きなようにやっていただいていいんです。しかし奥付に切り抜きを貼っつけるなというのだこの大間抜け。私にはそもそも本にスクラップする人間の気が知れぬのですが、それはまあいいでしょう。ただし貼る場所を考えろというのだ。奥付のあとにも森永チヨコレートだのペベコ練歯磨だの『精神分析の理論と応用』だの『満・鮮』だの「短歌研究」だのの広告ページがあるわけですし、見返しだって利用できます。それをどうしてわざわざ奥付に貼るかなあこの大間抜けは。
 「こうゆうのはほんま本土の感覚やないもんな実際」
 私はそう呟きながら一計を案じ、奥付のページに濡れたタオルを置いて一晩寝かせました。翌朝、たっぷり水分を含んだスクラップをピンセットで剥がしにかかると、ほとんど抵抗もなく「近世日本国民史」が奥付のページから離れてゆきます。
 「しめしめ」
 私はなにやら犯罪者めいた気分になり、意味もなく周囲を窺いながら、なぜか焦って作業を進めました。
 「あ」
 指に抵抗がありました。糊がとくによく効いていた部分があったのか、奥付の表面が新聞紙にくっついたまま剥離してしまった部分が生じました。
 「あ」
 きれいに剥がれたところと剥がれなかったところの境が、ちょうど発行日の位置にあたっていました。つまり、
 「昭和七年十月」
 まではきれいに剥がれたのですが、その下の「○日」という箇所は新聞紙にくっついたままになっていて、いわゆる二見の泣き別れ。さらに水分を補給し、新聞紙にくっついた箇所を文字どおり薄皮を剥ぐようにして剥がしてみたのですが、これはまいった、運悪く発行日の日付のところがちぎれ目にあたっていますから、いくら泣いても喚いても取り返しはつきません。
 「莫迦ばか馬鹿。徳島の間抜けの鳴門野郎がこの」
 結局『文芸年鑑 1932年版』が昭和7年10月の何日発行であったかは不明のままで、私は泣きたいような気分で一日を過ごしました。
 徳島の古本屋さんでは、筑摩書房の現代日本文学大系別冊『現代文学風土記・付現代日本文学年表』(昭和43年8月25日、非売品)も購入しました。著者は奥野健男。百七十四ページの本なのに目次がないという不親切さで、
 「本土やったら目次つけるけど徳島ではつけんわけやね実際」
 と呟きながら入手した次第です。
 「神宮の地・伊勢商人の地/三重」と題された章から、最後の段落を引いておきます。

 田山花袋の「名張少女」に書かれている伊賀の名張からは明治二十七年(一八九四)わが国の探偵小説の第一人者であり怪奇絢爛たる作品を遺した江戸川乱歩が生まれている。名張は伊賀というよりもう大和に近い明るい里だが乱歩生誕の地に「幻影城」と刻まれた碑が建ち裏面に「うつし世はゆめ よるの夢こそまこと」という乱歩の内面の生涯を感じさせる印象的な言葉が記されている。

 徳島でお世話になった小西昌幸さんには、あらためてお礼を申しあげます。たいへん楽しい一日でした。


●5月17日(金)
 そうか、ジュリーが無呼吸症候群にも負けずに春団治をやってるのか、大阪・松竹座の藤山寛美十三回忌追善公演で。
 と、新聞の芸能欄で「夢噺 桂春団治」というお芝居のレビューを読んでいたときのことです。ジュリーの写真の近くに見たことのある人の写真が載っているなと思ってよく見たら、なんと講談師の旭堂南湖さんでした。

「よみがえれ!探偵講談」旭堂南湖

 という見出しの横にカラー写真で南湖さんのアップが配され、ジュリーと堂々張り合っていらっしゃいました。記事にはこの26日に近づいた探偵講談「二銭銅貨」の予告も記されていたのですが、

乱歩の出生地、三重県名張市名産の二銭銅貨せんべい付きで1500円。

 と「名張」あるいは「二銭銅貨せんべい」の名前もちゃんと出していただいて、名張市民の一人としてまことに欣快至極でした。
 この記事、夕刊の存在しない当地では15日付朝日新聞に掲載されていたのですが、大阪ではたぶん14日付夕刊のはず。そういえば忘れておった、とあわてて「番犬情報」に「名探偵ナンコ」のご案内を掲載いたしましたので、よくお読みのうえ大阪あたりにお住まいの方はぜひお運びください。
 その大阪あたりから高速バスで二時間半ほどかかる徳島県徳島市JR徳島駅近辺に、私は12日の日曜に足を運びました。海野十三の会(山下博之会長)が主催する海野十三忌講演会を聴講するためです。講師は日下三蔵さん、テーマは「海野十三・再々評価に向けて」。会場が満員になる盛況で、講師、聴講者、主催者のいずれからも真摯さの伝わってくる、それでいてとてもなごやかな雰囲気の講演会となり、大成功だったのはご同慶の至りです。
 講演会のあと、海野十三の会の理事でいらっしゃる小西昌幸さんのご案内で、数人の方といっしょに地元の古本屋さんを覗きました。どう見ても倉庫としか思えぬお店でしたが、棚の片隅に昭和7年版の『文芸年鑑』が埃をかぶっていましたので、内容を確認して購入いたしました。しかし家に帰って中味をあらためた私は、
 「とッ、徳島の間抜けめがッ」
 と思わず叫ばずにはいられませんでした。
 『文芸年鑑』というと現在では文芸関係データ集みたいな印象ですが、当時はむしろ年間アンソロジーといった趣で、この『文芸年鑑 1932年版』(改造社、編=文芸家協会)にも小説、戯曲、大衆小説から詩歌まで、年間の代表作が収録されています。
 昭和10年版の『文芸年鑑』には乱歩の「二つの犯罪者文学」(随筆「野口男三郎と吹上佐太郎」を改題)が収録されていると、以前シャーロッキアンの平山雄一さんから教えていただいたことがありますので、この昭和7年版も迷わず手に取ってみた次第です。と、果たして乱歩の「人形」が収められているではありませんか。ほくそ笑みながら購入しました。
 で帰宅して、鋭意編纂中の『江戸川乱歩著書目録』にこの本のデータを加えようとしたときのことです。私は思わず、
 「とッ、徳島の間抜けめがッ」
 と叫んでしまいました。奥付のページにべったり、新聞記事の切り抜きが貼りつけられていたからです。つまり発行日を確認することができない。とッ、徳島の間抜けめはいったい何をさらすのか。
 「こうゆうのは本土の感覚やないわな実際」
 私は茫然としながらそう呟きました。

最新情報をご覧ください


●5月16日(木)
 ですから結局のところ、平井通について語るには富岡多惠子さんの『壺中庵異聞』に眼を通すことが要求される次第ですが、私はあいにくこの本を所蔵しておりません。昔は所蔵していたのですが、まさか乱歩という作家にここまで深入りする羽目になるとは思ってもいませんでしたので、さっさと処分してしまいました。
 のちに名張市立図書館カリスマ嘱託を拝命して『乱歩文献データブック』をつくったとき、あ、『壺中庵異聞』も載せなあかんなと思いつき、図書館の地下書庫を探索してようやく一冊発見したのですが、それは市民からの寄贈本で、扉には寄贈者として私の名前が書かれていました。
 蔵書をぱっぱか処分するのはじつに気持ちのいいものですが、たまには後悔する場合もあるということでしょうか。とはいえ本をじめじめ所有しつづけることに較べれば、たったか処分するのははるかに健康的な行為であると思われます。
 富岡多惠子さんは近年、中勘助や折口信夫(釈迢空というべきか)の力作評伝を発表し、そういえば以前にも秋田實の評伝をお書きでしたけど、いまや小説家というよりは評伝作家という名のほうがふさわしい活躍ぶり(と断定できるほど富岡作品を読んでいるわけではないのですが)。もしかしたら『壺中庵異聞』は、評伝作家富岡多惠子の登場を予言する小説であったのかもしれません。
 話が妙な方向に進んでしまいましたが、本日はやや短めにこれくらいで。ちなみに私は、ちょっと前にも記しました河野多惠子さんと富岡多惠子さんという二人の多惠子さんが、なんだかわりと好きみたいです。


●5月15日(水)
 しかし朝っぱらから女性性器の話題ってのもなんだかな、と思われますので、あとは軽く流してしまいます。
 鮎川哲也さんの編によるアンソロジー『怪奇探偵小説集3』(1998年、ハルキ文庫。初刊は1976年)には、平井通が平井蒼太名義で発表した「嫋指(じょうし)」が収録されています。鮎川さんの巻末解説から引用しましょう。

 江戸川乱歩氏には二人の弟さんがいた。末弟は敏男氏。そして次弟が通氏。すなわち本編の作者平井蒼太である。古地図の蒐集家、研究家として知られた岩田豊樹氏は平井兄弟のいとこに当り、私はこの岩田氏にインタビューを試み更に敏男氏にお会いして平井蒼太の人物像を掴もうとした。が、ともすると話題は若き日の乱歩氏のことになってしまって、平井蒼太については語られることが少なかった。岩田氏と同席してくれた松村喜雄氏が、「いざ話をまとめようとすると、何も残っていないでしょう」といったことがあるが、正にそのとおりであった。

 同じく鮎川さんの名エッセイ『幻の探偵作家を求めて』(1985年、晶文社)には、「乱歩の陰に咲いた異端の人・平井蒼太」という一章があるのですが、

 いずれにしても、一貫して不遇な人生を送った気の毒なひとという感想を否定することができない。

 という末尾の文章に、鮎川さんの平井蒼太観が端的に示されています。もっとも、平井通がほんとに不遇で気の毒な人であったのかどうか、軽々に断定はできないだろうという気もいたしますが。
 城市郎さんの『性の発禁本2』(1994年、河出文庫)では、平井蒼太の作と伝えられる小説「おいらん」と蒼太その人の紹介に一章があてられていますが、ここでも、

 乱歩は陽光きらめく表の文学の世界で名を成したが、弟蒼太は一般読者には縁の薄い趣味創作の世界に生きたのだった。

 とされていて、平井通はやはりあくまでも陰の人という印象です。
 ちなみにこの『性の発禁本2』では、「おいらん」というポルノグラフィが「兄乱歩の才能をもってしてもなお及ばなかった作品」とされ、一部が引用されているのですが、そして私は朝っぱらからその引用を読み返したのですが、これは平井蒼太作品ではないなとあらためて感じました(というのは、最初に読んだときもそう感じたはずだからなのですが)。
 「おいらん」は平井蒼太の作ではないとする富岡多惠子さんの所説が、平井通をモデルにした富岡さんの小説「壺中庵異聞」から引かれています。孫引きします。

 横川蒼太の小説、風俗考証の書物、個人雑誌に書かれたあとがきやみじかい文章、また個人的にもらった手紙を読んできた者には、その春本の断片から、同種の文体が感じられなかった。わたしは勿論、考証家のようにそれらを比較研究したわけではないが、文体のちがいが直感された。それに、わたしには、横川蒼太は、たとえ変名によっても性的自叙伝のごとき、自己開放のひとつの方法をとるようには思えなかった。彼は、自己の暗闇を光の世界へさらすことよりも、さらに暗闇へとじこめる方をとる人間であり、できるだけ小さな世界へ自分の暗闇を圧縮していくように思えるのである。

 軽く流すつもりが流し切れませんでした。どうもいけません。
 『浅草十二階』でおなじみの細馬宏通さんのウェブ日記「The Beach」には、「壺中庵異聞」の感想が掲載されています。ご参考までにお知らせしておきます。

The Beach : Oct. b 2001


●5月14日(火)
 二日つづけて伝言をお休みしましたが、お休みの告知を失念しておりました。どうも申しわけありません。
 平井通はどうしていわゆる無毛女性を好んだのか。嗜好の根底には恐怖があったのだろうと思います。女性性器への恐怖です。
 青木正美さんの「壺中庵・平井通」には、

……幼年期、通は近所の部屋を覗き、若い奥さんが着物の前をはだけ、ハサミで恥毛の手入れをしているのを見てショックを受ける。その後“お医者さんごっこ”で幼女の美しい陰部を見、また父の事業について朝鮮に渡るが、そこでの一年ほどの間に、幾人もの無毛の女性たちに邂逅、まだ十四歳の子供ということで見せてくれた体験が、その後、通のこの種の女性への探求心を決定してしまう。

 と平井通のいわゆる原体験が紹介されていて(「原体験」などという言葉を平気でつかえる人間は莫迦であろうと私は思っているのですが、二日酔いで気力がおおきに衰えているせいか、つい使用してしまいました。「いわゆる」をつけたのが精一杯の抵抗です)、これはおそらく平井通を取材した「週刊大衆」昭和35年1月16日号の記事にあったエピソードだと思うのですが、それにしてもなんだかすごい話です。
 近所には着物の前をはだけて恥毛の手入れをする若い奥さんがいるわ、朝鮮にはまだ十四歳の子供なんだからと無毛の陰部を気前よく見せてくれる女性がごろごろしてるわ、なんてのはほとんど童話的と呼びたくなるほど信じがたいエピソードであって、平井通は自身の伝説化を目論んでいたのではないのかと思わず勘ぐってしまう私です。
 とはいえ平井通の無毛嗜好の根底には、やはり紛れもなく女性性器への恐怖、それもおそらく成熟した女性性器への恐怖が存在していたと見るべきでしょう。
 考えがまったくまとまりません。頭ががんがんしております。本日はこれでお開きといたします。


●5月11日(土)
 あまり時間がありませんので、手近なところから適当にご紹介してお茶を濁します。
 先日の池田満寿夫「豆本因縁噺」につづいて、本日も乱歩文献ならぬ乱歩の実弟平井通文献で一席。
 快著『貸本小説』で日本推理作家協会賞評論その他の部門に堂々ノミネートされた末永昭二さんから頂戴した「彷書月刊」5月号に掲載された、青木正美さんの連載「古本屋畸人伝」第二十九回「壺中庵・平井通」から引用します。

 昭和十年頃、通は肺結核にかかり、二年近くの闘病生活を妻の田舎で養い、小康を得て上京、兄乱歩の援助で巣鴨に古本屋を開く。ところがこの頃、生活の疲れが一度に出た妻があっという間に他界してしまう。その妻の死というポカっと開いた人生のミゾを埋めることになるのが、あの習癖だった。通は連日吉原へ出かけ、「平井さんは、吉原から古本屋へご出勤ですか」と言われるほどだった。通はそこで、白い裸身に、一点の影もない女性を見つけ、その女しか見向きもしないようになる。

 「あの習癖」というのはいわゆる無毛女性に対する病的な嗜好なのですが、えー、本日はこのへんで。


●5月10日(金)
 さてこうなると小酒井不木宛乱歩書簡三十通、なんとか公刊できる手はないものかしらという一点に、お話は堂々めぐりめいて戻ってまいります。
 書簡といえば昨年11月、岩田準一宛乱歩書簡八十七通が三重県鳥羽市の岩田家に保管されていたことが報道されました。準一側ご遺族は乱歩側ご遺族の承諾を得て出版にこぎつけたい意向であると報じられましたが、その後どうなっているのやら。
 こうした場合、一般の商業出版社はさほど恃みにならぬと思われます。書簡集を刊行しても、とても売れそうにないからです。書簡の整理や書面の解読も面倒です。要するに労のみ多くして益の少ない出版ですから、食指はぴくりとも動かぬでしょう。
 やはり昨年9月、乱歩邸の土蔵から横溝正史ら宛乱歩書簡三百四十一通の写しが発見され、これにはすぐさま出版社数社が飛びついたと仄聞いたしますが、この場合は書簡の内容が探偵小説論だそうですから、探偵小説ファンの購入が見込めるという皮算用によって出版が成り立つのだと思われます。でなければ、たとえ大乱歩の書簡といえどもおいそれとは公刊されぬのが、本邦商業出版界の現状ということでしょう。
 私は探偵小説にはあまり興味がありませんから、どちらかといえば乱歩が正史相手に探偵小説を論じた書簡集よりは、乱歩が準一相手に同性愛研究の成果を披瀝した書簡集のほうを読んでみたいと思います。それに前者は戦後のものに過ぎませんが、後者は昭和7年から19年にかけての書簡だといいますから、時代的にも前者よりは後者にいたく興味を覚えます。しかしこのままでは、どうやら日の目を見そうにありません。
 いやまいった。万事休す。どうにもならんか。
 などと悩んでいても仕方がありません。別に片田舎の公立図書館が出しゃばる場面でもないのですが、乗りかかった舟、名張市立図書館がなんとかしたいと思います。むろんどうにもできないであろうことは明々白々であるのですが、名張市立図書館の手ではどうにもできないということを確認する作業だけでもやってみたいと思います。
 といった次第で、なんだか雑務が多くてすぐには着手できそうにありませんが、乱歩書簡公刊の件に関しましては、しばらく水面下において甲斐ない努力をごそごそ試みたいと思います。いずれどうにもならんかったというご報告を申しあげることになるかと思いますが、小酒井不木宛乱歩書簡の話題はとりあえずこれにて打ち止め。ご愛読を感謝します。


●5月9日(木)
 不木宛乱歩書簡三十通のまとめです。
 まず書簡の来歴。推測と一部伝聞に基づいて記しますと、これらの書簡は不木の歿後も遺族によって保管されていたはずです。直接の著作権継承者であった遺族というよりも、縁戚か何かにあたる家庭に不木の遺品として預けられたまま長く眠っていたものが、最近何らかの理由で一括して処分された、それが古書市場ではなく骨董市場に出回った、そのうちの書簡三十通を古書業者が入手して企画展に出展した、といったところだと思われます。
 つづいて、この乱歩書簡の価値はどういったところに見出されるのか。ひとことでいえば、肉声で語られた乱歩の初心を読むことができるという点でしょう。詳細にお知らせすることは控えますが、乱歩がのちに何度も記すことになる自作への嫌悪、他人からの批評に対する過敏な反応といったものは書簡にも生々しく綴られていて、リアルタイムの肉声で語られた自負や失意を知ることができます。
 むろん、もぐらもちさんが指摘された「平井太郎から江戸川乱歩へ」といった作家的変容など、いわば初心の変転をたどることも可能です。なにしろ作家専業になれるかな、といったあたりから、専業を決意して東京に転宅、月刊誌と旬刊誌と週刊誌に連載を抱えて大汗をかき、あげくは自作への嫌悪から休筆を宣言、新たな境地を求めて放浪の旅に出る、といったあたりまでの肉声であり初心でありその変転です。まあたいした資料だと思われます。
 またこの書簡は、探偵趣味の会の設立に関する克明な報告という一面も備えており、そのあたりの事情は『探偵小説四十年』にくわしく記されているのですが、書簡はそれを裏づけるものだといえます。そしてそれ以上に、どうも乱歩は、探偵文壇というものがいまだ存在していなかった当時から、探偵小説界の自覚的オルガナイザーたらんとしていたのではなかったか、みたいなことが書面から窺える点も興味深いと思います。
 さらにはルパン風の長篇への意欲を示す文言もあって、これは後年の通俗長篇との関連から考察されるべき事実であると思われますが、時間がなくなりましたので本日はこのへんで。


●5月8日(水)
 またちょっとした間違いが見つかりましたので、4月30日付伝言にある「小酒井不木宛乱歩書簡」の表を訂正いたしました。封筒裏面に書かれた日付が「二十六日」、書面末尾の日付が「二十五日夜」となっている一通があって、これまでは発信日を26日としていたのですが、これはやはり25日とするべきだろうと、重箱の隅をつつくような訂正を行いました。
 それから、毎日新聞に写真が掲載された大正13年12月5日付書簡は、引用した文章に一部誤りがありましたのでこそっと直しておきました。「者」と読んでいた文字がじつは「こと」ではないかと思われてきた、みたいなところを直した次第です。
 他人の手跡を解読する場合、ある程度量をこなして書き癖を呑み込んでゆくと、一瞥ではとても判読不能だった文字もなんとなく読めてくることがよくあります。上記もその一例で、つまり私には乱歩の書き癖がだいたい呑み込めたという寸法です。まだ一部、逆立ちしても判読できない文字があるわけですが、これはもういったん諦めることにして、乱歩書簡解読の日々を終えることにいたします。
 つまり先日撮影した乱歩書簡の写真、ゴールデンウイークがからみましたので焼き増しの仕上がりがいつになるのかよくわからないのですが、とにかく平井隆太郎先生や成田山書道美術館などにお送りすることにしておりまして、どうせなら書簡全点を解読したプリントを添えたほうがいいだろうと悪戦苦闘してみたのですが、読めないものは読めないということがよくわかりました。片眼にルーペを当て、口を半開きにして手紙の写真ばかり睨めつけていると自分がある種の変質者に思われてくるという事情もあり、とりあえず打ち止めにしたいと考えます。
 といった次第で、あすは不木宛乱歩書簡のまとめなどを少々。


●5月7日(火)
 さて問題の不木宛乱歩書簡、『小酒井不木全集第十二巻』(昭和5年、改造社)に収録された乱歩宛不木書簡も参照しながら精読してみました。
 乱歩書簡は大正13年11月から昭和2年6月まで三十通、不木書簡は大正12年7月から昭和3年11月まで十三通。この四十三通以外にもやりとりはあったようですが、むろん内容がぴたりと相呼応している書簡も見られ、まさに興趣は尽きません。
 たとえば乱歩の質問に答えた不木が探偵小説論を展開し、

兎に角当分は御互に不健全に徹しやうではありませんか。さうしてこの世の中をむしろ不健全化してしまはうぢやありませんか。

 と不健全派宣言をかましてしまうあたりなど、じつに愉快な感じがいたします。
 ここでお知らせしておきますと、4月30日付伝言に「小酒井不木宛乱歩書簡」として掲げた表のうち、昭和2年の「四月十九日 封書 五枚 (2・4・19)」は、正しくは「一月十九日」のものでした。絵葉書を別にすればこの書簡だけに日付が記されておらず、消印もかすれていましたのでうっかり間違えてしまいました。4月30日付伝言録も訂正しておきました。
 昭和2年1月といえば、乱歩が自己嫌悪に苛まれながら「一寸法師」を連載していた時期にあたります。この日付さえ書かれていない書面にもその嫌悪感は濃厚に滲み出ていて、なんとなく「夢遊病者の死」における主人公彦太郎の、
 「死んじまえ、死んじまえ」
 という口癖が連想されたりもいたしました。乱歩は自作への嫌悪を折にふれて記した作家でしたが、この不木宛書簡にもそれが明らかな傾向として顕れているのが興味深いところです。
 たとえば乱歩書簡の第一通目、
大正13年11月26日付の封書は、文面から判断すると乱歩が不木に宛てた書簡の第二通目にあたるのですが、そしてこれは不木から返事を貰いながら一年以上も音信不通をつづけたあとに出された第二信なのですが、じつは最初の手紙を出したあとで「恐ろしき錯誤」を発表したところ、編集者にも読者にも不評でむろん自身も非常に不満足、もう探偵小説なんてやめようかとも思ったと、自作嫌悪が表明されています。
 もっとも書面はぬけぬけとつづいて、最近ミュンスターベルヒの本からヒントを得て「心理試験」という作品を書いた、ついては原稿を別便で送ったのでご一読いただき、自分が探偵小説家として一人前になれるかどうかをご判断願いたいと、繊細なんだか図太いんだかよくわからない申し出がなされるわけで、乱歩というのはほんとに一筋縄では行かない人だなという気がします。
 ちなみに大正13年11月25日(不木全集では大正14年11月25日発とされていますが、もぐらもちさんのご指摘どおりこれは誤り。しかも11月25日では上記乱歩書簡の日付とも齟齬をきたしてしまうわけですが)の不木書簡は、

 玉稿『心理試験』繰返し拝読しました。いつもながらのプロツトの巧みさに心から感服致しました。実にいゝ所をつかまれたものと思ひます。叙述にも内容にも寸分の隙もありません。たゞ低級な読者はあまりに高尚だといふかもしれませんが、錦を見て高級な人でも低級な人でも一様に感服すると同じく、かうした上品な作物を示すことは読者にとつても極めて有益であらうかと思ひます。
 ひいき目で物を見ると正鵠を失するかもしれませんが私はあなたの凡ての作品を、海外の各篇と比して少しも遜色のないものと見て居ます。『D坂の殺人事件』はたしか『新青年』一月号に出る筈でまだ拝見して居りませんが、あとの作品は一つ残らず熟読しよく記憶して居ります。そしてあなたは探偵小説作家として十分立つて行くことが出来ると確信して居ます。作品の紹介は森下さんが喜んでやつてくれませうけれど私も及ばず乍らいつでもその労をとりますから一つ今後はその方面に専心になつて見られたらどうです。

 と書き始められており、乱歩の得意や思うべし、といったところでしょう。
 乱歩書簡を引用できないため、どうにもとりとめがなくなっていけません。


●5月6日(月)
 むろん、どこか奇特な出版社が乱歩書簡集を刊行してくれれば話は早い。要はこの乱歩研究の第一級資料である書簡三十通、誰もが気軽に読めて自由に引用ができるよう、ちゃんと公刊して公のものとすることが必要なわけなのですが、そんな英断を下してくれる出版社があるかどうか。となるとやっぱり名張市立図書館が。し、しかし……
 みたいなことに悩んでいるうち、ゴールデンウイークもあっというまにきょうでおしまい。なんとかの考え休むに似たり、と申しますから、ここは潔くきょうも休養にあてようっと。
 ちなみに成田山書道美術館における乱歩書簡撮影の顛末などは、もぐらもちさんの小酒井不木研究ページ「奈落の井戸」でご詳報いただいております。不定期日記「奈落雑記」の4月27日「大例会と大宴会」、28日「奈落紀行・成田山」、5月1日「奈落紀行・成田山(承前)」をご覧ください。もぐらもちさんにお礼を申しあげつつ、さあ休養に入ろうっと。

奈落の井戸


●5月5日(日)
 不木宛乱歩書簡三十通の写真を名張市立図書館が資料として保管する、といったことならなんとか可能なわけですが、しかし実際に書簡に眼を通してみると、これは保管しているだけでは駄目だろうという気がしてきます。
 なにしろ名張市立図書館は公立図書館ですから、所蔵している図書や資料をいかにして公のものにするかということにつねに思いを致しております。しかもこと乱歩に関しては、名張市立図書館における「公」の範囲は名張市ではなく全国です。
 もちろん隙間産業ではあるのですが、そもそも昭和44年の開設時、
 「乱歩の本を集めてる図書館なんて日本のどこにもないみたいですから、ひとつ名張の図書館で集めることにしましょうか」
 みたいな感じで乱歩の著作や関連書籍の収集に着手したわが名張市立図書館は、昭和62年の移転改築時には、
 「乱歩の遺品を展示してるとこなんてどこにもないみたいですから、ひとつ名張の図書館に乱歩コーナーをつくることにしましょうか」
 と平井隆太郎先生から乱歩の遺品の無償永久貸与をいただき、細々とではありますが常設展示を行っております。また近年は、
 「乱歩の書誌を出してくれる出版社なんてどこにもないみたいですから、ひとつ名張の図書館で編集発行することにしましょうか」
 と江戸川乱歩リファレンスブックを刊行しているわけで、隙間産業としてはなかなかの健闘ぶりだと自画自賛される次第です。
 それがここへ来て、立教大学が乱歩のいわば専門企業として名乗りをあげてくれましたので、乱歩の著作や関連図書の収集、遺品の展示などは立教大学にお任せできることになり、むろん書誌類の発行は立教大学に当然の務めとして手がけていただかねばならぬことでしょうし、ついでのことに私がこのホームページで及ばずながら進めようとしている、いうならば動態としての乱歩をリアルタイムでフォローしてゆく作業その他も立教大学にお願いして、要するに名張市立図書館はそろそろ乱歩から手を引くべきなのではないかと判断されるわけなのですが、それはまだもう少し先の話。
 当面の問題としては、乱歩書簡をどのようにして公のものにするかという難問が、われらが名張市立図書館の前に立ちはだかっているわけです。本の形にして公刊することが望ましいのは申すまでもありませんが、これは乱歩の書誌を編纂発行するといった作業とはおおきに異なり、著作権や所有権などの問題がからんでくる、つまりはお金がからんでくるお話ですから、そういった問題を公立図書館が果たしてクリアできるのかどうか。金銭的問題の伴う書簡集の刊行など、初手から無理だと思っていたほうがいいのかもしれません。
 といった次第で、乱歩書簡集は無理だとしても、「人外境だより」から乱歩書簡の公刊に関するご投稿の書簡集を編んでおきます。

小西昌幸
   2002年 4月30日(火) 8時12分

1千万円の乱歩・小酒井往復書簡30通の件ですが、その持ち主の方が多少でも潤うような形で公開する方法を、私も考えてみました。
(1)その往復書簡集をきちんとした版元から、きちんとした解説付きで、刊行する。
(2)その際、手紙の所有者を資料提供者として大きくクレジットして、一定の印税的なものをお支払いするように配慮する。

こんな感じですかねえ。
平井隆太郎先生と、小酒井氏のご遺族(著作権継承者)は監修者としてクレジットする必要があるでしょうね。


もぐらもち
   2002年 4月30日(火) 18時23分

書簡を御覧になった何人もの方がおっしゃっておられましたが、乱歩的に重要だと思われるのはやはり平井太郎から江戸川乱歩へ、という人格の変容の課程が文章・文体にも如実に現れている点でしょう。このあたりは一通二通の書簡を見ただけでは判りづらいものですから、やはり全ての書簡が翻刻公開され、研究の便宜が図られる事が望まれます。この先どうなりますか私も期待していますし、目が離せません。


金光寛峯
   2002年 5月 3日(金) 5時21分

知り合いの芥川龍之介研究者に聞いた話ですが、岩波書店版の最新の全集には、所在が判明しているにも関わらず収録できなかった書簡等が何点かある、とか。金銭的な条件等で合意に至らなかったそうです。当掲示板 4/30付小西さん発言や 5/2付主人日記でも言及されておられますように、所有権者との話し合いが重要なようですね。

 さ、大阪行ってお酒飲んでこようっと。


●5月4日(土)
 けさは気分がすぐれません。勝手ながらお休みさせていただきます。
 というのではあまりにも愛想がありませんので、一昨日購入しました下川耿史編『近代子ども史年表 昭和・平成編』(河出書房新社、本体三八〇〇円)から、乱歩に関する項を引いてお茶を濁します。

昭和11年 1936
文化・レジャー
1月  江戸川乱歩「怪人二十面相」が『少年倶楽部』で連載開始。翌12年には「少年探偵団」、13年「妖怪博士」と二十面相シリーズがつづき、大人気となる。

昭和13年 1938
文化・レジャー
この年  江戸川乱歩の『妖怪博士』、南洋一郎の『魔境の怪人』、野村胡堂の『スパイの女王』などの少年向け読み物が人気。

 それでは休養いたします。


●5月3日(金)
 では今回のケースはどうなのか、と申しますと、巽さんがおっしゃる「契約関係」に関する明確な認識は、当方にはまったくありませんでした。
 そのあたりを確認するために、ここ一か月ほどを振り返ってみます。
 毎日新聞に不木宛乱歩書簡の記事が掲載されたのは、4月2日のことでした。私は掲示板「人外境だより」へのこしぬまさんのご投稿でそのことを知り、毎日新聞のホームページで当該記事を読みました。のちに新聞のコピーも入手したのですが、この記事を読んだ時点では、成田山書道美術館の企画展に展示されている乱歩書簡は一点だけだろうと思い込んでいました。
 一点だけなら千葉まで足を運ぶ必要はあるまいと思い、しかし図録は入手しておかねばと考えて、私はとりあえず成田山書道美術館に電話を入れてみました。出てくださったのは女性の方で、図録は発行していない、3月30日付の読売新聞夕刊にも乱歩書簡の記事が掲載された、といったことを教えていただきました。
 読売のコピーをお送りしましょうか、いえその程度のことはこちらで手配いたしますから、何かありましたらお知らせいたしますのでそちらの図書館の連絡先をお教えください、はい住所はかくかく電話番号はしかじか、みたいな感じで電話を終えたのですが、その翌日か翌々日、名張市立図書館に成田山書道美術館から一本の電話がありました。
 このとき私は図書館にいなかったのですが(まあたいてい不在なんですが)、その電話の主こそ誰あろう、成田山書道美術館カリスマ学芸員の高橋利郎さんであったわけで、乱歩書簡の写真を撮影して送ってあげるから、というありがたいお言葉をいただいた次第です。
 そのあと、読売新聞のコピーが届きました。びっくりしました。書簡は三十通もあり、しかも所有者は群馬県の書店経営者だというではありませんか。この書簡は商品なのかな、購入できるのかな、とか、もしも入手できたら名張市立図書館で書簡集を発行しなくちゃな、とか、さすがにそのころになるとこの書簡がどうやらとんでもないものらしいという察しはついてきましたので、私の頭のなかでは桜のつぼみのように妄想がふくらみ始めました。
 で翌日、私は再度成田山書道美術館に電話して、カリスマ高橋さんと初めてお話をいたしました。あの書簡は商品なんでしょうか、そうですよ、みたいな感じで古書店経営者の方の連絡先をお訊きして、今度は経営者の方にお電話したところ、書簡にはすでに買い手がついており、値段はなんと一千万円とのことでした。桜はいきなり散り果てました。
 私はもう一度カリスマ高橋さんに電話して、一千万円でした、そんなにするんですか、みたいなやりとりのあと、三十通もある書簡の撮影をお願いするのは恐縮ですからこちらから撮影にお邪魔しますとお伝えし、結局は4月28日に成田山書道美術館を訪問することになったわけです。
 さてここで確認しておきますと、この時点における乱歩書簡の所有者は群馬県の古書店経営者の方であり、書簡は企画展が終わってから購入者の手にわたることになります。古書店経営者の方と電話でお話ししたとき、そのようにうかがいました。
 では、この経営者の方と成田山書道美術館とのあいだに、巽さんのおっしゃる、

所有者はその所有物を人に見せる場合、「見てもいいが写真撮影はだめ」「写真はいいが営利目的利用はだめ」などの条件をつけることができる。その条件を受け入れて観覧や撮影をするのは、契約関係であり、条件を破れば契約違反である。

 という契約関係が存在していたのかどうか。これは高橋さんにお訊きしなければよくわかりませんが、とにかく私としては、書簡を入手できないのだから書簡集の発行は不可能だが、せめて名張市立図書館が書簡の写真を資料として所蔵したいものだと考え、ごく軽い気持ちで写真を撮影させていただいた次第です。契約関係のことなどまったく念頭にはありませんでした。
 というところで本日はおしまいですが、連休にどこへ行こうかとお悩みの方は、ぜひ新緑の成田山へおでかけください。成田山書道美術館で乱歩の書簡をじっくり眺め、むろん成田山新勝寺にもお参りして、帰りには成田山名物の鰻を賞味すれば、じつに有意義な一日になること請け合いです。

成田山書道美術館


●5月2日(木)
 先日お会いした弁護士の方から、乱歩の書簡に関する著作権などの問題について、メールでご回答を頂戴しました。ご本人のご了解がいただけましたので、全文を下記に転載いたします。すべて原文のままですが、読みやすさに配慮して一行アキを設けるなどの手を加えました。
 なお、ご回答くださったのは弁護士の巽昌章さんです。巽さんにはお忙しいところさっそくご懇切なご教示をいただき、あらためてお礼を申しあげます。催促がましいことを申しあげて、どうもすみませんでした。

1.著作権

  前提としてそもそも手紙が著作物にあたるかどうかという問題があります。この点については、単なるあいさつや用件にとどまらない、自分の思想、感情などを記載した創作物とみられる手紙なら、著作物になります。むろん、何をもって思想の表明とみるか、「創作」とみるかには価値判断が入ってくるので、いちがいにいえないのですが、三島由紀夫の手紙に関する判例からみて、乱歩や不木の探偵小説観、文学観、作品の感想、抱負などが述べられているなら、一応著作物と考えておいたほうがよいでしょう。
  手紙が著作物に当たる場合、その著作権は手紙の筆者にあり、手紙の宛名人や手紙を購入した人には属しません。筆者が亡くなれば、相続人が著作権を受け継ぎます。
  この場合の取り扱いは、通常の小説原稿などの著作権と同じ考え方になります。

2.人格権

  これは筆者またはその遺族が、手紙の内容を勝手に公開されない権利と考えることができます。遺族の方のOKをとる必要があります。
  なお、手紙の中に第三者のプライヴァシーにかかわる事項があれば、その人の承諾も必要とされています。

3.所有権

  物としての手紙の所有権です。これは現在の持ち主(コレクター)にあります。
  所有権に基づいてコピーの流通を禁止できるかという問題には、はっきりした予測のできない面があります。ただ、

(1) 「自分の所有物について勝手に写真をとられない権利」を認めた判例が出ています。

(2) 他方、「所有者はコピーの流通を禁止することができない」という最高裁判例があります。(1)との関係は、次のように整理することができます。

・ 所有者は自分の所有する「物」を自由に管理できるから、写真撮影させるかどうかは所有者の自由である。従って、盗撮などの無断撮影は所有権の侵害になる。
・ その結果、所有者はその所有物を人に見せる場合、「見てもいいが写真撮影はだめ」「写真はいいが営利目的利用はだめ」などの条件をつけることができる。その条件を受け入れて観覧や撮影をするのは、契約関係であり、条件を破れば契約違反である。
・ しかし、所有者は、物体を支配するだけで、その物にあらわされている精神的価値までは支配できない。いいかえれば、物体としての所有物を盗み出したり無断撮影したりすることなしに、その内容(文面のあらわす内容や絵の絵柄)を公表、複製する事は、著作権の侵害にはなっても所有権の侵害にならない。
・ 従って、所有者に無断で写真を撮ってそれを複製し、流通させることはできない。無断の写真撮影は所有者がもつ「物」の支配権への侵害だから。他方、いったん適法に(当時の所有者の許可によって)写真やコピーができた場合、そこからさらにコピーすることは、「物」としての原本を侵害しているわけではないから、コピーの流布によって原本の精神的価値に影響が出ても、所有者は文句をいえない。

(3) 以上の次第で、今回のケースでいえば、所有者が展覧会で公開することを許可したとして、その許可が「写真を撮って公開してもいいですよ」という趣旨まで含んでいるかどうかだと思います。逆にいえば、「個人的な記念の写真ならいいが、それを公開したり出版したりすることまでは許していない」といわれるおそれがあります。所有者が展覧会に出品を許す事は、所有者と展覧会主催者との契約関係であり、展覧会で写真撮影を許される事は、展覧会主催者と撮影者(入館者)との契約関係です。それぞれの契約内容において、写真撮影が許されていたか、その写真の後日の複製、公開、流通が許されていたか。仮に口約束やごく簡単な契約だったとした場合、従来の慣行としてはどうなっているか。

(4) では、手紙自体の写真の公開でなく、写真やメモ、記憶に基づいて手紙の内容を原稿に起こし、これを公表することは許されるのか。   
 この場合は、物としての手紙への侵害はないか、かなり程度が低いことになります。また、展覧会での公開を許可した以上、観客が手紙の内容を覚えたりメモして帰ることは当然許可の範囲内ですから、写真から原稿にするのも五十歩百歩であり、この意味で所有権に基づいて内容の公表を止めることは難しいのではないかと思います。

4.

  むろん、1ないし3はそれぞれ独立ですので、全部をクリアする必要があります。

 今回のケースはいったいどうなのか、みたいなことはあした記すことにいたしまして、本日はこのへんで。
 なお、巽さんからはご覧いただいたみなさんのご指摘やご提案、こうした問題で実際的なノウハウをお持ちの方のアドバイスが頂戴できれば有益だろう、とのお言葉もいただいております。みなさんどうぞよろしくお願いいたします。


●5月1日(水)
 いきなりかましましょう。
 4月2日付毎日新聞「雑記帳」欄に、成田山書道美術館に展示されている大正13年12月5日付不木宛乱歩書簡の写真が掲載されていました。文面は4月6日付伝言板に転載しましたが、写真で見ることができたのは最後の便箋のわずか数行のみ。あんなもん腹の足しにはなりまへんがな実際とおっしゃる諸兄姉のために、当該書簡から全文は無理ゆえ任意の一段落を引き写してご覧に入れます。
 先日くだんの弁護士先生にお訊きしたところ、展示会で公開されている書簡の一部を引用するくらいのことは許されるのではないかとのことでしたので、とりあえずかましてみる次第です。

先生の御意見によつて愈々決心致しました。と申し
ますのは、大分以前から下らぬ仕事に執着してゐる
よりは経済上の困窮は覚悟しなければなるまいけれど
寧ろ好きな探偵小説に専念した方がよくはないか
と考へてゐたのですが、何分文章道には素人のことで
はありどうも自信がつき兼ねたものですから実は
先生にあゝして御判断を願つた訳です。ところが
御返事を頂いて見ますと望みがなくもない様ですし
それに御返事と殆と同時に森下さんから(これはこちら
から相談した訳ではないのですが)これから少し奮発し
て毎月一つ宛書け、一年計画位の長篇も書いて見
てはどうかと激励の手紙が来ましたので、旁々、下ら
ぬ仕事を抛つて探偵小説に専心努力して見やうと決心
した次第です。

 これだって腹の足しにはなりません。お腹を空かせた乱歩ファンのみなさん。どうぞ堪忍してください。