2003年7月

●7月31日(木)
 そういった次第で不肖カリスマ改め癒し系、おかげさまで新宿ゴールデン街デビューを無事に果たすことができました。デビューが三十年ほど遅きに失した観は否めませんが、これも巡り合わせでしょう。ではまたあした。


●7月30日(水)
 さらにまた『江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』の件ですが、書簡だけでなく乱歩と不木がお互いのことを記した随筆評論のたぐいも収録したいなと考えております。
 乱歩でしたら「小酒井不木氏のこと」「小酒井氏の訃報に接して」「探偵作家としての小酒井不木氏」「肘掛椅子の凭り心地」「四つの写真」「本物の探偵小説」「小酒井博士と探偵小説」「世界的に稀有の作家」などが出てきますし、不木であれば「『二銭銅貨』を読む」や『心理試験』の「序」、あとあまり思い浮かばないのが情けないのですが、翻刻をお願いする小松さんと阿部さんに選定していただいて、可能な限り網羅したいと思います。
 とは申しますものの、何はともあれ書簡をスキャンして翻刻することが先決で、三重県伊賀県民局長が近々に行われると明言なさっている「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業の実施計画発表が心待ちにされる次第です。本当はこんな事業、地域住民の手で中止に持ち込むべきなのですが。と私もかなりしつこいのですが。
 などとわいわいやってるあいだに7月19日の夜は更け、毎度おなじみ蔵之助における「乱歩が蒐めた書物展」開催記念大宴会もお開きとなりました。参加者数は二十人ほどだったでしょうか。どうもお疲れさまでした。この次は9月6日、人形芝居「押絵と旅する男」上演記念大宴会でお会いしたいと存じます。

ゴールデン街の夜に消えた

 さて二次会。皓星社の社長さんに新宿ゴールデン街へ連れていっていただきました。参加者はタクシー二台に分乗したのですが、私は長期無職記録更新中のM上さんと乗り合わせましたので、
 「M上さんのお宅ではお風呂場にまで古本が積みあげられているという伝説は本当なのですか」
 みたいなことをお訊きしながら一路新宿へ。
 と書いていてふと思いつきました。『江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』にはたぶん脚注をつけることになるのですが、その担当者がまだ決まっておりません。タクシーに乗り合わせたのも何かの縁でしょうから、ひとつM上さんにお願いしてみることにいたします。なにしろ時間の余裕はたっぷりおありのようなので、たいした稼ぎにならぬのが心苦しいところですが、三重県伊賀県民局長風に申しますならば近々に、いっちょ打診してみたいと思います。
 さて新宿。皓星社の社長さんに案内していただいたのは、ゴールデン街のこのお店でした。

 上記ホームページにはこのお店のママの武勇伝として、

かつて、終電車で女の子に絡む酔っ払いをグーで殴り、
股間にけりを入れ、相手を半殺しにして、
連れて行かれた新宿署で、刑事に、
「あんたじゃ、話にならない。鮫島を呼べ!」
といったという伝説もいずれ風化していくのでしょうか?

 なんてことが記されておりますが、風化どころか伝説はいまも生々しく語り継がれており、私などママから直接微細にわたるドキュメンタリータッチのお話を拝聴して、これはご機嫌を損じたらすかさずパンチや蹴りが飛んでくるなと容易に想像されましたので、
 「うん。それはママが正しい」
 「うん。それもママが正しい」
 「うん。絶対にママが正しい」
 とお追従の相槌を突貫工事のごとく打ちつづけた次第です。


●7月29日(火)
 その他、『江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』の内容に関してはまだまだ詰めねばならぬ点が多々存在するのですが、これ以上は素材となる書簡をすべてスキャンし、それを翻刻してテキストに起こしてからでないと細部までは詰められません。
 ですから一日も早くスキャニングに着手したいところなのですが、「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業の実施計画が発表され、正式にゴーサインが出ないことにはどうにも身動きが取れません。みたいなこともあって私は、畏れ多くも三重県伊賀県民局長に計画の発表はいつになるのかとお訊きした次第です。
 そういえば先日、26日土曜日に県民局長宛お出ししたメールのご返事はまだ頂戴しておりません。お寄せいただいたメールを全文公開してもいいのかどうかという、わずか一行で済む用件なのですから返信などすぐにも出せるように思うのですが、なにしろお役所のことですからたとえば知事の決裁なんてものが必要なのかもしれません。
 いや、さすがに知事の決裁は必要ないか。かりに必要であったとしても、たしか三重県伊賀県民局ではいつでしたか臨時職員の女の子が知事公印をばんばん捺しまくって勝手に土木工事を発注し、あっぱれ三重県警にしょっ引かれていたような記憶がありますから、その伝統がいまも脈々と生きているのであれば知事の決裁なんていくらだって捏造できるでしょうに。なんていうのは三重県伊賀県民局で公務にご精励中の皆々様、申すまでもなくジョークです。
 しかしよく考えてみますと、県民局長に実施計画の発表時期をお訊きしたメールには、
 「実施計画案はいつごろ発表されるのか、まことにお手数ながらメールでお知らせいただければ幸甚です。頂戴したメールは情報公開の趨勢に鑑みて当方のホームページで公開させていただきたく、あらかじめご了解をいただければと存じます。もしも公開に差し支えがあるようでしたら、その旨お知らせいただければ非公開といたします」
 と記しておいたのですから、県民局長からいただいたメールには非公開要請が明記されていなかったこともあり、メールのなかの発表時期に関わりのある文章だけを一部引用することにはこれといった差し支えはないものと判断されます。ですから引用いたします。

 近々に2004伊賀びと委員会から発表させていただく予定の事業実施計画に基づき、事業を進めていくことになりますが、実施について広く地域の皆様の意見を伺い、伊賀地域内や県内、そして全国との連携をしていくこととしています。

 「近々に」ってあーた、そーりゃ近々でしょうとも。たぶん三重県議会の9月定例会には事業の予算案を上程しなければならぬはずですから、「年内にはなんとか」なんてことにはなるはずがありません。もう少し明確なお答えをいただけぬものかと思いますが、まあ致し方ないですか。
 というところでちょっと考えてみますと、「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業に携わりながらその実態を知って「この事業は完全に税金の無駄づかいだ」と確信を抱くに至られた皆々様、残された時間はあとわずかです。あまり程度がおよろしいともお見受けできぬ三重県議会議員のみなさんに予算が承認されてしまえば、おそらく後戻りはできません。
 しかしいまならまだ間に合います。みなさん事業関係者が一丸となって三重県に叛旗を翻し、事業の中止を強く要求することによってこの事業を叩きつぶすことは可能なはずです。
 しかしみなさん、みなさんがそんな行動に出ることは決してないでしょうね。なぜなら絶対に一丸にならぬのが伊賀の伝統、伊賀惣国一揆以来のこの地の伝統であるからです。結構結構。やんややんや。あっぱれあっぱれ。ぴーぽーぴーぽー。
 いやー、おふざけが過ぎますか。ふざけているつもりはまったくないんですが。


●7月28日(月)
 『江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』の刊行に関して7月19日夜、池袋西口の蔵之助で皓星社の方お二人からお話をお聞きしましたところ、全国の主要書店に流通させることはいくらでも可能であるとのことでした。
 奥付はたとえば次のようになります。

発行 二〇〇四伊賀びと委員会
発売 皓星社

 そういえば世間には、発行所と発売元が別建てになっている本というのが存在します。書簡集を全国の書店で販売できるかどうかという問題は、その手をつかえば難なくクリアできそうです。もっとも、発行者が二〇〇四伊賀びと委員会になるのか別の組織になるのか、そのあたりのことは現時点ではまだ確定しておりません。
 さてこうなりますと『江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』、巻頭には発行主体である二〇〇四伊賀びと委員会による序文を収録し、書簡集刊行に至る経緯を読者に伝えることにいたします。「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業の究極の目的である伊賀の自己宣伝にこれ努めるわけです。
 三重県伊賀県民局ならびに二〇〇四伊賀びと委員会のみなさん。これがみなさんのお好きな情報発信ってやつですね。
 そしてもしもそれが可能だというのであれば、序文にはぜひ同事業が税金の無駄づかいであるという事実を盛り込んでもらいたいものだと私は考えているのですが、委員会側はたぶん難色を示すでしょう。その場合には盛り込めません。
 ただし私が序文のゴーストライターを仰せつかることになった場合には、委員会側には税金のぜの字も出てこないダミーのゲラを渡して委員各位の眼をくらまし、実際の印刷には事業の虚妄性を徹底的に追及する内容の原稿をひそかに回して、全国の読者に三重県ならびに伊賀地域の真実を伝えることにいたします。
 三重県伊賀県民局ならびに二〇〇四伊賀びと委員会のみなさん。こんな情報発信はお嫌いでしょうね。
 いやいかんいかん。こんなことばかりいってると、書簡集刊行にお力添えをいただく方々に余計なご心配をおかけしてしまうことになりかねません。
 といったところでスタッフのご紹介。

      監修・解題 浜田雄介
乱歩書簡翻刻・関連年表 小松史生子
不木書簡翻刻・関連年表 阿部崇
         索引 末永昭二
         写真 本多正一
         編集 皓星社編集部

 浜田さんは駿河台大学教授にして本邦アカデミズムにおける乱歩研究の第一人者の方ですから、いろいろご多用なのは百も二百も承知しているのですけれど、一肌も二肌も脱いでいただくことになっております。書簡集編纂の実質的なボスの役目を果たしていただくわけで、浜田のおかしら、とお呼びすることになっております。
 小松さんは名古屋の女子大で教鞭を執っていらっしゃいまして、19日にはご欠席だったのですが、過日お会いしたとき、
 「小松さんの学校てあれですか。毎年クリスマス前になったら名古屋ローカルのテレビ局の午後6時台のニュースで女子大生のお姉さんがきんこんかんこんハンドベル鳴らしてるとこ取材されてるあの学校ですか」
 とお訊きしたところ、
 「え。あ。そうですそうです。きゃはははは」
 とのことでした。ところが肝心の大学名を失念してしまい、とんだことでどうも申し訳ありません。そんなことはともかく、女性の方に加わっていただくことで三重県が掲げる空疎なお題目のひとつである男女共同参画とやらが実現できるわけです。どや。三重県職員のみなさん。まいったか。
 阿部さんは不木研究サイト「奈落の井戸」でもおなじみの日本でただ一人の小酒井不木研究家(ご本人の言によれば「日本でただ一人の」と「小酒井不木研究家」とのあいだに「現存する」という言葉が必要らしく、なんだか絶滅危惧種みたいな方なのですが)なのですから、ここはどうあっても阿部さんに引き受けていただかなければ話が始まりません。不木の筆跡は乱歩のそれよりさらに判読が難しいらしく、難行苦行を強いることになるのかもしれませんが、乱歩研究不木研究さらには日本探偵小説史研究のために泣いていただくことになっております。
 末永さんはあの『貸本小説』の末永さんですが、19日の話し合いでやはり索引も必要だろうということになりましたので、
 「それやったらええ人がいます。これがもう『新青年』研究会の索引の鬼と呼ばれてる人でして、ちょっと末永さーん」
 とやや離れた席にいらっしゃった末永さんに呼びかけましたところ、末永さんはじつに幸福そうな風情でビールをお飲みになっていらっしゃいましたので、あまり野暮なことを申し出るのも憚られ、
 「索引やってください索引」
 とお願いしただけで終わったのですが、話がちゃんと通じていたのかどうか、ちょっと心配になっているところです。
 本多さんは中井英夫最晩年の助手をお務めだったあの本多さんで、じつは皓星社に書簡集刊行の話を持ち込んでくださったのもこの本多さんですので、私はここ数年来ずーっとお世話になりっぱなしなわけなのですが、今回もまたご厄介になることになって恐縮至極、ただまあ私は中井英夫よりは幾分かまっとうな人間ですから、その点だけが本多さんにとっての救いだろうと思っております。
 で、組版や用字の細かい要望まですべて伝えたうえで、編集作業は皓星社編集部にお願いするつもりです。原稿の受け渡しやお金の支払いや印刷屋さんとの折衝など、二〇〇四伊賀びと委員会が直接担当するのはとても無理ですから、編集実務もアウトソーシングしてしまおうという寸法です。
 以上、三重県伊賀県民局ならびに二〇〇四伊賀びと委員会のみなさんにはあまりなじみのないお名前が並んだかもしれませんが、こうして名を連ねることをご快諾いただいたみなさんは書簡集刊行の実働部隊として望みうる最高のスタッフでいらっしゃると、不肖名張市立図書館カリスマ改め癒し系嘱託たるこの私が太鼓判を押しておきたいと思います。
 ついでに皓星社という出版社に関してご報告申しあげておきますと、当日はわざわざ社長さんにもご足労いただきましたので、私はじつに失礼なことながら、なにしろ県民の税金をつぎ込むことになるわけですから百八十万三重県民を代表いたしまして、ところでいったい御社の経営状態はどないなってまんねんと、いつ張り飛ばされても仕方ないようなことをお訊きした次第なのですが、社長さんからはたいへん心強いお答えを頂戴いたしました。
 それにしてもわれながらよくあんなことが質問できたものだと思い返されますが、決して他意はなく、三重県民の税金を有効適正に活用するうえで当然要請される質問であったとご理解いただければ幸甚です。皓星社の社長さんには、ここであらためてお詫びを申しあげておきたいと思います。
 ところでおまえね、と読者諸兄姉はお思いかもしれません。優秀な人材と信の置ける出版社が集まってくれたことはよくわかったけれど、おまえはいったい何をするんだ、と。
 その件に関してお知らせいたしますと、何と申しますか、私はとにかく楽をしようと思っております。私だってたまには楽がしてみたいんです。どうもすいません。浜田のおかしらー、どうぞ大目に見てくださーい。


●7月27日(日)
 一度会って話がしたい、と見知らぬ方からお電話をいただきました。きのうの朝のことです。午後、名張市内の喫茶店でお会いしました。その方は「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業に携わっていらっしゃるそうで、頂戴した名刺には芭蕉さんをデザインした同事業のシンボルマークが印刷されています。
 用件は何かと申しますと、この事業に関する憤懣の吐露とでもいったことでした。私はなにしろ伊賀地域でただ一人この事業を公然と批判している人間ですから、こういう方から面会を求められても不思議ではありません。もっとも、私には事業に関して何の権限もなく、そもそも事業の実情もほとんど知らないわけなのですから、助言ひとつするでもなしにお話をお聞きするだけのことです。
 お聞きしたところを総合すると、官民合同の二〇〇四伊賀びと委員会によって先ごろ「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業の予算配分が行われ、事業を提案した人たちのもとにそれぞれの予算額が郵送で通知された結果、事業関係者のあいだに「収拾のつかない状態」がもたらされたとのことです。
 富の分配には不平不満や不公平感がつきものですし、示された予算額は要求した予算に対する満額回答というわけでもなかったでしょうから、三億円の配分をめぐってごたごたが起きるのは当然といえば当然ですが、そのごたごたが「収拾のつかない状態」にまで立ち至った背景には、二〇〇四伊賀びと委員会に対する事業関係者の不信感も存在しているのではないかと私には感じられました。
 とはいえこれはあくまでもきのうお会いした方のお話に基づく判断ですから、公正なものとはとても呼べません。ただまあ、「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業が三重県によるばらまき行政であることは最初から論を俟たず、そのばらまきにへこへこへこへこまったく無批判に尻尾を振った地域住民のおつむのお程度なんてものもあらかじめ了解されてはいたことですから、「収拾のつかない状態」が両者によって不可避的にもたらされるであろうことは端から予想されていたといってもいいのかもしれません。
 やれやれ。伊賀地域の莫迦のみなさん。私はほんとにやれやれと思います。やーれやれ。
 でまあ私としてはきのうお会いした方に、「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業なんて中止するのが一番いいのだと申しあげるしかなく、そうしますとその方は、それはそのとおりだがいまから中止することはできない、各事業関係者は不平不満を抱えながらもそれぞれに提案した事業を実施してゆくはずで、しかしあとには何ひとつ残るものはないであろう、とおっしゃったあと、
 「あの事業、完全に税金の無駄づかいです」
 と仰せでした。関係者の大部分はそう思ってるはずです、とも。やれやれ。やーれやれ。やーれほんにさなぎるやらー。
 またその方のお話では、事業関係者には俳句関連のイベントを提案し、示された予算が要求額からあまりにもかけ離れていたのですっかり驚き呆れかつ激怒している人がいらっしゃるそうで、ぜひ一度その人に会って話を聞いてやってくれぬかとのご依頼をいただきました。私は迷わずお引き受けいたしました。
 こうなるともう心のケアってやつですか。事業に関係したせいで程度の深浅こそあれ心に痛手を負ってしまった人がいるのであれば、そして抱え込んだ憤懣を私がお聞きすることでその人のささくれ毛羽立ちざらついた心にたとえつかのまでも平安が訪れるというのであれば、私は千里の道さえ厭うものではありません。カリスマ改め癒し系嘱託として伊賀の地に安心立命をもたらしたいと思います。
 しかし毎日こんなことばっかやってていいんでしょうか。『江戸川乱歩著書目録』の色校正は週明けに渡すといってあるのにそんなこんなであんまり進んでいませんし、三重県のばらまき行政にへこへこへこへこ尻尾を振って刊行にこぎつける『江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』のお話もどっかに行ってしまいましたし。それはそれとしてあしたは乱歩の命日ですし。なんかもうわけがわからなくなってまいりました。


●7月26日(土)
 眼精疲労はその極に達し、老眼の進行は矢のごときスピードと実感されます。読者諸兄姉。お互い長生きしましょうね。

伊賀県民局応答せり

 などと莫迦なこといってる場合ではありません。三重県伊賀県民局長からメールを頂戴いたしました。さっそくご紹介申しあげたいところですが、公開していいものかどうか、念のためにメールでお訊きいたしました。
 私がついさっきお出ししたメールはこんな感じです。

件名伊賀県民局長様ご返事ありがとうございました

 公務ご多用のところご丁寧にご返事をいただき、ありがとうございました。お手数をおかけして申し訳なく思っております。

 ただ、まことに残念なことですが、当方の真意をご理解いただけていないように思われます。私は「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業の理念や趣旨をお訊きしたわけではありません。きれいごとを並べただけの内容空疎な能書きなら、事業のパンフレットを拝見して充分承知しているつもりです。それをなぞっただけのご説明など必要ありません。

 すでに公表されている理念や趣旨に添って個々の事業が実施されたとしても、結局は税金の無駄づかいに終わってしまうのではないかということを私は懸念しております。「地域住民の方が主役」となって「伊賀の文化」「伊賀らしさ」を発信するとの仰せですが、独りよがりな思いつきに基づく事業をいくら数多く並べたところで、いったいどんな成果がもたらされるのかといった疑念を抱いております。

 私がお訊きいたしましたのは、この事業は北川前知事によるばらまき行政のひとつであると判断されるが、これは当方の事実誤認か、ばらまきによる予算を伊賀地域が受け容れるとしても事業に携わる人間にそれを有効適正に活用する能力があるかどうか疑わしく思われるが、これは当方の事実誤認か、実施計画案が発表されていない現在の段階ではこの事業が税金の無駄づかいであると判断せざるを得ないが、これは当方の事実誤認か、といったことであり、3月末に発表されるはずだった実施計画案はいつ発表されるのか、ということでした。

 また私のもとには、この事業に携わっているとおっしゃる方から、「本当に税金の無駄遣い事業だとおもいます。どうしたらこの事業をSTOPさせることができますか?」とのメールが届いていることも申し添えておきます。同じく事業関係者のお一人からは、私が「四季どんぶらこ」に発表した漫才の内容は「表現は強烈だが、実際にはおまえのいうとおりだ」とのお電話も頂戴しております。当方の意見に対する反論や批判は、いまのところ寄せられておりません。

 ご返事を拝読して、この事業がいよいよ信の置けぬものであるという気がしてきました。「建設的なご意見を」との仰せをいただきましたが、事業中止のご英断をお願いするのはきわめて建設的な意見であると思っております。ここまで準備が進んできた事業を敢えて中止することは、伊賀地域や三重県が税金のつかい方を根本的に見直すための契機になるとすら愚考しております。私の真意はご理解願えないでしょうか。

 とはいえ実際には、いまから事業そのものを中止することなど不可能であると判断されますので、具体的な事業として『江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』の刊行を提案し、現在その実現のために微力を尽くしている次第です。先日も上京し、書簡集刊行にお力添えをたまわる方々にお集まりいただいて、協議を進めてまいりました。当方のホームページでその内容を公開しておりますので、一度ご閲覧いただければと存じます。

 なお、頂戴したメールを当方のホームページで全文公開させていただいてもよろしいでしょうか。この点につきましては17日付メールでもご了承をお願いしたところですが、あのメールは「実施計画案はいつごろ発表されるのか」という一点だけをお訊きしたものでしたので、念のために確認させていただきます。可否いずれか、お手数ながらメールでお知らせいただければ幸甚です。

 ご返事をいただけましたこと、たいへんありがたいことに思っております。重ねてお礼を申しあげます。

2003/07/26

 きょうはこれだけです。またあした。


●7月25日(金)
 本日のパブロフの犬はちょっとだけ行きます。
 ちょっとだけですから花園神社横の凛凛にはなかなかたどりつけません。凛凛の前にゴールデン街の萌というお店にも立ち寄らなければなりませんし。

 ところが実際には池袋西口の蔵之助からいまだ一歩も外に出ていない状態。そろそろ蔵之助における本題に入りたいと思います。
 いやその前に三重県伊賀県民局ならびに二〇〇四伊賀びと委員会のみなさん。いかがですか。みなさんのお題目である情報発信とやらがずいぶん胡散くさいものだということをおわかりいただけたでしょうか。
 くわしいことはまた今秋の「伊賀学講座」でお話しいたしますが、ひきつづき情報発信という言葉を使用しながら先に進みますと、たとえば江戸川乱歩と小酒井不木の書簡集をよっこらしょっと刊行してみたところで、それだけでは情報発信にはなり得ません。発信すべき情報を用意した、というだけの話です。
 問題はこれをいかにして発信するかなのですが、私は書簡集を全国の図書館に寄贈することを思いつきました。根本彰さんの『情報基盤としての図書館』(2002年4月、勁草書房)によれば、2001年春現在、わが国には公共図書館二千六百館、大学図書館千五百館、専門図書館二千館が存在しています。このうち公共図書館全館に書簡集を一冊ずつ寄贈すれば、これを情報発信と呼ぶことはなんとか可能なのではないかと判断されます。
 ついでですから大学図書館全館にも送るとしても、合計の部数はわずか四千と百。研究者などへの寄贈分と購入希望者への販売分とを合わせても、せいぜい五千部かもうちょっとあれば充分でしょう。ハリー・ポッターたらいうベストセラーと比較するまでもなく、発行部数としてはたかが知れています。
 ただし三重県伊賀県民局ならびに二〇〇四伊賀びと委員会のみなさん。この書簡集を新刊書店で販売するのはかなり難しいことです。取次が扱ってくれませんから一軒一軒本屋さんを廻り、買い取りで店頭に置いてくれるようにお願いするしか手はありません。
 在庫の問題も出てきます。書簡集の発行者は二〇〇四伊賀びと委員会または委員会関連の組織にするしかないはずで、となるとそれは一定期間だけ存続する組織だということになります。そうした組織に書簡集の在庫を資産として管理してゆくことができるのかどうか。
 みたいな課題問題もですね三重県伊賀県民局ならびに二〇〇四伊賀びと委員会のみなさん。商業出版社と手を携えることができればクリアできるかもしれません。そこで私は7月19日土曜夜、皓星社の方にお目にかかってお話をうかがうことにした次第です。
 場所は池袋西口の蔵之助。待ち合わせは午後6時、芳林堂書店池袋店一階。私は「乱歩が蒐めた書物展──江戸川乱歩蔵書より」会場でお会いした四人の方ともども午後5時過ぎには蔵之助にのたくり込み、そそくさとビールを飲み始めておりましたが。


●7月24日(木)
 きのうアップロードした画像は、玄光社から刊行された『イラストレーションファイル2003』(7月20日発行、本体三三〇〇円)の33ページ。これは一ページ一作家のイラストレーター名鑑とでも呼ぶべき書籍で、それぞれの作家が昨年手がけた書籍表紙、雑誌挿絵などから選んだ作品が一人四点ずつ、美しいカラー写真で紹介されています。
 画像でご覧いただいたのは石塚公昭さんのページですが、石塚さんの人形+写真作品「帝都上空」を使用させていただいた名張市の江戸川乱歩ふるさと発見五十年記念事業「乱歩再臨」ポスターが、晴れて堂々収録の栄に浴しております。
 しかも読者諸兄姉、ご覧いただきましたか。ページの下のほうには、このポスターのクライアントが三重県名張市であり、デザイナーはニコライ・フセヴォロドヴィチ・スタヴローギンなのであると、うちの番犬の名前までちゃんと明記していただいております。うちの犬の名前が、あろうことか新潮社装幀室と肩を並べてしまっております。こんな犬、ちょっといません。
 ただ同然の値段で「帝都上空」をつかわせていただいたうえ、昨年の代表作のひとつとしてわざわざ紹介までしていただいて、石塚さんにはお礼の言葉も見つかりませんが、晴れがましさに充ち満ちて読者諸兄姉にお知らせする次第です。
 きのうの文脈に戻って申しますと、名張市の「乱歩再臨」という情報がこういう形で伝達さ

 などといってる場合ではなくなりました。昨日午後になって、とうとうこれが届きました。

『江戸川乱歩著書目録』色校正

 ご覧いただきましたか読者諸兄姉。えらく恰幅がよく見えるのはゲラを貼り合わせて製本してあるからですが、とにかくこの色校正を大急ぎでやっつけてしまいたいと思いますので、本日はこのへんで。パブロフの犬はきょうは行かない。


●7月23日(水)
 さて、三重県伊賀県民局ならびに二〇〇四伊賀びと委員会のみなさん。ご覧いただいておりますでしょうか。話はいよいよ佳境です。
 いやその前にお知らせをひとつ。
 
■大宴会のお知らせ
 19日午後、お茶の水から池袋へ向かう電車のなかで次回大宴会の開催が決まりました。

人形芝居押絵と旅する男上演記念大宴会

辻村寿三郎さんの人形芝居「押絵と旅する男」の上演を記念した大宴会を開催いたします。公演は9月6・7両日、池袋の東京芸術劇場小ホール1で。開演は午後2時と4時。チケット取り扱いは、としま・コミュニティ・チケットセンター(電話03-3590-5321)。初日の夜に大宴会で盛りあがります。お気軽にご参加ください。

   日程9月6日(土)
 集合時間
午後6時
 集合場所
芳林堂書店池袋店一階
大宴会会場
蔵之助(池袋西口センタービル五階)
   会費
時価

 私は性懲りもなくこんなことばかりやってるわけですが、19日夜に池袋で開催した「乱歩が蒐めた書物展」開催記念大宴会では、三重県事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」の予算で『江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』を刊行しようというパブロフの犬作戦に関して、皓星社という出版社の方お二人にお目にかかり、だいたいのところをお聞きしてきました。
 
■情報発信と自己宣伝
 いやその前に三重県伊賀県民局ならびに二〇〇四伊賀びと委員会のみなさん。ここでひとつ確認しておきますと、「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」のテーマは情報発信です。よろしいですか。だからといって、伊賀の山のなかでたとえば芭蕉に関するイベントをよっこらしょと開催してみたところで、それがそのまま情報発信になるとは私には思われません。私の申しあげていることがおわかりいただけるでしょうか。
 いやまたしてもその前に、私はここで情報発信という言葉の胡散くささについて記しておくべきかもしれません。バブル経済の時期以降全国の地方自治体に急速に蔓延した情報発信というこの言葉、ありていに申せばしょせんは美辞麗句のたぐいに過ぎず、その実態は自己宣伝にほかなりません。おわかりですかみなさん。何の違和感もなく情報発信という言葉を使用して怪しまぬ人間は、もしかしたらあったまおかしいんじゃないですかあ、とも私は思います。
 
■名張市の悲惨な事例
 たとえば名張市役所ではもう十年以上、「江戸川乱歩をキーワードに名張市から情報発信を」などという意味不明の能書きがまかり通っているわけですが、こんなものは結局「乱歩の名前を利用して名張市の自己宣伝を」というだけの話です。早い話が「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」にしたところで、つまるところはあの手この手で伊賀を自己宣伝しようというだけの話だと私には見えるのですが、みなさんはどうお考えでしょうか。
 むろん私は、自己宣伝そのものを否定しているのではありません。乱歩を自己宣伝に利用するなら利用するで、乱歩のことをよく理解してくれなければ困ると申しあげているだけです。乱歩作品もまともに読んだことのない職員が乱歩関連事業を手がけるなどは笑止千万、そんなのは税金をせっせとどぶに捨てるのと同じことですし、だいたいが自己宣伝にすらなりゃしません。誰もまともに取り合ってなんかくれないでしょう。せいぜいが関係者の自己満足に帰結しておしまいです。
 
■情報発信と情報伝達
 ですから情報発信という美辞麗句を私はあまり好まぬのですが、ここはみなさんに歩調を合わせて敢えて使用いたしますと、発信した情報はいったいどうなるのか、という問題をみなさんはお考えになったことがおありでしょうか。情報を発信すればそのあとには当然伝達という段階が待っているはずで、そうでなければ情報はただの打ち上げ花火に終わってしまいます。
 しかし実際のところ、これまでにみなさんが見聞きされた情報発信は、発信した情報がどこにも伝達されることのない打ち上げ花火が大半だったのではないでしょうか。三重県や伊賀県民局や上野市や名張市や、そこいらのお役所による情報発信なんて独りよがりなままごとに過ぎなかったのではないでしょうか。つまり私は無教養不勉強無責任不見識な腐れ公務員どもに何ができるかと思っているわけなのですが、出来の悪い腐れ公務員のみなさん、ご覧いただいておりますでしょうか。いまやあなたが話題の中心です。
 
■名張市の楽しい事例
 いやいけませんいけません。私にはどうも公務員という言葉を見ると頭にかーッと血が昇って誰彼かまわずチョークスリーパー決めたくなる悪い癖があるようで、くれぐれも心して話を進めたいと思います。まあ結論としては、お役所による情報発信すなわち自己宣伝なんて不要である、お役所がやるべきことをきちんとやっていれば結局それが一番の自己宣伝になり情報発信になる、「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」も必要ないのではないか、といったことになるかと思います。なんかもうこんなわかりきったこと、わざわざ書きつけるのが面倒になってきましたけど。
 それでまあ伝達ということになりますと、私は昨年、心ならずも「乱歩の名前を利用して名張市の自己宣伝を」という名張市の意を汲む仕儀となり、江戸川乱歩ふるさと発見五十年記念事業「乱歩再臨」を仕切る結果となったのですが、この自己宣伝の情報はいろいろな方の手で伝達していただけたように思います。最新の伝達事例は下記のようなことで。

『イラストレーションファイル2003』

 といったところで時間がなくなりました。パブロフの犬はあすも行く。


●7月22日(火)
 東京古書会館の「乱歩が蒐めた書物展──江戸川乱歩蔵書より」会場で実施されていたクイズは暗号解読で、問題として二桁の数字が九つ示されていました。私は一瞥をくれただけで、
 「どうせ単純な置換式だろう」
 と睨みをつけました(それにしては置換式というのがいったいどんな暗号なのか、私にはよくわかっていないのですが)。つまり二桁の数字を五十音表に当て嵌めればよろしく、たとえば「三四」なら五十音表三行目の四文字目、つまり「せ」になるという寸法です。
 鞄からノートを取り出して問題を書き写し、五十音を当ててみると、
 「かにかろふたひかさ」
 という意味のない言葉が浮かびあがってきました。文字の順番を入れ替えてみても、まともな言葉にはなりそうもありません。それならこれはアルファベットで、三つも出てくる「か」はおそらく母音であろう、というところまでは考えを進めたのですが、アルファベットを数字に置換する方法がどうにも思い浮かびません。私はあっさり諦めました。
 ところでこの会場で、私は以前からおつきあいいただいている四人の方にお会いしました。いずれ劣らぬ乱歩ファン探偵小説ファンの面々ですが、うちお一人が会場スタッフの女性からヒントを教えてもらったとのことでした。主催者側はどうやら、展示会最終日午後になってもあまり正解者が出ていないことを憂慮し、どんな間抜けにでもわかるヒントを出して賞品のBDバッジをさばいてしまえ、と決断したもののようです。
 そのヒントというのは、
 「解読の鍵はケータイ、答えは地名」
 ここまで聞けば私にだって、あ、団子坂か、乱歩で古書で地名と来れば団子坂しかないではないか、くらいの察しはつきましたので、おかげさまでまんまとBDバッジをせしめることができました。
 ちなみにアルファベットと数字の置換はケータイのメールでアルファベットを打つ操作法に準拠していたそうで、問題の九文字は、
 「AKAZOGNAD」
 逆さに読んで「だんござか」、といったことのようでした。
 そのあとは(なんか小学生が書いた遠足の作文みたいな感じになってきましたが)、ついでですから明治古典会古書大入札会の一般下見展観会場にも足を運び、ネット上の目録で公開されていた「猟奇の果連載第1回46枚入札最低価格200万円」だの「桃色のハンカチに贈るペン書200字詰完1枚入札最低価格12万円」だのを眺めました。
 それから私たち五人は、しばらく歩いて山の上ホテルの喫茶店に入りました。

山の上ホテル

 いやいや、これではほんとに遠足の作文です。先を急ぐことにしてひとつだけ記しておきますと、私は会場でお会いした四人のうちお二人から、
 「乱歩の著書目録、どうなってるんですか」
 とのご質問をいただきました。
 「いくら何でももうそろそろ色校正があがってくるはずなんですが」
 とお答えしたのですが、『江戸川乱歩著書目録』がいったいどうなっているのか、じつは私にもよくわかりません。くだんの印刷屋さんはいまや私にとって見当や推測の及ばないブラックホールのごときものになり果てていて、もうどうでも好きなようにしてくれと、私はそのように観念しております。とにかくもうしばらくお待ちください。
 そういえば、私はこの日夜の大宴会でお会いしたある方から、日本の印刷業界において組版という文化はすでに死滅している、というお話をうかがいました。日本語組版のルールだの欧文のハイフネーションだの、当然通じるはずの話がまったく通じないのは三重県の印刷業界に限った話ではないとのことです。
 その方は編集のお仕事に際して最終的には印刷屋さんに乗り込み、組版の細かい指示を直接出していらっしゃるそうなのですが、指示を伝えられたオペレーターが小さな声で、
 「あの人どうしてこんな細かいことばかりいってくるんですか」
 とかなんとかぼやいているのが聞こえてきたりするそうです。これはより端的にいってしまえば、
 「あの人あったまおかしいんじゃないんですかあ」
 ということであり、ああ、俺もくだんの印刷屋さんできっとこんなこといわれてるんだろうな、とつくづく思い返された次第です。いやはや、われわれはいまや印刷屋さんから狂人扱いされてるってわけですかS永さん。いやまいった。まいりました。


●7月21日(月)
 おかげさまで「乱歩が蒐めた書物展」ならびに「乱歩が蒐めた書物展」開催記念大宴会から無事に戻ってまいりました。関係各位のみなさん、どうもありがとうございました。

パブロフの犬がゆく

 人生にはときどき、自分はどうしてこんなところでこんなことをしているのだろう、と疑問を抱いてしまう瞬間が訪れるものですが、7月19日の深夜、というか7月20日の未明、花園神社横にあるスナック凛凛でカウンター席の男性客に背後からチョークスリーパーを決めながら、
 「こら。たこ食う人は他国の人やとかゆうてしょうもない漫才かましとったジョージケンジのかたわれかおのれは。こら。どや」
 とわめいていた私はふと、酔っ払った頭の片隅で、俺はどうしていまごろこんなところでこんな莫迦なことをしているのだろう、俺はいったいいつまでこんな莫迦な真似をつづければ気が済むというの
だろう、とひどくぼんやりした気持ちで考えてしまいました。
 見渡せば店内にはママと私とその男性客、ほかにはねんごろになったばかりの自称小説家の女性客がいるだけで、新宿の街もつかのまの眠りについたころおいでした。
 えー、凛凛というのは下記のリンクのお店です。ページ下部で回転している地球をクリックすると地図のページにジャンプします。どちらさまもどうぞご贔屓に。私もまたお邪魔したいと思っております。もしも凛凛のママがお店に入れてくれたらの話ですけど。いやどうもお恥ずかしい。まいったまいった。

凛凛

 まいってばかりもいられませんから順を追って説明いたしますと、東京都千代田区神田小川町にある東京古書会館で、7月13日から19日まで「乱歩が蒐めた書物展──江戸川乱歩蔵書より」が開かれました。20日に催された同会館落成記念平成15年明治古典会古書大入札会の関連イベントで、18・19両日の一般下見展観日には入札の出品物が会館内に展示され、誰でも自由に入場することができました。
 この「乱歩が蒐めた書物展──江戸川乱歩蔵書より」は、

江戸川乱歩の蔵書の中から「近代」に焦点をあて、「乱歩と明治文献」(明治初中期の翻訳小説を中心としたコレクション)や「乱歩と周辺の作家たち」(自作と昭和前期の探偵小説)の珍しい書籍180点を展示いたします。

 と予告されていたものですが、なんかしょぼそうな展示会でしたから私は足を運ぶことを逡巡していました。
 ところが、毎度おなじみ「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業で『江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』刊行に五百五十万円の予算が内示されたと聞き及びましたので、それなら一度上京して、以前から書簡集刊行のことで声をかけていただいている出版社の方にお会いし、二〇〇四伊賀びと委員会とその出版社とが手を携えながら『江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』を刊行できる道がないものかどうか、ちょっとお話をお聞きしてみようと思った次第です。
 その出版社は皓星社という名前で、少し以前、中日新聞のコラム「大波小波」に『椿實の書架』の版元として紹介されていたのを私は記憶しています。

皓星社

 7月19日朝、午前9時24分名張駅発の名古屋行き近鉄特急に乗り込んで、私は一路東京を目指しました。道中格別のことはありません。午後1時、新幹線のぞみで東京駅に着いた私は中央線に乗り換え、お茶の水駅で下車しました。徒歩数分で東京古書会館へ。道中格別のことはありません。
 「乱歩が蒐めた書物展──江戸川乱歩蔵書より」はほぼ予想していたとおりの内容で、とくに記すべきこともありません。会場ではクイズが実施され、正解者にはBDバッジがプレゼントされるとのことでした。


●7月18日(金)
 三重県伊賀県民局からはいまだ応答がありません。
 私は呆れました。
 呆れ返りました。
 呆れ返ってこんこんちきになってしまいました。
 県事業の行く末を真剣に憂える善良な地域住民の存在をいったい何と心得おるのかこの不届き者どもめが、とは思いますものの、なんですかもう伊賀県民局のみなさんをまともに相手にするのが莫迦らしくなってしまいました。ばーか。今後はメールをお出しすることもありません。伊賀県民局のみなさんはどうぞ枕を高くして公務にご精励ください。今秋の「伊賀学講座」でお会いしましょうね。
 さて、昨17日付中日新聞伊賀版のコラム「いがぐり」には、われらが県事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」がとりあげられておりました。村瀬力記者の署名記事で、タイトルは「伊賀人の力を結集させよう」。文中には、
 「いろいろな人たちに事業について聞いたが『それって何』『自分には関係ない』といった答えが、芭蕉と縁が薄い名張市では目立つ」
 と記されています。
 これは当然のことで、上野と名張は昔から倶に天を戴かぬ間柄ですから、いくら伊賀全域をカバーする事業であってもその名称に「芭蕉さん」なんてのが入ってくるだけで、名張の人たちはたちどころにそっぽを向いてしまいます。同様に名張ゆかりの「観阿弥さん」なんてのが事業名に出てきたりしたらさあ大変、上野の人たちはいっせいに反撥を覚えて手を引いてしまうことになります。
 伊賀などという狭小な土地でなーに蝸牛角上の争いをつづけているんだ上野の莫迦と名張の莫迦は、と読者諸兄姉はお思いでしょうが、これが伊賀地域の伝統であるとご理解ください。あまり美しい伝統ではありませんが、伝統であることはたしかです。
 げんに二〇〇四伊賀びと委員会にも、上野側スタッフと名張側スタッフのあいだに対立確執が存在していると伝えられます。その対立確執は伊賀地域の住民感情をそのまま反映したものであるに過ぎず、別に驚いたり嘆いたりするべき筋合いのものではまったくありません。
 したがいまして、伊賀全域をカバーしようというこの手の事業におきましては、伊賀みたいな土地柄でいったい何が可能なのだろうか、みたいなことをまず考えなければなりません。そうでなければ事業そのものが地域社会から浮きあがってしまい、一般の地域住民に受け容れられることもまた難しくなります。
 ところが、まことに遺憾なことながら、「伊賀はひとつ」などというぼけ老人の寝言みたいなきれいごとを前提に、単なる思いつきをずらずら並べただけなのが「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業の空疎な内実なので
あると、少なくとも私には思われる次第です。そんなことのどこが「情報発信」か。ばーか。
 「伊賀人の力を結集させよう」の最後の段落を引きましょう。

 この事業は県や市町村との協働としながら、地域住民が主体で実施するという。現実にはまだ一部の人による模索が続いているが、開始まであと十カ月。多くの住民が参加できる事業にするのなら、草の根からの盛り上がりがそろそろ出てこないと。

 「草の根からの盛り上がり」などいつまで待っても出てこないであろうことは、三重県伊賀県民局や二〇〇四伊賀びと委員会のみなさんが一番よくご存じでしょう。この事業が伊賀地域住民にどれだけ認知されているのか、事業関係各位はよくよくご承知のはずです。
 このまま盛りあがりが出てこないままに推移するとなると、結局はお役人衆と地域住民の「一部の人」の思いつきだけで事業が実施に移され、あたら県民の税金三億円がどぶに捨てられてしまうことになります。さーあ。どーするどーする。
 さて、あほらしくなったから東京にでも行ってこようっと、という次第で、唐突ながら大宴会のお知らせです。

「乱歩が蒐めた書物展」開催記念大宴会

東京古書会館落成記念イベント「乱歩が蒐めた書物展」を記念した大宴会を開催いたします。ふるってご参加ください。

   日程7月19日(土)
 集合時間
午後6時
 集合場所
芳林堂書店池袋店一階
大宴会会場
蔵之助(池袋西口センタービル五階)
  テーマ
「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく
      秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」を語る
   会費
時価

 要するにあす19日の開催で、開催を決めたのはきのう夕刻。あわただしくて申し訳ありませんが、どちらさまもお気軽にご参加ください。
 席上、「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業のうち『江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』刊行事業についても協議いたしますので、ご足労ですが事業関係各位はぜひご出席を。ま、当事者意識のかけらもない人たちに何いったって無駄でしょうけど。呵々。


●7月17日(木)
 ご心配をおかけしております。それとなく諫めてくださる体のお電話やメールも頂戴しておりますが、まあお約束はお約束、私はけさ三重県伊賀県民局ホームページにこんなメールを出してしまいました。

件名伊賀県民局長様ご返事いただけませぬか

 おはようございます。過日はご多用のところ面倒なことをお願いして申し訳なく存じておりますが、「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」に関してお訊きいたしました件、ご回答はいただけないのでしょうか。

 むろん貴職が地域住民の質問にいちいちお答えにならねばならぬ理由はありませんが、当方も住民の一人として県民の税金三億円をどぶに捨てる事業の行く末を気がかりに思い、お目にかかったこともない貴職に失礼は承知でメールをさしあげている次第です。

 お手数をおかけするのはまことに恐縮なのですが、ご回答をいただけないならいただけないで、その旨お知らせくださいませんでしょうか。説明責任というご大層な言葉を持ち出すつもりはありませんが、せめて住民に対する応答責任くらいは果たしていただきたく、なにとぞよろしくお願い申しあげます。

 なお、二〇〇四伊賀びと委員会スタッフの方から先日お電話をいただき、今秋開催の「伊賀学講座」で講師を務めるようご慫慂をたまわりましたので、謹んでお受けいたしました。ぜひ会場に足をお運びいただき、当方の「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」批判をお聴きいただければと存じます。

2003/07/17

 やれやれ、とわれながら思うわけですが。
 それからいま気がついたのですが、私はこのところこの厄介な三重県事業の名称を「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく伊賀の蔵びらき」と記していたのですが、正式には「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」です。「秘蔵のくに」が抜けておりました。やれやれ。

 A Glimpse of Rampo
 耽美な怪奇ファンタジー&コミック20選:無署名
誌名:MOE 8月号(25巻8号)/編:長塚通代/2003年8月1日/白泉社/p. 38
 
格調高い幻想小説、奇想天外な恐怖譚、猟奇趣味的怪談まで、悪の魅力に満ちた妖しい夢に陶酔したいなら江戸川乱歩を。
○やよいさんから目撃情報のご通報をいただきました。

 これだけでは愛想がありませんから、「耽美な怪奇ファンタジー&コミック20選」、おなぐさみまでに作家名を列挙しておきます。

■古典の醍醐味を味わおう
 江戸川乱歩、岡本綺堂、泉鏡花、夏目漱石
■現代人気作家の凄腕に脱帽!
 宮部みゆき、小野不由美、乙一、東郷隆
 倉阪鬼一郎、恩田陸、小沢章友、京極夏彦
■妖魔・異界の住人たち
 美内すずえ、今市子、由貴香織里、松下容子
■怪談・不思議な物語
 山岸凉子、波津彬子、杉浦日向子

 二十選のはずがいくら数え直しても十九作しか挙げられていません。そのことに気がついて、ちょっとだけぞーッとしてしまいました。


●7月16日(水)
 いやおかしい。どうもおかしい。三重県伊賀県民局長からはまだご回答をいただけません。いくら公務ご多忙だとはいえ、私のメールに返事を出すくらいのことにはさほどの手間もかからぬはず。三重県伊賀県民局長ともあろうお方が、もしかしたらメールソフトを操作できないとか、まさかのことに日本語が読み書きできないとか、まかり間違ってもそんな間の抜けたことはあるまいとは思いますけど、とにかくきょう一日待ってみて、それでもうんともすんとも反応がなかったら、あしたにでも催促のメールを出してみることにいたしましょう。
 三重県伊賀県民局と申しますと、今年4月上旬のことでしたか、春の異動で同局企画調整部を去ることになった職員三人の送別会が上野市内で開かれました。この方たちには昨年7月、名張市内で開催された旭堂南湖さんの講談会を仕切っていただいたり、うちお一人には乱歩作品の中国語訳に関してご教示をたまわったり、なんやかんやとお世話になりましたので、私も山本松寿堂謹製二銭銅貨煎餅その他を手土産に出席したのですが、ほかにご列席の面々はと見てみると、いずれも何らかの形で「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく伊賀の蔵びらき」事業に関わりのありそうな伊賀県民局職員や伊賀地域住民のみなさんでしたので、
 「へっへっへ」
 と私は思い、自己紹介の順番が回ってきたとき、
 「私は名張市から来ました。みなさん。名張市民の十人に七人は上野が嫌いだ、伊賀は厭だと申しております。二か月前に名張市が行った市町村合併に関する住民投票で、そのような数字がはっきりと出ております。合併にノーといった名張市民の判断はまことに正しい。ですからみなさん。私はみなさんの敵であるとお思いください」
 と訳のわからない挨拶をしておおいに座を白けさせてしまった次第です。
 敵といったって全面的に対立しようというわけではまったくなく、「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく伊賀の蔵びらき」事業に関してご出席のみなさんとは意見を異にしているのだということをわかりやすく表現しようと思っただけの話なのですが、私はなにしろこんなことばかりやってるものですから、三重県伊賀県民局長はもとよりどなたからもまともに相手にしてもらえなくなっているのかもしれません。反省しなければなりません。
 それにいたしましても、「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく伊賀の蔵びらき」事業とはいったい何であるのか。ここであらためて確認しておきますと、三重県が三億円という税金を伊賀地域にばらまいて情報発信の名のもとにどぶに捨ててしまう事業であると、私の眼にはそのように映っております。実際の事業内容はおそらく地域住民の趣味や道楽の延長線上に税金を垂れ流すようなものでしかなく、君たちそんな独りよがりなことに税金つぎ込んでそれが情報発信とやらになるとでも思っているのかと私は鋭く追及したいのですが、そんな話は実施計画案を拝見してからのことにいたしましょうか。
 ところで読者諸兄姉、ごく最近入手した未公表情報によりますと、同事業のうちの乱歩関連予算は、
  江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集 550万円
  講演会・企画展など 200万円
 とすでに確定しているそうで、情報公開の趨勢に鑑みてここに明記しておく次第ですが、いやまいった。まいったまいった。わずか五百五十万円で乱歩と不木の往復書簡集をつくり、それを全国の図書館に広く行きわたらせることなどできるわけがありません。うーん。二〇〇四伊賀びと委員会のみなさんはどうやら本当に私を敵に回してしまったのかしらん。いやー、まいった。
 二〇〇四伊賀びと委員会関係各位からのご意見ご批判はたまた悪口雑言罵詈讒謗を心からお待ち申しあげております。私宛のメールか掲示板「人外境だより」へのご投稿でぜひどうぞ。

 A Glimpse of Rampo
 僕の個人史:宇野亜喜良
書名:薔薇の記憶/著:宇野亜喜良/2000年5月1日/東京書籍/p. 180
江戸川乱歩が編集をしていた「宝石」誌で僕が澁澤龍彦さんのエッセイの挿絵を描いたのも、その頃だったと思う。
○こまさんから目撃情報のご通報をいただきました。


●7月15日(火)
 三重県伊賀県民局長からもこれは税金の無駄づかいであるとお墨つきをいただいた(と私は確信しているのですが)「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく伊賀の蔵びらき」事業の実施計画案がいつ発表されるのか、三重県伊賀県民局長からのメールによるご回答はまだ到着しておりません。きっと公務ご多忙でいらっしるのでしょう。知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいらっしゃるわけでは決してないでしょう。ひきつづきご回答をお待ちするつもりですが、お願いですから関係各位はあまり私を怒らせないでくださいね。
 「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく伊賀の蔵びらき」といえば、事業を主催する二〇〇四伊賀びと委員会スタッフのお一人から先週お電話をいただき、今年度開催中の関連イベント「伊賀学講座」で講師を務めるようご慫慂をたまわりましたので、私は謹んで承りました。

伊賀学講座

 私の出番は秋、乱歩をテーマに、との仰せでしたので、「江戸川乱歩と情報発信」とでも題して「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく伊賀の蔵びらき」批判をたらたら展開したいなと腕を撫しております。読者諸兄姉はもしかしたら、「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく伊賀の蔵びらき」事業を公然と批判している人間に事業関連イベントの講師を依頼する二〇〇四伊賀びと委員会はいったい何を考えているのか、とお思いかもしれませんが、鬼神のごとき批判をくりひろげてもなお余りある私の人間的魅力のしからしめるところだとご理解ください。

 A Glimpse of Rampo
 河島光宏「ビリー・パック」:みなもと太郎
書名:お楽しみはこれもなのじゃ〈漫画の名セリフ〉/著:みなもと太郎/1997年5月2日/河出書房新社、河出文庫/p. 100
 
ともあれ、「ビリー・バック」のストーリィは存外暗く陰湿である。親兄弟が敵にまわったり、赤貧に喘いだり、因縁じみた物語が多く、やりきれぬ一面がある。そのかわり、話の組み立てはガッチリ構成されており、完成度は高い。子供むけでなく、もし小説ででも書かれていたら、今頃、横溝や乱歩並みに売れるのではないか、などとへんな感心をしたくなる作品なのであります。
○正木さんから目撃情報のご通報をいただきました。


●7月14日(月)
 ですから「三重県にある渡鹿野島が乱歩の作風に与えた影響について」というお尋ねに対しては、そんなものはなかった、とお答えするべきかと愚考します。往年の船女郎はしりがねの伝統をいまに伝える渡鹿野島も、乱歩が鳥羽に住んだ当時には鄙びた歓楽地のひとつに過ぎませんでした。なにしろ売春がごく普通に行われていた時代の話ですから(いまでもごく普通に行われているわけですが)、乱歩が渡鹿野島をとくに記憶にとどめていたということすらなかったのではないかと思われます。

伊賀県民局応答せず

 さて、三重県といえば「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく伊賀の蔵びらき」事業ですが、いつまでもじめじめと鬱陶しい気候に業を煮やした私はついさっき、三重県伊賀県民局のホームページ宛にこんなメールを出してしまいました。

件名伊賀県民局長様ありがとうございました

 おはようございます。過日書面でご挨拶申しあげた者です。その節は不躾なお願いで失礼いたしました。

 当方に万一事実誤認などがあればご叱正をとお願いいたしましたところ、とくにご指摘も頂戴しませんでしたので、貴職も当方同様、「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく伊賀の蔵びらき」事業が税金の使途として適正有効でないとのご認識をおもちであると拝察いたしました。お立場上、何かと支障もおありかと存じますが、ご賢察に敬意を表します。

 当方はとりあえず、先日お送りいたしました「四季どんぶらこ」第二十七号を知事宛に郵送し、同事業に関する愚見を具申いたしますとともに、事業の中止を含む善処方を要請したいと思っております。むろん、同事業が税金の無駄づかいであるとする貴職のご見解も申し添える所存です。前知事のばらまき行政による悪政にピリオドを打つことは、現知事が独自の旗幟を鮮明にすることにつながるもので、当方の進言はさぞや知事にもお喜びいただけるであろうと自負しております。

 とは申せ、実施計画も発表されていない状態では事業に対する正当な批判はいたしかねますので、仔細にわたる意見具申は具体的な事業内容が公表されてからにするべきかとも愚考する次第です。つきましては、実施計画案はいつごろ発表されるのか、まことにお手数ながらメールでお知らせいただければ幸甚です。頂戴したメールは情報公開の趨勢に鑑みて当方のホームページで公開させていただきたく、あらかじめご了解をいただければと存じます。もしも公開に差し支えがあるようでしたら、その旨お知らせいただければ非公開といたします。

 ご多用中、お手数をおかけして恐縮しております。「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく伊賀の蔵びらき」事業に関して明快なご判断をお示しくださいましたことに、あらためてお礼を申しあげます。今後ともよろしくお願いいたします。

2003/07/14

 三重県の渡鹿野島ではいまも公然と島ぐるみの売春が行われているのでしょうか、なんてこともお訊きすればよかったかしら。


●7月13日(日)
 乱歩が鳥羽造船所に勤務したのは大正6年11月から同8年1月まででしたが、岩田準一の『志摩のはしりがね』(昭和47年版)には準一が昭和7年に執筆した「昭和初年頃の鳥羽の遊所」が収められ、乱歩在住時代の鳥羽の好況とそれに狂奔した人間の姿が描かれています。

 鳥羽の遊郭は、正月と春と秋とに他国からの参宮客が伊勢の山田へ旅する序〔ついで〕に立ち寄る外には、平生は殆ど他国人の客がなく、天候の悪い時化〔しけ〕の日などに三河や紀州の漁船が停船する時を除いては、多くは土地の者や近郷の者を嫖客〔とくい〕としているから、あまり繁昌する遊郭ではない。それに近年不景気風が吹いて肝要の参宮道者も激減したから、従って鳥羽へ足を向けて遊郭で散財しようとする客も余程尠くなった。鳥羽の町はこのまゝで行けばだんだんさびれて行くばかりである。が以前、かの欧洲戦乱終結当時の大正七八年頃は、それは他国にもまして素晴らしい盛況であった。鳥羽には明治時代から昭和二年まで造船所があった。丁度大正七八年頃は、今は衰えてしまったが、神戸の鈴木商店の経営で約一万人の造船事務員や職工が居て、土地の者を合すると二万人ほどの人口が、狭い帯のような土地にぎっしり一ぱいに詰まって住まっていたのである。

 乱歩が住んでいた大正7年当時、鳥羽には在来人口一万人と鳥羽造船所関連の新来人口一万人、計二万人が押しあいへし合いしており、乱歩も「造船事務員」として勤務していたわけですが、この事務員は普通の事務には関わらず、造船所が発行する雑誌「日和」の編集に携わっていました。『貼雑年譜』には、「日和」が「鳥羽造船所機関雑誌にして同所員職工等の気焔吐露の為と同会社と鳥羽町とを意志疎通円満ならしめ以て会社の隆昌と鳥羽の繁栄とに資せんとしたるもの」であったという「伊勢新聞」の新刊雑誌評がスクラップされています。私も平井隆太郎先生から、「日和」は鳥羽造船所が住民との融和を目的として発行した雑誌であるとお聞きしたことがあります。
 「昭和初年頃の鳥羽の遊所」の引用をつづけます。

それらは一カ月に職工でも二三百円の金を握る者があり、小学校卒業の男子十五歳なれば、造船所に雇われて行くと、その仕事は多く、鉄機械の錆落しか、軽子〔かるこ〕のようなことをして一カ月百円の金が獲られるというので、当時中産階級以下の者は一時的の少年職工になって、父親と共に造船所へ通った。娘は他国者の職工でも金廻りがよく、気前がよいというので、親から惚れて無理に職工と結婚させてしまう。こんな景気が何時まで続くか見通しもつかず、熱に浮かされたように、好景気に酔っていたので、当時大正七八年頃の娘は大方土地に居住している者が尠く、殆ど他国者を亭主に持って他国住居である。今は生死さえ知れないのが多い、こんな訳で職工に金が潤沢〔じゅんたく〕に行き亙った結果、遊郭は勢い繁昌せざるを得なかった。会社から支払った其場の金は皆二十円紙幣であったので、それを幾枚も握って登楼散財する。酒に酔う。喧嘩を一と晩に何回も方々でする。刺青した男などが虚栄を競って、喧嘩があるとすぐ裸体になって仲裁に入るのやら、あばれるのやら、大猛りに猛り合う。酒にずぶ酔った者の懐中からは二十円紙幣が零〔こぼ〕れ落ちる。落したって何とも思っていない。警察もその頃は職工の剣幕に恐れを為していたものか、殆ど彼らには干渉しなかったようだ。

 こういった喧騒の巷に沈淪することを私は好まぬでもありませんが、そのうち享楽に倦み果ててしまうであろうことも容易に想像されます。乱歩は「学問ノ夢」を果たすべく鳥羽造船所を辞めて上京するわけですが、若き日の乱歩があらためてその夢に駆り立てられた背景には、当時の鳥羽を支配していた刹那的享楽の気風に対する反撥があったのかなとも推測されてくる次第です。


●7月12日(土)
 ではここで、乱歩が鳥羽造船所に勤務していた当時の遊びっぷりを『貼雑年譜』から拾ってみたいと思います。乱歩は一時、造船所が構えた済美寮という独身寮に住まいしていたのですが、まずはそのころのエピソード。

又コノ寮ニヰルコロ悪友共ト深夜山田市ヘ遊ビニ行クタメニ自動車デ峠越エヲシテ崕カラ転落シ、車体ガ崕ノ中途ニ生ヘテヰル松ノ木数本ニ支ヘラレテ、横倒シノマヽユラユラシテヰタトイフ事件ガアル。下ハ底モ見エナイ深サデアル。私達ハ一人ヅヽ、ヤツトノ思ヒデ上ノ峠道ヘ這ヒ上ガツタガ、モウ少シドウカシテヰレバ死ンデヰルトコロデアツタ。

 『貼雑年譜』には松の木に支えられてようよう崖にへばりついている自動車のイラストが「自動車転落之図」として添えられており、これが乱歩にとってかなり印象的な事件であったことをしのばせます。まあ死にかけたんですから当然ですが。
 文中の山田市というのは正確には宇治山田市で、のちに伊勢市に編入されました。伊勢神宮の門前町として古くから栄えた土地ですから、料亭その他も数多く軒を連ねていたことでしょう。かく申す私とて当時の鳥羽に住んでいたならば、渡鹿野などという鄙びた島には頼まれても足を向けず、殷賑と洗練と赤福餅を求めてお伊勢さん近辺に出没していただろうと想像されます。別に赤福餅はどうだっていいんですけど。
 つづいては、乱歩が鳥羽造船所を辞めたときのエピソードです。

コノ時私ガ会社カラ受ケタ退職金ハ僅カ三百円程デアツタガ、鳥羽ノ料亭ソノ他ノ借金ハ千円ニモ上ツテヰタノデ、到底支払ヒスルコトガ出来ズ、ソノ返済ハ後日ヲ期シテ、ソノマヽ東京ヘ出タノデアル。コノ借金ハ小説ヲ書キ出シテカラ凡テ返済シタ。

 千円の借金といわれてもどれくらいなんだかピンと来ませんが、『貼雑年譜』を眺めてみますと古本屋「三人書房」の権利を売却したときの値段が六百円、「東京パック」編輯事務の月給が五十円、屋台の支那そば屋が多いときには一晩で十円以上の売り上げがあり、大阪毎日新聞営業部時代は月給八十円ながらほかに広告の手数料も入ったため多いときには月収が四百円から五百円、古参部員には月千円以上稼ぐ者もあったとのことです。
 たいした金額ではなかったようにも思われますが、若いときのことですから乱歩本人にとっては梶井基次郎風な「脊を焼くような借金」(檸檬)であったのかもしれません。それにしても作家になってからその借金をすべて返済したというのは、なんとも乱歩らしい律儀さを物語るエピソードで微笑ましいかぎりです。私ならまず踏み倒して知らん顔してるところなんですけど。
 乱歩らしいといえばもうひとつ、戦後の乱歩が家の子郎党引き連れて銀座あたりで夜な夜な散財し、若き日の山田風太郎をして「こーりゃ乱歩じゃなくて濫費だわ」と驚嘆せしめたことはよく知られていますが、そうしたいかにも乱歩らしい豪遊癖の萌芽は上記ふたつのエピソードにも認めることが可能でしょう。栴檀は双葉より芳し、とはこのことでしょうか。あんずより梅が安し、とも申しますが。
 とまれかくまれ、乱歩の遊びっぷりにはどこかしら、井伏鱒二風にいうならば「タツタイチヤニセンリヤウステテ/カネヲツカツタ顔モセヌ」(長安道)みたいな粋さが感じられて、私はとっても好ましいものに思っております。


●7月11日(金)
 朝日新聞の宮瀬規矩記者による「昭和初年頃の志摩三港(鳥羽、渡鹿野、浜島)の遊所」の「第二景 渡鹿野港」から引きましょう。

 現代に失われたはしりがねの情緒を最も色濃く如実に現わしているのがこの島の存在を力強くしている。波止場に船がつくと島の媚を売る女達が出迎えてくれるのも嬉しい情景だ。遊女屋は与可楼、金星楼、明月、三好楼、登茂恵楼、常盤楼などあって公娼二十二名、十七から十八までの鑑札をもたぬ女が八名いる。いずれも島の娘が客席に侍るので旅館大阪屋、弥吉屋、高島屋などで食事の際、酒の相手もしてくれるし飯も盛ってくれる。そこで話がまとまればその相手の家へ出かけて、好きなら泊る事も出来る。いずれも引き詰髪に結って娘々した所に味がある。人間が純朴で開放的であるためか、都馴れのした出鱈目な手練手管には全然欠けているので物足りぬ所もあるが、そこを喜ぶ人の多いと云う話だ。

 こうして説明されてみると別にどうということのない売春風景で、旅籠の飯盛り女が遊女に早変わりするなんてのは日本全国いたるところで見られた光景でしょう。現代だってご同様。ホテルに呼んだマッサージのお姉さんがあっというまに春を売るお姉さんに変身するのはごく当然のことで、そういえば私は池袋のビジネスホテルで一度えらい目に遭ったことがあり、好評連載中の「乱歩文献打明け話」にもそれらしいことを書いたはずだと思って調べてみたら、こんな感じで記されておりました。

 『乱歩文献データブック』が出たとき、扱ってくれる取次がどこにもなかったため、私はせめて大都市の大きな書店には本を置いてもらいたいと営業に歩いたのだが、東京の本屋を廻った顛末を「東京営業旅日記」と題してさるミニコミに連載したところこれが大受けした。とくに市民オンブズマンを揶揄した回など絶賛を博した。神品と呼ばれた。名張の芸能史に新たな一ページを書き加えたと評された。これを本連載の外伝として載せることにしてもいいのだ。
 おおそうだ。まだあった。じつは「東京営業旅日記」には書かれざる一章があった。こうして思い出すだけで涙が滲みそうになるほどのネタがあるのだ。それを新稿として書き加えてもよい。予告篇を記しておこうか。
 この出張時、投宿した池袋のビジネスホテルにおいて、私は波濤を越えてやってきた天童よしみ生き写しの韓国人売春婦に買春を強要されてじつに往生した。それがまたすこぶる絶望的な売春婦であって、年の頃なら五十路も暮れ方、
 「ロクチュナルマテシコトチュチュケヨオモテルヨ」
 つまり自分は六十歳になるまでこの仕事をつづけようと思っているのだ、などと片言の日本語で悲壮な決意を口走るその健気さは何に譬えん方もない。とにかく私は茫然としてここに進退窮まったのであった。このゆくたてを綴れば一読必笑の絶品ができあがることであろう。
 しかしそんな事実を公表してしまっては私の社会的信用は危殆に瀕してしまうのではなかろうか。誰からも相手にされなくなるのではあるまいか。だがよく考えてみれば神に愛でられたのもすでに遠い昔、いまでは悪魔に憐れまれることすらあるこの私だ。何がどうだって構うものか。書いたる。なんぼでも書いたる。洗いざらい書いてしもたるのじゃッ。

 われながら莫迦としかいいようがありません。読者諸兄姉はこんな人間が公立図書館の嘱託を務めていていいのかとお思いかもしれませんが、じつは本人もそう思っております。どうもすいません。
 それにしてもあのときのお姉さんは、いまごろどうしているのでしょうか。韓国で縫製工場を営んでいた夫が病気で急逝して借金が返済できなくなったため、高校生を頭に三人の子供を国に残したまま泣く泣く日本へ稼ぎにきて毎日休みなしで働いているのだと嬉しげに打ち明けていた、たしか山口さんとかいう源氏名だったあのお姉さんは。
 民間レベルの国際交流に関する話題はここまでといたしまして、私が申しあげたいのは要するに売春なんて珍しい話でも何でもないということです。鳥羽造船所に勤めていた若き日の乱歩も料亭かなんかで結構派手に散財していたらしいのですが、場所が鳥羽であれどこであれ、それもまた何の変哲もない光景であったと思われます。


●7月10日(木)
 さて渡鹿野島の話ですが、三重県のあの界隈の売春となるとやはり岩田準一の出番でしょう。準一は「はしりがね」と呼ばれた鳥羽地方の遊女を研究していて、われらが三重県のホームページには次のように紹介されています。

県史 Q&A 44 志摩のはしりがね

 そこで令息貞雄さんの手で増補のうえ刊行された岩田準一の著書『志摩のはしりがね』(昭和47年11月10日、中村幸昭発行)を開いてみると、「昭和初年頃の志摩三港(鳥羽、渡鹿野、浜島)の遊所」という文章が収録されていました。準一の文章にしては品がないな、と思いながら読み進んだところ、これは準一の文章ではなく昭和7年に朝日新聞の宮瀬規矩記者が執筆した記事であることが文末に記されていました。
 この記事によると、宵闇が迫るころ港に碇泊する千石船に送り込まれた遊女たちが「酒場事とりもち、衣類寝具のほころびをなおし、女房の役をつとめて一夜を船の上で明して、東の空が白らむころ、又ふたゝび幾らかの銭を握らされて鳥羽の港へかえってくる」という「鳥羽を中心として港の女のエロサービスはしりがねの伝説」もいまはむかし、「メトロポリス的な急潮がこの和やかな時代的な風俗をすっかり破壊してしまった」とのことです。
 そして渡鹿野島はどうかというと、『志摩のはしりがね』を走り読みしているあいだに時間がなくなってしまいました。つづきはまたあした。


●7月9日(水)
 三重県の渡鹿野島と並び称されている大阪の飛田遊郭跡といえば、今年の4月でしたか5月でしたか、講談師旭堂南湖さんの大阪舞台芸術新人賞受賞を祝福する大宴会が催されたところです。大宴会の提唱者として私も足を運びました。この地のきれいどころは十五分二万円が相場だそうで、それを聞かされた私は時間節約のためにズボンのベルトをゆるめながら部屋に案内されている自分を想像してしまい、なんか日本って国はどこまでも貧しいなとの感懐を抱かざるを得ませんでした。
 「乱歩を探して魔都東京のアチコチでブルブル震えた」というエッセイが収録されている大槻ケンヂさんの『オーケンの散歩マン旅マン』(平成15年6月1日、新潮社、新潮文庫、本体四三八円)には「大阪某所バーさんはいい塩梅」という文章も収められていて、地名は明記されておりませんものの、ここに描かれているのはおそらくこの飛田の風物であろうと推測される次第です。大槻さんが大阪在住タレントの案内で足を踏み入れたその街は──

 表現を慎重に、選びに選んで言うならこうなる。
 「その街は一大売春地帯であった」
 ソープランド街ではない。街娼
〔がいしょう〕も立ってはいない。一見すると京都鴨川〔かもがわ〕付近の高級料亭街にも見えなくはない。アスファルト道路の左右にビッシリと100軒近い和風の家が並んでいるのだ。家々の2階にはそれぞれ小さめの看板がかかっていて、民家ではなく何かの店であることがわかる。しかしこれだけでは、よもや性を売買している店とは誰も思うまい。真っ昼間から店の玄関が開いている。玄関の中には「おこた」がポコンと置かれている。おこたにはどの店も2人の女性が座って蜜柑〔みかん〕など食べていた。一人は20〜30代の女性、もう一人はバーさんである。バーさんは僕たちを見て「一緒に蜜柑をお食べ」というように、慈愛に満ちた笑顔を浮かべ手招きした。
 「な、なんですかこの一帯は?」
 「大槻君は知らんやろ。ここらでもよほどの通しか来ないからなぁ。あんな、あのバーさんに1万円も渡すとな、隣の女の子を“紹介”してくれるの。そしたら隣の小部屋…っていっても“茶の間”なんやけど、そこに2人で行けんの。茶の間には“布団
〔ふとん〕”が敷いてあって…」
 「そ、それOKなんですか? 完璧
〔かんぺき〕な売春じゃないですか。この一帯全部それなんすか?」
 「あんな! 大槻君、テレビで映るところばかりが世界じゃないのよ。ニッポンだって、ちょっと横道を曲がればまだ見ぬニッポンよ」

 これはどう考えても飛田の風物にちがいありません。もっとも本題は三重県の渡鹿野島なのですが。


●7月8日(火)
 不手際つづきで恐縮ですが、またしても訂正をひとつ。おとといきのうと登場した人名「佐藤積」は正しくは「佐藤績」でした。面積の積ではなくて成績の績。ある方からメールでご指摘をいただきましたので、ここに謹んで訂正いたします。明治古典会は目録における正確な表記を心がけるように。ときわめて外向的な人間である私はすべてを他人のせいにして平然としているわけですが、ともあれ読者諸兄姉ならびに天国の乱歩と佐藤績のご両人にお詫びを申しあげる次第です。しっかしこんなドジばかり踏んでますね私ったら。

渡鹿野売春考

 さて、明治古典会のことをメールでお知らせいただいたのと同じ日、ある方から書状でこんなご質問をいただきました。いわく「三重県にある渡鹿野島が乱歩の作風に与えた影響について」。「渡鹿野」は「わたかの」とお読みください。この島について何か知っていることがあったら教えてくれ、ともおたよりには附記されていたのですが、同じ三重県といっても当地と伊勢湾側にはまったく交流がなく、伊勢志摩国立公園内に存在する売春の島として名高い渡鹿野島にも私は行ったことがありません。
 ちょっと検索してみましたら、とある風俗系サイトに渡鹿野島が紹介されておりました。リンクを掲げておきましょう。ただし要するに売春の体験記ですから、そんなの不潔ッ、などとぎゃあぎゃあ不粋なことをおっしゃる方はアクセスなさらぬのが賢明でしょう。

伊勢志摩紀行【渡鹿野島〜海上の道】

 さらにおたよりには誌名不明なれども週刊誌のコピーが添えられており、記事のなかには「三重県の伊勢湾に浮かぶ渡鹿野島は、知る人ぞ知る売春島」、「島全体が売春宿のテーマパークになっているという三重県のなんとか島とか大阪の飛田遊郭跡など」といった文章が見られるのですが、いやこれはどうも、渡鹿野は飛田と並び称されているのか。


●7月7日(月)
 ささの葉さらさらのきばにゆれる、と童心に返っている場合でもないのですが、きのうご紹介した乱歩の
佐藤積宛書簡、いったい何年の手紙なのかとメールでお問い合わせをいただきましたので、ふつつかではありますが所見の一端を申し述べます。
 画像には書面と封筒裏面のふたつの日付が見られますが、これは「二月廿二日」と読めます。「二月廿」まではまず間違いないように思われます。「二日」は山勘あてずっぽう。そこはかとなく「二日」に見えるなといった程度の話です。
 年は明記されていませんが、何年に書かれたものなのかと推測してみますと、おそらくは昭和10年。乱歩はこの年の「ぷろふいる」9月号から「鬼の言葉」の連載を開始し、その第一回にフィルポッツの「赤毛のレドメイン」をとりあげていますから、この年2月の書簡でフィルポッツ作品に接した感想を披瀝しているのはごく自然ななりゆきであると見受けられます。
 ちなみに乱歩は、「探偵小説四十年」の「昭和九・十年」の章に「十年の夏から翌十一年にかけて、あるきっかけから、私の心中に本格探偵小説への情熱(といっても、書く方のでなく、読む方の情熱なのだが)が再燃して」と記しています。佐藤積宛書簡に見える「まだ煮切りません」という言葉からは、乱歩が情熱の昂揚を自覚しその沸騰を予感していたことが読み取れるのかもしれません。
 といったところで訂正ですが、きのう記した「この書簡による作品依頼も結局は実を結ばなかったものと思われます」というのはきっと間違いで、乱歩は「改造」の昭和10年10月号に「日本探偵小説の多様性について」を発表しています。佐藤積の依頼に応えた執筆でしょう。書簡で「四月号といふ訳には到底參りません」と言い訳していた乱歩は律儀にも10月号で約定を果たしていたわけで、なんとなく小説の依頼だろうなと思い込んで随筆評論のことなどまったく念頭になかった私はとんだこんこんちきを書き散らしてしまい、心おきなく赤っ恥をさらしてしまいました。読者諸兄姉ならびに天国の乱歩と佐藤積のご両人に、いやーまだまだ修行が足りませんで、とお詫びしておきたいと思います。


●7月6日(日)
 明治古典会古書大入札会にはこのほか、「自筆書簡」として、

775 江戸川乱歩書簡・葉書
    渡辺啓助宛 書簡4通 封筒付 葉書2枚
    入札最低価格15万円

渡辺啓助宛

776 江戸川乱歩書簡
    佐藤積宛 ペン書 封筒付
    1通
    入札最低価格15万円

佐藤積宛

 あたりも出されるみたいです。
 渡辺啓助宛書簡の画像はほぼ判読不能ですが、佐藤積宛のものは原稿の依頼に応じられないという詫び状で、フィルポッツの作品に初めて接した、本格探偵小説として優れているだけでなく谷崎潤一郎に似た恐怖を描いているところもある、大いに刺戟を受けている、そのうち何か書きたいと思う、といったようなことが記されています。乱歩が井上良夫から『赤毛のレドメイン』の原書を送られ、「それを一読してから、私の中の本格探偵小説への情熱が勃然として湧き起ったのである」と「探偵小説十五年」に回想しているころの書簡でしょう。
 ちなみに佐藤積は雑誌「改造」の編集者で、乱歩を督励して「陰獣」「芋虫」「虫」という三大傑作を書かせたものの前二作はほかの雑誌に掲載されることになったというあまり運のよくなさそうな人で、この書簡による作品依頼も結局は実を結ばなかったものと思われます。
 ついでに「色紙・短冊」には、

957 江戸川乱歩色紙額
    1面
    入札最低価格20万円

色紙額

 があって、毎度おなじみのと申しますかすっかり見飽きたような気もする例のフレーズが墨痕淋漓。


●7月5日(土)
 当初「『桃色のハンカチ』に贈る」と題して訳出された
ストラトーン「ムサ・プエリリス」の詩篇は、「新=犬つれづれ」の「附録 花冠を編む少年」として足穂の著作に収録されました。初刊は『稲垣足穂大全2』(昭和44年9月、現代思潮社)です。乱歩の著作では江戸川乱歩推理文庫60『うつし世は夢』(昭和62年9月、講談社)に初めて収められました。タイトルは「花冠を編む少年」です。
 ところが『うつし世は夢』の「花冠を編む少年」には、本来十二篇あるはずの詩が三篇しか収録されていません。
  第四番 ストラトーン作
  第七番 同人作
  第十二番 プラッコス作
 以上三篇です。足穂の著作では十二の詩篇が収められていますから、これはどうもおかしい。理由はいくつか考えられますが、さしあたり編集の杜撰さに起因するものと見ておきましょう。この講談社の文庫版乱歩全集はほかにもいろいろ杜撰な点が散見され、余談ながらじつに困ったものだと思われます。
 『稲垣足穂全集3 ヴァニラとマニラ』(2000年12月、筑摩書房)収録の「新=犬つれづれ」から、残り九篇のタイトル(というか番号と作者名)を引いておきましょう。
  第十五番 ストラトーン作
  第十七番 読人不知
  第十九番 読人不知
  第二十一番 ストラトーン作
  第二十七番 スタテュルリオス・フラッコス作
  第三十一番 パニオス作
  第三十四番 アウトメドン作
  第四十三番 カルリマーコス作
  第二百八番 ストラトーン作
 タイトルだけというのも何ですから、一番笑えるのを引いておきます。

   第三十四番 アウトメドン作

 昨日私は少年達の教師デメトリオスと食事を共にしたが、彼は誰にもまして仕合せな男だ。一人の少年は彼の膝にもたれていた。一人の少年は彼の肩によりかかっていた。一人は彼の前に御馳走を運び、一人は酒の酌をした。なんとすばらしい四重奏ではないか。そこで私は彼をからかって云ったのには「友よ、君は夜中にも少年達を教えるのかね」

 いや、むしろこっちのほうが笑えるでしょうか。

   第四十三番 カルリマーコス作

 私はありふれた同じ物語の詩を憎む。かけもちの恋人はまっぴらだ。私はみんなが口をつける泉の水さえ呑まないくらいだ。凡〔すべ〕て共同のものは大嫌いだ。ところで、リュサニアス、君は美少年だ。実に美しい。と私が云うか云わないかに、谺〔こだま〕が返って来て「あの子も誰かが手をつけた」

 カルリマーコスさん残念でした。人生なかなか思惑どおりにはことが運ばないみたいです。なんかほんとに泣けてきますけど。
 さてここで言い訳をひとつ。乱歩は「花冠」に「はなかんむり」とルビを附しています。なるほど希臘美童の金の巻き毛に飾られるべきは「かかん」ではなく「はなかんむり」であろうといまにして納得されますが、普通は「かかん」と読みますから、『江戸川乱歩著書目録』の索引では「花冠を編む少年」を「か」の項に配してあります。あしからずご了承ください。まだまだ修行が足りませんで、と天国の乱歩にも謝っておきたいと思います。


●7月4日(金)
 前後の経緯を推測してみると、おおよそ次のようなことになるでしょうか。
 稲垣足穂の初期少年愛作品集『桃色のハンカチ』は昭和23年に刊行される予定だった。足穂からこの書への寄稿を依頼された乱歩は、「『桃色のハンカチ』に贈る」を執筆して足穂に届けた。内容はストラトーンの「ムサ・プエリリス」から翻訳した詩篇で、二百字詰め原稿用紙一枚分の前書きが附されていた。
 この前書きの一枚が、明治古典会古書大入札会に出品される「『桃色のハンカチ』に贈る」であろうと思われます。さらに想像をたくましくするならば、足穂から乱歩への依頼は「くいーん」昭和23年1月号に掲載された対談「そのみちを語る 同性愛の」のおりになされたものではなかったでしょうか。
 しかし『桃色のハンカチ』は刊行されませんでした。足穂は昭和29年になって「作家」7月号に「新=犬つれづれ」を発表し、その末尾に「附録 花冠を編む少年」として乱歩訳の「ムサ・プエリリス」を掲載、次のような詞書を添えました。

 これは私の少年愛散文集「桃色のハンカチ」のために、特に、「ギリシア詞華集」の内、ストラトーンのムサ・プエリリス(少年愛詩集)二百五十八編の中から拾い出して、江戸川乱歩が散文訳してくれたものである。

 この文章は、きのう全文転載した「『桃色のハンカチ』に贈る」の後半をほぼそのまま引き写したものと見て間違いないでしょう。「花冠を編む少年」というタイトルは、このとき足穂によって命名されたものだと見ておきましょう。なんか足穂っぽいタイトルですし。
 つまりこの時点で、乱歩の「『桃色のハンカチ』に贈る」は足穂の手でふたつに解体されたことになります。詩篇の翻訳は「新=犬つれづれ」の「附録」として公表されたものの、冒頭の一枚は不要なものとしてどこかに埋もれてしまい、どういう経緯をたどったものか、執筆から五十年以上の日月を閲して今回の入札会で陽の目を見ることになったというわけです。と私は推測してみたのですが、読者諸兄姉はどのようにお考えでしょうか。
 しかしこうなりますと、二百字詰め原稿用紙一枚の「『桃色のハンカチ』に贈る」を「ペン書200字詰完、1枚」として入札最低価格十二万円で販売するのはいかがなものか。私は古書の世界にはまったく暗い人間なのですが、この原稿一枚を「完」として売るのはバッタモン押しつけることになりゃせんのかしら、と不審に思う次第です。

 A Glimpse of Rampo
 あとがき:栗本薫
書名:紫音と綺羅 下巻/著:栗本薫/1990年9月25日/光風社出版/p. 365
小説ひとつ作る遊びですもの。江戸川乱歩と大下宇陀児たちの合作リレー小説「江川蘭子」とはゆかぬまでも、めったにこんなこと、シャレでもできないものね。
○こまさんから目撃情報のご通報をいただきました。


●7月3日(木)
 関連イベントとして「乱歩が蒐めた書物展」が開催されることでも話題を集めている明治古典会古書大入札会の目録をネット上で閲覧できる、とある方からきのうメールで知らせていただきました。さっそく眺めてみました。

明治古典会

不幸せの桃色のハンカチ

 たらたらと乱歩関連の出品物を見てまいりますと、まず「文学作品」では、

140 新作日本探偵小説全集
    新潮社 函付 昭7 10冊
    入札最低価格200万円
142 空中紳士
    博文館 3版 函付 蔵印有 昭4 1冊
    入札最低価格8万円

 などというのがあり、新潮社の新作探偵小説全集は何度見直しても200万円です。つづいて「自筆草稿」では、

401 猟奇の果 連載第1回
    46枚
    入札最低価格200万円
402 私の蒐集癖
    10枚
    入札最低価格80万円
403 お礼のことば
    10枚
    入札最低価格40万

 などとつづいたあとに406、江戸川乱歩草稿、「桃色のハンカチに贈る」、ペン書200字詰完、1枚、入札最低価格12万円、とやらがありましたので私は驚きました。驚愕しました。
 がーん。
 がーん。がーん。
 がーん。がーん。がーん。
 なんとタイポグラフィックな驚愕でしょうか。
 そんなことはともかくとして、私は乱歩がこんな文章を残していたことをまったく知りませんでした。

「桃色のハンカチ」に贈る

 いささかを引用してみましょう。

 この本に収められた少年愛の諸篇は、嘗つて私の愛読措かなかつたものである。そこで、作者に乞はれたるまゝ、「桃色のハンカチ」に贈るに古代ギリシア少年の花冠〔はなかんむり〕を以てする。以下は「ギリシア詩華集」の内のストラトーンのムサ・プエリリス(少年愛詩集)二百五十八篇の中から、私の興味のまゝに数篇を拾ひ出して、散文訳したものである。

 いかんいかん。全文を転載してしまいました。著作権法に鑑みておおいに問題があるかもしれません。しかし文中に「以下は」とあることからこのあとにまだ乱歩の訳した詩の原稿がつづいていたはずであり、じつはこれは全文ではないのだからという訳のわからない理屈をこねて先に進むことにいたします。確信犯確信犯。
 さてこの「『桃色のハンカチ』に贈る」は、「花冠を編む少年」というタイトルで知られる乱歩作品の序に相当する文章であると判断されます。一読して私の頭ががーんとなったのは、これがどうやら『桃色のハンカチ』に収録されたものであり、だとすると『桃色のハンカチ』は当然『江戸川乱歩著書目録』に採られるべきなのだが実際には採られていない、がーん、と気がついたからです。
 しかしおかしいな、とも私は思いました。これは要するに「花冠を編む少年」の初刊に関わる問題なのですが、いくらなんでもそんなことくらい調べたはずではなかったか。
 そこで私は本棚から現代思潮社版の『桃色のハンカチ』を引っ張り出してきました。奥付を見ると1974年6月の発行です。これはどうでもいいことなのですが、1974年という年に思いを馳せるだけで涙ぐましいような気分になってしまうのは私だけなのでしょうかご同輩。思わず泣けてきたりはしませんですかご同輩。いやそんなことはともかくとして、同書巻末に収められた萩原幸子さんの「解題」にはこんなことが書かれてありました。

 一九四八年(昭和二十三年)頃早稲田鶴巻町にあった新英社(ここでは四七年に『宇宙論入門』が刊行された)という出版社から稲垣足穂の初期少年愛作品集『桃色のハンカチ』を出版する計画があって、作品も準備され、カットの絵についても著者によって考えられていたが、その本の出版はとうとう実現されなかった。

 なーるほど。つづく。


●7月2日(水)
 ほんとに「芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」はいったいどうなってしまうのでしょうか。いい加減に事業の概要を示してもらわないことには、乱歩不木往復書簡集の話がちっとも前に進みません。
 え。どーなの。乱歩不木往復書簡集の刊行というプランを採用するのかしないのか、たらたらしてないでさっさと発表せんかこら。こら三重県伊賀県民局。こら二〇〇四伊賀びと委員会。いつまでもぼーっとしとったらしまいにしばきあげるぞこら。みたいなことを一度でいいからいってみたいのですが、気の弱い私にはとてもとても。事業関係各位のご尽力にあらためて敬意と謝意を表する次第です。
 しかし実際のところ、三重県職員だの伊賀地域住民だのといった人たちを恃みにしたのがそもそもの間違いであったか、とも私には思い返されます。ろくに乱歩や不木を読んだこともない人たちを焚きつけて書簡集発行を実現しようとした自分に、いささか忸怩たるものを覚えないでもありません。
 いっそ撤退するか。「芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」なんてどうせ税金の無駄づかいに終わるだけですから中止するのが一番なんですが、お役所の人たちにはいまから中止するだけの勇気は微塵もないと判断されますので、それならせめてこれをやってみてくれんかねと提案した乱歩不木往復書簡集の刊行プラン、一身上の都合により勝手ながらとりさげます。撤退します。みたいなことをいってみたらいったいどうなることでしょう。


●7月1日(火)
 いやとうとう7月になってしまいました。「芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業は6月末に予算の概要が決定されると仄聞していたのですが、そんなこともなかったみたいです。事業のホームページを覗いてみると最終更新が6月30日となっていましたので、おッ、と思ってよく見てみたら「伊賀学講座」など小ネタイベントの参加者募集期間が延長されていただけの話でした。人が集まってくれんのか。

秘蔵のくに伊賀の蔵びらき

 事業関係各位のご苦労はお察しいたしますものの、ちょこまかした小ネタはどうでもいいですから、いい加減に「芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」のプランを公表していただけぬものでしょうか。いつまでたっても発表されないというのであれば、「芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」は後回しにして、名張市教育委員会の偉い方を先に叩いてしまおうかな。漫才「芭蕉さんは行くのか」に予告しましたとおり、二〇〇四伊賀びと委員会ならびに名張市教育委員会をともに叩くのが私の当面の目標であり、名張市教育委員会の偉い方はあとでじっくり小突き回してやるつもりだったのですが、先に片づけてしまいましょうか。
 いや、いかんいかん。名張市教育委員会の偉い方を叩くのは『江戸川乱歩著書目録』が出たあとで、という段取りになっているのを忘れておりました。それなら『江戸川乱歩著書目録』はいつ出るのかと申しますと、これが私にもよくわかりません。印刷屋さんが一週間でできるであろう作業になぜか一か月ほどもかけてくれますため、何がなんだかよくわからなくなっております。ただまあ、とにかく落ち着いて仕事をしてくれ、納期に追われたやっつけ仕事だけは勘弁してくれ、とお願いしてありますので、私も印刷屋さんに催促がましいことはいっさい申しておらぬのですが、きのうも『江戸川乱歩著書目録』について電話で問い合わせてくださった方があり、まあそのうちに、みたいなことしかお答えできなかったのはなんだかどうも。
 それにしてももう7月。煙草も値上げされました。思惑どおりにはことの運ばぬ夏、なんてのがこのままつづいてしまうのでしょうか、主よ。