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2004年4月
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●4月1日(木)
さて、3月28日に開かれた第三回「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業推進委員会のお話です。 公式ガイドブックの表紙をめぐって、委員側から「これではまるで週刊誌の裏表紙だ」という意見が提出されました。ガイドブックの表紙はこれとこれなのですが、いわれてみればなるほど、週刊誌の裏表紙に掲載された全面広告のような印象です。委員側からはこれに対して、「高級腕時計の広告に見える」との厳しい批判も飛び出しました。 どうすればいいのでしょう。私は隣の席に坐っていたHさんに、「これは表紙です、こっちも表紙ですゆうて印刷したらええねん」と提案してみたのですが、Hさんからは「ここにぼーんと週刊文春て入れたらええんですわ」との妙案が出されましたので、私は笑いを噛み殺すのに苦労しました。 ガイドブックの表裏の表紙は、事業をPRするポスターのデザインをそのまま使用したものです。会場にはポスターも掲示されていました。それを見て、このポスターはいったい何を伝えようとしているのだろう、と私は訝しく思いましたが、考えてみれば事業そのものも、伊賀の人たちが何をしたいのか、何を訴えたいのか、何を目的にしているのかが判然としていないのですから、ポスターはこの事業の訳のわからなさをよく表現しているのかもしれません。私にはだんだん、そのポスターがいい出来だと思えてきました。 ポスターに示されているのは、芭蕉といえば奥の細道、乱歩といえば怪人二十面相という、手垢で黒ずんだような恐ろしく類型的な発想です。独自の発想などどこにもありません。そして「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」という事業にも、きっと同じことがいえるはずです。この事業には、独自のものなどどこにもありません。ありきたりな素材を借り物の価値観に基づいてごく月並みな手法で料理しようという、無教養不見識無責任不勉強な田舎者たちが考えた独りよがりなプランばかりが並んでいます。 ガイドブックの表紙が判じ物めいていて独りよがりであるという点に関しても、委員側から指摘がありました。また、「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」という事業名についても、独りよがりでわかりにくいとの意見が出されたのですが、いまごろになって事業のタイトルをうんぬんしてもどうしようもありません。開幕まで五十日という時期へ来てこんな意見が出てくるということは、推進委員の人たちは事業のことをろくにご存じなく、事業準備にもいっさいノータッチだったということでしょう。困ったものだ。こんな委員会はほんとに意味がないな、と私はあらためて思いました。 そのほか、予算編成が本末転倒気味だという指摘もありました。広報のための予算が多すぎるということです。「面白いものを発信すれば広報費は節約できる。広報は知恵でバックアップして、浮いた広報費を事業費に回せないか」との意見でしたが、むろんこれから予算を編成し直すことは不可能です。それに実際のところ、この予算編成の真意は、面白いものが発信できないから広報に予算を注ぎ込んで見栄えをよくしようということにあるのではないでしょうか。 そういえば、うわべだけはなんとか整えましたが中味はろくなものではありません、という「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業の真実は、ポスターにもよく示されているように思われます。私にはますます、あのポスターがとてもいい出来であるという気がしてきました。 |
●4月2日(金)
いまや本サイト閲覧者にもすっかりおなじみになった地域雑誌「伊賀百筆」、第十三号はきのう本屋さんの店頭に並んだようです。伊賀快適生活支援サイト「YOU」の記事から引きましょう。
この記事では「名張市立図書館嘱託の中相作さんは『生誕360年芭蕉さんがゆく秘蔵の国伊賀の蔵びらき』事業を取り上げ、官民合同事業のあり方について約80頁に渡って検証論究しています」とご紹介いただいており、「検証論究」というとひどく物堅い印象なのですが、ほんとのところはただの漫才なんですからどうぞご安心ください。 「YOU」にはこんな記事も掲載されていましたので、併せてお知らせしておきます。
さてその「伊賀百筆」と「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」の件ですが、ことほどさように3月28日の第三回事業推進委員会はまたしても、不必要な委員会を発足させたために無駄に税金つかってこんな意味のない会議を開いております、みたいなことを満天下に知らしめる内容となり、委員側からいまさらこんなこと提案質問要望したってどうにもならんであろうが何か発言しないと恰好がつかないし、なんて感じの意見が出されたかと思うと、事務局側からは俺なんて異動だもんね、こんな事業とは縁が切れるんだもんね、あとのことなんかどうでもいいんだもんね、全然せいせいしたもんね、なんて感じの説明というか弁明というか、とにかくご意見に関しましては前向きに検討いたします的な表明があって、ようやく閉会となりました。 不思議の国のサンデー、つづけます。
予定をややオーバーして、事業推進委員会は午前11時45分ごろに終了しました。 不思議なことはたくさんあって、たとえば「伊賀のさとを紅花でいっぱいに」という呼びかけを記した「花の咲くまちづくり“紅花いっぱいいっぱい”つうしん」第一号という冊子が配られたのですが、どうして伊賀を紅花でいっぱいにしなければならないのか、その理由がまったく説明されていません。これはとても不思議なことです。 冊子の発行者を確認してみると、はたして事業推進委員会と二〇〇四伊賀びと委員会の名前が併記されていましたから、またかよ、またおまえらかよ、おまえらまた独りよがりな思いつきを人に押しつけて手前勝手に喜んでやがるのかよ、何がいっぱいいっぱいつうしんだ、いっぱいいっぱいなのはてめーらのおつむのほうだろーが、と私は思ったのですが、そんなことにかかずらっている暇はありません。七十七ページにわたる事業批判を掲載した「伊賀百筆」第十三号を、目の前にいらっしゃる委員全員にお渡ししなければなりません。 「伊賀百筆」十七冊が入った LOFT の紙袋を抱えて、私は傍聴席から委員の席の近くに移動しました。司会役の知事が閉会の挨拶をしていらっしゃいます。それが終わって委員が起立すると同時に、私は知事の背後に歩み寄りました。 「先日はどうも失礼いたしました」と声をかけて名刺をお渡しし、「ちょっとお願いがあるのですが」と切り出すと、知事も名刺をくださったうえ、「あのお煎餅おいしかったよ」と第二回事業推進委員会に持参した手みやげのお礼をおっしゃいます。「いやどうも」と恐縮していると、手近の円卓まで歩まれた知事は「こっちへいらっしゃい」と手招きをなさいます。 「じつはこの事業から五百五十万円の予算をいただいて、江戸川乱歩と小酒井不木という探偵作家の往復書簡集を出すことを計画してるんですけど、つきましては巻頭にぜひ知事の序文をいただきたいと思いまして」 「そのあたりのことはこの文書でお願いしているのですが」と私は朝方したためた知事宛の手紙を取り出し、「くわしいことは知事室と打ち合わせをさせていただきます。それから私、書簡集刊行のことを自分のホームページで公開してるんですけど、それをプリントしたものがこの封筒に入ってまして」 私は「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき事業紹介【001】」のページをプリントした二十六枚のA4用紙を知事にお見せしたのですが、名張市立図書館の大型封筒からプリントを取り出した瞬間、一枚目の冒頭にある「ごみ大爆発の三重県と合併大分裂の伊賀七市町村がなあなあ感覚でお贈りするなんちゃってイベント」というキャッチコピーが目に飛び込んできました。 いきなりこんなコピーを見せられては、知事もさすがに心証を害されることでしょう。私はあわてて紙をめくり、内容を簡単に紹介してからプリントを急いで封筒に戻しました。それから、 「『伊賀百筆』という地域雑誌にこの事業のことを寄稿しましたので」 といいながら、「伊賀百筆」第十三号が入った封筒を知事の目の前に置きました。 |
●4月3日(土)
きのうの朝日新聞伊賀版に「芭蕉生誕360年記念オープニングイベント/伊賀地域で計22事業開催」というニュースが報じられていました。同様の記事は伊賀快適生活支援サイト「YOU」にも掲載されていましたから、その一部をきのうの伝言板でご紹介申しあげた次第なのですが、この朝日の記事のリードには「11月下旬まで開催される約130の事業や予算も決まったが、わかりにくいとされる事業組織の役割を明確にし、地域住民に記念事業への理解を深めてもらうことが、今後の課題となる」との文章が見えます。そういえば紙面には「地域住民の理解が課題」との見出しも躍っています。 なんじゃこりゃ。 記事の一部を引用しましょう。
両組織内、つまり事業推進委員会と伊賀びと委員会の双方に、ふたつの委員会の役割が「住民にわかりにくい」という声があるそうなのですが、みなさん何を偉そうなことおっしゃっているのか。委員のみなさんご自身にだって、ふたつの委員会の関係性をきちんと説明することなんてできないはずです。説明もできず、ましてそのわかりにくさをクリアするための手だてなどとても講じられない。にもかかわらずこの時期に来て、メディアの取材に対し自己批判めいたコメントのひとつも述べて得々としている。委員会の人たちは何を考えていらっしゃるのでしょう。 どの面さげて、ってやつですか。 みなさんいったいどの面さげて、「住民にわかりにくい」なんて他人事みたいな科白をぬけぬけと喋っていらっしゃるのか。委員会の問題は委員全員の問題なんですから、みなさんはこのわかりにくさの問題をみずからの問題として考えなければならないはずなんですが、おまえらのなかにゃそんなやつはひとりもおらんのであろうが。それならいまさらぺらぺら喋るな。ふたつの委員会の曖昧きわまりない関係性に対する俺の批判をいっさい無視しておきながら、いまごろになって何が住民にわかりにくいだ。何が今後の課題だ。いっちゃ何だがおまえらもう終わってるわけよ。県庁内部ではこの事業は失敗だったってことでけりがついてるわけよ。なんぼなんでもいまごろになって組織の問題をうんぬんするのは自分たちが莫迦だってことを世間に公言するようなものだ、なんてことにも気がつかんのかね。 いいかこら。事業推進委員会が発足した直後から、俺は委員会の事務局に対して、事業推進委員会とはいったい何であるのか、何のための組織であるのか、この発足によって二〇〇四伊賀びと委員会の自立性や主体性が損なわれるのではないかと質問をくり返し、見事なまでにとんちんかんな回答しか得られなかったことはおまえらだって知っているであろう。いまごろ組織のことを問題にするのであれば、おまえらは俺が問題を指摘したときなぜ真剣に考えようとしなかった。なぜ自分たちの手で問題を解決しようとしなかった。 だいたいがわかりにくいも何もないわけよ。わかりにくいんじゃなくてはっきりともうおかしいわけよ。事業推進委員会と伊賀びと委員会というふたつの組織が存在していること自体がそもそもおかしいわけであって、問題を解決するためには事業推進委員会を解散するしか手がないわけよ。だから俺は知事に直談判して問題解決を図るべく県庁知事室に知事との面談の手配を要請したのだが結局うやむやにされてしまったことはおまえらだって知っているであろう。好評発売中の「伊賀百筆」第十三号にだってそのあたりの経緯は赤裸々に記されていることであるし。 まったくもって困ったものですが、ところで「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業推進委員会と二〇〇四伊賀びと委員会のみなさん。みなさんのなかに組織のあり方を疑問視する声があるということは、事業の最高責任者でいらっしゃる知事のお耳にも届いているのでしょうか。知事は昨年12月25日の第二回事業推進委員会の席上、この事業の組織に関して「組織のあるべき姿としてこれがいいと判断している」と明言していらっしゃるのですから、事実誤認を訂してさしあげるのがみなさんの役目ではないかと判断される次第です。さあどうする。どうするどうする。 さて、つづきましては不思議の国のサンデー。 3月28日正午前、第三回事業推進委員会が開かれた上野市のウェルサンピア伊賀四階白鳳の間において、私は野呂昭彦知事からお時間をいただき、『江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』(仮題)の巻頭に序文をたまわるようお願いしてご快諾を頂戴しました。そのあと七十七ページにわたって事業批判を展開した「伊賀百筆」第十三号をお渡しして、「『伊賀百筆』という地域雑誌にこの事業のことを寄稿しましたので」 とお伝えしました。 というところできのうは終わったのですが、きょうも同じところで終わることになりました。ではまたあした。 |
●4月4日(日)
平成16年4月3日、陽光うららかな日、桜花爛漫たる蟹江町図書館敷地内で小酒井不木生誕地碑の除幕式が営まれました。碑は正面がこれ、背面がこれなわけですが、はっきりいって乱歩の生誕地碑よりずっと立派なものが完成しておりました。しかしそれこそが長幼の序というものであって、除幕式には乱歩も天国から拍手を送ってくれたことでしょう。 開式前の控え室では、不木長男の奥さん美智子さんと不木曾孫みおさんにご挨拶を申しあげました。美智子さん八十歳、みおさん六歳、ともに除幕のテープを引く大役をお務めです。森下雨村関係者の方にもお目にかかりましたので、これはこれはとお近づきをいただいたのですが、結局はお誘いいただくまま名古屋市内のお宅にまで図々しく押しかけ、雨村関係の貴重な資料をゆっくり拝見したあと、さらに図々しくも近くのホテルで夕食をご馳走になる仕儀とはなってしまいました。いかんいかん、すっかりご造作になってしまった、こんなことではいかん、まだちょっと飲み足りんし、と反省しながら名張に帰ってきた次第です。 といったご報告もさることながら、3月28日に開かれた第三回「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業推進委員会の報告がまだ終わっておりません。いい加減いやになってはいるのですが、形だけでもけりをつけなければなりません。不思議の国のサンデー、つづけます。 知事に「伊賀百筆」第十三号をお渡しして周囲を見回すと、委員会にひきつづいて催される交流会の会場設営が進められています。出席者はちりぢりになってしまい、推進委員のみなさんがどこに行ったのか、もうわからなくなっていました。「伊賀百筆」の入った紙袋を抱えて、私はロビーに出たり入ったりしてみました。 顔見知りの事務局職員を呼び止めて、推進委員の顔がわかるかと尋ねたところ、代理出席の人がいることもあって、とても全員はわからないという返事です。そうか、事務局スタッフでさえ委員の顔を知らないのか、いよいよもって委員会はただのお飾りと決定だな、と私は思い、全員が着席するまで待つことにしました。 広い室内に円卓が並べられ、参加者が席に着きました。ざっと百人あまりが集まったでしょうか。昼食として牛丼と味噌汁がふるまわれています。 知事のいらっしゃる円卓は委員の方ばかりだと見受けられましたので、私はそのテーブルを一周しながら、「伊賀百筆」の入った封筒と名刺を全員にお渡ししました。隣のテーブルには委員がお一人。やはり「伊賀百筆」と名刺をお渡ししました。 それでも、LOFT の黄色い紙袋にはまだ七冊が残っています。委員十七人のうち三人が委員会を欠席したとのことですから、あと四冊は配らなければならない計算です。私は通りかかった県職員らしいスタッフをつかまえ、委員全員の顔を知っているかと質問したのですが、やはりノーという答え。しかも、委員会だけ出席という委員もあるとのことです。 それならここらで諦めて、あとは郵送にするか、と私は思いました。しかしよく考えてみると、委員のうちどなたにお渡ししたのかがわかっていませんし、重い紙袋を抱えて帰宅するのも面倒です。そこでこの会場ですべて処分してしまうことに決め、顔見知りを見つけては「伊賀百筆」を手配りしているうち、委員会事務局のNさんとすれ違いました。 「あ、中さん。ごはん食べてくれました?」 私がそういうと、Nさんの横に立っていた県職員のお姉さんは露骨にいやそうな顔になりました。ああ、また嫌われてしまった、と私は思い、泣きたいような気分になりました。 |
●4月6日(火)
なんだ。そうか。私は得心しました。こういった交流会を以前どこかで見たことがあるのではないか、という既視感めいた感覚は、いうまでもなく錯覚でした。私の頭のなかで、いま立ち会っている交流会と5月に開幕する事業そのものとがごっちゃになって、交流会の光景が未来記憶とでも呼ぶべきものを呼び醒ましていたのでした。 その記憶のなかでは、「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」のさまざまな事業が、交流会とまったく同質の空気のなかで開催されていました。このたらたらだらだらした交流会の進行ぶりは、と私は思いました。たぶん事業にもそのまま当て嵌まるのにちがいない。 私はバッグのジッパーを開け、事業推進委員会で配付された「平成16年度事業スケジュール(案)」を取り出しました。事業公式ガイドブックのゲラ刷りをコピーして綴じたものです。5月から11月まで、全事業のスケジュールが紹介されています。私は、開幕初日の5月16日に催されるイベントを眺めてみました。事業名を列記してみましょう。 ▼旅の日ウォーク 甚七郎の散歩道 日本まんなか共和国、文化首都。聞いたこともない言葉が記されています。遷都式の説明を写してみましょう。
大のおとなが国家ごっこか。私は、「国家ごっこ」と題された乱歩の随筆を思い出していました。もっとも、乱歩が国家ごっこに興じたのは小学生当時のことですから、この四知事による国家ごっこを乱歩のそれと同日に扱うのは、四知事に対して失礼な話なのかもしれません。 それに乱歩の国家ごっこは、友人と二人でそれぞれが国家をつくり、国交や戦争を演じる遊びなのですから、四県知事による国家ごっことはよほど異なっているようです。そう。日本まんなか共和国には国交もなければ戦争もありません。つまりこの国家には、当然あるはずの外部というものが存在していないのです。 四県知事による国家ごっこもやはりご町内の親睦行事か、と私は思い返し、ふと、不思議の国の本質に思い当たったような気になりました。 たしかにそうだ。この不思議の国には、他者が存在しないのだ。 |
●4月7日(水)
この国には他者が存在しない。 そのことに気がついて、私は愕然としました。 ここはどうやら異物を徹底的に排除したらしい奇妙な空間で、透明なバリアによって外部から隔てられているようです。バリアのなかには価値観や世界観を完全に同じくする人間ばかりが寄り集まり、独りよがりな遊びに耽っています。それは国家ごっこであり、仲間ごっこであり、またイベントごっこ、情報発信ごっこでもあります。 それにしても、この情報発信ごっこは正気の沙汰なのでしょうか。彼らは伊賀の魅力を全国に情報発信すると表明しているのですが、他者と外部とを否定したこの不思議の国に、はたしてそんなことが可能なのでしょうか。自分たちがいまいる場所ではない、広大な外部という未知の世界に存在しているはずの、必ずしも自分たちと同じ価値観や世界観を持っているわけではないであろう無数の他者に働きかけることこそが、情報発信と呼ばれるものの基本であるはずなのですが。 いや無理無理。情報発信なんてとても無理だろう。ご町内の親睦行事を思いつきで寄せ集め、うわべばかりの情報発信ごっこで身内だけ盛りあがるのが関の山だろう。ちょうどこの交流会みたいに。 存在を徹底的に無視された異物である私は、あらためて会場を見回しながらそう思いました。ステージではときに紙芝居が披露され、ハーモニカが演奏され、合間には参加者がそれぞれのプランの紹介を進めています。 ウェルサンピア伊賀のご厚意で、コーヒーをさらにお代わりしていただけるようになりました、とアナウンスが流れました。私はコーヒーなど要らないのですが、隣の席のYさんに「コーヒー貰てきましょか」と声をかけ、席を離れました。
会場の一隅に設置されたテーブルまで歩くと、そこにはコーヒー用の電気ポットが置かれていました。そばにいたウェルサンピア伊賀の男性従業員が、いまコーヒー茶碗をお持ちしますから、と教えてくれます。そのまま電気ポットの前で待っていると、女性従業員が四角いトレーに茶碗を載せて運んできてくれました。 そのときのことです。一番近くにあった円卓から、二人の婦人が立ちあがりました。そして女性従業員に詰め寄るようにして「コーヒーいただきますわ」と告げたかと思うと、私のほうはいっさい見ることなく、堂々と電気ポットの前に割り込んできました。なんとも図々しい婆さんどもだな。私は仕方なしに、二人がポットからコーヒーを注ぎ終わるのを待つことにしました。 一人目が茶碗を持ってその場を離れ、二人目がポットの操作を始めました。ところが驚いたことに、自席に戻ったはずの一人目がまた現れて、二人目の背中に貼りつくようにして立つではありませんか。むろん私のほうなどまったく見ようとせず、ずけずけと割り込んで素知らぬふりを決め込んでいます。 私はまるで見えない人間のように、婦人二人から黙殺されています。私は自分が、ウェルズの小説に出てくるインヴィジブルマンにでもなったような気がしました。とはいえ、私には自分の姿がはっきり見えるのですから、透明人間になったわけではなさそうです。それならチェスタトンのほうかしら。もしも私がウェルサンピア伊賀従業員のユニフォームを着てでもいるのなら、そうした事態が起こらないとも限りませんが、もちろん私はそんなものを着用しているわけではありません。 それにほら、二人の婦人は私のことに気がついているようです。なぜかというと、異様に緊張して、コーヒー茶碗を持つ手が小刻みに顫えているからです。私は二人の背後から覗き込むような姿勢になってやりました。そうすると、左手でポットのボタンを押し、右手の茶碗でコーヒーを受けていた婦人は、ほら、さらに緊張してボタン操作を誤ってしまいました。ほらほら、彼女の茶碗にはあふれ返るほどコーヒーが入ってしまったではありませんか。 表面張力の実験でもあるまいに、さてどうするね婆さんや。すると婦人は、ボタンから離した左手で空の茶碗をしっかり構え、右手の茶碗から左手の茶碗へとコーヒーをぶちまけ始めました。なんとも乱暴な話です。そのあいだにも茶碗は震え、かちゃかちゃかちゃかちゃと音を立てつづけています。 もしもいまここで、わッ、と大きな声を出してやったらどうだろう。婆さんどもは腰を抜かしてひっくり返り、坐り小便のひとつも漏らしやがることだろうな。私は意地の悪いことを考えて愉快な気分になりました。ところが驚くべし、顫える両手に茶碗を捧げ持って自席まで戻ったその婦人は、性懲りもなくまた電気ポットの前に舞い戻り、もう一人の婦人の背中に貼りつくようにして立つではありませんか。 何なんだこのばばあどもは。私はさすがに唖然としました。二人の婦人はコーヒー茶碗のありったけにコーヒーを注ぎ込み、それをすべて自分たちのテーブルへ持ち帰ることに懸命です。そのテーブルには、いずれひとつのグループなのでしょう、顔を近づければ安物の香水とヘアスプレーと防虫剤のごっちゃになった匂いが鼻を撲つにちがいない一張羅を身にまとって、顔を白く塗りたくった婦人連が澄まし込んで腰かけています。 何なんだこのばばあどもは。 |
●4月8日(木)
二人の婦人が獅子奮迅の活躍を終え、ふたたび自席に落ち着いたときには、電気ポットの横に置かれた四角いトレーは見事に空になっていました。そこに載せられていたコーヒー茶碗はすべて、コーヒーで満たされて彼女たちのテーブルに運び去られています。 私は電気ポットの前に茫然と立ち尽くし、彼女たちの傍若無人ぶりにむしろ感心しながら、広い会場を見回してみました。一番手前には彼女たちの坐ったテーブルがあり、ほかにもたくさんの円卓が並べられて、事業関係者百人あまりがこちらに背を向けて着席しています。 この厚顔無恥な婦人たちがどんなプランを提案し、「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業でどんな役割を演じるのか、それはわかりません。しかしいずれにせよ、と私は思いました。このばばあどもは誰からも見向きされることのない閉経後の無聊をいずれ小詰まらぬ手すさびで慰め合い、それを趣味と呼び文化活動と称して恥じることのない手合いなのだろう。「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業のことを聞きつけ、自分たちの手すさびに県が金を出してくれると知って、あさましく名乗りを挙げ両手を差し出し一円でも多くせしめてやろうと眼の色を変えたのであろうさもしくいじましく心根の貧しい破廉恥ばばあどもめ。 要するにこのばばあどもには何もわかっていないのだ。何かをわかろうとする気すらないのだ。事業の趣旨や本質を理解しようともしなければ、ほかの人間が提案した事業に関心を示そうともしない。気が遠くなるほど狭小な世界に身内だけで閉じこもり、他者にはいっさい顧慮しない。他者の存在を認めない。自分たちの提案した事業が他者にとってどんな意味を持つのか、そんなことは考えたこともない。こんなばばあどもにみすみす死に金つかませて何が伊賀の魅力だ。何が情報発信だ。 こらおまえら、と私は大声で叫びたいような衝動を覚えました。ここにいるおまえら全員がそうなのではないのか。おまえら全員がこのばばあどもと同じ穴の狢なのではないのか。独りよがりな趣味や道楽に濡れ手で粟の予算をせしめてほくそ笑んでいるのがおまえらなのではないのか。口惜しかったらおまえらの物差しではなく他者の物差しでおまえらのプランを測ってみろ。他者の視点で外部からおまえらのやろうとしていることを見てみろ。できまい。おまえらにはできまい。おまえらには他者もなければ外部もないからだ。 会場では、一人一分の持ち時間で出席者がそれぞれのプランを紹介しています。そこには何の滞りもありません。一人が紹介を終えるとほかの出席者はいっせいに拍手を送るのですが、その拍手には穏やかな無関心が表明されているようにも感じられます。拍手がやみ、別の人間が立ちあがって、また別のプランの紹介が始められました。 ここはまったく不思議の国だな、と私はあらためて思いました。私はついさっき、この国には価値観や世界観を同じくする人間だけが集まっていると感じたものでしたが、そしてたしかにこの人たちはひとつの身内意識を前提として結ばれているにちがいないのですが、よく見てみるとそれぞれがてんでんばらばらの状態です。彼らは要するに、事業予算三億三千万円から幾許かの分け前を手にしたという共通項だけで結ばれた人たちであるようです。 私はわざとらしい溜息を漏らしてみたあと、すごすごと自分の席に戻りました。 |
●4月9日(金)
乱歩の本が焼けたそうです。 ある方から「江戸川乱歩の書物焼失」という記事が掲載された新聞のコピーをお送りいただきました。 ときは3月5日、ところは福島県伊達郡保原町、つまり乱歩の疎開先です。保原町のオフィシャルサイトには「保原町にも江戸川乱歩がいた?」というページがありましたので、そのページへのリンクを設定しようとしたのですが、なぜかうまく行きません。お暇な方はオフィシャルサイトの「行政情報・新着情報」で「乱歩」をキーワード検索してください。 さてその福島民友新聞によると、薬品配置販売業小林一喜さん(75)方から出火し(薬品配置販売業とは、日影丈吉ファンなら先刻ご承知でしょうが、富山の薬売りみたいに訪問販売で家庭用常備薬を扱う会社のことです)、木造二階建ての住居兼店舗約百五十平方メートルが全焼したとのことです。
小説家とか作家とかいった肩書がいっさいなく、ただ「江戸川乱歩が」と記されているのですからたいしたものです。乱歩の名前にはもはや説明や紹介は不要のようで、乱歩はすでにして問答無用の国民的作家になったものと見受けられます。 |
●4月10日(土)
鳥羽の乱歩館がきょう10日、オープンを迎えます。
まずは読売新聞オフィシャルサイトの「きょうオープン 鳥羽に「乱歩館」/「貼雑年譜」なども展示」から引用。
つづきまして中日新聞オフィシャルサイトから、酒井直樹記者の「乱歩館・鳥羽文学ギャラリー増設/鳥羽みなとまち文学館」をどうぞ。
疎開地の保原では寄贈本が火災で失われ、勤務地だった鳥羽では遺品を公開する展示施設がオープンし、居住地の池袋ではその名を僭した性感マッサージが営業している乱歩ですが、生誕地の名張では「じゃーん。名張市は乱歩から手を引けキャンペーン」がいまだ本格化せず、私は「じゃーん。しょうもないことに税金つかうのはやめましょうキャンペーン」で手一杯のありさまです。 3月28日、ウェルサンピア伊賀白鳳の間で催された「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業開幕五十日前交流会。 それが何時に終わったのか、私にははっきりした記憶がありません。たらたらだらだら消化されるプログラムに最後までつきあい、伊賀の物産として紹介された蒟蒻の田楽が残っていましたから包んでもらって手みやげにし、ウェルサンピア伊賀一階のレストランに六人ほどで入ってコーヒーを飲み、なんだかすっかり疲れ果てて帰路についたような憶えがあります。 しかしまあ、とハンドルを操作しながら私は考えました。これで俺がなすべきことはひととおりなし終えたといえるのではないか。もうこれ以上、「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業に関して何をいっても意味がないだろう。 むろんそもそもの最初から、いくら批判したところで関係者がそれを受けて事業を再考することはまったくなかったのだから、俺の批判には最初から意味がなかったといえばなかったのだが、批判を地域雑誌に寄稿して公にし、その掲載誌を関係者に直接手渡したことには幾許かの意味が見出せるであろうし、権力は不断に監視され批判されなければならないものだということだけは、今回の一件を通じて関係者一同にも理解していただけたことであろう。 いや。甘いか。やつら理解なんか全然してないか。例によって何も考えることなく見ざる聞かざる言わざるでやり過ごすだけか。ありゃ。なんじゃありゃ。道路脇に葬式の案内が掲示されているわけだが、なんと「中家」と記されているではないか。うちか。うちで葬式があるのか。俺は聞いてなかったぞ。 あとで知ったところによれば、それは同姓の知人の奥さんの葬儀でした。いやまいったな。私は名張市唯一の人形劇団の創始者であるこの奥さんとも二十年以上のつきあいがあるのですが、しばらく無沙汰をつづけているうちにあっけないお別れを迎えてしまいました。みんなどんどん死んでゆきます。合掌。 |
●4月11日(日)
昨10日はお日柄がよろしかったのでしょうか。甲府では竹中英太郎記念館が開館を迎えたようです。
毎日新聞オフィシャルサイトから、藤沢宏幸記者の4月8日付記事「推理小説の挿絵画家、故竹中英太郎氏の記念館オープンへ──甲府 /山梨」を引用します。
地元湯村温泉郷のオフィシャルサイトには山梨日日新聞の3月1日付記事「竹中英太郎の画業集成 甲府・湯村に美術館」が転載されておりますので、ついでにどうぞ。
英太郎の次女で館長をお務めの金子紫さんとは、名張市立図書館の江戸川乱歩リファレンスブック1『乱歩文献データブック』をつくっていたとき、たった一度だけ電話でお話ししたことがあります。 平凡社の名作挿絵全集月報「さしえ」4号(昭和10年9月)に英太郎の「『陰獣』因縁話」という文章が掲載されているのですが、月報というものはどこを捜しても容易には見つからぬものと相場が決まっています。 そのころ、山梨日日の記事にも見える白根桃源美術館(だったと記憶するのですが)で英太郎展が開催されているという話を聞き及びましたので、美術館に電話して英太郎の遺族の連絡先を問い合わせ、紫さんの電話番号を教えてもらいました。ちなみに「紫」は「ゆかり」と読みます。 教えられた電話番号をダイヤルして(プッシュして、でしょうか)、紫さんに平凡社版名作挿絵全集のご尊父の巻の月報をご所蔵でしょうか、とお訊きしたところ、あるはずだから探し出してコピーを送ってあげる、とのお答え。おかげで「さしえ」4号を確認し、英太郎の「『陰獣』因縁話」に目を通すことができた次第です。 以来ご無沙汰のしっぱなしですが、そうしたゆかりもありますので(洒落ではありません)、英太郎記念館オープンのニュースはじつに嬉しいものでした。はるか僻遠の地からお祝いを申しあげたいと思います。機会を見つけて甲府まで足を運びたいものです。 竹中英太郎記念館は甲府市湯村3-9-1、電話055-252-5560。入館料三百円。火・水曜定休。 さて、竹中英太郎とは何の関係もない「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業ですが、3月28日、野呂昭彦知事にお目にかかってお願いした『江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』(仮題)の序文の件、今月5日に県庁知事室から連絡をいただき、だいたいのところの打ち合わせを済ませましたので、その旨お知らせしておく次第です。 さーあ、こうなったら「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」で実施される事業のことごとくがなんじゃこりゃみたいなものばかりであっても、というか、ことごとくがなんじゃこりゃみたいなものばかりであるのならなおさら、伊賀地域住民と三重県知事の名誉のためにもおおッ、こッ、これはッ、みたいな書簡集を世に問わなければなりません。 よーし、とかなんとかいながら、きょうのところは大阪へお酒を飲みに赴く私なわけですが。 |
●4月12日(月)
うっかり寝過ごしてしまいましたので、本日は愛想もくそもありゃしません。ではまたあした。 |
●4月13日(火)
いつまでもずるずるしつこいのもあれなんですが、報告し忘れていたことをひとつだけ。 何の意味もない「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業推進委員会、次回は事業開幕後の5月下旬か6月上旬に開かれるそうです。四回目の開催となるわけですが、何を話し合うのかはさっぱりわかりません。 と申しますか、わざわざこちらから足を運んで十七委員中十人の方に「伊賀百筆」第十三号をお渡ししたのですから、私の批判にいつまでも知らんぷり決め込んでいるわけにもまいらぬのではないか。堂々七十七ページにおよぶ私の事業批判をテーマに話し合っていただけぬものか。私を呼びつけて厳しく糾弾なさってはいかがか。それが事業推進委員会の責務というものではないのか。 ついでにもうひとつ。不肖カリスマ、4月からまた半年、名張市立図書館にカリスマとして勤務できることになりました。辞令は下記のとおりです。
名張市教育委員会は「じゃーん。名張市は乱歩から手を引けキャンペーン」が本格化したらまず真っ先にぼこぼこにされるところなわけで、なんだか不憫だなという気がしないでもありません。 以上、報告二件でした。 |
●4月14日(水)
「RAMPO Up-To-Date」に手を入れ始めたら瞬く間に時間が過ぎ去ってしまいました。「最新情報」には2004年の増補分を掲げましたが、それ以前の増補分はいちいち「最新情報」に記載しませんでした。悪しからずご了承ください。
さて、「日本推理作家協会会報」4月号が発行されました。第五十七回日本推理作家協会賞の候補作品が下記のとおり発表されております。
いやー、長篇も短篇も小説はただの一作も読んでおりません。いっそ見事なもんです。いやいや、そんなことに感心してる場合ではないのかもしれませんが、時間がなくなりましたのでまたあした。 |
●4月15日(木)
第五十七回日本推理作家協会賞候補作品に関して一言あってしかるべきではないかとごくごく一部の方から期待されているような気がしないでもないのですが、ごくごく一部の方に以前からお話ししておりますとおりの次第ですから、私がここに日本推理作家協会の見識と襟度を疑うみたいな一文を草することはないものとお思いください。 しかしそれではあまりにも愛想がないではないか、陰ながら支援しているわれわれ御見物衆の立場も考えてくれなければ困るではないか、だからなんか書けほら、ほらほら、とおっしゃられるとほんとに困ってしまいます。いったいどうしたものじゃやら。 |
●4月17日(土)
きのうは失礼しました。掲示板「人外境だより」でお知らせしたとおり、なぜかサーバーに接続できなくなっていたのですが、ごく一時的な不具合だったようで、ふたたびお目にかかることを得た次第です。 さて、第五十七回日本推理作家協会賞候補作品についてですが、評論その他の部門の候補作に名張市立図書館の江戸川乱歩リファレンスブック3『江戸川乱歩著書目録』の名が見えぬのはおかしいではないか、とお思いの諸兄姉もいらっしゃるかもしれません。 というか、きのうあたりもこの件でメールを頂戴しておりますし、以前からなぜ名張市立図書館は日本推理作家協会賞評論その他の部門にノミネートされないのかといった声をお寄せいただいていることでもあり(むろん当方にお寄せいただいても致し方ないのですが)、また『江戸川乱歩著書目録』刊行直後には江戸川乱歩リファレンスブックの刊行に関して「(社)日本推理作家協会はなぜこの出版事業を顕彰しないのか、江戸川乱歩賞も特例で賞をだすべきではないか、と思う次第です」とおたよりをくださった方もありますので、ここで私が黙っていては名張市立図書館に肩入れしてくださったみなさんに対して申し開きができません。 ですから当方の心情を切々と吐露することに決めた次第ですが、ほんとに吐露するとなるとえらく長くなってしまいそうではあり、さていったいどこから始めたものか、と思案しながらふとパソコンの横を見てみると、そこには文庫本サイズのパンフレットが置かれてあって表紙には「東京創元社創立50周年記念」の文字。 このパンフレット、先日ある方から頂戴して鞄に入れっぱなしになっていたものをきのう取り出し、机に置いてまたそのままになっていたものです。東京創元社が創立五十周年を記念して発行し、書店で無料配布するいわゆる宣材なのですが、手に取って「東京創元社の五十年」という鼎談を眺めてみると──
鼎談出席者は紀田順一郎、北村薫、戸川安宣のお三方。引用文中の「厚木」は昨年5月に亡くなった厚木淳さんのことですが、『犯罪幻想』が乱歩の還暦にちなんだ厚木さんの企画であり、棟方志功の登用が乱歩じきじきの指名であったとは知りませんでした。 ところで私はこの『犯罪幻想』、しかも棟方志功の手摺木版画が収められた二百部限定の特製本なのですが、つい二週間前の4月3日に手に取りました。小酒井不木生誕地碑除幕式のあと、厚かましくも森下雨村次男の時男さんのお宅にお邪魔したときのことです。ガラス戸付き書棚から取り出された『犯罪幻想』は、当然ながら雨村に宛てた乱歩の署名があり、奥付の手書きシリアルナンバーはたしか十六番。それはそれは美しい本でした。 いやいや、話がそれてしまいました。本題は日本推理作家協会賞です。長くなるとあれですから先に結論を書いておきますと、といってもこれは別に抗議や批判といったことではなく、あくまでも私の個人的な見解を明らかにしておくだけの話なのですが、やっぱり協会の見識や襟度にはおおいに問題があるのではないかと私は思います。 |
●4月18日(日)
さて長い話が始まりますが、まず申しあげておきますと、私は何も日本推理作家協会に対して異議を申し立てたり抗議を突きつけたりしようとしているわけではありません。自分には縁もゆかりもない職能団体の運営にいちいち容喙する気など、私にはこれっぽっちもないのだということをあらかじめお知らせしておきます。 したがいまして、私が日本推理作家協会賞の候補作品選出に関する重大な疑義を公にし、協会理事長の逢坂剛先生に宛てて内容証明付き郵便で公開質問状をお送りし、おまえらいったいどこに眼をつけていやがるさあ俺の質問にとっとと答えやがれ答えねえのかそれではまるで三重県庁のぼんくらどもと同じではないかあーこりゃこりゃなどといきり立ち、日本推理作家協会との全面対決に持ち込んだら面白いのになと思っているあなたいけない人ね。 ただ私は、思い起こせば1995年の秋10月、名張市立図書館のカリスマ嘱託を謹んで拝命しましたそのときに、さあ乱歩の書誌つくって日本推理作家協会賞を名張の地に持ってくるのだと決意し、いきなり江戸川乱歩リファレンスブック1『乱歩文献データブック』で甲子園初出場初優勝並みの快挙を成し遂げる青写真まで描いていたのですが(しかし青写真の意味がおわかりにならない世代も増えていることでしょう。未来予想図、とでも換言しておきましょうか。いやー、莫迦みたいにブレーキランプ点滅させてた昔が懐かしい)、当てと褌は向こうからはずれてノミネートもされなかったという暗い過去を秘め持つ人間です。そのゆくたては「乱歩文献打明け話」の第五回「うっかりキレた私」にも記してありますから、別に秘め持っているというわけでもないのですが。 私がなぜ日本推理作家協会賞評論その他の部門を受賞したかったのか、それは「乱歩文献打明け話」第五回にちょこっと書いてありますし、この長い長い話でもおいおい明らかになってゆくはずなのですが、『乱歩文献データブック』がノミネートもされなかったという事実からのちに私が悟ったのは、はっはーん、公立図書館は授賞対象にならんらしいな、ということでした。 私は15日付伝言に「ごくごく一部の方に以前からお話ししておりますとおりの次第」と記しましたが、それは要するに、今度こそ協会賞ですね、などといってくださる方があるとそのたびに、いやどうやら公立図書館は授賞対象にならないらしくて、みたいなことを申しあげていたということです。 しかも今回の場合、江戸川乱歩リファレンスブック3『江戸川乱歩著書目録』が世に出回り始めたのは候補作品選出のためのアンケートが締め切られたあとだったのですから、その点のみに基づいて考えても、このたびのノミネートに関する異議や抗議は成り立たないということになるでしょう。 ですから、日本推理作家協会賞を漠然たるテーマとして綴られる私のこの長い長い話は、異議や抗議とはまったく無縁な、1995年10月から現在までの八年半あまりを振り返る手記のごときものとなるはずであり、だからこそ長い長い話にならざるを得ないわけです。敢えてタイトルをつけるのであれば、「艱難辛苦八年半──日本推理作家協会賞と私」なんて感じになるでしょうか。 なんかそんなような時期でもありますし。 |
●4月19日(月)
なんかそんなような時期でもありますし。 ときのう書いたその先をつづけるつもりでいたのですが、「乱歩文献データブック」と「乱歩百物語」をダブルでアップロードしているうちに時間がなくなってしまいました。いいわけたらたらであすにつづきます。 |
●4月20日(火)
なんかそんなような時期でもありますし。 では、そんなような時期とはどんなような時期なのか。この名張人外境で申しますと、「乱歩文献データブック」がようやく昭和44年、すなわち没後最初の乱歩全集が世に問われた年までのアップロードを終えた時期、ということになります。きょうは翌45年、すなわち1970年を片づけてしまおうと思っていたのですが、時間が足りなくて果たせませんでした。 「江戸川乱歩執筆年譜」と「江戸川乱歩著書目録」は一応アップロードを終えておりますので、あと「乱歩文献データブック」を1995年まで掲載してしまえば、江戸川乱歩リファレンスブック全三巻をインターネット上に公開する試みがようよう実現されたことになります。 むろん、単に刊本のデータをネット上に移すだけでなく、増補や訂正を加えることも必要です。『乱歩文献データブック』を刊行して以来、不備や遺漏のご叱正をあなたこなたから頂戴しているのですが、それを当サイトに反映する作業はなかなか捗りません。 たとえば刊本では大正14年の「6、7月ごろ」となっていた「大衆作家列伝」という新聞記事ですが、ある方から数年前にそのコピーをいただき、掲載日はとっくに判明していました。ところが、当サイトの「乱歩文献データブック」に「5月10日」という正確な日付を記載できたのは、驚くなかれつい数日前というていたらくです。長い目でご覧ください。 なんか日本推理作家協会賞の話がどっかへ行ってしまったみたいですが、「艱難辛苦八年半──日本推理作家協会賞と私」、まだまだつづくことになりそうです。 なんかそんなような時期でもありますし。 |
●4月21日(水)
4月21日です。 ということは、1999年10月21日にこの名張人外境を開設して以来四年半の日月を閲したことになります。四年半かかってまだ「乱歩文献データブック」の掲載が終わっていないというのも難儀な話ですが、開設五周年までにはアップロードを終えたい所存です。長い目でご覧ください。 「乱歩文献データブック」はそんなような次第なのですが、「RAMPO Up-To-Date」はどんな具合かと申しますと、開設時に公開しておきながらサイトリニューアルの際にリニューアルし遅れ、そのまま非公開になっていた1996年から1998年までを今月上旬に再掲載しました。 新たに1995年のページも掲載しましたが、これは私が名張市立図書館カリスマ嘱託を拝命した日を起点として、同年10月以降のデータが対象となっております。つまり「RAMPO Up-To-Date」に記載された最初のデータは、恥ずかしながらこれなわけなんです。
となりますと、察しのいい方ならすでにご賢察のとおり、「RAMPO Up-To-Date」に記載される最後のデータはおそらくこうなるはずです。
いやいや、私とて馘になりたいわけではないのですが、「じゃーん。名張市は乱歩から手を引けキャンペーン」には職を賭する覚悟で臨みたいと思っておりますので、その結果としてどんな事態に立ち至るか知れたものではありません。そうでなくても財政難を理由に任を解かれる可能性もあるわけで、いずれにしても名張市立図書館と無縁な人間になりました暁には、「RAMPO Up-To-Date」の更新もおしまいにしてしまいたいなと思っております。 いやいや、まあそんなことはどうだっていいのですが、とにかく「RAMPO Up-To-Date」を増補するためには、かなり出鱈目に保存してあるコピーや資料や書簡のたぐいを一からあらためることが必要でした。ごたごたとそこらに押し込んであった保存用のクリアファイルを引っ張り出し、関連データを整理し直したわけなのですが、その作業のまあ辛気くさいこと辛気くさいこと。それでもようよう整理を終え、たとえばきのう記したような大正14年5月の新聞記事のデータを記載することも可能になったという寸法です。 クリアファイルは当分のあいだ部屋の床に並べておき(これが証拠写真でおます。部屋全体の整理もしなければならんようでおますが)、あなたこなたからご教示いただきながらほったらかしになっていたデータを「乱歩文献データブック」や「江戸川乱歩執筆年譜」や「江戸川乱歩著書目録」や「RAMPO Up-To-Date」にぼちぼち反映してゆきたいと念じておりますので、どうかひとつ長い目でご覧いただいたうえ、お気づきの点をお知らせいただければありがたく思います。 つまり、煎じ詰めて申しあげるならば、江戸川乱歩リファレンスブック全三巻も無事に刊行できたことだし、なんかそんなような作業をしなければいけない時期に至ったな、といったところなわけであり、そんなような作業をつづけていると1995年10月以来の来し方が脳裡に去来して、中島河太郎先生から初めて頂戴したおたよりがクリアファイルからひょっこり出てきたりした日にはもうたまりません。「艱難辛苦八年半──日本推理作家協会賞と私」みたいなものを記しておくべき時期だろうな、との結論にたどりついた次第です。 それともうひとつ、「乱歩文献打明け話」の問題もあります。問題といってしまうと大袈裟に過ぎますが、とりあえず第一回「セクハラ始末」の冒頭をお読みいただきましょう。
しかし、こと志に反して「乱歩文献打明け話」はお役所漫才に変質してしまい、『乱歩文献データブック』のみならず江戸川乱歩リファレンスブック全三巻に関して、「記録を残すという意味からも、市民への報告という観点からも、刊行に至る経緯を文章にして発表しておくこと」はお留守になってしまっております。これも「艱難辛苦八年半──日本推理作家協会賞と私」と抱き合わせで片づけたいものだ、と私は考えました。 |
●4月22日(木)
といった次第で、「乱歩文献打明け話」が本来目指していた路線も踏襲しながら「艱難辛苦八年半──日本推理作家協会賞と私」を綴りたいと思います。
1995年10月、私は名張市立図書館の乱歩資料担当嘱託を拝命しました。半年単位で任用される臨時職員です。拝命に至る経緯は「乱歩文献打明け話」にざっと記してありますから、お暇な方はどうぞ。 今年の1月下旬、SF作家の眉村卓さんを囲む集いが大阪で開かれました。要するにお酒を飲む会です。私も顔を出したのですが、宴が始まってまもないころ、どういう話の流れであったのか、ビールを飲むのに忙しかった私にはどうもよくわからないのですが、とにかく眉村さんが、 「乱歩のこと調べようと思ったら名張に行くのが一番ですよ」 とおっしゃいました。私は隣席からまじまじと眉村さんを眺めました。眉村さんは乱歩とはあまり接点のない方のはずですから、こうした言葉をお聞きするのは私にはじつに意外なことでした。 そうか、と私はふたたびジョッキを傾けながら思いました。名張市立図書館が現在の乱歩研究シーンに占めている有用性は眉村さんの耳にまで届いているのか。なかなかたいしたものではないか。いやまいったな。しかしそんなものは虚像である。俺が嘱託を馘になったらたちまち消えてしまう幻像である。むろん名張市立図書館が乱歩研究シーンにおいて一定の役割を果たすのは悪いことではないのだが、問題は名張市教育委員会にその覚悟があるかどうかだ。まあ待ってろ。もうじき「じゃーん。名張市は乱歩から手を引けキャンペーン」が始まるのだからな。わはははははは。 それからひとしきり図書館に関する話題がつづいたのですが、公立図書館の館長というのはお役所の出世競争から落ちこぼれた人間がたどりつくポストである、図書館長に任命されるというのは要するに左遷されて飛ばされることと同義である、みたいな話も出て、日本国民が公立図書館に対して抱いている印象はだいたいそんなところなのだろうな、と私は思いました。 「きのうまで土木部にいた職員が図書館の館長になって何ができるか」みたいな話も飛び出しましたので、私は思いがけず主役を振られたような晴れがましい気になって、「はい。うちはそうです。名張市立図書館の館長は土木部から来た人です」と報告したりもしたのですが、ことほどさようにお役所としての公立図書館は、評判というものがさほどよろしくはないようです。 歴史小説で知られる吉村昭さんの『わたしの流儀』(平成13年5月1日、新潮文庫)という本に、「図書館」と題したエッセイが収録されています。引用してみましょう。
おかしい、という吉村さんの言に私は賛意を表しますが、あなたはどうお思いでしょうか。 |
●4月23日(金)
とはいえ、いくら「館長は書物について深い愛情と造詣を持っている人でなければおかしい」と首を傾げてみたところで、それが日本の公立図書館なのですから致し方ありません。 おまえはそもそも本というものを読んだことがあるのか、と問い質したくなるような人がお役所からやってきて、平気な顔して館長の椅子に坐るのはごく普通のことです。 これを変えるには、お役所のシステムを根っこのところから改めるか、でなければ図書館がお役所から独立するか、くらいのことを考えなければ道がないように思われます。 吉村昭さんの「図書館」から、あと二段落引用しておきます。
ここで振り返りますと、私も名張市立図書館ではすでに四人の館長にお仕えしていることになります。足かけ九年で取っ替え引っ替え四人の館長、なんて話はどうにも目まぐるしくっていけません。 目まぐるしいという以上に、なんかもう莫迦らしくなってしまいます。この館長に何を提言したところでその提言が実現されるまでにまた異動があってこの館長はどっかに飛んでいってしまい、俺の提言が次の館長にちゃんと引き継がれるなんてこともないんだろうな、と思わざるを得ません。いくら私が不撓不屈でも、士気というものが大きく殺がれてしまいます。 どうしてお役所というところでは漂泊の民ジプシーのごとく、また一所不住のユダヤびとのごとく職員をあっちこっちに動かして怪しまないのかと申しますと、それはもうお役所が職員の専門性を抑圧したがるところだからであり、さらにいえばお役所というのがひとつの責任回避システムであるからにほかなりません。 いやいや、ぼやいてたってどうにもなりません。先に進みましょう。 この「艱難辛苦八年半──日本推理作家協会賞と私」では、『乱歩文献データブック』に関して「乱歩文献打明け話」第一回に記しました「おもな協力者名は巻末に一覧で示したが、それだけでは具体的な内容まではわからないし、あまりにも愛想というものがなさ過ぎる」との不備を補うことも進めたいと思っております。つまりお世話になったみなさんを簡単にご紹介申しあげ、そのことであらためて謝意を表したいと考えておりますので、あしたあたりからそのへんのこともぼつぼつと。 |
●4月24日(土)
さっき気がついたのですが、この伝言の22日と23日の曜日表示が間違っていました。訂正しておきました。 本題に入る前にお知らせをひとつ。
伊賀快適生活応援サイト、を謳ったサイト「YOU」の「声」というページに、「「秘蔵のくに 伊賀の蔵びらき」HPの掲示板はなぜなくなったの?」という投稿が掲載されました。 「YOU」というのは広告代で経費をまかなって伊賀地域一帯に無料で各戸配布されているタブロイド判のミニコミで、この投稿は4月25日号(386号)に寄せられたものです。ウェブ版の記事はいずれ流れ去ってしまいますから、本紙の記事をスキャンして天下御免の無断転載、こうやって記録しておくことにいたします。見逃してください則近さん。 要するに、二〇〇四伊賀びと委員会オフィシャルサイトの掲示板がなぜなくなったのかという地域住民の質問が投稿され、委員会側が「種々発生する問題に対応する体制とれないため」との見出しで回答しているわけなのですが、なんともようわからん話ではあります。 そもそも二〇〇四伊賀びと委員会への質問がどうして委員会ではなくて「YOU」に寄せられるのか、いやだいたいが投稿者も回答者ももう少し明晰な文章が書けないものか、というかこんな質問と回答には何の意味もないではないか。 まあそんなことはどうだっていいとして、私はこの掲示板(つまりこれです)がまだ生きており、「掲示板は当分の間停止させていただきます」との告知はいまも有効だと思っていたのですが、投稿には「停止中の掲示板が無くなっていました」とありますから話が噛み合いません。 もっとも、よく見てみるとオフィシャルサイトのトップページから掲示板へのリンクが消え失せていますから、見かけのうえでは掲示板がなくなっているということになるのかもしれません。委員会の回答にも「結論」は「停止」とありますから再開されることはないのでしょうが、それならそれでこれも始末しておいたほうがいいのではありませんか二〇〇四伊賀びと委員会のみなさん。 それにしても、二〇〇四伊賀びと委員会の回答は相も変わらず夢で蒟蒻を踏む印象が拭いがたく、「掲示板につきましては、再開を目指しておりましたが、委員会として種々発生する問題に対応する体制がとれないとの結論に達し、停止に至ったしだいです」とあるところなど何をおっしゃりたいのか理解に苦しみます。 「結論に達し」とおっしゃるからには掲示板の問題で二〇〇四伊賀びと委員会が協議を行ったと考えるのが普通でしょうが、そんな協議などただの一度もなかったものと私は推測しております。間違いない。それをまあよくもぬけぬけと「停止に至ったしだいです」などとほざけたものだ。もう少し正直に答えられぬものか実際。 ご参考までに模範解答を示しておきましょう。
念のために、というか莫迦のために書いておきますと、上記の「2004伊賀びと委員会より回答」は伊賀びと委員会ではなくて私が書いたものです。説明の要もないことですが、伊賀地域住民はなんだか軒並み莫迦なのではないかと痛感されますゆえ、抜きん出た莫迦のために敢えて不粋なことを書きつけておく次第です。 ついつい長くなって本題に入れませんでした。つづきはあさってになります。 |
●4月26日(月)
そんなこんなでインターネットってのがどんなものなんだかよく理解できていないらしい三重県は、にもかかわらず「ネットで県民参画」という事業を試行する運びとなりました。 三重県オフィシャルサイトに掲載された4月2日付「知事会見」で、野呂昭彦知事は「私が公約でも申し上げてまいりました「けんみんネット審議会」、すなわちインターネットを活用して県民の皆さんの声を県政に反映させる仕組みにつきまして、一定の形にまとまってまいりましたので、これを「ネットで県民参画」と名付けて試行し、その検証を進めていく」と述べていらっしゃるわけですが、大丈夫か三重県、二〇〇四伊賀びと委員会オフィシャルサイトの掲示板で醜態さらしたことは教訓として生きているのか、と私は思います。 会見の一問一答を引きますと──
まだまだたらたらつづきます。お暇な方は「知事会見」全文をどうぞ。しかし訳もわからないままこんなこと始めてしまって、ほんとに大丈夫なんでしょうか三重県は。 ちなみに文中の「e-デモ会議室」は、平成14年5月末から現在まで実施して結局は何の成果ももたらされなかった試みなのですが、会見の質問でも「これまでの2年は何だったのか、無駄な事業だったのかと思われるんですけれども」と指摘されている始末ですから、この際とっとと閉鎖するべきだと思います。電光石火の掲示板閉鎖は三重県の得意技でもあることですし。 まあだいたいが、いくらインターネット上に会議室なんてものを開設し、当事者意識皆無で県庁の内部にしか顔を向けていない県職員が「「住民自らが地域を創りあげていく」そんな理想的な社会実現への第一歩はあなたの発言からスタートします、「地域が抱える課題とその解決策」そして「あなたが抱く理想の地域」についてみんなで話し合いましょう! 発言をお待ちしています!!」などと呼びかけてみたところで、参加してくるのはどうせこの程度あるいはせいぜいこの程度の連中だと来ているわけなんでしょうから、何がどうなるってものでもないことは最初から眼に見えていたのではないか。やってらんねーなまったく。 私にもう少し時間があれば三重県のためにこの身を挺するところなのですが、なかなかそうもまいりません。ただし、知事から要請をいただいたとあれば一肌でも二肌でも脱ぐ覚悟でいることを記しておいて(実際、私ほど有能なブレーンは県内くまなく金の草鞋で尋ねてみたって見つかるものではありません)、「艱難辛苦八年半──日本推理作家協会賞と私」に戻ることにいたします。 |
●4月27日(火)
突然ですが、三重県上野市東町のヴァインケラー・ハシモトが大吟醸古酒「黒蜥蜴」を発売しました。本日付朝日新聞伊賀版の「10年熟成の大吟醸古酒/上野の酒店「黒蜥蜴」500本限定発売」からリード全文を引用。
この酒屋さんはこれまでに、純米「怪人二十面相」、純米吟醸「夢乱歩」、本醸造「明智小五郎」、純米大吟醸「黄金仮面」と乱歩シリーズを送り出してきており、この次に出すのは「黒蜥蜴」で、平井隆太郎先生に揮毫をお願いするつもりだ、という話を何年も前にご主人から伺ったことがあるのですが、ようやく完成したようです。「黒蜥蜴」の文字は隆太郎先生ご令息憲太郎さんの揮毫とのことですが、まずはご同慶の至り。 さて気になるお値段は、720ミリリットル瓶でなんと二千と五百円。四合二千五百円のお酒となると私にはとても手が出ませんが、手を出してみたいとおっしゃる方はヴァインケラー・ハシモト(電話0595-21-0342)へお問い合わせを。
つづきましては「艱難辛苦八年半──日本推理作家協会賞と私」、ふと思いついてフーズフー形式を取り入れながら進めることにいたしました。
といった塩梅で、お世話になった関係各位に謝意を表するための「RRB Who's Who」(RRB は乱歩リファレンスブックの略だとお思いください)、いきなり点鬼簿めいてきて困ったものですが、たらたらとつづけます。 |
●4月28日(水)
「池袋から15分マガジン」と銘打った「池袋15'」という雑誌があります。「いけぶくろじゅうごふん」と読みます。4月20日に発売された5月号の特集は、「立教学院創立130周年記念行事、すべて見せます。」だそうです。
雑誌そのものはまだ手にしていないのですが、この「池袋15'」と協力して池袋周辺情報を発信している「池袋15'」というウェブサイトがあって、ここで「立教学院創立130周年記念行事、すべて見せます。」の概要を知ることができます。補修を終えた土蔵の写真も掲載されているのですが、見違えるほどきれいになっています。 記念事業の目玉となる「江戸川乱歩と大衆の20世紀展」の概要を、「立教学院創立130周年記念行事、すべて見せます。」からこっそり転載しておきます。
9月には一泊二日で鳥羽と名張をめぐる「乱歩故郷ツアー」(東京発)も実施されます。よろしかったらおいでください。 さて、名張市立図書館が世界に誇る江戸川乱歩リファレンスブックの話に戻りましょう。 1996年3月の名張市定例会で1996年度の予算案が承認され、『乱歩文献データブック』刊行のための事業費が認められました。もっとも、議会における予算案の審議というのは多分に形式的なものですし、議案書の印刷に一定の時間が必要だという事情もありますから、3月議会に提出される議案は実質的には1月下旬あたりに決定しているはずです。したがって私も、この年1月には『乱歩文献データブック』の予算が獲得できたことを聞き及んでいたと思われるのですが、昔のことですからよく思い出せません。 ともあれ、名張市立図書館の江戸川乱歩リファレンスブック刊行事業が順調にスタートしたわけです。このあたりの目論見に関しましては、昨年1月から2月にかけて池袋の西武ギャラリーで開かれた「江戸川乱歩展 蔵の中の幻影城」の図録『乱歩の世界』に、「図書館は乱歩をリファレンスする」と題して色物めいた腰折れを寄せましたので、ご参考までに一部引用いたします。
要するに外堀から埋めてゆこうという算段でした。 |
●4月29日(木)
読者諸兄姉は叶栄鼎さんのお名前に心当たりがおありでしょうか 。あるいは、ようえいていさんのお名前に。
2002年の秋10月、乱歩のお誕生日前後のことでしたが、「ようえいてい」という名義であちらこちらの乱歩関連サイト掲示板に同内容の文章を投稿した人がありました。 Google で「ようえいてい 乱歩」を検索してみると三件しかヒットしないのですが、そのひとつ、「与志田の貼雑帖」の「掲示板貼雑通信」にはこんな過去ログが残っています。
当サイトの掲示板「人外境だより」には「掲示板貼雑通信」より一足早くようえいていさんから投稿があり、私も最初はまともにお相手していたのですが、そのうちなぜかキレてしまって大騒ぎ。たしか「小林文庫」の掲示板にまで押しかけて、「ようえいていとかいうポコペン野郎へ」とかいうタイトルの啖呵を投稿した憶えがあるのですが、ポコペンだのマンマンデーだのという少し前の日本でごく普通に使用されていた中国語がまったく通用しなくなっているのはいささか困ったことです。 そんなことはともかく、ようえいていさんは中国で乱歩作品の翻訳を手がけている叶栄鼎さんの友人とのことで、このときの掲示板でのやりとりがきっかけになって、叶栄鼎さんが訳した乱歩作品に関するご教示をようえいていさんから頂戴することができた次第です。血まなこになって『江戸川乱歩著書目録』を編纂していたときのこととて、それはまことにありがたいことでした。 さて、ようえいていさんとはいったい何者か。たぶん叶栄鼎さんその人であろうと私は推測しております。「叶」はそのまま読めば叶、つまり叶姉妹の叶、協と同音同義の叶という字でしかありませんから、私は最初「叶栄鼎」は「きょうえいてい」とでも読むのだろうと思っていました。ところがしばらくして、「叶」は「葉」の簡体字であるという事実に気がつきました。となると、 叶栄鼎=葉栄鼎=ようえいてい という等式が成立します。私は、ようえいていさんは葉栄鼎さんでありつまりは叶栄鼎さんでもあろうとの結論に至りました。 すっかり前置きが長くなりましたが、わが名張市は一昨日、その叶栄鼎さんから中国で刊行された乱歩の著作四十六冊のご寄贈をたまわりました。中日新聞オフィシャルサイトから森本智之記者による本日付記事「乱歩の中国語訳本寄贈/翻訳者が名張市に46冊」をどうぞ。
しかし「叶栄鼎(かのう・えいてい)さん」と訓読みつかって中国人名をひらがな表記するのはいくらなんでも不自然だろう、と私は思いますが、図書寄贈に関する名張市の内部資料でも「叶」には「かのう」というふりがなが添えられていますから、とりあえずこれでよしとしておきましょう。 そういえば、ようえいていさんと掲示板「人外境だより」でおつきあいしたのは旭堂南湖さんの探偵講談池袋公演を目前にした時期でしたから、探偵講談の招待券をお送りしましょうか、ありがたいけど残念ながら行けません、みたいなやりとりがあったことも思い出しました。ずいぶん昔のことのような気がしますが。 中日の記事によれば、叶栄鼎さんは今年3月に上海にお帰りになったそうです。乱歩生誕地の名張市にご高配をたまわったことに対し、名張市民の一人として、また名張市立図書館のカリスマとして、叶栄鼎さんに心からお礼を申しあげたいと思います。謝謝。 さるにても、2002年秋にインターネット上だけでお会いしたようえいていという方のことを、私はことのほか印象深く記憶しております。何時々々迄モ忘レハシナイ、といった感じでしょうか。僕ノ心ノ奥ニハ次ノ様ニ呼ビ掛ケタイ気持ガアル。ようえいていサン、気ガ向イタラ又オ出デ! |
●4月30日(金)
ゴールデンウイークだの大型連休だのにはまったく無縁な日々を送っております。けさはちょっと欲張ってあちこち更新するだけで時間がなくなってしまいました。ではまたあした。 |
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