2004年9月後半

●9月17日(金)

 さて昨日、上野市にある三重県上野庁舎の三階、伊賀県民局長室にお邪魔して、早川正美局長からお話を伺ってまいりました。結論から申しますと、二〇〇四伊賀びと委員会オフィシャルサイトの「当ホームページ掲示板の閉鎖について」に列挙された三点にわたる掲示板の閉鎖理由は正当なものである、というのが県民局長のご見解でした。

 むろん私とて、なにしろ県民局長という立場にある方なのですから、不当である、とは口が裂けてもおっしゃれないであろうということは承知しておりました。とはいえ、二〇〇四伊賀びと委員会が犯した明らかな非を地域住民の視点に立ってそれは非であると認めるのが公務員本来の姿であろうとは思われますので、さてどんなものかなとかすかに期待もしていたのですが、日本においては地域住民(あるいは国民)の視点に立った公務員、などというのは、野球ファンの視点に立ったプロ野球経営者、みたいなものなのね、ということがあらためて認識された次第です。

 こうして考えてみますと、お役所ではなく乱歩ファンの立場に立った公立図書館嘱託である私など日本では稀有な存在というしかないわけですが、私はこの「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業に関してもあくまでも地域住民の視点から事業および組織の批判をつづけているわけであり、私の批判を一度たりともまともに受け容れようとしなかったあいつらはいったい何なんだ、といった話はきのう県民局長にもお伝えいたしました。

 みたいな話はまたあした綴ることにして、組かしら会に出席させないのなら意見交換会を公開で開催しろという私の要請に対し、事務局からきのう次のようなメールを頂戴しました。

  いつもお世話になります。

  お申出のありました意見交換会の開催につきましては、次回の組かしら会にて協議させていただきます。
 結果につきましては、ご連絡しますので、よろしくお願いいたします。

 はーい。

 それにしても往生際の悪い話です。自分たちの非を認識しているからこそ組かしらのみなさんはここまで往生際が悪くなるのでしょうけれど、そろそろ素直に非を認めたらどうなんだ。みんな吐いてしまったら楽になるぞ。出前でカツ丼とって「母さんの歌」かけてやろうか。いやこれでは完全な犯人扱いですが。


●9月19日(日)

 例によってあっち関係なのかはたまた別の関係なのか、どうにも判断がつきかねるのですが、本日は dh013147@ni.bekkoame.ne.jp さんからこんなメールを頂戴しました。

パスタにしよぅかオムライスにしよぅかカレーにしよぅか迷ったんだけどぉ。。。カレーにしちゃったぁ〜♪♪甘口と中辛どっちにしよっかぁ〜???

 好きにしろばーか。

 ばーか、といえばおのずと想起されてくる二〇〇四伊賀びと委員会ですが、先日16日に三重県上野庁舎で伊賀県民局長にお会いしてきた件のご報告、一日のブランクを置いてつづけることにいたします。ちなみにきのうのブランクは、17日夜にプロ野球選手会がストライキ断行を決定したことへの共感を表明して、ということではまったくなく、なんやかんや雑用が立て込んだためだとお思いください。むろん選手会のストライキを私は支持しておりますが。

 さて16日、伊賀県民局長から頂戴した時間は午前10時から三十分間でした。私は創業昭和5年近鉄名張駅前賛急屋謹製なばり饅頭を手みやげに県民局長室にお邪魔して、用件を述べ終わって時計を見るとすでに十五分間が経過。この用件というのは事前にメールで要点をお知らせしてあったもので、そのメールは9月14日付伝言に全文を掲載してありますから、お暇な向きは内容をご確認ください。

 ここでひとつお知らせしておきますと、私の用件のひとつは二〇〇四伊賀びと委員会主催の公開意見交換会の会場として県上野庁舎七階の大会議室を使用させていただきたい、というものでした。意見交換会に関する委員会の回答はまだ届いていないのですが、そうした会合の開催を要請した人間としては会場の確保に関してもできる範囲のことはしておくべきではないのかと考え、じつに殊勝な人間である私は身の程知らずにも県民局長に直接こんなお願いをするに至ったという次第です。最近なんだか被害妄想気味になっていらっしゃるのではないかとも推測される組かしら会のみなさんには、もしかしたら私のお願いが単なる嫌がらせにしか思えないのではないかということを遺憾とする次第ですが。

 それに対して県民局長からは、公開意見交換会の開催趣旨にはこれといった問題はないと判断する、とのお答えをいただきました。つまり、二〇〇四伊賀びと委員会から大会議室の使用申請が提出された場合、開催趣旨という観点からそれが拒まれることはまずないだろうとの見通しが立ったことになり、あとは委員会側の決定を待つばかりとなりました。これで用件のひとつは終了です。

 で、肝心の二〇〇四伊賀びと委員会オフィシャルサイト掲示板の件。事前のメールでお願いしてありましたので、県民局長は掲示板の過去ログにざっと眼を通してくださっておりました。これは余談になりますが、ここでゆくりなくも確認されたのは過去ログがそのまま保存されているらしいという事実で、私はもしかしたら組かしら会が血迷ったあまり過去ログそのものを完全に消滅させて証拠隠滅を図っているのではないかとの危惧も抱いていたのですが、それは杞憂であったようです。

 さて、県民局長室では私が最初に十五分ほど喋り、そのあと県民局長のお話を伺ったのですが、17日付伝言にも記しましたとおり、それをひとことで要約してしまえば、二〇〇四伊賀びと委員会オフィシャルサイトの「当ホームページ掲示板の閉鎖について」に列挙された三点にわたる掲示板の閉鎖理由は正当なものであると判断する、といったことになります。伊賀県民局長という立場からすれば、これはごくまっとうで当たり前の(わざわざ断りを入れるまでもなく、あくまでもお役所においてはごくまっとうで当たり前の、という意味ですが)見解であると思われます。

 つづいて、私は委員会オフィシャルサイトに掲載された掲示板閉鎖に関するふたつの説明文をプリントアウトして持参していたのですが、まず2月に掲載されたコメントのプリントを県民局長に示しました。

掲示板は、市民の方々からたくさんのご提案をいただき、その書き込みに対応したり、また、伊賀びと委員会の委員それぞれが活発に自身担当業務の進捗状況を報告したり、思うところを自由に書き込むなどを想定していましたが、準備と周知の不足からそのような広がった展開ができませんでした。
大変申し訳ございませんが、掲示板は当分の間停止させていただきます。

 そのうえで、この文章には自分たちの都合しか書かれていない、閲覧者や投稿者に対する配慮が微塵も見られない、二〇〇四伊賀びと委員会というのは自分たちの都合しか考えず、その都合を人に押しつけて平然としている連中である、そんな連中に掲示板を開設する資格などないのだ、といった意味のことを県民局長にお伝えしました。

 つづいて7月に掲載されたコメントも示し、そのなかの下記の部分を2月のコメントと比較しながら意見を述べました。

 昨年10月当事業のホームページに、市民の民様から事業に対する幅広いご提案を頂くため、また2004伊賀びと委員会委員の意見交換や報告の場として、掲示板を開設いたしました。
 しかし、(1)市民の方からの自由な意見交換の場として機能していない。(2)委員からの情報提供や意見交換の場として機能していない。(3)好ましく無い表現や第三者の実名が書き込まれるなど、運営管理が難しい、という状況であり、本年2月に2004伊賀びと委員会として協議した結果、掲示板を当分の間停止することとし、その旨を掲示板に掲出しました。

 私の意見とは、2月のコメントには見られなかった「好ましく無い表現や第三者の実名が書き込まれる」といった閉鎖理由が四か月以上も経過したあとで新たに加えられるのはおかしな話である、掲示板では管理人によるチェックが行われていて、管理人が好ましくないと判断した投稿は削除されていたのであるから、あとからこんな理由を持ち出してきてもとても人を納得させることはできない、といったことでした。

 この点に関して附言しておきますと、あれは7月のことでしたが、二〇〇四伊賀びと委員会事務局にお邪魔して掲示板閉鎖に関する事務局の見解をお聞きしたときにも、私はやはりこの問題をとりあげ、「好ましく無い表現や第三者の実名が書き込まれる」といった事態には管理人が対応していたはずである、げんに私の投稿が削除されたこともあったのだが、私はそうした削除に異を唱えたことは一度もなく、むしろ管理人の判断を尊重する旨の投稿をそのつど書き込んでいたと記憶している、しかしこのたび新たに加えられた「好ましく無い表現や第三者の実名」に関する閉鎖理由を読むかぎり、管理人の管理に手落ちがあったと委員会が認めていることになるのだが、そう認識していいのか、いやそもそも私の投稿に持続的に「好ましく無い表現や第三者の実名」が見られたというのであれば、委員会側はなぜそうした判断を私に伝え、善処を要求しなかったのか、それが掲示板を開設した人間の責務ではないか、え、そうではないのか、といったことだったのですが、事務局側の返答は、

 「そんなん、こっちからいろいろゆうてたんと違いますのか」

 これをわかりやすく書き改めると、

 「その件に関しましては、掲示板管理者から中さんに対して好ましくない表現や第三者の実名を含んだ投稿を控えていただくようにお願いしていたはずだと思うのですが」

 といったことになります。これを聞いた私はさすがに驚き呆れひっくり返りそうになり、

 「違いますのかって、ちょっとそんなあんた……」

 と思わず口走ってあとは絶句してしまうしかありませんでした。つづきはまたあしたということにいたします。


●9月20日(月)

 きょうのメールもなんだかよくわかりません。rigyoro@yahoo.co.jp さんからこんなん来たんですけど。

私達はきっと赤い糸で結ばれているのよ。。。。
楽しいお話しましょ!
http://little-wing.biz/akaiito/

 あいにくですが、私には誰かと、とくに女性と、「楽しいお話」をしたいなどと思ったことは一度だってありません。そんな煩わしいことは真っ平ご免です。他人としたいことといったら飲むか寝るかのどっちかだ。ひとりで囀ってろばーか。

 囀る莫迦を尻目にきのうのつづき、つまり7月に二〇〇四伊賀びと委員会事務局で掲示板閉鎖に関する事務局側の見解をお聞きしたときのことですが、私の投稿に持続的に好ましくない点が見られ、それが問題だと判断したのであれば、委員会は掲示板開設者の責務としてそれを私に伝え善処を求めるべきではなかったのか、と尋ねたところ、

 「そんなん、こっちからいろいろゆうてたんと違いますのか」
 「違いますのかって、ちょっとそんなあんた……」

 といったあたりのつづきです。

 ここにおいて明らかになったのは、事務局もはたまた組かしら会も、結局は掲示板の問題を管理担当職員ひとりに押しつけて自分たちは知らん顔を決め込んでいたという事実でしょう。むろん私には、その管理担当職員から投稿内容に関して依頼や要請を受けたことなど一度もありませんでしたからその旨を伝え、嘘だと思うのならその職員に電話して確認してくれと申し添えて(というのも、掲示板管理を担当していた県職員は今年春の異動で伊賀からめでたく脱出していたからなのですが)、それにしてもひどいもんだなこの事務局はと内心あらためて呆れ返った次第でした。

 で、お話は9月16日の伊賀県民局長室に戻ります。私はそういった具合に、掲示板閉鎖に関する委員会側の主張に見られる矛盾や問題点をざっと指摘し、委員会側のいってることがいかにいい加減であるかを県民局長にお伝えすることも、時間の許す範囲内で試みておきました。むろん指摘すべき点はまだまだごろごろしているのですが、これ以上のことは県上野庁舎七階大会議室で開催されるはずの公開意見交換会でくわしく申し述べたいと思います。

 といった塩梅で、伊賀県民局長から頂戴した三十分間は瞬く間に過ぎてしまいました。ソファから立ちあがるときに腕時計を見ると、時刻は午前10時35分。県民局長から大山田村(といういかにも田舎な名前の村が三重県伊賀地域に存在しているわけです。11月1日には伊賀市になってしまいますけど)名産のおはぎのパックをいただき、私は県民局長室をあとにしました。

 おはぎを貰ったからいうのではありませんが、お目にかかりたいという私の要請に速攻で応えてくださったその点において、私は県民局長に感謝の念を抱いております。むろんこれはお役所が本来そうあるべき姿であろうとは思われるのですが、それにしても組かしら会に出席したいという私の要請を拒否しつづける組かしらのみなさんとはえらい違いです。

 組かしら会ってのはお役所以上に閉鎖的じゃねーか、何が官民合同だこの密室集団、と私は思いますが、ここで組かしらのみなさんにひとつだけお伝えしておきますと、みなさんの判断をとりあえずは追認しなければならない知事や県民局長の立場にも少しは配慮することが必要なのではないでしょうか。みなさんの誤った判断は、そのまま知事や県民局長の判断でもあると見られてしまうわけですから。まあそのあたりのことはまた、公開意見交換会の席でゆっくり語り合うことにしましょうか。

 そのあと私は、三重県上野庁舎三階の県民局長室から四階の二〇〇四伊賀びと委員会事務局に足を運びました。ドアを開けて中に入り、例によって職員のみなさんから露骨に嫌な顔をされながら『江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』(仮題)に関するちょっとした打ち合わせを行って、この日の用件はすべて終了しました。

 エレベーターで一階に降り、玄関から外に出てふと振り返ると、県上野庁舎入口のガラス部分には三重県出身のアテネ五輪ゴールドメダリスト、マラソンの野口みずき選手とレスリングの吉田沙保里選手の健闘を称える紙の垂れ幕がじつにじつに地味な感じで掲げられていました。

 もうちょっと派手にしてやってくれてもよさそうなものなのに、と私は思ったものでしたが、しかし心配はご無用。『江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』(仮題)巻頭に収録される三重県知事の序文には、ちゃんと野口みずき選手と吉田沙保里選手の名前が登場しております。よかったよかった。喜べ遠縁の娘よ。

 どんな序文だ、とお思いの方はぜひ『江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』(仮題)をお買い求めください。もうすぐ刊行です。


●9月21日(火)

 ああもう9月21日か。ということは10月21日の一か月前ではないか。10月21日には名張人外境がおかげさまで開設五周年を迎えることとなり、それまでには名張市立図書館の江戸川乱歩リファレンスブックの内容を増補訂正を加えつつすべて当サイトにアップロードしようと考えていたのですが、あと一か月でできるかな。最多安打記録の更新を射程内に入れながらここ十試合で五試合が無安打というマリナーズのイチロー選手にさも似た(全然似てませんか)状況になってしまいました。

 と申しますか、このところ伝言板に駄文を連ねるばかりでコンテンツの更新はずっとお休みのままなのですが、これはいったいどうしたことでしょう。酷暑とアテネ五輪に加えて夏バテの影響があることは否めませんが、さらにそのうえ「江戸川乱歩と大衆の20世紀展」を筆頭に記録しておかねばならぬことがばたばた重なり、それを考えるだけで疲れてしまったということもあるのかもしれません。うーん、まいった。

 なんてこといってるあいだに、三重県が天下に誇る官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」も11月21日の終幕まであとちょうど二か月となりました。総額三億三千万円を投じた百あまりの事業のうち最強のカードたる『江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』(仮題)の刊行は10月末の予定となっておりますが、本日はイベント関係の最強のカードをお知らせしておきましょう。

 中日新聞オフィシャルサイトから太田鉄弥記者の記事を引きます。

上野で来月世界俳諧フュージョン
芭蕉生誕360年で国際連句会
 俳句や連句といった俳諧をテーマにした「世界俳諧フュージョン」が十月十、十一の両日、上野市西明寺のウェルサンピア伊賀などで開かれる。芭蕉生誕三百六十年記念事業の目玉行事で、異なる芸術の融合を図る「俳諧パフォーマンス」をはじめ国際連句会、講演会などが繰り広げられる。

 連句は、複数の人が順番に「五七五」の長句と「七七」の短句を詠みつなぐ。俳句は連句の最初の長句が独立したもの。これら俳諧が、複数の人による合作の文芸だったことにちなみ、異なる芸術を融合しようと、市民有志らが企画した。

 催しを企画した市民有志のみなさんからは、二〇〇四伊賀びと委員会に関してさんざんいろいろお話を聞かせていただいたものでしたが(むろんいい話ではありません)、終わりよければすべてよし、無事開催できる運びになったことを素直に喜びたいと思います。いやよかったよかった。

 二〇〇四伊賀びと委員会オフィシャルサイトには「芭蕉生誕360年 世界俳諧フュージョン2004」が掲載されておりますので、よろしかったらこちらもご覧ください。このサイトにはいずれ『江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』(仮題)の紹介も載せてもらわなければなりませんので、ちょこっとサービスしておく次第です。


●9月22日(水)

 本日はとくに記すべきほどのことはありません。とくに記すべきことなど最初からありはしないのかもしれませんが、きょうはとりわけそんな感じです。それではまたあした。

 とかいいながらひとつだけ。数日前、ある方から「中井英夫へ捧げるオマージュ」というサイトをお知らせいただきました。どうぞご覧ください。

 それではほんとにまたあした。あーしんど。


●9月23日(木)

 先月21日の「読売 江戸川乱歩フォーラム」で授賞式が行われた「立教・池袋ふくろう文芸賞」の受賞者と選評が立教大学のオフィシャルサイトで発表されました。今月8日に掲載されたらしいのですが、ある方から教えていただいてようやく気がつき、あわててご紹介申しあげる次第です。

第一回 立教・池袋ふくろう文芸賞決定!
 立教学院創立130周年を記念し、「江戸川乱歩と大衆の20世紀展」企画の一環として「立教・池袋ふくろう文芸賞」が創設され、このたび、第一回受賞作品が決定しました。

 なお、発表および授賞式は先月21日開催の「読売・江戸川ランポフォーラム」において行われました。

【受賞作品】

<小説部門>文芸賞 「黒い鶴」鏑木 蓮
□□□□□□優秀賞 「東京のキュウリ」井川 實
□□□□□□優秀賞 「冷たい掌」桜井 正雄

<漫画部門>文芸賞 該当作品なし
□□□□□□優秀賞 「ヒトトウワサ」フクトミ ヤヨイ
□□□□□□優秀賞 「朧ミステリー」ふくりしょう嘉

立教大学 2004/09/08

 小説部門で文芸賞を受賞した鏑木蓮さんの「黒い鶴」は今月22日発売の「小説宝石」10月号に掲載されているようで、光文社オフィシャルサイトのこのページの下のほうでそれが知られます。

 一身上の都合からこのところ本屋さんを覗く余裕もないのですが、そろそろ乱歩全集の『十字路』や「小説宝石」を買いに行かなければなりません。きょうあたり行けるだろうと思っているのですが。

 そういえばきょうは「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業のひとつとして辻村寿三郎さんの「押絵と旅する男」が名張市青少年センターで公演される日なのですが、チケットの売れ行きは結構な伸び悩みと仄聞いたします。面目次第もございません。


●9月24日(金)

 昨23日、三重県が天下に誇る官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」の隠れた目玉イベントだった辻村寿三郎さんの「押絵と旅する男」が催されました。キャパ七百十四人の会場で昼夜二回の公演だったのですが、入場者数は昼の部がやや多い目にいって三百人、夜の部は同じく二百人、合計五百人で充分おつりが来るといった程度だったそうです。面目次第もございません。

 このお芝居は昨年9月6日と7日の二日間、池袋の東京芸術劇場で池袋演劇祭十五周年記念特別公演として初演された作品で、私は6日の夜には毎度おなじみ蔵之助を会場に人形芝居「押絵と旅する男」上演記念大宴会も抜かりなく設営して、いってみれば万全の態勢でこの公演に臨んだわけなのですが、そのわりにはチケットを電話予約するのが遅くなってしまいました。

 じつは私は電話をかけたりかけられたりといったことが苦手で(ケータイなんか死んでも持つものか、と思っております)、そのせいでチケットの電話予約にも二の足を踏んでいたのだろうなと思い返される次第なのですが、ようやく意を決して豊島区コミュニティセンターに電話を入れてみたところ、もう売り切れました、チケットぴあにはまだ残ってるかもしれませんけど、とのことでした。

 さあ大変です。さすがに私もあわてふためき、急いでチケットぴあに電話してみたのですが、これがあいにくと話し中。しばらく待っても話し中、さらに待っても話し中、といったところで堪忍袋の緒が音を立てて切れてしまい、いいさいいさもう頼まん、誰が頼むものか、誰がチケットなんか欲しがるものか、との結論に立ち至りました。

 それで結局、9月6日には一応上京したのですが、お芝居を観ることもなく人形芝居「押絵と旅する男」上演記念大宴会に顔を出し、翌日にはそそくさと名張へ帰る仕儀となってしまいました。ただ大宴会に出席することだけを目的に上京したのは、むろん初めての経験でした。なんかいま思い出してもわれながら莫迦みたいだったなって思います。莫迦みたいだったなっていうか、完全に莫迦なんですけど。

 そのまぼろしの舞台が一年後、まさか名張で再演されようとは。三重県が天下に誇る官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」も、これでなかなか捨てたものではないのかもしれません。


●9月25日(土)

 辻村寿三郎さんの「押絵と旅する男」は期待に違わぬ、というよりはこちらの期待をかなり上回る上々の出来の舞台でした。どんなふうに上々だったかをうまく説明できる自信はないのですが、とりあえず中日新聞オフィシャルサイトから森本智之記者の記事をどうぞ。

乱歩の小説「押絵と旅する男」を劇化
名張で上演
 名張市制施行50周年を記念し、市出身で日本探偵小説界の先駆者・江戸川乱歩原作の同名小説を劇化した「押絵と旅する男」(市など主催)が23日、市青少年センターで上演された。

 「押絵と旅する男」は、乱歩の代表的な短編怪奇小説で、押し絵に描かれた女性にあこがれるあまり、絵の世界に入り込んだ兄と弟の物語。人形師で演出家の辻村寿三郎さんが劇用に再構成し、俳優と人形が“共演”する作品に仕上げた。

 乱歩ファンにとってまず気になるのは、やはり「劇用に再構成」とか「俳優と人形が“共演”」とかいうあたり、つまり構成と演出を担当した人形師辻村寿三郎が原作をいかに捌いたかといった点になるでしょう。

 要諦は二点と見受けられました。一点は、原作の語り手である「私」を登場させず、代わりに「弟」と、かつて「兄」が消えた覗きからくり屋で呼び込みをやっていた老婆、この二人のダイアローグによって物語を進めるという趣向です。

 この老婆は辻村寿三郎オリジナルと呼んでいい登場人物で、原作に「からくり屋の夫婦者はしわがれ声を合わせて、鞭で拍子を取りながら」と記されている夫婦の片割れと見られますが、お芝居ではこの女が重要な役割を果たします。

 どんな役割かを説明するためには、原作に相当な改変が加えられたこのお芝居のストーリーを紹介しなければなりません。ネタを割るというほどのことでもありませんから、大雑把に記しておきますと──

 押絵と旅する男は、じつは押絵と旅してはいなかった。彼の兄が遠眼鏡の魔性の力を借りて押絵の世界に忍び込んでから数日後、覗きからくり屋のあった一帯は振袖火事さながらの大火に見舞われ、あたりはきれいに焼き尽くされていた。兄と八百屋お七が描かれた押絵はからくり屋の呼び込み女の手で火から守られたが、お七の顔にはわずかな焼け焦げが残った。女は、いつか邂逅するであろう弟にその押絵を手渡すため、長い時間を生き始める。

 といった塩梅なのですが、血まなこになってストーリーを追う必要はおそらくないように思われます。往年のアングラ演劇が少なからずそうであったように、このお芝居のストーリーは厳密な合理性といったものにはさして顧慮せず、ただにあの人でなしの恋、人外の恋を際立たせるためだけに存在しているからです。存在しているからですと断言していいのかなという疑問もむろんあるのですが、敢えてこのように申しあげておきます。

 ポイントのもう一点は、「私」が存在しないのですから夜汽車という場も当然存在せず、ならばと別の舞台が設定されていたことで、それはなんと竜宮城でした。弟は女によって一気に深い海の底へと拉し去られ、そこであの世にも不思議な物語、兄弟が春の午後に遭遇した生涯の大事件を語り継ぐことになります。

 私はその時、生れてはじめて蜃気楼というものを見た。蛤の息の中に美しい竜宮城の浮かんでいる、あの古風な絵を想像していた私は、本ものの蜃気楼を見て、膏汗のにじむような、恐怖に近い驚きにうたれた。

 原作に記されていた「古風な絵」をそのまま舞台上に現出させたことで、そこには押絵に描かれた人物が自由に動き回ることのできる空間が誕生したといえます。押絵という静止画像に生命を吹き込むための人形師辻村寿三郎による企みは、ここに火のようにも明らかでしょう。明らかでしょうと断言していいのかなという疑問もむろんあるのですが、敢えてこのように申しあげておきます。

 そして、もしも鏡花ファンが客席でこの舞台を見つめていたならば、彼もしくは彼女はおそらく、ああ、海神別荘、と深く頷き返していたことでしょう。


●9月26日(日)

 泉鏡花の戯曲「海神別荘」はまさしく深い海の底、「海底の琅■〔王+干〕殿」が舞台です。この世の人ではない登場人物を描いて「天守物語」や「夜叉ヶ池」と肩を並べる評判作ですが(出来としてはこの二作より少しだけ落ちるような気がいたしますが)、ネット上を検索してみたところ、日本ペンクラブの「電子文藝館」に戯曲全文が掲載されておりました。このページです。お暇な方はご一覧ください。

 なにしろ海の底の宮殿で始まって終わるお芝居なのですから、「押絵と旅する男」の舞台が突如として海底に移動する思いがけない展開に接した私が、とりたてて鏡花ファンというわけでもないにもかかわらず、なんとなく「海神別荘」を連想してしまったのもそれほど突飛なことではなかったように思われます。

 と申しますか、会場で配られたパンフレットには辻村寿三郎の「乱歩怪しの術」という文章が掲載されていて、私はそれを公演翌日、近鉄名張駅前名張シティホテル一階のレストランぐりーんどろっぷ名張店で遅い昼食をしたためながら読んだのですが(パンフレットに「世界俳諧フュージョン2004」だの「影絵フェスティバル」だの「室内楽の午後──ポーランドの風にのせて」だの「わら細工体験参加者募集」だの「マンドリンアンサンブルセシリア第13回定期演奏会」だの「怪人二十面相」だの「ジャズ・ヴァイオリン寺井尚子」だの「1日まるまる映画館」だの「市民文化オンステージ2004」だの「世界から芭蕉の里・伊賀へ、『言の葉』が集う。」だののチラシがどっさり挟み込まれているのが煩わしく、私は公演会場ではろくに開きもしなかったのですが)、そこにはこんなくだりが見られました。

 一枚の絵が動き、ひとが住むことができる世界を、泉鏡花も書いております。

 この「押絵と旅する男」を舞台化するために、改めて読みかえして、とくにこのお話は、鏡花の「海神別荘」を乱歩は意識したのではないかと私は思います。

 蛤の貝の中の竜宮城を、理想の別荘とし、親不知の名所を通して、一枚の絵にひとを住まわせているあたりは、鏡花のそれにとても符合するのです。

 鏡花の生母が当時、幕末の江戸から金沢へ嫁ぐ時のコースがこの親不知なのです。

 その先の魚津の蜃気楼の不思議を権力者の住む竜宮城と書いていますが、乱歩はその場所を白黒無色の当節の活動写真と解して、現実の人間の欲求である色彩ある押絵の艶っぽい世界を理想としています。

 もしかしたらこの「押絵と旅する男」は、人形師辻村寿三郎の鏡花リスペクト乱歩バージョンと呼ぶべき作品なのかもしれません。あるいは、蜃気楼を「白黒無色の当節の活動写真」としか見なかった乱歩に対して親愛に充ちた異を唱え、蜃気楼だってほらこんなに、とその色彩と艶とを舞台に現前させる試みであったのかもしれません。ともあれ、原作では冒頭に登場するだけの蜃気楼が、舞台では世界を構成する重要なモチーフとして扱われていたのが印象的でした。

 それから、これはついさっき「電子文藝館」の「海神別荘」に眼を走らせていて気がついたのですが、この作品にもまた八百屋お七が登場していました(私はそんなことすっかり忘れていたわけですが)。海底の公子が博士から、地上の人情と風俗を知るには史書よりもむしろ相応しいという浄瑠璃をテキストに講義を受ける場面です。このページから引用しましょう。

 公子  分りました。其はお七と云ふ娘でせう。私は大すきな女なんです。御覧なさい。何処(どこ)に当人が歎き悲みなぞしたのですか。人に惜しまれ可哀(あはれ)がられて、女それ自身は大満足で、自若として火に焼かれた。得意想ふべしではないのですか。何故其が刑罰なんだね。もし刑罰とすれば、恵(めぐみ)の杖(しもと)、情(なさけ)の鞭だ。実際其の罪を罰しようとするには、其のまゝ無事に置いて、平凡に愚図愚図に生存(いきなが)らへさせて、皺だらけの婆にして、其の娘を終らせるが可いと、私は思ふ。……分けて、現在、殊に其のお七の如きは、姉上が海へお引取りに成つた。刑場の鈴ヶ森は自然海に近かつた。姉上は御覧に成つた。鉄の鎖は手足を繋いだ、燃草は夕霜を置残して其の肩を包んだ。煙は雪の振袖をふすべた。炎は緋鹿子(ひがのこ)を燃え抜いた。緋の牡丹が崩れるより、虹が燃えるより美しかつた。恋の火の白熱は、凝つて白玉(はくぎよく)と成る、其の膚(はだえ)を、氷つた雛芥子(ひなげし)の花に包んだ。姉の手の甘露が沖を曇らして注(そゝ)いだのだつた。其のまゝ海の底へお引取りに成つて、現に、姉上の宮殿に、今も十七で、紅(くれなゐ)の珊瑚の中に、結綿(ゆひわた)の花を咲かせて居るのではないか。

 お七を鏡面のようなものとして、「海神別荘」が「押絵と旅する男」とその像をおぼろげに重なり合わせていることが、この科白から窺えるような気がします。人形師辻村寿三郎の企みも、みずから打ち明けている蜃気楼のほかにもうひとつ、十七で死にながら一方は海底の宮殿に、一方は押絵にそのまま生きている八百屋お七という娘をも火種として、ここにその姿を顕現させたのにちがいありません。ちがいありませんと断言していいのかなという疑問もむろんあるのですが、敢えてこのように申しあげておきましょう。


●9月27日(月)

 二日間にわたってざっとご紹介申しあげてきましたとおり、辻村寿三郎の「押絵と旅する男」はストーリーにかなりの改変を加えて「劇用に再構成」されたお芝居で、まさしく「俳優と人形が“共演”」することでユニークな演劇空間を提供した舞台でした。

 人形は兄とお七。これが黒衣の人形師に操られて舞台に登場し、ときに弟や老婆とからみながら生あるもののように動きます。弟と老婆の対話はテープに録音したものがスピーカーから流され、しかし舞台の役者が声を出して科白を喋ることもあるという、人形芝居らしいといえばそれらしい演出。ただし、むろん、人形には科白はありません。

 人形師辻村寿三郎は、お芝居が始まるや客席通路から自転車を引いた紙芝居屋として登場し、兄を捜して放浪する弟と遭遇、弟を舞台に誘って「押絵と旅する男」の紙芝居を披露する、といった進行をいちいち説明しても意味はありませんが、妙にそわそわと落ち着かぬ風情がじつに好ましく思われる役者として導入を務めたそのあとは、黒衣姿の人形師としてお七の人形に生命を吹き込みます。

 人形が生命を得て自在に動き回れる世界が生まれたのですから、あとはもう何がどうだって構いません。弟と老婆(つまり覗きからくり屋の呼び込みをやっていた女で、兄が押絵の世界に入ってしまうさまを図らずも目撃し、数日後の火災ではその押絵を辛くも火から守って、それを弟に手渡すために生きてきた女です)の二人によって兄の恋が語られ、火災を回想するシーンでは薄暗い舞台に恋人同士のごとく身を寄せながらうずくまって動かない二人のその頭上、真っ赤な照明を浴びたお七の人形が身を反らせ手足を顫えさせながら身も世もない狂乱を果てしなく演じつづけて、これはそのまま「伊達娘恋緋鹿子」は火の見櫓の段の再現、観客は固唾を呑んで見守るしかありません。

 さて、思いきり中抜きをしていよいよ終幕(もう終幕かよ、とかいわないでください)、浅草十二階を舞台にした人でなしの恋、人外の恋を語り終えた弟と老婆は互いに別れを告げます。老婆は大事に守ってきた押絵を弟に手渡し、弟は兄の形見の遠眼鏡を老婆に贈りました。弟は歩き始めます。どこへ? いわずと知れた蜃気楼の名所、ようやく「押絵と旅する男」になった弟はその足で魚津を目指します。

 つまりこの「押絵と旅する男」という人形芝居は、乱歩による原作の後日談ならぬ前日談という結構の作品で、しかも原作にはなかったもうひとつの恋、すなわちいつの日か邂逅するはずだった弟と老婆の、それこそ鏡花ふうな転瞬の恋をひそかに描いたお芝居だとも私には見えたのですが、ここまでネタを割ってしまっていいのかな。いや、いいんだいいんだ。ストーリーなんてほとんど関係ないんだ。お話の辻褄はあんまりわからなかったけどとにかく感動した、というのがこのお芝居の感想としては妥当なところのはずで、げんにそう話していたお客さんもありました。

 なにしろあなた、押絵を背負った弟は舞台中央で観客に背を向けて歩きつづけ、青い光に淡く照らされた遠いホリゾントでは、上手と下手に姿を現した兄とお七が紗幕の向こうで静かに静かに歩み寄るように見えます。そしてホールいっぱい音吐朗々、壁も崩れよ天井も落ちよと大音量で響き渡るのがルチアーノ・パヴァロッティの歌声だと来るんですからもうたまりませんぜお客さん。これでこの人でなしの恋、人外の恋に魂を揺さぶられない観客がいたとしたら、たぶんあなたは私と仲良くなることができないでしょう、と申しあげるしかありません。

 そんなような次第で9月23日夜、名張市青少年センターで上演された人形芝居「押絵と旅する男」は感動した観客の拍手のうちに終演を迎えました。そのあと私は、なぜか楽屋まで押しかけて辻村寿三郎さんにお目にかかることになりました。


●9月28日(火)

 私にはもとより、知り合いが舞台に立ったとでもいうのであれば話は別ですが、お芝居が跳ねたあと一面識もない人との面会を求めて楽屋に押しかける趣味などまったくありません。それがどうしてまた名張市青少年センターの楽屋に足を運び、「押絵と旅する男」の上演を終えたばかりの辻村寿三郎さんにお会いするようなことになったのか。

 この日の会場で、私はたまたまある知人と隣り合って着席していました。隣り合ってといっても、空席がかなり目立って客席は余裕たっぷりでしたから、正確にいえば空いた席をふたつ隔てて隣同士。あれこれ言葉を交わしながら開幕を待ったのですが、上演中に横から聞こえてくる拍手のタイミングからは、この知人が舞台に強く惹きつけられていることが感じられました。

 カーテンコールのときのことです。ふと気がつくと、その知人が席を離れ、魂を奪われてあくがれ惑う人のように拍手しながら舞台に歩み寄っています。舞台ではお七の人形を抱えた辻村さんが、1933年生まれとも見えぬ軽やかな身のこなしでくるりと回ったり首を傾げたり、愛嬌たっぷりの仕種で拍手に応えています。

 しかし別段それ以上のことはなく、やがて観客はいっせいに通路にあふれて出口を目指しました。そのとき、横に並んでいた知人が心底残念そうな口調で呟きました。

 「辻村先生と握手したかったわ」

 え、と聞き返すと、握手してほしかった、とくり返します。私が、握手など楽屋に押しかければいくらでもできるではないかと伝えると、けどそんなん。いやいや案ずるな、関係者に事情を説明して楽屋へ案内してもらえばいいだけの話だ。ほんま? ほんまに握手してもらえるかな。けど関係者ってゆうても。

 私は通路で出会った知り合いの誰彼に挨拶したり、これから酒につきあってくれそうなやつは見当たらんなと落胆したり、しかしこいつら芝居を観たあと酒も飲まないのだとしたらいったい何をしに来たのか、おまえら何を考えて生きておるのだと慨嘆したりしながら歩いていたのですが、しばらく黙っていたあと不意に、あ、と声をあげた知人が、見える見える、中さん関係者に見えますよ。いやそんな、見えるだけではしゃあないがな。

 たしかに見えるだけでは致し方ありません(それにしてもどんな筋の関係者に見えるというのか)。本当の関係者に話をつける必要があります。私は会場のロビーにたむろしていた名張市職員をつかまえ、これこれこうだからと経緯を伝えて案内を乞いました。すると職員の一人が、露骨に嫌な顔をしながらも私と知人を楽屋まで連れていってくれました(三重県職員であれ名張市職員であれ、私から声をかけられると露骨に嫌な顔をするのが最近のトレンドのようです。トレンドってのも古いですが)。知人は嬉しそうな顔で歩きながら、けどなんにも持ってきてへんし。

 辻村さんは着替えの最中とのことでしたが、しばらく待っているとOKが出て知人は楽屋へ。え、中さん、一緒に行ってくれへんの。いや俺は。そんなこといわんと。ほな行くけど、あ、靴、靴。いえもう土足で結構です、そのまま行ってください。あ、そう。中さん、早よ早よ。

 いやもうなんだか結構大騒ぎ。


●9月29日(水)

 辻村寿三郎さんは浴衣姿でパイプ椅子に坐り、煙草をふかしていらっしゃいました。私はぼそぼそと挨拶し、知人はさっそく握手を求めます。辻村さんは気さくに応じて、名張の人なの? そう、去年芸術劇場でやったんだけど、名張の市長さんがぜひ名張でもやってくれってことでね、だから名張のために全部つくり直して、装置なんか東京でやったときよりずっと豪華にしちゃったの、といろいろ話してくださいます。

 いいですね、名張は、静かでね、東京なんて慌ただしくていけませんよ、こうやってちょっと旅に出て帰ったらもう忘れられててね、すぐ浦島太郎になっちゃう。

 「押絵と旅する男」の再演予定をお訊きすると、東京でもまた公演したいとのことで、いつもは人形町にいますから、きょうはいないけどね、東京に用事があったら寄ってみてください。人形町というのは日本橋人形町にある「ジュサブロー館」のことで、知人は辻村さんの人形が展示してあるらしいその施設に関しても幾許かの知識があるようで、さらに会話をつづけています。

 ところで私には、ひとつだけ気になることがありました。老婆の正体です。お芝居の終幕、老婆は弟に押絵を手渡し、弟は老婆に遠眼鏡を贈って、二人がそのまま別れてしまうゆくたては先日もお知らせしたとおりなのですが、そのシーンを記憶に頼って再現してみるとこんな具合になります。

 弟、老婆に背を向けて舞台から降り、客席通路を歩いてゆく。舞台中央の老婆、それを見送っているが、やがて遠眼鏡を逆さに構えて弟の姿を覗こうとする。気配に気づいたのか、弟はいきなり振り返る。老婆、身をひねるようにして遠眼鏡を背後に隠し、あらぬ方に眼をやって空とぼける。

 「あなたはもしかして……」

 という弟の問いかけには答えようとせず、このあとのことは「押絵と旅する男」っていう小説に書いてありますよ、とても面白いお話ですから、読んだことない人は読んでくださいね、などと客席に語りかけながら、老婆は舞台奥に消えてしまう。

 記憶違いもありそうですが、だいたいこんな感じだったと思います。そして私が気になったのは、遠眼鏡を逆さにして、つまり弟の身に異変がもたらされるかもしれないやり方で弟を見ようとした老婆の魂胆であり、遠眼鏡を隠すためにあわてて二度三度と身をよじり、着物の袖を右に左に大きく振り回したときの妙にくねくねとした老婆の動作でした。老婆はこの世の人ではないのではないか。私はそんな印象を抱いてしまいました。

 ──あの老婆は人間だったんでしょうか。それともすでに魔界の眷属。

 私は辻村さんにそんなことを質問してみたい誘惑に駆られました。知人はいまは喋ることをやめ、楽屋に立ててある八百屋お七の人形に向き合って、着物の袖から覗いた小さな白い手と握手を交わしています(この知人は握手がよほど好きなようです)。楽屋には沈黙が落ちていて、質問するならいまだなとは思われたのですが、私にはとうとうそれを口にすることができませんでした。


●9月30日(木)

 ご心配をおかけしていたのかもしれません。台風21号の話です。当地には何の被害もなかったのですが、三重県には結構大変な地域もあったみたいです。中日新聞オフィシャルサイトから引きましょう。

台風21号猛威
三重で2人死亡、9人不明
 台風21号の接近による大雨の影響で二十九日、三重県では松阪市と海山町、紀伊長島町、宮川村の四市町村で計二人が死亡、九人が行方不明になった。このうち宮川村では土石流や土砂崩落が発生、七人が行方不明になるなど被害が集中した。同県災害対策本部によると、同日午後八時現在、宮川村や海山町全域など二十市町村の約三万五千世帯の約八万人に避難勧告が出ており、同本部は警戒を呼び掛けている。

 県内の惨状はきのう夜のテレビニュースで初めて眼にしたのですが、昨夜の人外境一帯にはろくに雨さえ降らなかったようで、ご心配にはまったく及びませんでした。とはいえ、三重県以外にも大変なところはたくさんあったようで、取って付けたようにお見舞いを申しあげる次第なのですが、とくに三重県よりも多い三人の死者を出した愛媛県のみなさん、いかがお過ごしでいらっしゃいましょうか。

 波だ。

と云う時、学円ハタと俯伏(うつぶ)しになると同時に、晃、咽喉(のど)を斬(き)って、うつぶし倒る。
白雪。一際(ひときわ)烈(はげ)しきひかりものの中(うち)に、一たび、小屋の屋根に立顕(たちあらわ)れ、たちまち真暗(まっくら)に消ゆ。再び凄(すさまじ)じき電(いなびかり)に、鐘楼に来り、すっくと立ち、鉄杖(てつじょう)を丁(ちょう)と振って、下より空さまに、鐘に手を掛く。鐘ゆらゆらとなって傾く。
村一同昏迷(こんめい)し、惑乱するや、万年姥(まんねんうば)、諸眷属(しょけんぞく)とともに立ちかかって、一人も余さず尽(ことごと)く屠(ほふ)り殺す。──

白雪 姥(うば)、嬉しいな。
一同 お姫様。(と諸声(もろごえ)凄(すご)し。)
白雪 人間は?
 皆、魚(うお)に。早や泳いでおります。田螺(たにし)、鰌(どじょう)も見えまする。
一同 (哄(どっ)と笑う)ははははははは。

 思わず「青空文庫」の「夜叉ヶ池」から引用してしまいました。台風がもたらした尋常ならざるあの水の猛威には、どこか魔界の眷属の高らかな哄笑が谺しているような気がしないでもありません。ははははははは。

 さて、人形芝居「押絵と旅する男」のまさしく万年姥、弟に押絵を手渡すために生きてきた覗きからくり屋の老婆は、はたして人間なのかそれとも魔界の眷属なのか。私が辻村寿三郎さんにそれをお訊きできなかったのは、あの老婆は本当は乱歩ではないのか、というじつにへんてこなもうひとつの考えが突如として頭に浮かんできたからでもありました。

 兄と弟が遭遇した生涯の大事件を一部始終すべて知悉し、このあとのことは「押絵と旅する男」っていう小説に書いてありますよ、と観客に教えられる人間がいたとしたら、それが乱歩でなくていったい誰だというのだろう。私にはそんなふうに思われたのですが、これでは辻褄も平仄もあったものではありません。

 ──あの老婆は、もしかしたら江戸川乱歩だったんでしょうか。

 こんな質問は、それこそ夢か一時的狂気の幻に基づくものであるとしかいえないでしょう。しかし公演の翌日、近鉄名張駅前名張シティホテル一階のレストランぐりーんどろっぷ名張店でパンフレットに掲載された辻村さんの「乱歩怪しの術」を読んだことにより、私はあの老婆が乱歩であったことをほぼ確信するに至りました。そこにこんなことが書かれていたからです。

 鏡花は、夜の暗闇に住み、乱歩は明るい陽だまりの中に、子供達をさそい込む、うす暗い駄菓子屋の奥にひそんでいる小さなおばあさん。

 ぼくちゃん、何がほしいの………。

 この怪しさが、とてもたまらない私なのです。

 これはそのまま私の疑問に対する回答であるにちがいない。いや、回答とまではいえなくともヒントではあるだろう。私はハンバーグランチ八百二十円也を食べながらそう考え、それが魔界の眷属であったにせよ江戸川乱歩であったにせよ、やっぱり思いきって老婆の正体を質問しておけばよかったなと悔やみました。

 しかしよく考えてみると、私が辻村さんに何も尋ねられなかったことには、質問の奇矯さもさることながら、それ以外の理由もまた大きく与っていたのかもしれません。たとえば、眼の前でちょこんと椅子に腰かけて気安く話に応じてくれている辻村寿三郎という人形師その人が、それでもどこかしら魔界の眷属に見えたからなのである、とでもいったような。

 ところで読者諸兄姉は、老婆が乱歩ってのはどうにも腑に落ちないなとおっしゃるかもしれません。それならば、「電子文藝館」の「海神別荘」から終幕を引いておきましょうか。さっきの「夜叉ヶ池」のあとを受け、またしても眷属一同の科白から──

 一同  ──万歳を申上げます。──
 公子  皆、休息をなさい。(一同退場。)

 公子、美女と手を携(たづさ)へて一歩す。美しき花降る。二歩す、フト立停まる。三歩を動かす時、音楽聞ゆ。

 美女  一歩(ひとあし)に花が降り、二歩(ふたあし)には微妙の薫(かをり)、いま三あしめに、ひとりでに、楽しい音楽の聞えます。此処は極楽でございますか。
 公子  はゝゝ、そんな処と一所にされて堪るものか。おい、女の行く極楽に男は居らんぞ。(鎧の結目を解きかけて、音楽につれて徐〈おもむ〉ろに、やゝ、なゝめに立ちつゝ、其の龍の爪を美女の背にかく。雪の振袖、紫の鱗の端に仄〈ほのか〉に見ゆ)男の行く極楽に女は居ない。

 まこと極楽とは窮屈なところで、男の行く極楽には女がいないということです。これが魔界なら、男も女も、のみならず女である男も男である女も、みんな好き放題自由気ままに生きられるはずなのですが。

 え? そんなことはとても信じられないとおっしゃいますか。それならば今度は、あの海底の博士の科白を真似てこのように申しあげておきたいと思います。

 ──心ないものには知れますまい。詩人、画家が、しかし認めますでございましょう。