2004年12月後半

●12月16日(木)

 ほかの話題でうろうろしているあいだに、乱歩生誕地碑がらみの一件でまた動きがありました。動きといっても名張市が所有者に感謝状を贈呈したというだけの話なのですが、とにかくこんな感じです。

乱歩生誕碑のある家を市へ寄贈 所有者に感謝状を贈呈 名張市
 名張市で生まれた推理小説の生みの親、江戸川乱歩の生誕記念碑のある桝田医院第2病棟(同市本町)の所有者が、「乱歩にちなんだ施設に利用して欲しい」と市に寄贈したことを受け、12月15日午後2時から市役所2階の市長室で亀井利克市長が寄贈者の長女で、同市桔梗が丘3番町に住む田中寿美さんに感謝状を贈呈しました。

 土地と建物を寄贈したのは、同医院の初代院長で乱歩と交流のあった故・桝田敏明さんの妻の壽子(ひさこ)さん。田中さんの話によると、壽子さんは常々何かに利用して欲しいと言っていたそうで、それが今年5月に大阪府高槻市へ移転したことをきっかけに、一気に現実味が帯びてきて、今回の寄贈になったそうです。

QuickTimeで動画を見る
伊賀タウン情報 YOU 2004/12/15/00:35:43

 ついでですから本日付中日新聞伊賀版からも伊東浩一記者の記事を引いておきましょう。

乱歩生誕地碑寄贈者に感謝状
名張市長が大阪の所有者に
 亀井市長は「既存の施設を生かし(乱歩にちなんだ施設に)再整備を図る方向で考えている」とし、来年二月までにまとめる「まちなか再生プラン」の中に整備方針を盛り込む意向を示した。

 さて、どうするか。といったって、私の意見は12月9日付伝言でご紹介した8日付日刊各紙の記事にも明らかなとおり、乱歩の生家を復元すればいいではないか、というものです。あすからはふたたびこの話題をつづけましょう。


●12月17日(金)

 あすからはふたたびこの話題をつづけましょう、ときのうの伝言には記したのですが、よく考えてみたらきのう16日は二〇〇四伊賀びと委員会の組かしら会に意見交換会を開いていただく日となっておりました。その話題をお届けします。

 意見交換会は昨日午後7時30分から8時10分までの四十分間、三重県上野庁舎四階の一室で開催されました。意見交換ったってこれまで当サイトで指摘してきたことを喋っているあいだに時間が過ぎ、

 「あんたらやってること無茶苦茶やん」

 みたいなことをいろいろ申しあげたのですが、予定を五分ほど超過しておしまいになりました。で、けさになって二〇〇四伊賀びと委員会事務局にお送りしたのが下記のメール。

 昨日の意見交換会ではお世話になり、どうもありがとうございました。私にとってはこれまでに自分のサイトで指摘してきたことを直接お話ししただけのことで、お集まりのみなさんからはとくにこれといった意見も頂戴できず、また事務局側の見解も従来どおり字句文言のことに問題を矮小化してことの本質を見ようとしないものに終始して、何の進展も見られない会合に終わったことを遺憾に思っております。

 きのうも申しあげましたとおり、組かしらのみなさんがおっしゃったことは言い訳にすらなっておりません。みなさんがどのような掲示板をつくりたいと思っていらっしゃったのか、それは当方の知るところではありませんが、どんなことをお思いになっていたとしても、掲示板管理担当職員ひとりにすべてを押しつけ、組かしらのみなさんが掲示板に関して何もなさろうとしなかったのは明白な事実です。

 いまごろになって間の抜けたきれいごとを並べられてもどうにもなりませんし、これ以上意見交換会を開いても意味はないでしょう。今後、当方から意見交換会の開催をお願いすることはいたしません。ただ、次回の組かしら会において、7月22日付の貴事務局宛メールでお願いしたことのご検討をいただき、諾か否かのご決定をお願いできれば幸甚です。当該のメールを以下に再掲します。

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 お世話さまです。過日は貴委員会事務局でいろいろご教示をたまわり、ありがとうございました。

 あのあと、手許に記録してあった自分の投稿や検索エンジンのキャッシュから集めた他の投稿者の投稿を読み返して検証してみた結果、貴委員会オフィシャルサイトに7月8日掲載された「当ホームページ掲示板の閉鎖について」にはとても承服できるものではないとの結論に達しました。

 閉鎖の理由として掲げられた「(1)市民の方からの自由な意見交換の場として機能していない。(2)委員からの情報提供や意見交換の場として機能していない。(3)好ましく無い表現や第三者の実名が書き込まれるなど」は、貴委員会がみずからの保身や正当化のために事実を歪曲して記したものと申しあげるしかありません。

 とくに(3)に関しましては、すべてを私のせいにして委員会側の無能力や無責任を隠蔽しようとする悪質な作為に基づいた記述と判断される次第であり、こうした説明を掲げて閲覧者を瞞着することは差し控えていただきたいと思います。

 とはいえ、貴委員会にとっては、先日事務局でお聞かせいただいたとおり、私に掲示板を潰されたというのが正直な見解であろうとも推測される次第です。したがいまして、虚偽を記すことなく掲示板閉鎖の理由を説明し、貴委員会の見解をも正しく表明するためには、「当ホームページ掲示板の閉鎖について」にある説明文の一部を次のとおり差し替えることが必要なのではないかと判断いたします。

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 しかし、(1)市民の方からの自由な意見交換の場として機能していない。(2)委員からの情報提供や意見交換の場として機能していない。(3)好ましく無い表現や第三者の実名が書き込まれるなど、運営管理が難しい、という状況であり、本年2月に2004伊賀びと委員会として協議した結果、掲示板を当分の間停止することとし、その旨を掲示板に掲出しました。

 しかし、名張市の中相作氏による投稿のせいで運営管理に重大な支障をきたしたため、本年2月に2004伊賀びと委員会として協議した結果、掲示板を当分の間停止することとし、その旨を掲示板に掲出しました。

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 上記の差し替えを行い、同時に過去ログをすべて公開していただくようお願いいたします。そうすれば、私が掲示板で働いた(と貴委員会が認識していらっしゃる)悪逆無道な乱暴狼藉を閲覧者に直接確認してもらえることになり、貴委員会が事細かな説明を掲げる必要はなくなるものと考えます。

 以上二点、すなわち、「当ホームページ掲示板の閉鎖について」の文章の差し替えと、非公開とされている過去ログの再公開とを要請いたしますので、お答えをたまわりますようお願いいたします。

 なお、頂戴したメールは当方のホームページで公開させていただきたく、あらかじめご了解をお願いする次第ですが、もしも公開に差し支えがある場合は、その旨お知らせいただければ非公開といたします。

 よろしくお願いいたします。

2004/07/22

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 以上です。よろしくお願いいたします。

2004/12/17

 あー面倒だ面倒だ。


●12月20日(月)

 二日ほどお休みしてしまいました。二〇〇四伊賀びと委員会事務局からは17日、下記のメールを頂戴しております。

 中 相作 様

 昨日はお疲れ様でした。
 時間の制約もあり、議論をなかなか深められず、申し訳ありませんでした。

 さて、お申出の件ですが、8月に下記のようなお返事を差し上げましたが、再度検討のお申出と理解してよろしいでしょうか。

中 相作 様

返事が遅くなり申し訳ありませんでした。

7月22日付けの申入れに対して、8月19日開催の組かしら会で審議させていただきましたので、次のとおり回答いたします。

 当ホームページの閉鎖理由としましては、既掲出の

(1)市民の方からの自由な意見交換の場として機能していない。

(2)委員からの情報提供や意見交換の場として機能していない。

(3)好ましく無い表現や第三者の実名が書き込まれるなど、管理運営が難しい。という3つの理由によるものであることを再確認いたしました。

 したがいまして、ご要望の閉鎖理由の差替え及び過去ログの公開はいたしかねます。

 平成16年8月20日

 で、私の返信はこんな感じ。

 メール拝受いたしました。お世話さまです。当方の17日付メールがやや説明不足だったのですが、仰せのとおり、7月22日付メールで依頼した件をあらためてご検討いただくようお願い申しあげます。

 7月22日付メールには「手許に記録してあった自分の投稿や検索エンジンのキャッシュから集めた他の投稿者の投稿を読み返して検証してみた」と記したのみで、検証の内容はいっさいお伝えしておりませんでした。むろん当方のサイトには検証の経緯を掲載してありましたので、それをお読みいただけるかと考えていたのですが、8月20日付メールでいただいた回答からは、私の検証が組かしら会の協議にまったく反映されていないことが看取されました。

 ですから私は、8月21日付メールで「私の申しあげていることが組かしら会のみなさんにはまったく理解いただけていないようです。次の組かしら会にお邪魔して、どんな莫迦にでもわかるよう直接お話し申しあげ、あらためてご協議をお願いしたいと思います」とお願いした次第です。

 したがいまして、16日の意見交換会は私が「どんな莫迦にでもわかるよう直接お話し申しあげ」る場であったわけで、ご出席のみなさんには私の見解をご理解いただけたものと認識しておりますし、ご欠席だった方にも当方の意はお伝え願えるとのことでしたから、組かしらのみなさん全員に私の考えるところをお酌み取りいただいたそのうえで、7月22日付メールでお願いしたことを再度ご検討いただきたく存じます。

 それからもうひとつ、先日の意見交換会で気になりながら、時間の制約のせいでほとんど言及できなかったことについて記します。事務局の説明能力に関する話題です。

 昨年8月、私は事業推進委員会に関する質問を事務局宛にメールでお送りし、事務局長から二度にわたって回答を頂戴しました。しかしちゃんとした説明にはなっていないと見受けられましたので、私はその返信に「これ以上いくらお訊きしても明瞭なお答えがいただけそうにありません」との所見を記し、「どうしてもお訊きしたいことが出てきたら『事業全体の責任者』でいらっしゃる知事にメールをお出しすればいいだけの話なんですから」とお伝えして、事務局の説明能力に見切りをつけたことを表明いたしました。

 とはいえ、私の質問にはたとえば「事業推進委員会と二〇〇四伊賀びと委員会との関係はどのようなものか」といったようなものも含まれており、これに答えるのは至難であろうと思われますから、この質問に答え得ないことをもってただちに事務局の説明能力を見限ったというわけではありません。

 しかし私は、たとえばこんなことも経験しております。すなわち昨年10月23日、私は二〇〇四伊賀びと委員会オフィシャルサイトの掲示板に、「これは以前木戸さんにメールでお訊きしたことでもあり、いまだにご返事を頂戴できておりませんので、この掲示板にあらためて質問を投稿する次第です」と事務局長に宛てた質問を投稿し、しかしどんな回答も寄せられることはありませんでした。事務局は説明能力を甚だしく欠いているとの結論は、私にとって、というよりは掲示板の閲覧者にとって当然の帰結であったのではないかと判断いたします。

 この点に関しましては、12月6日付で知事にさしあげた書状のなかでも、「事務局が説明能力を大きく欠いていること、というよりは事務局にも事業推進委員会の存在意義や二〇〇四伊賀びと委員会との関係性などが理解できていないことが看取されました」と当方の見解を明記しておりますので、ひとことお知らせ申しあげる次第です。

 以上、意見交換会の席でお伝えできなかったことを簡単に記しました。これだけでは説明不足だとおっしゃるのでしたら、事務局にお邪魔していくらでも補足説明をいたしますので、事務局長にその旨ご伝声いただければ幸甚です。

 よろしくお願いいたします。

 それでは本日はこのへんで。


●12月21日(火)

 年末進行真っ盛りのきのうきょうですが、12月16日夜に三重県上野庁舎で行われた二〇〇四伊賀びと委員会組かしら会との意見交換会に関してもう少々。

 結論から申しますと、あれは意見交換会と呼べるものではありませんでした。意見を交換する時間があまりなかったということもありますが、それ以上に組かしら会側に意見を交換する気がなかった、いや、そもそも組かしら会は意見と呼べるようなものを持ち合わせていなかった、というのが私の印象です。

 実際には17日付伝言にも記しましたとおり、意見交換会では私がほぼ一方的に意見を述べ立てる結果となりました。私の意見と申しますのは、委員会側が掲示板閉鎖の理由として公表している「(1)市民の方からの自由な意見交換の場として機能していない。(2)委員からの情報提供や意見交換の場として機能していない。(3)好ましく無い表現や第三者の実名が書き込まれる」との三点がいずれも正当なものではないという、以前この伝言板にくわしく記したとおりの内容です。

 たとえば(1)について私は、「自由な意見交換の場として機能していない」というのは真っ赤な嘘であって、私を含めた数人の人間が意見を交換している最中にいきなり掲示板が封鎖されたのではないかと指摘し、組かしら会側の意見を促しました。それに対する回答は、「自由な意見交換の場として機能していない」というのは、掲示板が委員会側の想定していたようなひろがりを獲得できず、数人の人間が投稿するだけの状態に至ってしまったことを意味している、というものでした。

 ちゃんちゃらおかしい。そんなことは何の理由にもなりません。自分たちの考えていたような掲示板にならなかったからといって、げんに「自由な意見交換」が進行している掲示板を予告もなしにいきなり閉鎖していいものかどうか。それにだいたい、これは(2)にも関連することなのですが、組かしら会側がひろがりとやらを持った掲示板にしたいと考えていたというのであれば、どうして自分たちが目指した掲示板をネット上に実現するべく何かしようとしなかったのか。組かしら会は何もしなかったではないか。見事に何もしなかったではないか。閲覧者が提案や質問を投稿しても、それに応接していたのは掲示板管理を担当していた県職員ただひとりだったではないか。掲示板のために指一本動かそうとしなかった人間が「委員からの情報提供や意見交換の場として機能していない」とはよくぞ申した。まったくちゃんちゃらおかしいぞ。

 ことほどさように一から十までそういった次第で、とてものことに意見交換会などと呼べる内容にはならなかったのですが、ここで要点を整理しておきますと、要するに組かしら会は、というか三重県や二〇〇四伊賀びと委員会は人の言論というものを何だと思っているのか、自分たちの考えに反対する人間の言論は弾圧してもかまわないと考えているのか、反対意見や少数意見を自由に発表できる場こそが組かしら会のいうひろがりを持った言論の場ではないのか、みたいなことを私は訴えたい。にもかかわらず組かしら会のやってることは、目先の字句文言だけをあげつらって問題の本質から徹底的に眼を背けつづけることでしかありません。

 さてそのいっぽう、意見交換会で組かしら会側から提出された話題もありました。落としどころをどこにしようかという話題でした。やっぱりそういうことなのね。つまりこの期に及んでも、組かしら会のみなさんは自分たちの面子や体面のことしか考えていないわけなんです。掲示板をいきなり閉鎖し過去ログを閲覧不能にすることで自分たちの面子や体面を守ろうとしたあの夜から、みなさん少しも変わっていないわけなのね。なんとか自分たちの面目を保ちながら幕引きに持ち込むことはできぬものかと、それが意見交換会に秘められた組かしら会側の真意だったわけなのね。ですから私といたしましては、

 「とにかくあんたらは自分たちに都合の悪いこと書かれたから掲示板を閉鎖して過去ログも閲覧不能にしたと、そう勘繰るしかないようなことをしとるねん。だいたい過去ログを閲覧不能にした理由がどこにも書かれてないやないか」

 みたいなことも申しあげ、時間切れでお開きとはなりました。当日の出席者はやや少なく、私としては組かしら全員にお集まりいただき、時間もたっぷり取ってゆっくりご意見をお聞きしたかったのですが、その意味ではいささか残念な結果となりました。ただまあ、このうえいくら意見を求めてもあまり意味はないかなという印象も抱きましたので、種々勘案いたしましたその結果、これ以上の意見交換は端折ってしまって過去ログの再公開を要請することにした次第です。

 さて年末進行年末進行。


●12月22日(水)

 いやー、きょうを入れても今年はあと十日か。どーしよーもねーなーまったく。などとぼやいていても仕方ありませんが、相も変わらぬ年末進行につき、またあしたお目にかかることにいたします。


●12月23日(木)

 天皇の七十一回目の誕生日に祝意を表したいと思います。

 天皇といえば、先日読んだ中沢新一さんの『僕の叔父さん 網野善彦』(集英社新書)に、小学生時代の中沢さんが父親の厚さんと天皇のことを話し合ったシーンが描かれていて、それはまことに興味深いものでした。

 天皇、といってもむろん昭和天皇のことですが、天皇が中沢家のある山梨県に巡幸することになり、新一少年も自動車に乗って通過する天皇を日の丸と万歳とで迎えました。

 なにかとてつもなく無垢なものが、自分の前を通り過ぎていったように感じたのである。ずる賢い政治家が自分をたぶらかそうと揉み手でお迎えしようと、人々が世俗の力を得るために自分の権威を利用しようとしているのが見え見えであっても、そんなことにはまったく無頓着な様子で超然とした静けさを保っているようななにかが、沿道に居並んだ人々に会釈をしながら通り過ぎていく。それは理屈抜きに感動的な光景だった。

 ちなみに「ずる賢い政治家」というのは金丸信ちゃんのことです。「小学生であった私は、隣で涙を流して感動している田舎の老女とまったく同じように、聖なるものが肉体性をおびている、この原始的な宗教的権威のあり方に、深く心を揺さぶられてしまったわけである」という中沢新ちゃんは、夕食の時間にそのことを話題にして、お父さんからこんなふうに叱られてしまいます。

 「ばかなことばかり言って、まったく情けない奴だ。誰よりもずる賢いのは天皇のほうじゃあないか。Kなどとは比較にならないほどずる賢いのだぞ、あの天皇は。あの天皇の指導した戦争で、いったいどれだけの人が死んだことか。その戦争を遂行するために、人民の素朴な信仰心や忠誠心を、とことん利用したんだ。二・二六事件がおこる前に、俺はあの天皇が馬上にいる姿を見かけたことがある。立派な軍人だったよ。それが敗戦からまだ何年もたっていないのに、ほんとうはけっこう若いのに今度は優しいおじいさんに変身して、全国を回って善良な人民やお前のような馬鹿な小学生をだましているんだ。もういいかげんにしろ。天皇制が日本人の頭を曇らせているんだ。戦争に負けて、ようやく愚劣な雲が晴れたと思ったら、今度はもっと別のもっとずる賢い手をつかって、人民の思考を麻痺させようとしている。天皇制を消滅させていかないかぎり、日本人に未来はないぞ」

 ちなみに「K」というのは金丸信ちゃんのことです。その場にいたお祖母さんがとりなしても、のちに名著『つぶて』を著すことになるお父さんの怒りは収まりません。

 「母さんはまだ懲りていないのかい。父さんだってこの戦争の結末を見届けていたら、自分が『神・人・動物』の中に書いたことを、断固として否定すると思うよ。父さんの言う『国体』は人民の側に取り戻さなければならないんだ。日本人は天皇制という悪夢から目を覚まさなくちゃいけない。それに子供だから愚かであっていいという理屈はないでしょう。まったくこの社会は嘘で塗り固められていて、嘘に気づかないままに大きくなってしまえば、くだらない大人になるだけだ。それはアカとかアカでないとかいうこととは関係がない。子供だろうが大人だろうが、人間はいつも目を覚ませていなけりゃいけないんだ。母さん、言っておくけどねえ、僕は社会正義を求めているだけなんだよ。イエスとマルクスは同じことを言っている。母さんもクリスチャンのくせしてつまらないことばかり言うものじゃないよ」

 この中沢家というのは網野善彦さんも含めた親戚縁者もろともにじつによく議論をする一家であったらしく、現実にこんな家族が存在したとはとても思えない、これではまるで「渡る世間は鬼ばかり」ではないか、そんな気にもさせられる次第なのですが、中沢家ほどではないにしても、当時の日本では議論したり怒ったりということがいまよりは普通に行われていたのかもしれません。

 権力が「今度はもっと別のもっとずる賢い手をつかって、人民の思考を麻痺させようとし」た結果なのかどうかはわかりませんが、「嘘に気づかないままに大きくなっ」た「くだらない大人」ばかりが増えているのはどうやら事実で、しかし「子供だろうが大人だろうが、人間はいつも目を覚ませていなけりゃいけないんだ」というのは世の真理とも呼ぶべきものでしょう。

 私などもうすっかり怒り疲れているのですが、目を覚ましていない愚かな人たちのなかにあって怒りつづけることこそが自分の務めなのかもしれないなと、2004年の天皇誕生日にそのような感慨を抱いたという事実をここに録しておきましょう。


●12月24日(金)

 ぼんやりしている。とてもぼんやりしている。頭がとてもぼんやりしている。同じくぼんやりした眼で本日付中日新聞の三重版を眺めていて、「回顧みえ2004」という連載の第三回を発見しました。太田鉄弥記者の記事です。一部を引用いたしましょう。

芭蕉生誕360年事業 「官民協働」課題残す
 従来の官がお膳立てをした協働ではなく、企画から予算要求、実施、報告まで民が主導権を握る“真の協働”を目指した。市民と県、市町村職員五十一人でつくる「2004伊賀びと委員会」が取り仕切った。

 ところが、官と民の関係はぎくしゃくし続けた。公金の支出に伴う事務書類の提出など、手間の掛かる手続きをそのまま任せられた市民は困惑した。「昼の仕事を終えてから夜に手弁当で頑張っているのだから、官でできる部分はやってほしい」「官は民をしばりつけるばかり」と不満を聞くたび、事業が無事終わるか心配になった。

 一方の官は「ここまでやるのが協働。公金を使うのだからきっちりと仕上げ、説明責任を果たしてほしい」。双方の口から「面倒なことは押しつけて、おいしいところだけ自らやっている」という不信感が出た。

 へーえ、莫迦だ莫迦だとは思っていたのですが、連中はここまで莫迦でしたか。こんな程度のことでぎくしゃくするしか能のない連中でしたか。なるほどここまでの莫迦なんですから、事業の本質と組織の根幹に関する私の質問や批判にいっさい応答できなかったのも無理はありません。と申しますか、そもそもの初めから連中の頭には三億のばらまき予算をどうするかという課題しか存在していなかったわけで、こんな事業が必要なのか、こんな組織が必要なのかという私の批判などほとんど理解不能であったにちがいありません。不憫なやつらじゃ。

 とはいえ、莫迦のやったことなんだからすべて大目に見てあげる、といったふうには世の中お話が進みません。おまえら俺が叱り飛ばしつづけてやるから覚悟しておけ、と私は思っております。礫は打ちつづけてやるからな、ということです。

 そういえば昨日、三重県知事の野呂昭彦さんからお手紙を頂戴しました。でも何か変。お手紙は財団法人三重県産業支援センターの封筒に入っていて、封筒下部に印刷された同センターの住所や電話番号などに添えて「理事長 野呂昭彦」というゴム印がぺたり。しかも配達証明つきの郵便ですから百円切手が八枚もぺたり。お手紙の内容は単なる事務連絡でしたので、「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業推進委員会に関する知事の所見をお知らせいただいたのかと喜び勇んで封を開けた私はおおきにがっかりしてしまいました。

 閑話休題。いくら礫を打っても何の効き目もないらしいのがつらいところなのですが、それでも礫は打ちつづけなければならぬでしょう。


●12月27日(月)

 また二日ほどお休みしてしまいました。25日土曜の夜には東京で『子不語の夢』刊行記念大宴会が開催されたのですが、私は野暮用のせいで名張を離れられなくてこれもお休み。ほぼドグラマグラ状態のチャカポコ天国と相成り、25日の夜にはサンタクロースのコスプレ姿で名張市内のお宅二軒を訪問、乳幼児に泣かれた以外は大受けだった次第なのですが、あわただしい年の瀬にいったい何をやっておるのか私は。

 旧里や臍の緒に泣く年の暮

 という芭蕉の句がなんとなく想起されもいたしますが、おおそうじゃ、芭蕉といえば「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業、この事業の決着はどうやら来年に持ち越されそうな塩梅です。決着というのはむろん私なりの決着ということですが、もしかしたら来年に持ち越されたうえでうやむやにされてしまうのかもしれません。

 そうは問屋が卸さんぞ、とは思いますものの、本日付中日新聞三重版の「回顧みえ2004」第六回、昨年8月に大爆発した三重ごみ固形燃料(RDF)発電所の稼働再開問題に関する記事に眼を通しましたところ、あちらこちらで問屋がすんなり卸しているらしいことが知れました。

 西山和宏記者のこの記事によれば、発電所再開に向けた住民説明会では地域住民の「爆発原因が分からないのに、なぜ安全と言えるのか」「事故を起こした当事者の言うことが信用できるのか」との声が渦巻いたにもかかわらず、県はすいすい試運転から本格稼働へ「住民理解を置き去りにしたまま」ことを進めてくださいました。一部引用いたしましょう。

RDF再稼働 住民の理解置き去り
 野呂昭彦知事が住民の声に直接、耳を傾けたのは、九月のシンポジウム一回だけ。「県の責任で安全に対処する」と強調したが、不安、批判をいなしただけに聞こえた。

 RDFを考える会の小川満美代表(四五)は「知事にはもっと早い段階で声を聞いてほしかった。再開ありきの流れをつくってからでは意味がない。住民の声は少しも届かなかった」と憤る。

 一方で野呂知事は、県議会への対応には腐心した。試運転開始では、上京していた県議の後を追って説得。住民には重い意味を持っていた本格稼働の時期は、議会の“駄々”に合い、軽く変えた。当初、考えていた日程を「聞いていない」と突っぱねられ、謝罪。「熟考」したはずの日程を撤回し、結局「本会議の代表質問直後」になった。

 八月の説明会。ごみゼロ構想について「いつ達成できるのか」と詰め寄る住民と、「二十年後を目指す」と繰り返す県環境森林部幹部が平行線を描いた。業を煮やすように、県側の有識者が「ゼロになるはずないじゃないですか」と口を挟んだ。その言葉は、幹部に向けたように思えた。発電所稼働が軌道に乗った十二月、県は案の定「埋め立てごみをゼロにするだけ」と掌(てのひら)を返した。

 住民の声に耳を傾けることなく県議会の顔色ばかり窺っている知事、誰ひとり説得できない説明を念仏のようにくり返して身内の有識者まで怒らせてしまう幹部職員。よくわかります。じつによくわかります。そんなことを何度も何度も経験したような気さえいたします。県議会なんてのが住民の安全ではなく自分たちの体面しか考えない連中の集まりだろうということも容易に想像がつきますし、ほんとにやってられませんねRDF発電所の地元である桑名市多度町のみなさん。

 県民の生命に関わる問題ですらここまでほいほい問屋が卸してしまうわけなんですから、たかが血税三億どぶに捨てただけの「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業のことなんて問屋は三重にも歯牙にもかけんでしょう。だからといってうやむやにされっぱなしで黙ってるわけにもまいりませんので、まあ自分にできるだけのことはしておこうかなと愚考している年の暮れ。

 ところで芭蕉がなぜ年の暮れに泣いたのかと申しますと、幼時や父母が思い出されて懐旧の涙にくれたのであるとするのが一般的なのですが、そうではなくて、こんな臍の緒一本で死ぬまで伊賀みたいな土地に結びつけられているのはたまらんな実際、と考えて芭蕉は思わず涙したのではないかと私は見ております。切々たる実感とともに。


●12月28日(火)

 官庁御用納めの日となりました。県民の声にまったく耳を藉そうとしない知事と職員がごろっちゃらしているわれらが三重県庁も、たぶんあす29日から1月3日までは年末年始のお休みでしょう。お休みのあいだにものの道理と人の道というものをお勉強しておいてほしいものです。

 しかし私も何ゆえあって知事だの県職員だのといった手合いをここまで相手にしなければならぬのか。そもそも私はこの「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業では、江戸川乱歩と小酒井不木の往復書簡集を刊行するための予算が獲得できればそれでよろしく、あとはお役所と地域住民が何をやろうと知ったことではありゃしませんと構えていたのですが、それにしてもことの経緯があまりにもひどすぎ、しかもひどすぎることに異議を申し立てる人間がひとりも存在しなかったものですから、ついついこんな羽目になってしまったという寸法です。

 いま振り返ってみますならば、私にはこの事業を批判するために時間と労力をめちゃくちゃ空費してしまったなという印象が拭いがたいのですが、逆に得たものも少なからずあり、たとえば私は三重県の職員とはほとんどつきあいがなかったのですが、この事業の関係で県職員の方ともお近づきをいただき、あ、県職員といえば朝日新聞オフィシャルサイトの三重県のページにこんな記事が。

県職員満足度 やや上昇傾向
 県と県職員労働組合が合同で行う「職員満足度アンケート」の今年度の結果がまとまった。内容に大きな変化はなかったが、満足度は59・33点と昨年度に比べ、1・35ポイント上昇した。2年目に入った野呂昭彦知事体制への「評価」と考えられるかどうか。

 この記事によれば本庁の部局別集計でもっとも満足度が低かったのは「今年度新設された防災危機管理局」だったそうで、今年はあれだけ台風が上陸して地震にも見舞われたのですから防災危機管理局スタッフはそのストレスだけでも大変なものでしょうけれど、そんなことはともかくとして、伊賀地域住民のあいだでは「いたちの最後屁」を放って伊賀県民局長から防災危機管理局長に転じたと評されていないでもない方ともお近づきをいただき、へーえ、県の幹部職員ってのはこんなんやったんかと身をもって知ることができたのはありがたいことでした。

 先月発行された白川一郎さんの『自治体破産』(NHKブックス)にこんなことが書かれています。念のために記しておきますと、自己破産ではなくて自治体破産です。

 既存の都道府県制ではなく、道州制が提唱されているが、その意味するところは、都道府県の合併という方向である。現在、国はしきりに地方自治体の合併を促進しているが、むしろ都道府県レベルでの合併を促進し、それによって日本の地域をいくつかの基礎的な単位にまとめていくことも一つの方向である。松山幸弘氏(富士通総研)がこの点を明快に述べている。氏によれば、「都道府県がこれまでそれなりの役割を果たしてきたことは評価できる。しかし、IT時代の到来により各産業で起きているディスインターミディエーション(今まで取引にかかわっていた中間業者を排除すること)から行政サービスも免れることはできない」として、卸機能をになう都道府県の統合を示唆している。現在、四七ある都道府県を一〇分の一程度に縮小することも可能であろう。

 それが道州制と呼ばれるか、連邦制と呼ばれるかは別として、これらの基礎的な地域政府をベースとして、これまで中央政府がもっていた主権を移譲し、彼ら自身が自らの責任において、行政あるいは財政運営を行なっていくことによって、本来期待されてきた地方分権も可能になると思われる。地域のことは地域住民が決めていくことが、本来期待される地方分権の姿である。そうであるとするならば、それは自らの責任において決定していくということを意味する。高齢化社会に突入した日本の経済社会において、しかも乏しい財源をどのように分配していくかは、地域住民が最も関心をもっている事柄であり、同時にどのようなニーズに優先順位がつけられるべきかも地域住民が最もよく承知していることなのである。国から全国一律に同じことを押し付ける時代ではない。同時に、政策の決定は選択であるという重要な事実も忘れてはならない。限られた財源の下での、政策決定は、「あれもこれも」ということではなく、「あれか」「これか」の選択になるという点である。

 現実に、政策を実施している自治体の人から、地域住民に政策に関連してその参加を促しても、なかなか参加しようとしないという不満の声をよく聞く。こうした問題も、これまでの国と地方の関係から説明が可能である。自治体がどんなにまずい財政運営をやろうと、自分たちの生活に直接関係してこないなら、地域住民が自治体の政策に関心をもたなくなるのは当然である。しかし、自分たちが払った税金で地域の行政がまかなわれているということになると、ことは別である。自分たちの住んでいる自治体の行財政運営が直接間接に自分たちの税金にからんでくるとしたら、放っておいても住民は自治体の政策に関心をもたざるを得ない。

 あーこれこれ三重県関係者のみなさんや。ここに示されているのはあくまでも著者である白川さんの見解なのですが、少なくともこうした主張が展開される時代にみなさん方は生きているわけです。

 上記引用の第一段落には、都道府県という卸があまり必要ではない時代になりつつあると書かれています(そうは問屋が卸すめえ、という場合の問屋がなくなりつつあるということですね)。第二段落には、地方分権の流れや乏しい財源の分配といった問題に照らしながら政策は地域住民自身によって選択されなければならないと記されています。第三段落には、行財政が税金でまかなわれていることをよく認識すれば地域住民はいやでも政策に関心をもつようになると述べられています。

 で、こんなことを申しあげるのは甚だ心苦しい次第ではあるのですが、前知事のばらまきプランをそのまま無批判に受け継いだこの「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」という事業は、事業関係者が計画決定のプロセスや予算の詳細をはじめとした事業の内実を徹底的に隠蔽しつづけてきたという手法の問題、さらには知事が事業推進委員会のトップとなって事業に直接的な関与をつづけてきたという組織の問題も大きく与って、上記引用に示されているような時代の流れに明らかに逆行するものであったということはみなさんにもよくおわかりでしょう。まだおわかりにはなりませんか。

 じつに困ったものですが、今年の三重県ネタはきょうでおしまいといたしましょうか。三重県関係者のみなさんや、どうぞよいお年をお迎えください。来年もよろしくお願いいたします。


●12月29日(水)

 今年の三重県ネタはきのうでおしまいにしたつもりだったのですが、二〇〇四伊賀びと委員会事務局からメールを頂戴しましたので、とりあえず本日も三重県がらみのネタとなります。

 中 相作 様

 いつもお世話になります。
 また、本年は当事業に御協力いただき、有難うございました。

 さて、中さんから昨年12月と、本年11・12月にお申出をいただいておりました件につきましては、大変遅くなり恐縮ですが、別添ファイルのとおり回答させていただきます。
 なお、内容は公開していただいても差し支えありません。

 よろしくお願いいたします。

 公開していただいても差し支えありません、とのことなのですが、差し支えはおおいにありましょう。私は三重県民の一人として、三重県の知事だの職員だのがとんでもない連中ばかりだという事実を広く世に知らしめるのを必ずしも喜ばしいことだとは考えていないのですが、せっかくのお言葉ですからほいほい公開することにいたしましょう。

 添付ファイル一通目「(1)03.12回答」の内容は次のとおり。

   中 相作 様

いつも貴重な御意見をお寄せいただき、有難うございます。

2003年12月10日付けで三重県知事に対しお申出のありましたことについて、大変遅くなり申し訳ありませんでしたが、事務局(生活部芭蕉さん・秘蔵のくにプロジェクト)がお答えいたします。

中さんから、三重県知事に面会のうえ、「生誕360年 芭蕉さんがゆく 秘蔵のくに 伊賀の蔵びらき」事業推進委員会 (以下「推進委員会」といいます。)の会長退任を勧告し、中さん自ら会長に就任されることを要請したいというお申出をいただきました。
しかし、推進委員会は、「生誕360年 芭蕉さんがゆく 秘蔵のくに 伊賀の蔵びらき」事業を三重県をあげて推進するため、事業推進協議会(会長 上野市長)から移行し、三重県知事を会長として平成15年8月に設置されたものです。
こういう経緯から三重県知事が会長を退任すること、及び中さん自ら会長に就任されることは、組織運営上困難であります。つきましては、推進委員会設立の趣旨を御理解いただきますようお願いいたします。

 平成16年12月28日

「生誕360年 芭蕉さんがゆく 秘蔵のくに 伊賀の蔵びらき」
事業推進委員会事務局
2004伊賀びと委員会事務局
局長 木戸 博

 開いた口がふさがらぬ、とはこういう状態をいうのでしょうか。唖然としました。茫然としました。愕然としました。何なんでしょうかこの回答は。たしかに私は昨年12月10日、三重県庁の知事室チームへ下記のごときメールを送信いたしました。

三重県庁知事室チーム御中

 どうもお世話さまです。以前、「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業のことでメールをさしあげた者です。同事業のことでぜひ知事にお目にかかりたく、ご手配をお願い申しあげる次第です。知事は先週、同じくこの事業のことで伊賀地域住民とお会いになられたと仄聞いたします。折悪しく定例会開会中で、ほかにもご多用のこととは拝察いたしますが、十分か十五分ほどお時間を頂戴することは可能ではないでしょうか。

 用件は、本来であれば「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業に関して疑問点を質したいところなのですが、知事はこの事業のことを何ひとつご存じないようですから、事業に関する質問などという無意味なことに時間は割きません。知事に同事業推進委員会の会長を退任されるよう勧告し、会長権限で私が新会長に就任できるよう差配していただくことをお願いしたいと考えております。

 この件に関する私の見解は下記の掲示板に投稿しておりますので、知事にもぜひご一読いただきたく存じます。

http://www.iga2004.jp/bbs/bbs.php

 むろん知事に直接お会いできなくても、上記の件に関してメールでご回答を頂戴できればそれで用は済むのですが、これまでの経験から申しあげて、メールではまともなお答えがいただけないであろうと思われる次第です。

 とりあえず、事業推進委員会が開催される今月下旬までにお会いいただけるのかいただけないのか、その点についてメールでご回答を頂戴できれば幸甚です。なお、ご回答は当方のホームページ(http://www.e-net.or.jp/user/stako/)で公開させていただきますので、あらかじめご了解いただきますようお願いいたします。

 まことに勝手なお願いで知事にも貴チーム各位にも申し訳なく思う次第ですが、なにとぞご高配をたまわりますようよろしくお願い申しあげます。

2003/12/10

 知事室からはこのメールに対する回答が寄せられませんでしたので、私は知事室に電話を入れました。私の要請は生活部で検討しているところであり、追って生活部から回答することになるとの返答がありました。その返事がこの「(1)03.12回答」だということになるのだろうと思われます。三重県庁における「追って」という語は一年後のことを意味するもののようです。

 しっかし気は確かかこら、こんな回答に何の意味があるんだ、たったこれだけのこと答えるのにどうして一年もかかってんだ、といった腹立ちはさておいて、それにしてもこれはいったい何なのでしょうか。私は知事室に対して「ぜひ知事にお目にかかりたく、ご手配をお願い申しあげる次第です」と要請しました。それに対して回答するというのであればまず面会の諾否を伝えてこい。「中さん自ら会長に就任されることは、組織運営上困難であります」などという僭越なことを抜かすな。県職員風情が要らざる差し出口をするなというのだ。組織運営上困難であるからこそこちらは知事と直談判し、事業と組織の実態を伝えたうえで知事の判断を仰ごうと考えたのではないか。そんなこともわからんのか。

 こんな回答をまともに相手にするのはつくづく莫迦らしいことなのですが、事務局にとって何かの参考になればと考えてもう少しつづけることにいたしますと、「こういう経緯から三重県知事が会長を退任すること、及び中さん自ら会長に就任されることは、組織運営上困難であります」といったあたりには、事務局の説明能力のなさがよく示されております。いくら「経緯」を説明してみたところで、それが「知事が会長を退任すること」や「中さん自ら会長に就任されること」が不可能であるという事実の証明や説明にはなりません。そんなこともわからんのか。

 それからまた「推進委員会設立の趣旨を御理解いただきますようお願いいたします」というのもちゃんちゃらおかしい。そういう科白はちゃんとした説明能力を身につけてから吐け。「推進委員会設立の趣旨」なんてものがてんで理解できないからこちとら事務局にそれを質問し、明瞭な説明が返ってこないからかりかり怒っていたのではないか。委員会の存在はまったく無意味だとしか思えないから知事に会ってその点を質しそうとしたのではないか。そんなこともわからんのか。

 だいたい何なんだこの文書は。文章のなかには「事務局(生活部芭蕉さん・秘蔵のくにプロジェクト)がお答えいたします」と記され、にもかかわらず末尾には「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業推進委員会事務局と二〇〇四伊賀びと委員会事務局の名前が併記されていて、おおきに理解に苦しむではないか。組織機構を複雑にするのはお役所における責任回避の第一歩なのであるが、あーもうこんなこといちいち書いているのがあほらしい。

 次、添付ファイル二通目「(2)04.11・12回答」の内容は次のとおり。

   中 相作 様

いつも貴重な御意見をお寄せいただき、有難うございます。

2004年11月23日付けで当事務局に対しお申出がありましたことについて、お答えいたします。
併せて、2004年12月6日付けで三重県知事に対し同様のお申出のありましたことについて、お答えいたします。

まず、「生誕360年 芭蕉さんがゆく 秘蔵のくに 伊賀の蔵びらき」事業推進委員会(以下「推進委員会」といいます。)に、一般の地域住民の方が意見を述べる機会を設けること及び委員全員に見解を聞くことの可否につきましては、次のとおりです。

「推進委員会は、団体としての意思決定機関であり、公聴会や住民の方との意見交換会ではありませんので、一般住民の方が委員会や個々の委員に対し、直接意見を述べる場ではありません。
ただし、議事は公開しており、住民の方が傍聴したり、推進委員会に書面等で意見をお寄せいただくことは結構です。それに対しては、推進委員会として書面等でお答えすることとなります。」

また、お尋ねの、事業推進委員会の存在意義や、2004伊賀びと委員会との関係性については、平成15年にお答えしたとおりでありますが、改めて御説明いたします。

「推進委員会は、「生誕360年 芭蕉さんがゆく 秘蔵のくに 伊賀の蔵びらき」事業を三重県をあげて推進するため、事業推進協議会(会長 上野市長)から移行し、三重県知事を会長として平成15年8月に設置されたものです。
そして、世界に誇りうる俳聖・松尾芭蕉の生誕360年にあたる2004年に、自然や風土、歴史、文化といった伊賀や三重のあらゆる魅力を360度の全方向、すなわち、全国、そして世界に向けて発信することにより、現代に望まれる「こころの豊かさ」が実感できる地域づくりを行い、歴史文化や自然を活かした個性豊かな地域づくり・人づくりにつなげるとともに、伊賀そのもののブランド化を図ることを目的としています。
推進委員会は、事業計画及び予算、事業報告及び決算の承認等事業の方針・方向性を決定するとともに、2004伊賀びと委員会の事業の企画・実施に対しバックアップ、支援する機関です。
従いまして、こうした役割分担のもとで、この事業全体についての責任は推進委員会が負うものでありますが、2004伊賀びと委員会は、事業推進委員会の中にあって主体的・自立的に事業の企画・運営の役割を担っています。」

お寄せいただきました御意見は、今後の参考にさせていただきます。今後ともよろしくお願いいたします。

平成16年12月28日

「生誕360年 芭蕉さんがゆく 秘蔵のくに 伊賀の蔵びらき」
事業推進委員会事務局
2004伊賀びと委員会事務局
局長 木戸 博

 腰抜けまっせ実際、なんでこんなん相手にせなあきまへんねん、なんぼなんでもこらちょっとひどすぎんのとちゃいまっか、といった呆れ返りはさておいて、「推進委員会は、団体としての意思決定機関であり、公聴会や住民の方との意見交換会ではありませんので、一般住民の方が委員会や個々の委員に対し、直接意見を述べる場ではありません」なんてことはこっちだってよくわかってるの。よくわかってるから委員会のトップである知事に対して、「次回の事業推進委員会に一般の地域住民が意見を述べる機会を設けてはいただけないでしょうか」とわざわざお願いしたわけなの。そうしたらば知事は例によって私への回答を説明能力皆無の事務局にすっかり丸投げしてくださったと、要するにまたしてもそういうわけなのね。恐るべし丸投げ知事。いやむしろ、天晴れ丸投げ知事と申しあげるべきでしょうか。丸投げしてる姿が丸裸になってるのに少しも懲りない丸投げ知事に幸多かれと祈りたいところなのですが、いつまでこんな茶番をつづけていれば気が済むというのか。ほんとに困った人たちだなあ。はははははは。

 笑ってばかりもいられません。ともあれ「推進委員会に書面等で意見をお寄せいただくことは結構です(引用者註:結構です、ってのもなんだかなあ)。それに対しては、推進委員会として書面等でお答えすることとなります」とのお言葉をいただいたのですから、知事をはじめとした委員全員の方から書面で回答を頂戴するべく、年が明けたら事務局宛にその旨お願いすることにいたしましょう。どうせ丸投げされた事務局から意味不明の回答が返ってくるだけの話なのでしょうが、それはそのまま事業推進委員会が私の鉄壁の論理を崩せなかったことを意味しており、すなわち委員会はみずからの存在に意味がなかったことを認めてしまう結果となります。事務局にとってはあるはずのない説明能力の見せどころになるでしょう。死ぬ気で奮励しなさい。

 さてこのへんで、事務局の欺瞞をちょこっと指摘しておくことにいたしましょう。添付ファイル二通目「(2)04.11・12回答」には、上記引用でもご覧いただきましたが、「事業推進委員会の存在意義や、2004伊賀びと委員会との関係性については、平成15年にお答えしたとおりでありますが、改めて御説明いたします」としてこんなふうに記されております。

推進委員会は、「生誕360年 芭蕉さんがゆく 秘蔵のくに 伊賀の蔵びらき」事業を三重県をあげて推進するため、事業推進協議会(会長 上野市長)から移行し、三重県知事を会長として平成15年8月に設置されたものです。
そして、
世界に誇りうる俳聖・松尾芭蕉の生誕360年にあたる2004年に、自然や風土、歴史、文化といった伊賀や三重のあらゆる魅力を360度の全方向、すなわち、全国、そして世界に向けて発信することにより、現代に望まれる「こころの豊かさ」が実感できる地域づくりを行い、歴史文化や自然を活かした個性豊かな地域づくり・人づくりにつなげるとともに、伊賀そのもののブランド化を図ることを目的としています。
推進委員会は、事業計画及び予算、事業報告及び決算の承認等事業の方針・方向性を決定するとともに、2004伊賀びと委員会の事業の企画・実施に対しバックアップ、支援する機関です。
従いまして、こうした役割分担のもとで、この事業全体についての責任は推進委員会が負うものでありますが、2004伊賀びと委員会は、事業推進委員会の中にあって主体的・自立的に事業の企画・運営の役割を担っています。

 たしかに私は昨年8月18日付メールで事務局の回答を頂戴しておりますが、上記引用にある説明とは内容が微妙に違っているような印象が否めません。上に紺色の文字で示したのが昨年8月の回答には見られなかった文言で、たとえば事業推進委員会が「事業計画及び予算、事業報告及び決算の承認」を行うなんてことはひとことも触れられていませんでした。たぶん事務局もそんなことはご存じなかったんでしょう。はははははは。

 笑ってる場合ではありません。論より証拠。事務局から届いた8月18日付メールの関連部分を「人外境主人伝言」から引いてみましょう。「伊賀百筆」第十三号をお持ちの方は262および263ページをご覧ください。「質問」とあるのは私が事務局に投げかけた質問のこと、「A」はそれに対する事務局の回答です。

(質問 2)
事業推進委員会が目的とするものは何か。

A 事業推進委員会は、世界に誇りうる俳聖・松尾芭蕉の生誕360年にあたる2004年(平成16年)に、自然や風土、歴史、文化といった伊賀や三重のあらゆる魅力を360度の全方向、すなわち、全国、そして世界に向けて発信することにより、現代に望まれる「こころの豊かさ」をこの地に描き、歴史文化や自然を活かした個性豊かな地域づくり・人づくりにつなげるとともに、伊賀そのもののブランド化を図ることを目的としています。

(質問 3)
事業推進委員会が目的を達成するための具体策はあるのか。

A 事業推進委員会は事業の方針を決定するとともに、2004伊賀びと委員会の事業の企画・実施に対しバックアップ、支援する機関であり、両委員会それぞれが主体的に役割を担って進めて参ります。

(質問 5)
事業推進委員会と2004伊賀びと委員会との関係はどのようなものか。前者は後者の上位機関か。

A 上位・下位の関係というより、事業推進委員会の中にあって主体的、自立的に事業を企画・実施するのが2004伊賀びと委員会です。

(質問 6)
「生誕360年 芭蕉さんがゆく 秘蔵のくに 伊賀の蔵びらき」事業の最高責任者は誰か。事業推進委員会の会長である知事か。2004伊賀びと委員会の代表には事業に関して何の責任も権限もないのか。

A 事業全体としての責任者は会長である知事です。事業の企画・実施主体が伊賀びと委員会で、伊賀びと委員会は具体の事業の企画・実施に対して責任を負います。

 なんか変、とっても変、いってることがびみょーに変わってきてるじゃない、とあなたはお思いになりませんか。私は思います。そして事務局による欺瞞の匂いを嗅ぎつけます。しかし欺瞞といってしまうのは酷かもしれません。少なくとも事務局にはそんな自覚はなかったことでしょう。自覚もなければ考えもなく、なんだか自分たちの立場がまずくなってきたみたいだからこそこそ小細工を弄してみたんですけどその結果いよいよまずい立場に追い込まれてしまいました、みたいなことばかりこの事務局はやってきたわけなんですから、いい加減に気づけよ事務局、いい笑いもんじゃねえかおまえら、ほんとに嗤われてんだぞ。

 なんか寒いと思ったら、きょうは朝から雪の年末。予定していた亡父の墓参を中止して、ぼんやり雪見酒と洒落込みたいところです。


●12月30日(木)

 何にしても恐れ入った話で、恐れ入るというよりはとても正気の沙汰とは思えない次第なのですが、去年の12月に提出した要請に対していまごろ回答をよこしてくるなどというのは、よほど頭のいかれた人間でなければできることではありません。しかも要請というのは去年の12月下旬までに知事に会わせろというものだったのですから、いまごろになって回答も何もないではないか。いやー、まーた腹が立ってきた。

 たしかに私は今月の4日、宮村由久さんとかおっしゃる県の生活部長にメールをさしあげ、昨年12月の一連の経緯を説明したうえで、「この件に関するご意向なりご事情なりをメールでお知らせいただければ幸甚です」とお願いしました。もしもこれを受けてきのうご紹介した回答が寄せられたのだとするならば、どうして回答がここまで遅くなったのか、それを説明することが必要でしょう。私は昨年12月に生活部から回答がなかったという事実の背後にどんな意向や事情があったのかとお訊きしたのですから、じつはかくかくしかじかでと説明するのが普通ではないか。

 それを何なんだ莫迦。ろくに説明能力もなければ状況判断も満足にできず、県職員の務めは知事の顔色を窺うことでございますと露骨に顔に書いてあるような腐れ役人がいったい何様のつもりか。説明すべきことはひとことも口にせず自分たちの都合ばかりを臆面もなく並べ立てる、その場その場の思いつきだけできょうは左といいあすは右と述べて県民を瞞着しようとする、そんなことが平気でまかり通ってきたのかこの三重県では。県民を愚弄するのもいい加減にしろ。県民から質問や批判を突きつけられても知事は丸投げをつづけて逃げ隠れするばかり、丸投げされた事務局はその場しのぎの言い逃れでことを収めようとしてかえって事態を悪化させる、こんな猿芝居はいい加減にしておけというのだ。

 やれやれ、三重県ってのはほんとにどういう県なんでしょうか。つくづく呆れ返ってしまいます。いいたいことはまだ山ほどもありますものの、三重県の莫迦は年が明けてからまたあらためて叩くことにして、本年の三重県ネタは今度こそこれでおしまいということにいたします。知事をはじめとした三重県関係者のみなさん、どうぞよいお年をお迎えください。

 さてつづいては当地名張の話題なのですが、このところ話の流れがすっかり錯綜してしまい(以前からそうであったような気もしますが)、11月の乱歩関連イベントの報告も中途半端に終わってしまいました。掲示板「人外境だより」では「乱歩狂言」の模様を詳しく伝えるようにというリクエストも頂戴していたのですが、怱忙に紛れて果たすことを得ませんでした。どうも相済みません。

 仕方ありませんから一計を案じ、本業のほうで少し前に書いた原稿の一部を転載して責を塞ぐことにいたします。

 二〇〇四年は名張出身の作家、江戸川乱歩の生誕百十周年だった。芭蕉生誕三百六十年記念事業では乱歩関連行事もくりひろげられ、十一月のフィナーレイベントでは名張の町に怪人二十面相が出没、乱歩生誕地をアピールした。

 おもなところを挙げてみると、九月には辻村寿三郎さんの演劇「押絵と旅する男」が人形と俳優の共演による幻想的な舞台で観客を魅了し、十一月には同じ原作を大蔵流の茂山七五三さんらが新作狂言に仕立てて伝統芸の奥深さを示した。同月、地元のおきつも名張劇場は「怪人二十面相」を上演、東京からも乱歩ファンが駆けつけた。

 なかでも話題を呼んだのが、十一月に開かれた「乱歩が生きた時代展」。会場の名張市総合福祉センターには、乱歩が残したスクラップによる自分史『貼雑(はりまぜ)年譜』がパネルで展示され、多数の写真や映画ポスターとともに乱歩の生涯を紹介した。

 新町にあった乱歩の生家を約十五分の一の大きさに復元した模型も出展された。制作はつつじが丘七番町の井上昭さん(元奈良芸術短期大学教授)。『貼雑年譜』に描かれた平面図だけを頼りに、生家跡に通って周辺の建築物を調査、柱の高さや屋根の傾斜などの細部までほぼ完全に割り出したという。

 まあそんなようなところです。

 一連の乱歩イベントのなかで個人的にもっとも印象に残っているのは、私にとってコスプレ二日目の11月13日、毎度おなじみ清風亭で開かれた『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』刊行記念大宴会において、わざわざ東京からおいでくださった小酒井美智子さんが、小酒井家に保管されていた不木宛乱歩書簡が散逸した経緯をおおよそ話してくださったことで、乱歩書簡は小さな行李に入れて大切に保存されていたそうなのですが、それを失ってしまったことをお詫びしますと美智子さんが小さな声でおっしゃったときには、日ごろ鬼と呼ばれるこの私もさすがに悄然としてしまいました。そうか、それならもっと早い時期に平井家と小酒井家の双方に往復書簡集の公刊をお願いしておけばよかったのではないか、そしたらほぼ完全な往復書簡集ができたはずなのに、いやー、いかんいかん、とみずからの不明にも思い当たりましたし。

 その『子不語の夢』、おかげさまにて江湖の読書子に快哉を叫んでいただいたり三歎これを久しくしていただいたりしているようで、出版に関するもろもろの報告もいたさねばならぬわけなのですが、本日のところはこのへんで失礼いたします。


●12月31日(金)

 大晦日を迎えました。大つごもりです。

 今年の三重県ネタはきのうでおしまいにしたつもりでいたのですが、もういっちょ行っとくことにいたします。昨日付中日新聞三重版にこんな記事が出ておりましたので。

野呂知事“陳情”やめません
国予算編成で上京
 地方分権を促す三位一体改革を軸に、「国」対「地方」の構図が鮮明になった二〇〇四年。廃止を求める補助金をねだれないバツの悪さに、財政難で大型事業に乏しいことも加わり、国の予算編成について地方の長が霞ケ関へ「陳情」に回る光景は減った。だが野呂昭彦知事は今年も二回「要望」に回り、来年度もやめないつもりという。知事自身が上京する効果とは−。 (小嶋 麻友美)

 知事は今年、省庁が財務省に概算要求する前の五月と、財務省が予算案を編成する前の十一月に上京。予算要望と政策提言を記した冊子を用意し、知事は事務次官以上、各部局長らも事務レベルを回った。

 こうした活動はかつて「予算陳情」と呼ばれ、全国の自治体が行っていた。だが地方分権の流れで近年は減少。富山県は今年、「税源移譲を求める立場上、効果も整合性もない」とやめにした。

 11月には「六府省庁で大臣や副大臣、政務官など約四十のポストを巡回したが、本人に会えたのは三分の一足らず」だったとのこと。この知事は何をへこへこしておるのかと私は思います。自分の立場がわかっておるのか。

 これは12月27日に行われた知事の定例会見に基づく記事みたいですから、三重県のオフィシャルサイトからその会見内容を引いておきましょう。

(質)三位一体改革の関係で、特に知事会、国と地方のいろいろな対立というかアピールがあったせいで、予算編成後のお礼参りとかそういうのは全国的になりを潜めたというか少なくなっているようなんですけれども、知事が5月と11月に行われている陳情というか政策提言という形ですが、あれ知事ご自身が上京されてやるというのを来年度以降見直すとかそういうことは考えてらっしゃいませんか。
(答)私としては、いろんな項目によるんでありましょうけど、本来的に地方がやるべき事については地方にきちっと財源まで移譲されるというような形の中で、旧来タイプの陳情などというものについては今後なくしていかなければならないと、こういうふうに思っています。そういう意味ではもう随分今そういうものについても少なくなってまいりました。どちらかというと三重県の場合には提言であるとか、陳情というよりも政策的に要望しているというようなことにできるだけ力を入れ、そういったところに絞ってきているところでございます。

 このあと記者から「ご自身が上京して渡すという意義はあると」との質問が出され、知事は「これはやはり、しっかり訴えなければならないことについてはしなければならないケースもあるでしょうね」とお答えなのですが、そんなことはないでしょう。知事がへこへこ霞が関にお参りしなければならぬような旧来のシステムそのものを変えなきゃならんというのが全国知事会の共通認識ではないのでしょうか。国と都道府県が対等の関係になりますようにと七夕様の短冊にそんな願いを書いたのはおまえたちではなかったのか。ケースがどうのこうのと目先の損得だけ追っかけてる場合か。何なんだその因循姑息な態度は。陳情などという旧弊な悪習をいつまでひきずる気だ。旧システムの温存に一役買う気か。さすがに「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業推進委員会なんてものの会長に納まって地方分権の流れに雄々しく逆行するだけのことはあるなこの知事は、と私は思います。

 知事は「少なくとも国の制度としてある以上は、県としてはそれが好き嫌いに関わらず、やはりしっかり取ってくるというのは、県民に対する県政サービスの向上のためには避けられないことというのはたくさんありますから。ある以上はしたたかに、しっかりと、それは取ってくるというのは当たり前のことであります」ともおっしゃってますが、この知事の「当たり前」が果たしてほんとに当たり前なのか、それはおおきに疑わしいと申しあげておきましょう。「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業に関するこれまでの発言だけからも、私にはこの知事の因循姑息さをいくらだって証明することが可能です。

 ところで、知事はこの会見で「やはり直接会ってそういったことをお願い」することには一定の効果があると述べておられますので、よろしい、それが本当かどうか、私も年が明けたら知事に面談して確認してみることにいたしましょう。私は29日付伝言に「知事をはじめとした委員全員の方から書面で回答を頂戴するべく、年が明けたら事務局宛にその旨お願いすることにいたしましょう」と記しましたが、その前にまず知事との面談を要請いたします。津から東京までへこへこ陳情に出向くことに較べれば、名張から津まで出かけるのなんて屁でもありません。年が明けたら知事室にメール送ってやろうっと。今度は丸投げしないでね。

 ちなみに27日の会見では、発表項目「この1年を振り返って」のなかで「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」がこんな具合に扱われております。

 「わくわく・ドキドキ」の具体的な事例の2つ目には、「生誕360年 芭蕉さんがゆく 秘蔵のくに 伊賀の蔵びらき」事業が行われたということもございました。5月16日から11月21日までの半年間、伊賀地域を中心に300を超えるイベントを展開いたしまして、これにつきましては、伊賀であるとか三重県の様々な魅力というものを県内外、あるいは外国からもいろいろと関心を持ってお出でをいただいたというようなことがございましたので、そういう意味での情報発信ができたのではないかなと、こう思っております。「新しい時代の公」というのも今後ますます展開を強めていこうという中で、こういった中での培われたノウハウ、ネットワーク、こういったものを活かしながら一過性に終わらないようにつなげていきたいとこう思っております。

 まーたいい加減なことばっか。知事は「情報発信ができたのではないかなと、こう思っております」とおっしゃってますけど、その根拠とか裏付けとかはどこにもないではありませんか。ただの思い込みだけではありませんか。ご町内の親睦行事を寄せ集めて独りよがりな情報発信ごっこに血税三億ぶちこんでみました、というのが事業の実態であったとしか私には思えぬのですが、「ないかなと」などと莫迦みたいなこといってないで、年明けにお会いしたときには情報発信ができたことの根拠や裏付けを示していただきたいものです。

 ここで、12月22日付の朝日新聞三重版に掲載された藤田明先生の「展望 三重の文芸」から冒頭一段落を引いておきます。

 2004年、いろんな催しがあった中で県内最大の例は芭蕉生誕360年にちなむ「伊賀の蔵びらき」だろう。11月、名張の江戸川乱歩生誕110年行事もその一環として行われた。展示や上演があり、前者は夏の東京でのそれとは違う豊島区蔵資料によった。

 藤田先生は伊賀地域にお住まいではありませんので、この記事を執筆されるにあたって当方に電話でお問い合わせをいただきました。津のほうの日刊紙地方版にはいっこうに記事が載らないのだが、名張の乱歩展はちゃんと開かれたのか、といったご質問もいただきました。情報発信なんて全然できてなかったという一例だと思います。

 ついでですから二段落目もお読みください。

 乱歩・小酒井不木往復書簡集『子不語の夢』も刊行された。大正末から昭和初めにかけての154通。共にまだ30代、探偵小説スタート期のやりとりが興味深い。4編の論考を添え、CD-ROM も付くといった乱歩蔵びらき委員会刊ならではの、全国発信の一冊である。

 この『子不語の夢』の場合は、ちゃんと「全国発信」なるものができたように思います。そのあたりの報告はまた年明けにあらためて。

 さて、名張はまた雪です。大晦日の雪となると久保田万太郎の戯曲「大つごもり」を思い出します。科白なんてまったく思い出せませんけど、私はもうかなり以前、樋口一葉原作のこのお芝居で石之助という放蕩息子の役を演じたことがあり、金持ちの息子だという点を除いてはキャラクターまるごと地で行ってたな、立派な放蕩息子だったぞ、と変な誉められ方をしたことがあります。

 では大つごもりの腰折れ一句。

 ──人生は五十一からと知る年の暮

 どうぞよいお年をお迎えください。