|
2004年12月後半
|
●12月16日(木) ほかの話題でうろうろしているあいだに、乱歩生誕地碑がらみの一件でまた動きがありました。動きといっても名張市が所有者に感謝状を贈呈したというだけの話なのですが、とにかくこんな感じです。
ついでですから本日付中日新聞伊賀版からも伊東浩一記者の記事を引いておきましょう。
さて、どうするか。といったって、私の意見は12月9日付伝言でご紹介した8日付日刊各紙の記事にも明らかなとおり、乱歩の生家を復元すればいいではないか、というものです。あすからはふたたびこの話題をつづけましょう。 |
●12月17日(金) あすからはふたたびこの話題をつづけましょう、ときのうの伝言には記したのですが、よく考えてみたらきのう16日は二〇〇四伊賀びと委員会の組かしら会に意見交換会を開いていただく日となっておりました。その話題をお届けします。 意見交換会は昨日午後7時30分から8時10分までの四十分間、三重県上野庁舎四階の一室で開催されました。意見交換ったってこれまで当サイトで指摘してきたことを喋っているあいだに時間が過ぎ、 「あんたらやってること無茶苦茶やん」 みたいなことをいろいろ申しあげたのですが、予定を五分ほど超過しておしまいになりました。で、けさになって二〇〇四伊賀びと委員会事務局にお送りしたのが下記のメール。
あー面倒だ面倒だ。 |
●12月20日(月) 二日ほどお休みしてしまいました。二〇〇四伊賀びと委員会事務局からは17日、下記のメールを頂戴しております。
で、私の返信はこんな感じ。
それでは本日はこのへんで。 |
●12月21日(火) 年末進行真っ盛りのきのうきょうですが、12月16日夜に三重県上野庁舎で行われた二〇〇四伊賀びと委員会組かしら会との意見交換会に関してもう少々。 結論から申しますと、あれは意見交換会と呼べるものではありませんでした。意見を交換する時間があまりなかったということもありますが、それ以上に組かしら会側に意見を交換する気がなかった、いや、そもそも組かしら会は意見と呼べるようなものを持ち合わせていなかった、というのが私の印象です。 実際には17日付伝言にも記しましたとおり、意見交換会では私がほぼ一方的に意見を述べ立てる結果となりました。私の意見と申しますのは、委員会側が掲示板閉鎖の理由として公表している「(1)市民の方からの自由な意見交換の場として機能していない。(2)委員からの情報提供や意見交換の場として機能していない。(3)好ましく無い表現や第三者の実名が書き込まれる」との三点がいずれも正当なものではないという、以前この伝言板にくわしく記したとおりの内容です。 たとえば(1)について私は、「自由な意見交換の場として機能していない」というのは真っ赤な嘘であって、私を含めた数人の人間が意見を交換している最中にいきなり掲示板が封鎖されたのではないかと指摘し、組かしら会側の意見を促しました。それに対する回答は、「自由な意見交換の場として機能していない」というのは、掲示板が委員会側の想定していたようなひろがりを獲得できず、数人の人間が投稿するだけの状態に至ってしまったことを意味している、というものでした。 ちゃんちゃらおかしい。そんなことは何の理由にもなりません。自分たちの考えていたような掲示板にならなかったからといって、げんに「自由な意見交換」が進行している掲示板を予告もなしにいきなり閉鎖していいものかどうか。それにだいたい、これは(2)にも関連することなのですが、組かしら会側がひろがりとやらを持った掲示板にしたいと考えていたというのであれば、どうして自分たちが目指した掲示板をネット上に実現するべく何かしようとしなかったのか。組かしら会は何もしなかったではないか。見事に何もしなかったではないか。閲覧者が提案や質問を投稿しても、それに応接していたのは掲示板管理を担当していた県職員ただひとりだったではないか。掲示板のために指一本動かそうとしなかった人間が「委員からの情報提供や意見交換の場として機能していない」とはよくぞ申した。まったくちゃんちゃらおかしいぞ。 ことほどさように一から十までそういった次第で、とてものことに意見交換会などと呼べる内容にはならなかったのですが、ここで要点を整理しておきますと、要するに組かしら会は、というか三重県や二〇〇四伊賀びと委員会は人の言論というものを何だと思っているのか、自分たちの考えに反対する人間の言論は弾圧してもかまわないと考えているのか、反対意見や少数意見を自由に発表できる場こそが組かしら会のいうひろがりを持った言論の場ではないのか、みたいなことを私は訴えたい。にもかかわらず組かしら会のやってることは、目先の字句文言だけをあげつらって問題の本質から徹底的に眼を背けつづけることでしかありません。 さてそのいっぽう、意見交換会で組かしら会側から提出された話題もありました。落としどころをどこにしようかという話題でした。やっぱりそういうことなのね。つまりこの期に及んでも、組かしら会のみなさんは自分たちの面子や体面のことしか考えていないわけなんです。掲示板をいきなり閉鎖し過去ログを閲覧不能にすることで自分たちの面子や体面を守ろうとしたあの夜から、みなさん少しも変わっていないわけなのね。なんとか自分たちの面目を保ちながら幕引きに持ち込むことはできぬものかと、それが意見交換会に秘められた組かしら会側の真意だったわけなのね。ですから私といたしましては、 「とにかくあんたらは自分たちに都合の悪いこと書かれたから掲示板を閉鎖して過去ログも閲覧不能にしたと、そう勘繰るしかないようなことをしとるねん。だいたい過去ログを閲覧不能にした理由がどこにも書かれてないやないか」 みたいなことも申しあげ、時間切れでお開きとはなりました。当日の出席者はやや少なく、私としては組かしら全員にお集まりいただき、時間もたっぷり取ってゆっくりご意見をお聞きしたかったのですが、その意味ではいささか残念な結果となりました。ただまあ、このうえいくら意見を求めてもあまり意味はないかなという印象も抱きましたので、種々勘案いたしましたその結果、これ以上の意見交換は端折ってしまって過去ログの再公開を要請することにした次第です。 さて年末進行年末進行。 |
●12月22日(水) いやー、きょうを入れても今年はあと十日か。どーしよーもねーなーまったく。などとぼやいていても仕方ありませんが、相も変わらぬ年末進行につき、またあしたお目にかかることにいたします。 |
●12月23日(木) 天皇の七十一回目の誕生日に祝意を表したいと思います。 天皇といえば、先日読んだ中沢新一さんの『僕の叔父さん 網野善彦』(集英社新書)に、小学生時代の中沢さんが父親の厚さんと天皇のことを話し合ったシーンが描かれていて、それはまことに興味深いものでした。 天皇、といってもむろん昭和天皇のことですが、天皇が中沢家のある山梨県に巡幸することになり、新一少年も自動車に乗って通過する天皇を日の丸と万歳とで迎えました。
ちなみに「ずる賢い政治家」というのは金丸信ちゃんのことです。「小学生であった私は、隣で涙を流して感動している田舎の老女とまったく同じように、聖なるものが肉体性をおびている、この原始的な宗教的権威のあり方に、深く心を揺さぶられてしまったわけである」という中沢新ちゃんは、夕食の時間にそのことを話題にして、お父さんからこんなふうに叱られてしまいます。
ちなみに「K」というのは金丸信ちゃんのことです。その場にいたお祖母さんがとりなしても、のちに名著『つぶて』を著すことになるお父さんの怒りは収まりません。
この中沢家というのは網野善彦さんも含めた親戚縁者もろともにじつによく議論をする一家であったらしく、現実にこんな家族が存在したとはとても思えない、これではまるで「渡る世間は鬼ばかり」ではないか、そんな気にもさせられる次第なのですが、中沢家ほどではないにしても、当時の日本では議論したり怒ったりということがいまよりは普通に行われていたのかもしれません。 権力が「今度はもっと別のもっとずる賢い手をつかって、人民の思考を麻痺させようとし」た結果なのかどうかはわかりませんが、「嘘に気づかないままに大きくなっ」た「くだらない大人」ばかりが増えているのはどうやら事実で、しかし「子供だろうが大人だろうが、人間はいつも目を覚ませていなけりゃいけないんだ」というのは世の真理とも呼ぶべきものでしょう。 私などもうすっかり怒り疲れているのですが、目を覚ましていない愚かな人たちのなかにあって怒りつづけることこそが自分の務めなのかもしれないなと、2004年の天皇誕生日にそのような感慨を抱いたという事実をここに録しておきましょう。 |
●12月24日(金) ぼんやりしている。とてもぼんやりしている。頭がとてもぼんやりしている。同じくぼんやりした眼で本日付中日新聞の三重版を眺めていて、「回顧みえ2004」という連載の第三回を発見しました。太田鉄弥記者の記事です。一部を引用いたしましょう。
へーえ、莫迦だ莫迦だとは思っていたのですが、連中はここまで莫迦でしたか。こんな程度のことでぎくしゃくするしか能のない連中でしたか。なるほどここまでの莫迦なんですから、事業の本質と組織の根幹に関する私の質問や批判にいっさい応答できなかったのも無理はありません。と申しますか、そもそもの初めから連中の頭には三億のばらまき予算をどうするかという課題しか存在していなかったわけで、こんな事業が必要なのか、こんな組織が必要なのかという私の批判などほとんど理解不能であったにちがいありません。不憫なやつらじゃ。 とはいえ、莫迦のやったことなんだからすべて大目に見てあげる、といったふうには世の中お話が進みません。おまえら俺が叱り飛ばしつづけてやるから覚悟しておけ、と私は思っております。礫は打ちつづけてやるからな、ということです。 そういえば昨日、三重県知事の野呂昭彦さんからお手紙を頂戴しました。でも何か変。お手紙は財団法人三重県産業支援センターの封筒に入っていて、封筒下部に印刷された同センターの住所や電話番号などに添えて「理事長 野呂昭彦」というゴム印がぺたり。しかも配達証明つきの郵便ですから百円切手が八枚もぺたり。お手紙の内容は単なる事務連絡でしたので、「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業推進委員会に関する知事の所見をお知らせいただいたのかと喜び勇んで封を開けた私はおおきにがっかりしてしまいました。 閑話休題。いくら礫を打っても何の効き目もないらしいのがつらいところなのですが、それでも礫は打ちつづけなければならぬでしょう。 |
●12月27日(月) また二日ほどお休みしてしまいました。25日土曜の夜には東京で『子不語の夢』刊行記念大宴会が開催されたのですが、私は野暮用のせいで名張を離れられなくてこれもお休み。ほぼドグラマグラ状態のチャカポコ天国と相成り、25日の夜にはサンタクロースのコスプレ姿で名張市内のお宅二軒を訪問、乳幼児に泣かれた以外は大受けだった次第なのですが、あわただしい年の瀬にいったい何をやっておるのか私は。 旧里や臍の緒に泣く年の暮 という芭蕉の句がなんとなく想起されもいたしますが、おおそうじゃ、芭蕉といえば「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業、この事業の決着はどうやら来年に持ち越されそうな塩梅です。決着というのはむろん私なりの決着ということですが、もしかしたら来年に持ち越されたうえでうやむやにされてしまうのかもしれません。 そうは問屋が卸さんぞ、とは思いますものの、本日付中日新聞三重版の「回顧みえ2004」第六回、昨年8月に大爆発した三重ごみ固形燃料(RDF)発電所の稼働再開問題に関する記事に眼を通しましたところ、あちらこちらで問屋がすんなり卸しているらしいことが知れました。 西山和宏記者のこの記事によれば、発電所再開に向けた住民説明会では地域住民の「爆発原因が分からないのに、なぜ安全と言えるのか」「事故を起こした当事者の言うことが信用できるのか」との声が渦巻いたにもかかわらず、県はすいすい試運転から本格稼働へ「住民理解を置き去りにしたまま」ことを進めてくださいました。一部引用いたしましょう。
住民の声に耳を傾けることなく県議会の顔色ばかり窺っている知事、誰ひとり説得できない説明を念仏のようにくり返して身内の有識者まで怒らせてしまう幹部職員。よくわかります。じつによくわかります。そんなことを何度も何度も経験したような気さえいたします。県議会なんてのが住民の安全ではなく自分たちの体面しか考えない連中の集まりだろうということも容易に想像がつきますし、ほんとにやってられませんねRDF発電所の地元である桑名市多度町のみなさん。 県民の生命に関わる問題ですらここまでほいほい問屋が卸してしまうわけなんですから、たかが血税三億どぶに捨てただけの「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業のことなんて問屋は三重にも歯牙にもかけんでしょう。だからといってうやむやにされっぱなしで黙ってるわけにもまいりませんので、まあ自分にできるだけのことはしておこうかなと愚考している年の暮れ。 ところで芭蕉がなぜ年の暮れに泣いたのかと申しますと、幼時や父母が思い出されて懐旧の涙にくれたのであるとするのが一般的なのですが、そうではなくて、こんな臍の緒一本で死ぬまで伊賀みたいな土地に結びつけられているのはたまらんな実際、と考えて芭蕉は思わず涙したのではないかと私は見ております。切々たる実感とともに。 |
●12月28日(火) 官庁御用納めの日となりました。県民の声にまったく耳を藉そうとしない知事と職員がごろっちゃらしているわれらが三重県庁も、たぶんあす29日から1月3日までは年末年始のお休みでしょう。お休みのあいだにものの道理と人の道というものをお勉強しておいてほしいものです。 しかし私も何ゆえあって知事だの県職員だのといった手合いをここまで相手にしなければならぬのか。そもそも私はこの「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業では、江戸川乱歩と小酒井不木の往復書簡集を刊行するための予算が獲得できればそれでよろしく、あとはお役所と地域住民が何をやろうと知ったことではありゃしませんと構えていたのですが、それにしてもことの経緯があまりにもひどすぎ、しかもひどすぎることに異議を申し立てる人間がひとりも存在しなかったものですから、ついついこんな羽目になってしまったという寸法です。 いま振り返ってみますならば、私にはこの事業を批判するために時間と労力をめちゃくちゃ空費してしまったなという印象が拭いがたいのですが、逆に得たものも少なからずあり、たとえば私は三重県の職員とはほとんどつきあいがなかったのですが、この事業の関係で県職員の方ともお近づきをいただき、あ、県職員といえば朝日新聞オフィシャルサイトの三重県のページにこんな記事が。
この記事によれば本庁の部局別集計でもっとも満足度が低かったのは「今年度新設された防災危機管理局」だったそうで、今年はあれだけ台風が上陸して地震にも見舞われたのですから防災危機管理局スタッフはそのストレスだけでも大変なものでしょうけれど、そんなことはともかくとして、伊賀地域住民のあいだでは「いたちの最後屁」を放って伊賀県民局長から防災危機管理局長に転じたと評されていないでもない方ともお近づきをいただき、へーえ、県の幹部職員ってのはこんなんやったんかと身をもって知ることができたのはありがたいことでした。 先月発行された白川一郎さんの『自治体破産』(NHKブックス)にこんなことが書かれています。念のために記しておきますと、自己破産ではなくて自治体破産です。
あーこれこれ三重県関係者のみなさんや。ここに示されているのはあくまでも著者である白川さんの見解なのですが、少なくともこうした主張が展開される時代にみなさん方は生きているわけです。 上記引用の第一段落には、都道府県という卸があまり必要ではない時代になりつつあると書かれています(そうは問屋が卸すめえ、という場合の問屋がなくなりつつあるということですね)。第二段落には、地方分権の流れや乏しい財源の分配といった問題に照らしながら政策は地域住民自身によって選択されなければならないと記されています。第三段落には、行財政が税金でまかなわれていることをよく認識すれば地域住民はいやでも政策に関心をもつようになると述べられています。 で、こんなことを申しあげるのは甚だ心苦しい次第ではあるのですが、前知事のばらまきプランをそのまま無批判に受け継いだこの「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」という事業は、事業関係者が計画決定のプロセスや予算の詳細をはじめとした事業の内実を徹底的に隠蔽しつづけてきたという手法の問題、さらには知事が事業推進委員会のトップとなって事業に直接的な関与をつづけてきたという組織の問題も大きく与って、上記引用に示されているような時代の流れに明らかに逆行するものであったということはみなさんにもよくおわかりでしょう。まだおわかりにはなりませんか。 じつに困ったものですが、今年の三重県ネタはきょうでおしまいといたしましょうか。三重県関係者のみなさんや、どうぞよいお年をお迎えください。来年もよろしくお願いいたします。 |
●12月29日(水) 今年の三重県ネタはきのうでおしまいにしたつもりだったのですが、二〇〇四伊賀びと委員会事務局からメールを頂戴しましたので、とりあえず本日も三重県がらみのネタとなります。
公開していただいても差し支えありません、とのことなのですが、差し支えはおおいにありましょう。私は三重県民の一人として、三重県の知事だの職員だのがとんでもない連中ばかりだという事実を広く世に知らしめるのを必ずしも喜ばしいことだとは考えていないのですが、せっかくのお言葉ですからほいほい公開することにいたしましょう。 添付ファイル一通目「(1)03.12回答」の内容は次のとおり。
開いた口がふさがらぬ、とはこういう状態をいうのでしょうか。唖然としました。茫然としました。愕然としました。何なんでしょうかこの回答は。たしかに私は昨年12月10日、三重県庁の知事室チームへ下記のごときメールを送信いたしました。
知事室からはこのメールに対する回答が寄せられませんでしたので、私は知事室に電話を入れました。私の要請は生活部で検討しているところであり、追って生活部から回答することになるとの返答がありました。その返事がこの「(1)03.12回答」だということになるのだろうと思われます。三重県庁における「追って」という語は一年後のことを意味するもののようです。 しっかし気は確かかこら、こんな回答に何の意味があるんだ、たったこれだけのこと答えるのにどうして一年もかかってんだ、といった腹立ちはさておいて、それにしてもこれはいったい何なのでしょうか。私は知事室に対して「ぜひ知事にお目にかかりたく、ご手配をお願い申しあげる次第です」と要請しました。それに対して回答するというのであればまず面会の諾否を伝えてこい。「中さん自ら会長に就任されることは、組織運営上困難であります」などという僭越なことを抜かすな。県職員風情が要らざる差し出口をするなというのだ。組織運営上困難であるからこそこちらは知事と直談判し、事業と組織の実態を伝えたうえで知事の判断を仰ごうと考えたのではないか。そんなこともわからんのか。 こんな回答をまともに相手にするのはつくづく莫迦らしいことなのですが、事務局にとって何かの参考になればと考えてもう少しつづけることにいたしますと、「こういう経緯から三重県知事が会長を退任すること、及び中さん自ら会長に就任されることは、組織運営上困難であります」といったあたりには、事務局の説明能力のなさがよく示されております。いくら「経緯」を説明してみたところで、それが「知事が会長を退任すること」や「中さん自ら会長に就任されること」が不可能であるという事実の証明や説明にはなりません。そんなこともわからんのか。 それからまた「推進委員会設立の趣旨を御理解いただきますようお願いいたします」というのもちゃんちゃらおかしい。そういう科白はちゃんとした説明能力を身につけてから吐け。「推進委員会設立の趣旨」なんてものがてんで理解できないからこちとら事務局にそれを質問し、明瞭な説明が返ってこないからかりかり怒っていたのではないか。委員会の存在はまったく無意味だとしか思えないから知事に会ってその点を質しそうとしたのではないか。そんなこともわからんのか。 だいたい何なんだこの文書は。文章のなかには「事務局(生活部芭蕉さん・秘蔵のくにプロジェクト)がお答えいたします」と記され、にもかかわらず末尾には「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業推進委員会事務局と二〇〇四伊賀びと委員会事務局の名前が併記されていて、おおきに理解に苦しむではないか。組織機構を複雑にするのはお役所における責任回避の第一歩なのであるが、あーもうこんなこといちいち書いているのがあほらしい。 次、添付ファイル二通目「(2)04.11・12回答」の内容は次のとおり。
腰抜けまっせ実際、なんでこんなん相手にせなあきまへんねん、なんぼなんでもこらちょっとひどすぎんのとちゃいまっか、といった呆れ返りはさておいて、「推進委員会は、団体としての意思決定機関であり、公聴会や住民の方との意見交換会ではありませんので、一般住民の方が委員会や個々の委員に対し、直接意見を述べる場ではありません」なんてことはこっちだってよくわかってるの。よくわかってるから委員会のトップである知事に対して、「次回の事業推進委員会に一般の地域住民が意見を述べる機会を設けてはいただけないでしょうか」とわざわざお願いしたわけなの。そうしたらば知事は例によって私への回答を説明能力皆無の事務局にすっかり丸投げしてくださったと、要するにまたしてもそういうわけなのね。恐るべし丸投げ知事。いやむしろ、天晴れ丸投げ知事と申しあげるべきでしょうか。丸投げしてる姿が丸裸になってるのに少しも懲りない丸投げ知事に幸多かれと祈りたいところなのですが、いつまでこんな茶番をつづけていれば気が済むというのか。ほんとに困った人たちだなあ。はははははは。 笑ってばかりもいられません。ともあれ「推進委員会に書面等で意見をお寄せいただくことは結構です(引用者註:結構です、ってのもなんだかなあ)。それに対しては、推進委員会として書面等でお答えすることとなります」とのお言葉をいただいたのですから、知事をはじめとした委員全員の方から書面で回答を頂戴するべく、年が明けたら事務局宛にその旨お願いすることにいたしましょう。どうせ丸投げされた事務局から意味不明の回答が返ってくるだけの話なのでしょうが、それはそのまま事業推進委員会が私の鉄壁の論理を崩せなかったことを意味しており、すなわち委員会はみずからの存在に意味がなかったことを認めてしまう結果となります。事務局にとってはあるはずのない説明能力の見せどころになるでしょう。死ぬ気で奮励しなさい。 さてこのへんで、事務局の欺瞞をちょこっと指摘しておくことにいたしましょう。添付ファイル二通目「(2)04.11・12回答」には、上記引用でもご覧いただきましたが、「事業推進委員会の存在意義や、2004伊賀びと委員会との関係性については、平成15年にお答えしたとおりでありますが、改めて御説明いたします」としてこんなふうに記されております。
たしかに私は昨年8月18日付メールで事務局の回答を頂戴しておりますが、上記引用にある説明とは内容が微妙に違っているような印象が否めません。上に紺色の文字で示したのが昨年8月の回答には見られなかった文言で、たとえば事業推進委員会が「事業計画及び予算、事業報告及び決算の承認」を行うなんてことはひとことも触れられていませんでした。たぶん事務局もそんなことはご存じなかったんでしょう。はははははは。 笑ってる場合ではありません。論より証拠。事務局から届いた8月18日付メールの関連部分を「人外境主人伝言」から引いてみましょう。「伊賀百筆」第十三号をお持ちの方は262および263ページをご覧ください。「質問」とあるのは私が事務局に投げかけた質問のこと、「A」はそれに対する事務局の回答です。
なんか変、とっても変、いってることがびみょーに変わってきてるじゃない、とあなたはお思いになりませんか。私は思います。そして事務局による欺瞞の匂いを嗅ぎつけます。しかし欺瞞といってしまうのは酷かもしれません。少なくとも事務局にはそんな自覚はなかったことでしょう。自覚もなければ考えもなく、なんだか自分たちの立場がまずくなってきたみたいだからこそこそ小細工を弄してみたんですけどその結果いよいよまずい立場に追い込まれてしまいました、みたいなことばかりこの事務局はやってきたわけなんですから、いい加減に気づけよ事務局、いい笑いもんじゃねえかおまえら、ほんとに嗤われてんだぞ。 なんか寒いと思ったら、きょうは朝から雪の年末。予定していた亡父の墓参を中止して、ぼんやり雪見酒と洒落込みたいところです。 |
●12月30日(木) 何にしても恐れ入った話で、恐れ入るというよりはとても正気の沙汰とは思えない次第なのですが、去年の12月に提出した要請に対していまごろ回答をよこしてくるなどというのは、よほど頭のいかれた人間でなければできることではありません。しかも要請というのは去年の12月下旬までに知事に会わせろというものだったのですから、いまごろになって回答も何もないではないか。いやー、まーた腹が立ってきた。 たしかに私は今月の4日、宮村由久さんとかおっしゃる県の生活部長にメールをさしあげ、昨年12月の一連の経緯を説明したうえで、「この件に関するご意向なりご事情なりをメールでお知らせいただければ幸甚です」とお願いしました。もしもこれを受けてきのうご紹介した回答が寄せられたのだとするならば、どうして回答がここまで遅くなったのか、それを説明することが必要でしょう。私は昨年12月に生活部から回答がなかったという事実の背後にどんな意向や事情があったのかとお訊きしたのですから、じつはかくかくしかじかでと説明するのが普通ではないか。 それを何なんだ莫迦。ろくに説明能力もなければ状況判断も満足にできず、県職員の務めは知事の顔色を窺うことでございますと露骨に顔に書いてあるような腐れ役人がいったい何様のつもりか。説明すべきことはひとことも口にせず自分たちの都合ばかりを臆面もなく並べ立てる、その場その場の思いつきだけできょうは左といいあすは右と述べて県民を瞞着しようとする、そんなことが平気でまかり通ってきたのかこの三重県では。県民を愚弄するのもいい加減にしろ。県民から質問や批判を突きつけられても知事は丸投げをつづけて逃げ隠れするばかり、丸投げされた事務局はその場しのぎの言い逃れでことを収めようとしてかえって事態を悪化させる、こんな猿芝居はいい加減にしておけというのだ。 やれやれ、三重県ってのはほんとにどういう県なんでしょうか。つくづく呆れ返ってしまいます。いいたいことはまだ山ほどもありますものの、三重県の莫迦は年が明けてからまたあらためて叩くことにして、本年の三重県ネタは今度こそこれでおしまいということにいたします。知事をはじめとした三重県関係者のみなさん、どうぞよいお年をお迎えください。 さてつづいては当地名張の話題なのですが、このところ話の流れがすっかり錯綜してしまい(以前からそうであったような気もしますが)、11月の乱歩関連イベントの報告も中途半端に終わってしまいました。掲示板「人外境だより」では「乱歩狂言」の模様を詳しく伝えるようにというリクエストも頂戴していたのですが、怱忙に紛れて果たすことを得ませんでした。どうも相済みません。 仕方ありませんから一計を案じ、本業のほうで少し前に書いた原稿の一部を転載して責を塞ぐことにいたします。
まあそんなようなところです。 一連の乱歩イベントのなかで個人的にもっとも印象に残っているのは、私にとってコスプレ二日目の11月13日、毎度おなじみ清風亭で開かれた『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』刊行記念大宴会において、わざわざ東京からおいでくださった小酒井美智子さんが、小酒井家に保管されていた不木宛乱歩書簡が散逸した経緯をおおよそ話してくださったことで、乱歩書簡は小さな行李に入れて大切に保存されていたそうなのですが、それを失ってしまったことをお詫びしますと美智子さんが小さな声でおっしゃったときには、日ごろ鬼と呼ばれるこの私もさすがに悄然としてしまいました。そうか、それならもっと早い時期に平井家と小酒井家の双方に往復書簡集の公刊をお願いしておけばよかったのではないか、そしたらほぼ完全な往復書簡集ができたはずなのに、いやー、いかんいかん、とみずからの不明にも思い当たりましたし。 その『子不語の夢』、おかげさまにて江湖の読書子に快哉を叫んでいただいたり三歎これを久しくしていただいたりしているようで、出版に関するもろもろの報告もいたさねばならぬわけなのですが、本日のところはこのへんで失礼いたします。 |
大晦日を迎えました。大つごもりです。 今年の三重県ネタはきのうでおしまいにしたつもりでいたのですが、もういっちょ行っとくことにいたします。昨日付中日新聞三重版にこんな記事が出ておりましたので。
11月には「六府省庁で大臣や副大臣、政務官など約四十のポストを巡回したが、本人に会えたのは三分の一足らず」だったとのこと。この知事は何をへこへこしておるのかと私は思います。自分の立場がわかっておるのか。 これは12月27日に行われた知事の定例会見に基づく記事みたいですから、三重県のオフィシャルサイトからその会見内容を引いておきましょう。
このあと記者から「ご自身が上京して渡すという意義はあると」との質問が出され、知事は「これはやはり、しっかり訴えなければならないことについてはしなければならないケースもあるでしょうね」とお答えなのですが、そんなことはないでしょう。知事がへこへこ霞が関にお参りしなければならぬような旧来のシステムそのものを変えなきゃならんというのが全国知事会の共通認識ではないのでしょうか。国と都道府県が対等の関係になりますようにと七夕様の短冊にそんな願いを書いたのはおまえたちではなかったのか。ケースがどうのこうのと目先の損得だけ追っかけてる場合か。何なんだその因循姑息な態度は。陳情などという旧弊な悪習をいつまでひきずる気だ。旧システムの温存に一役買う気か。さすがに「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業推進委員会なんてものの会長に納まって地方分権の流れに雄々しく逆行するだけのことはあるなこの知事は、と私は思います。 知事は「少なくとも国の制度としてある以上は、県としてはそれが好き嫌いに関わらず、やはりしっかり取ってくるというのは、県民に対する県政サービスの向上のためには避けられないことというのはたくさんありますから。ある以上はしたたかに、しっかりと、それは取ってくるというのは当たり前のことであります」ともおっしゃってますが、この知事の「当たり前」が果たしてほんとに当たり前なのか、それはおおきに疑わしいと申しあげておきましょう。「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業に関するこれまでの発言だけからも、私にはこの知事の因循姑息さをいくらだって証明することが可能です。 ところで、知事はこの会見で「やはり直接会ってそういったことをお願い」することには一定の効果があると述べておられますので、よろしい、それが本当かどうか、私も年が明けたら知事に面談して確認してみることにいたしましょう。私は29日付伝言に「知事をはじめとした委員全員の方から書面で回答を頂戴するべく、年が明けたら事務局宛にその旨お願いすることにいたしましょう」と記しましたが、その前にまず知事との面談を要請いたします。津から東京までへこへこ陳情に出向くことに較べれば、名張から津まで出かけるのなんて屁でもありません。年が明けたら知事室にメール送ってやろうっと。今度は丸投げしないでね。 ちなみに27日の会見では、発表項目「この1年を振り返って」のなかで「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」がこんな具合に扱われております。
まーたいい加減なことばっか。知事は「情報発信ができたのではないかなと、こう思っております」とおっしゃってますけど、その根拠とか裏付けとかはどこにもないではありませんか。ただの思い込みだけではありませんか。ご町内の親睦行事を寄せ集めて独りよがりな情報発信ごっこに血税三億ぶちこんでみました、というのが事業の実態であったとしか私には思えぬのですが、「ないかなと」などと莫迦みたいなこといってないで、年明けにお会いしたときには情報発信ができたことの根拠や裏付けを示していただきたいものです。 ここで、12月22日付の朝日新聞三重版に掲載された藤田明先生の「展望 三重の文芸」から冒頭一段落を引いておきます。
藤田先生は伊賀地域にお住まいではありませんので、この記事を執筆されるにあたって当方に電話でお問い合わせをいただきました。津のほうの日刊紙地方版にはいっこうに記事が載らないのだが、名張の乱歩展はちゃんと開かれたのか、といったご質問もいただきました。情報発信なんて全然できてなかったという一例だと思います。 ついでですから二段落目もお読みください。
この『子不語の夢』の場合は、ちゃんと「全国発信」なるものができたように思います。そのあたりの報告はまた年明けにあらためて。 さて、名張はまた雪です。大晦日の雪となると久保田万太郎の戯曲「大つごもり」を思い出します。科白なんてまったく思い出せませんけど、私はもうかなり以前、樋口一葉原作のこのお芝居で石之助という放蕩息子の役を演じたことがあり、金持ちの息子だという点を除いてはキャラクターまるごと地で行ってたな、立派な放蕩息子だったぞ、と変な誉められ方をしたことがあります。 では大つごもりの腰折れ一句。 ──人生は五十一からと知る年の暮 どうぞよいお年をお迎えください。 |