2005年6月中旬

●6月11日(土)

 突然ですが、「季刊・本とコンピュータ」終刊号の話題です。第二期十六号となる2005年夏号は6月10日発行、本体千五百円。特集は「はじまりの本、おわりの本」。詳細は「本とコンピュータ・ウェブサイト」でどうぞ。表紙はこんな感じです。

 特集第三部には河上進さんのルポ「そして、本だけが残る──三人の『出版者』との対話」が掲載されているのですが、出版社ならぬ「出版者」とはそも何であるのか。わが国の出版界におきましては(他国の事情はよく知らないのですが)、本や雑誌などの出版物は取次を経て新刊書店に出回るのが一般的なのですが、そうしたルートをたどらない出版物もまた存在していて、と申しますか、わが国の出版物のうちなんと三割までがその手の非取次ルートによるものだといいます。で、河上さんのルポからちょこっと引用いたしますと──

 これらの本の出版元は、会社組織としての「出版社」ではないことが多い。「◎◎書店」「◎◎社」という名前がついていても、個人商店の「屋号」のようなものだったりする。また、美術館や図書館などの団体や地方自治体が出版する場合もある。ほかの仕事で収入を得ながら出版を行なう人もいる。出版社というよりは「出版者」と呼ぶほうがふさわしい。

 これがすなわち「出版者」の定義であって、もう一段落だけ引用しますと──

 ぼくは、「出版業界」にカウントされていないこれらの本の出版者に会ってみたくなった。何を求めて本を出すのか? その本をどうやって読者に手渡していくのか? そして、「出版」とは何なのか? 以下は、金沢、名張、大阪で出会った三人の出版者との対話の記録である。

 といった次第で、読者諸兄姉もすでにお察しのとおり、河上さんが対話された三人の出版者のうちの一人がこの私であるという寸法です。てへへ。さすがに頬が赧らむのを覚える次第ですが、それにしても「金沢、名張、大阪」とはたいしたものです。わが名張市が金沢や大阪といった大メジャー都市に堂々と互しているのですから、名張市民の一人としてとても誇らしい気がいたします。私などきわめて謙虚な人間ですからどうしても、名張などという名もなく小さく取るに足りない都市名はせめて「金沢、名張(三重県)、大阪」とでもしていただかないことには世間様に申し開きができないのではないか、ゆうべ見た「タイガー&ドラゴン」でも「出身地は?」「三重」「うーん。なんにも思い浮かばない」といった会話が交わされていたような記憶があって、テレビドラマでこんなこといわれてていーんですか野呂知事、ってんなこたどうでもいいんだけど、天下の三重でさえそうなんだから名張となるとなんともはや、みたいなことをくよくよと考えてしまうのですが、親愛なる名張市民のみなさんにはこの「金沢、名張、大阪」なるフレーズを誇りとも心の拠りどころともしていただければと愚考いたします。

 さて、「そして、本だけが残る──三人の『出版者』との対話」における私のパートは「個人の執念が前例主義を超える」と題されているのですが、前例主義というのは封建制のバックボーンであると同時に現代においてはお役所の代名詞ともなっておりますから、タイトルをご覧いただくだけで「個人の執念が前例主義を超える」における私がお役所批判フルスロットルであることは容易にご理解いただけるものと思います。それはともかく論より証拠、親愛なる名張市民のみなさん、とくに名張市役所のあなた方、さらには心ある読者諸兄姉にはぜひ「季刊・本とコンピュータ」終刊号をお買い求めのうえしっかりご高覧をたまわりますよう、ここに衷心よりお願いを申しあげておく次第です。

 ちなみに文中にはこんなフレーズも。

中さんは怒った。

 ツボにはまったってやつですか、私はこのフレーズが妙に気に入ってしまったみたいです。

 中さんは怒った。

 そーだよなー、やっぱ俺って怒らなければ俺じゃねーよなー、そーなんだよなー俺って、と心ゆくまで得心しつつ、そして河上進さんには深甚なる謝意を表しつつ、つづきはあすということに。


●6月12日(日)

 さーて、怒るか。躊躇に逡巡を継ぎ逡巡に躊躇を重ねてきょうの日を迎えた私だけれど、私はやはり怒らねばなるまいな。それが私の芸風じゃもの。

 中さんは怒った。

 やっぱこう来なくては。とはいえ、いったい何を怒ればいいのか。躊躇や逡巡が過ぎたせいか頭の中が薄ぼんやりとしておりますので、問題点を確認するために伝言録を読み返してみましたところ、5月21日土曜日の伝言に私はこんなことを記しておりました。

 さて、乱歩生誕地の名張市では、探偵小説の不朽性などとは何のかかわりもないてんやわんやが演じられております。5月17日に催された乱歩蔵びらきの会の設立総会ならびに懇親会のお話なのですが、懇親会の席上、私には卒然として腑に落ちたことがありました。それは要するに、ああ、これが名張市の身の丈身の程ってやつなんだな、ということです。乱歩蔵ぴらきの会にはお役所の人たちも少なからず入会していますから、懇親会のメンバーはまさしく官民合同、したがいまして官のレベルと民のレベルの双方が手に取るようによくわかり、いやもちろん私は設立総会の挨拶で会員のみなさんに、じつに無教養でありきわめて不勉強であるという点であなた方は名張市役所職員とまったく同じレベルである、同断であると申しあげてはおいたのですが、実際にそのレベルのただなかに身を置いてみましたところ、これはこれでもういいのではないか、難しいことをいってやるのはなんか不憫だ、みたいな感じも抱かれてきた次第です。

 つまり私は、もういいか、勘弁してやるか、俺さえいなければすべては円満に収まるではないか、と考えていたわけです。いい例が「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業であって……

 と書いて思い出しましたが、絶賛発売中の「季刊・本とコンピュータ」終刊号に掲載された河上進さんの「そして、本だけが残る──三人の『出版者』との対話」では、三重県が天下に誇ったこの事業のこともご紹介いただいております。二〇〇四伊賀びと委員会の残党のみなさんはぜひご講読ください。三重県庁知事室のみなさんにおかれましては、ぜひ一部お買い求めのうえ野呂昭彦知事にそっとお手渡しいただければ幸甚です。

 それでその「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業において私の怒りはどういう結果をもたらしたのかというと、結局何ももたらしませんでした。私自身は自分の怒りがごくまっとうなものだと思っていたのですが、二〇〇四伊賀びと委員会のみなさんにはまったく受け容れられず、それならばすなわち私さえいなければ、むろん二〇〇四伊賀びと委員会には反目や確執といった内訌が拭いがたく存在してはいたのですが、少なくとも表面的にはいささかの波風もなく事業が遂行できていたはずだということになります。いくら批判や助言や提案を重ねても相手が知的怠惰のうえに胡坐をかきつづけているかぎり、こちらの意図はすべてみな虚しい意図でしかありません。

 だから私は、もういいか、勘弁してやるか、俺さえいなければすべては円満に収まるではないか、と考えるに至っていたわけです。21日付伝言にも記しましたとおり、「俺さえいなければこいつらは、むろんごく低いものではあるけれどとにかく同じレベルで群れ集い、円満にべたべた仲良くいうならば名張市クオリティの乱歩関連事業を進めることができるのであろう。だからこいつらにはさぞや俺が目障りであるにちがいない。それならもう抜けてやるか」と決意しないでもなかったのですが、

 「細川邸の裏をきれいにして見世物小屋つくったらどうや」

 という発言を耳にするに及んで、いやまずかろう、俺が手を引いたとたんにこの程度の莫迦が偉そうなことを抜かし始めるのであれば俺がいま手を引くのはやはりまずかろう、莫迦を叩き潰すのが先決だろう、と思い返しはしたものの、しかし莫迦に何いったって詮方ないことは「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」でいやというほど思い知らされたしな、いったいどうすりゃいいのやら、と躊躇に逡巡を継ぎ逡巡に躊躇を重ねてきょうの日を迎えた私なのですが、一連のゆくたてを振り返った結果やっぱ怒らなきゃ仕方ないなと意を決しました。

 書棚の整理をしている最中に久方ぶりでエリファス・レヴィ『高等魔術の教理と祭儀 祭儀篇』(人文書院)なんて本をふと手に取ってみましたところ、冒頭にはこんな文章が書かれてありました。訳は生田耕作。

 行為になって現われないような意図はすべてみな虚しい意図であり、それを表現する言葉も無益の言葉である。生命の証しとなるものは行為であり、意思の証拠となるものもまた行為である。すなわち数々の聖典に記されている如く、人間の価値はその思考・理念に基づいて判断すべきではなく、その行為に基づいて判断すべきである。存在するためには行動することが必要である。

 つまりすべては虚しいわけです。知的怠惰のうえに胡坐をかいている人間に向かって何かを批判し助言し提案しといった行為をいくらくりかえしてみたところで、その人間がそれを受け容れないかぎり私の言葉はすべて無益な言葉であるにすぎません。しかしそれはあくまでも相手に基準を置いた場合の話であって、私という一個人の立場に立って考えるならば、私がここにひとりの人間として間違いなく存在しつづけている以上、私にはやはり行動することが求められるでしょう。意図を行為として表すことが要請されるでしょう。

 中さんは怒った。

 やっぱこう来なくてはいかんのではないか。


●6月13日(月)

 さあ怒ろう。めちゃめちゃ怒ってやろう。そう思って勇躍起床したのですけれど、よく考えてみたら本日は先生モードの日なので授業の準備をしなければなりませんでした。きょうの授業のことでいまだに悩ましく思っているのが、インターネットにおけるメディアリテラシー、みたいなテーマを喋るに際していま2ちゃんねるで話題のいわゆる放尿医師をとりあげるべきかどうかということです。放尿医師といい2ちゃんねらーといい、どちらもインターネットという新しいメディアが孕む(孕む、という大仰な表現をじつは私は好まぬのですが、まあ使用しておきましょう。含み持つ、のほうがいいのかもしれません)さまざまな問題にアプローチするための恰好の教材ではあるのですが、喋り始めると肛門愛と金銭欲などというフロイトもどきのネタまで一気に突っ走ってしまいそうですからやや不安。人生というのはほんとに悩ましいものです。


●6月14日(火)

 放尿医師の話題をさてどうしたものか、と迷いながら三重県立名張高等学校に出勤しました。きのうのことです。出勤途中でふと思い出したのは、ああ、お風呂のなかで放尿した経験なら自分にだってあるではないかということでした。むろん温泉や銭湯といった共同浴場でのことではありませんが、湯船のなかでおしっこをしたらおしっこはどうなるのだろうという素朴な疑問に取り憑かれ、矢も楯もたまらず実験せずにはいられなくなった穉い日。対流のせいなのかどうなのか、お湯のなかで尿が美しい放物線を描くことに感動し、お風呂から出て実験結果をさっそく父親に報告したところ、そういうことをしてはいけないと説教されて二度とするものかと心に誓ったいとけない日。あれが私にとって幼年期の終わりならぬ肛門期の終わりであったのかといまは思い返される次第なのですが、きのうは学校行事の影響で短縮授業となったこともあり(短縮授業、というのはじつに懐かしい言葉だという気がいたします)、放尿医師の話題を素材としてメディアリテラシーについて考察する余裕がなかったことをここにお伝えしておきます。

 帰宅したら6月10日付の毎日新聞が三部届いておりました。三重版にちょこっと腰折れを寄稿いたしましたところ掲載紙をお送りいただいたという寸法なのですが、一面には写真入りで塚本邦雄さんの訃報が大きくとりあげられ(連載コラム「けさひらく言葉」の執筆者でいらっしゃった関係で他紙より扱いが大きいのだと思われます)、四面に目を転じますと「記者の目」は「サンデー毎日」の日下部聡記者による「石原都知事を支える『迎合の構図』」。石原慎太郎東京都知事を取り巻く側近や都庁官僚、都議会、さらにはメディアまでが知事に迎合してきたのではないかとする内容なのですが、一部引用いたしましょう。

 近年の地方自治の大きな流れは、公金の使途や政策決定過程の透明化である。この中に石原都政を置いてみると、その「不透明性」は一層際立つ。

 「近年の地方自治の大きな流れは、公金の使途や政策決定過程の透明化である」というのはごく当たり前な話なのですが、東京都はさておき三重県ではどうなんだろう、と私は思いました。少なくとも「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業を見るかぎり、三重県においては不透明性こそが際立っているとしかいえぬではないか。いやそもそも私は「公金の使途や政策決定過程の透明化」を徹底することによってしかあの壮大な税金の無駄づかいに意義は見出せぬのだと指摘し、そのための具体策を提案したり決定過程があまりにも不透明なあれこれの点を質したりしていたのですが、それも結局のところ詮ない試みではありました。ですから私はほんとのところ無力感にうちひしがれているわけなのですが、うちひしがれてばかりもいられません。

 都知事は絶対権力者ではない。都民が税金を預けて仕事を委託しているのである。石原知事がそれに見合った仕事をしてきたのか、有権者が冷静に見極める時ではないか。

 と日下部聡記者の「記者の目」は結ばれておりますが、私とて名張市民から月々八万円の税金を頂戴して乱歩に関するお仕事を委託されている身なんですから、やっぱ怒るべきときには怒らなければ市民から怒られてしまいます。それで現在の予定といたしましては、とりあえず名張まちなか再生プランの歴史資料館構想に関して名張市建設部都市計画室を軽く叩いてみることにしたいなと考えております。

 ここで私の基本的な考え方を記しておきますと、いやもう同じことばかりいってるわけですが、名張市が自己宣伝のために乱歩の名前を利用するのは全然OKであると私は考えます。ただし利用するにあたっては、ちゃんと乱歩作品を読んで乱歩がどういう作家であるのかを知ることが必要でしょう。ほんというと乱歩への敬愛の念が不可欠である、とも申しあげたいのですが、いきなりそんなことまで求めるのはいささか酷というものでしょう。それから名張まちなか再生プランに関しましては、再生という言葉の意味がやや曖昧な観があるのですが、それはけっしていたずらな観光スポット化ではなく、何よりも生活の場としての再生、無告無名の数多くの人間の生活が蓄積された場としての再生であるべきだと愚考しております。

 小林信彦さんの『物情騒然。 人生は五十一から(4)』(文春文庫)の「いつか見た正月」から引きましょう。

いってみれば、〈過去〉の一瞬一瞬に執着するたちなのである。

 そういう人間にとって〈未来〉というのはほとんど興味が持てないものであり、三十年ぐらい前の〈未来学ブーム〉の時は、なんと無意味なことをやっているのだろうとさえ思った。今でも、軍事競争的な意味がなければ、宇宙へ行ったりするのも全く無駄に思える。そんな金があったら、地球上の古い街をそっくり保存するとかして、〈過去〉の延長としての現在に投資する方がよほど意味があるだろうに……。

 マルセル・プルーストという、日本ではほとんど読まれない大作家や、ジャック・フィニーという幻想作家にぼくが親近感を抱くのは、そういう〈過去への執着〉があるからだ。

 ここに記されたような「過去への執着」に、私はそれこそ親近感を抱くものです。


●6月15日(水)

 光文社文庫版江戸川乱歩全集第三十巻『わが夢と真実』が一か月遅れで配本されたことを新聞広告で知り、そそくさと購入してまいりました。私はえへん、関係各位のご厚意により配本のたびに版元から一部ずつご恵投いただいているのですが、売り上げにも貢献しなければなるまいと思って別に一部ずつ購入しております。『十字路』なんかうっかり二部も買ってしまいましたし。

 第三十巻には『わが夢と真実』以外に『海外探偵小説作家と作品』も収められていて、これが入っているのであれば配本が遅れるのも無理はありません。もとより私はそれが配本遅延の理由であったのかどうかを知りはしないのですが、『海外探偵小説作家と作品』の校訂がとにかく気の遠くなるような砂を噛むような賽の河原で石を積むような作業であったことは間違いありません。「宝石」や「別冊宝石」やハヤカワポケットミステリなどの初出を確認し、テキストを比較対照する作業。それは想像するだけでくらくらと眩暈を覚えるほどのもので、あまり想像したくありませんから次の話題にまいりましょう。

 政府が国家公務員の定員削減に着手し、今秋にも具体的な数値目標を設定するらしいことはメディアを通じてご存じのところと思いますが、昨14日付の当地の朝日新聞オピニオン面には「公務員リストラ進むか/鳥取県、評価最低の職員に勧奨退職/「再教育でダメならクビ」」という記事が掲載されておりました。国と地方の双方における公務員制度改革の先進的な動きを報じる内容なのですが、鳥取県では公務能率評定という独自のシステムを採用しており、勤務評定が二年連続で最低だった職員五人に自主退職を勧める勧奨退職を実施、うち三人がそれに応じたとのことで、同県は評価のはなはだよろしくない職員を強制的に退職させる分限免職の発動も視野に入れていると伝えられています。

 「公務員になってしまえばどんなに仕事ができなくても安泰、というのは根拠のない神話」という片山善博鳥取県知事の談話も掲載されておりますので、その一部を引きましょう。

 公務能率評定は結果的に、能力不足の職員をあぶり出すことにつながる。仕事のできない職員が多いほど非効率になり、民間企業なら倒産する。決してリストラが良いとは思わないが、どの自治体も財政が厳しい今、不適格な職員に給料を払うような税金の無駄遣いはできない。

 以前は、問題のある職員を納税者から見えなくするように遠くの出先機関に配置したり、各職場が押しつけ合ったりしてきたのは事実。それがぬるま湯だと批判されてきた。評定の仕組みや再教育制度が整いつつあるので、今後は分限免職も辞さないつもりだ。

 この知事はなかなか正直でいらっしゃいます。問題のある職員なんて鳥取県のみならず三重県にも、と申しますかお役所にはどこにでもごろごろしております。それも「以前は」といったことではなく、現在ただいまもリアルタイムでごろごろごろごろ、芋虫のようにごろごろごろごろしております。たとえば、と申しましてもあまり生々しい話題は差し控えることにして、私が名張市立図書館カリスマ嘱託を拝命してまもないころのお話をひとつお知らせいたしましょう。

 名張市役所にXさんという職員の方がいらっしゃいました。現在も奉職していらっしゃるのかどうか、それはわかりません。ある日のこと、そのXさんがいない場でXさんのことが話題になっていて、

 「Xさんもちゃんと手ェ置いてくれるようになりましたわて」

 といった会話が私の耳に聞こえてきます。何の話か、と聴くともなしに聴いておりますと、どうやらXさんはあまり有能な職員ではないらしいのですが、にもかかわらず市役所を訪れた一般市民からよく見える部署に配属されてしまうという椿事が出来しました。つまり市民がふと見回せば、ただ椅子に坐ってぼーっとしているXさんの姿をいやでも目撃してしまうというわけです。これは困ったことだ、あんなにぼーっとしていては税金泥棒の誹りを免れぬではないか、と職員仲間は心底案じていたらしいのですが、本人の努力なのか周囲の助言が奏功したのか、いずれにせよXさんが机に手を置いてくれるようになったそうです。

 すなわちそのXさん、それまでは椅子に坐って背もたれに深く寄りかかり、両腕をだらりぶらりとさせているだけでしたからいくら贔屓目に見ても精励恪勤しているようには見えなかったのですが、あるときから両腕をちゃんと机のうえに置いてくれるようになった。つまり机にはパソコンがあり、両腕を前に出したせいで姿勢がやや前傾したという事情も加わって、見ようによっては仕事をしているように見えぬでもないではないか、やれめでたい、万々歳じゃ、というそれはお話なのでした。片山知事のおっしゃる「問題のある職員」がどこにでも転がっているのは間違いのないところで、もしかしたらどこのお役所でもそれを「納税者から見えなくする」ことがひそかな重要課題になっているのかもしれません。

 何はともあれ、「どの自治体も財政が厳しい今、不適格な職員に給料を払うような税金の無駄遣いはできない」という時代がまぎれもなく到来しているようなんですから、不適格な職員のみなさんや仕事のできない職員のみなさんや能力不足の職員のみなさんや問題のある職員のみなさんはくれぐれも心して勤務してくれ。老婆心ながらそのようにお願いしておきたいと思う次第です。


●6月17日(金)

 きのうは時間がなくて伝言をお休みしてしまいました。まずはおととい電話でお寄せいただいた乱歩情報二件、関係各位のUさんとIさんにお礼を申しあげながら謹んでお知らせすることにいたします。

江戸川乱歩旧蔵江戸文学作品展
立教大学図書館の主催で6月10日から12日まで「江戸川乱歩旧蔵江戸文学作品展」が開かれました。会場は立教大学池袋キャンパス太刀川記念館三階多目的ホール。西鶴をはじめとした江戸文学資料がどーんと百点あまり出展されました。そういうことはもっと早く教えろとお怒りの諸兄姉もいらっしゃるかもしれませんが、いまや私の心は乱歩からかなり離れた地点に位置しているような気もする次第で、とはいえこうした情報に敏感であるべき乱歩系サイト開設者として至りませなんだ点を重々お詫びいたしつつ、詳細は立教大学オフィシャルサイトの「「江戸川乱歩旧蔵江戸文学作品展」開催のご案内」や「■江戸川乱歩旧蔵江戸文学作品展*終了しました」でどうぞ。
あわせて発行された「江戸川乱歩旧蔵江戸文学作品展図録」もなかなかの評判。入手された方から「大変充実した内容にもかかわらず定価1000円と大変お買い得です」とのメールも頂戴しております。郵送をご希望の方は大学売店(セントポールプラザ二階書籍売場、電話 03-3985-2774)へお申し込みください。送料は一冊二百九十円となっております。

 もう一件、行きます。

乱歩地獄
乱歩原作のオムニバス映画として乱歩ファンの注目を集めていた「乱歩地獄」、いよいよ今年11月の公開と決まったようです。アルバトロス・フィルムの第一回邦画配給作品で、竹内スグル監督の「火星の運河」、実相寺昭雄監督の「鏡地獄」、佐藤寿保監督の「芋虫」、カネコアツシ監督の「蟲」と四作品が揃い踏み。詳細はアルバトロス・フィルムオフィシャルサイトの「乱歩地獄」でどうぞ。
試写会は7月に予定されているそうですが、関係者による非公式な試写会が先週催され、それをご覧になった方から、かなりの出来だ、面白い、乱歩ファンは刮目して待たれよ、とのお知らせをいただきました。いまや私の心は乱歩からかなり離れた地点に位置しているような気もするとはいいながら、こういう情報をいち早く入手いたしますと、そうか、11月公開というのであればいっちょ配給会社にかけあって名張市で先行プレミアロードショーでもぶちかますか、江戸川乱歩生誕地碑建立五十周年の記念にもなるし、などと考えないでもないのですが、いまや考えるそばからあほらしさが先に立ってしまうような次第ではあり、こういう状態を世間では意気の阻喪と表現するのかもしれません。なんかもう莫迦らしくてやってらんない、みたいな。名張市なり乱歩蔵びらきの会なりがプロデュースしていただければありがたいのですが、とても望めぬことかしら。

 つづきまして、おとといの伝言につづいて公務員制度改革をテーマにした朝日新聞オピニオン面の記事に触れておきますと、15日には二回連載の二回目が掲載されて、見出しは「どうする縦割り行政/公務員改革経済界が「仕切り直し」提言/政府案は頓挫状態」。要するに縦割り行政の是正なんてできるわけがない、といったことのようです。そういえば、名張市役所における縦割りの是正はどうなっておるのか。あれは先月のことでしたが、名張市立図書館長から乱歩関連事業担当部署に向けて部局横断的なネットワークの構築に関する申し出があったはずなのですが、その後いったいどうなっておるのか。とても望めぬことであったか。

 そうかと思うと、そういえばこんなのがあったっけ、と懐かしく思い出されましたのが三重県の電子掲示板「e- デモ会議室」。おとといの中日新聞三重版に掲載された沢田敦記者の記事から引きましょう。

県「e―デモ会議室」検証
不参加者対象に座談会出席者募集
 県の電子会議室「e−デモ会議室」を外部から検証してもらおうと、県は、同会議室に参加していない県民を対象とした座談会形式の聞き取り調査を実施することになり、出席者を募っている。

 同会議室は二〇〇二年五月、インターネット上で住民が県政課題を議論する目的で設置された。しかし、発言者が固定して県政に反映できる提案に乏しいなどの問題点が浮き彫りになっている。

 三重県のオフィシャルサイトを調べてみましたところ、6月14日に「三重県の電子会議室「e-デモ会議室」グループインタビュー」が告知されていたことが知れました。それによると伊賀県民局での開催は7月11日午後6時30分からで、え、参加すれば謝礼が五千円も貰えるのか、私は応募条件をすべて満たしているみたいだし、それにあの「e- デモ会議室」では検閲という違法行為が行われている疑いがあり、その点どーなんでしょーかと野呂昭彦知事にお訊きしてもまともなお答えを頂戴できなかった昨年7月の「知事と語ろう本音でトーク」における苦い思い出に鑑みましても、やはりここは「e - デモ会議室」グループインタビューとやらに出席し、県民のひとりとして真摯な意見を具申することで県政の発展に微力を尽くすべきではないかと愚考されないでもありません。いったいどうしたものじゃやら。参加申し込みは6月24日まで受け付けているとのことですから、しばらく考えてみたいと思います。


●6月18日(土)

 さて、名張まちなか再生プランに見える歴史資料館構想の件ですが、といった具合にお話を進めようと考えておりましたところ、考えるそばからあほらしさが先に立ってしまうような事態に直面してしまいました。意気の阻喪ってやつですか。なんかもう莫迦らしくてやってらんない、みたいな。ともあれ、昨日付毎日新聞伊賀版に掲載された熊谷豪記者の記事から引用いたしましょう。

名張市:
ショッピングタウン誘致を提案 商議所から不信の声 /三重
 ◇名張・中央西土地区画整理事業区域に 市が地権者へ、既存の商店街苦境に

 名張市が、中央西土地区画整理事業区域(約42ヘクタール)内に飲食店や娯楽施設などのあるショッピングタウン(約6・8ヘクタール)の誘致を地権者に提案していることが16日、分かった。実現すれば既存の商店街は苦境に立たされることになるだけに、名張商工会議所の会員から「市は旧中心市街地の活性化にも取り組みながら、何がしたいのか分からない」などといった不信感が噴出。名張商議所の役員らは市へ具体的な説明を求めており、17日に市担当者から説明を受ける。

 同区画整理事業は、市役所と近鉄名張駅の間を「新しい名張の市街地」にする計画。8月に土地造成工事が完了し、来年4月から土地の利用が出来るようになる予定だ。この中で、市は近鉄大阪線の高架と交差する市道・東町中川原線(4車線)沿いを都市計画で商業地域などに設定し、スーパーや飲食店、(カラオケやゲームセンターなどの)娯楽施設の立地を構想している。

 くだくだ説明を加えるのもあほらしい気がいたしますが、中央西土地区画整理事業区域というのは、名張市がこの一帯に「中央」という新しい町名をつけようとしたところ、5月23日の市議会重要施策調査特別委員会で反対意見が続出したため断念するに至ったというあの地域です。名張市はそこにスーパーや飲食店やカラオケやゲームセンターなどのあるショッピングタウンを誘致するんだそうです。まあいい。それはまあいいとしましょう。名張市ってのはあれか、そんな月並みな、日本全国どこにでもあるような都市整備しか思いつけないのか、とお思いの方もいらっしゃることでしょうけれど、それはまあいいということにしておきましょう。

 気になるのは名張商工会議所の会員から「市は旧中心市街地の活性化にも取り組みながら、何がしたいのか分からない」との疑義が呈されているらしいことで、ただまあこの会員の方のおっしゃることもよくわからないといえばよくわからない。名張市が名張まちなか再生プランに基づいて進めようとしている旧中心市街地の活性化は、旧町地区を商業地域として再生するというお話では全然ありませんから、旧中心市街地の活性化と中央西地区のショッピングタウン誘致が相容れないということはないように思われます。

 いささかわかりにくいようですから、位置関係を簡単に図示しておきましょう。






近鉄名張駅
整 中
理 央
事 西
業 土
区 地
域 区
 画
名張市役所

 この図の「旧中心市街地」がいわゆる旧町地区です。江戸時代以来の町並が残り、名張まちなか再生プランによって再生が構想されている地域で、乱歩の生家があった新町もこの地域に含まれます。いっぽうの「中央西土地区画整理事業区域」は、新たに造成されて一時は「中央」と名づけられることになっていた区域。広さは約42ヘクタールあるそうですが、そのなかにショッピングタウンを誘致するプランが16日に明らかになったというわけです。

 すなわち名張駅西側の旧中心市街地は古いまち、東側の中央西土地区画整理事業区域は新しいまちであって、新旧ふたつのまちが隣り合って共存することはいくらでも可能でしょうから、名張市が「旧中心市街地の活性化にも取り組みながら」新しいまちの商業地化を進めるのはおかしい、などといった批判は成立しにくいのではないかと思われます。とはいえ、名張市が「何がしたいのか分からない」という商工会議所会員の指摘はまさにそのとおりで、商工会議所サイドがこうしたプランを知らなかったというのがそもそもおかしな話であり、私が気になると申しあげたのはまさにその点のことです。縦割り行政がどうのこうのという以前に、何から何までてんでんばらばら、統一的な視点などどこにもないままあっちこっちで思い思いにすべてのことが進められているとの観が否めません。

 毎日新聞の記事によれば、名張市中央西まちづくり推進室は「市が誘致しているわけではなく、地権者の土地活用について提案している段階なので、(積極的に)広く公表していない」と話しているそうなのですが、このコメントからは名張市役所のお役人たちが責任回避と思考停止を両輪としてお仕事をなさっていらっしゃることが火を見るよりも明らかに知れる次第です。なんかほんとにもう莫迦らしくてやってらんない、みたいだ。


●6月19日(日)

 本日は新刊のお知らせを一件。天城一さんの短篇集『島崎警部のアリバイ事件簿』が出ました。これです。

 第五回本格ミステリ大賞評論・研究部門を受賞した『天城一の密室犯罪学教程』につづく一冊で、「天城一傑作集2」と銘打たれ、六百二十四ページ、本体三千円、編者は日下三蔵さん、版元は日本評論社。PART1「ダイヤグラム犯罪編」と PART2「不可能犯罪編」の二部で構成され、前者には時刻表トリックを扱った作品を網羅、それ以外の秀作が後者にまとめられています。

 えー、勝手ながらつづきはまたあした。


●6月20日(月)

 天城一さんの新刊『島崎警部のアリバイ事件簿』(日本評論社)の話題ですが、私はいわゆる時刻表トリックというものに食わず嫌い的になじめない人間であるようで、たとえばクロフツの高名な作品さえ読んだことがありません。ですからこの本の PART1、すなわち天城一時刻表トリック集成とも呼ぶべき「ダイヤグラム犯罪編」にはいささか二の足を踏んでしまい、怠惰な読者の常としてとりあえず巻末の「自作解説」からほつほつ繙読してみました。

 おや、と思わされたのは、2001年に発表された「虚空の扉」という作品の解説に「今夏体調をひどく崩して予定していた全く未着手の『不人』の完成が体力的に無理になり」とあったことでした。「体力的に無理になり」というのはもとよりショッキングな報告ではあるのですが、前著『天城一の密室犯罪学教程』の「あとがき」が「病床にて」と結ばれていたことほどには衝撃的ではありませんでした。私がおや、と思ったのは「不人」という見慣れない言葉を目にしたときのことで、何やったかな、これ何やったかな、どこかで見かけた記憶があるのだが、とどうにも片づかない気分を抱かされた次第です。

 この「自作解説」ではほかにも、「われらのローレライ」の解説に「最近、絶対的な愛情が大いに受けているようですが、それはヴィッレ・ツール・マハトだと考えなければならないのではないでしょうか。この作品の一つのテーマです」とある箇所が理解しがたく、「絶対的な愛情が大いに受けている」というのはどんな時代状況を指しているのか、いわゆる純愛ブームなのかそうではないのか、そもそもこの「自作解説」は「別冊シャレード」に発表されたものの再録である由であるが初出の時期が明示されていないから文中の「最近」という言葉を解釈するに際して揺らぎが生じてしまうのを何とする、みたいなことをまず感じ、それからまた「ヴィッレ・ツール・マハト」の意味を探り当てるのにも時間を要して(要するにニーチェの「力への意志」だったのですが)、そこへ「不人」の問題もありますからもう大変。名張市桔梗が丘二番町のサイゼリア名張桔梗が丘店でお昼ご飯を食べるときにも『島崎警部のアリバイ事件簿』が手放せず、これはまたいかにも天城さんらしくなかなかに手強い自己解説だと申しあげるべきでしょう。

 しかし私はとうとう思い出しました。「不人」の意味に思い当たりました。そうか、オーウェルか、unperson か、よーし、と勢い込んで書棚を探しにかかったのですが、なぜかオーウェルの「一九八四年」がどこにも見当たりません。そんなはずはないではないか、俺は「一九八四年」を持っていたではないか、俺の記憶に間違いがなければ早川書房の世界SF全集の第一回配本がオルダス・ハックスリーとジョージ・オーウェルの巻、すなわち「すばらしい新世界」と「一九八四年」の巻であって俺はその巻を新刊で購入したではないか、いまや気が遠くなるほど大昔の高校生のときのことではあるが、ああ懐かしい、ああ往時茫々、ああ世界の国からこんにちは、などと大騒ぎして探し回ったのですがいまだ行方不明のままですから困ったものです。

 ちなみにネット上の辞書で「unperson」を調べるとこんな具合で、語釈には「George Orwell著 1984 の中で使われた」という説明も見えるのですが、天城さんのおっしゃる「不人」はおそらくはオーウェルの「unperson」であるに相違なく、その詳細はまたあすにでも。