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2005年7月上旬
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●7月2日(土) おかげさまで体調はほぼ本復いたしました。本日は三重県立美術館の「ジェームズ・アンソール展」に足を運ぶ予定となっております。その前に6月30日付伝言にひきつづいて第五十八回日本推理作家協会賞選評部門の選評を軽く片づけておきたいところであって、もとより井上ひさしさんの選評をおちょくってオチにもってゆくまで構想はきっちりまとまっているのですが、ほかにも吉川弘文館の『奈良と伊勢街道』に関する言い訳を並べ立てる必要もあり、しかし本日の話題はやっぱこれしかありません。 昨1日午前9時、名張市役所建設部都市計画室にお邪魔して名張まちなか再生プランならびに名張まちなか再生委員会に関するお話をお聞きしてまいりました。以下、ご報告申しあげます。
以上、お役所ハードボイルド「アンパーソンの掟」第一回「欺瞞という名の幕開け」をお送りいたしました。なんか来年の日本推理作家協会賞評論その他の部門はこの異色のノンフィクションで決まりかな、みたいな気もしてきました。 |
●7月3日(日) きのう足を運ぶ予定だった三重県立美術館の「ジェームズ・アンソール展」は、都合によりきょう出かけることになりました。そんな報告はどうでもいいとして、お役所ハードボイルド「アンパーソンの掟」第二回、さっそくお届けいたします。
それではまたあした。 |
●7月4日(月) 大絶賛連載中の「アンパーソンの掟」、きょうは第三回「六月の賢人会議」を掲載する予定でいたのですが、早くから出かけねばならぬ用事があり、時間が足りなくなったため勝手ながら休載いたします。作者急病のため、とかそんな理由ではありませんのでご休心ください。 それにしても名張市もいろいろ大変で、現在のところ2チャンネル的にいちばん話題になっているのは「【三重】子を持つ親たちの不安は募るばかり 三重大医師引き揚げ初日」とか「【三重】小児勤務医の「異常な勤務形態」【撤退】」とかってやつでしょうか。「アンパーソンの掟」のネタにできるかと思い、さっきまでずーっとこの手のページを閲覧しておりました次第。私も人から先生と呼ばれる立場の人間ではあるものの、お医者さんではありませんからこうした事態には手の打ちようがありません。 |
●7月5日(火) それではさっそくまいります。
ではまたあした。 |
●7月6日(水) お役所ハードボイルド「アンパーソンの掟」、いよいよ第四回を迎えました。
あすにつづきます。 |
●7月7日(木) きょうは七夕様か、と悠長な感慨に耽るいとまもあらばこそ、「アンパーソンの掟」本日もまいります。
どうなんでしょう。名張市役所ではかなり問題になっているのかなとも思われる次第ですが、実際のところはさっぱりわかりません。いやーくわばらくわばら。 |
●7月8日(金) 大絶賛連載中の「アンパーソンの掟」には、ここでしばらくお休みが入ります。なにしろ現実世界と同時進行するノンフィクションなんですから、現実世界の私が名張市役所四階の都市計画室で名張まちなか再生プランに関する話を聞いてくるというアクションしか起こしてない以上、そのゆくたての文章化が終わればお休みとならざるを得ません。 むろんアクションではなく思惟のみを描写してゆくという手法もあり、それを採用すればいくらでも延々と書きつづけることができるのですが、その手に訴えてしまった場合には読者諸兄姉の胃もたれが誘発される可能性もありますので、やはり無難に話頭を転じてインテルメッツォとまいりましょう。 これが万民に当てはまる傾向なのかどうかはわかりませんが、ノンフィクションを書いているとフィクションを紛れ込ませたいという欲望がむくむくと頭をもたげてくるようです。いやまあ、ノンフィクションといったってしょせん主観というフィルターを通すしかない道理ですから、すべてのノンフィクションは否応なくフィクションであるともいえるわけなのですが、私が申しあげているのはもっとベタな話で、アクションを捏造してストーリーを通俗的に盛りあげたくなるという欲望のことです。 昨日掲載した「パブリックでオープンなシークレット」の結びなど、これはもう明らかにこれからどんなストーリー展開になっても全然大丈夫な伏線なのであって、米英対アルカイダの不毛の戦いに捲き込まれたあげく中国大陸に逃れて馬賊の頭目となり、源義経と呼応して汎アジア統一戦線を結成するや戦後の広島で割に合わない代理戦争に身を投じ、最終的には銀河帝国の覇者になりながらもクレオパトラの差し向けた刺客に暗殺されてしまうというようなことになったとしたところで、ふと気づくとそれはつかのまに夢見た幻覚なのであった、なんて感じでいくらでも名張市役所の階段に立ち戻ってくることが可能なわけです。もちろんそんなことしませんけど。 ついでに申しあげておきますと、ノンフィクションとはいえ記述する事象は当然取捨選択されますから、きのうの「パブリックでオープンなシークレット」に記した中村伸郎のエッセイに関するくだりなど、普通なら不要な夾雑物として省かれてしかるべき部分です。しかし私は、伊賀の蔵びらき事件からあの老人三人の話を連想した自分の心の動きを面白いと思った。ですから、これがあとあと何かに結びついてくるのかもしれないなと考えて、敢えて取りあげておいた次第です。 あのエピソードが本当に無意識の発した警告であったとしても、そこに読み取れるのはせいぜいのところ、伊賀の蔵びらきにしても名張まちなか再生にしても、結局はどっち向いたって莫迦しかいないんだからもうほっといたら? といった程度の退嬰的なメッセージでしかないはずなのですが、私の職業倫理がそうした無意識の忠告を素直に受け容れることはないのではないかと思われます。それに私は莫迦をおちょくってやるのが大好きですから、どこを見回しても莫迦ばっかという状況は、むろんとてもとても頭の痛いものではあるのですが、私を結構喜ばせてくれるものでもあるようです。 そんなことはさておき、遅れておりました吉川弘文館の『奈良と伊勢街道』に関する言い訳の件です。私が何を言い訳するのかと申しますと、この本の「江戸川乱歩・横光利一」という節は私が執筆したのですが、乱歩と横光はともに三重県伊賀地域にゆかりのある作家ながら、厳密に申せば乱歩は名張市、横光は旧上野市および旧伊賀町(この場合の「旧」は昨年11月に市町村合併で伊賀市が発足する以前を指しているわけですが)に関わりがあるわけで、とくに旧上野市と名張市は当節の若貴兄弟がほんの駆け出しにしか見えぬほど遠い昔からきわめて仲が悪く、名張市民である私が乱歩のみならず横光の項まで執筆したとなるとこれはもう旧上野市や旧伊賀町、すなわちいまの伊賀市の市民のなかには、 「あッ。横光を名張に取られたッ」 などと住民感情というものに照らして考えればじつに無理からぬ悲憤慷慨をその胸に抱かれる人もいらっしゃるはずであり、ですからいやあれは何も私がみずから望んで横光を横取りしたというわけではないのだと、不倶戴天の相手である伊賀市のみなさんに対してそれだけはひとこと説明をしておきたいのだと、私は先からそのように申しておるではないか。 といった次第で、インテルメッツォのお題は吉川弘文館の「街道の日本史」第三十四巻『奈良と伊勢街道』と決定いたしました。 |
●7月9日(土) さて伊賀市民のみなさん。どうも申し訳ありませんでした。 と申しますのも、吉川弘文館から発行された「街道の日本史」第三十四巻『奈良と伊勢街道』におきまして、わたくしめは、 III 地域文化の繁栄 のなかの、 二 地域文化を作った人びと のなかの、 8 江戸川乱歩・横光利一 を執筆してしまいました。 いやそんな、執筆なんて表現はわれながら少なからず大仰でした。いささか口が滑りました。ほんとにもうちょっとした原稿です。同書239ページから243ページまで、わずか五ページにも満たぬ賑やかしにしか過ぎません。 原稿執筆の打診があったのは二年前、いやもう三年ほど前のことになりましょうか。版元からではなくて、この『奈良と伊勢街道』という本がカバーする地域で、つまり奈良県と三重県の一部なんですけど、その地元で執筆者のとりまとめを担当してる人、そんな方からこれこれこういう本を出すから乱歩のことを書いてくれと、そういった電話を頂戴したわけですね。名張市立図書館嘱託たるこのわたくしめが。 で、ここんとこよく聞いといてほしいんですけど、このときの依頼はあくまでも乱歩のことを書いてくれ、というものであった。つまり横光だろうが横溝だろうが横山だろうが横井だろうが、そんなおまけはいっさいなかった。これは天地神明に誓ってそうだったんです。しかも清廉潔白なるわたくしめは、この依頼を鄭重にお断り申しあげました。 断るというと横柄な印象ですが、まあわたくしめなりの見解をお伝えしたと申しますか、要するに乱歩なんて名張市や伊賀地域にはまったくといっていいほど無関係な人間なんです。ただ生まれただけ。 むろん父祖の地というわけでもなくて、乱歩の父親だって名張に二年ほど住んでただけなんですから、あなたそんなね、そんだけのつきあいしかないんですからね、乱歩がこのへんの地域文化に関係のある人間だなんてとてもとても、口が裂けたっていえるものじゃありません。そんなこと口走ってた日にゃしまいに詐欺罪でしょっぴかれてしまいます。 ですからわたくしめといたしましては、そりゃ書けといわれればいくらでも書かせていただきますけれども、おたくが企画してる本に乱歩はふさわしくないんじゃないですかと、これはいうところのミスマッチなんじゃないんですかと、まあ誠心誠意説明して電話を終えたわけでした。それはわたくしめも人間ですから、あーあ、原稿料もらいそこねたな、みたいな下賤なこともチラとは考えましたけど、はなっから企画に無理があるんですからしゃーありません。 時は過ぎ日は流れ、ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ新町橋の下を名張川が流れました。ある日のこと、わたくしめのもとに吉川弘文館から大判の封筒が届きました。開封して逆さにすると、「街道の日本史」の企画書やら何やらがずるずると滑り出てきます。 わたくしめはいつかの電話を思い出し、しゃーけん乱歩はあかんちゆーたろーがよー、と舌打ちしたいような気持ちで、しかしいくらかでも原稿料を稼げるのは端的にいってありがたいことである、というしみじみした幸福感が小鼻をひくつかせるような感覚をも覚えながら、その書類に目を通してみて驚くまいことか。 そこにはわたくしめの担当項目がくっきりと、しかしながらあまり達筆とはいえぬ手跡で、 「江戸川乱歩・横光利一」 と記されているではありませんか。しゃーけん横光ちいったい誰なら、とは思いませんでしたけれど、乱歩と横光な抱き合わせち話はちくっときつかけんねー、とわたくしめは思いました。心底そう思いました。 つまり何にせよ、わたくしめは別に横光利一のことを書かせてくださいとこちらから願い出たわけではなかった。知らぬまにこうなっていた。関知しない。与り知らぬ。これはいうならば不可抗力であり、人智の及びがたいことなのであるというのがきょうのお話の最大のポイント。伊賀市のみなさんにはその点をくれぐれもご承知おきいただきたいと、わたくしめはそのように念じておるわけです。 しかし伊賀市のみなさんは、それならば執筆依頼を断ればよかったではないかとか、おまえは乱歩の原稿だけ書いて横光のことは伊賀市の人間に任せればよかったではないかとか、そんな駄々っ子のようなことをおっしゃるかもしれません。何を血迷うておるのか。わたくしめは吹けば飛ぶような一執筆者に過ぎず、本の内容に容喙できるような立場にはありません。そんなこともわからんのか。これだから田舎者は困るというのだ。 それに、もしかしたらわたくしめの忠言を容れてくれたのでもありましょうか、乱歩と横光の合わせ技一本で項目を立てることにした編集サイドの苦衷、いや苦衷といっては大袈裟に過ぎましょうが、要するにいわゆる苦心の跡みたいなものも理解できるような気がしましたので、わたくしめは企画書に同封されていた葉書にさらさらと、はいわかりましたと、承知つかまつりましたと、せいぜい努めさせていただきますと、そのように記して版元宛に投函したわけです。そして決意しましたわたくしめは。 ──さ、横光、読まなきゃ。 と。 |
──するってえと何かい。 と、伊賀市民のみなさんはわたくしめにおっしゃることでしょう。おめえさんは作品読んだこともねえくせに横光の原稿書くことを引き受けたってわけかい、と。 まことに相済みません。仰せのとおりでございます。このわたくしめ、せいぜいが人並みにしか、横光利一という作家の作品を読んだことがありませんでした。でありますからこそ、 ──さ、横光、読まなきゃ。 と決意したわけなんです。殊勝なものではありませんか。 そもそもわたくしめの世代におきましては、あるいは、わたくしめの世代におきましても、というべきなのかもしれませんが、横光利一はすでに過去の人でした。すでにして読まれぬ作家でした。ですからわたくしめが高校生くらいのときに親しんだ横光作品は、いわゆる初期短篇のみにとどまっておりました。 煎じ詰めていってしまえば、 「沿線の小駅は石のように黙殺された」 という「頭ならびに腹」のよく知られた一行、この一行をしか読まなかった。そう断言してもいいように思います。とはいえ、これは決して悪いものではありませんでした。実験精神。レトリシャン魂。そういったものが生意気盛りの高校生に訴えかけないはずはありません。しかしその先には行けない。 時代が悪かったといえばいいのでしょうか。まあ昭和20年8月15日に日本が戦争に負けて以来、横光にとっていい時代なんて一度たりともありゃしなかったわけなのですが、とくにそこらじゅうの大学で学生が普通にゲバ棒ふりまわしてるような時代には、高橋和巳は読まれても横光利一が読まれることはまずありませんでした。 とりあえず初期の先端的な試みを概観しておけばそれでよろしく、その総体なんてものは終戦という仕切り線の向こうの不名誉な愚行の記録として日本文学史の路傍にぞんざいにほっぽり出されている、大君の辺にこそ死んだやつなんかただのひとりも顧みはせじ、といったところが自分が高校生であった当時の横光文学をめぐる時代的風潮ではなかったかと、わたくしめは僭越ながらそのように推測しておるわけです。 そのあとも、横光の著作がほとんど手に入らないという時代が長くつづきました。わたくしめも岩波文庫の『日輪・春は馬車に乗って』を所有していただけでした。したがいまして同書収録の「機械」まで、これがわたくしめの読んでいた横光作品ということになり、このあたりがわたくしめの世代における人並みな横光体験といったことになるのではないでしょうか。 で、横光、読まなきゃ、と一念発起したわたくしめは、じつはひそかに、いっちょ河出の横光全集な揃えちゃろーか、と考えないでもありませんでした。こんなこと申しますと伊賀市民の方はきっと、 「へっ。何が横光全集か。そんな甲斐性もないくせに」 と、わたくしめのことを嘲笑なさることでしょう。そんなことおっしゃっちゃいけません。甲斐性などという薄汚れた世間知で文学を語るな。それに敢えて甲斐性という言葉をつかうなら、文学という名の宝冠は甲斐性なしの頭にこそ燦然としているべきものなんですから、伊賀市民ごとき無教養な連中がわたくしめのことをとやかく申すものではない。そんなこともわからんのか。おまえら伊賀市民の教養のなさと来たらまるで名張市民なみだな。これだから田舎者は困るというのだ。 とは申しますものの現実には、横光利一全集を揃えるだけの甲斐性なんて逆立ちしてもあるもんかという、まさにそのとおりの状態ではありましたので、とりあえず近所の本屋さんで講談社文芸文庫に入っている横光の著作すべて、それから大阪の本屋さんで新潮日本文学と新潮日本文学アルバムそれぞれの横光の巻を買い求め、講談社文芸文庫には二冊ほど品切れもあったのですが、とにかく準備が整いました。 わたくしめはそれらの横光作品を順番に片づけてゆきました。旧上野市立図書館(現在の伊賀市上野図書館)にちょっとだけ通って、横光利一全集に収録された随筆や書簡や対談などのうち必要と思われるものを片づけました。それでも横光作品の一部に目を通しただけという状態ではあったのですが、よし、これで片づけたことにしようと踏ん切りをつけ、原稿執筆に入りました。 原稿を書くにあたって心がけたのは、とにかく乱歩と横光を平等に扱わなければならんな、ということでした。もしも乱歩に関する記述のほうが多かったりしたら、旧上野市や旧伊賀町のみなさんから何とゆうて叱られるか。このわたくしめの頭には、まるでバースデーケーキを人数分に切り分ける役目を仰せつかった子供みたいに、ただもう平等にという言葉しか、それしか存在してはおらなんだのでありました。 |
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