2007年10月下旬
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10月21日を迎えました。 われらが乱歩の百十三回目のお誕生日となっております。 とりいそぎウェブニュースをどうぞ。いわゆる電子書籍の売りあげベストテンらしいのですが、お誕生日のご祝儀相場というわけでもあるまいに、乱歩の著書がなぜかトップに輝いております。記事は省いてベストテンのみ引用。
何がどうなっているのかさっばりわかりませんものの、とにかくおめでたいようなことではありますので、乱歩百十三回目のお誕生日にふさわしい話題としてお伝えいたしました。 |
いまごろかよッ、シリーズ第三弾。 中島河太郎先生の生誕九十周年を記念した資料展「推理小説研究の開拓者 中島河太郎とその仕事」が9月30日から11月4日まで墨田区立緑図書館で開催されております。 いまごろかよッ。あと十日ちょっとかよッ。 本日入手いたしました企画展のチラシから案内文をば引用。
途中ですけど、なーるほど、ミステリーは図書館の伸張にも少なからず寄与していたのか。だから新町の細川邸を名張市立図書館ミステリ分室にしとけばすべてがまるく収まったっていうのに。ばかだなあ名張市。閑話休題。
ミステリーのみならず柳田国男や正宗白鳥とのかかわりなども視野に入れ、豊富な資料で中島先生の全体像が紹介されているようです。開館は午前9時から午後8時(日曜は5時)まで。入館無料。月曜と11月3日は休館日となっております。緑図書館の案内は墨田区オフィシャルサイトのこのページでどうぞ。 ところで、生前の中島先生から蔵書の寄託を受けて1999年に開設されたミステリー文学資料館ですけれど、聞きおよびますところ今年の春で寄託の契約期間が満了したとのことで、上の引用にも「中島氏の遺志を継いで資料管理にあたっている」とあるとおり、先生の蔵書は現在ご遺族の手で管理されているようです。 ところで名張市のミステリー文庫構想とかいうのは、いったいどうなってしまったのかな。ミステリーはおろかろくに本を読む習慣もない連中が、はいつくりました、はいおしまいです、みたいなことでまた名張市の恥を満天下にひろめてくれるのであろうけれども。 |
ああ、もうとっぶりと日が暮れてしまった。月が出ている。静かな夜に、月がむなしくあかりをともしているだけだ。 ──人もライオンも、鷲も雷鳥も、蜘蛛も鵞鳥も、角をはやした鹿も、水に棲むもの言わぬ魚も、ヒトデも目に見えぬ微生物も、つまり──いのちあるものはすべて、すべて、すべてその物悲しい周期を終えて、消え去った……何千世紀ものあいだ、この地球はいのちあるものをなに一つ歩ませず、あのあわれな月がむなしくあかりをともしているだけだ。牧場には目覚めた鶴の鳴く声も聞かれず、菩提樹の林には黄金虫の羽音もたえた。 とかただの思いつきでチェーホフの「かもめ」のせりふコピー&ペーストして行数かせいでんじゃねーぞ、と厳しく自省しつつ、しかし別に行数を稼がねばならぬ筋合いもないのですが、ともあれ翻訳は小田島雄志さんとなっております。 本日はごくあっさりと、こんなウェブニュースでご機嫌をうかがいます。
限定百本の受注生産だそうですが、いったいどんな人が申し込むのでしょうか。文学に関心をもってほしい若い人にはとても手が出ないのではないか、かりに手が出たとしてもそれが文学への関心にどうつながるのか、とか意地の悪いこと書いてないで、さあお酒にしようっと。 |
きのうのつづき、「科学画報」の件です。 もしも大正15年8月号の Q&A 欄に乱歩が眼を通していなかったら、「鏡地獄」は書かれることがなかったのでしょうか。たぶんそうとも限らないでしょう。なにかしら別のきっかけから着想を得て、乱歩は球体の鏡にまつわる恐怖を作品化したのではないかと考えられる次第なのですが、それはともかく、実際には「科学画報」に掲載された鞍手中学校の安河内五郎君の質問が乱歩に「鏡地獄」を書かせたわけなんですから、これはもうまぎれもなく五郎君のお手柄だということができるでしょう。 ところで、鞍手中学校というのはどこにあるのか。あるいは、あったのか。ネットを検索すると簡単に調べがついて、福岡県直方市にある県立鞍手高等学校の前身らしく、開校は大正7年。となると妙に夢野久作ふうな感じがしてきますが、ここで試みに安河内五郎という人名を検索してみますと、話はいよいよドグラマグラってくるみたいです。 Google 検索で安河内五郎なる人名を検索すると、まず『急性一酸化炭素中毒』という著書のデータがひっかかってきます。1972年、医学書院発行。それから、あるブログの2007年5月29日付エントリ「電気ショック療法は日本人が発明した?」、さらには躁鬱病関係のサイトの「ECT に関する倫理的、社会的諸問題について」というページなどを閲覧しますと、安河内五郎というのはどうやら医学者で、日本における電気ショック療法の権威者というか第一人者であったらしく、それならばと手許の弘文堂『精神医学事典』を引いてみますと、「電気ショック療法」の項に「わが国では、安河内、向笠法に準じて」といった記述を見ることができます。へーえ、とか思いながらまたネット検索に戻りますとこれはやはり相当ドグラマグラってる話であるようで、九州大学医学部のサイトにこんなページがあったではありませんか。 なにこれ。「精神病態医学 下田光造とドグラマグラの時代」って、ほんとにドグラマグラじゃん。関連箇所を引用しておきます。
呉秀三門下の下田光造のそのまた門下のひとりが安河内五郎であり、向笠広次とともに電気ショック療法を開発したというのですから、その開発過程ではそれはもう動物実験とかあるいは人体実験とかも行われたのではないかと想像され、するってえとこれはもうドグラマグラってるいっぽうで諸戸道雄ってる話でもあって、事実は小説より奇なりとはこのことか。 いやいや、「科学画報」に投稿した鞍手中学校の安河内五郎君が後年の安河内五郎先生なのかどうか、確たるところは不明なのですが、私は同一人物であってくれたらいいのになと思います。安河内五郎君はたぶん鞍手中学時代から医学を志した秀才で、それでもときどき球の内部を鏡張りにしてそのなかに入ったらいったい何が映るのかなとか考えたりして、「長い間考へて見ましたが考へれば考へる程分らなくな」ってしまったりするちょっとユニークなところもある中学生だったのでしょう。 もしかしたら小説なんかにはあまり興味がなく、お医者さんになってからも医学の道を究めるのに忙しくて、探偵小説だの乱歩のことだのはほとんど知らなかったのかもしれません。だとしても、というか、だからこそ、乱歩と安河内五郎君が「科学画報」の誌面を通じてただ一度だけ人生の軌跡を交錯させたというその事実が、私にはなにかしら美しい奇蹟のようなものに思いなされてくる次第です。 |
いまごろで悪いかよッ、シリーズ第二弾。 それにしても、乱歩はどうして「科学画報」の大正15年8月号なんかに眼を通していたのでしょうか。大正15年は乱歩みずから「最初の多作期」と回顧している年で、少年少女向けの科学雑誌をひもといている余裕などなかったのではないかと思われます。ひとつ考えられるのは、長男のために「科学画報」を定期購読していたという線でしょう。しかし平井隆太郎先生は大正10年のお生まれですから、「科学画報」を読むにはまだちょっと幼すぎる感じです。 しかし、とにかく、乱歩は「科学画報」の大正15年8月号を読んでいた。ならば、その三か月前の号を読んでいなかったとは誰にも断言できますまい。もしも読んでいたのだとしたら、たいへん面白いことになってきます。 これも先日、大正15年8月号の Q&A 欄とともにコピーをお送りいただいたのですが、「科学画報」大正15年5月号(6巻4号)には東京帝大医学部病理学教室の医学士、福田保による「医学の驚異 人工で生きた怪物を作る話」という読みものが掲載されています。これがなんと読者諸兄姉もうっすらお察しのそのとおり、「孤島の鬼」に出てくるような怪物の話なの。「孤島の鬼」の「無気味な両頭生物」をいやでも連想させるおはなしが、大正15年の「科学画報」に載ってたわけなの。 いまごろで悪いかよッ。いまごろでも上等じゃねーかッ。 冒頭の四段落を引いておきます。
誌面のコピーもご覧いただきましょう。 下の写真に写っているのが「胸部で癒合して居る」ところの「マリア・ロザリナ」だそうです。 むろん乱歩にもシャム双生児にかんする知識はあったはずですが、パラビオーゼなる「比較的新しい医学上の実験の一つ」があることまでは知らなかったのではないか。で、「パラビオーゼを人間で作つて見たなら」というくだりが、つまりはシャム双生児を人工的につくってみるという発想が強く印象に残ったのではないか。もとよりこれは乱歩がこの記事を読んでいたと仮定しての話なのですが、どうもそんな気がします。 コピーを送ってきてくださった方はこの記事が「孤島の鬼」のヒントになったのではないかとご推測なのですが、その可能性は少なからずあるでしょう。そのあたりのことはまたあすにでも記すことにいたしますが、日本人名大辞典のウェブ版によれば、この記事を執筆した福田保は明治25年、茨城県に生まれ、昭和49年、八十二歳で死去(1892−1974)。病理学から外科学に転じ、三楽病院外科医長などを経て東京帝大、順天堂大で教授、杏林大の新設で同大学長、とのことで、なんだかほんとに諸戸道雄。 |
乱歩と「科学画報」の関係について、掲示板「人外境だより」で貴重なご教示をたまわりました。さっそく転載。
思いもおよびませんでしたが、この線はありだと思います。というか、この線しかないのではないでしょうか。 日本人名大辞典のウェブ版によれば、原田三夫は明治23年、愛知県に生まれ、昭和52年、八十七歳で死去(1890−1977)。北海道帝大講師などを経て、大正12年「科学画報」、13年「子供の科学」の創刊に携わり、昭和28年には日本宇宙旅行協会を設立、その会長に就任しました。肩書としては、科学ジャーナリスト、といったところでしょうか。 荒俣宏さんの『大東亜科学綺譚』に収められた「火星の土地を売った男」からちょっとだけ引用。
ちなみに日本宇宙旅行協会が発足した昭和28年、乱歩は「少年」に「宇宙怪人」を連載し、終幕では二十面相に世界平和の大切さを力説させているのですが、そんなこと書いてると話がどんどん横道にそれていってしまいますので、乱歩が小酒井不木とのゆかりから「科学画報」を読んでいたのであれば、大正15年8月号のほかにも福田保の「医学の驚異 人工で生きた怪物を作る話」が掲載された同年5月号に眼を通していた可能性が高くなるような気もするなというぼんやりした推測をここに記し、何はともあれ貴重な情報をお寄せくださった wen-ju さんにお礼を申しあげて、先に進みたいと思います。 さてそれで「孤島の鬼」。『探偵小説四十年』にはこのように書かれています。昭和3年の話です。
乱歩はタイトルを明記していませんが、「中国の片輪者製造の話」が出てくる鴎外作品は、たぶん「ヰタ・セクスアリス」だと思われます。以前にも一度ご紹介いたしましたが、それらしいところを引用しておきましょう。以前は現代日本文学大系第七巻『森鴎外集(一)』を底本といたしましたが、今回はちくま文庫版森鴎外全集第一巻『舞姫 ヰタ・セクスアリス』。
「赤子を四角な箱に入れて四角に太らせて見せ物にした」という「虞初新誌」の「片輪者製造」と「孤島の鬼」のそれとのあいだには、いささかの飛躍があることに気づかされます。つまり後者は外科的手術によって怪物をつくるという話なんですから、「虞初新誌」から「孤島の鬼」にたどりつくためには、乱歩は福田保のいうパラビオーゼ、つまり「二匹或は三匹の動物を、生きたまゝで身体を接ぎ合せる」という「比較的新しい医学上の実験」にかんする知識を有していなければならなかったはずです。「虞初新誌」や西洋の不具者にかんする書物をいくらあさってみたところで、昭和初年の外科学について知ることは不可能です。 だからやっぱり乱歩は、「科学画報」大正15年5月号に掲載された「医学の驚異 人工で生きた怪物を作る話」を読んでいたのではないかしら。そこから得た知識が「孤島の鬼」の執筆に生かされたということなのではないかしら。『探偵小説四十年』にそのことが記されていないのは、乱歩がそれを忘れてしまっていたからなのではないかしら。『探偵小説四十年』における「孤島の鬼」の回顧は昭和28年に記されたもので、つまり乱歩は二十五年も前のことを記憶に頼って書いていたわけですから、すっかり忘れはててしまっていても無理はありません。 「鏡地獄」と「科学画報」の関係についていえば、これは昭和4年の「楽屋噺」に記されたところが『探偵小説四十年』にそのまま引かれていたわけですから、「楽屋噺」執筆時には「科学画報」の Q&A 欄という細部の記憶が乱歩の頭のなかで生きていたということでしょう。 とりあえず、まあそんなようなところです。「科学画報」の大正15年5月号と8月号から、まことに示唆に富む二本の記事を探し出してわざわざコピーをお送りくださった方にお礼を申しあげます。本日はお礼ばかり申しあげております。 |
本日はまずお知らせ一件。神田神保町オフィシャルサイト「BOOK TOWN じんぼう」のこのページをどうぞ。 10月29日と30日、東京古書会館地下ホールで三好大輔監督のドキュメンタリーフィルム「和本」の完成披露試写会が催されます。第四十八回東京名物神田古本まつりの併催イベントで、主催は東京古典会、協賛は神田古書店連盟と東京都古書籍商業協同組合。午後6時30分上映開始。入場無料。 「和本」の紹介文を引用しておきましょう。
まあそういうことのようです。 つづきましてウェブニュース。毎日新聞オフィシャルサイトで第五十三回学校読書調査の結果が発表されました。
小学生から高校生までの「人気の本ベスト5」では、中学一年男子のランキングに乱歩作品が登場、「バッテリー」シリーズと結構互角に渡りあってます。
★がついている作品はいわゆるケータイ小説。どんなんやねん、とか思います。 |