2008年7月
28日 人間豹が戻ってまいりました
29日 「大衆文化」創刊準備号が出ました
30日 ベネチア国際映画祭に「INJU」
31日 堀切直人さんの『新編迷子論』
 ■7月28日(月)
人間豹が戻ってまいりました 

 暑い日がつづきます。暑さにまぎれてこっそり帰還いたしました。乱歩の命日くらい何かしら伝言があるのではないかと、最近は開設者でさえ見向きもしていなかった名張人外境をご閲覧くださった諸兄姉にお礼を申しあげます。暑さのせいか、気の迷いか、人間豹が戻ってまいりました。

 さっそくお知らせです。平井隆太郎先生の『乱歩の軌跡 父の貼雑帖から』が東京創元社から出版されました。奥付の発行日はきょう7月28日、すなわち乱歩の命日となっております。合掌。

 版元のサイトの新刊紹介「乱歩の軌跡 父の貼雑帖から」には函の写真が掲載されておりますので、ここでは表紙をご覧いただきましょう。

 長きにわたって更新をお休みしていたせいかして、画像をアップロードする手順の一部を忘れてしまっておりました。こんなことでいいのか、と思いつつ、きょうのところは軽くこれくらいで失礼いたします。


 ■7月29日(火)
「大衆文化」創刊準備号が出ました 

 立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センターから「大衆文化」創刊準備号が出ました。といっても今年春のことで、発行日は3月25日。お知らせするのが遅くなって、まことに遺憾に存じます。

 誌名が示すとおり、小説、映画、演劇、雑誌など、広範な分野の大衆文化をカバーする評論と随筆が収められていますが、そこはそれ乱歩を記念した大衆文化研究センター、巻頭には口絵写真「乱歩/喧騒の車町時代(昭和八〜九年)」が配され、巻末には大正9年に執筆された「二銭銅貨」の草稿が写真入りで翻刻されていて、乱歩ファンなら見逃せない一冊となっております。

 掲載された丹羽みさとさんの評論「雲を凌ぐ──『押絵と旅する男』と浅草十二階──」は、浅草という場にせめぎあった現実と魔力とを探る一篇。結びの段落をお読みいただきましょう。

 「押絵と旅する男」で、レンズの「魔力」がいくら魅惑的に記されていても、雲状のもやである蜃気楼は崩れ、現実の凌雲閣、すなわち浅草十二階は崩壊し、押絵となった兄は年を取り、そして押絵人形の娘は人形のままである。大阪にいて、大震災への実感が伴わなかった乱歩は、浅草にあるはずの十二階が消失していることにも、実感がわきにくかったと思われる。しかし、「魔力」で作られた「別の世界」が永遠に続くものではないように、乱歩にとって十二階の消失が受け入れ難いものであっても、十二階のある世界に安住することは許されない。レンズの「魔力」の失効が描かれている「押絵と旅する男」を執筆することは、乱歩にとって幻惑を乗り越え、十二階のない、現実の浅草を受け入れるために必要な禊ぎであったのかもしれない。

 気になるお値段は税込み五百円。ややくわしいことは、ググったらトップでひっかかってきたジュンク堂書店「大衆文化 創刊準備号 2008.3」でどうぞ。


 ■7月30日(水)
ベネチア国際映画祭に「INJU」 

 なんか暑いですから、きょうは「RAMPO Up-To-Date」の更新だけにとどめ、伝言板はお休みにしようかと考えていたのですが、思い直して来月27日に開幕するベネチア国際映画祭の話題。

 朝日新聞の昨日付ウェブニュース「北野・宮崎・押井作品 ベネチア映画祭のコンペ参加」によれば、コンペティション部門に「陰獣」を題材にしたフランス作品「INJU」が参加するそうです。

 そういえば以前、この映画のスタッフの方から、大江春泥の名前入り原稿用紙をつくりたいのだが、との問い合わせをいただいたことがありました。実際にそんな原稿用紙がつくられ、映画のなかで使用されることになったのかどうか、その点はさっぱりわかりません。


 ■7月31日(木)
堀切直人さんの『新編迷子論』 

 どのようにでもなっておしまい、とばかり投げやりになってサイトの更新をほっぽらかしていたころには、乱歩がずいぶん遠い人になってしまったなという実感がありました。しかしえらいもので、こうやって毎日、とにもかくにも、なんであれかんであれ、みずからのサイトで乱歩の話題にふれていると、乱歩がふたたび近しい人になってくれつつあるような気がしてきます。近しい人というよりは、懐かしい人というべきでしょうか。

 堀切直人さんの『迷子論』が、堀切直人コレクションの一冊『新編迷子論』としてよみがえりました。今年4月の発行で、版元は右文書院、本体二千二百円。収録作品は1981年刊行の『迷子論』から取捨選択されたほか、堀切さんが学生時代にタイプ印刷で自費出版したという『冥府もぐり』からも採られていて、そのあたりが「新編」のゆえんでしょう。ややくわしいことは版元のサイトの「堀切直人コレクション3『新編迷子論』」でどうぞ。

 『冥府もぐり』から再録された「閉ざされたエロスの行方 江戸川乱歩と夢野久作」では、中学生あるいは高校生だったころの読書体験から乱歩と久作が語り始められており、読者個人の読書の記憶をも呼び醒まして、いささか後ろ暗いような懐かしさを覚えさせます。冒頭の二段落を引いておきましょう。

 私は中学生のころ、ご多分に漏れず江戸川乱歩の恐怖小説を読みふけった。その小説は、甘美な恐怖の溶液のなかに漬けられた幼児的なエロティシズムをすべて視覚的なものに転化し、きらびやかだがまがいものめいた外面を読者の前に次々と展開してみせた。それはわたしたちに文学的な内面的経験を与えるものではなく、紙芝居や衛生博覧会や見世物小屋で何か見てはならないものを見てしまうような、後ろめたい秘め事的な体験と同一平面に並べられるのがふさわしいだろう。わたしたちは少年時に、江戸川乱歩の小説という覗きからくりを通して、閉ざされたエロスを覗いてしまったのである。覗きの与える興奮はわたしたち少年にとってしたたかのものであり、いまだにわたしたちの体のどこかにその時の快感や生理が残されている。乱歩体験は、少年にとってはひそかな事件なのである。
 江戸川乱歩の小説の魅力は、自分の小児性性格という体質にぴったり密着したところにある。彼の作品群は見かけの多様さにもかかわらず、小児的ナルシシズムのなかに全部吸いこまれてしまう。「現し世は夢、夜の夢こそまこと」を座右銘としたように、彼はナルシスティックなエロティシズムの夢を中断するような外界の現実の騒音を一切遮断して、自分ひとりの夢想の密室のなかで夢の黄金を抽出しようとしている。変身願望、隠れ簑願望、扮装欲求、空間忌避傾向、人形愛好、表象愛、フェティシズム、母胎還帰衝動、同性愛、死体愛好、レンズ嗜好、窃視症、夢遊歩行、サド・マゾヒズムなどの、彼の体質から派生してきた性の病理が、あざとい舞台をバックに上演される芝居の雰囲気を醸し出す。

 人は乱歩を語るとき、なぜかしらみずからの少年時代を懐かしく想起することから始めてしまうものらしいのですが、乱歩体験が少年期のひそかな事件であったというのであれば、それも当然のことかもしれません。