大正元年 1912 18歳
住居 愛知県名古屋市朝鮮・馬山東京
学年 愛知県立第五中学校五年早稲田大学政治経済学部予科
1月
2月
3月

中学校卒業。

中学時代の席次はクラスの中程より少し上で、一年生の十五番が最高、多くは二、三十番だった。病弱で学校を休みつづけ、何の取り柄もない生徒だった。
4月
5月
6月
父の経営する平井商店が破産。愛知県立第八高等学校入学を断念、父とともに朝鮮に渡り、馬山にいた父の旧友の家で一、二か月を過ごす。父は開墾事業を計画していた。
7月
8月
馬山から単身上京。麻布区一ノ橋付近に住む父の旧友・菅生辰次郎の家に居候し、早稲田大学予科中途編入試験に通う。菅生は名古屋時代、父の書生をしていた。
9月
早稲田大学政治経済学部予科に入学。横浜市に住む叔父・岩田豊麿の世話で、下谷区湯島天神町の小活版屋・雲山堂に住み込み、学校の余暇に印刷を手伝うが、南京虫と過労のため三か月ほどで退職。
10月
11月
12月

雲山堂主人の親戚の紹介で、小石川区春日町の下駄屋の二階にいた苦学生二人の仲間入りをし、四畳半に三人住まいで自炊生活をする。

のちに一人加わり、四人暮らしとなる。職業は写字だったが、仕事はあまりなかった。一か月一人五円ほどで食費、間代をまかなう。

母方の祖母・本堂つまから月七円ずつ仕送りを受けていた。学校の月謝は四円五十銭程度。

江戸川乱歩
 わが青春記(昭和32年11月)

 上京第一にやったアルバイトは湯島天神下の小さな活版屋の小僧だった。文選や植字はできないので、手フードのローラー係りや、小さな平版印刷機の紙はさみをやらされた。昼間通学するので、夕方から夜おそくまで、真黒になって働かなければならなかった。
 その家には、活字ケースの中に、いっぱい南京虫が巣くっていて、夜になるとはいだしてきてわたしを刺した。主人たちは部屋に吊ったハンモックにねて虫害を避けていたが、小僧のわたしは畳の上に寝るので、一週間もすると、からだじゅうが、赤い斑点に覆われてしまった。人前に出るのも恥ずかしいありさまになった。

▼江戸川乱歩推理文庫60『うつし世は夢』昭和62年、講談社

掲載2000年1月7日 最終更新2003年 10月 3日 (金)