大正3年 1914 20歳
住居 東京
学年 早稲田大学経済学部一年二年
1月
2月

旧友数人を誘って肉筆の回覧雑誌「白虹」を創刊。大正3年2月号から一年あまりのあいだに五冊ほど発行する。

うち三冊に発表した作品は、「経済学上の慾望の研究」、飜訳「経済学と心理学の関係を論ず」、幻想小品「夢の神秘」、叙事詩「オルレアンの少女」。

「白虹」を出し始めたころから経済原論、ことにその最初の人間研究に興味をもち、卒業まで興味が持続。ダーウィン「進化論」に感動し、クロポトキン「相互扶助論」を愛読、マルサス「人口論」に興味をもった。マルクスはまだ流行しておらず、最も影響を受けたのはダーウィンだった。

3月
「帝国少年新聞」の発刊を思い立ち、「主意書」「推薦状」などを印刷。菅生辰次郎の弟・邦三から二十円の出資を受けたが、資金がつづかず、印刷物もほとんど発送しないままに終わった。
4月
5月
叔父・岩田豊麿一家が横浜から上京、牛込区西江戸川町に家を借りる。祖母とともに同居。
6月
7月
8月
8・9月ごろ 母が通、敏男を伴い朝鮮から上京。早大野球場裏に家を借り、素人下宿を開業。祖母とともに岩田家から移る。
9月

9月ごろ 学校の余暇に憲政会院外幹事・川崎克の経営する「自治新聞」の編集を手伝い始める。

菅生辰次郎が奥田商店をやめ、同郷(伊賀)だった川崎克の新聞を手伝っていた縁で、乱歩は川崎に紹介された。編集所は鍛冶橋の近くにあり、先輩にやはり早大生の長谷川光太郎がいた。のちに大隈重信暗殺を企てた下村馬太郎も事務員として通勤していた。

乱歩は長谷川と二人で編集にあたったが、のち一人で手がけることになり、記事のほかカットなども担当。『貼雑年譜』には「評伝子」名義で執筆した「金原明善翁」の記事が残る。「自治新聞」は11月5日に第1号を発行、年末に大正4年1月号(第4号)を出し、資金難のため廃刊。

10月
11月
11・12月ごろ 一家は牛込区喜久井町に移転。一、二人の下宿人を置く。
12月
年末 父が朝鮮から帰り、家族が揃う。
この年

大学二年当時、海外探偵小説を愛読し始め、飜訳を試みる。暗号文に興味をもち、上野図書館で調べたこともある。

飜訳した作品は、ドイル「グロリア・スコット号」「舞踏人形」「試験騒ぎ」、アンドレーエフ「我狂せりや」。

「日本少年」に連載されていた三津木春影の冒険小説が作者死去のため中絶、続編が懸賞募集されたため、「悪魔ヶ岩」を下書きしたが、自信がなくて投稿はしなかった。

掲載2000年1月7日 最終更新2003年 10月 3日 (金)