大正4年 1915 21歳
住居 東京
学年 早稲田大学経済学部二年三年
1月
2月

2・3月ごろ 一家は牛込区赤城下町に移転。父は火災保険会社に勤務。

一家がもっとも困窮したころで、乱歩は川崎克の世話で内職をしながら大学に通った。
3月
4月

4月ごろ 一家は丸之内三菱ビルにあった奥田正吉商店の地下室に移転。

奥田正吉は父が名古屋時代に支配人を勤めていた奥田正香商店の子息。その好意で一家に地下室が与えられ、父は奥田商店の手伝いをした。乱歩も手伝うことがあり、同じビルに事務所をもっていた福沢桃助が商店に来たとき、お茶を運んだこともあった。
5月
6月
7月
7・8月 学校の夏休み中、上野黒門町付近の小学校にある市立図書館に勤務。地下室から徒歩で通勤する。
8月
9月
10月
10月ごろ 一家は牛込区新小川町に移転。
11月

京橋区本八丁堀の天野邸に家庭教師として週二回通勤。翌年7月まで三人の子女を教える。

家庭教師も川崎克の斡旋によった。天野家は川崎の実妹の嫁ぎ先。女学校二年の女の子に英語、小学校上級の男の子に数学はじめ全教科を教え、小学校三年生くらいの男の子には毎晩ひとつずつお伽話を聞かせた。自宅から天野邸へ向かう道すがら、お伽話の筋を考えたという。
12月
この年
大学三年当時、ゼミナールに興味をもち、研究報告を行う。時局財政経済問題研究会をつくり、「早稲田学報」に「交戦国の財政」を発表。
掲載2000年1月7日 最終更新2003年 10月 3日 (金)