大正5年 1916 22歳
住居 東京大阪
学年・職業 早稲田大学経済学部三年加藤洋行勤務
1月

22日 牛込区新小川町に大きな家を借り、叔父の岩田一家と平井一家が同居。

この家で卒業論文を書き、「奇譚」と題する探偵小説読書目録をつくった。
2月
3月
13日 妹・たま(次女)誕生。
4月
5月
6月
7月

早稲田大学を卒業。学者になる野心がないでもなかったが、貧乏のため研究科にとどまることができなかった。卒業の成績は優秀だった。

卒業直前、アメリカに渡航し、皿洗いをしてでも英語の文章に習熟して、アメリカで探偵小説を発表することを夢見る。先輩に謀り、運動も試みたが、アメリカへの船賃を出してくれる人さえなかった。
8月

川崎克の紹介で、大阪靱中通二丁目にあった加藤洋行に就職、二階に寄宿する。

入社まもなく、南洋方面の日本人商館などから注文される雑貨の仕入れ係となり、大阪市内外の問屋を歩き回る。セレベス島のメナド港に日本人の店があり、面倒な品物をよく注文してきた。
9月
10月
11月
12月
年末 仕事で手柄を立てたので思いがけずボーナスを貰い、遊蕩を覚える。
この年

三重県津市で徴兵検査を受け、第二乙種歩兵補充兵となる。入営はせず、数年間にわたって毎年、簡閲点呼を受ける。

大正5年ごろ 短篇「火縄銃」を書き、阿武天風が主筆を務めていた「冒険世界」に送る。森下雨村に認めらる

川崎やす子
 純な太郎さん(昭和2年6月)

 早稲田を大正五年に卒業された時には、主人も大変喜んで就職口のことも心配しましたが『実業界に出たいから』と云ふお話なのでとりあへず主人のお友達の加藤定吉さんの加藤洋行にお世話いたしました〔。〕
 妾はその時『何もお餞別にする物はないが、たゞ太郎さんは余り純だから、女の事で失敗なさりはせぬかその点が気懸りですから、どうかその点を注意して下さいよ』と餞別いたしました。
 大阪へ行かれましてから、一年ほどたつて宅へ参られました時にはスツカリ以前の風とは打つて変つてゾロリとした柔か物をきて、縮緬の長襦袢などを着て居られましたので、妾はハツとして主人と一緒に
 『太郎さんお遊びになるのぢやありませんか?』と訊ねました処、
 『友達に誘はれましてつい──』と云ふ事でした。少し心配をいたして居りましたら、その後案の条、遊興がもとでお店を止されなくてはならぬ様になりました。

▼『江戸川乱歩全集第七巻』昭和6年、平凡社

掲載2000年1月7日 最終更新2003年 10月 3日 (金)