大正6年 1917 23歳
住居 大阪放浪東京大阪三重県鳥羽町
職業 加藤洋行勤務失業タイプライター販売鳥羽造船所勤務
1月
2月
3月
4月
5月

5月ごろ 加藤洋行を出奔し、伊豆の温泉などを放浪。温泉宿で初めて谷崎潤一郎を読む。

出奔した理由の根底には「学問の夢」があった。
6月

6月ごろ 東京に戻り、本所区中ノ郷竹町の仕事師の家の二階を借りて、身の回りのものを売って生活する。

本所材木町にあった活動写真会社を訪ね、弁士を志願。江田不識という弁士を紹介されて弟子入りを依頼するが、無給と聞かされて退散する。「映画横好き」大正15年1月

この時期、図書館で映画に関する資料を調べ、大正9年7月、それに基づいて映画論を書く。

7月

住居が父の知るところとなり、母が訪ねてきて、大阪市亀甲町にあった父の家へ連れ戻される。父は弟・通を使って軸受メタルの製造をしていた。

父の家には四か月ほど居候し、タイプライターの販売員を経験。商店や会社を回ったが、一向に売れなかった。

この時期、「火星の運河」のもとになった散文詩風の作品を執筆。

8月
9月
10月
11月
11日 父の知人の世話で、鳥羽造船所電機部に入所。庶務係となり、造船所社員倶楽部に住む。
12月
中ごろ 鳥羽町本町、稲垣氏の下宿に移る。
掲載2000年1月7日 最終更新2003年 10月 3日 (金)