大正7年 1918 24歳
住居 三重県鳥羽町
職業 鳥羽造船所勤務
1月
2月
3月

 城山の済美寮に移る。

この寮で、深夜付近の禅寺に一人で座禅に出かけたり、会社を休んで自室の押入に寝ていたりした。文学や哲学に縁のあることを喋り、それが造船所技師長・桝本卯平に気に入られて、気儘な勤務を容認される。

深夜、悪友と山田市へ遊びにゆくため自動車で峠越えをしたところ、自動車が崖から転落、崖の途中に生えていた数本の松の木に車体を支えられ、命拾いをしたこともある。

父母と妹・玉子は大阪からふたたび朝鮮に渡る。父は忠清北道沃川郡青南面南三里にあった知人所有の青南鉱業所を経営。

4月
5月
6月
7月
8月

27日 母方の祖母・本堂つま、牛込区新小川町の叔父・岩田豊麿の家で病死。六十九歳。葬儀のため上京する。

叔父の発案により、本堂家の跡目相続者を抽籤で決定。弟・敏男が籤に当たる。祖母の遺産二千円は、叔父の長男と敏男が千円ずつ貰い受けた。千円は朝鮮の父母が管理したが、のちに古本屋の開業資金となる。
9月
 鳥羽造船所の同僚である鈴木茂、松村家武らと「鳥羽おとぎ倶楽部」を結成。鳥羽の劇場や小学校でお伽話の会を開いた。
10月

15日 鳥羽町の扇座で音楽部大会が開かれ、坂手小学校教師の村山隆子が男性教師とオルガン、ヴァイオリンの合奏を行う。

乱歩は「日和」第2号にこの大会の短信を執筆。のちに妻となる村山隆子と文通をするようになったが、親しく話し合ったことはなかった。真面目な隆子が手紙のなかに結婚のことを記し始めたので、独身主義者だった乱歩は自分の考えを隆子に伝え、結婚する意志がないことを表明。このことについてよく話し合おうと思っているうちに、乱歩は急に退職し、上京してしまう。
11月

鳥羽町岩崎にあった松田という医師の別荘を借り、一人で住む。

物価騰貴で給料が三倍ほどになり、一人暮らしを始めた。

この家で、津市にある伊勢新聞文芸部主任に手紙を送ったところ、候文を口語文に直して無断で掲載される。タイトルは「哀愁の秋」、署名は「TH生」。切り抜きが『貼雑年譜』に残る。

ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」「罪と罰」を読む。

15日 鳥羽造船所発行の雑誌「日和」第1号を発行。巻頭に編集者として「首途」を寄せる。

「日和」は造船所と鳥羽町の「意志疎通円満ならしめ以て会社の隆昌と鳥羽の繁栄とに資せんとしたるもの」(「伊勢新聞」新刊雑誌評)。桝本卯平が後押しし、乱歩は雑誌編集だけに専念できる待遇になった。12月15日に第2号、大正8年5月12日(2月15日の誤記か)に第3号を出して廃刊。日和会は大正8年2月27日に解散。

11月ごろ 朝鮮にいた弟の通と敏男が、古本屋を開く心づもりで父母のもとから上京。その途中で鳥羽に滞在し、兄弟三人で古本屋を経営する話がまとまる。

店の売り上げから、乱歩は勉強のための費用を得、利益は弟二人で分配する契約だった。弟二人は上京し、岩田の叔母の世話で神田の古本屋二件に見習いに入る。
12月
「日和」第2号を出したころ、種々の事情から会社を辞めなければならなくなり、桝本卯平に「東京に出てしばらく勉強したい」と申し出る。奉書の紙に大きな文字で辞表を書き、支配人に手渡す。
掲載2000年1月7日 最終更新2003年 10月 3日 (金)