大正8年 1919 25歳
住居 三重県鳥羽町東京
職業 鳥羽造船所勤務三人書房経営東京パック編集支那ソバ屋経営
1月

鳥羽造船所を退社。上京し、東京市下谷区坂町の潜竜館に下宿。

退職金は三百円だったが、鳥羽の料亭その他に千円の借金があってとても支払えず、探偵小説を書き出してからすべて返済した。

「日和」第3号は二山久に編集を依頼。退社前に書いてあった長野幹・三重県知事、尾崎為次郎・町立女子技芸学校長のインタビュー記事が掲載される。

乱歩のあとを追って鳥羽造船所を辞め、上京した同僚や後輩に、二山久、井上勝喜、松村家武、本位田準一、野崎三郎らがいた。

弟の通と敏男は1月なかばに古本屋を辞め、それぞれの店と悶着が起きたため、叔母は早急に古本屋を開くことに大反対したが、朝鮮の父が息子たちの意志に従って店を開くことに同意、預かっていた敏男の千円を送ってきた。

2月

東京市本郷区駒込林町六(団子坂上)に住み、古本屋・三人書房を営む。家族は兄弟三人、のちに母、妹・玉子、さらに鳥羽から隆子を迎える。

古本屋では主として芸術書(おもに小説)を扱う。店は乱歩が設計し、看板も乱歩が描いた。店内には応接間のようにテーブルと椅子を置き、テーブルのうえの蓄音機で流行歌謡をかけて、来客の社交の場とした。竹久夢二装幀の楽譜類を仕入れ、ショーウインドウに飾って販売。

付近のインテリ青年が店に集まるようになり、ひとつのグループができる。石川三四郎の息子・千秋が特徴のある看板に引かれて店を訪れる。これらの青年と、当時全盛だった浅草オペラのスター・田谷力三の後援会をつくり、三人書房から歌劇雑誌を発行することが決まる。

3月
4月
4月ごろ 鳥羽から井上勝喜が上京し、三人書房で同居。
5月

7日 田谷力三後援会が浅草公園の金竜館で第一回観劇会を開催(主催者名義は日本歌劇研究会)。田谷が独唱し、石川千秋が純金のメダルを田谷に贈った。

観劇会の切符はかなり売れたが、金メダル製作代などの費用を差し引くと欠損だった。井上勝喜とともに雑誌発行の資金づくりに奔走。庄司雅行に初めて会い、出資を依頼する。しかし雑誌を出すだけの資金は集まらなかった。

三人書房は弟二人に任せ、井上と二人で三人書房二階を借りて間代を払うことにする。井上と出版関係の仕事を始める計画を立てるが、実行は難しかった。

6月
7月

井上勝喜と智的小説刊行会を計画。朝日、読売、時事三紙に募集広告を出すが、挫折。翌年5月に再度計画する。

雑誌「東京パック」の編集を引き受ける。

北沢楽天が発行していた「東京パック」の権利を下田という人物が譲り受け、漫画会同人の後援で発行した。乱歩はあることから下田を知り、編集事務を月給制で引き受けることになった。漫画界の大家を訪問して原稿を貰い、編集する仕事だったが、乱歩は大家の絵のなかに自分の漫画も入れ、雑文その他の文章を一手に引き受けた。

「東京パック」記者として、漫画家の小川治平、岡本一平、下川凹夫、前川千帆をたびたび訪問。吉岡鳥平とも親しくなる。「活字と僕と」昭和11年10月

「東京パック」に執筆した「時局パックリ」が当局の注意を引き、三人書房二階へ高等係の刑事が訪ねてきた。刑事に気炎をあげながら、いささか得意を感じる。

給料不払いのため、「東京パック」編集は三号限りで辞める。乱歩が自分の漫画を載せたり、文章を署名入りで掲載したりしたため、漫画家たちから編集者が出しゃばりすぎると抗議が持ち込まれたこともあって、乱歩のほうから辞めざるを得ないような処置がとられたという。

8月
 岩井三郎探偵事務所を訪れ、採用を依頼する。森下雨村に認めらる
9月
10月
11月

このころまでに鳥羽造船所の給仕だった野崎三郎が上京し、三人書房二階に転がりこむ。生活が貧窮し、井上と二人、別々に支那ソバ屋を開業する。

支那ソバ屋はなかなか儲かる商売で、多いときには一晩に十円以上売り上げがあり、純益は七円ほどになった。井上は数か月つづけたが、乱歩は結婚しなければならなくなり、十日ほどで辞めた。

村山隆子と結婚。

乱歩は隆子と手を握ったこともなく、独身主義を表明したこともあって、ことは済んだと思っていたが、乱歩との文通のことが狭い村のなかに知れ渡っており、乱歩上京後、隆子は悲観のあまり病気になっていた。鳥羽町の医師の家で母親の付き添いを得て養生していたものの、ついには危篤状態に陥ってしまう。鳥羽造船所の二山久から知らせを受けた乱歩は、結婚する以外にないと決意し、朝鮮の父の承諾を求めて、結婚する旨の手紙を隆子に出す。

隆子は床上げするとすぐ、兄・村山恒吉と三人書房にやってきた。二階の六畳間で乱歩夫妻、井上勝喜、野崎三郎の四人が生活する。結婚式は新小川町にあった叔父・岩田豊麿の家で挙げた。

結婚の日は11月26日。「私の結婚」昭和37年2月

隆子が上京して数日で乱歩は支那ソバ屋を廃業。何か生活の方途を見出すまで隆子を鳥羽に帰すことにし、隆子は実家で二、三か月を過ごした。

12月
掲載2000年1月7日 最終更新2003年 10月 3日 (金)