大正9年 1920 26歳
住居 東京大阪府守口町
職業 東京市社会局勤務失業大阪時事新報勤務
1月
2月

就職が決まったので、隆子を迎えに鳥羽に赴き、同道して帰る。

加藤洋行の失策以来行きにくくなっていた川崎克を訪ね、就職の世話を依頼した。

19日 東京市社会局吏員となる。その直後、隆子の母が上京したため、団子坂下の家の二階を借り、夫婦だけで一か月ほど住む。三人書房には母と三人の弟妹がいた。

社会局の勤めは楽だったが、下級役人気質は耐えがたいものだった。

23日 東京から寄稿した随筆「恋病」がこの日から六回にわたって「伊勢新聞」文芸欄に掲載される。末尾には「九、一、十二」と記載。

3月
4月
5月

「二銭銅貨」と「一枚の切符」の筋を考え、梗概を巻紙に記す。

井上勝喜と二人で智的小説刊行会の結成を計画し、雑誌投稿者などに会員募集の手紙を送るが、会員が集まらず、計画は中絶。

手紙には雑誌「グロテスク」の見本誌(12ページ)を添えた。「初号内容」に「会員創作探偵小説第一回発表」として「石塊の秘密」を予告する。のちの「一枚の切符」と同じ筋の作品で、ペンネームは「江戸川藍峯」とする。

5月ごろ 病気になり、半分は病気、半分は役人気質への嫌悪から、欠勤をつづける。

6月
弟・敏男(三男)が母の実家・本堂家を継ぎ、本堂姓となる。
7月

27日 東京市社会局吏員を馘になる。

映画論「トリック映画の研究」「映画劇の優越性について(附、顔面芸術としての写真劇)」を執筆。複写を取ってめぼしい映画会社二、三社に郵送、監督見習いへの採用を依頼するが、何の回答もなかった。

8月

8・9月 生活費に困ったため、レコード音楽会を三度にわたって開く。

井上勝喜と二人で庄司雅行に相談し、井上の蓄音機と洋楽のレコードを借りて開催。おそらく東京で最初のレコード音楽会で、これ以降、同種の音楽会が大流行した。『貼雑年譜』には9月11日、池袋大与クラブで開いた音楽会のプログラムが残る。
9月
10月

大阪府北河内郡守口町八〇一の父の家に住む。家族は、父母と妹・玉子、乱歩夫妻。父は竹村商店の監督および教師をしていた。

父の世話で大阪時事新報の編集記者となる。これを機に不振の三人書房を新聞広告で譲渡。

三人書房は六百円で売れ、パン屋が開業される。

大阪時事新報では地方版の編集を担当。集まってくる記事の軽重を考え、見出しをつけて一ページ分の大組みをすればよかった。午前十時ごろ出勤し、午後四時には帰宅できた。月給六十円。

11月
12月
掲載2000年1月7日 最終更新2003年 10月 3日 (金)