大正10年 1921 27歳
住居 大阪府守口町東京
職業 大阪時事新報勤務日本工人倶楽部勤務
1月
2月
長男誕生。隆太郎と命名する。
3月
3月ごろ 東京・池袋の庄司雅行から日本工人倶楽部書記長への誘いがあり、月給百円を要求したところ容れられたので、東京に移ることになる。
4月

東京市外滝ノ川中里八〇に住み、日本工人倶楽部書記長を務める。

ひきつづき東京にいた井上勝喜は日本工人倶楽部事務員となる。

日本工人倶楽部には春田能為(甲賀三郎)がいた。甲賀三郎「キビキビした青年紳士」昭和2年

5月

牛込区早稲田鶴巻町に住む。

滝ノ川の家は家賃が高いため、叔父・岩田豊麿の知人の画家が住んでいたあとを譲って貰い、転居。
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月
甲賀三郎
 キビキビした青年紳士(昭和2年6月)

 新に書記長に迎へられた人は最近まで大阪で新聞の経済記者を勤めてゐた人で、中々の手腕家であると云ふ事を推薦者から聞いてゐた。私は恰度彼の就任挨拶の時に居合したが、いかにも新聞記者らしいキビキビした青年紳士でアクセントのハッキリした歯切れの好い調子で別にさうやつてゐるのではないが、鳥渡肩を聳かしてものを云ふ風で中々頼もしげに見えた。
 その後も無論倶楽部に行く度にはチヨイチヨイ顔を見合せるし、個人的に親しく口は利かなかつたが、会議の時の議論などは中々しつかりしてゐて、私の意見にも可成一致する所が多かつたので、之は遣手だぞと思つた事を記憶してゐる。私は、然し、本来不精なのと、中々意見が多くて、そして自分の意見通り行はれないと面白くないと云ふ性質なので、先輩の多いその倶楽部では自然黙つて聞いてゐる事が多くなり、いつとはなく遠退いて行つた。そのうちに書記長に迎へられた人も矢張り意見が行はれない為かだんだん初めの意気込みがなくなつて行くらしい事を耳にした。やがて一年経たないうちに辞めて終つたと云ふ話だつた。

▼『江戸川乱歩全集第七巻』昭和6年、平凡社

掲載2000年1月7日 最終更新2003年 10月 3日 (金)