大正11年 1922 28歳
住居 東京大阪府守口町
職業 日本工人倶楽部「工人」編輯請負と庄司商工支配人失業
1月
2月

2月ごろ 庄司雅行が農商務省を辞めて池袋に郊北化学研究所を設立、主としてポマードの製造販売を始めたので、それを手伝わなければならなくなり、工人倶楽部の書記長をやめて「工人」誌の編輯印刷だけを請け負うことになった。庄司の家に近い市外池袋八六六に住む。

庄司商工支配人となり、郊北化学研究所でポマード瓶の意匠、宣伝印刷などを担当。庄司からは月給百五十円、「工人」請負の利益が二百円ほど入ったため、「工人」編輯助手兼書生として本位田準一を家に呼び、中央大学(または日本大学)に通わせる。

「工人」から編輯請負を取りやめられ、庄司雅行も資本が薄弱で月給が支払われなくなったため、月給は半分でもいいから毎日出勤せず、ときどき相談に乗る程度にしてもらうことを提案。妻子は大阪の父に家に預け、下宿に一人暮らしして勉強することを決意。ちょうど来合わせていた隆子の母が隆太郎をつれて大阪に行き、のちに隆子も大阪に去った。

3月
4月
5月
6月

上旬 松村家武の世話で神田区錦町三ノ三、東岳館に十日ほど下宿。

中下旬 松村が下宿していた神田区錦町三ノ三、向上館に二十日ほど下宿。ときどき庄司の家に顔を出したが、約束の俸給は支払われなかった。

7月

大阪の隆子が病気になったため、東京を引き上げて大阪府北河内郡守口町字守口六八九ノ三の父の家に住む。十一月まで失業状態のまま居候する。

20日 「新青年」が飜訳探偵小説の増刊号を発行。数日間座右から離さず、「盛んだなあ、盛んだなあ」と呟きつづける。「新青年」の盛観

大正10年以来三冊となった「新青年」の飜訳探偵小説増刊号を眺めながら、「いよいよ探偵小説を書くべきときが来た」と思う。「新青年」の盛観

7月ごろから11月ごろまで この時期、神戸図書館の講堂で馬場孤蝶の講演を聴き、倒叙探偵小説に興味を抱く。「新青年」の盛観

この講演会は知り合う以前の西田政治、横溝正史も聴講していた。「新青年」の盛観
8月
9月

初めごろ 「二銭銅貨」と「一枚の切符」を書き終える。馬場孤蝶に原稿を送る

21日 この日から23日までかかって、大正11年の日記帳の余白に「一枚の切符」を下書きする。

「新青年」に掲載された「一枚の切符」は末尾に「一一、九、二五」と記載。

26日 この日から数日間で、大正5年の日記帳の余白に「二銭銅貨」を下書きする。

「新青年」に掲載された「二銭銅貨」は末尾に「一一・一〇・二」と記載
10月

4日 「一枚の切符」と「二銭銅貨」の原稿を馬場孤蝶に送る。

馬場孤蝶に原稿返却を依頼する手紙を出し、原稿と手紙(26日付)が届く。馬場孤蝶に原稿を送る
11月

21日 二篇の原稿を博文館「新青年」編集部の森下雨村に送る。

森下雨村から、原稿を受け取ったが多忙のため急には読めない旨の手紙が届き、折り返し手紙を出す。森下雨村に認めらる

12月

森下雨村から「二銭銅貨」の「新青年」掲載を約束する手紙(2日付)が届く。

父の世話で大橋鉄吉という民事弁護士の事務所の臨時雇いとなる。

大阪アルカリ会社の失権株払い込み徴収に関して、株主の苦情を聞き、相手に法律上の支払い義務があることを説明する仕事だった。父の勤務先・竹村商店が大阪アルカリの債権者だった縁で、仕事が回ってきた。
掲載2000年1月7日 最終更新2003年 10月 3日 (金)