孤島の鬼

 「孤島の鬼」は博文館発行の月刊誌「朝日」に、創刊号の昭和4年1月号から翌5年2月号まで十四回にわたって連載された。
 「探偵小説四十年」によれば、「朝日」は平凡社の「キング」とほぼ同時期に創刊された娯楽雑誌で、「それぞれ講談社の『キング』の向うをはって、百万の大衆読者を獲得せん意気ごみで、華々しい宣伝戦が演じられた」という。
 乱歩はこの雑誌に「盲獣」も連載しているが、その完結から一年とたたない昭和8年1月号を最後に、「朝日」は廃刊を迎えることになる。

 「孤島の鬼」の初刊本は、昭和5年5月刊の『孤島の鬼』(改造社)である。
 しかし生憎この本が手許にないため、翌6年7月に出た『江戸川乱歩全集第五巻』(平凡社)を初刊本に準ずるものと見做し、初出誌、平凡社版全集、桃源社版全集を照合して「孤島の鬼」の本文校訂を進める。
 が、乱歩の手書き目録によれば四百七十枚の長篇である。一気に終幕まで突っ走る無謀は避けて、連載を単位として校訂を行い、そのつどアップロードしてゆくことにしたい。
 つまり十四回の連載になる。
 最初は予告篇として、「『朝日』が世に出るまで」という「朝日」創刊号の記事を掲げて責を塞ぐ。

初出誌

 「朝日」創刊号(1巻1号)。昭和4年(1929)1月1日発行。
 372−373頁に「『朝日』が世に出るまで」と題した記事が掲載されている。「朝日」創刊に至る舞台裏や編集部の意気込みなどを記した内容で、執筆は「一記者」。
 なかに乱歩のことが記されているので、「感激に堪へない外部の尽力」という小見出しのつけられた箇所を全文引用しておく。文中〔 〕で示したのは、句読点の脱落を補ったもの。アンダーラインは「原文のママ」の意。
 なお、この記事のことは乱歩ファンにしてコレクターの藤原正明氏からご教示を得た。

 感激に堪へない外部の尽力
 一方本誌の計画を伝へ聞くや、天下の諸名士、文士〔、〕事業関係者等の賛助と声援もまた何者を以てしても購ひ得ないものであつた。「さうか、博文館が新雑誌を出すのか、よし応援する、やれ々々!」何処へ行つてもかうした激励と同情が集る〔。〕さてこそ、と我々は此度の博文館の快挙に一層真剣になつて来る。作家も益々感奮する。それが証拠に新雑誌「朝日」の寄稿をご覧! よくもまあ書いて下すつたと、今更我々が感謝せずにゐられない程、一流中の一流を集めた顔触と、傑作以上の心血傾注の力作である。江戸川乱歩氏の如きは、どう構想しても絶絶命、書けぬと仰有るのを、再度三度の我々の懇請に、遂に奮起し斯のやうな名篇「孤島の鬼」を執筆して下すつた。が執筆はして下さつたが、その間の御苦心たる、遥か伊勢湾の離れ小島へ蟄居すること数週間、別掲のやうな悲壮な電報を何度か寄せられて、しかも苦吟漸くなつた次第である。かうした例は、他のいづれの作家にも見られたのである。これ以上読者に尽す途とてはないと云つても過言ではなかろう。

 博文館編輯局長の森下雨村から懇請され、乱歩が「朝日」に「孤島の鬼」の筆を執ることになった経緯は「探偵小説四十年」に詳しい。
 上の記事にあるように、長篇の想を得る目的で伊勢湾沿いの土地に赴いたことも、「探偵小説四十年」に次のとおり記されている。

 そして、第一回を書く時分には、もう寒い季節になっていたので、寒さの嫌いな私は三重県の南の方の、不便な、しかし、非常に暖い漁村へ旅行して、そこで筋を考えた。近くの鳥羽の岩田準一君に、その宿へ来てもらって、毎日舟に乗ったり、村の附近を散歩したり、寝ころんで話をしたりして日を暮らした。その岩田君が「鴎外全集」の一冊を持って来ていて、その中に何かのついでに二三行書いてあった中国の片輪者製造の話を読んで非常に面白く感じた。それがまあ、あの小説の出発点になったのだ。第一回を書いたあとで、東京に帰って、古本屋を探して「虞初新誌」を買ったり、西洋の不具者に関する書物を猟ったりした。

 「『朝日』が世に出るまで」に添えられた乱歩の「悲壮な電報」の写真には、一部判読できない文字もあるが、

一カイブンアスキツトオクル」クシンサンタンオサツシコフ」ヒラヰ

 といった文章が認められる。
 三重県の漁村で岩田準一とのんびり日を暮らしながら、それでも苦心惨憺して書きあげられた「孤島の鬼」連載第一回は、竹中英太郎の挿絵とともに「朝日」創刊号の誌面を飾った。


掲載 2000年10月22日  最終更新 2001年 10月 26日 (金)