第三章 横溝正史かく語りき

 乱歩が知らん顔をして黙っていたことが、周囲の人間の証言によって浮かびあがるケースも、むろんよくあります。
 乱歩の盟友、横溝正史の例をとりあげましょう。

 乱歩と正史が初めて会ったのは大正十四年四月十一日で、この日付は正史の古い葉書から割り出したものであると、「探偵小説四十年」には記されています。
 正史の「途切れ途切れの記」にも、乱歩との初対面のことが書かれていますが、正史が几帳面に記録を残しているわけもなく、初対面の日付は「探偵小説四十年」からそのまま引き写されています。

 そして大正十五年、正史は乱歩から一本の電報で呼びつけられ、神戸から東京へと居を移します。
 「探偵小説四十年」の「大正十五年(昭和元)年度」から、「『パノラマ島奇談』」の冒頭を引用してみます。

 横溝正史君が「新青年」の編集長になったのは昭和二年の中ごろだったと思うが、編集部に入って森下さんの手伝いをするようになったのは大正十五年(昭和元年)で前記読売講堂の寸劇のころには、もう博文館に入社していたのだと思う。横溝君は神戸の薬屋の若主人で、探偵小説や創作は、ほんの道楽としてやっていたのを、東京に引っぱり出し、遂に博文館に入るようなことにしたのは、半分ぐらい私のせいであった。「寸劇」より少し前に、やはり本位田準一君が、探偵映画のプロダクションを作ることを計画し、色々その方面に働きかけたことがあり、その計画に威勢をつけるために、横溝君に来てもらおうじゃないかと、私の名で神戸の同君に、「スグコイ」という電報を打ったものである。横溝君は本当にプロダクションが出来ることと思って、早速上京して来たが、そんな話がうまく行くはずもなく、結局無意味な上京に終った。しかし、横溝君も薬剤師よりも、文学の方に引きつけられていたので、東京に留まりたい気持もあり、私が間に立って、森下さんから「新青年」に入ることを勧め、遂に東京に落ちつくことになったのである。

 当時の事情を、横溝正史はどう書き残しているでしょう。
 昭和二年に発表された正史の随筆「散歩の事から」(「週刊朝日」四月十日号)には、こんなふうに述べられています。

 さういふ私が、ではどうして、東京へ出て来たのか、そのことを考へると、私はなみなみならず恥しくなつて来るのである。
 さうだ
〔「。」が脱落しているようです──引用者註〕去年の七月のことである、その年の始めに、大阪を引払つて東京へ移つた江戸川乱歩が、大阪へラヂオの放送にやつて来たのであるが、その時彼は映画製作といふことになみなみならず、熱を持つてゐた。その時の彼の話によると、今すぐにも出来さうだしおまけに、これは無論冗談だが、
 『一万円儲かるんだよ、一万円──。』
 と彼はいふのである。
 私は少からず乗気になつてしまつた
〔「。」が脱落しているようです──引用者註〕といつて当時私は、一つの商売、それも筆なんかに一向関係のない商売で、おまけに、私がゐなくては、どうにも仕様のない商なひを持つてゐた身だつたので、おいそれと、直ぐに東京へ飛出して行く訳にも行かなかつた。で、丁度その時分、一寸した金の入るあてもあったし、一度遊びに行つてもいゝと思つてゐたので、四五日彼が神戸に滞在してゐて、帰京する時、一ケ月ほどの間にはきつと行きますといつて、一緒に行かうといふのを断つたのである。
 ところが、それから二週間の間に、彼を取巻いてゐる種
〔いろ〕んな友人からどんなにその仕事が進捗してゐるか、も早着手するのも二三日のうちだといふやうな手紙を、三度も四度も貰つたのであるが、その揚句には到頭電報で兎も角来いと呼びたてられたのである。
 私はすつかり真剣になつてしまつた
〔「。」が脱落しているようです──引用者註〕どんなに事情が切迫してゐるのだろう──さう思ふとゐても立つてもゐられない気持ちで到頭その翌日の晩汽車で東京へ来たのである。
 ところが来てみると、それ等の事は全然出鱈目ではなかつたけれど、といつて、さううまく運んでゐるわけでもなかつた、おまけに、私が来てからといふものは、きつと私の、表面の冷淡さ、内心ではなかなかどうして、大いに乗気だつたのであるが、さうみえる事がきつと恥かしかつたのに違いない
〔「、」が脱落しているようです──引用者註〕私は勉めて冷淡さを粧つてゐたのであるが、さういふ気持ちが、誰の上にも少しづゝ影響したのに違ひない。相当の点までうまく運んでゐた事まで、遂におぢやんになつてしまつたのである。

 正史は後年、「宝石」の昭和三十二年十二月号に掲載された座談会「『新青年』歴代編集長座談会──横溝正史大いに語る」でも、乱歩や本位田準一ら当事者を前にして、当時のことを振り返っています。
 「横溝正史、江戸川乱歩のプロダクション計画にだまされて上京のこと、並びに博文館入社のこと」という小見出しのあるあたりから引用しましょう。
 発言者は、城昌幸、横溝正史、水谷準、江戸川乱歩、森下雨村、松野一夫です。

  博文館はいきなり「新青年」に入つたの?
 横溝 「新青年」
 水谷 いきなりつて、別に博文館へ入るためにやつてきたわけじやないんだろう。
 横溝 この人(江戸川氏)にだまされて東京へやつてきたんだよ。(笑)
 江戸川 それはもつとあとだよ。大正十四年に二人で上京したときから一年ぐらいあとだつたよ。
 横溝 最初来たのは大正十四年なのよ。それから十五年になつて、この人(江戸川氏)が、なにか映画会社のようなものを作るというんだね。本位田と二人でね。それでお前はどうしても一役買えというんだ。ウソやと思つたがね。それで一人で上京して、神楽坂の駅でおりて、ポコポコ坂道をのぼつていつたんだよ。江戸川さんのうちへさ。そうしたら奥さんが、アーラいらつしやい、横溝さん、といつてくれたね。(笑)
 水谷 なんだ、いまと同じじやないか。
 横溝 アラなにしにきたのつて顔しなかつたから、ね。アーラいらつしやい、横溝さんつていつてくれたから、実にうれしかつたね。(笑)筑土八幡の家だよ。
 水谷 もう筑土八幡にいたの。
   乱歩さんがまたどういう動機で映画会社をこしらえようとしたんですか。
 江戸川 そのころ、僕のうちへ本位田君がしよつちゆうきているだろう。本位田君がその話をもちこんだんだよ。プロダクションを作ろうつてね。金はどつかから出るつていうんだ。夢みたいな話なんだ。そして、本位田君が勝手に神戸の横溝君に電報打つちやつたんだよ。
 横溝 ともかく出てこい、という電報なんだよ。
 江戸川 とにかく一ぺん遊びにこい。顔がみたいという意味なんだよ。
 森下 それが、二度目の上京になるんですか。
 水谷 一度目と二度目の間は、どのくらい期間があつたの。
 横溝 一年ぐらいね。そしてきたのよ。筑土八幡にきたのよ。そうしたら、この人(水谷氏)も、江戸川さんのうちへやつてきて、「よう、きたねえ」と、なんか馬鹿にしたような顔しやがんのよ。(笑)そのときは、もうギョッとしたね。(笑)
  たしかに、いやらしかつたよ、この人(水谷氏)は。(笑)おれ初対面のとき、変な男だなと思つたことがある。(笑)
 水谷 いまだつてあんまりよくないだろうけどさ。(笑)
 森下 そんなことないよ。わしが水谷君に小説書けというて、小日向台町の家へきてもらつたことあるね。そのとき原稿持つてきたんだ。きれいな若い衆でね。(笑)ちよつとまあお上りというて、話したね。酒は飲まさなかつたけれども、抱いてやりたいようなきれいな人だつたよ、その頃は。
  なかなか、横さんが編集長になるまでにならないな。
 横溝 それは、実にうれしかつたからね。二度目にさ、上京してきた。本位田とあんた(江戸川氏)にだまされちやつて。だまされて上京してきたのさ。筑土八幡町にさ。奥さん、あんたも聞いてなきやいけないよ。そうしてね、三日ぐらい泊つちやつたのさ。映画はだめになつちやつて、この人(江戸川氏)が、お前に清元教えてやる、というんだよ。(笑)
 江戸川 清元じやないよ。河東節だよ。(笑)
 横溝 鳥が啼くゥ……というとこ、教えてくれるんだよ。鳥が啼くゥ……、鳥が啼くゥ……といってね。(笑)わしや夜が明けちやつて、ね。(爆笑)おばあちやんがね、太郎ねなさいというてきて……。
 そうしたらしばらくしてさ。神楽坂の神楽館に下宿したのさ、わしや。そうしたら、雨村先生が留守中にきて、博文館へ入れつていうのね。森下さんが、筑土八幡の乱歩さんのところへいつてね、そこで話がきまつちやつたらしいんだね。わしとは無関係にね。
 水谷 さつきの映画の話は、事実無根か。(笑)
 横溝 流れちやつたんだな。実にね、アンタンたるものだつたよ、わしは。(笑)
 そうして、二人の間で、わしの入社の話ができたらしいんだ。横正、うちに帰つたつてつまらないから、博文館に入れよ、というて。わしは入つたのよ。そのとき、いまでも覚えているよ。あんた(松野氏のこと)のこと、おぼえているよ。久世山の上にひろつぱあつたでしよう。あそこであんたキャッチボールしていたのね。
 松野 あのときの横さんの顔、いまホーフツとするよ。(笑)水谷さんもいたんだ。
 水谷 おれはまだいないよ。
 松野 延原さんと、平林(初之輔)さんもいた。僕らがキャッチボールしてたら、広つぱにチョコナンとうずくまつて、実にやるせない顔してたぞ。(笑)
 横溝 いまでもおぼえている。
 松野 なにかさびしかつたのかい。(笑)
 横溝 それはやるせないさ。(笑)
 水谷 折角の映画会社が、なあ。(笑)
 横溝 そうしたらこの人(森下氏)が、アア横さん、きたかといつて、いたわつてくれて、うちへ連れていつてくれて、入らんかといつてくれたときの欣喜雀躍、いまでもおぼえているな。
 松野 そのときからきまつたのかい。
 横溝 きまつたの。そのまま入つちやつたの。入つちやつたきり神戸へ帰らなかつたのね。

 なんとも愉しげな旧友交歓図、水を差すのも気が引けて、引用がつい長くなってしまいました。
 引用ついでにもうひとつ、先にも触れた「途切れ途切れの記」を見てみましょう。
 これは、昭和四十五年に刊行された横溝正史全集の月報に連載されたものですが、ここには随筆集『探偵小説五十年』(昭和四十七年、講談社刊)から引用します。
 「博文館入社のこと」と題された章で、「探偵小説四十年」から大正十五年の項を引いたあと、正史はこんなふうに回顧しています。

 以上の覚書をみてもわかるとおり、乱歩さんは東京へ移転してからも、機会あるごとに私にチョッカイを出していた。おそらくはにかみ屋で積極性にかけ、引っ込み思案の性格を洞察した乱歩さんは、神戸の薬局もたいして成功しそうにないと思ったのかどうかしらないが、六月のはじめ神戸で会ってからまもなく、乱歩さんを中心として映画をつくろうという話が、東京のほうで持ちあがった。
 この仕事の中心には、乱歩さんの旧友の本位田準一君が当たった。本位田君とはその前年、乱歩さんにつれられて上京したとき会っているが、映画の話で本位田君がたびたび神戸へ手紙をくれ、私もそれに返事をかいていた。
 引っ込み思案で臆病な性格ということは、いいかえればものごとに大事をとるという性質である。だから乱歩さんがいかに人気作家といえども、映画つくりはどうであろうかと思ったが、さりとてひと様がせっかく乗り気になっているものを、水をさすこともあるまいと、私も大いに乗り気になって、シナリオらしきものを書いて送ったりしていた。すると、ある日、とつぜん乱歩さんから、
 「トモカクスグ コイ」
 と、いう電報が舞いこんだので、私は大いにおどろいたのである。アリャリャ、そんならいくらかでも実現性のある話かいなと、半信半疑ながらノコノコ上京してきたら、やっぱりダメだったのである。
 「なあに、あんたの顔を見たくなったんだよ」
 と、いう乱歩さんの殺し文句に怒りもならず、どうせ上京してきたからには、しばらく遊んでかえろうと、旅館は高くつくというので、乱歩さんのお世話で神楽館という下宿へ宿をとり、夜具などいっさい、江戸川家のものを借用に及んだ。いや、乱歩さんがそうしろというので、私はただ唯々諾々、ただ命これ従うのみであった。
 こうして神楽館へ落ち着いた私は、羽根をのばして遊びほうけていたが、ある夜おそくかえってくると、下宿の女中さんの口上に、森下さんというかたがお見えになりました。あした五時ごろ、小日向台町のお宅のほうへ晩ご飯でもたべるつもりでくるようにとの、おことづけでした。云々……
 私はなにごとならんとその翌日、小日向台町のお宅へ伺候すると、森下先生のおっしゃるのに、
 「ゆうべ乱歩君とこへちょっと寄ったら君の話がでた。神戸の家もあまり面白くないそうだが、ひとつ博文館へ入って、新青年を一緒にやらんか」
 私はちょっと唖然としたが、すぐさま二つ返事でお願いしたまではよかったが、翌日すぐに神戸の両親に手紙を書き、博文館へ入ったからもう神戸へはかえらない。薬局は適当に処分してほしい。ついては至急夜具を送ってほしいといってやったのだから、引っ込み思案の私としては、まことにアッパレ至極というべきであった。

 以上、正史の随筆二点と「宝石」の座談会、長々と引用したのはほかでもありません。
 これらが「探偵小説四十年」を補完する資料だからです。
 乱歩の記している事実が、正史の眼からはどのように記録されているのか、それを知ることができるからです。
 「探偵小説四十年」を「貼雑年譜」やほかの随筆と照合してみること同様に、乱歩の周辺にいた人間の証言を収集することもまた、乱歩の「真実」に迫るための有効な手段であると思われます。

 この章の冒頭に記した、「乱歩が知らん顔をして黙っていたこと」に関していえば、乱歩が映画製作に示していた情熱は、「探偵小説四十年」からはまったく窺い知ることができません。
 「本位田準一君が、探偵映画のプロダクションを作ることを計画し」と、他人ごとめいてよそよそしく記されているばかりです。

 しかし、乱歩が映画というジャンルにひとかたならぬ関心を寄せていたことは、初期の随筆からも容易に知ることができますから、正史が伝えているとおり、プロダクションづくりにも「なみなみならず、熱を持つてゐた」と判断するのが妥当でしょう。
 なぜ乱歩が映画製作への情熱を自伝に明かそうとしなかったのか、これもまた読者のご想像にお任せすることにして、乱歩と映画の関係について、もう少し見てみましょう。

 「探偵小説四十年」の「大正十五年(昭和元)年度」の項には、乱歩原作の映画「一寸法師」や、結局は実現しなかった「屋根裏の散歩者」の映画化に関する記述があります。
 それを読む限りでは、乱歩はあくまでも原作者に過ぎず、映画製作を傍観していただけという印象を受けるのですが、実際にはそうでもなかったようです。

 例によって、刊本「貼雑年譜」に眼を転じましょう。
 映画製作に関する新聞記事が三本、あるページにスクラップされています。

 新感覚派の/変つた作品/乱歩作屋根裏の散歩者/作者が主演する

 「大衆文芸」の/作家達が/映画を/第一は元禄快挙

 江戸川乱歩君が/自作自演『屋根裏の散歩者』/共演者は探偵趣味の人々/空前の探偵映画を作る

 見出しを拾うと、以上のようになります。
 最初の記事は、乱歩は「読売新聞」と記録していますが、どうやら読売に掲載されたものではないらしく、二本目の「新聞名不明」とあるのがじつは読売の記事であると、かつて芦辺拓さんから教えていただきました。

 三本目の「報知新聞」の記事は、映画「屋根裏の散歩者」の撮影現場を舞台とした(!)芦辺さんの乱歩小説「屋根裏の乱歩者」にも全文引用されていますが、要するに乱歩の主演で「屋根裏の散歩者」が映画化されるという記事です。
 「貼雑年譜」では、乱歩はこの三本目の記事に、「全クノ出タラメデハナカツタノダガ、コレハ私ノ方デ引下ツタ」と書き添えています。
 「引下ツタ」のは主演の件だと思われますが、この話に関して、「探偵小説四十年」にはこうあります。

 右の読売の記事(上記三本のうち一本目──引用者註)には、私が主人公の役を勤めるように書いてあるが、そんなことが、決定していたわけではない。衣笠君(貞之助。映画監督──引用者註)は、真面目に製作しようとしていたのだから、素人が主演など出来るはずがない。これは会合の席上で、冗談半分にそんな話が出て、私が即座に否定もせずニヤニヤしていたのを、誰かが新聞記者に話したものであろう。しかし、このニヤニヤには、幾分その野心がないでもないという含意があった。

 「引下ツタ」というのですから、一時は本気で主演を考えていたはずで、「野心がないでもない」どころの話ではないだろうと思われるのですが、とにかく「探偵小説四十年」には、こういうふうに書かれています。
 ついでですから、昭和二年の「大衆文芸」六月号、乱歩特集に寄せられた星野辰男の「気分屋」という文章をご覧いただきましょう。

 「朝日」に連載された「一寸法師」が映画化されると云ふ時に、江戸川氏は明智小五郎を自身でやり度い様な色気が大分にありました。余程映画に興味を持つたんですね。たうとう沙汰止みとなりましたが。

 この証言を信じるならば、「屋根裏の散歩者」の主演から「引下ツタ」あとも、「一寸法師」への出演に、乱歩は「色気」を見せていたわけです。
 くりかえしますが、横溝正史が感じ取った映画製作に対する「熱」や、星野辰男が嗅ぎ当てた映画出演への「色気」は、「探偵小説四十年」にある乱歩自身の回想からは永遠に知り得ません。
 「探偵小説四十年」をひもとくだけでは、乱歩の「真実」にはたどりつけないということです。
 お釈迦様のてのひらの孫悟空さながら、巨人乱歩の自伝という掌上から、一歩たりとも外に出ることはできないということです。

 以上、「二十面相は突然に」と「横溝正史かく語りき」の二章は、名張人外境の「江戸川乱歩データベース」にタイトルのみ記され、いまだ一行も書かれてはいない「江戸川乱歩年譜集成」について説き起こすための、いささか長すぎるマクラでした。
 以下、「第四章 江戸川乱歩年譜集成」へとつづきます。

 なお、本稿で触れた「宝石」の座談会については妹尾俊之氏から、「途切れ途切れの記」に関しては Dupin 氏から、それぞれご教示を頂戴しました。
 「散歩の事から」は、藤原正明氏からコピーを提供していただきました。
 三人の方に謝意を表します。

 それにしても、漆黒のクロス装に包まれた『探偵小説四十年』こそは、乱歩の全著作のなかでもっともミステリアスな本なのではないか、と私には思われます。
 そして、
 「江戸川乱歩は、この克明のうえにも克明な、長大浩瀚な、一種異様の自伝を書くことによって、じつは何かしら重大な秘密を隠蔽しようとしたのではないだろうか」
 という私の恐ろしい疑惑は、日とともに深まってゆくばかりなのです。


掲載 1999年12月12日