第二回
哀しみは歌に託して

 乱歩作品が公立図書館の読書会に相応しい素材であるかどうか、これはおおきに悩ましい問題であるといわざるを得ない。エログロ表現については前回述べたとおりだが、もうひとつ、差別表現という難問もそこには存在しているのである。例証として、乱歩長篇の最高傑作「孤島の鬼」の一節を引こう。以下の引用にはいわゆる差別用語が使用され偏見が綴られているが、本稿の趣旨に照らして原文のままとすることをお断りしておく。

 私の力では、そのときの味を出すことができないけれど、十年ぶりでの親子の対面は、ざっとこんなふうな、まことに変てこなものであった。

 といきなり引用したのでは、何がなんだかさっぱりお判りにならぬであろう。ここで若干の解説を加えるならば、「私」というのはこの物語の語り手たる美青年であり、「親子」の「子」は「私」に対して同性愛的恋情を抱いているところの、これまた美貌の医学生、「親」はその父親である。父親は紀州の孤島に住む世にも醜い畸形であって、醜悪ゆえの癒しがたい屈辱から世界と人類とを呪いつづけたあげく、ついには五体満足な赤ちゃんを買い集めて不具者に仕立てあげ、見世物小屋に売り飛ばすという悪逆無道を働くに至る。息子である美青年に東京で医学を学ばせた背景にも、いずれ不具者製造の片腕として働かせようという深謀が潜んでいるのである。さて、東京で起きた殺人事件の謎を追って、語り手と医学生は孤島に赴いた。ここに美醜両極の父親と息子は十年ぶりで対面を果たし、かたわらで語り手はその一部始終を読者に語りつづけるのである。以下、先の文章につづいて。

不具者というものは、肉体ばかりでなく、精神的にも、どこかかたわなところがあるとみえて、言葉や仕草や、親子の情というようなものまで、まるで普通の人間とは違っているように見えた。私は以前、ある皮屋さんと話をした経験を持っているが、この不具老人の物の言い方が、なんとなくその皮屋に似ていた。

 エログロ表現がそうであったのと同じく、不具にまつわるいわゆる差別表現も、乱歩作品にとって枝葉末節の問題ではあり得ない。乱歩は正常と異常とを克明に峻別するヨーロッパ的思考をわがものとした近代人であって、その作品に描かれたエログロや不具は、おそらくは乱歩が自身の内部に発見した異常さを著しく増幅させたものにほかならない。乱歩作品における異常とは、負の自己愛とでも呼ぶべき不可解な感情の真摯な投影なのである。
 こうした作品を公立図書館が読書会にとりあげる場合、そこには充分な配慮が必要であると思われる。むろん、公立図書館が乱歩作品を架蔵し、希望者に貸し出すことには何ら問題はない。しかし読書会のテキストに使用するのであれば、エログロ表現や差別表現を随所に含む作品を、いや、そうした表現こそが重要で内密な主題の顕れですらあるような作品を敢えて採用する理由について、図書館なりの見解を明確にしておくことが不可欠であろう。乱歩について何も知らない人たちにさあ乱歩を読みましょうと呼びかけることは、結果として彼らの感情を逆撫でしたり踏みつけにしたりすることになるかもしれないという虞を、まず念頭に叩き込んでおくことが必要であろう。
 しかるに、私の受けた印象では、名張市立図書館にそうした配慮は微塵も感じられなかった。名張市立図書館のみならず、これまでに少なからぬ予算を投じて乱歩関連事業を進めてきた名張市にもまた、乱歩作品が含むエログロ表現や差別表現に対する配慮は存在しないかのように見える。そもそもお役所なるところは、差別という言葉を聞いただけで坐り小便をちびりまくるくらいびびりまくるのが常であるというのに、名張市は乱歩作品に関してだけ、どうしてかくも平然としていられるのか。
 差別について記したついでに、ひとつだけ指摘しておこう。先に引用した「孤島の鬼」の一節のうち、「皮屋さん」といういわゆる部落産業に関する言葉が記された文章は、近年の文庫本ではきれいに削除され、しかもそれらの本には削除について一行の断りも書かれてはいない。ここに歴然と示されているのは差別表現の階層化とでも称するべき由々しい事態であって、「かたわ」は活字にできるが「皮屋」はこっそり削除してしまわねばならぬという、差別表現そのものの差別なのである。この問題は考え出すといくらでも長くなるからここまでで打ち切るが、こうした事態が人知れず進行している現状について、いったい部落解放同盟はどのような見解をおもちなのか、機会があればお聞きしたい気がする。
 さて私は、名張市立図書館から乱歩読書会の講師を依頼され、果たして公立図書館がそんなものを主催していいものかどうかと迷い抜いた経緯を記しているわけであるが、そのおり、名張市立図書館や名張市が乱歩に関して行ってきた事業をつらつら思い返してみたあげく、ふと頭に浮かんだのは、
 「もしかしたら名張市のお役人には乱歩作品をきちんと読んだことのある人間が一人もおらんのではないか」
 という疑問であった。そう考えると、名張市が乱歩作品のエログロ表現や差別表現に無関心でいられる理由が腑に落ちるのである。要するに、彼らは何も知らないのだ。こんなたわけた、人を馬鹿にした話は滅多にないであろう。名張市はもうずいぶん以前から、実現性はどうあれ乱歩記念館なるものを建てましょうという大風呂敷まで広げているのである。その名張市が、乱歩に関する専門的な知識のある職員一人養成しないで、いったい何ができるというのか。乱歩生誕の地であり、その一角に乱歩コーナーを開設した市立図書館を有してさえいる名張市に、いくら捜しても乱歩に詳しい職員がまったく見当たらないという信じがたいていたらくは、譬えて申せば茄子と胡瓜の見分けもつかぬ人間が八百屋の店を構えているようなものであろう。私はそのことに気づいた瞬間、憤激のあまり、喜怒哀楽を三十一文字に託す日本古来の美しい伝統に従って、次のごとき腰折れを詠んだのであった。

なすですと言うてきゅうりを売るような八百屋はおそらく気がふれている

 しかしよく考えてみれば、これは致し方のないことでもあるだろう。市職員諸君というのは、庁内やときに庁外を異動異動で経巡り歩き、たまたま乱歩関連事業を担当する部署に配属されれば通り一遍の仕事をこなしはするものの、さらに異動があれば乱歩のことなどすっかり忘れて次の職務に精を出すしかないのである。乱歩の専門職員が養成できていないのは、畢竟すればお役所というシステム自体に原因があるのであって、一人の為政者や個々の職員の責任を追及するべき問題ではないのかもしれない。そしてもしもそうであるのならば、お役所が乱歩関連事業を遂行することはシステムの面から見て不可能なのであるから、名張市は潔く江戸川乱歩という作家から手を引くべきであろうと判断される。
 話が横道に逸れてしまった。私は名張市立図書館が主催する乱歩読書会の講師を依頼された経緯を記しているのである。話をつづけよう。私が読書会の講師をお断りした理由は、しかし乱歩作品が孕むエログロや差別の問題だけではなかった。そもそも私は、読書会などというものにまったく興味がないのである。むろん私とて、図書館が主催する読書会を一概に否定するものではない。教養主義的な読書があってもかまわないとは思っている。読書によって人生の糧を得たいと考える人は、そうした読書をつづければよろしかろう。だが、私はそうした読書にはとんと関心がない人間であり、乱歩作品もまたおよそそうした読書には不向きなテキストなのである。人生いかに生くべきかを知るために書物を繙く人たちは、間違っても乱歩の本を開いてはならぬのである。
 それともうひとつ、名張市立図書館が名張市民を対象に事業を行おうとしている点にも、私は奇異の念を抱かざるを得なかった。名張市民などは放っておけばよいではないか。名張市立図書館が乱歩に関して何かしら事をなすのであれば、その対象を名張市民に限定する必要はまったくない。要は乱歩の読者であるか否かだ。名張市立図書館が乱歩をテーマにサービスを行うとすれば、対象は乱歩の読者をおいてほかにはないのである。いくら乱歩生誕地の図書館だからといって、乱歩を読むか読まぬかというきわめて個人的な問題に賢しらに容喙し、読書会を開いて市民に乱歩作品をお薦めするなどというのは、エログロ表現や差別表現といった問題以前の、思い上がりと呼ぶしかない愚挙であると私には思われたのである。
 私はおおむね以上のようなことを熟慮し、乱歩読書会の講師をお断りしたのであった。それにしても、連載第二回もそろそろ紙幅が尽きようとしているこの時点まで来て、私はいまだ自分が名張市立図書館の嘱託になった経緯を記せずにいる。それに私は、ここまで書いてきた原稿を読み返して、自分がこのまま嘱託でいられるかどうか、なんだか不安な気がしてきたところだ。嘱託になった経緯を綴る以前に、私は嘱託の職を解かれてしまうのではあるまいか。なにしろこの文章では、吹けば飛ぶような嘱託風情が正面から名張市を批判しているのである。こんなことが許されるのであろうか。
 こうした場合、一般的に考えれば、私は窓際に追いやられるか左遷されるかのいずれかであろう。が、名張市立図書館における私の机は、もう一人の嘱託たる東川寅信先生のそれとともにすでに窓際に位置しているのだし、嘱託という末端の業務からさらに左遷される先などあろうはずもない。すなわち、嘱託へのお仕置きは馘しかあり得ないのである。それに読者にしたところで、お役所からお手当を戴きながらお役所を批判している私の二股膏薬的態度には、おそらく苦々しいものをお感じにちがいない。いや、お手当と申しても私ども嘱託のそれは一時間なんぼ、月何十時間と決められたほんの微々たるものであって、日々の感懐を三十一文字に託す美しい伝統に従うならば、私の頭には次のごとき腰折れが浮かんでくるのである。

ケンタッキーフライドチキンのお嬢さん君の時給は僕より高い

 読者よ、そういう次第であるから、本誌次号に掲載されるこの連載の末尾に注目されるがよろしい。(  )で記した私の肩書の頭に「元」という文字が附されていたならば、ああ、あの馬鹿とうとう、と思っていただこう。

(名張市立図書館嘱託)

掲載1999年11月4日
初出「四季どんぶらこ」第4号(1997年9月1日発行)
番犬追記文中に引用した「孤島の鬼」のテキストは角川文庫『陰獣』(1973年)に拠っております。