市民病院の傲慢
いつかも記したとおり私は漫才師の人生幸朗をただ一人の師と仰いでいる人間である。したがってこの連載も読むボヤキ漫才とでもいったジャンルの文章として綴っている。だが前回を読み返してみたところ、芸風はむしろ横山やすしのそれに似る。いずれ泥酔して帰宅した深夜何者かに襲撃され、不自由な身を養いながら短い晩年を過ごさねばならぬ運命が待っているのかもしれないが、致し方あるまい。芸に殉ずるのは芸人の本懐である。
さて話は変わるが、昨今うちつづく公務員の不祥事はいったいどうしたことであろう。遠方にお住まいの方はご存じないだろうが、名張市や上野市でも公務に携わる人間の醜聞がたてつづけに発覚しているのである。
なかには逮捕者が出るに至った事件まである。上野市の総合市民病院の院長が収賄の廉でお縄になったのだ。私は新聞報道でしか事件の内容を知らぬのだが、それを総合するとどうもこの病院、院長のみならず病院全体が出入り業者にたかるのを当然のことだと考えていたようにも推察される。
私には思いあたる節もあるのだ。
少し前、といってもまだ名張市に市立病院が開かれる以前の話だが、私の母が庭で転倒して腰から太股のあたりを痛打した。一晩たっても痛みが引かぬので開業医に診てもらうと大腿骨を骨折しているという。うちでは手術できませんからここへ行ってくださいと指定されたのが、ほかならぬ悪の温床にして収賄の牙城、天下の上野総合市民病院なのであった。
手術は曜日が決まっていて、その日が来るまで患者は入院して待機していなければならない。ある日の夕刻、私が病室に顔を出すと、母に付き添っていた妻が病院からの伝言を伝えた。手術前に担当医から家族に話しておくことがある、ついてはあすのお昼ごろ病院へ来るようにというのだ。
「お昼ごろって何時ごろやねん」
私がこう口にすると、ほかの患者の世話をしていた中年の看護婦がいきなりこちらに向き直り、
「十一時から待っててください」
と権高にいい放った。この看護婦が担当医の勤務日程を把握しているとはとうてい思えない。にもかかわらずぬけぬけと時刻を指定するそのしゃっ面がエェ気に喰わぬわッ、と私は思い、ナースステーションに直行した。
私は紺色のカーディガンを羽織った看護婦長を呼び出し、もう少し時間を限定してくれぬかと依頼した。医師が多忙なのは判るが当方とて暇を持て余している身ではない。だいたいがあすの話ではないか。お昼ごろではなく何時ごろにと指定するのはそれほど難しいことでもないであろう。
私がそのように伝えると婦長は追われた蠅のように視線をさまよわせ、それから手許の書類をせわしなく繰りつづけるふうであったが、やがて意を決したように私を振り仰ぐと、あしたの朝お宅にお電話します、といった。
「あしたの朝って何時ごろやねん」
と私は答えた。
というただこれだけの話なのだが、私はこのとき、患者や家族の都合を考慮することなく自分たちの都合を一方的に押しつけて省みないこの病院の体質をはっきりと認識した。そしてこの人を人とも思わぬ体質こそが出入り業者に平然とたかる破廉恥を可能にしてきたのだ。
ところで私は、上野市民はいったい何をしていたのかとも思わざるを得ない。私以前にもお昼ごろなどという曖昧な時刻指定で呼び出された市民はいくらでもいるだろう。その時刻指定はこちらから問い質せばいくらでも明確に限定できるものであるにもかかわらず、患者や家族などいくらでも待たせておけばいいではないかという病院側の傲慢によって曖昧にされているだけの話なのだということは、先に記した一看護婦の不誠実きわまりない対応からも容易に推測できる。
お昼ごろ来いといわれた上野市民が私のように問い質すことをつづけていれば、いくら上野総合市民病院の医者や看護婦だとてまったくの馬鹿というわけでもあるまいし幾分かの情理は弁えてもいようから、人を呼びつけるにあたってはもう少し明確な時刻を示すべきだという当然すぎるほど当然のことに遅ればせながらも思いあたったにちがいないのだ。事態はとうに改善されていたはずなのである。
もっとも、上野というのは旧弊で封建的な精神風土を色濃く残存させた城下町だから、公立病院の医師がいまだに偉そうに構えるのを当然のことと受けとめる旧時代の気風が引き継がれているのかもしれない。
しかしいまや世間では町医者だって結構サバイバルなのであって、鯖は威張っても医者は威張れぬ。患者や家族の立場に立ったサービスに努めなければ医者だって生き残ってゆけない時代が到来しつつあるのである。
だから私は、近い将来、客寄せの手段として若い美人看護婦をずらりと取り揃えたノーパン歯科だのランジェリー内科だのトップレス泌尿器科だのといった病院が陸続と登場してくるのではないかと心ひそかに期待しているのだが、読者はどうお考えであろうか。
で、私が結局何をいいたいのかというと、お役所ないしはお役人の感覚が世間一般の常識からここまでずれまくってしまって、果たしてこれでいいのだろうかということなのである。
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