第九回
君たち気は確かか
 インターネット入門

 今回はインターネットのことから説き起こそう。手許の資料によればわが国におけるインターネットの世帯普及率は七・〇八%、馴染みのない人はまだまだ多かろう。本誌読者のなかにもインターネットとカスタネットの違いすら判らぬ方がいらっしゃるかもしれない。そうした方々のためにインターネットとは何か、その点から始めたい。
 ここで打ち明けておけば、私にしたところでインターネット歴三、四か月の駆け出しに過ぎない。その程度の短期間でインターネット入門が書けるようになるのだから、あなたもインターネットなど恐れることはない。ただしパソコンという言葉を聞いたことがないとおっしゃる読者があるとすれば、その方には本稿は理解不能であることをお断りしておく。
 さて、何が何やら訳も判らぬまま、あなたはインターネットに手を染めることになった。何をすればいいのか。とにかくパソコンを一台購入することである。その際に「インターネットがすぐできるパソコンを」と指定すれば話が早い。そのあとはプロバイダと呼ばれる業者を訪ねて接続を依頼する。
 あなたはさっそく悩ましい気分になってきたかもしれない。接続とはいったい何か、何と何を接続するのか、まさかオシベとメシベではあるまいが、などと馬鹿なことを考えていてはいけない。
 地下に埋設された水道管を思い浮かべられたい。あなたは新しい家を建てた。だがそれだけでは水道は使用できない。地下に巡らされた水道管からあなたの家まで水道を引かなければならない。これがすなわち接続である。
 インターネットの接続には水道管は必要ない。用いるのは電話回線である。あなたのパソコンとインターネットは電話の線によって結ばれるのである。面倒なことはない。パソコンのマニュアルやプロバイダから手渡された指示書のとおりに作業するだけで、あなたはインターネットの世界に参入できるのだ。
 とはいえキーボードのキーを押して文字や数字を入力する必要があるから、まったくのパソコン初心者がただちにインターネットを体験できるというわけでもないのだが、話を進める都合上そのあたりは大目に見ていただきたい。とりあえずあなたはワープロに触ったことのある人間なのだとしておこう。それで充分である。
 こうしてあなたはインターネットの世界に歩を踏み入れたのである。
 インターネットの世界とは何か。
 村井純氏の『インターネット』(岩波新書)には、「インターネットとは、『世界中のすべてのコンピューターをつなぐコンピューター・ネットワーク』だというのが、いちばん簡単な理解だと思います」と記されている。
 あなたはまた悩ましい気分になってきた。いったいどのへんが「簡単な理解」だというのだろう、まったく理解できない、世界中だと? ネットワークだと? さっぱり判らぬではないか、と。
 それなら、パソコンではなくテレビだと思っていただこう。なにしろ見た目が似ている。テレビだと思えば怖じ気も消えよう。あなたの家のテレビが電話回線によってインターネットにつながっているのだ。
 あなたの友人であるAさんの家のテレビもやはりインターネットに接続されている。つまりあなたのテレビとAさんのテレビはインターネットを介して結ばれている。これすなわちネットワークなのである。
 さて、その電話回線によって結ばれたテレビでいったい何をするのか。答えは知れていよう。あなたはテレビ番組を見るのである。
 あなたはいつでも好きなときに水道の蛇口をひねり、水道管のなかを流れる水をあなたの家に自在に取り込むことができる。それと同様に、あなたはインターネットを流れているさまざまな番組をあなたの家のテレビに自由に取り込み、好きなだけ見ることができるのだ。その番組というのが物凄い。多種多様な番組を制作して放映するチャンネルは、手許の資料によれば世界中になんと約三億二千万もあるというのだ。
 ああ、あなたはまた悩ましくなったかもしれない。じつは私も悩ましくなってきた。形が似ているからといってパソコンをテレビに譬えたりしたせいで、話がかえって複雑になった気がするのだ。それにいくら何でも話が大雑把すぎるという気もしないでもない。しかし致し方あるまい。この調子でつづけることにしよう。
 私は番組と書いた。チャンネルと書いた。むろん比喩である。番組とはあなたのテレビに映し出される文章や画像のこと、チャンネルとはそうした文章や画像が収められている場所のことだとご理解願いたい。
 このチャンネルを一般にホームページと称する。どこかでお聞きになったことのある言葉だろう。HPと略する。あとにLがつづけば不気味な頭文字になる。この段落の四番目の文章が理解不能の方は読み飛ばしていただきたい。
 あなたの友人のAさんは和菓子屋さんである。名張銘菓「とんこ山のささら返し東北プロヴァンス風」だの「夏見廃寺堕地獄説教」だのを製造販売している。Aさんはインターネットを利用してこの銘菓をPRしようと考えた。そこでホームページを開設した。インターネットに番組を流すことにしたのだ。
 インターネットと水道の違いはここにある。水道の場合あなたは水を受用するだけだが、インターネットではあなたのほうから番組を供給できるのである。
 Aさんは自分のチャンネルすなわちホームページに銘菓の宣伝を載せた。宣伝文を書き、写真を配して、注文方法も記した。番組をひとつつくったのである。インターネットに接続されたテレビなら世界中どこのテレビでもこの番組を見ることができる。インターネットを利用して注文もできる。
 ところでAさんは、商売は和菓子屋だが趣味で下着泥棒をしている。集めた下着は無慮数千枚、そのコレクションを自慢したくなって、Aさんは自分のチャンネルに別の番組をつくることにした。セクシーな下着の写真を順次紹介して、同好の士を愉しませたり羨ましがらせたりしてやるのだ。けけけけけ。
 かくてAさんは商売と趣味の双方にインターネットを活用したのである。しかしあなたはご不審かもしれない。名張の和菓子屋が新しいチャンネルを開設したとしても、そんなチャンネルがあるということは誰も知らないではないか、いったい誰がそんなチャンネルを見てくれるのか、と。
 ここで検索という言葉が登場する。三億以上もあるというチャンネルから自分が見たい番組を探し出してくること、これを検索と称する。けっして面倒な作業ではない。
 インターネットのブラウザには、あ、私はブラウザという言葉を使用してしまった。じつは私は話がややこしくなるからブラウザという言葉はつかわないようにしてきた。ブラウザは一般にはホームページ閲覧ソフトと理解される。つまりパソコンでホームページを見るためのソフトである。しかしこうした用語はパソコンに縁のない方、あるいはパソコンアレルギーの方をも対象とした本稿ではできるだけ避けるべきであろう。
 パソコンを日常的につかいこなしている人には想像もつかぬことかもしれないが、世の中にはパソコンにどうしても馴染めないという人間も存在する。桂文珍師匠が述べていらっしゃるとおり、会社でいやいやながらパソコンを扱わなければならなくなった中高年サラリーマンのなかには、
 「へっ。こないな窓際の席に坐らされてからに何がウィンドウズじゃ」
 と不貞腐れているお父さんもいるのである。
 だからブラウザという言葉は撤回しよう。とにかくインターネットでは検索という作業が可能なのである。検索エンジンと呼ばれるホームページがそういうサービスを行っている。その点だけを確認して次に進もう。
 たとえば名張市のことを知りたいと思ったのなら、あなたは検索エンジンを呼び出し、名張市という言葉を入力して、検索をスタートさせるだけでいいのだ。やがてテレビ画面には名張市に関わりのある番組の一覧が表示される。一覧から任意の番組を指定すれば、テレビはその番組を映し出すという仕組みだ。
 だからうまく検索を行えば、あなたは和菓子屋Aさんのホームページにたどりつくことができるはずなのである。
 以上、インターネット入門を記した。何が何やらお判りにならぬ方もいらっしゃるであろうが、先を急ごう。

 ホームページ入門

「しかしインターネットゆうのはえらいもんですね」
「いや僕は全然知らんのですけど」
「すっぽんぽんですからね」
「何がですか」
「お姉さんが」
「どこのお姉さんですか」
「そらもう金髪から女子高生から世界中のお姉さんがすっぽんぽんですがな」
「何の話やねん」
「せやからすっぽんぽんのお姉さんの写真がなんぼでも見られますねん」
「インターネットでですか」
「そうそう。ほんまにええ時代になりましたね」
「ほな君はあれですか、インターネットではすっぽんぽんのお姉さんの写真しか見てないわけですか」
「そらたまにはすっぽんぽんのお兄さんの写真かて見てますけど」
「そうゆう問題やないやろ」
「けど実際にそうゆう写真を見せてくれるホームページがあるわけですから」
「ほかにもいろいろとホームページはあるやろがな」
「そら無茶苦茶あります」
「やっぱり名張のホームページゆうのもあるわけですか」
「いっぺんYAHOOゆう検索エンジンで名張市を検索したんですけど」
「名張市に関係のあるホームページを探したわけですな」
「そしたら結構ありましたね。まず名張市のホームページがありますわね」
「市役所が開設したやつ」
「ほかに国津とかつつじが丘とか南八番町とか地域で開いてるのもあります」
「地域情報の発信ゆうやつですね」
「なばりでWA!輪!和! ゆうのもありました」
「何ですねんそれ」
「名張の若い人がやってるホームページみたいですけど」
「やっぱり若い人でしょうね、ホームページを開いたりするのは」
「もっと若い人のもありましたけどね」
「どこのホームページですか」
「名張市立百合が丘小学校」
「子供やがな」
「百合が丘小学校の良い子たちがホームページを開いてるわけです」
「えらいもんですね」
「ほかにはたとえばトムソーヤランドとか」
「青蓮寺のレストランですな」
「れんが亭」
「夏見のカレー屋さんやがな」
「ハノチ米穀店」
「米屋さんまでページ開いてますか」
「まゆのおうちへようこそ」
「何やねんそれは」
「猫が名張を案内してくれるページらしいんですけど」
「どこの店のホームページですねん」
「これはたぶん個人が開設してるホームページでしょうね」
「個人でやってる人もあるんですか」
「というか、個人でやってるページのほうが圧倒的に多いのとちがいますか」
「個人がいったい何を書いてますねん」
「趣味の話とか種々雑多です」
「たとえば音楽が好きな人やったら音楽をテーマにしたホームページを開設するゆうようなことですか」
「そう。好きなミュージシャンのこととか新曲の感想とか書いて一人で盛りあがるわけですよ」
「面白いもんですな」
「あとようあるのが日記ですね」
「自分の日記を公開するわけですか」
「日記やったら誰でも書けますから」
「なんでわざわざそんなことせなあきませんねん」
「よう知りませんけど、ゆうたらケータイみたいなもんとちがいますか」
「携帯電話がどないしました」
「ろくに用事もないのにケータイでべらべらとしょうもないこと喋ってる若いあほを最近よう見かけるでしょ」
「たしかにいますけどね」
「あのケータイゆうのは特定の個人しか相手にできません」
「なるほど、ホームページやったら不特定多数の人間を相手にできますからね」
「ゆうても世界中が相手ですから」
「そしたら個人で開設してるホームページゆうのは世界中の人間にしょうもないことべらべら喋るためのもんですか」
「一概にそうはいえませんけど、敢えて一概にゆうてしまうとそないなるかもしれませんね」
「どっちやねんな」
「日記をホームページで公開するゆうことは空疎な自己表白をだらだらだらだら垂れ流しにすることであって、それはそこらのあほがケータイでやってることと本質的には同じことですからね」
「ケータイやったら相手から返事がありますがな」
「ホームページにかて返事はあります」
「見た人が返事くれるわけですか」
「それでこのあいだ面白いことがあったんですけどね」
「何ですねん」
「僕いちおう名張市立図書館の乱歩資料担当嘱託でして」
「はいはい」
「名張市立図書館が出した『江戸川乱歩執筆年譜』の編集担当者なんですけど」
「それがどないしました」
「『江戸川乱歩執筆年譜』をインターネットで検索してみたわけですよ」
「何か出てきましたか」
「この本のことを紹介してくれてるホームページがありまして」
「ありがたい話やないですか」
「たとえば『宮澤の探偵小説頁』ゆうホームページ」
「宮澤さんゆう人のページですか」
「本の感想とか探偵小説の資料とかが掲載されてるページなんですけど」
「そこに『江戸川乱歩執筆年譜』が紹介されてたわけですな」
「すごい好意的に紹介してくれたうえに名張市のホームページにリンクしてくれてるんです」
「リンクて何ですか」
「さ、さ、貞子の怨念が」
「そらリングやがな」
「要するにほかのホームページに直行できるようにすることがリンクです」
「そしたら宮澤さんのページから名張市のページに直行できると」
「それで名張市のホームページに書かれた乱歩のことが読めるわけです」
「自分のページを見てくれた人によそのページを紹介するわけですか」
「そうです。それからまた『謎宮会ホームページ』ゆうのがありまして」
「謎宮会ゆうたらやっぱり探偵小説ファンの会ですか」
「はい。その謎宮会がホームページを開いてるわけです」
「そこにも『江戸川乱歩執筆年譜』が紹介されてましたか」
「ある人がこれは凄い本やと書いてくれてたんですけど、しかしこの本には不備がある、これでは詐欺だゆうて聞き捨てならんことも書かれてまして」
「えらいこっちゃがな」
「そこで僕はそのホームページにメールを出したわけですよ」
「メールといいますと」
「インターネットを利用した郵便ゆうか通信ですね、Eメールゆうやつ」
「それがつまりホームページに返事を出したゆうことですか」
「けどなんか厭でしょ、Eメールて」
「何が厭ですねん」
「やっぱり郵便ゆうもんはですよ、文面はワープロで書いたとしても相手の地名人名とかこっちの姓名ぐらいは万年筆で書き記して、きれいな切手ぺたっと貼って出すもんや思いますけど」
「そんなこと決まってないがな」
「せやから僕はEメールなんか試験的に二、三回やっただけで開店休業やったんですけど、事情が事情ですからその謎宮会にメールを送ったわけです」
「何て書いたんですか」
「謹啓春寒の候貴下益々御清栄の事とお慶び申し上げ候さて此度インターネットにて貴会ホームページを拝見」
「何やねんそれは」
「これではさすがに大時代ですからもうちょっと砕けた文章にしましたけど」
「当たり前やがな」
「向こうの人があっ、なんと江戸時代からメールが届いたやないか思てびっくりしたらあきませんからね」
「そんなこと誰が思うかいな」
「それでまあ謎宮会の代表の高橋さんゆう人とメールをやりとりいたしまして」
「決着はついたんですか」
「その何回かやりとりしたメールを謎宮会のホームページに載せてもらうことになったわけですわ」
「そしたらそのホームページを見たら君の文章が読めるわけですか」
「くわしいことは謎宮会ホームページをご覧ください。アドレスはhttp:/www.inac.co.jp/~maki/meikyu/です」
「なんや面倒ですなあ」
「この漫才がどこぞのホームページに載ってるのやったら、このホームページから謎宮会のホームページに直行できるようにもできるんですけど」
「リンクゆうやつですな」
「さ、貞子」
「それはもうええねん」
「ですから僕もちょっと考えまして」
「何を考えました」
「どんぶらこ協和国がホームページを開いたらええわけですよ」
「何やて君」

 情報発信入門

 本誌版元のどんぶらこ協和国は名張の地域文化や地場産業をテーマとする市民グループである。だとすればホームページのひとつも立ちあげねば恰好がつくまい。いまやそういう時代なのだ。
 つまり名張にも血の通った地域情報を発信するホームページが必要なのだ。名張市が開設しているではないかとおっしゃる読者もおありだろうが、お役所がつくったホームページなぞ面白いものではない。私にはどんぶらこ協和国が勧進元となって名張を主題としたホームページを開くべきだと判断されるのである。
 もっとも個人的には、私は情報発信などといったことに興味はない。とくにお役所がいうそれには嫌悪すら覚える。そもそも田舎のお役所が情報発信などという物欲しげな言葉を頻繁に使用しだしたのはバブル経済の時代であって、「○○から全国へ情報発信を」などと恥知らずなお題目が瞬くまに蔓延を見た。私にはこの言葉が耳障りで仕方がないのだ。くそ。この際だから怒ってやる。
 いったい情報発信とは何事であるか。意味はきわめて曖昧である。はっきりいえば不明である。意味を明解にするためには、情報発信という言葉をすべて自己宣伝といい換える必要があるのだ。
 三重県を例にとろう。三重県は少し前から、
 「俳句をキーワードに三重県から全国へ情報発信を」
 などと躍起になっている。とはいえこれでは情報とはいったいどんなものでそれをどう発信したいのか、とんと見当がつきかねる。だがこれが、
 「俳句をネタにして三重県を全国に自己宣伝いたします」
 というのであればよく判る。つまり情報などは存在しない。発信したいのはあくまでも三重県の存在そのものなのである。しかし「三重県をよろしくね」などと全国紙に全面広告を打ったところで誰からも相手にされない。だから三重県庁のお役人は「俳句の国・三重」などと苦し紛れのこじつけを案出し、それを喧伝してこれを情報発信と称するのである。
 それにしてもなんと箆棒なこじつけであろうか。芭蕉や荒木田守武が出たというだけで三重は俳句の国となり、江戸川乱歩が生まれたというだけで名張はミステリーのふるさとになるのである。どいつもこいつも気は確かか。
 どうせ嘘をつくならいっそ三重県の松阪は松坂大輔の生まれ故郷です、スーパールーキーの国・三重ッ、双羽黒なんて知りませんからねッ、とでもいい募ってみればいかがか。あるいは和歌山ごときに負けてられるか、毒ブドウ酒事件が起きた名張市こそ毒殺のふるさとですッ、などと叫んでみればいかがか。ルネサンス期の妖怪チェザーレ・ボルジアのお膝下たるローマ市と姉妹都市提携を結ぶのも一興であろう。ああ、あほらしい。
 あほらしくてもつづける。さてその俳句の国・三重が何をしているのかというと、たとえばさる美人俳人を審査員に祭りあげて全国から俳句を募集するといった程度のことだ。賞品の伊勢エビ目当てに俳句を送ってよこすような連中を相手にして何が面白いのか。
 これを要するに、情報発信というお題目を掲げて結局は作品を公募する程度のことしかできていないのがお役所というところの実状なのだ。子供騙しなこじつけに税金を投じ、たいして頭のよろしくない民草に媚びを売るのが当節のお役所における情報発信なのである。
 全国の自治体に蔓延したこの情報発信ブームは、煎じ詰めれば首長の宿痾だと私は思っていた。都道府県知事、市町村長、いずれも畢竟すれば政治家である。政治家といえば自己顕示欲のかたまりである。それが悪いとはいわぬ。顔を売り名前を売り、他人を押しのけてみずからを主張することのできる人間でなければ一人前の政治家にはなれぬのである。
 そして政治家が首長に当選すれば、彼の自己顕示欲は個人レベルから地方自治体のスケールへと肥大する道理だ。それがたまたま未曾有の好況に遭遇して、あの全国的な情報発信の大合唱が沸き起こったのであると私は睨んでいた。
 だが、どうやら自己顕示欲が強いのは政治家だけではなかったらしい。
 それが証拠にインターネットだ。ホームページを開設して自己を宣伝する人間のいかに多いことか。私はここにいる、私はここにいる、私はここにいる。いくらでも喚いてろ。
 しかし考えてみればこれは当然のことかもしれない。先に記した名張毒ブドウ酒事件が発生した当時、私はまだ小学生で、余談ながら世間からは神に愛でられし少年と呼ばれていたものだが、名張じゅうの大人がじつに嬉しそうだったことを記憶している。旅行から帰った人間などとくにそれが甚だしく、
 「どこ行ったかて名張から来たゆうたらああ、あの毒ブドウ酒事件のあったとこですねなっちゅうてゆわれんねってよ」
 などと意地の悪い姑がようよう死んでくれたときの嫁のように喜んでいる。神に愛でられし少年である私には殺人事件の起きたことがどうして嬉しいのか理解が届かなかったが、後年になって思い当たった。彼らは名張という言葉が新聞雑誌テレビラジオで大きく報道されたことが嬉しかったのだ。
 昭和三十年代でさえそうだったのだ。情報化時代と呼ばれる現代においては、インターネットも含めた媒体をフルに活用して情報発信に走ることは地域住民の潜在的願望ですらあるのかもしれない。
 お役所の情報発信が面妖なのは、そこにたとえば俳句の国などという粉飾が含まれているからである。情報を発信しようにもろくなネタがなく、にもかかわらず自己宣伝はしなければならぬという矛盾があるからである。ちゃんとしたネタを情報として発信すればそれが結果として立派な自己宣伝になるという理屈さえ判らず、まして真剣にネタを見つけようとする作業すら放棄して、ご丁寧なことに広告代理店の喰いものにまでされて、いったい何が情報発信か。こら。聞いとるのかぼけ。
 などと怒っていても仕方がない。とにかくどんぶらこ協和国はホームページの開設を考えるべきだろう。問題は協和国の中心スタッフにインターネットとマリオネットの区別がついているのかどうかといったことなのだが。
 ホームページの内容については堅苦しく考える必要はない。どんぶらこ協和国の趣旨や活動内容を紹介し、名張にはこんな情報がありますと次々に書き込んでゆけばいいのだ。
 たとえばスタッフのお一人である石原弘子さんが「大来皇女をしのぶ会」について書くのも立派な情報だろう。いやいっそホームページにこの会のコーナーを設け、夏見廃寺や大来皇女についてくわしく紹介してもらうことにすれば、これはこれで貴重な情報発信となる。
 むろん「四季どんぶらこ」の最新号の紹介も入れられるし、バックナンバーを掲載してゆくことも可能だ。赤字で困っているのならある時点で紙の媒体から手を引き、インターネットを媒体とした雑誌に移行してもいいではないか。
 何なら私がこれまでに書いた名張に関する原稿を、むろん数は少ないけれど提供したって構わない。あるいはこの「乱歩文献打明け話」を第一回から順番に掲載すれば、名張にはこんな馬鹿がいると結構評判を呼ぶかもしれぬ。
 いや実際にこの連載、どこかのホームページに転載してはどうかとおっしゃってくれる方もあるのだ。といったって毎月一本ずつ載せてゆけば十回あまりでネタが尽きる計算になる。おおそうだ。それなら外伝も載せよう。
 『乱歩文献データブック』が出たとき、扱ってくれる取次がどこにもなかったため、私はせめて大都市の大きな書店には本を置いてもらいたいと営業に歩いたのだが、東京の本屋を廻った顛末を「東京営業旅日記」と題してさるミニコミに連載したところこれが大受けした。とくに市民オンブズマンを揶揄した回など絶賛を博した。神品と呼ばれた。名張の芸能史に新たな一ページを書き加えたと評された。これを本連載の外伝として載せることにしてもいいのだ。
 おおそうだ。まだあった。じつは「東京営業旅日記」には書かれざる一章があった。こうして思い出すだけで涙が滲みそうになるほどのネタがあるのだ。それを新稿として書き加えてもよい。予告篇を記しておこうか。
 この出張時、投宿した池袋のビジネスホテルにおいて、私は波濤を越えてやってきた天童よしみ生き写しの韓国人売春婦に買春を強要されてじつに往生した。それがまたすこぶる絶望的な売春婦であって、年の頃なら五十路も暮れ方、
 「ロクチュナルマテシコトチュチュケヨオモテルヨ」
 つまり自分は六十歳になるまでこの仕事をつづけようと思っているのだ、などと片言の日本語で悲壮な決意を口走るその健気さは何に譬えん方もない。とにかく私は茫然としてここに進退窮まったのであった。このゆくたてを綴れば一読必笑の絶品ができあがることであろう。
 しかしそんな事実を公表してしまっては私の社会的信用は危殆に瀕してしまうのではなかろうか。誰からも相手にされなくなるのではあるまいか。だがよく考えてみれば神に愛でられたのもすでに遠い昔、いまでは悪魔に憐れまれることすらあるこの私だ。何がどうだって構うものか。書いたる。なんぼでも書いたる。洗いざらい書いてしもたるのじゃッ。

 情報社会入門

「あほやがな」
「誰があほやねん」
「君、われとわが身を顧みて自分はほんまにあほやなと思う瞬間はないですか」
「知らんがなそんなこと」
「そうですか。そしたらまあインターネットの話をつづけますけど、インターネットの特長のひとつは双方向性です」
「どうゆうことですか」
「情報の発信だけでなく受信も簡単にできるわけです」
「情報のキャッチボールゆうやつ」
「なかには掲示板ゆうのを設けてるホームページもあります」
「何を掲示しますねん」
「何でもええんです。ある人がたとえば名張のこんなことを教えてほしいと掲示板に書き込みます」
「誰でも自由に書き込めるようになってるわけですか」
「そうです。で、それを見た人のなかには質問に対する回答をその掲示板に書き込んでくれる人も出てくる」
「面白そうやないですか」
「僕がたまたま見たホームページに伊賀井戸端会議場ゆう掲示板がありまして」
「どんなこと書いてました」
「名張駅から歩いて行けるHホテルを教えてください」
「何あほなこと聞いとるねん」
「さすがにその質問には回答が寄せられてませんでしたけど」
「もっと高尚な話題はないんですか」
「盛りあがってたのはやっぱりインターネットの話題でしたけど」
「どんな話題です」
「伊賀地区広域市町村圏事務組合がホームページを開設するための予算が可決されたゆう新聞記事が紹介されてまして」
「どう盛りあがってました」
「その予算が高すぎるんやないかゆうてわいわいやってました」
「わいわいとは」
「その話題が面白いといろんな人が自分の意見を書き込んでいって、ひとつの話題が延々とつづくわけです」
「それで予算はほんまに高いんですか」
「そこまでは僕には判りません」
「けどそんな批判がホームページで公開されてるんやったら、伊賀地区広域市町村圏事務組合も当然その掲示板に書き込みして事情を説明してるんでしょうね」
「公務員にそんな芸当ができる思うか」
「ほなどないしますねん」
「知らん顔を決め込みますがな」
「なんでですねん」
「君、僕と何年漫才やっとる」
「ついこのあいだからやないか」
「けど君にもそろそろ公務員の体質が判ってきてもええ頃やないか」
「それやったら掲示板に知らん顔を決め込むのは、責任を回避するとか問題を先送りするとか住民に顔を向けてないとか主体性がまったくないとか、君がようゆうてる公務員の体質のあらわれですか」
「またようけ悪口を並べましたな」
「君がいつもゆうてることやないか」
「まあ端的にゆうてしまうと公務員の根性が腐り切っとるゆうことでしょうね」
「そんないい方はないやろ」
「もっと端的にゆうとあほですからね」
「君、しまいに名誉棄損で訴えられても知らんで」
「その場合の問題は公務員に守るべき名誉があるのかどうかゆうことですけど」
「もうええがな」
「ですからどんぶらこ協和国がホームページを開くのやったらぜひ掲示板も設けるべきでしょうね」
「名張の駅から歩いて行けるHホテル尋ねられたらどないします」
「教えたったらええがな、浮舟でもどこでも」
「そらまあそうゆう情報を必要としている人が現実にいるわけですからね」
「この手のサービスはお役所のホームページではできませんしね」
「名張市のホームページには掲示板はないんですか」
「そんなもんつくったらお役所批判の書き込みが殺到するやないか」
「そうとは限らんと思いますけど」
「でも本来はそれがあるべきなんです」
「掲示板がですか」
「ゆうても情報社会ですよ」
「そらそうです」
「住民が気軽に意見とか質問を書き込める掲示板があれば、その掲示板で住民同士が情報を交換したり議論したりゆうことも簡単にできるわけです」
「その議論がお役所の仕事に反映されることにもなるでしょうしね」
「よその人が名張のことで質問を書き込んでくるケースも考えられます」
「どんな質問ですか」
「毒ブドウ酒事件のことを教えてとか」
「なんでそんなことを知りたいねん」
「ゆうてもあれは名張市発足以来四十五年の歴史のなかで情報としていちばん面白いネタやったわけですから」
「人の不幸を面白がったらあかんがな」
「高度経済成長期の山村における『いなか、の、じけん』としてきちんと考察されるべき事例なんです」
「それはそうかもしらんけど」
「そのうち『奥西死刑囚は無罪だ』ゆう書き込みがあったりしてね」
「誰が書き込んでくるねん」
「そらやっぱり真犯人とちがいますか」
「そんなやつおるんか」
「それは判りませんけど、筆跡を隠すために新聞の見出しを一文字ずつ切り抜いて書き込みをしてあったら犯人である可能性が高いと思いますね」
「ホームページの書き込みにどないして新聞の切り抜きをつかうねん」
「そこに気がつかんとは犯人もまた迂濶な」
「迂濶なんは君やないか」
「まあ毒ブドウ酒事件の情報もええんですけど」
「あんまりええとは思えませんけどね」
「名張市立図書館としてはやっぱり乱歩の情報を流したいと思います」
「それはそうでしょう」
「図書館の嘱託にしてもろた時点では考えもしてなかったんですけど」
「三年半で時代が変わりましたか」
「いまやインターネットを念頭に置かないと仕事が進みません」
「時代はそこまで来てるわけですな」
「図書館が蔵書のデータをネット上に公開するのは世の趨勢ですよ」
「それでどんな情報を流しますねん」
「図書館として乱歩という作家にアプローチする道を三つ考えてるんです」
「一つ目は何ですか」
「作品という視点から乱歩にアプローチする」
「二つ目は」
「著書という視点からアプローチする」
「三つ目は」
「関連文献という視点があります」
「いわゆる乱歩文献ですな」
「そう。『乱歩文献データブック』ゆう本は名張市立図書館が関連文献という視点から乱歩にアプローチしていることを示すものでもあるんです」
「そしたら次に出した本は」
「『江戸川乱歩執筆年譜』は作品という視点から乱歩にアプローチした本です」
「といいますと」
「乱歩が何年何月にどんな作品を書いたかゆうことが判るわけですから」
「それが作品という視点からのアプローチですか。そうしますと著書という視点からのアプローチは」
「それがまあその次に予定してる『江戸川乱歩著書目録』なんですけど」
「乱歩の本の目録ですか」
「何年何月にどんな本を出したかゆうことを書誌にまとめようと思うんです」
「それでいったいインターネットで何を流すんですか」
「とりあえずこの三冊の書誌の内容を流すわけですわ」
「どないなります」
「名張市立図書館のホームページを覗いたらですよ、たとえば昭和四年の六月には乱歩がどんな作品を発表してどんな本を出して乱歩についてどんな文章が書かれてたかが簡単に調べられるわけです」
「そら便利やないですか」
「それで考えたんですけどね、いっそのこと三巻目の『江戸川乱歩著書目録』は順番を逆にしたろかと」
「順番といいますと」
「つまり一巻目と二巻目はまず本を出してから、そのデータに増補を加えてネット上に流すことになるわけですけど」
「三巻目はどないします」
「ホームページにデータを公開して、それを見た人に不備や遺漏を訂正してもらいながら調査編集を進めます」
「本にするのはそのあとですか」
「書誌の編纂手法としてはきわめて先端的やと思うんですけど」
「いつ始めますねん」
「なにしろ名張市も財政難ですからね、平成十一年度にその予算を要求したんですけどあっさり蹴られまして」
「そらまあ仕方ないですね」
「しかしえらいことですな」
「何がですねん」
「そろそろ名張市役所に啖呵切ったろかいな思たとこで漫才が終わりますがな」
「せやからそれは君がしょうもないことをぺらぺら喋りすぎるからやないか」
「それにしてもえらいこっちゃがな」
「何がやねん」
「きょうの漫才、オチがないねん。君、オチの代わりに『だんご3兄弟』にあわして裸踊りやってくれへんか」
「やめさしてもらうわ」

(名張市立図書館嘱託)

掲載2000年8月2日
初出「四季どんぶらこ」第11号(1999年6月1日発行)