乱歩の恩義
五月五日、ミステリー評論家の中島河太郎先生が逝去された。
ミステリー評論家の、と書くよりは、探偵小説研究家の、と記したほうがふさわしい気がするし、個人的な感懐に任せるならば、名張市立図書館の「江戸川乱歩リファレンスブック」を監修してくださった、というのが一番しっくり来る。
中島先生には、平成八年の春、リファレンスブック第一巻『乱歩文献データブック』のことでお会いした。
教育委員長の辻敬治さんと、当時の市立図書館長だった奥西富江さんがいっしょで、先生と待ち合わせたのは浅草の雷門だった。
墨田にお住まいの先生は、田舎者にも判りやすい場所をと、この高名な観光スポットを指定してくださったのである。
監修の件に関しては、書状をやりとりして、すでにご承諾をいただいてあったのだが、一度はお会いして、直接お願いしておかなければならない。
上京して、まず池袋の平井隆太郎先生のお宅、それから南青山にある日本推理作家協会の事務局を回り、翌日の午前、雷門の下に三人で立った。
先生がいらっしゃった。
駆け寄って挨拶し、やはり先生の案内で、近くの喫茶店に腰を落ち着けた。
先生には、『乱歩文献データブック』のワープロ原稿を、事前にお送りしてあった。
その原稿が入った名張市役所の大きな封筒を、先生は持参してこられた。
原稿といっても、むろん決定稿ではなく、不備を補ってデータを充実させる作業はまだこれからだった。
昼食に入った店で、先生は、原稿でかさばった茶封筒を眺めながら、
「こういう仕事は、本当は推理作家協会がやらなくちゃいけないんだけどね」
呟くようにおっしゃった。
意外な気がした。
日本推理作家協会は、晩年の乱歩が病を押して設立に奔走した団体である。
前身の日本探偵作家クラブも、同じく乱歩がつくった組織である。
さらに遡れば、終戦直後の昭和二十二年、乱歩の提唱で発足した土曜会というグループが、日本推理作家協会のそもそもの出発点だったといっていいだろう。
だからといって、日本推理作家協会が乱歩の書誌をつくる必要は、まったくないのではないかと思われた。
あるいは先生は、恩義ということを考えていらっしゃったのかもしれない。
日本推理作家協会は、もっと乱歩の恩義に報いるべきである。
そんなふうに考えていらっしゃったように思われる。
中島先生が「日本古書通信」二月号に発表された「探偵雑誌興亡記(下)」は、おそらく生涯の最後に執筆された依頼原稿かとも思われるが、探偵雑誌の消長を丹念に跡づけたこの文章にも、乱歩の名は出てくる。
戦後、経営不振に陥った雑誌「宝石」の編集に乗り出した乱歩の姿が、そこにはこんなふうに書きとめられている。
一時は十万部に達していた本誌は、初期には新人の養成所みたいに思われたが、次第に稿料も滞るようになった。本誌をわれわれ推理作家の本陣のようなものだとひいきしていただけに、編集と経営に乗りだし資金面でも面倒をみるといったいれこみようであった。
主語が省かれているが、ひいきしたりいれこんだりしたのはむろん乱歩だ。
文章はさらにつづいて、
広告をとりにいったり、新聞広告用の文案を練ったりする様子を拝見して胸がつまった気になった。専門誌としての限界があって、乱歩が病に仆れるとともに経営は悪化し、三十九年五月、「二百五十号記念号」をもって、十九年の歴史を閉じた。
探偵小説の興隆に尽瘁する乱歩の姿を目の当たりにしていたからこそ、先生にとって、日本推理作家協会が乱歩の恩義に報いるのは当然のことだったのだ。
本当は推理作家協会がやらなくちゃいけない、という言葉には、先生の律儀さが強く感じられた。
リファレンスブック第二巻『江戸川乱歩執筆年譜』を出したとき、中島先生とほぼ同世代のミステリー作家の方から、献本の礼状をいただいた。
その葉書にも、これは日本推理作家協会が手がけるべき仕事でした、といった意味のことが記されてあった。
この方は、生前の乱歩とある確執を経験し、その経緯を文章にして発表されたこともある人である。
そうした方にしてなお、日本のミステリー小説が乱歩という偉大な先達から蒙った恩義は、中島先生同様、相応に報いられるべきものだと感じていらっしゃるのである。
だが、謦咳に接したことのない人間には、乱歩の恩義も伝わりにくい。
乱歩に親しく接し、その献身的な情熱を実感した人間でなければ、日本推理作家協会が乱歩の書誌をつくるべきだという発想は、生まれてこないだろう。
やらなくちゃいけないんだけどね、という先生の言葉からは、断念の気配もまた聞きとれるような気がした。
お会いしたのは一度だけだったが、その後も書状を通じて、中島先生からはいろいろなことを教えていただいたし、励ましてもいただいた。
『江戸川乱歩執筆年譜』が、調査に手間取ったため予定をかなり遅れて完成に近づいたとき、刊行の遅延をお詫びする手紙を添えて、最終校正をお送りした。
折り返しおたよりが届いて、なかにこんな一節があった。
「こういう種のものは、簡単に再刷もできませんから、やはりお気にさわらぬ程度で我慢する他はなさそうです」
書誌の編纂には、じつは終わりというものがない。
もう少し待てば、新しい発見があるかもしれない、不明だったものが判明するかもしれないと、例の「おいでおいでのデーモン」が手招きをするからだ。
ひとたび刊行されてしまえば、不備や遺漏は消しがたい烙印となって残ってしまうのだし、それを訂するための増刷の機会もあまり望めない。
しかし刊行されなければ、そもそも書誌は意味をなさない。
だからこそ、まさに「気にさわらぬ程度で我慢」して、不完全は百も承知で上梓するしかないのである。
書面を眼で追いながら、先生はこれまで、いったいどれほどこうした我慢を経験し、断念を重ねてこられたのかと思い返さずにはいられなかった。
あるいは中島先生は、断念の多い生涯を送られたのかもしれない。
今年いただいた先生の賀状には、「第二回日本ミステリー文学大賞受賞」と詞書を添えて、「ミステリーのみりょくにいたくおぼれけるわがいっしょうにくいなかりしか」という歌が書かれていた。
いま読み返せば、断念の気配に充ちた紛れもない辞世である。
しかし、浅草でお会いしたとき、正宗白鳥の研究者でもあった中島先生は、こんなことをおっしゃっていた。
「いまでも暇があると、国会図書館に通って、新聞や雑誌を調べて、白鳥の文章を探しているんです。そうすると、やっぱり出てくるんだよね、見落としていたものが。出版のあてはないんだけど、これはやっておかなくちゃいけない仕事だと思ってね」
先生の断念の背後には、完璧を目指す志が、決然として存在していたのだ。
四月、日本図書センターの「作家の自伝」シリーズ九十巻として、『江戸川乱歩』が出た。
編者は中島先生で、巻末の年譜と解説も先生の執筆である。
生涯の最後に発表した原稿が「探偵雑誌興亡記」であり、最後に編んだ書物が『江戸川乱歩』であったというのは、いかにも中島先生らしい白鳥の歌だ。
解説には名張のことも書かれているから、引用しておく。
文中の「碑」は、昭和三十年に建立された江戸川乱歩生誕地碑のことである。
私がその碑を訪ねたのは昭和五十年のことであったが、医院の中庭に草に蔽われていた。そして図書館の片隅に乱歩の著書が若干並べてあるだけで慨嘆した思い出がある。
その後、昭和六十三年に名張図書館は見事に新築され、乱歩コーナーが設置されたので、子息の平井隆太郎氏と私が招かれた。さらに図書館では「乱歩文献データ」を編集刊行するなど活溌に顕彰につとめている。
中島先生の「お別れの会」は、六月一日、東京の帝国ホテルで催された。
鞄のなかに黒のネクタイを用意して、私は東京に向かった。
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