第十回
中島河太郎先生追悼

 乱歩の恩義

 五月五日、ミステリー評論家の中島河太郎先生が逝去された。
 ミステリー評論家の、と書くよりは、探偵小説研究家の、と記したほうがふさわしい気がするし、個人的な感懐に任せるならば、名張市立図書館の「江戸川乱歩リファレンスブック」を監修してくださった、というのが一番しっくり来る。
 中島先生には、平成八年の春、リファレンスブック第一巻『乱歩文献データブック』のことでお会いした。
 教育委員長の辻敬治さんと、当時の市立図書館長だった奥西富江さんがいっしょで、先生と待ち合わせたのは浅草の雷門だった。
 墨田にお住まいの先生は、田舎者にも判りやすい場所をと、この高名な観光スポットを指定してくださったのである。
 監修の件に関しては、書状をやりとりして、すでにご承諾をいただいてあったのだが、一度はお会いして、直接お願いしておかなければならない。
 上京して、まず池袋の平井隆太郎先生のお宅、それから南青山にある日本推理作家協会の事務局を回り、翌日の午前、雷門の下に三人で立った。
 先生がいらっしゃった。
 駆け寄って挨拶し、やはり先生の案内で、近くの喫茶店に腰を落ち着けた。
 先生には、『乱歩文献データブック』のワープロ原稿を、事前にお送りしてあった。
 その原稿が入った名張市役所の大きな封筒を、先生は持参してこられた。
 原稿といっても、むろん決定稿ではなく、不備を補ってデータを充実させる作業はまだこれからだった。
 昼食に入った店で、先生は、原稿でかさばった茶封筒を眺めながら、
 「こういう仕事は、本当は推理作家協会がやらなくちゃいけないんだけどね」
 呟くようにおっしゃった。
 意外な気がした。
 日本推理作家協会は、晩年の乱歩が病を押して設立に奔走した団体である。
 前身の日本探偵作家クラブも、同じく乱歩がつくった組織である。
 さらに遡れば、終戦直後の昭和二十二年、乱歩の提唱で発足した土曜会というグループが、日本推理作家協会のそもそもの出発点だったといっていいだろう。
 だからといって、日本推理作家協会が乱歩の書誌をつくる必要は、まったくないのではないかと思われた。
 あるいは先生は、恩義ということを考えていらっしゃったのかもしれない。
 日本推理作家協会は、もっと乱歩の恩義に報いるべきである。
 そんなふうに考えていらっしゃったように思われる。
 中島先生が「日本古書通信」二月号に発表された「探偵雑誌興亡記(下)」は、おそらく生涯の最後に執筆された依頼原稿かとも思われるが、探偵雑誌の消長を丹念に跡づけたこの文章にも、乱歩の名は出てくる。
 戦後、経営不振に陥った雑誌「宝石」の編集に乗り出した乱歩の姿が、そこにはこんなふうに書きとめられている。

 一時は十万部に達していた本誌は、初期には新人の養成所みたいに思われたが、次第に稿料も滞るようになった。本誌をわれわれ推理作家の本陣のようなものだとひいきしていただけに、編集と経営に乗りだし資金面でも面倒をみるといったいれこみようであった。

 主語が省かれているが、ひいきしたりいれこんだりしたのはむろん乱歩だ。
 文章はさらにつづいて、

広告をとりにいったり、新聞広告用の文案を練ったりする様子を拝見して胸がつまった気になった。専門誌としての限界があって、乱歩が病に仆れるとともに経営は悪化し、三十九年五月、「二百五十号記念号」をもって、十九年の歴史を閉じた。

 探偵小説の興隆に尽瘁する乱歩の姿を目の当たりにしていたからこそ、先生にとって、日本推理作家協会が乱歩の恩義に報いるのは当然のことだったのだ。
 本当は推理作家協会がやらなくちゃいけない、という言葉には、先生の律儀さが強く感じられた。
 リファレンスブック第二巻『江戸川乱歩執筆年譜』を出したとき、中島先生とほぼ同世代のミステリー作家の方から、献本の礼状をいただいた。
 その葉書にも、これは日本推理作家協会が手がけるべき仕事でした、といった意味のことが記されてあった。
 この方は、生前の乱歩とある確執を経験し、その経緯を文章にして発表されたこともある人である。
 そうした方にしてなお、日本のミステリー小説が乱歩という偉大な先達から蒙った恩義は、中島先生同様、相応に報いられるべきものだと感じていらっしゃるのである。
 だが、謦咳に接したことのない人間には、乱歩の恩義も伝わりにくい。
 乱歩に親しく接し、その献身的な情熱を実感した人間でなければ、日本推理作家協会が乱歩の書誌をつくるべきだという発想は、生まれてこないだろう。
 やらなくちゃいけないんだけどね、という先生の言葉からは、断念の気配もまた聞きとれるような気がした。
 お会いしたのは一度だけだったが、その後も書状を通じて、中島先生からはいろいろなことを教えていただいたし、励ましてもいただいた。
 『江戸川乱歩執筆年譜』が、調査に手間取ったため予定をかなり遅れて完成に近づいたとき、刊行の遅延をお詫びする手紙を添えて、最終校正をお送りした。
 折り返しおたよりが届いて、なかにこんな一節があった。
 「こういう種のものは、簡単に再刷もできませんから、やはりお気にさわらぬ程度で我慢する他はなさそうです」
 書誌の編纂には、じつは終わりというものがない。
 もう少し待てば、新しい発見があるかもしれない、不明だったものが判明するかもしれないと、例の「おいでおいでのデーモン」が手招きをするからだ。
 ひとたび刊行されてしまえば、不備や遺漏は消しがたい烙印となって残ってしまうのだし、それを訂するための増刷の機会もあまり望めない。
 しかし刊行されなければ、そもそも書誌は意味をなさない。
 だからこそ、まさに「気にさわらぬ程度で我慢」して、不完全は百も承知で上梓するしかないのである。
 書面を眼で追いながら、先生はこれまで、いったいどれほどこうした我慢を経験し、断念を重ねてこられたのかと思い返さずにはいられなかった。
 あるいは中島先生は、断念の多い生涯を送られたのかもしれない。
 今年いただいた先生の賀状には、「第二回日本ミステリー文学大賞受賞」と詞書を添えて、「ミステリーのみりょくにいたくおぼれけるわがいっしょうにくいなかりしか」という歌が書かれていた。
 いま読み返せば、断念の気配に充ちた紛れもない辞世である。
 しかし、浅草でお会いしたとき、正宗白鳥の研究者でもあった中島先生は、こんなことをおっしゃっていた。
 「いまでも暇があると、国会図書館に通って、新聞や雑誌を調べて、白鳥の文章を探しているんです。そうすると、やっぱり出てくるんだよね、見落としていたものが。出版のあてはないんだけど、これはやっておかなくちゃいけない仕事だと思ってね」
 先生の断念の背後には、完璧を目指す志が、決然として存在していたのだ。
 四月、日本図書センターの「作家の自伝」シリーズ九十巻として、『江戸川乱歩』が出た。
 編者は中島先生で、巻末の年譜と解説も先生の執筆である。
 生涯の最後に発表した原稿が「探偵雑誌興亡記」であり、最後に編んだ書物が『江戸川乱歩』であったというのは、いかにも中島先生らしい白鳥の歌だ。
 解説には名張のことも書かれているから、引用しておく。
 文中の「碑」は、昭和三十年に建立された江戸川乱歩生誕地碑のことである。

 私がその碑を訪ねたのは昭和五十年のことであったが、医院の中庭に草に蔽われていた。そして図書館の片隅に乱歩の著書が若干並べてあるだけで慨嘆した思い出がある。
 その後、昭和六十三年に名張図書館は見事に新築され、乱歩コーナーが設置されたので、子息の平井隆太郎氏と私が招かれた。さらに図書館では「乱歩文献データ」を編集刊行するなど活溌に顕彰につとめている。

 中島先生の「お別れの会」は、六月一日、東京の帝国ホテルで催された。
 鞄のなかに黒のネクタイを用意して、私は東京に向かった。

 図書館の汚物

「さあ、ここでまた漫才やらしてもらいますけど」
「ちょっと待ちいな君」
「なんですねん」
「君、きょうは中島河太郎先生の追悼がテーマやてゆうとったやないか」
「そのとおりです」
「それやったら漫才はあかんやろ」
「なんでですねん」
「漫才で人を追悼するゆうのはあまりにも不謹慎とちゃうか」
「何をゆうとるねん。ええか君、ゆうても僕ら芸人のはしくれですよ」
「それがどないした」
「たとえ親が死んでも板のうえに立つのが芸人ゆうもんやがな」
「それはそうですけどね」
「それが芸人魂ゆうもんやないか」
「それはそのとおりやけどもやで」
「そもそも漫才で中島先生のご冥福をお祈りできるぐらいの芸がのうて君、一人前の芸人といえるか」
「ほなもう好きなようにやりいな」
「それにこの漫才ものすご評判ええわけですから、舞台に穴あけるわけにはいきません」
「そないに評判ですか」
「たとえばあの名張市役所ね」
「市役所がどないしました」
「この雑誌出るたびに編集部から市役所に何部かずつお送りしてるんですけど」
「献本ゆうやつですか」
「このあいだその数を減らしたらしいんです」
「なんでですねん」
「まあこの雑誌は赤字ですから」
「それやったらただでばらまくのも考えもんですな」
「そしたら市役所のある人から編集スタッフの一人に苦情の電話がありまして」
「どんな苦情でした」
「部数減らされたら困るゆう苦情です」
「何が困りますねん」
「その人の割当分がのうなって、この漫才が読まれへん、いつもどおり貰わな困るやないかと」
「なんやねんそれは」
「これは明らかに君、ゆすりたかりのたぐいですよ」
「ゆすりたかりではないやろけど」
「読みたい雑誌があったら身銭切って買うのが普通やないか」
「けどそれまではただで貰えてたわけですからね」
「公務員が市民相手にゆすりたかり働いてどないするねん」
「そうゆう発言は慎めゆうねん」
「いや、こうゆう話が公務員にはいちばん理解されやすいんです」
「なんでやねん」
「公務員ゆうのは本質的なことを話しても馬耳東風ですけど、目先の損得にはえらい敏感ですからね」
「もうええがな」
「それでまあ六月の一日に、中島先生のお別れの会にお邪魔したんですけど」
「ご苦労さんでしたな」
「図書館から出張代が出ませんでしたので身銭を切って行ってきたんですけど」
「いまの地方自治体の財政事情を考えたらそれもしゃあないでしょうね」
「けど君、僕かて目先の損得にはそこそこ敏感なんですから」
「損得の問題やないがな。お世話になった人のお別れの会に出席するのに身銭もくそも関係ないやろ」
「そんなことぐらい君にいわれんでも判ってますがな」
「で、お別れの会はどないでした」
「中島先生は大学の先生でもありましたから、列席者もミステリー関係よりは学校関係のほうが多かったみたいです」
「そんなもんですかね」
「会の終わりごろに先生の奥さんが挨拶をなさいまして」
「どんなご挨拶でした」
「中島先生は死期を悟ってはったみたいですね。ある日、入院してた病院のベッドに上体を起こして、窓のほう向いて、小手をかざすような仕種をして」
「ほう」
「ミステリー関係のみなさん、ありがとうございました。学校関係のみなさん、ありがとうございました。そないゆうて最後の挨拶をしはったそうです」
「なんとも律儀な先生やないですか」
「じつに感動的なエピソードでした」
「君にはとても真似のでけんことやね」
「そら僕なんかやっぱり中井英夫みたいにじたばたして死ぬでしょうからね」
「といいますと」
「点滴の針ひき抜いて、今度こないな真似さらしよったら鉞でドタマかち割ってまうどぐらいのことは看護婦さんにゆうてしまうと思います」
「別にまさかり持ち出すことはないのとちがいますか」
「けど中井さんはほんまにそないゆうたらしいんです」
「えらい強烈な人ですな」
「とくにまさかりゆうのが凄い。ほとんどフォークロアの世界ですからね」
「どうでもええがなそんなことは」
「それでお別れの会が終わりまして」
「どうせまた精進落としとかなんとかゆうて酒飲みに行ったんとちがいますか」
「ですからいっしょにビール飲む相手を必死になって探しまして」
「知り合いなんか一人もいませんがな」
「ところが君、見知らぬ若い女の子が二人、僕のほうに駆け寄ってくるねん」
「なにごとですか」
「人さらいか思いましたけど」
「君をさろうてどないするねん」
「そのうちの一人が名張市立図書館の中さんですかゆうて尋ねてくる」
「そらまた意外な展開ですがな」
「そうですゆうて答えたんですけど、そしたらその女の子どないゆうたと思う」
「さあ」
「私、名張市長の姪なんです」
「えっ、市長さんの姪御さん」
「よう聞いてみたら名張市長のお姉さんのお嬢さんで、友だちに連れられて会に来てはったんですけど」
「姪御さんもやっぱり名張の人で」
「いや、東京生まれの東京育ち、東大病院の図書館にお勤めです」
「図書館の人ですか」
「それでえらい怒られまして」
「なんで怒られなあきませんねん」
「毎日新聞社の『アミューズ』ゆう雑誌が乱歩の特集を組みまして」
「それがどないしました」
「名張の図書館にも取材に来てくれたんですけど、あろうことか僕の写真がその『アミューズ』に載ってしまいまして」
「誌面がかなり余ってたんでしょうね」
「その写真を見た市長の姪御さん、なんで公立図書館にこんな怪しげな奴が勤めとんねんと思わはったそうです」
「ごくまっとうな感想ですがな」
「中さん、あなたは全国の図書館の面汚しですッ、恥さらしですッ、恥部ッ、汚点ッ、汚物ッゆわれてもうわやですわ」
「汚物ゆわれたらつらいですな」
「ひたすら平身低頭いたしました」
「でもまあ自業自得ですからね」
「わざわざ東京まで怒られに行ったようなもんですがな実際の話」
「ビール飲む相手を探すどころやなかったわけですな」
「結局そのお嬢さんとビールを飲みに行ったんですけど」
「その子の連れはどないしました」
「これがまた乱歩の友達やった鳥羽の岩田準一のお孫さんで」
「いろんな人が来てはったんですな」
「その女性ともご一緒いたしまして」
「両手に花やがな君」
「それから日本推理作家協会の事務局員の女性お二人もお誘いしまして」
「君またろくに酒も飲めんような女性を強引につきあわしたんとちがうやろな」
「そんなことありますかいな。家に帰れば二十歳の息子が、とかなんとかいいながらまあ飲むわ飲むわ」
「よけいなことゆわいでええねん」
「それからもうお一人、どうしてもつきおうてもらわなあかん人がいたんです」
「どなたですか」
「僕が上京した一番の目的は中島先生の遺影に一輪の菊の花を捧げることやったわけですけど」
「ほかにも目的があったんですか」
「中島先生に代わっていろいろ教えていただく方を見つけなあきません」
「誰ぞええ人おるんですか」
「衆目の一致するところ、ミステリー評論家の山前譲先生を置いてほかにはいらっしゃいません」
「ははあ」
「それに山前先生には、『江戸川乱歩執筆年譜』をつくったとき資料をお借りしたり原稿をチェックしてもろたりいろいろお世話になってまして」
「それやったら挨拶せなあかんがな」
「ですからご挨拶いたしまして、初対面やったんですけどさあビールでもと」
「君なんや馴れ馴れしすぎへんか」
「さて、お話かわってその翌日」
「もう翌日かいな」
「平井隆太郎先生のお宅にご挨拶にあがったんですけど」
「乱歩の息子さんですな」
「そこで君、僕がいったいどんな情報を入手してきたと思う」
「見当つくかいなそんなもん」
「平井先生のお宅は豊島区の西池袋ゆうとこにあるんですけど」
「池袋ゆうたら賑やかなとこですがな」
「その豊島区が乱歩記念館の建設に乗り出すらしいんです」
「えっ、乱歩記念館は名張市が建てるのとちがうんですか」

 記念館争奪戦

 以上を書いたのは七月の上旬である。
 きょうは八月一日である。
 どうして半月以上も原稿を放り出してあったのかというと、豊島区の乱歩記念館構想について情報を収集する必要があったからである。
 だから締切を半月ほど延ばしてもらって、私は関係筋に発信した問い合わせへの返事を待っていたのだ。
 その返事について記す前に、名張市の乱歩記念館構想のことを書いておこう。
 昭和四十年代なかば、講談社から没後初の乱歩全集が刊行されたのと軌を一にして、名張市に乱歩記念館を建設しようという動きが芽生えた。
 この話には前段があって、淵源は昭和三十年、乱歩の生誕地碑が建立されたときにまで遡るのだが、その話は省略してしまおう。
 ともかく三十年前、名張に乱歩記念館を建てようという話が市民有志や行政関係者のあいだにもちあがり、しかしあっけなくボシャってしまったのである。
 名張市立図書館の乱歩資料担当嘱託を拝命したとき、私はこの乱歩記念館構想がどうなったのか、つまりまだ生きているのかとうに死んでしまったのか、そのあたりの事情を知りたいと思って市役所内部で聞き合わせたのだが、どこからも確たる返答は得られなかった。
 名張市には構想などないのだ。
 私はそう思い、しかし乱歩資料担当嘱託として記念館に関する見解ははっきり述べておくべきだと判断して、平成八年の春、教育長、教育委員長、図書館長の前で私見を披瀝した。
 むろん乱歩記念館は必要である。
 だが名張に建設しても仕方がない。
 乱歩記念館は東京にあるべきである。
 だから名張市が乱歩記念館を建設したいというのであれば名張市がお金を出して東京に建設すればいいのだ。
 以上が私の見解である。
 乱歩は東京が好きだったのだから記念館も東京にあるべきではないかといった程度の根拠しかもたない見解だが、とにかく私はそう思っているのである。
 つづいて、豊島区の構想について。
 六月二日、私は西池袋の乱歩邸、つまり平井隆太郎先生のお宅にお邪魔した。
 この訪問は当初の予定には入っていなかった。
 私はこの日、四月に開館したミステリー文学資料館を訪れる気でいたのだが、前日山前譲さんに資料館の場所をお訊きしたところ、ゆくりなくも平井先生のお宅から目と鼻の先であった。
 それなら、せっかく上京したことでもあるのだから平井先生にご挨拶しておこうと考え、私はこの日の昼過ぎ、電話で先生のご都合を伺った。
 すると、午後三時に豊島区の新しい区長さんがいらっしゃるから、訪問はそのあとにしてほしいとのことである。
 私は、すでに近くまで来ていること、お邪魔してもすぐに辞去することを説明し、それならばとご承諾を得た。
 そして平井先生にお会いして、豊島区長が掲げている乱歩記念館の構想を耳にしたのである。
 それは公約であるという。
 今年春の選挙で選ばれたこの豊島区長は、乱歩記念館の建設を公約のひとつに掲げて選挙戦を戦ったのだという。
 そしてその日、当選後初めて、その新区長が平井先生のお宅へご挨拶にいらっしゃるという次第であったのだ。
 名張に帰って、私はさっそくこの豊島区版乱歩記念館構想についてリサーチを行った。
 まずもたらされた情報は、東京のさるジャーナリストからのものであった。
 それによると、乱歩記念館の構想は豊島区でも何回か浮かんでは消えしていたのだが、新区長の構想はかなり実現性が高そうだという。
 しかも乱歩邸を活用し、現在地でそのまま乱歩記念館として整備するというのが構想の骨子であるらしい。
 私はあっ、と思った。
 現在地でという手があったのだ、と気がついたのだ。
 昨年の秋、東京から名張市立図書館を訪ねてくださったお客さんのお相手をしていたときのことである。
 談たまたま乱歩記念館に及んだので、やっぱり名張よりは東京に建てるべきだろうと私は持説を開陳した。
 お客さんのお一人が、乱歩記念館を東京に建てるとしてもそもそも土地がないでしょうな、とおっしゃった。
 それはそうだろう、と私も思った。
 それから別のお一人が、土蔵の移転は現代の建築技術をもってしても難しいのではないか、とおっしゃった。
 つまり乱歩記念館を建設するのであればあの乱歩邸の土蔵を活用しない手はないのだが、どこに建てるにせよ、土蔵をいったん解体し、建設現地まで運んでふたたび建築するのは現代の技術でも無理ではないかというのである。
 それはそうかもしれない、と私は思った。
 しかし乱歩邸を現在地で記念館にしてしまえば、土地の確保や土蔵の移転といった問題は存在しなくなるのである。
 だから私はあっ、と思ったのだ。
 現在地に記念館をというのは盲点だったな、と思い返したのである。
 さて、次の情報は大阪のさるミステリー関係者からもたらされた。
 豊島区の広報紙に乱歩記念館の構想が発表されたらしいというのだ。
 私はさっそく豊島区役所の企画部広報課に電話し、当該の広報紙を名張市立図書館に送ってくれるよう依頼した。
 届けられた「広報としま」七月五日号には、豊島区議会の六月定例会で新区長が行った所信表明演説の要旨が掲載されていた。
 なかに「地域文化の振興」と題された項目があって、ここに乱歩記念館の名が出てくる。
 項目全文を引いておこう。
 地域に根ざした文化活動に、区としても積極的に支援し、次世代へ引き継いでいくべきであると考えます。また、区内の現存するいくつもの文化的遺産を次世代に引き継ぐために維持・保存に努めます。今回、西池袋の故江戸川乱歩の旧宅を活用した「記念館」の開設に向け、区としての取り組みを検討します。
 おや、と私は思った。
 豊島区の構想はスタート地点に立ったばかりだと考えていたのだが、じつは予想以上に着々と進行しているのかもしれないな、と感じたのである。
 なにしろ議場での発言である。
 しかも新区長就任後初めての所信表明である。
 いくら公約だったとはいえ、実現性は度外視して単なる思いつきを公表したというわけではけっしてあるまい。
 そのうえ演説冒頭には、「区政運営の基本的な考え方」のひとつとして「区財政の再建を図る」が挙げられており、具体的な施策を列記したその一番最初には平成十二、十三年度を「行財政緊急再建期間」と位置づけるとさえ記されているのである。
 つまり豊島区の財政もご多分に漏れずあまり潤沢ではないのだ。
 にもかかわらず新区長は、少なからぬ予算を必要とするであろう江戸川乱歩記念館の開設という事業名を明示して、これを区民に訴えているのである。
 よほどの成算のうえに立った発言だと見るべきだろう。
 などと推測しているうち、七月二十八日になってかなり確実な情報がもたらされた。
 委細は省くが、豊島区役所の関係筋から得た情報である。
 結論から記せば、豊島区による乱歩記念館開設の準備は水面下でかなりの程度進んでいるらしい。
 ありていにいってしまえば、こと乱歩記念館に関して、名張市にはもはや出番がないといった観が強いのだ。
 とまあ以上のようなところが、ここ半月ほどのあいだに収集できた情報の概要である。
 むろん私はこの情報を名張市の上層部に伝えた。
 名張市や名張市教育委員会がこの豊島区の構想に対してどう出るのか、あるいは出ないのか、この原稿を書いている時点では知りようがない。
 だがおそらく、名張市にはなすすべがないであろう。
 名張市が手をこまねいているうちに、豊島区長が掲げた乱歩記念館の建設構想はそれほど遠くない将来に実現されるのではないかと判断される。
 乱歩の蔵書を永久に保存し、遺品や関連資料を展示する乱歩記念館の誕生は、個人的には喜ばしいことである。
 だが、私はなにしろ名張市立図書館の乱歩資料担当嘱託なのだ。
 だから名張市立図書館に関していささかを記しておこう。
 乱歩記念館がオープンすれば、市立図書館の乱歩コーナーは完全に存在意義を見失ってしまうことになる。
 このコーナーには平井先生からお預かりした乱歩の遺品や、図書館が開館以来収集してきた乱歩の著作などが展示されているのだが、はるかに大規模な展示施設が東京にオープンするのだ。
 名張あたりにちまちました展示コーナーがあったところで意味はない。
 いずれ乱歩コーナーの閉鎖を検討するべきときが来るにちがいないが、それはそれで致し方のないことであろう。

 図書館の命運

 ところが、ここにもっと深刻で悩ましい問題が存在する。
 乱歩の遺品や著書の展示という役割を乱歩記念館に委ねてしまうことは可能だろう。
 しかし、それ以外に名張市立図書館が手がけている、あるいは手がけようとしている乱歩関連事業まで乱歩記念館に期待することができるのかどうか。
 それが問題なのだ。
 たとえば名張市立図書館の「江戸川乱歩リファレンスブック」の編纂刊行を乱歩記念館に引き継ぐといったことが、果たして可能だろうか。
 むろん乱歩記念館にとっても、所蔵資料の目録づくりは当然進めなければならない作業のはずである。
 そうなると、たとえば名張市立図書館のリファレンスブック第三巻『江戸川乱歩著書目録』と同じ性格の目録も編纂されることになる。
 きょうびの言葉でいうならば、キャラがかぶってしまうのである。
 それならいっそ名張市立図書館はいっさい手を引いて、乱歩記念館にすべてを任せてしまうべきだろうか。
 ここに問題があるのだ。
 乱歩記念館をそこまで信用していいのかという問題である。
 なにしろ豊島区が建てたとなれば、乱歩記念館はお役所によって運営されることになる。
 しかしお役所仕事など、とても信の置けるものではないのだ。
 むろん名張市立図書館だってお役所だが、乱歩に関してはお役所の埒をはるかに超えたサービスを心がけている。
 名張市立図書館がいかに埒を超えてしまっているのか、それは『乱歩文献データブック』なり『江戸川乱歩執筆年譜』なりをご覧いただけば一目瞭然だろう。
 あの本には一般のお役所仕事には存在しないはずのものが存在している。
 それは志と情熱である。
 などと書いてしまうとさすがに聞こえが良すぎるから、それは狂気と妄執である、といい直しておこう。
 いったいどこの世界に、狂気と妄執に支えられたお役所仕事などというものが存在しているというのだろう。
 しかし名張市立図書館には、そうしたお役所仕事が厳然として存在しているのだ。
 そしてまさに狂気や妄執の支えがかけらもないという理由で、お役所仕事はまさしくお役所仕事でしかないのである。
 だから名張市立図書館は、すでにしてお役所の埒をはるかに超え、何かとんでもない世界に一歩も二歩も踏み出してしまったとしかいいようがない。
 全国に存在する乱歩の読者や研究者に対してどんなサービスを提供してゆけばいいのか、それを追求した結果として必然的に、名張市立図書館はお役所の埒を超えてしまったのだ。
 お役所の仕事の本質を追い求めてゆくといつのまにかお役所そのものから逸脱してしまう、その点にこそ日本のお役所が抱えている問題があるのだが、そこまで言及している余裕はなくなった。
 なにしろあと二ページしかないのだ。
 いずれにせよ、豊島区の乱歩記念館に狂気と妄執を期待するのは筋違いな話であろうし、お役所の人間に職人仕事を期待するのは無理な相談でもあるのだ。
 それに乱歩記念館が誕生すれば、名張市立図書館は乱歩記念館と連携して乱歩関連事業を進めればいいのであって、それはまたそのときの話なのである。
 といったところで乱歩記念館に関する話題を終えよう。
 じつは今回、名張市立図書館がホームページを開設して乱歩のデータベースを提供する構想について書こうと思っていたのだが、乱歩記念館というネタが飛び込んできて予定が狂ってしまった。
 紙幅の許すかぎり、以下にそのホームページをテーマとして書き綴る。
 それはいったいどのようなホームページなのか。
 まず当面の目標としては、『江戸川乱歩著書目録』のデータを公開し、それを見た人に不備や遺漏を指摘してもらいながら調査編集を進めて、いずれ刊本として上梓することを企画している。
 見てくれた人からどの程度のご協力をいただけるかは不明だが、試みてみる価値は充分にある企画だろう。
 乱歩に関するアップトゥデートな情報も掲載したい。
 著作であれアンソロジー収録であれ新聞や雑誌の記事であれ舞台化ドラマ化であれ、名張市立図書館のホームページを覗けば乱歩に関する情報がたちどころに判るといった体制を整えたい。
 といってしまうと恰好がいいが、実際には見落としも多いことだろうから、これもやはり見てくれた人から乱歩に関する情報を提供してもらう場を設けたいといったほうが正確だろう。
 しかし乱歩の読者や研究者にはそういう場がぜひ必要なのだから、ほかにないのであれば名張市立図書館が設けるべきかと判断される次第である。
 乱歩論のアンソロジーも考えている。
 とりあえずは戦前の乱歩論など、気軽に読めなくなっている著作権切れの文章を掲載し、徐々に充実させてゆけば結構面白いことになるのではないか。
 掲示板を設けて乱歩に関する質問も受け付けるべきだろうし、ほかにもいろいろとアイディアはあるのだが、とりあえずの構想は以上のようなところである。
 いずれにせよ、名張市立図書館が乱歩に関してサービスを提供する対象は全国に存在する乱歩の読者であって、そのための媒体として現時点ではインターネットが最適であろうと愚考される。
 だから名張市立図書館は平成十一年度の予算にホームページ開設の費用を要求したのだが、なにしろ深刻きわまりない財政事情とあって、あっさりと蹴飛ばされてしまった。
 だがこれは幸いなことであった。
 よく考えてみれば、そもそもホームページ開設の予算というのがおかしい。
 すでに名張市はホームページを開いているのだから、そこに市立図書館が新たにページを開設することに費用はかからないはずである。
 それならば開設の予算とは何か。
 要するに外注のための予算である。
 これは無駄なお金である。
 『江戸川乱歩著書目録』を例にとっていえば、私がワープロでかたかたと原稿を書き、その原稿に基づいて受注業者がホームページを作成することになる。
 しかし私がワープロソフトではなくホームページ作成ソフトを使用してかたかたと原稿を書けば、そのままホームページができあがってゆく道理なのだ。
 私の手間には変わりがない。
 しかも外注費はゼロで済む。
 経費節減になるではないか。
 きわめて合理的ではないか。
 お役所仕事というのは鬱然たる不合理の体系であって、そのなかで合理の道を辿ろうとするのは暗夜マッチの火だけを頼りに深い森を歩く行為に似ているのだが、少なくとも自分の手の届く範囲内で合理を求める態度は必要だろう。
 私は合理を求めた。
 ホームページ作成を外注に出すべきではないという答えが出た。
 そこで私は個人の責任においてホームページを開き、乱歩のデータベースを試作することを思いついたのだ。
 いつの日か名張市立図書館が開設するべきホームページのパイロット版たる私の個人ページは今年十月、乱歩の誕生日を期してお披露目する予定で、むろん図書館のホームページが誕生すれば必要なデータはそちらに移管することになる。
 ついでだから、インターネットを活用したサービス以外に名張市立図書館が何を考えているのか、それも記しておく。
 むろんお役所の人間はこの手の発言を忌み嫌っており、予算の裏づけのないことを軽々に公表するものではないなどと真っ赤になって怒るのが常なのだが、その手の馬鹿は放っておこう。
 行政には住民に対する説明責任なるものがあり、それもあれをやりますこれをやりましたと説明する前に、まずこのことに関してはこのように考えておりますとアナウンスするのが本来なのだ。
 だから名張市立図書館は乱歩に関してこのように考えております、実現性は別としてこのような構想をもっておりますということを書き記して、手の届く範囲内で説明責任を果たすことにする。
 といってもほとんど紙幅が尽きてしまったから、とりいそぎ最終的な大目標だけを発表する。
 名張市立図書館は定本と呼ぶに足る乱歩全集の刊行を視野に入れている。
 これはむろん構想に過ぎず、文字どおり視野に入れているというだけの話であって、実現できるかどうかは判らない。
 実現できない可能性はかなり高い。
 それなら豊島区の乱歩記念館に全集の企画を持ち込んでみてはどうだろう。
 いや、持ち込みなどとけちなことはいわず、いっそ私がFA宣言をして、名張市立図書館から乱歩記念館へ移籍してしまえばいいのだ。
 そうだそうだ。
 その手があったではないか。
 そのほうが私としても思う存分腕がふるえるというものだ。
 だがしかし、十中八九ほぼ間違いなしに、私という男は面接の段階で簡単に落とされてしまうにちがいないのだ。
 ああ、汚物はつらい。

(名張市立図書館嘱託)

掲載1999年10月21日
初出「四季どんぶらこ」第12号(1999年9月1日発行)