第十五回
時には真摯のように
 市町村合併はどうなる

「実際どないなってるんですかね」
「何がですか」
「この漫才のことですけどね」
「どないしました」
「前回の漫才で最近の市町村合併論議があまりにもあほらしいゆう話をしたわけですけど」
「伊賀市の問題ですな」
「ほんまにあの『伊賀市を考える議員の会』たらゆうのはいったい何を考えとるねんちゅう話ですわ」
「君また例によってえらいぼやいてましたけど」
「せやからこの前の漫才でもゆうといたんですけど」
「何をゆうてましたかいな」
「あの漫才が載った『どんぶらこ』をあの会に送りつけてですよ」
「どないしますねん」
「文句があったらなんぼでもかかってこんかいと」
「喧嘩売ったらあきませんがな」
「しかしこれはたいへん重要な問題ですからね、あの会の会長さんのもとに『どんぶらこ』を一部お送りいたしまして」
「ほんまに送ったんですか」
「はいな」
「はいなはええけど君、会長さんから怒られたんと違いますか」
「それが君、まったく音沙汰がないんです」
「無視されたゆうことですか」
「そないなりますやろね」
「けどそれは当然の話でしょうね」
「なんでですか」
「君みたいな人間をいちいち相手にしてくれる人はなかなかいませんやろ」
「しかしこれは一人の地域住民の真摯な声なんですから」
「真摯な住民がなんでこんなあほみたいな漫才やらなあかんねん」
「解りました」
「何が解りました」
「あほみたいな漫才やなかったらええわけですな」
「どないするゆうんですか」
「きょうの漫才、真摯そのものの漫才にしてみたろやないですか」
「いったいどんな漫才やねん」
「笑えるとこがいっこもない漫才」
「そんなしょうもない漫才やったかて意味ないがな」
「けど僕が真摯な人間であり、市町村合併を真摯に考えているのであるゆうことを解ってもらわなあきませんから」
「解ってもらえるとは思えませんけど」
「解ってもらうために説明しますと、これは要するに地域社会の問題なんです」
「全国各地で市町村合併を進めるゆう話ですからね」
「そこで君に聞きますけど、君には地域社会の問題がどの程度呑み込めてる」
「どの程度と訊かれても返事に困りますけど」
「君だけやない、たとえば市町村議会議員で組織する『伊賀市を考える議員の会』の会員、あるいは伊賀地域七市町村の市町村長、市町村職員、市町村住民」
「結局みんなやないですか」
「市町村合併は地域社会住民全員の問題ですからね」
「それで何がいいたいんですか」
「現在ただいま日本の地域社会はどんな状況に置かれてるのか、まずそれを確認せなあかんゆうことですね」
「といいますと」
「民俗学者の宮本常一が説くところをご紹介しましょう」
「なんや難しそうな話ですけど」
「宮本常一はこないゆうてます。
 私は地域社会に住む人たちがほんとうの自主性を回復し、自信を持って生きてゆくような社会を作ってもらいたいと念願してきた。地域社会の中にそういう芽を見つけたい、その芽が伸び育ってほしいと思った。日本の地方自治体が中央政府に大きく依存せざるを得なくなったのはシャウプによる税制改革案がとりあげられて実施されるようになった昭和二十六年頃であった。税収の中のもっとも大きい所得税を政府が掌握してこれを地域社会に配分するようになると地方自治体の責任者たちはその配分の多いことを求めて、眼が中央を向かざるを得なくなる。いま一つ地方自治体は住民税・固定資産税・事業税などによって運営されているが、税収をふやそうとすれば、大企業を誘致して固定資産税を取りたてることが一番安易な方法になる。しかし企業の経営主体は多く東京・大阪などの大都市にあって地生えの資本であるものは少ない。そのことが、地域社会に対して配慮の少ない経営をとることになる」
「そうゆうもんですかね」
「まだつづきます。
 乱開発といい、公害たれ流しといったような現象がいたるところに見られ、地域社会はかつての植民地そっくりの有り様になり、地方自治体は大企業の利潤のおこぼれで運営される部分が大きくなっていった。それが地域社会住民の自主性を失わせていった大きな原因の一つになるのではないかと思った。それを地域住民の自覚と実践力を主体にした振興対策がとられないであろうかと思った」
「聞いとったら地域社会はなんやもうぼろぼろですがな」
「そうなんです。宮本常一は戦後このかたとくに強められた中央集権の弊害をつとに指摘してたんですけど、とどのつまりは中央政府と大企業が寄ってたかって地域社会をぼろぼろにしてしもたゆうわけですね」
「そのせいで地域社会住民の自主性が失われたと」
「いまのは昭和五十三年に出た『民俗学の旅』ゆう宮本常一の自伝にある文章なんですけど」

 地域社会はどうなる

「昭和五十三年ゆうと、もう二十年以上も前の本ですか」
「二十年以上たった現在はどないな状態かゆうたら、中央政府にも大企業にもお金がなくなってるわけです」
「不況ですからね」
「ちょっと前までやったら国が地方自治体の横面を札束ではたいてゆうこと聞かすことが可能でした」
「地方は横面はたかれてましたか」
「逆にいいますと、地方自治体の首長の能力は国からどれだけ補助金を巻きあげてくるかで評価されたわけです」
「それがでけんようになったと」
「国の配分能力は著しく低下してます」
「それが市町村合併と何か関係あるんですか」
「つまり国にはお金がなくなったから地方は地方で自立しなさい、もうよう面倒みたりませんゆうことですな」
「せやから市町村合併を進めてちゃんと自立のできる地方自治体になりなさいゆうわけですか」
「はっきりいいますと地方は国から見捨てられたわけです」
「見捨てられたゆうてしまうと語弊がありますけど」
「いまの地方ゆうのは不況で倒産した会社の社長さんに囲われてたお妾さんみたいなもんですからね」
「お妾さんゆう言葉も最近あんまり耳にしませんけど」
「ちゃんとした社長さんやったら倒産前に集められるだけ金あつめてその一部でお妾さんに小さい店の一軒も持たしてやりますけど」
「そうゆう問題やないがな」
「ところが宮本常一はですよ、すでに昭和四十年代の半ばにおいて国のお妾さんである地方がいかにして自立するかゆうことを考えていたわけです」
「また宮本常一の話に戻るんですか」
「さっきの文章はいわば『脱お妾さん作戦』について書かれたものなんです」
「どんな作戦やねん」
「君、佐渡のおんでこざて聞いたことありませんか」
「おんでこざといいますと」
「鬼の太鼓の座と書いておんでこざと読むんです。太鼓叩きの集団です」
「それやったら聞いたことあるような気もします」
「名匠加藤泰の遺作がこの集団を撮った『ざ・鬼太鼓座』ゆう映画でした」
「それで宮本常一さんはどこへ出てきますねん」
「昭和四十五年、宮本常一はある友人から鬼太鼓座をつくりたいから協力してくれと頼まれたわけです」
「なんでつくらなあかんのですか」
「鬼太鼓ゆうのは佐渡の伝統芸能やったんですけど、観光客相手にやってるうちに迫力がなくなってしもたんです。そこで鬼太鼓座をつくって本来の素朴で力強い太鼓を復活させたいと」
「もとの姿に戻すゆうことですか」
「宮本常一は『地方に住む若者たちが自信を失ってきつつあるときであったから協力を約した』と書いてます」
「なるほど」
「さらに宮本常一はいいます。
 私の願いは『佐渡という日本の片隅にいてもその芸能がすぐれたものであれば、正しく評価されるであろう。都会だからすぐれている、田舎だから劣るという概念を、こうした運動を通じて破ることができたらどんなに地方の多くの人びとを勇気づけられるであろう』ということであった。
 おなじ頃のことである。青森県上北地方の農家の主婦の手紙を読んだことがある。上北地方が開発されるということになって、その計画図を見せてもらった。その地図には地元住民の知らぬ間にたくさんの赤線がひかれてそれによって開発がすすめられようとしていた。そういうことが許されていいのか、自分たちが東京の町へ赤線をひいて改造計画をたててもそれはゆるされるのかという意味のことが書いてあった。なぜ地方は中央の言いなりにならねばならぬのか、なぜ百姓はえらいひとの言いなりにならねばならぬのか、という主婦の訴えに対して正しく答えられるものがどれほどいるのだろうか。
 しかし地方の人たちが胸を張って中央の人たちと対等に話ができるようになるためにはまず地方の人たちが自分の力を高め、それを評価する力を持たねばならぬ。おんでこ座の人たちの活動は、そういう問題につながるのではなかろうかと思った。そして期待した」
「地方の人たちにはいろいろなことが期待されてたわけですな」
「しかし昭和四十五年から三十年が経過したいまの時点で振り返りますと、実際のところ地方の人たちは宮本常一が期待したようにはなれませんでしたね」
「鬼太鼓座はどないしました」
「鬼太鼓座はちゃんとやりましたけど、鬼太鼓座は地方の人たちが宮本常一の期待を裏切るきっかけをつくったゆうこともできますしね」
「どうゆうことですねん」
「日本中に無根拠な太鼓が氾濫しましたからね」
「無根拠な太鼓といいますと」
「いまや全国どこ行ったかて太鼓叩きの集団がありますがな」
「名張市の天正みだれ太鼓とか上野市の白鳳太鼓とかですか」
「あれは伝統芸能ゆうもんではまったくないですからね」
「新しくつくったもんでも別にええやないですか」
「そらかまいません。太鼓たたこが笛ふこが、何やってもろたかてそんなことはいっこうに自由なんです」
「それやったら君が文句ゆうことないやないですか」
「しかしそれでは真似にしか過ぎないわけです。鬼太鼓座は佐渡の伝統芸能の流れを汲んでますけど、それを真似したところで土地土地の伝統とか風土や歴史に根ざしたものにはならんわけです」
「そらまあそうですけど」
「宮本常一が期待したのは地方の人たちが自分たちの力を高めてそれを正当に評価することなんですけど、よその太鼓を見てこらええわ、うちとこでもやりましょかゆうのでは自分たちの力はいつまでもほったらかしのままで出来合いのものを受け容れてるだけの話ですからね」

 二十一世紀はどうなる

「そうゆうことになりますかね」
「それだけわれわれ地方の人間は長いことかかって自主性とか主体性とかを骨抜きにされてしもてるゆうわけなんです」
「自信も自覚もなくしてると」
「全国に誕生したなんとか太鼓ゆうのんは、まさにその自主性や自信のなさを証明するものでもあるわけです」
「太鼓たたいとる場合やないんですか」
「いや、太鼓はいくら叩いてもろてもええんですけど、その太鼓が生まれた背景に日本の地方が中央政府や大企業によって骨抜きにされてきた歴史をちゃんと見たらなあかんゆうことです」
「難しいもんですな」
「ここまで骨抜きにされてしもたもん、はっきりゆうてちょっとやそっとではもとに戻りませんからね」
「どないしたらよろしねん」
「市町村合併です」
「なんでそないなるねん」
「市町村合併は君、地方が地方のことを考える千載一遇のチャンスですがな」
「そうゆうもんですか」
「日本の地方や地域社会がどうゆう状況に置かれてるかを確認して、そのうえでそれぞれの地方や地域社会がどないなっていったらええのかを考える。そうゆう作業が市町村合併の前提ですからね」
「それを考えるためのまたとないチャンスであると」
「ところが情けないことにあの『伊賀市を考える議員の会』の人たちはですね」
「もうええ加減にその名前を出すのやめませんか」
「そしたらまあ一般にこのへんで行われてる市町村合併の議論では、地域社会は今後いかにあるべきかゆうような本質的な問題は素通りして、やれ議員の数がどうの公共料金がこうのと目先の損得のことしか話題になってないですからね」
「まあそうですね」
「だいたい君、ここまで国からコケにされつづけてきた地方がですよ、なんで国の号令ひとつで市町村合併に眼の色を変えなあかんねん」
「しかし国の意向ですから」
「ほんでまたなんで市町村の議員が国の尻馬に乗ってさあ合併や合併やゆうて大騒ぎをせなあかんねん」
「知りませんがなそんなことは」
「要するにお役所の人間とか市町村議会の人間ゆうのは中央のいいなりになることに慣れきった人たちなんです」
「長いことそうやって仕事してきましたからね」
「地方の現状をどのように認識しているかという問題になったらもう青森のおばはん以下なわけです」
「誰やねんそれは」
「宮本常一が書いてたがな。なんで地方は中央のいいなりにならなあかんのかとゆうてたあのおばはんです」
「そのおばはんの方がまだ地方の置かれた立場ゆうのをしっかり認識してるゆうことですか」
「中央がいかに地方を抑圧し搾取してきたか、そうゆうことすら解ってない人間にいったい何ができるゆうねん。宮本常一はすでに昭和四十二年の段階でこんなことまで書いてるんです。
 考えてみると、農村というところは何だか利用せられ放しの世界のようである。そこに住む人たちは気がよくて、苦を苦にしないところがあったからすんで来たのであるが、今まで農村のことを地方のことを真剣に考え、またその振興の根本対策を考えた人はないようである。しかもそこが日本を今日のようにまで発展させて来たエネルギーの源泉地であったのだが、その源泉も漸く枯渇しようとしている」
「地方は利用されっぱなしですか」
「地方振興の根本対策を考えるゆうたかて、もう手遅れかも判らんですしね」
「そんなことゆうとったらあかんがな」
「ですから市町村合併を機に地域社会のことを真剣に考えなあかんわけです」
「しかし誰も彼も目先のことしか考えてない、地域社会のことを真剣に考えてる人間は一人もいないと、君はこないゆうてぼやいとるわけですな」
「ついでですから、宮本常一の『民俗学の旅』最終章にある文章をご紹介しときましょか。
 私は長いあいだ歩きつづけてきた。そして多くの人に会い、多くのものを見てきた。それがまだ続いているのであるが、その長い道程の中で考えつづけた一つは、いったい進歩というのは何であろうか、発展というのは何であろうかということであった。すべてが進歩しているのであろうか。停滞し、退歩し、同時に失われてゆきつつあるものも多いのではないかと思う。失われるものがすべて不要であり、時代おくれのものであったのだろうか。進歩に対する迷信が、退歩しつつあるものをも進歩と誤解し、時にはそれが人間だけでなく生きとし生けるものを絶滅にさえ向かわしめつつあるのではないかと思うことがある。
 進歩のかげに退歩しつつあるものをも見定めてゆくことこそ、今われわれに課せられているもっとも重要な課題ではないかと思う。少なくも人間一人一人の身のまわりのことについての処理の能力は過去にくらべて著しく劣っているように思う。物を見る眼すらがにぶっているように思うことが多い」
「なんや落ち込みますな」
「真摯そのものの漫才ですから」
「しかし地域社会のことは真剣に考えなあかんわけですし」
「地域社会のことは地域社会の人間がしっかり考えんと、これからは国が代わりに考えてくれるゆうことはなくなりますし、かとゆうていまのお役所の人たちとか議員さんはあてになりませんし」
「二十一世紀もなんや厳しそうですな」
「二十一世紀なんかどうせろくな世紀やないですからね、僕は永遠に二十世紀にとどまっていたいような気分です」
「そんなこともゆうてられませんがな」
「あ。えらいこっちゃ」
「どないしました」
「豊島区の乱歩記念館の話するのをころっと忘れとったがな」
「何か進展があったんですか」
「進展は大ありなんですけどもう誌面がありません。つづきは二十一世紀にお届けいたします。それではご機嫌よう」
「なんのこっちゃねん」

(名張市立図書館嘱託)

掲載2001年1月3日
初出「四季どんぶらこ」第17号(2000年12月1日発行)