第十八回
父よあなたという人は
「なんともありがたいことですけど」
「どないしました」
「前回うちの親父の本のことを喋りましたらね」
「岡山県のなんとかゆうとこが復刊してくれた本ですな」
「『四季どんぶらこ』がこの号でその本を紹介したろやないかと」
「たしかにありがたい話ですね」
「ですからこの連載もそれにタイアップしまして」
「お父さんのネタで行きますか」
「行きたいのはやまやまなんですけど」
「あきませんか」
「よう考えたら親父のこと全然知りませんからね」
「全然知らんゆうことはないがな」
「けど知ってるのは僕が物心ついてからの親父のことだけですから」
「そらまあ親が若いときのことなんか僕かてよう知りませんけど」
「親父の本が復刊されるときも巻末に載せたいから親父の略歴を書いてくれゆうて頼まれまして」
「書きましたか」
「書くには書きましたけど伝聞推定の閾を出ませんわね」
「それではあかんがな」
「たとえばうちの親父は若いとき東京のアルスゆう出版社に勤めてたらしいんですけど」
「君は知らんかったわけですか」
「知るかいなそんなもん」
「ほなどうしてわかったんですか」
「うちの親父、若いときに日本読書新聞にも勤めてまして」
「はあはあ新聞屋さんに」
「そのことは僕も知ってました」
「それがどないしました」
「もう十何年も前に佐野眞一さんが『業界紙諸君!』ゆう本を出したんですが」
「日本読書新聞が出てきましたか」
「はいな。それでその本が難儀なことに去年ちくま文庫に入りまして」
「何が難儀やねん」
「この本に親父のこと出てくるんです」
「名誉な話やないですか」
「何が名誉か君」
「けど君のお父さんのこと書いてくれてあるんやろ」
「誰が書いてくれて頼んだ」
「いったい何が書いてあるねん」
「日本読書新聞が創刊されたときのことが書いてあるんですけど」
「君のお父さんは何をしてました」
「聞いてくれますか君」
「聞かしてもらいましょ」
「総轄責任者には『新聞之新聞』出身の金田享こと金享粲という韓国人が据えられた。営業部門の責任者には、同じく『新聞之新聞』出身で隻腕ながら営業の辣腕ぶりで業界にこの人ありと鳴り響いていた木下嘉文を置き、編集責任者には、アルス出身で机の引き出しにウイスキーのポケット瓶をしのばせるほど酒好きの中貞夫が就いた」
「職場にウイスキー持ち込むのはちょっとまずいのとちがいますか」
「それだけやないんです」
「まだありましたか」
「聞いてくれますか君」
「聞かしてもらいましょ」
「同紙が創刊されて間もなく『何の気なしに』入社した大橋鎮子(暮しの手帖社社長)によれば、編集長の中をはじめとする編集スタッフは、昼間から酒を飲んでは卑猥な話に際限なく興じていた。大橋は入社一日目にして『エラいところへ入ってしまった』と、急に目の前が暗くなったという」
「はっきりゆうて無茶苦茶やがな」
「ゆうようなことでしてね」
「どうゆうようなことやゆうねん」
「今回は特別企画として親父の書いた自分史を以下に掲載させていただきます」
「そんなんありましたん」
「昔『名張新聞』ゆう地方紙に連載してたやつですけどね」
「いつごろですねん」
「連載が始まったんは昭和五十四年あたりですかね」
「ゆうことは二十二年前ですか」
「ほなさっそくですけど」

 血を吐く!

 『名張市史』を書き、『青山町史』を書いているうちに、振りかえれば二十五年の歳月が流れている。書きはじめた頃に生まれたセガレは、もういい年になっているし、むすめは嫁にいってしまった。
 二十五年という歳月の周辺には“雑文”も相当たまっている。
 四、五年まえ、『名張市史・改訂版』を出した時、倉田博義・辻敬治・赤井虎雄・山村文彦・高野香洋といった諸友たちが発起して出版記念会を開いて下さった。会場は産業会館の大ホールで、百人をこす参会者があり、私には望外の光栄であった。
 その時、私に記念講演せよと発起人からのことばであったが、記念講演なんて大それたことのできる柄でない。私が名張の歴史と取組むようになったいきさつを少し話してお茶をにごした。
 今でもよくたずねられる。
 「あんた、どんなきっかけで、名張の歴史を勉強することになったのや?」
 名張に生まれ、名張で育ち、名張に住んでいる人が、名張の歴史を研究したからといって、こんな質問が出ないのだろうが、ひょう然とよそからやってきた風来坊が、こんなことをしたものだから、詮索好きな人にはちょっとした興味がわくのだろう。
 「結核ですよ」
 私は、こう答える。
 人をおちょくるようなこの答えに、たいていの人は、きょとんとする。
 しかし、私の“名張の歴史”へのアプローチは、正真正銘これなのだ。
 健康そのもののように自他ともにゆるしていた私が、ある日とつぜん、血を吐いた。結核患者になったのだ。
 もしこの発病がなかったら、“名張の歴史”は私には無縁のものとして生涯を通りすぎたことだろう。
 昭和二十九年――私が伊和新聞に入って名張に住むようになって、三年目か四年目である。
 この年の三月、町村合併で名張が誕生した。ことしは市制二十五周年だったから、ちょうど二十五年前である。
 たしか六月のある日。夕方、市役所(町役場をうけついだ古い木造)の玄関先で、稲森登・長山全道の両氏とばったり出会った。稲森氏は滝川村(赤目町)の村長、合併後は「市参与」という肩書になっていた。長山氏は滝川村の助役か収入役で、合併に伴って市役所にはいり、何かの課長に就任していた。
 「清風亭へでもいこうか」
 話は早い。足はもうそっちの方を向いて歩きはじめていた。
 飲んで、歌って、おどった。稲森氏は途中で帰ったようだったが、残った二人はとめどもなく飲みつづけた。二階の座敷で、ふすまの根かたに銚子を三十本か四十本、一列にずらりと並べてよろこんでいた。今でもときどき当夜のことを語りあう。
 翌朝。
 二日酔いのぼんやりした頭で、井戸端へ顔を洗いにいくと、セキが出た拍子に、のどから丸い玉が一つコロンと飛びだした。ちょうど仁丹を大きくしたような形で、赤黒い色もそっくりである。
 「これ、なんや」
 気にもとめず、下駄の歯で伸ばすと、中味はまさしく血、鮮血といった感じのきれいな血であった。
 「ゆうべは飲みすぎたので、のどか胃袋に傷でもできたのやろ」
 女房が見つけて、
 「おとうさん、それ、何」
 「血やて。二、三日酒やめたら治るやろ」
 血の玉は一つだけで止まって、あとは血そのものになった。

 肺結核宣告

 小雨のそぼふる日であった。自転車で新聞社へ行けるかなあと、空模様を見に表の通り(豊後町)へ出た。
 八時頃だったろうか。
 人通りのない小雨の通りを桝田医師が自転車でやって来る。車はそれほど普及していなかった。医者の往診はたいてい自転車だった。
 「先生」
 桝田医師を呼びとめて、
 「こんなものが、出るのや」
 こういってセキをすると、血がぱっと道路の土を染めた。
 「ゆうべは少し過ぎたのでな、胃袋に傷ができたのとちがうか」
 桝田医師とは飲み友達の間柄でもある。「過ぎた」といえば、どの程度のものか、よくわかる。
 「なんぼ過ぎたというても」
 じっと地面の血をみつめていた桝田医師は、ことばをつづけた。
 「この血の色はおかしいぜ。胃から出る血でない。これは、ひょっとしたら、ひょっとするぜ。とにかく、往診をすますとすぐ帰るから、うちへ行って看護婦に血沈だけ検査してもらっておいてくれ」
 いまの桝田病院は、伊勢湾台風でやられたあと改築したもので、当時は買取った横山邸をだいたいそのまま医療室にあてていた。幕末の文久ごろ、この横山邸の裏長屋(ここで明治二十七年、江戸川乱歩も生まれている)に安本亀八が白壁に「松と竜」を描いた土蔵がまだ残っていて、旧家のたたずまいをガラス戸越しに眺めながら桝田医師の帰りを待った。
 この血が、結核という“悪魔の使者”であるとも知らず、のんびりした気持であった。そのうちに桝田医師が帰ってきて、背中や胸に聴診器をあてながら、小首をかしげた。
 「ふーむ。おかしな音が聞こえる。ふつうの風邪ならいいのやがなあ。それですまんかも知れんぜ。まあ、レントゲンをとってみなけりゃ何ともいえぬ」
 こんなことを言われても、私の心には動揺はなかった。ハシカと歯痛のほか医者にかかったことのない私は、からだに絶対の自信をもっていた。
 「レントゲンの結果がわかれば知らせるからな、まあ、きょうは静かに寝ていることや」
 新聞社は休んで寝ることにした。
 喀血という大げさなものでないが、セキするたびに血がほとばしった。
 夜の八時か九時ごろだったろうか。ふとんの中でうつらうつらしていると、枕もとに桝田医師が立っていた。
 「たいへんや」
 まず、この声が私の耳にはいった。
 「君の右の肺はむちゃくちゃや。症状もだいぶ進んでいる。僕になおせるかどうか、自信が持てぬ」
 一瞬、私は全身に電気で打たれたような衝撃を感じた。からだ中の血がひいて奈落の底へすうと落ちていくような気持でもあった。いま振り返っても、これが私の生涯における最大のショックであったように思える。
 「とにかく、入院や。部屋をまわりしておくから、明日から来るようにしてくれ」
 なにしろ“抗生物質”以前の時代である。結核は死病というのは世間一般の常識であった。日本人の死亡原因の統計でも、結核はつねに第一位であった。
 栄養と安静、このほかに療法はないとされた。資力のあるものは栄養のために倉を一つ二つつぶし、そのあげく死んでいった。資力のないものは野たれ死にのような末路をたどらねばならなかった。
 その病気に、私はとりつかれたのだ。

 入院第一日

 私一人なら、まあ、死んでもあきらめよう。
 同年代の友人のなかには、戦場で、あるいは牢獄で、短い生涯を終えたものも随分いる。長生きできない時代に生まれ合わせたのだと思えば、それであきらめのつくことなのだ。
 しかし、私の横に生まれて一年三か月の子どもが眠っている。おはずかしい話だが、天命を知る年齢に近くなって、三人めの妻ではじめてもうけた子どもなのだ。
 十年間添った最初の妻は妊娠せず、つぎの十年間を添った二度目の妻も妊娠しなかった。嫁して三年、子無きは去るの封建的倫理は、私の頭のなかには毛頭なかった。私の側に原因の多くがある離婚であった。
 名張でいっしょになった三度目の妻は、とたんに妊娠した。その子である。男坊主だ。
 もし私がいま死んだらこの子と、そしてその母親はどうなるのか。万事わりあい呑気に過ごしてきた私だが、肺結核を宣告されて、このとき生れてはじめて、人間的な責任感というものに全身が打ちひしがれるのを感じた。
 なんとしてでも生きねばならない。
 今でこそ結核なんて風邪ひきぐらいにしか思われないが、二十数年前はこの“死にやまい”との闘いに立ちむかうためには不退転の決意が必要であった。
 翌日、桝田医院に入院した。桝田病院は、その時はまだ医院で、本宅の裏に入院用の病棟を建てたばかりの頃であった。
 玄関を入って右側に四つの病室が並んでいる。いちばん奥の部屋に入った。順番に呼べば四号室だが、四の字を忌んで松の間と呼ばれていた。
 生れてはじめて病院のベッドというものの上にからだを置いた。だが自覚的には何の変調もない。きのうまで普通どおりブンヤとして走りまわり、飲みまわってきたのだ。でも、入院したからには安静にせねばならぬと観念して、仰向けになって、じっと天井とにらめっこを始めた。
 一時間、二時間、神妙な時間が経過した。だがそのうちに、じっとしていられない、いらだたしい衝動が体内に湧き上がってきた。煙草である。煙草の禁断症状があらわれてきたのだ。
 私の喫煙癖は中学生時代にはじまる。入門はゴールデンバット、ついでエアシップ、入院当時は「光」党であった。昔でいうなら口付、いまでいうフィルター付が大きらいで、両切でなければノドが承知しない。現在は「しんせい」専門で、この煙草が製造中止になるという噂にひやひやしている。
 話をもどすが、実はきのう入院にさいし、煙草は結核に大害があるというので禁煙の悲壮な決意をし、買い置きしてあった「光」を全部焼きすてたばかりなのだ。
 早くも禁断症状! 酒はやめられるが、煙草はやめられないとよくいわれる。
 まさにその通りで矢も楯もたまらず、一瞬の我慢も出来なかった。
 女房が病室へ来るのを待ちかねて、さっそく買いに走ってもらった。最初の一ぷく、ほっとした安堵感で、のどの奥まで深々と吸いこんだ。
 不退転の決意ではじめたはずの闘病生活であったが、半日もたたないうちに挫折、われながら前途が不安になった。不安ながらも吸いつづけた。それでも、初めは桝田医師に少し遠慮があったのか、灰皿とマッチは枕元の戸棚にかくしておくという殊勝さがあったが、だんだんこれも面倒臭くなった。
 そのころ、桝田病院ではまだ給食していなかった。入院患者の食事は三度三度家人がはこんでいた。私の家から病室までは三百メートル程しかなかったので、食事はこびに便利なのはせめてもであった。

 隣室の患者

 入院を必要とするほどの容態でも、ふしぎなことに、これという自覚症状はなかった。結核病には夕方の微熱が付きものというが、その微熱さえなかった。のどからの血はもう止まっている。しいて言えば、セキとタンが少し多いめというのが自覚症状のすべてであった。顔色はふつう、からだはだるくない、飯はうまい、煙草もうまい。人がみれば、どこが病気かと思えるほどであった。
 だが、カルテを覗くと「右肩胛骨下に鶏卵大の空洞」と書かれてあり、大阪微生物研究所の喀痰検査によれば「ガフキー8」だった。こんなことには何の知識もないが、ガフキーというのは痰の中にふくまれる結核菌の濃度のことだそうで、8といえば相当高度とのことであった。
 入院して何日目からか人工気胸がはじまった。結核療法としてはすでに前時代物だが、当時としては、これが唯一の内科的療法ではなかったろうか。
 自転車の空気入れと同じ形である。ゴム管の先に太い針がついていて、それをプスリと肋骨の間に挿し込む。医学的原理は知らないが、なんでも胸壁と肺との間にある胸膜腔に空気を送りこんで肺を収縮させ、病巣から菌が拡散するのを防ぐという寸法らしかった。
 人工気胸は何日目ごとにおこなわれたのか忘れたが、あまり気持のいいものではなかった。
 うどん屋の縦長の出前箱のようなものを看護婦が提げてやって来て中から機械を取り出す。桝田医師がプスリ、そして片手で運転をはじめる。この時は痛くも掻ゆくもないのだが、プスリの時はいやな痛さだった。
 九月か十月であったと思う。つまり、人工気胸を三か月か四か月つづけた頃である。
 「いい薬がはいってきたので、人工気胸は中止にする」
 桝田医師のことばである。私はほっとした。

「ゆうようなことでしてね」
「ゆうようなことでしてねやないがな」
「なんですねん」
「先はどないなるねん」
「じつはこの自分史、いずれ自費出版でもして親父がお世話になった方々にお配りしようかと考えてたんですけど」
「どないなりました」
「まだお金の工面もつかんゆうのにお世話になった方々がばたばたと」
「はあなるほど」
「どいつもこいつも根性なしでしてね」
「根性の問題やないがな」
「せやから自費出版はやめて僕のホームページに載せたろかなと思てますねん」
「ホームページですか」
「自分のホームページに家族の文章を載せるわけですから」
「なんですねん」
「これがほんまのホームページ、なんちゃって」
「なんなとゆうとれ」

(名張市立図書館嘱託)

掲載2001年10月16日
初出「四季どんぶらこ」第20号(2001年9月21日発行)