第二十一回
市長選挙ここに終われり
 個人情報保護法案を考える

「しかし難儀な時代になりましたね」
「きょうは何をぼやきますねん」
「個人情報保護法案」
「いま国会で揉めてるやつですか」
「この『四季どんぶらこ』も小なりといえども一応メディアなんですから」
「どないしました」
「ああゆうメディア規制の動きに対してはここらで毅然として反対の意思表示をしとかなあかんわけですけど」
「どうなんでしょうね」
「編集部にはとてもそこまでの見識はないでしょうね」
「編集部にぼやいてどないするねん」
「まあ『四季どんぶらこ』編集部はそんな程度でええんですけど」
「ほな何が問題なんですか」
「僕らです」
「僕らといいますと」
「要するに漫才です」
「漫才がどないしました」
「よう考えてみ君、あんな法案が成立してしもたら僕らおちおち漫才もやってられんようになってしまうわけですから」
「そうなんですか」
「これまでは僕らも自由にお役所を批判することができたわけですけど」
「これからはあきませんか」
「個人情報の保護を名目として権力が僕らを圧殺しにかかりますからね」
「なんや表現が大袈裟すぎませんか」
「この漫才のメインテーマは名張市役所はどうもしゃあないゆうことなんです」
「しゃあないこともないでしょうけど」
「極端にゆうてしもたら名張市のお役人はあほばっかりやゆう話なんです」
「極端すぎるがな」
「でもそれが個人情報なんです」
「あほやゆうことがですか」
「個人情報保護法案が成立した暁には個人情報を扱うにあたって本人の同意が必要になってきますからね」
「それはそうらしいですね」
「せやから僕らも漫才やる前いちいち名張市役所に出向きましてね」
「どないしますねん」
「今度の漫才であんたらのことあほやゆうて喋りたいんですけど同意してもらえまっしゃろか」
「誰が同意するかそんなもん」
「そう。彼らもそこまであほやない」
「しかし君、そこまで人をあほやあほやゆうとったらしまいに怒られますよ」
「あほをあほやと批判するのにあほの同意が必要やゆうのはじつにあほな話で」
「知らんがなそんなこと」

折々の記(第三回)
中 貞夫

 知事選挙(続)承前

 朝飯を終えると、自転車で事務所へ出勤。ひるになると、また女房が弁当を運んできた。豊後町から平尾まで、生まれて満二年になる坊主を背負って、てくてくやって来た。実をいうと、名張への選挙費用の割当は十万円ぽっきり、いくら物の安い時代でも、間代を払い臨時電話を引くと食事代までは余裕がなかった。
 他の三君は外食するし、私は弁当を運ばせた。中途で二万円ほど追加割当があったので、
 「せめて弁当ぐらいは食べよう」
 というので、近くの食堂からドンブリをとるようになった。
 夕方、三君の帰るのを待って報告を聞き、打合わせをした。それから病院へ帰る。夕飯の弁当がとどいていた。
 事務所で閑古鳥が啼く変な選挙であった。しかし、戦況がきわめて好調に進展していることは、三君の報告からも、私は方々へかける電話からも、はっきり感じとれた。ほかの地区のことはわからないが、名張に関する限りまず四分六はかたいとのソロバンが立った。六分はむろん田中である。
 二十四日は選挙運動の最終日、十一時ごろまで事務所にいた。帰る道、平尾のガードまでくると一団の人が焚火をかこんでわいわいしゃべっていた。小西陣営の張番であった。
 二十五日、投票日の開票発表の時間になると、続々と事務所に人が詰めかけてきた。忽ち満員で縁側にまではみ出した。
 こんな人まで応援してくれていたのか、そういう顔が多かった。
 今日のようにテレビはない。刻々に本部へ電話をかけて速報を聞いた。予想以上の大量得票で名張市では田中一万台、青木五千台であった。
 県議選では小西氏が雪辱を果たした。
 現職が落選して県庁内は大動揺を来たした。職員組合はむろん田中支持であったが、課長級以上の管理職は義理がからんで青木支持にまわった。そこへ落選ときたものだから、今までの椅子におちついていづらくなった。
 辻本郁郎君もその立場にあった。そこへ、北田市長からの要請である。しかし、辻本君は渡りに舟とばかり飛びつきはしなかった。当時、名張市は合併後の赤字問題でてんやわんやであった。市議会では異例の財政特別調査会を設けて赤字の実態を調べたり、もしかすれば北田市長の首もあぶないという状況であった。そんなところへ乗込むことはまるで火中に栗を拾いに行くようなものである。しかし、結局は引受けることになった。

 辻本助役との会合

 二十九年三月に市制発足、初代市長に就任した北田氏は、一年あまり“女房”なしでやってきたところへ辻本君が助役としてやってきた。津の垂水の自宅から電車通勤であった。
 辻本君とは上野中学の同級である。丸柱の窯元の息子だった。同級生として名張にはまだ赤井四郎、松山倫夫、横山省一、大中道勇、山村栄一、垣本元信、前田喜三男ら、モト悪童達が生き残っている。
 同級生が発起人になって、辻本君のために歓迎激励会を寺新で開いた。先輩、後輩の上野中学の卒業生もたくさん顔を出した。ついでながら、この会合が機縁になって、上野高校同窓会名張支部が結成された。この場で支部長に辻安茂氏、副支部長に赤井四郎、大森静枝両氏を推した。いまは松崎英一市議が支部長になっている。
 選挙がすみ、歓迎会がすんで、ふたたび神妙な病院生活にもどった。マイシンの注射、粉薬のチビオン、これだけやっていれば、あとは静かに寝ているだけの単純な療養生活であった。
 この頃、県下のあちこちの市が市史編纂の業を始めたという記事が新聞によくのった。県下だけではない。全国的にこうした郷土史ブームが盛り上がっているような気配であった。上野市でも市史編纂委員会ができて、図書館長の岡田栄吉氏が委員長になったとの新聞報道も目にした。
 名張市も市になった以上、市史の編纂が必要である。私は思った。天井をみつめて、あれこれ考えをめぐらすほかに時間の費しようがない毎日であった。
 名張のことは私にはまだよくわからなかったが、豊永徳之助氏と冨森盛一氏とか、すぐれた郷土史研究家がいることは聞いていた。これらの人が中心になって編纂委員会をつくり、市が金を出せばさして難事ではないように思われた。
 ある日、辻本君が病室へ見舞に来てくれた。
 私は市史編纂の話をした。さすがは辻本君である。事の重要性をすぐ理解した。
 「折をみて市長に話してみよう」
 そういって帰って行った。
 念のため言っておくが、このとき私の頭には私じしんこの事業に関与しようというつもりは毛頭なかった。私じしん名張の歴史にはまったく無縁の門外漢であった。
 辻本君が市長にどんな形で話を持ち出したのか知らないが、やがてもたらされた返答はきわめて悲観的であった。
 「赤字で四苦八苦している。市史なんか悠長な事業に出す金は一文もない。うっかり議会へ持ち出そうものなら怒鳴り散らされるような形勢だ」
 とのことであった。
 無理もない。合併に伴う赤字約四百万円、北田市長が「これで全部」と議会に報告したあと、「もう九十万円出てきた」といった調子で、当時、市民の関心も大きく惹いていたいわゆる赤字問題で、市政は混乱の極にあった。金のあるなしにかかわらず、市史のことなど考えてみる余裕など寸分もなかっただろう。
 「お前がやったらどうか」
 辻本君のことばであった。私は自分の耳を疑った。
 「市史の仕事をオレにやれというのか」
 「そうだよ」
 「イクよ、冗談も休み休みいってくれ」
 人の前では助役とか辻本君とか呼ぶが、差しになれば昔に帰って名前(郁郎)の呼び捨てである。
 「名張のナの字も知らないオレに出来るはずがないじゃないか」
 「お前も昔は唯物史観を勉強した男じゃないか。やってやれないことはなかろう」
 「そうやけど、名張の歴史についてはゼロだよ」
 「やってみて、出来なければ止めてもいいじゃないか。止めてもともとじゃないか」
 二人のあいだにこんな会話が交された。
 別に結論を出さねばならぬ問題でなし、
 「まあ、考えるさ」
 こう言いのこして病室を去っていった。
 半袖シャツだったから季節は夏になっていたのだろう。


 『市史』への決意

 辻本助役から、「君、市史をやれ」と言われて、「冗談じゃない」と、反射的に拒否反応をおこしたものの、二日たち、三日たつうちに、
 「待てよ」
 と考えるようになった。
 なにしろ、ベッドの上で退屈をもてあましているのだから、天井をぼんやり見つめていると、いろいろの考えが次から次へと、湧いては消えていった。
 「名張市史、ひとつ、やってみようか」
 不逞にも似た意欲が、心の隅にちょろちょろと頭をもたげてきた。
 未知の仕事に対する不安も大きかったが、「いつ棒折れしてもいい」という無責任な気楽さが、私の“身のほど知らぬ”意欲をいっそうかき立てているように思えた。
 だが、いくら無責任が寛容されるといっても、やるからには、やりとげるに越したことはない。
 私は、この仕事にたいする私の可能性というのをいろいろ考えてみた。可能性ゼロならば、むろん初めから手を出すべきでない。手を出すからには、多少なりとも自分の可能性を見とどけておかねばならない。
 私は無理をして、たとえていえば自分の能力を拡大鏡にかけるようにして、可能性をさがしまわった。その結果、どうやら三つほどの可能性を見つけだして自分をなっとくさせることができた。
 まず第一は、ヒマがあるということである。健康で伊和新聞の仕事をやっていると、ゆっくり一冊の本を読むヒマさえむずかしい。だが、幸か不幸か、療養生活というのはヒマそのものである。しかも、自覚的にはからだに感じる苦痛はなにもない。書物さえ手に入れれば、いくらでも勉強できる。
 桝田医師の話ではいくら新薬による療法でも、空洞の広がり具合からみて、一年や二年では“無罪放免”にならないとのことである。だとすれば、このヒマはあと二年か三年つづくことになる。「市史」にとりかかるには絶好の前提条件である。
 第二は、歴史の方法にかんする私の若干の知識である。
 私の読書遍歴をふりかえるに、二十過ぎからの三、四年はマルクス主義に没入していた。唯物史観という歴史研究の方法論も、浅薄ながら一応は身につけているはずである。だから、名張の歴史に対しても、少しは科学的に立ち向かうことができるのではなかろうか。可能性というより希望的観測であった。
 つぎに、名張の歴史については全く“無知文盲”だが、日本歴史については若干の理解をもっているとの自負である。
 私は、江戸後期の洋学者(蘭学者)たちの生涯に格別の興味を抱いた一時期がある。かれらの多くは、医学を禁じる幕府の弾圧に屈せず、真理の追求に殉じた。維新以後に開花する近代的精神・合理主義の土壌を用意したのは彼らである。彼らの生涯には、治安維持法の下で新しい学問に身を挺している人たちの運命をほうふつさせるものがあった。
 いま思うと冷汗ものだが、杉田玄白、宇田川榕庵、坪井信道、高野長英ら数人の洋学者について子供向きの伝記を物したこともある。以上の三つが精一杯探し出した私の「市史」に対する可能性のすべてであった。果してこれだけで名張の歴史に取り組んでいけるのだろうか。むろん、自信はない。しかし、意欲は充分である。
 私は辻本助役に、
 「やってみる」
 と、意のあるところを伝えた。しかし、
 「いつ止めるかわからんゾ」
 と付け加えることも忘れなかった。
 これが、私が名張の歴史に手をつけたそもそものきっかけである。
 本町、岡村書店の故岡村繁次郎さんの驥尾(きび)について江戸川乱歩生誕地記念碑の建設に飛びまわっていたのも、この前後のことである。
 碑は、私が入院している桝田医院の庭内に建てられた。伊勢湾台風のあと、本宅を普請するにさいし、裏病室の現在地に移された。
 乱歩は明治二十七年十月、ここにあった長屋の一間で、郡役所書記を父として生まれた。

 頼りない発足

 私の手もとに一枚の辞令書がのこっている。

   中 貞夫
    名張市史編纂事務を委嘱する
    月手当五千円を給す
      昭和31年5月15日
     名張市長

 辻本助役は北田市長をどう説得したのか知らないが、とにかくこんな辞令をもらった。そして、市史の業務は市長公室の所管となり、同室の桐本一男氏が窓口になって私との連絡に当たることになった。
 ところで、北田市長としては、辞令は出したものの、果たして出来るのかと、不安と疑惑の念にかられていたにちがいない。桐本氏にせよ、あるいは張本人の辻本助役にしたところで、半信半疑だったことだろう。なにしろ、当の私自身自信がなかったのだから。
 とにかく、私の「市史」への発足は、こんな頼りないものであった。

(次号につづく)

 自己決定と自己責任を考える

「でも君、名張市のみならず日本全国のお役所とお役人があほであるというのはいまや国民的認識ですからね」
「たしかに外務省なんか見とったらひどいもんではありますけどね」
「とくにあの中国の事件いったいどない思いますか」
「瀋陽の日本総領事館事件ね」
「あれは要するに日本の公務員には自分の置かれてる状況とか果たすべき責務とかがまったくわかってないゆうことを広く天下に証明した事件ですからね」
「かもしれませんね」
「彼らには自分の目の前で何が起きてるかすら見えてなかったわけなんです」
「見えてなかったゆうことはないがな」
「もちろん視覚的には目の前の光景を認識してたでしょうね」
「そしたら見えとるわけでしょう」
「目の前に武装警察官の帽子が落ちとるのを見つけて、あ、こら拾たらなあかんなと思たわけですからね」
「帽子はどうでもええんですけどね」
「そう。帽子のことなんかどうでもええんです。問題の本質はもっと別のとこにあるんです。ところが目先のことに気ィ取られて問題の本質にまったく目を向けようとしないのが日本の公務員なんですね。目の前の現実に対して自分がどう関わればいいのか何をするべきなのかを考えるゆうことができないんです。あの帽子の映像はその意味でじつに象徴的でしたね。つまり僕がこの連載で公務員はもっと自分の頭でものを考えなさいとかものごとの本質に目を向けなさいとか口が酸っぱくなるほどゆうてきたことは結局あの瀋陽の日本総領事館事件を予見するものでもあったわけです。ところが連中と来た日には朝から晩まで自己保身ですがな。一から十まで責任回避ですがな。そんなことが通用する世の中や思とるのかこら。だいたい名張ではこのあいだ市長選挙がありまして現職も新人も同じように自己決定と自己責任でまちづくりを進めましょうみたいなこと訴えてましたけど君、あんなもん絶対嘘やで」
「長いこと喋っていったいなんやねん」
「ですから自己決定と自己責任でまちづくりを進めるにはまず名張市役所のみなさんの頭に自己決定とは何か自己責任とは何かゆうことを徹底的に叩き込んだらなあかんゆう話ですがな」
「それは必要かもしれませんけどね」
「これは市長選挙で各陣営の訴えを聞いて初めて知ったんですけど」
「なんですねん」
「名張市が市職員その他に払うてる人件費が年間五十億やゆうんです」
「そんななりますか」
「何が税金の無駄づかいやゆうてこれほどの無駄づかいはほかにないで実際」
「無駄づかいではないでしょうけど」
「こうなると公務員ゆうのはもはや歩く不良債権としか呼びようがないですね」
「無茶苦茶ゆうたらあかんゆうのに」
「とにかく僕はこれからも名張市民を代表してお役所批判に精を出したいんですけどあの目障りなうちの親父の駄文はいつまでつづくんでしょうか」
「知らんがなそんなこと」

(名張市立図書館嘱託)

掲載2003年4月12日
初出「四季どんぶらこ」第23号(2002年6月21日発行)