第一話

昭和十年のロビンソン

 江戸川乱歩と名張のあいだに、さしたる関係性は認められない。乱歩は明治二十七年、たしかに名張で生まれたが、名張は乱歩の父、平井繁男がたまたま赴任していた土地というに過ぎず、乱歩の生後七、八か月で一家は亀山に転居してしまう。平井家の本籍は津にあったし、乱歩が三歳から十八歳までを過ごしたのは名古屋である。
 だからたとえば種村季弘氏がそうしたように(「川と道のサーガ――国枝史郎の失われた時」)、名古屋を中心に「カラクリ・機械嗜好」を特質とする文学的モダニズムの領域を想定し、その圏内に乱歩を位置づけてみたほうが、作家と風土との関わりはよほどすっきりと見晴らせることになるだろう。作品との直接的な結びつきを見るのであれば、「パノラマ島奇談」や「算盤が恋を語る話」に火種をもたらした鳥羽という土地にこそ、より密接な関連性が窺えるはずだ。
 もっとも、乱歩の初期作品が如実に示しているとおり、探偵小説は都市の遊民によって織りなされる物語である。そこでは彼らの出自や血縁は決して語られない。そして「私自身も都会の群集にまぎれこんだ一人のロビンソン・クルーソーであったのだ」(「群集の中のロビンソン」)と述懐した乱歩もまた、家郷から切り離されることを選んだ「群集の人」にほかならなかった。したがって名張は、あくまでも未知の故郷でありつづけることによってのみ、探偵作家乱歩との前提的だが本質的な関係性を保持していたのだといえなくもないだろう。
 その関係性に変化が生じたのは昭和二十七年のことである。五十七歳の乱歩は鳴物入りで名張に帰郷し、生家の建っていた場所にも案内された。これが機縁となって昭和三十年、「江戸川乱歩生誕地」碑が建立を見るのだが、除幕式のためふたたび名張に足を運んだ乱歩は、地方紙「伊和新聞」の取材に対してこんなことを打ち明けている。
 「昭和十年頃だったでしょうか、電車で名張を通ったついでのあった時、途中下車して名張の町を歩き廻りましたよ。自分の生まれた家はどこだったろうと探しながらね。しかし友人も親戚もないし、といって役場へ行って尋ねる気にはなれないし、そのまま引き返しましたよ」
 昭和十年ごろに人知れず果たされたこの初めての帰郷には、乱歩のいう「ついで」以上の意味を読むことが可能だろう。というのも、昭和十年代の乱歩の文業には、ひそかだが持続的な自己確認の意志が見え隠れしているからである。それを雄弁に物語るのが、綿密な書き込みを添えて昭和十六年に編まれたスクラップ帳「貼雑年譜」であることはいうまでもない。だとすれば、乱歩を名張の駅に降り立たせたのは、なかば無意識的な自己確認への衝動であったと考えられる。都市の群集を離れて自己の内面に正対しようとした一人のロビンソンにとって、生地に立つことは避けては通れない作業であったはずなのである。
 ところで、この乱歩の自己確認には、少年という主題が濃い影を落としているように思われる。晩年まで営々孜々として書き継がれた少年ものの第一作「怪人二十面相」が書き起こされるのは、まさに昭和十年の秋から冬にかけてのことであったし、この年十二月の「幻影の城主」、翌年十月の「活字と僕と」といった随筆にも、少年という主題は鮮明に浮かびあがっている。「人は生涯のある時期に一度は、その祖先に興味を持つものである」と家や血への回帰を仄めかす書き出しで始まりながら、「幼年期性慾の一つの出来事」を書くことができず、幼少期を回顧するだけで中絶された自伝「彼」が連載されたのも、やはり昭和十一年から十二年にかけてのことだったのである。
 どうやら昭和十年という年は、自己の内奥を手探りする過程で乱歩が少年という主題を探りあて、それを契機として、ユングが自己の実現と呼んだ人生後半の緊要事に踏み出していった時期であったと見受けられる。さらに臆断を重ねるなら、当時の乱歩が自己確認の手がかりを求めて名張に注いだ眼差しは、失われた幼年期や少年時代をもう一度発見し、追体験しようとする視線に重なるものであったようにも思われるのである。

(名張市立図書館嘱託)


初出 1999年6月22日、「中日新聞」三重版「みえの文学誌(13)」、タイトル「江戸川乱歩/名張訪れ少年期確認/生誕の地には碑が立つ」
掲載 1999年10月21日