第二話

「ふるさと発見記」拾遺

 江戸川乱歩の「ふるさと発見記」は昭和28年、「旅」1月号に発表され、昭和32年8月刊の『わが夢と真実』に収録された。前年9月、改進党から衆議院議員選挙に打って出た川崎秀二の選挙応援で名張を訪れ、生家跡に案内された経緯を綴った随筆である。
 川崎秀二は、乱歩が大学在学中から恩顧を受け、恩人として慕っていた三重県上野市出身の代議士、川崎克の次男である。ちなみに、投票は10月1日に行われ、川崎秀二は三重一区でトップ当選を果たした。
 乱歩の名張入りを報じる新聞記事を転載して、拾遺とする。明らかな誤字脱字は訂し、説明が必要と思われる箇所には下線を添えて末尾に注記を付した。

  昭和27年9月29日「伊和新聞」

 生まれた家を探しあて
 
探偵作家の感無量
 
名張に来た江戸川乱歩氏

 みずから”猟奇耽異の徒”と称し、特異な作風で過去三十年、探偵小説界を独歩してきた文壇の奇才江戸川乱歩氏にとって、名張の町はなつかしい生まれ故郷であるが、しかし名張の何処で生れたのか、それは五十八才になる今日まで、求めようとして求めえないマボロシのように彼の脳裡につきまとった。昭和十二年ごろ、旅行の途次名張駅に下車して、一人の頼るものもなく生家を求めて孤影ショウ然と街をさまよったこともある。しかしマボロシは遂に彼の視界に入らなかった。しかしこの度川崎秀二氏の応援にきたことが、はからずも彼に生家をつきとめさせる機縁となった。

 二十六日夜、春日神社で川崎氏の応援をすませた江戸川乱歩氏は旅館清風亭のランカンによりかかり、名張川の瀬音に耳をすましながら、何かもの思いげにぼんやり街の夜空を見あげていた。そこへ訪れてきたのは本町岡村書店の主人繁次郎氏だ。
 「先生の生まれた家を私が知っているのです」
 「ほほう」
 乱歩氏の顔に、一瞬、ただごとでない色がはしった。それから二人の間にいろいろの話がはこんで
 「では、明日ご案内いたします」
 ということで岡村氏は帰っていった。
 乱歩氏は本名平井太郎、平井家は代々津藤堂藩の千石取の家老職、明治になって父故繁男氏は関西大学を出て就職第一歩を名賀郡役所の書記に奉じた。当時郡役所は鍛冶町にあった。今は廃業しているが、小林医院はその建物である。まもなく、十八才の若い妻は一子をあげた。明治二十七年十月である。それが太郎と命名され、いまの江戸川乱歩氏だ。父は名張在職一年で亀山郡役所へ移り、まもなく名古屋へ転勤していった。
 その生まれた家というのが新町の横山家なのだ。横山家は代々名張藤堂藩の典医の家柄で、明治二、三十年頃は文圭翁の代だった。長男故昭四郎氏は県議にも出た有名な政治家である。しかしこの由緒ある家は、当主省三氏が開拓団の農夫として蔵持の山へひっこもった二、三年前から桝田医院の手にうつり、名張きっての新進青年医師桝田敏明氏がここで開業している。
 この桝田医院の居間に、二十七日の朝岡村氏の案内で乱歩氏は足を運んだ。
 「当時と今と建物がちがっていますが、ちょうどここに長屋がありましてね、先生一家はその長屋に住んでいたんですよ」
 当時の事情に通じている岡村氏と大五自転車店の冨森高太郎氏がかわるがわる説明する。
 「先生一家が入られるすぐ前まで、その借家に安本亀八という人形師が住んでおりましてね」
 「その話なら母から聞いています。今でも東京で有名な生人形師ですよ、しかし明治二十何年といえば当主の先々代ぐらいでしょうね」
 いつ果てるともなく、いろいろの話がはずむ。
 「横山文圭翁の長女で、先生が生まれた頃まだこの家にいたおばあさんが近くにいるんですがね」
 富森氏の言葉に、「ぜひ会わせて下さい」と乱歩氏の胸はなつかしさにはちきれそうな様子だ。
 それは新町の辻酒店だ。当主安茂氏の母親昔(セキ)さんは、乱歩氏が生まれたちょうどその前後横山家からこの辻家に輿入れしてきた。昔さんはいま軽い中風の身を裏座敷に養っているが、その枕もとへ乱歩氏がきちんと座る。
 「これが横山にいた平井さんの息子さんだ」
 という安茂氏の説明に、おばあさんはしげしげと乱歩氏の顔を眺めて、
 「まあ、あの子がこんな大きい子におなりなさって」
 近く還暦を迎えようとする天下の乱歩氏も、まるで子供扱いだ。
 「あんたのお父うさんは小さい人だったが、大きい赤ん坊を生んだというので評判でしたよ、やっぱり大きくなってござるな」
 ことし八十六才という昔さんの記憶はしごく確かだ。当時を回想して思い出話はこんこんとしてつきない。乱歩氏もいつまでも聞いていたい表情である。しかし上野市での演説の時間は迫っていた。昔さんのもとを辞して、しばらく名張川の河畔にたたずんだ。ようやく探しあてた生まれ故郷の空、山、水に見入る乱歩氏のまなざしには感懐一しおせつせつなるものがみうけられた。

 注記
 「
昭和十二年ごろ」 典拠不明。昭和30年のインタビューでは、乱歩は「昭和十年頃」に初めて名張を訪れたと答えている。(第三話「「生誕碑除幕式」拾遺」参照)
 「
名賀郡役所」 平井繁男が奉職した当時、まだ名賀郡は発足していなかったため、正式には名張・伊賀郡役所である。明治29年、両郡が合併して名賀郡が誕生した。
 「
安本亀八」 幕末から明治期に活躍した生人形師(1825−1900)。長男が二代目、その弟が三代目を継いだが、名張に住んでいたのは初代。ただし亀八の名張在住期間は三、四年間で、慶応のころには名張を去っていたと推測されている。乱歩の誕生は、亀八が住んでいた時期から三十年ほどあとのことになる。


掲載 1999年10月21日