第三話

「生誕碑除幕式」拾遺

 江戸川乱歩の「生誕碑除幕式」は昭和31年、「宝石」1月号に掲載された。「探偵小説三十年」連載第52回の「祖先と古里の発見――生誕碑除幕式のこと」と題された一章で、昭和32年8月刊の『わが夢と真実』収録に際して、独立した随筆「生誕碑除幕式」とされた。
 除幕式を報じる新聞記事を転載して、拾遺とする。明らかな誤字脱字は訂し、説明が必要と思われる箇所には下線を添えて末尾に注記を付した。

 昭和30年10月27日「伊和新聞」

 名張市新町(桝田医院内)に
 江戸川乱歩生誕地記念碑
 十一月三日除幕式挙行

 名張市の岡村繁次郎(本町、書店)、冨森高太郎(同、自転車店)、辻安茂(新町、酒店)、布生判三(鍛冶町、清風亭)氏らが発起人となって建設を進めていた探偵小説界の大御所江戸川乱歩氏の生誕地記念碑は、同氏が呱々の声をあげた現地、新町桝田医院の庭内に美事に完成し、来月三日文化の日を卜して午前十時から除幕式を挙げる運びとなった。
 碑は比奈知山から採った縦四尺三寸、幅三尺三寸の自然石で、表面には乱歩氏自筆の「幻影城」と彫み、その下に書家吉田松窓氏の手による「江戸川乱歩生誕地記念碑」と書かれている。裏面は乱歩氏自ら特にこの碑のために創った「うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと」の一句が直筆で彫みこまれている。台石を入れると高さ六尺で総経費は十数万円といわれる。
 石工は朝日町田中武雄さんの手になり、台石表面に取付けた略歴を書いたパネルは松崎町高尾銅器本店の製作にかかり、次の一文が書かれている。
 江戸川乱歩(本名平井太郎)は明治二十七年十月二十一日 当時名賀郡役所書記であった平井繁男の長男としてこの地に生れた 大正五年早稲田大学を卒業 同十二年処女作”二銭銅貨”を発表 爾来多くの傑作を著わして日本近代探偵小説を創始しその分野を確立した 代表作 心理試験 人間椅子 パノラマ島奇談 陰獣 石榴 孤島の鬼 黄金仮面
 ここにも書かれているように、乱歩氏は本名平井太郎、父は故平井繁男氏で、平井家はもともと津の住人で藤堂藩の重臣の家柄、繁男氏は明治二十何年かに大阪の関西大学を卒業し、すぐ青年官吏として職を名賀郡役所に奉じた。当時郡役所は鍛冶町の現小林医院の処にあり、そこから一町余り離れた横山家の裏長屋の一軒を借り、毎日通勤していた。横山家は戦後桝田氏に譲られ現在桝田医院となっているが、本宅裏に長屋が並びその一軒に繁男氏、そのすぐ隣に人形作りの名人亀八が住んでいたという。ここで繁男氏は新妻を迎え、明治二十七年十月二十一日、初めての子をもうけた。これが乱歩氏である。それから間もなく、繁男氏は鈴鹿郡の方へ転勤となった。乱歩氏が幼時を回想して「大きい川が流れていたのをおぼえている」というだけでその他にこれという記憶のないところからみれば、恐らく二つか三つのとき父につれられて鈴鹿の方へ移ったのではなかろうか。
 (或はこれは筆者の思いちがいで、四才当時に名古屋に住んでいたことは確実だから、名張からすぐ名古屋へ移ったのかも知れぬ)
 その後、中学は熱田中学(一年下に評論家谷川徹三氏がいた)、大正五年早稲田大学政治経済学部を卒業、職業を転々、放浪の旅もやり大正十二年処女作「二銭銅貨」を博文館の「新青年」誌に発表、昭和元年以後作家生活に入り、「江戸川乱歩全集」十三巻、「同選集」十巻、「幻影城」二巻その他を著わして探偵小説界の王座を占めるようになった。昨年還暦を迎え全文壇から盛大な祝賀をうけた。
 なお乱歩氏は放浪時代に故川崎克氏からいろいろ恩顧をうけ、それが今日秀二氏との交情となって伝わり、選挙の時は応援に足をのばすということになるのだが、こんどの記念碑も、そもそもこのことが建設の縁由となっているのだ。というのは昭和二十七年九月の総選挙に、名張での応援演説に来たとき、前記岡村氏らが宿舎の清風亭に同氏を訪い、生誕の現地(但し家は建て替えられている)を「ご案内しましょう」と言い出したことに初まるのである。岡村氏の夫人は横山家の出身という関係から、乱歩氏生誕地のことはよく知っていたのである。
 こういうわけで乱歩氏の生誕記念碑が建てられ、名張市に一つの名所がふえることになったのである。

 除幕式に
 乱歩氏夫妻
 名高で講演も

 三日行われる除幕式には乱歩氏夫妻が列席することになり、夫妻は二日夕刻名張着、除幕式をすませたのち初めての赤目香落を訪い四日には午后一時から名張高文芸、読書両クラブ共催の講演会や名張警察での講演にのぞみ五日朝東京に帰る予定になっている。

 注記
 「
人形作りの名人亀八」 生人形師の初代安本亀八(1825−1900)。(第二話「「ふるさと発見記」拾遺」参照)
 「
繁男氏は鈴鹿郡の方へ転勤」 『貼雑年譜』によれば、平井繁男が名張に住んでいた時期は「明治二十六年より二十八年六月まで」、亀山在住は「明治二十八年六月より十月頃まで」である。乱歩は生後七、八か月で亀山に転居したことになる。
 「
乱歩氏が幼時を回想」 典拠不明。乱歩には名張の記憶はなかったはずである。

 昭和30年11月3日「伊和新聞」

 江戸川乱歩生誕地記念碑
 
きょう盛大に除幕式
 
夫妻、晴れの”郷土入り”

 名張市新町、桝田医院庭内に建てられた「江戸川乱歩生誕地記念碑」の除幕式はきょう三日午前十時から乱歩氏夫妻を迎え地元関係者百余名が参列、また隆子夫人の三重女子師範の同窓、津市新町片山ふさ恵さんら八名もかけつけ盛大に行われる。
 式順は神官の修祓に始まり、桝田氏令嬢寿美子さん(名小一年生)の手で幕が落されたのち発起人代表岡村繁次郎氏の式辞、冨森高太郎氏の経過報告あって石工田中武雄氏に感謝状が贈られたのち来賓として北田市長、吉田議長、小西県議、中山教委長、島村署長、萩原新町区長らの祝辞、祝電披露、桝田氏挨拶、最後に乱歩氏の謝辞があって十一時閉会となっている。

 舞込む祝電

 除幕式を前にして早くも各方面から祝電が発起人に向け舞込んでいるが、田中知事、豊岡上野市長をはじめ東京からは平凡社々長下中弥三郎、作家田村泰次郎、角田喜久雄氏らのがあり、特に振っているのは角田氏の電文で「故郷に錦をかざるものは多し、されど石をかざるものは少し、人徳のゆえん」というようなのもある。

 赤目香落へも
 
乱歩氏の三日間

 除幕式のため来名する江戸川乱歩氏は二日夕方五時半名張駅着、鍛冶町清風亭で一泊、三日除幕式をすませたのち夫人同伴で赤目滝見物、四日は午前十時名張警察署で署員と座談会を行ったのち香落渓を見物、午後三時から名張高校で講演を行い、本社に立寄って対談録音ののち喜多藤で宿泊、五日は市役所、各学校等市内の挨拶廻りを行って同日夕刻帰途につく予定である。

 絵葉書できる

 発起人会では建設を記念して絵葉書をつくり(本社製版)各方面に頒布するが、これに載った乱歩氏の肖像は昨年の還暦祝いに撮影したもので、鳥打帽とジャンパーは文壇の知友から記念に贈られた総赤ずくめのものである。

 昭和30年11月7日「伊和新聞」

 生家もとめて
 来たこともある
 本社来訪の乱歩氏語る

 誕生碑除幕式に招かれて来名した江戸川乱歩氏は四日午后四時本社を来訪、岡山社長らと約二十分間歓談したが、”ふるさと発見”について次のように語った。
 「これは恥しいことだからまだ誰にも話したことがありませんが、昭和十年頃だったでしょうか、電車で名張を通ったついでのあった時、途中下車して名張の町を歩き廻りましたよ。自分の生まれた家はどこだったろうと探しながらね、しかし友人も親戚もないし、といって役場へ行って尋ねる気にはなれないし、そのまま引返しましたよ。さあ、どの辺を歩いたかよく覚えていませんが、なんでも細い川に沿うて二時間ぐらい歩きましたよ。それから二十年たって今日の生誕地記念碑となったのです。何んともいえぬ喜びです」


掲載 1999年10月21日