第四話

うつし世のアジア

 一八九四〔明治二十七〕年、三重県名張町生まれ。本名、平井太郎。一九二三〔大正十二〕年、「二銭銅貨」でデビューし、探偵小説界の旗手として一躍注目を浴びる。理知と奇想に充ちた初期短篇を矢継ぎ早に発表したあと、怪奇と残虐に彩られた長篇小説で広範な読者を獲得、少年小説の分野でも少年探偵団シリーズによって熱狂的な人気を集めた。戦後は海外作品の紹介や新人育成など探偵小説の興隆に力を注ぎ、評論や研究にも際立った業績を残した。その生涯は自伝「探偵小説四十年」にまとめられている。一九六五〔昭和四十〕年、満七十歳で死去。

 上海と変身願望

 江戸川乱歩の小説作法にはずいぶん無造作なところがあって、平たくいえば在るもので間に合わせるという手法が一貫している。それはとりわけ登場人物の命名法に顕著なのだが、そもそも鍾愛する海外作家の名に漢字を当てただけのペンネーム自体、そうした手法の見本のようなものであるにちがいない。
 作品の舞台や時代背景も同様で、同時代の東京こそが乱歩の本領であった。探偵小説が近代的な大都市を背景に成立したという経緯や、乱歩個人の東京への愛着はむろんあったにせよ、身近な場所を無造作に作品の舞台に選んでしまう小説作法には、現実や日常に対する嫌悪の念が示されているといえるだろう。
 「幻影の城」の住人であった乱歩にとって、現実世界はいずれ一種の異郷に過ぎず、その退屈無惨な日常のなかに敢えて別世界を垣間見ようとすることが、乱歩の創作の本質であったのだ。舞台の表層は間に合わせで足りたのである。
 東京以外の土地が作品の舞台として選ばれる場合も、それはストーリーから必然的に要請された結果でしかなかった。乱歩作品にわずかながら登場するアジアもまた、そうした要請に基づいて設けられた場であったことに変わりはない。
 一九三一〔昭和六〕年から翌年にかけての「白髪鬼」で、乱歩は直接的な舞台として初めてアジアを描いている。黒岩涙香の同題作品を翻案したこの長篇では、主人公は一か月あまり上海に滞在し、妻とその愛人への復讐のため別人になりすまして帰国する。涙香作品の主人公がナポリからシチリア島のパレルモに身を隠した設定を、乱歩は九州西岸のS市と上海とに置き換えているのだが、作中に中国人の海賊団を登場させる必要から九州が選ばれ、本土を離れた隠れ場所として上海が浮かびあがってきたのだろう。
 ひとつのモチーフを無造作に再使用するのも乱歩の常套だが、上海はこれ以降、「石榴」や「幽霊塔」といった作品でも、一人の人間が別の人間に変身するための隠れがとして利用されることになる。
 そういえば上海のみならず、貧乏書生の明智小五郎が「一寸法師」で颯爽たる青年紳士に変貌したのも、「芋虫」の主人公が醜悪な肉塊と化してしまったのも、「怪人二十面相」で家出した富豪の長男が成功者に成りあがったのも、すべてアジアでのできごとである。
 探偵小説が「大都会とは別の、もうひとつの重要な謎の源泉」として「異境としての植民地や戦地」をもっていた(池田浩士『[海外進出文学]論・序説』)という事情はあったにせよ、そして「少年探偵団」にはインドの「呪いの宝石」という「月長石」もどきのモチーフも見られはするものの、乱歩作品におけるアジアは、乱歩自身の言葉でいえば、変身願望や隠れ簑願望にひそかに関連づけられた場所であったと見るべきかもしれない。

 黄金国と隠れ簑願望

 一九四〇〔昭和十五〕年から「少年倶楽部」に連載した「新宝島」で、乱歩は日本の南方進出に身を添わせたようなストーリーを語り始める。
 三人の日本人少年が長崎で中国人の船にさらわれ、航海中にボートで脱出して南洋の孤島に漂着したあと、宝探しの果てに「無知な原住民」の住む「黄金国」に迎えられるといった結構は、たしかに南方進出に歩調を合わせ、時局への迎合を旨としたものに見受けられる。
 しかし三人の少年には、日本へ帰国する機会はついに与えられない。物語の終局にいたっても、彼らは名も知れぬ孤島に封じられたまま、どこかの国の探検隊が黄金国を発見してくれる日を待ちつづけるしかないのである。
 乱歩作品において、かつて「パノラマ島奇談」でユートピアが建設され、「孤島の鬼」では不具者の製造と宝探しがくりひろげられた島という場は、この作品では東京から完全に切り離された、ただそこに閉じこめられるための空間として存在している。「新宝島」の孤島は、まさしく隠れ簑願望を成就させる目的で、作家自身がその内部に身を潜め、世界から隔離される密室として用意されたかに見えるのである。
 だとすれば、ここに描かれているのは南方という異郷への進出などではあり得ず、少年期という原郷への退行であるというべきだろう。警視庁に「芋虫」の全文削除を命じられたことから「隠栖」を決意したその翌年、一人の子供として孤島に身を隠し、「ロビンソン・クルーソー」や「宝島」の世界を再創造することで、「芋虫」よりもはるかに巧妙に、乱歩は時局への倦厭を表明していたのである。子供になってしまいさえすれば、ラディゲが明かしていたとおり、戦争は「長い休暇」に過ぎなくなるのだ。
 最後に、乱歩自身のアジア体験を記しておこう。早稲田大学の予科に入る以前、一、二か月の短期間ながら、乱歩は朝鮮で生活している。これは『貼雑年譜』に記録された事実だが、乱歩がこの朝鮮滞在について語ることは一度もなかった。そして乱歩が海外の地に立つ機会は、そのあと二度と訪れなかった。

(名張市立図書館嘱託)


初出 「朱夏」13号《特集・探偵小説のアジア体験》、1999年10月30日、せらび書房/タイトル「江戸川乱歩」
掲載 2001年1月12日