第五話

乱歩と朝鮮

 第四話「うつし世のアジア」を補足しておく。
 補足というよりは訂正である。
 じつに不面目な話だが、「うつし世のアジア」に「乱歩がこの朝鮮滞在について語ることは一度もなかった」とあるのは正しくない。
 というか、完全な間違いである。
 順を追って記そう。

 江戸川乱歩が朝鮮に在住した経験をもっていたことは、あまり知られていない。
 乱歩がその事実をどこにも記していなかったからで(と私は思い込んでいた)、『探偵小説四十年』にさえ一行も書かれてはおらず、唯一『貼雑年譜』にその記録が残るばかりなのである(と私は思い込んでいたのだ)。

 乱歩の朝鮮滞在は、明治から大正に元号が変わった1912年のことである。
 前後の状況は、『探偵小説四十年』には、

中学を卒業するころ、父の事業が破産し、父は朝鮮に渡り、私は苦学の決心で上京して、早稲田大学の予科に編入試験を受けて入ったのが、明治四十五年(大正元年)の夏、

 と記されているだけだが、『貼雑年譜』の「私ノ学歴」と題された項目には、次のような記録がある。

 明治四十年四月 愛知県立第五中学校入学(今ノ熱田中学)明治四十五年三月卒業コノ時父ノ家ガ破産シタノデ、第八高等学校ノ受験票マデ受取ツテヰタノヲ捨テ、父ト共ニ朝鮮ニ渡リ、馬山ノ父ノ旧友ノ家ノ居候トナツテ一、二ヶ月ヲ過シタガ、ヤハリ学業ヲツゞケルコトヲ希望シ、父ノ許シヲ得テ、苦学ノ覚悟デ上京シタ。

 馬山は、朝鮮半島南端に位置する港湾都市である。
 むろん一家を挙げての移住で、同じく『貼雑年譜』によれば、「大正三年八、九月頃、母、通、敏男ヲ伴ヒ朝鮮ヨリ上京」、「大正三年末頃、父モ朝鮮ヨリ引上ゲ来リ、家族揃フ。即チ父ノ馬山在住約二年半ナリ」というのがその顛末である。

 上の両者を比較すると、『探偵小説四十年』の記述には何かしら隠蔽めいた印象が感じられる。
 朝鮮在住は乱歩にとって、自身の生涯から抹消されるべき記憶のひとつだったのかもしれない、と私には思われた。
 むろん、記録するほどのことは何もなかったのだとも考えられるが、とにかく乱歩は朝鮮在住のことをいっさい語っていないのだと、私は頑なに思い込んでしまっていたのである。

 しかし、朝鮮について記された随筆が、じつは存在していた。
 昭和32年8月刊行のエッセイ集『わが夢と真実』に、書き下ろしで収録された「父母のこと」がそれである。
 明治45年、父親の経営していた平井商店が倒産した、という記述を受けて、乱歩はこう記している。

 それが私の中学卒業の年であった。近くの八高の入試を受けるつもりで、受験票ももらっていたのだが、文なしになっては官立学校へは入れないので、思い切った。そして、父と一緒に朝鮮に高飛びした。僅かに残った資金で荒蕪地の開墾をやろうというのである。父は前に朝鮮視察をしたことがあり、朝鮮にはまだ荒蕪地が多く残っていることを知っていたのである。
 私たちは馬山の父の旧友の家におちついて、方途を謀ったが、なかなかこれという土地もなく、一カ月ほど、なすこともなくすごすうち、私はやっぱり学校へ行きたくなった。大隈さんの早稲田大学がいい、あそこなら苦学でやっていけると思った。父にそのことを相談すると、それじゃやって見ろと許してくれた。

 といった次第で、「乱歩がこの朝鮮滞在について語ることは一度もなかった」などというのは真っ赤な嘘、大間違いのこんこんちきなのである。
 「うつし世のアジア」(初出タイトルは「探偵作家たちとアジア」の「江戸川乱歩」)を掲載していただいた「朱夏」関係者の方々と読者のみなさんに、遅ればせながらお詫びを申しあげたい。

 楽屋裏を記しておくと、「うつし世のアジア」をアップロードしたあと、つづいて「乱歩と朝鮮」という文章を掲載することは最初から予定していた。
 そこには、上に掲げた『探偵小説四十年』と『貼雑年譜』の比較などを綴るつもりで、むろん「父母のこと」のことはまったく念頭になかった。
 ところが数日前、正確に記せば2001年1月10日、ミステリ作家の有栖川有栖さんが雑誌「ダ・ヴィンチ」の取材で名張市立図書館においでになったのだが、そのとき私は、乱歩コーナーの書架から『わが夢と真実』を引っ張り出して、乱歩が名張について記した随筆をご紹介した。
 そしてあとになって、その『わが夢と真実』を書架に戻す際、何気なくページをくった私の眼に、「朝鮮」という言葉がいきなり飛び込んできたのである。
 「父母のこと」のページであった。
 ありゃりゃッ、と私は思い、天を仰ぎ、地団駄を踏み、それから間違いを訂正するために「うつし世のアジア」と「乱歩と朝鮮」をアップロードする準備にとりかかったという寸法である。

 面目次第もございません、とはこのことであろう。
 以下、当初から「乱歩と朝鮮」に書くつもりでいた材料を披露しておく。

 「うつし世のアジア」執筆の際、平井隆太郎先生に電話で二、三お聞きしたのだが、乱歩は家庭でも、馬山時代について語ることはなかったという。
 ついでに記しておけば、中学時代に「支那密航」を企て、大学卒業間際には「アメリカ渡航」を夢見た乱歩も、実際には海外に縁がなく、この朝鮮在住がただ一度の海外体験であった。
 (ここで、明治43年の日韓併合によって当時の朝鮮は日本の植民地とされていた、という歴史的事実を付記しておくべきだろうか)

 もっとも、乱歩にはやはり海彼への憧れがあったらしく、平井先生は、
 「戦前、父が海外旅行の案内を取り寄せて、眺めていた姿を憶えています」
 とおっしゃっていた。
 戦後、外国へ自由に渡航できるようになったころには、乱歩は病気がちで、海外旅行は体調の面から不可能になっていたという。

 ところで乱歩には、満洲について記した奇妙な文章がある。
 ある雑誌に載ったアンケートの回答で、コレクターの藤原正明さんから教えていただいた。
 雑誌は、昭和10年10月に出た「日本趣味」味覚号。
 「諸家の味覚を聴く」というアンケートが掲載されており、栗島すみ子、徳川夢声、長田幹彦、平山蘆江といったあたりも名を連ねている。

 アンケートは四項目。
 そのうちの「二、食物に就ての失敗談」に、乱歩はこう答えている。

 (二)昔満洲でトンカツだと云つて、人肉老婆を食はされたこと

 「私はオヒャラカスことが嫌いな、馬鹿正直な男ですから」と、乱歩はあるアンケート(「宝石」昭和25年1月号)に打ち明けている。
 まさしくそのとおりで、乱歩がさまざまなアンケートに対して示す態度は「馬鹿正直」で一貫されており、気の利いた回答を寄せた例は思い浮かばない。
 だとすれば、この回答も「馬鹿正直」なものなのだろうか。
 もしも乱歩が実際に満洲の地に立ったのであれば、それは朝鮮在住中のことでしかあり得ない。
 乱歩は馬山から朝鮮半島を縦断して、満洲にまで赴いたのだろうか。
 そしてその地で、本当に人肉を食べたことがあったのだろうか。


掲載 2001年1月13日