第十四話

名張市立乱歩記念館の幻

 2002年1月1日付「伊和新聞」に掲載された名張市長のインタビュー記事に虚偽と思われる発言があったため、市立図書館嘱託である私は市の教育長にそれを質す文書を提出した。
 どうして市長に質さなかったのかというと、お役所のくそったれなシステムのなかでは図書館嘱託が市長に直接ものを尋ねることができぬからであり、教育委員会が市長発言の虚偽を客観的に証明できる立場にあったからである。より具体的なことは「人外境主人伝言録」の1月1日から2月14日あたりまでを拾い読みしていただきたい。
 ほぼ四十日後、教育長ではなく教育委員長の辻敬治さんからご回答をいただいた。私の質問と辻さんのご回答をあわせて掲載する。

 平素は市立図書館の運営に特段のご高配をたまわり、あらためてお礼を申しあげます。また昨年九月と十一月にはご多用のところお時間を頂戴し、まことにありがとうございました。重ねて謝意を表します。
 本年一月一日付の「伊和新聞」(第三二六四号)二面に掲載された名張市長のインタビュー記事に不可解な箇所がありますので、事実関係を貴職にお尋ね申しあげる次第です。
 関連箇所を引用いたします。

 ──乱歩邸は残念な話になりましたね。
 市長 ちょっと豊島区(東京)が横暴すぎた。私は蔵だけ頂こうと、ひそかに平井先生(平井隆太郎・立教大名誉教授=江戸川乱歩の長男)と市教委を通して連絡を取っていました。ところが、豊島区が本宅や蔵書・調度品など貴重な資料を含め、まとめて11億円で購入するという条件を整えてしまったため手を引いた。ところが財政難で豊島区が断念。ご存じの結果となった。といって当市が11億円かけて邸宅まで買い、資料室も経営する訳にもいかずあきらめざるを得なかった。小分けして頂ければ有り難かったのですがね。
 ──それで今後は。
 市長 いろんな展示会などをするとき、立教大に資料をお借りするような交渉があろうかなと思っています。ただ、有り難いことに、慶応大学の推理小説クラブと言うか、ミステリークラブが毎年名張で研修会を開いており、そのOBたちが将来、自分たちの蔵書を全部名張へ寄付しようと意思統一されている。中には価値の高いものもあるでしょう。そういう中で、新たな江戸川乱歩にちなんだミステリーの拠点を作りたいと思っています。

 上記の市長のご発言には、豊島区の乱歩記念館構想に関して明らかな事実誤認が見られますが、それは別にして、「私は蔵だけ頂こうと、ひそかに平井先生(平井隆太郎・立教大名誉教授=江戸川乱歩の長男)と市教委を通して連絡を取っていました」という点、ならびに「新たな江戸川乱歩にちなんだミステリーの拠点を作りたいと思っています」という点の二点についてお尋ねいたします。
 まず、市長が市教委を通して平井隆太郎先生と連絡を取っていらっしゃったというのは、事実なのでしょうか。私は聞き及んでおりませんし、昨年十一月一日に貴職からお話をうかがった際にも、そうした事実は話題にのぼりませんでした。また十二月二日から四日まで上京して平井隆太郎先生にお会いしたときにも、北田藤太郎初代市長が乱歩記念館のことでご遺族に申し入れを行ったという事実は平井先生から教えていただきましたが、それ以降、名張市からは乱歩記念館あるいは乱歩邸の土蔵に関していっさい連絡がなかったとの由でした。市教委が平井先生と連絡を取っていたという事実は、果たして存在するのでしょうか。貴職ご就任以前のことかもわかりませんが、そうした事実があったのかどうか、ご確認のうえご教示いただきたく存じます。
 つづいてミステリーの拠点づくりの件ですが、市長のご発言にもありますとおり、市立図書館は慶応大学推理小説同好会OB会からご蔵書の寄贈をいただいております。しかし、それに基づいて市立図書館をミステリーの拠点にする計画は存在しません。市教委にはそうした構想が存在するのでしょうか。存在するのであればお示しいただきたいと思います。なお、ミステリーの拠点に関して附記しますと、中島河太郎先生が生前贈与された蔵書を基に平成十一年四月、ミステリー文学資料館(東京都豊島区池袋三−一−二、光文社ビル内)が開設されており、市長がどのようなプランをおもちかは存じませんが、ミステリー文学資料館と同様の施設を名張市につくる必要はないと考えます。
 以上二点、市立図書館嘱託として職務に携わるうえで、また今後、市立図書館が江戸川乱歩に関わる事業を進めるうえにおいても、きわめて重要な問題であると判断されますので、公務ご多忙のおりからまことに恐縮ではありますが、あえてお尋ねする次第です。ご回答をお待ちいたします。

  平成十四年一月五日


 名張人外境ご主人様     H14,2,14

辻 敬治   

 正月(1月5日付)のご主人様のご伝言(質問)に、一ヶ月半も過ぎた今頃になってコメントするのは、いかにも時機を失して旬のこけた雑煮を喰わされるようなものと、お叱りを受けるでしょうが一言させていただきます。また、教育長に対する質問に、私ごとき者がしゃしゃり出て、とやかく言うのもこれまた居酒屋でおしるこを喰わされるようなものと、辟易されると思いますがお許し下さい。
 ご主人様もご承知の如く、いま議論の的になっております乱歩記念館構想は、当初は民間人(名張市内)の有志によって起こされた構想であり運動でした。そして、多くの先人と関係者のご努力が重ねられ進められて参りましたが、結果はご指摘の通り幻に終わってしまいました。この間の経緯について今は知る人がほとんどなく、教育長、図書館長とて何代にも亘ることであり、十分に引き継ぎを受け、全体を理解をしているとは思われませんので、僭越ですがその間のことに多少なりとも関わって参りました私から説明をさせていただきます。諸般の説明不足、掘り下げ足らずの点などお許し願い、今後ともの乱歩顕彰・研究にお力をお寄せ頂きたくお願い申しあげる次第です。

 江戸川乱歩記念館構想
 江戸川乱歩記念館の建設構想は、昭和30年の生誕地記念碑の建設から十数年を経て、昭和44年に旧電話局跡の市立図書館の開館を機に、その一角に「郷土が生んだ推理小説界の大先達江戸川乱歩の業績を顕彰するため”江戸川乱歩文庫”をつくろうとの提唱が一部の有識者から出され」「どうせつくるなら百尺竿頭一歩を進めて独立の乱歩記念館を建設しよう」と云うことになり記念館建設の会が発足されました。(新名張昭和44年5月30日号・同建設趣意書ほか)このことは、講談社の『江戸川乱歩全集』第一巻月報に載せられた衆議院議員故川崎秀二氏の「茶目っ気もあった乱歩氏」の一文も大きく関わったようです。
 以後、秀二先生を通じていろいろな話し合いがあったと聞いており、当時の北田市長が直接乱歩先生に蔵書の寄贈を懇請したとも聞いております。乱歩先生も北田市長の剽軽さについ乗せられて寄贈に同意されたとも聞き及んでいます。
 しかし、こうした計画は一朝一夕にしてなし得るものではなく、まして、市民グループの活動であり、或いは老いられ、或いは鬼籍に入られるものもあり、計画は進まないままに置き去られてきました。

 新図書館の建設と乱歩コーナー
 こうした中で、乱歩記念館に対する思いは市図書館の中に流れていました。その頃、市図書館郷土資料室の嘱託をしておられた故中貞夫先生も計画の初期段階から関わっておられ、新しく出来るであろう図書館には、是非とも乱歩顕彰の場をと、力説しておられたのを忘れることは出来ません。
 中先生が逝かれて後、どうしたはずみか郷土資料室の嘱託を命じられた私も、こうした先人達の思いを如何にして実現するかを考えてきましたし、市長(故永岡市長)にも進言してきました。永岡市長もこのことにはご理解をもたれ、市長自ら乱歩先生に会われたのか、或いは乱歩邸を訪れられたことがあったのか、乱歩先生の電話帳に市長の名が記されていたのを後日拝見したことがあります。
 さて、昭和62年、桜ヶ丘の現在地に、市民待望の新しい図書館が誕生することになり、新しい図書館のこの時の課題は、一つは郷土資料室の扱いと、今一つは以前から計画してきた乱歩記念館を併設できるかどうかでした。
 当時の館長であった高野香洋氏と、郷土資料室の嘱託をしていた私は、急遽東京に平井隆太郎先生を訪ねました。以前、故川崎秀二氏を頼って乱歩邸と交渉してきているという経緯を踏まえ、衆議院議員になっておられた秀二氏のご子息の二郎氏にお願いしてご紹介を頂き、二郎氏とご一緒に平井邸に参上しました。
 私は、自らの身柄を証するため、私宅の乱歩先生の直筆の生誕碑建設の礼状、伊勢湾台風の見舞い状、祖母せき死亡時の悔状、乱歩先生のご母堂きくさんの手紙などを持参しました。この頃はまだ奥さんのご存命の時でご夫妻ともども私達の上京を大変喜んで頂き、初対面の私どもを土蔵の中や仏間にまでお招きいただきました。
 しかし、さまざまのお願いやお話の中で、前々から伝えられてきた、乱歩先生が北田市長に約したと伝えられる所蔵資料の名張市への寄贈や、土蔵丸ごと名張市へなどと云うことはあり得ない話であることが判じとられました。それならと(かねがねこのようなことが想像されていましたので)、次善の計画として、当時進めていた図書館の乱歩コーナーについて、これらの事情や計画の詳細を説明してご協力を懇請しました。現在展示している乱歩遺品はこの時にお願いしたものであり、資料については二部あるものは一部を寄贈する旨のご同意を得ることができ、館長と喜びを分かったものでした。
 この後も、上京の度ごとに平井邸を訪れさせていただき、さまざまなお願いをして参りましたが、資料の名張市への寄贈については、上記の事情から、この後申し入れは致しておりません。なお、富永現市長とも平井邸に、同道させていただいたことを付記しておきます。

 図書館の業務としての乱歩顕彰
 こうして市図書館内の乱歩コーナーは、乱歩先生の幾つかの遺品と、少しばかりの資料の展示で格好だけはつけたものの、こんなことで乱歩顕彰などと大きな事が云えるだろうか。資料の収集となると莫大な資金が必要となる。市内に乱歩の資料が残されているだろうか。などなど館の内部で色々議論をしたのを覚えています。
 ・予算の許す限り資料の収集を続ける。
 ・乱歩のみに限らずミステリーに関するものを収拾する。
 ・江戸川乱歩賞受賞者に接近し著書サインなどの寄贈を願う。
 ・推理作家協会にルートを求め各種の情報を得る。
など、館として出来うる努力を払おうと、話し合ったものでした。ちょうどこの頃から、ご主人様に乱歩資料の仕事をお願いしたのではなかったでしょうか。また、市長部局の地域振興課の企画で、ミステリー界の大御所を次々と招いての各種の企画が進められたのでした。
 其頃私は、柄になく教育委員長という大役を仰せ付けられ、図書館嘱託から引かせていただきましたので、以後の経過はご主人様ご承知の通りであります。最大の顕彰事業である(私はそう思っています)『乱歩文献データブック』『江戸川乱歩執筆年譜』も出していただき、一躍「名張市立図書館に乱歩顕彰事業あり」と報じられました。ご主人様のご努力に深甚の敬意を表します。

 今後の乱歩顕彰事業
 この間にも、「乱歩記念館を名張市に」と云う思いは市民の間に流れてきたことはご承知のとおりであり、何年か前の市長の所信表明にも触れられておりました。
 そして、ご指摘のありました豊島区の記念館構想の表明・断念の後、最終的に立教大学がすべてのお世話をされることで終結いたしました。私と致しましては残念ではありますが、これで良かったのではないかと思っています。
 豊島区の構想が持ち上がったときも、一つにはほっとしたのは事実です。それは、乱歩先生が残された膨大な、そして貴重な資料の散逸が防ぎ得ると考えたからでした。また、行政間での連携を持つことで生誕地名張と豊島区とが連携していけると考えたからでした。早速、豊島区へ走り教育長・生涯学習課長とも面談しこれらの依頼をし、快諾を得ました。立教大学の場合も同じと思います。誠意を持って各種の協力をお願いせねばならないと思います。お互いの立場を理解しながら協力いただける点を探したいと思います。
 さきの富永市長の年頭のインタビュー記事には、お気に召さない点があったことと存じます。しかしそれらはすべて、私どもが市長に対し的確な情報を伝え切れていなかったが為ではと、反省いたします。どうか、私に免じてご海容のほどお願いいたします。
 なお、重要なことは今後の名張市の乱歩顕彰の方向付けだと思います。いろいろな方法が考えられます。ブレーンが必要でしょう、予算が必要でしょう、市民の協力・理解が必要でしょう。さまざまの力を合わせつつより高度な顕彰を継続していきたいと念じます。
 最後に、乱歩顕彰・乱歩研究に一層のお力を期待いたします。

 ご回答をいただいた辻敬治さんにお礼を申しあげる。
 ご回答をいただきながらこんなことを記すのは恐縮至極だが、文中に事実誤認と思われるものが散見される。それを辻さんに確認してからアップロードすればいいのだが、じつは現在それができない状態にある。いずれも単なる勘違いだと思われるので、以下にそれを指摘し、辻さんのご回答はそのまま掲載することにした。辻さんどうも申し訳ありません。
 まず、名張市で乱歩記念館建設の会が結成されたのは昭和44年のことだから、それ以降に「当時の北田市長が直接乱歩先生に蔵書の寄贈を懇請した」ということはあり得ない。乱歩は昭和40年に死去している。永岡茂之が二代目名張市長に就任したのは昭和49年のことだから、「永岡市長もこのことにはご理解をもたれ、市長自ら乱歩先生に会われたのか、或いは乱歩邸を訪れられたことがあったのか、乱歩先生の電話帳に市長の名が記されていた」というのも事実とは認めがたい。
 ほかにも二、三あるが、たいしたことではないから以上にとどめる。名張市における乱歩顕彰の歩みについては、「人外境主人伝言録」の昨年9月28日から10月20日あたりにも記してあることを附記しておく。
 辻さんのおっしゃる「今後の名張市の乱歩顕彰」に関しては、私はきわめて悲観的であると申しあげざるを得ない。


掲載 2002年2月26日