第一話

江戸川乱歩評判記

中島河太郎

 江戸川乱歩の全集は何度も刊行されているが、いちばんはじめ昭和六年から七年にかけた平凡社版全十三巻がやはり懐しい。それには各巻末に諸家の批評を載せている。
 全集の内容案を出版元の社長下中弥三郎に見せたところ、各巻末に自分への批評集をのせることには首をかしげ、うまい文句で乱歩をたしなめた。「猫ではないしるしに竹をかきそえるという句があるのを知ってますか、批評集なんかおよしなさい」というのである。

 私はいくらかタジタジとなったが、それでも下中さんの意見を容れなかった。少年時代、誰かの著書の再版の巻末に、十数頁に亘って、新聞雑誌の批評文はもちろん、友人からの来簡までのせてあるのを見たことがあり、たいへん面白く、またうらやましく思い、それが深く心のすみに残っていて、ちょっとまねがして見たかったのである。(探偵小説四十年)

と、正直にその経緯を記している。明治、大正の出版物には序文を添えるのは通例で、一人だけでなく何人もの文章で飾りたてたものである。
 乱歩の場合はかねてからの収集癖で、自分に関係する記事なら細大洩らさず集めていたから、採録に手間をかけることはなかったが、それにしても寸評まで載せている乱歩の自信はたいしたものである。
 大正末期の文壇は主流を欠いて混沌を呈していた。純文学でもプロレタリア文学が擡頭し、大衆文芸が急速な発展をとげ、さらに探偵小説のジャンルが成立しつつあった。
 当時新鋭の評論家であった平林初之輔は、探偵小説に関心をもっていたので、しばしばその評論の中で採りあげている。他に宇野浩二、前田河広一郎、橋爪健、加藤武雄、井汲清治、藤森成吉、戸川貞雄、萩原朔太郎といった作家や評論家が、まだ探偵小説が独自の領域をもっていなかったので、新しい珍らしい傾向として目を向けていたのである。
 江戸川乱歩の処女作「二銭銅貨」が発表されたとき、小酒井不木の推薦のことばを添えた。その中で「日本にも外国の知名の作家の塁を摩すべき」作家が現われたことを喜び、銅貨のトリックも「地下のポオも恐らく三舎を避けるだろう」と述べさせている。
 平林はまだ乱歩の作品は三篇しか読んでいないといいながら、自然味をあまり損じていないこと、犯罪の操作方法が科学的で近代的探偵小説として十分の期待をもっているといって、乱歩を力づけている。
 また橋爪は在来の文壇はあまりに偏狭で純文学のみを買いかぶりすぎている、探偵文芸でも純文学と別け隔てすべきものではないという見解から、新進作家では乱歩をとりあげている。短篇では芸術的傾向を深める代りに、長篇では公衆的傾向を維持しようとすることを指摘し、通俗非通俗両様の素質を具有している乱歩は、その両者の融合帰一を心がけるべきだと忠告している。
 明治二十年代には黒岩涙香がフランスやイギリスの探偵小説の中から面白い作品を選んで、彼独特の文体で翻案したので、それを連載した新聞は読者から大歓迎をうけ、涙香物はブームを起した。だがそれも数年続いたが、次第に探偵実話に移り、探偵小説は低迷するようになった。
 大正九年に「新青年」が創刊され、主筆の森下雨村が海外探偵小説を紹介しはじめたので、刺激された乱歩が十二年に登場した。続いて横溝正史、甲賀三郎、角田喜久雄、大下宇陀児、水谷準、夢野久作、城昌幸らが現われて、ようやく探偵文壇が築かれはじめた。
 また新講談から大衆文芸と呼ばれた時代小説が、新聞に連載されて喝采を博した。昭和二年から刊行されはじめた「現代大衆文学全集」は、時代小説と探偵小説が収録されたので、探偵小説は大衆文学に属するように見られるようになった。
 乱歩は日本探偵小説の生みの親と見られて注目され、高い評価をうけた。その奇抜なテーマと粘着的な文体が注目され、彼に追随する作家が現われたが比肩するものはなかった。乱歩ははじめから第一人者という定評に固定されてしまった。そのため、つぎつぎに前作を凌駕する作品を生まなければならぬというプレッシャーに悩まされた。彼が休筆を宣言し、放浪の旅に出たのも、その逃避はやむを得なかった。
 讚辞だらけの乱歩評に対して、昭和五年に夢野は「心理試験」「二銭銅貨」「パノラマ島奇談」への不満をのべ、「白昼夢」や「赤い部屋」などに惹かれたことを率直に語っている。
 昭和九年に井上良夫は、乱歩の濃厚な色彩の作品は読んで不快であるといいながら、「陰獣」は乱歩独特のうまさがどれよりもハッキリ出ているといって、「傑作」の太鼓判をおしている。
 井上は「陰獣」がサスペンスにおいて比類なくすぐれていること、非現実的なトリックを扱いこなしていること、真相説明の個所が圧巻の出来栄えであることを述べ、その反面、骨組み、着想は、幼稚至極と断じている。乱歩をもっとも喜ばせた評論であった。
 木々高太郎のデビューは昭和九年であったが、その翌年、乱歩に対して率直な感想を洩らしている。「心理試験」「二癈人」などを芸術としての批判に堪え得るものと評価する一方、「黄金仮面」「一寸法師」以下の長篇を、単なる物語、書き物にすぎないという。乱歩は前者では探偵小説を高めているにもかかわらず、後者ではみずから低めている。「そう思う時に、江戸川乱歩に対して憤りを感じた。愛するがための憤りであった」と忌憚のないことばを寄せている。
 昭和六年の満州事変の勃発から、日本の長い戦争時代が始まるのだが、戦争の舞台は外地だったから、まだ芸術への引き締めはなかった。十二年に日華事変に突入し、翌年に国家総動員法が施行され、文芸も統制され、探偵小説の執筆や刊行が窮屈になった。殊に乱歩はエロ・グロの傾向が強かったので真先に被害をうけた。乱歩自身も閉塞を覚悟し、探偵小説界は暗黒状態となった。
 ところが戦争が敗北に終り、アメリカの指令に従うことになった。お蔭で時代小説や歴史小説が制約をうけたのに、探偵小説は復活した。乱歩はそれまで空白であった欧米の作家や作品の紹介をはじめとして、精力的に評論を書き、講演や編集などにつとめ、探偵作家クラブの設立には陣頭に立った。もちろん乱歩の創作を待望する声は高かったが、それよりも探偵小説の普及、宣伝に力を傾けた。
 昭和二十九年に還暦を迎えたのでその祝賀記念会が催された。その席上、推理小説振興のために江戸川乱歩賞の制定を発表した。
 私の「乱歩文学の鳥瞰」は還暦記念号を出した「別冊宝石」に発表したものだが、乱歩を浪漫怪奇文学の継承者であり、理智推理の創始者という位置づけとともに、推理作家の彼には一人二役のトリックの多いことを指摘し、彼の二面性を説いたものである。
 松本清張も乱歩の作品を読んだ頃をふり返って懐しんでいるが、「彼の初期の一連の作品群は、彼の後半期の諸作品がいかようにあれ、燦然として不滅の栄光を放っている。彼のような天才は、これからも当分は現われないであろう。少くとも、今後四半世紀は絶望のように私には思える」と讚辞を惜しまない。
 戦後の作家や評論家などの読書体験を語ったものを見ると、一時乱歩作品に読み耽ったことがあったという回想によく出会う。現代の作家ならちょっと年配であれば「新青年」で知った人もあり、若い世代なら少年探偵団のシリーズに始まったというのが多い。一般の読者でも少年時代に乱歩を読んで病みつきになった人は多い。そのためそれぞれの人が自分の乱歩観をもっている。
 小松左京は乱歩を「官能の巨人」といい、なだ いなだは乱歩の幼児性と童話性に目をつけ、澁澤龍彦は玩具愛好ないしユートピア願望と性的なものとの結びつきこそ、乱歩文学を成立せしめる根本的なものであろうと述べている。
 このように各人各説で、それぞれ乱歩の一面をとらえているが、なかなか全貌をつかむことは難かしい。全面的に取組んだのが権田萬治である。乱歩の芸術家的情熱は、初期の黄昏の世界において完全に燃焼しつくしたと見ているが、だれよりも正直でまた厳しい自己批判の精神の持主であったことを強調して、その一体像をとらえようとしている。
 大内茂男は乱歩の通俗長篇がほとんど批評の対象にとりあげられなかったのは、乱歩の罪障感に対する遠慮もあったのだろうと述べているが、たしかにその通りであろうと思う。氏はあらためてこれらの通俗物をすべてに亘って検討し、知的闘争とアクションと、スリルとサスペンスの宝庫といい、丹念に率直な見解を示した労作である。
 中井英夫は乱歩の少年物に焦点をあて、それらの舞台が麻布や世田谷が多いことに注目して、乱歩にとっては古き良き東京、その二度と返らぬ町が大事で、それへの慕情がいかに深かったかを説いている。
 昭和五十九年になると、建築家松山巌が『乱歩と東京』を刊行した。大正九年が一九二〇年に当るが、乱歩の初期の作品を生んだ年代だから、その時期の都市文化を調べることによって、乱歩の作品に別の光をあててみる試みをした。
 例えば「D坂の殺人事件」に登場する話者の「私」、古本屋のお主婦〔かみ〕、明智小五郎が、東京の吸引力に惹かれて地方から出郷してきた人たちではなかろうかと推測している。
 また乱歩は世の中では視覚あるが故にさまたげられて、気づき得なかった別の世界の覚醒を小説の中で叫んでいるとして、「人間椅子」や「盲獣」をあげている。
 「屋根裏の散歩者」の、天井裏が続いているので、その建物の各部屋を節穴から覗けるような構造は大正中期以降に現われる。
 十二階の凌雲閣、二笑亭、同潤会のアパートなど、筆者は多岐に亘って、乱歩作品の背景になった一九二〇年の文化相を丹念に掘り下げた異色作である。
 乱歩を生み、かつ育てた「新青年」は、大正九年から昭和二十五年まで、三十一年にわたって刊行された。増刊号を含めて四百冊に及んだ。乱歩研究については欠かせぬものだが、この雑誌を通して現代の文化史を探ろうとして、六十一年に『新青年』研究会が設立された。鈴木貞美、江口雄輔、川崎賢子らの努力で、その成果が六十三年の『新青年読本』にまとめられている。懇切で便利である。
 平成六年は乱歩の生誕百年というので、映画「RAMPO」が制作され、雑誌では「鳩よ!」や「創元推理」などで特集が組まれた。また講談社から『乱歩』上下巻が刊行され、乱歩の小説、評論、随筆を精選し、乱歩を扱った感想や小説が収録されている。各人各説でまだまだ乱歩の全貌を掴むのは容易でない。

(平成八年七月一日)


中島河太郎〔なかじま・かわたろう〕大正6年6月5日−平成11年5月5日(1917−1999)
初出・底本 平成9年(1997)/平井隆太郎・中島河太郎監修『乱歩文献データブック』1997年3月、名張市立図書館/p.7−15
掲載 1999年10月21日(著作権者のご承諾をいただきました)