第五話

乱歩氏の創作集

春田能為(甲賀三郎)

 七月初旬の晴れた日の午後であつた。私は書斎の机によりながら鈍り勝ちの筆を嘆じてゐた。処へ郵便配達夫がいつもする様に、表の戸は中からかけがねがかつてある為めに、書斎の窓から丸められた雑誌を投げ込んで行つた。ズシリとした厚みで私にはそれが新青年の増刊である事が直ぐ分つた。もう今日は書けないと思つた。何故ならこの増刊号はどうしても見ずに居られないので、そして見出したらどうしても全〔まる〕一日は手の放せないものであるから。私は其の時にあゝ悪い時に来たなと鳥渡眉をひそめたのであつたが、実はいやいや筆を取つてゐたのであるから、ほつと救われたやうな気持で、書かなくても好いと云ふ理由が公然出来たやうに、いそいそと上包を破つたのであつた。
 そして無論、その日一日は息をも継かずに読み耽つた。外国作家の旨さが泌々と分つた。私の創作慾はこれらの諸名作によって刺戟せられる所か、『霧の夜』と『屋根裏の散歩者』の間に挟まつてペシヤンコになつて終つた。短篇では『ヒヤシンス』に詠嘆の声を発した。而し私の心はこのユウモラスな名篇によつて、反つて暗くなつた程の打撃を受けた。
 『屋根裏の散歩者』については、それが余りに谷崎潤一郎の手法に似てゐると云ふ点や──題は忘れたが潤一郎の久しい前に発表したすべての刺戟に倦いた男が、女装して出歩いてゐる中に、ふと以前の情婦に出会つたが、その女は居所を秘密にして、いつも彼を目隠して車に載せて招き寄せる。長い間に彼は走る時間や曲り角の数を暗記して終ひ、たうとう彼女の家を探し当てる。さうしてそれがありふれた平凡な家であり、ちらと見た女の姿が又平凡なので幻滅を感じると云ふのがあつたが、確にこの作品はそれから暗示を得てゐると思ふ──結末が少し物足りないと云ふやうな非難はあるが、氏以外に誰が『屋根裏の散歩』などと云ふ事を考へつき得よう。さうして誰があのこだはりなき平明なる文章を以つて変幻極りなき妙想を少しの無理を感ぜしめないで書き現す事が出来よう。構想雄大なる『霧の夜』と軽妙洒脱なるヒヤシンスの如き作品の間に立つて、堂々陣を張つて行ける人が、我が創作界に乱歩氏を除いて果して何人あるであらうか。
 私が深く欧米の作品と乱歩氏の作品に感嘆してから、超えて四五日、乱歩氏から氏の著書『心理試験』を贈られた。若輩にして無為なる私が本誌との機縁を以つてして、さきに小酒井博士より其著『近代犯罪研究』を贈られ、今又乱歩氏よりその短篇集を贈られたのは私の深く喜びとする所である。
 『心理試験』は実に気の利いた表装で、収むる所の短篇十一篇、その大部分はかつて新青年誌上に表はれたもので、本誌の読者には誠に懐しいものである。かうして纏つた所を見ると、今更ながら氏の天分が覘はれて、この一篇こそ文壇のどこへ出しても恥かしくないものと信じる。創作探偵小説の先駆として、この名篇が現はれた事は只に氏一人のみならず、我々同好者の喜び之に過るものはない。
 『心理試験』は始めの予告では『二銭銅貨』と云ふ題で表はれるやうであつたが、書肆の都合でもあつたか、現在の名で刊行せられた。心理試験が氏の傑作中の傑作たる事は疑を容れず、従つて題名に選ばれた事に異存はないが、二銭銅貨が小酒井博士が序文に述べてゐる如く、氏の出世作であり、巻頭に置かれてゐる点から云つても、普通に行はれてゐるやうに、寧ろ二銭銅貨と題せられた方が、親しみ易かつたと思はれる。
 二銭銅貨は当時萎微振はなかつた創作探偵小説の花壇に、突如として咲き出した一輪の大きい赤い花であつた。真に空谷の跫音であつた。何人も賞讃の辞を惜まなかつた。氏の作家としての価値はこゝに定つたと云つても過言ではない。今でもこの作を氏の最大傑作と云ふ人がある。私も無論之が傑作である事は否まないが、多くの人の云ふ如く、今では勿論当時と雖も、さうは感心しなかつた。
 この作の欠点は真剣味がない事と、不自然、つまり作り物の感じを与へる事である。作中の主人公と副主人公の二人は窮乏のドン底にあつたと云つてゐる。それに暗号を中心にして遊戯に耽つてゐる。それも心に余裕があつた為めと云はゞ云へるが、この貧乏な二人が貴い生命の糧たる幾円かの金をこの遊戯に消費してゐるのはどう云ふものか。それよりもあの主人公が傷ましい苦心をして、而も紳士泥棒による生命の危機まで感じて、変装までして得た所のものが、その友人の冗談だと知つた時に、彼はどんな気持だつたらう。何故彼はその時に私と名乗つてゐるこの小悪魔を撲り飛ばさなかつたらう。
 探偵小説が作り物である事は止むを得ないであらうが、余りにマザマザと不自然さを見せるのはいけない。『霧の夜』などを読んでゐると、作り話である事がハツキリ分る。然しその作り話がアラビヤンナイトに出て来るうな面白味を以てグングン読者を惹つける。一方読者はこの作り話が、老政治家の議会出席防止策だと云ふ事を意識してゐる。興味津々として尽きなかつた物語が終りを告げると、読者はホツとすると共に、この気の毒な政治家を思ひ出して、彼の方を見る。三人の話手はニタリと笑ふ。所がどうだ議会は夙にすんでゐるのだ。老政治家は単に打合会に欠席したゞけだ。誠に自然ではないか。議会に獅吼して、重要なる国策を議しやうとする政治家が、探偵小説に聞き惚れて、時間に間に合はなかつたとしたら、なんと不自然な事であらう。三人の話手も後で、やつぱり駄目だつたかと哄笑したに違ひない。さうして私は例ひ打合会にせよ、充分重要であるべき会に欠席させる程魅力を持つ探偵小説の力を喜ぶものである。
 『ヒヤシンス』がさうだ。二人の腹黒い男が諜し合せて、一人の人の好い富豪に株を買せようとして、株の上るやうな材料を、自分等だけ秘密に得たやうに話す。やがて老富豪が中座して電話をかける。二人の悪漢が耳を澄ますと、なんだ先刻話の出たヒヤシンスの事だつた。人の好い老人が株の話は信ずるでもなく疑ふでもなく聞流して、ヒヤシンスの話に耳を傾けてゐたと云ふ方が、こんな甘手に乗つたと云ふよりもずつと自然ではないか。
 『心理試験』になると、作り物は作り物でも、ぐつと引き締つて来る。犯人の真剣さ──犯罪の動機が薄弱だと云ふ非難があつたやうではあるが──に思はず手に汗を握る。飄逸な明智の態度も好い。それにこの作の周到なる用意で書かれてゐるには敬服の外はない。論文を読むやうだと云ふ非難はこの余りに隙のない事からであらう。だが、私は名探偵明智の活動はこの心理試験を頂点として、大いに衰へたと思ふ。
 『屋根裏の散歩者』は心理試験以上の苦心を以て書かれてゐる。殊にその水も洩らさぬ周到なる用意には感嘆の外はないので、天井の節穴と殺される男の口がどうしてもう一度同一垂線内に来るかと云ふ事は、誰しも心配する事だが、なんと巧みに書きこなされてゐるではないか、がこの名作も遂に『心理試験』と同じ賞讃を博するに至らないのは明智の失敗である。探偵小説と云つても、今日では最早必ずしも探偵を煩はして犯罪を扞〔くじ〕かしめなくても好い。犯罪の動機とその決行に止めても好ければ、偶然の機会に発覚した事にしても好い。明智の他殺と断じた唯一の証拠は、死者の眼覚時計の巻いてあつた事であるが、之はどうであるか。自殺者には常識で計れない心理があるし、突発的に自殺する事もあるし、又人の習慣の力と云ふものは案外大きいもので、毎日時計を巻く習慣は或は死を決した前日でも時計を巻くかも知れぬ。私は寧ろ薬液の残つてゐた点、僅に目薬瓶に充たない、盃に半杯もない毒液を、自殺者がチヨツピリ嘗めるだけに止めるであらうかと云ふ所に着眼する。自殺者に取つては、死に切れない事が一番恐しいに違ひない。よし一滴飲めば死ねる薬でも──三滴の塩酸モルヒネの水溶液が人を殺すに充分でない事は暫く置く──盃に一杯あれば恐らくグツと呑み干しはしないであらうか。が、いづれにしても、そんな事は自殺でない事を立証するには甚だ薄弱である。名探偵明智が出る以上はもう少し理屈がないと作者も読者も承知が出来ない。だから、この作の結末には名探偵でもなんでもない私とでも名乗る素人が只漠然とした疑と好奇心から、屋根裏に着眼して潜り込んでゐるうちに面白くなり、ふと、加害者の戸棚の出口で加害者に出会ひ、彼が恐怖の余り白状する事にでもしたらどうであらう。いづれにしても、今後探偵にはなんでも明智を出すと云ふ事に囚へられないやうに乱歩氏にお願ひする。
 『恐ろしき錯誤』『赤い部屋』『二癈人』いづれも好い作である。然し潤一郎の『途上』と類型的な偶然の機会を利用して必然的な死に追ひやる、或はその逆は、赤い部屋にすつかりその蘊蓄を傾け尽してあり、其他の作品にも出てゐるやうであるから、或は読者をして又かと云ふやうな感を与へはしないかと杞憂する。
 私は我が探偵小説界の明星である乱歩氏がその短篇集を始めて世に出されたのを深く祝福すると共に、我が探偵小説界が文壇に誇るに足るべき一大収穫を得た事を深く喜ぶ。さうして乱歩氏が将来此の二大傾向、即ち『恐ろしき錯誤』『赤い部屋』等によつて代表せられる思はず眼を蔽ふ如き恐怖的作品と、『心理試験』『一枚の切符』等によつて代表せられる明るい理智的作品の間に立つて、更に如何なる途を見出されるであらうかと云ふ事を深い興味を以つて眺める。


甲賀三郎〔こうが・さぶろう〕明治26年10月5日−昭和20年2月14日(1893−1945)
初出 大正14年(1925)/「新青年」10月増大号
底本 『江戸川乱歩全集第二巻』1931年10月、平凡社/p.462−467
掲載 1999年10月21日