第十話

禿山の一夜

小栗虫太郎 

 江戸川さんに就いて、何か書けと云ふが、大体あゝ云ふ大作家の事は、既に洩れなく語り尽されてゐる筈である。況んや、小生の如き、陽の目を見て間もない末輩共が、何かと喋々する、筋合のものでもあるまい。然し、僕を通じての印象を述べよ──とあらば、この方は、どうやら出来さうな、問題のやうにも思はれる。
 所で、ムツソルグスキー交響楽詩に、「禿山の一夜」と云ふのがあつて、いろいろな魑魅魍魎〔ポルターガイスト〕が、一夜荒涼たる岩山に会すると云ふ──大体がムツソルグスキーの事とて、大したものではないが、僕はつひ三四日前、池袋の某所で、端なく禿山の一夜を経験した。それが、風雨の烈しい夜、しかも乱歩邸であるから、妙ではないか。
 勿論その大魔王〔アールケーニツヒ〕たるや、名指すまでもないだらうが、僕は予々伝え聞く、神変術を聴聞せんとして、遥けき道を、夜鳥が窪まで罷り出たのであつた。所が、王は時折、妙な事に感心遊ばされる。また、時には僕の顔を打ち見やつて、こいつ奴変な所で感心してゐるぞ──と云つたやうな、顔をされる場合もある。けれども、さうしてゐるうちに僕は、こりや大変だ。愈々探偵小説の鬼の前にゐるんだぞ──と云ふ気がした。乱歩氏は常日頃、探偵小説の鬼と云ふ言葉を口にするけれども、それは取りも直さず、彼自身に外ならないのである。
 探偵小説の鬼……禿山の大魔王〔アールケーニツヒ〕……それが、ゲーテでもなく、シユーベルトでもないのは、寧ろ当然であらう。その禿山には、後輩のために、坦々たる平安の道が拓かれ、また探偵小説愛好者は、あるかなしかの堰松などを頼りにして、一歩々々登り詰め、さて絶頂に行き着くと、眼下には、綺羅絢爛を極めた大眺望が展開されるのだそこからは、水谷準氏の「司馬家崩壊」ではないが、高い山から谷底を見て、果して何があつたか──それこそ読者諸君が先刻承知の事であらう。然し、夜更けて辞するに及んで、僕はとみに詩想の湧くのを感じた。途々、幻月のいと凄まじき暈の下に、馬を進め行くうち、ワイマールの印象は、遂に二つの歌を齎らした……。

   窓にて〔アム・フエンスター〕
        一グルデン余計にくれた質屋の娘に扮する
                  ルイゼ・ウルリッヒに捧ぐ

滅びざる愛にめぐり合はんとて
きしみ行く鵞ペンの滑べり
されど儚〔はか〕なし、階〔きだ〕〔きづ〕
わが心知る人もなければ

あゝさるほどに、われ聴けり
夢の階〔きだ〕ゆく跫音のあるを
君の指、絃〔いと〕の上をまころびて
わが水面〔みのも〕打つ、風の咽〔むせ〕び──六絃琴〔ギタレ〕の音〔ね〕

   収穫の歌〔エルンテ・リード〕
        カロリーネ・エステルハツイに扮する、わが心の主
                  マルタ・エガルトに捧ぐ

われ駅馬車に乗りて
ひとりツエリツの秋を過〔よ〕ぎりぬ
黄金〔こがね〕なす陽〔ひ〕、地平〔ちへい〕に入りて
軟風〔やはかぜ〕穂並をわたる夢の一刻〔とき〕
〔みの〕りの丘は、また丘に
君の息吹〔いぶき〕のごと波打ちて流る

あゝさなきも、わが馬車舫〔ふね〕のごとく揺〔ゆら〕ぎぬ
そは君を見たればなりき
ひとり、鹹〔しほ〕なき垂穂〔たれほ〕の海を
泳ぎ行くかに分けゆく
乙女ありければ
おお、ヨン・シヤルレスの姉娘よ

うけ給へ わが恋を
命かけて見ばやと思ふ
夢心地〔ゆめごこち〕ぞ──それなむ
さはれ願はんかな、われ穂先〔ほさき〕となりて
なが乳房〔ちぶさ〕に触〔さは〕らば
折れ落つるとも などてか

そもかなはずば
せめても落穂〔おちぼ〕の一つとなりて
われよゝと泣かん、なが踵〔かかと〕〔へだ〕てに
おおカロリーネ・ルイゼ・フオン・エステルハツイよ
わが命〔いのち〕そのまゝ果つるとも
などか悔ひとてあらじ


小栗虫太郎〔おぐり・むしたろう〕明治34年3月14日−昭和21年2月10日(1901−1946)
初出・底本 昭和10年(1935)/「探偵文学」5月号《江戸川乱歩号》/p.7−9
掲載 1999年10月21日